【日々の憂鬱】「思考停止」というキーワードで思考停止するのはいかがなものか。【2004年6月中旬】


1.11100(2004/06/11) このライトノベルどすこい!

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今日は見出しを「このライトノベルガスコン!」にしようか、それとも「このライトノベルどすこい!」にしようかと大いに迷った。「ガスコン」のほうが語呂がいいのだが、こんな言葉を知っている人は少ないだろうし、カタカナの「ライトノベル」のあとに同じくカタカナの「ガスコン」が続くと言葉の切れ目がわかりにくい。それに対して「どすこい」は誰でも知っている言葉だし、ひらがなで書けば言葉の切れ目は一目瞭然だ。そういうわけで最終的には「どすこい」を選択することにしたのだが、未だに「ガスコン」に未練がある。なお、「ガスコン」であろうが「どすこい」であろうが意味はないことは言うまでもない。

見出しの話はこれくらいにしておいて本題に移ろう。私は気分にむらがあって飽きっぽいので、いったん読み始めた本を放り出して別の本に手をつけ、それもまた中断して別の本を読み始め、そうこうしているうちに最初の本がうずたかく積まれた本の山に埋もれてしまって行方不明になってしまうことがよくある。私の部屋にはそうやって途中で頓挫したままになっている本が無惨な屍を曝している。

ライトノベルは軽い小説だから、基本的には途中で放り出すことなく最後まで読み終えることができるのだが、これまでに私が買ったライトノベルで一冊だけ途中で読むのをやめた本がある。そのタイトルは……いや、それを書くのはもう少し先にしておいて、先月末のことを先に書くことにしよう。


5月の末に私はさるよんどころない事情により東京へ出かけた。東京といえば秋葉原、秋葉原といえばオタクの街、オタクの街は摩訶不思議なことがたくさんある。私の数多い秋葉原の不思議の一つ、秋葉原オリエンタルコミックシアター(リンク先は携帯電話用ページのように見えるのだが、パソコン用ページが見あたらないので仕方がない)で、『真月譚 月姫』全話上映を見てきた。11時から16時15分まで(途中休憩3回)5時間15分の長丁場だった。観客は私を含めて4人だった。『真月譚 月姫』やこの会場についての感想は書かない。

先を急ごう。

秋葉原には書泉グループのひとつ、書泉ブックタワーがある。私はふだん電気街方面にしか行かないので、この店にはこれまで一度しか入ったことがない。秋葉原で一般書店には用がないからだ。だが、この時にはちょうど書泉ブックタワーで「このライトノベルがすごい!」フェアが開催されていた(今でも開催中なのかどうかは知らない)ので、ちょっと覗きに行ってみる気になった。アニメを5時間見た後なので、少し三歩して体をほぐしたかったということもある。

私はあまり熱心なライトノベル読者ではなく、本家このライトノベルがすごい!にも参加していないので、書泉のフェアで本を買う気はなかったのだが、なんとなくついふらふらとライトノベルを一冊買ってしまった。ただし、その本はフェア対象外で常設のライトノベルコーナーにしか置いていなかった。その本のタイトルは……いや、それを書くのはもう少し先にしておこう。


今思い出したのだが、私が途中で読むのをやめたライトノベルはもう一冊あった。『猫の地球儀 焔の章』(秋山瑞人/電撃文庫)だ。だが、今日の話に『猫の地球儀』は関係がない。


東京旅行の少し前、まいじゃー推進委員会!学校を出よう!2巻感想リンク集が公開された。主に1巻でストップしていた方向けですが、1巻と2巻の間に背景世界と一部のキャラクター以外の接点がほとんどないので未読の方も参考になるかと。と書かれているのを読んで、ほぼ一年ぶりに『学校を出よう!』(谷川流/電撃文庫)が記憶の底からよみがえった。運良く本の山の底から『学校を出よう!』が見つかったので、私はそれを旅行鞄に入れて東京へと旅だった。

というわけで、先ほど後回しにしていた「途中で読むのをやめたライトノベル」と「書泉で私が買った本」はそれぞれ『学校を出よう!』の1巻と2巻である。


『学校を出よう!』はちょっと可哀想なシリーズだ。しばしば『学校へ行こう!』と言い間違えられるし、同じ作者の『涼宮ハルヒの憂鬱』以下のシリーズ(スニーカー文庫)に比べると言及されることが少ない。両方読んでいる人は「1巻だけなら『涼宮』のほうが面白いが、2巻以降は『学校』のほうが上」と言うが、『学校』を続けて読む人が少ないので、なかなかその評価が広まらない。かく言う私も1巻で頓挫したから、当然2巻以降は読んでいない。『涼宮』も1巻止まりだけど。

せっかくだから極楽トンボ氏の渾身の煽りに乗ってみることにしようと思ったものの、いくらいきなり2巻から読んでみるというのも大いに歓迎です。と書かれていても、やはり1巻を途中で投げ出したまま2巻に取りかかるのは気分が悪い。そこでまずは1巻を片づけようとしたのだが、確か4章の終わりか5章の頭くらいまで読んだはずなのに全然思い出せない。これでは先を続けて読むことができないので、泣く泣く最初のページから再読することにした。いや、本当に泣いたわけではないが。

主人公には双子の妹がいて、そのうち一方は交通事故で死んだが幽霊になって主人公にまとわりつき、いろいろな騒動を起こしている。この設定を説明する冒頭の箇所は面白いのだが、奇人変人がどんどん現れてくると、双子の妹がかすんでしまい、どうも焦点が定まらなくなる。キャラクターで読ませる話ではないようだが、設定の面白さを十分に生かしきれていないという感じは拭えない。主人公が学校を出て奇現象の現場を訪れるあたりになると、すっかり話がだれてしまっている。主人公にあまり熱気がないので、読者もわくわくどきどきはらはらすることがないし、他の登場人物のひねくれた冗舌調の語り口は、それぞれのせりふを個別にみれば気のきいた言い回しもあるのだが、ストーリーへの寄与という観点からみれば無駄が多い。

去年の私はそこで読むのをやてしまったが、今回は2巻を読むという明確な目的があるため、我慢して続きを読み進めた。ちょっとした戦闘シーンでストーリーの単調さが少し緩和されているが、手に汗握るほどのサスペンスがあるわけではない。緊張感が高まるのは、主人公が究極の決断を突きつけられて苦悩する場面からだが、これはもう物語の終盤だ。残りのページ数ではあまり複雑な展開やどんでん返しは期待できないな、と思いながらさらに読み進めると、やはり予想通りの締めくくり方だった。

途中何度も読むのを中断して他の本に浮気したので、この一冊を読み終えるのに半月かかってしまった。


私はつまらないミステリを読んだときには徹底的に悪口を書く。でも、ライトノベルにはあまり思い入れがないから、ふだんはそんな事はしない。今回は、これから2巻を続けて読む予定なので、その感想文への伏線としてあえて否定的な感想文を書いたが、もし2巻の読後感も似たようなものになったら3巻を読むことはないから、感想文は書かないつもりだ。

半月くらい後、学校を出よう!2巻感想リンク集に私の感想文が捕捉されているかどうか……。

1.11101(2004/06/12) このライトノベルガスコン!

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前回のあらすじ

去年出た『学校を出よう!』(谷川流/電撃文庫)を私は途中まで読んで投げ出していたが、まいじゃー推進委員会!学校を出よう!2巻感想リンク集に触発されて、2巻を読む前に1巻を最後まで読むことにした。でも、やっぱり全然面白くなくて、半月かけて苦労して読んだ。これで2巻がつまらなかったら黙殺するつもりだ。

今回のあらすじ

『学校を出よう!2 I-My-Me』を読んだ。大絶賛するほどではないが、十分満足できる面白さだった。いいから読め。

今日の見出しについて(興味のない読者はとばしてもよい)

昨日は一旦ボツにしたが、「ガスコン」にも捨てがたいものがあり、一日考えて復活させることにした。気分はシラノ、またはダルタニャンだ。

『学校を出よう!2』の感想

1巻はしんどい思いをして読んだが、2巻はすらすらと読めた。駅で電車を待っているときに読み始め、電車に乗ってからも読み続け、電車が発車しても読むのをやめることができなかった。動いている電車の中で本を読むと目が疲れるので、いつもならいったん本を閉じて居眠りすることにしているのだが、この本では自制できなかった。こんなことは『幽霊には微笑みを、生者には花束を』(飛田甲/ファミ通文庫)以来だ。およそ1時間20分程度で読み終えた。

『学校を出よう!2』はタイムスリップもののSFだ。タイムスリップといえば、今年出たある小説を思い出す。その作品も非常に面白かったが、今ここでそのタイトルを挙げることはできない。なぜなら、当該作品はタイムスリップを扱っていることを途中まで隠しているので、未読の人の興をそぐことになるからだ。とはいえ、私が読んでいるライトノベルは数少ないので、既読の人なら「ああ、あれのことか」とすぐに気づくはずだ。そう、あれです。

『学校を出よう!2』とあれを比べると、私の個人的な感想としてはあれのほうが面白かった。そういうわけで、私は『学校を出よう!2』を手放しで誉めることができない。でも『学校を出よう!2』は去年の本なので、今年出たあれと比べて優劣を論じるのはフェアではないだろう。よって、これ以上あれと比較しないことにする。

さて、タイムスリップものというのは、時間SFのサブジャンルをなしている。だが、時間SFの一瞬のうちに永劫を見るときの目眩のような幻惑感(と偉そうに書いたが、私はSFに通じているわけではないので、話半分に受け止めてもらいたい)はタイムスリップものにはほとんどない。がんじがらめの制約のもとで謎を提示し、論理的な解決へと至るという構成のものが多く、SFというよりはむしろミステリに近い。従って、規定演技をどれだけうまくこなしているかが主な評価基準となる。

『学校を出よう!2』は6/10から始まる。3日前の6/7と3日後の6/13からそれぞれ主人公の神田健一郎がタイムスリップしてその日にやってくる。そして、6/13から来た神田A(もう一人は「神田B」)は6/7以降の記憶を失っている。この設定だけで、この小説の大まかな構造が薄々想像できることだろう。3日間という時間を単位としたパズルのピースが収まるところに収まったときに物語全体の図柄が明らかとなるのだ、と。神田Aの記憶がないのは、タイムパラドックスを避けるために違いない。

このように考えながら読んでいくと、結末に至ってもさほど意外性は感じられない。むしろ予定調和的だ。だが、それはこの小説の欠点ではなく、むしろ長所である。規定演技を破綻なしにこなして無事着地しているのだから、賞讃の拍手を送るべきなのだ。もっとも、少しくらい綻びがあっても破天荒な物語のほうが好きな人は素直に拍手できないだろう。それはそれで個人の好みだから仕方がない。

規定演技は往々にして地味なものになりがちだが、ちょっとした日常の描写や登場人物の性格の面白さのおかげで、だれることなく読み進めることができる。星名サナエのキャラクター造形の勝利、といったところか。1巻では会話のせりふ回しの面白さでメリハリをつれようとしてストーリーと乖離している感があったが、2巻ではそのような印象ほ受けなかった。まるで、別人が書いたかのような熟練ぶりだ。地の文はかなり硬めで、特に「インターセプタ」の部分はちょっとどうかと思ったけれど、最後まで読んでみると、これはこれでいいような気もした。

同一人物が過去と未来から同時にタイムスリップするわりにパズルとしては単純でやや物足りない、とか、『学校を出よう!』の続篇である理由が特にない、とか、海老原ミツキの登場シーンが少なくてもったいない、とか、いろいろ不満がないわけではないが、水準以上の佳作であることは間違いない。

いいから読め。

なお、1巻から順に読むことはお勧めできない。まず2巻から読んで、終わりのほうで出てくる人物に興味を持った人だけ1巻に手を伸ばせばいいだろう。

次回予告

次回? いちおう、今日3巻も買ってきたが、他にも何冊か本を買っているので、今すぐ3巻を読むつもりはない(人はラノベのみで生くるに非ず)し、読んでも感想を書くかどうかはわからない。

1.11102(2004/06/13) 曖昧な読書感想文

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最近、読んだ本のことばかり書いている。これではまるで書評サイトのようだ。そろそろ飽きてきた。だが、他にネタがないので、今日も本の感想を書くしかない。

今日読んだ本は『星月夜の夢がたり』(光原百合(著)/鯰江光二(絵)/文藝春秋)だ。もし「ライトノベル」を絵付き小説だと定義すれば、これもライトノベルに含まれることになるだろう。したがって、この定義は誤っている。

「ショートショート」というよりは「掌篇」と呼んだほうがいい32の短い物語が「星夜の章」「月夜の章」「夢夜の章」の3章に分けて収録され、その各々に色とりどりのイラストが付されている。見かけは少し文字の多い絵本という感じだ。だが、それぞれの小説は絵で補完されなくてもそれだけで完結しているので、以下、特に絵には言及せずに小説のみについて感想を書いておく。


32篇もあると、全体に共通したテーマやパターンがあるわけではないが、いくつかの作品を除けば、概ね次の3つのモチーフのどれか(複数選択可)が含まれていることがわかる。

  1. 孤独
  2. 離別
  3. (秘密)

全部書いてしまうとつまらないから、3番目のモチーフは伏せておくことにした。

同じ著者の『風の交響楽(シンフォニー)』に比べると、随分とダウナー系になったもので、続けて読んでいるとだんだん気分が沈んでくる。励まされることよりも慰められることを望んでいる現代人向きの作品集といえるだろう。

この本のもう一つの特徴として、伝説や昔話に材を取った作品がいくつか含まれているということが挙げられるだろう。「三枚のお札異聞」「絵姿女房その後」「真説耳なし芳一」「天の羽衣補遺」などなど。中にはストレートに「大岡裁き」というタイトルのものもある。

さて、それぞれの収録作について個別に感想を述べると長くなるのでやめておく。ただ、特に印象に残った3篇についてのみコメントしておく。

まず、「大岡裁き」について。生みの母と育ての母が子供の親権を巡って争った事件の裁きで負けたほうの母(私の記憶では、育ての母が生みの母に勝った話だったが、この小説では逆になっている。記憶違いだろうか?)が主人公のお話。原典では、泣き叫ぶ子供に構わず我欲を押し通そうとした鬼母という扱いになっていたが、別の視点から再構成して、さらに名奉行大岡越前の思慮深さを讃える話としてきれいにまとめている。ただ、私はこの締めくくりにはちょっと不満を感じ、「子供だったら誰でもいいのか!」とツッコミを入れてみたくなった。

次は「天馬の涙」。「天馬」には「ペガサス」とルビが振ってあって、それが気に入らない。もちろん作者は「ペガサス」が伝説上の馬の固有名だと知ったうえで、あえてそれを種族名に転用したのだろうが、それでもやっぱり気に入らない。これを読んで誤解した読者が将来、虚構名の意味論を扱った言語哲学の論文を読んで混乱することがあるかもしれないのだから。

最後に「カエルに変身した体験、及びそれに基づいた対策」について。魔法でカエルの姿になった者が他人に名前を呼んでもらうことで元の姿に戻るという話を下敷きにしているようだが、具体的な作品名はわからない(グリム童話に「鉄のハインリヒ」という話があるが、あれはカエルと結婚の約束をしたお姫様がいやいやながら約束を守って結婚する話だった)。

それはさておき、「カエル(略)」が印象に残ったのは、ストーリーの構成はいいのに仕上げで少しミスをしていてもったいないと感じたからだ。いや、ミスというのは言い過ぎかもしれないが、20ページ2行目から5行目の科白は私には全く不要なものに思えた。この説明的な科白のせいで物語全体がひどく平板なものに思えてくる。この物語のいちばんのポイントであるのは確かなのだが、だからこそこれは明示的に書いてしまってはいけなかった。

と、書いてはみたものの、もしかしたら私の読み方が極端に偏っているのかもしれない。登場人物がどのように考えて行動したかをはっきりと書いてくれている親切な小説のほうが読みやすくて安心できるという人もいるだろうし、もしかしたらそのような読者のほうが多数派なのかもしれない。私には、一般的な光原ファンの考え方がどうにもわからない。というか「一般的な光原ファン」など総括できるかどうかすらわからない。


「カエル(略)」以外の作品でも、ちょっと書きすぎのように思えた箇所がいくつかあって、全体的に甘さが目についた。なお、誤解のないように書いておくが、ここでいう「甘さ」とは甘ったるい雰囲気のことではない。そういう意味でなら、『星月夜の夢がたり』は甘さよりもむしろ苦みのほうが勝っている。甘い夢物語を予想して読んだら驚くかもしれない。括弧付きの「メルヘン」が苦手な人でも、さほど抵抗なしに読めるだろう。

もちろん、抵抗なしに読めるということと、面白く読めるということとは別の話だ。後者について私は何ともいえない。それを確かめるためには、実際に読んでみるしかない。

1.11103(2004/06/20) 書けないものは書けないんだからしょうがない

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およそ一週間、このサイトの更新を停止していた。旅行、残業、病気、ネタ切れなどの理由で更新中断したことはあっても、せいぜい二、三日のことで、一週間も更新しなかったのはこれが初めてだ。

一週間も更新しないでいると、みんなに心配されるかと思ったが、私の見聞きした範囲では誰も何にも言っていない。メールも来なかった。所詮、ネットの世界というのはそんなものだ。この世は荒野だ!

とはいえ、もしかしたら口に出さないだけで、私のことを心の底で、または草葉の陰から心配していた人もいるかもしれない。いないかもしれないが、それでは話が続けられなくなるので、いることにしよう。そんな人のために、この一週間なぜサイトの更新をしなかったか、そしてその間に何をしていたかを説明しておくことにしよう。心の底で心配してくれた人は胸をなで下ろし、草葉の陰から心配してくれた人は安らかに成仏するとよい。


まず、サイト更新を中断した理由だが、サイト運営に対する迷いがあって、少し休養をとってもう一度初心に返ってみようとした……というわけではない。もしそうなら、今こんな文章を書いてはいない。本当の理由は、『萌えるミステリサイト管理人「もえかん(仮)」』に投稿する原稿を書く時間を捻出するためだった。原稿提出の締切は7/18だが、その前に参加表明の締切が7/1に設定されている。参加表明して原稿を落としてしまったら無様なので、それまでに一通りの形をつけておきたい。そこで様々な予定を勘案して逆算すると、6月中旬に執筆しないといけない、という結論になった。

毎日のサイト運営のためにはネタ探しの時間も必要だし、文章を書くだけでも数時間はかかる。会社から帰ってサイトの更新をしていると、あっという間に時間が経って、寝る時間になってしまう。これでは同人誌用の原稿など書いている間がない。

では休日に書けばいいではないか、と言う人がいるかもしれない。そんな人はいないかもしれないが、それでは話が進まないので、いるものと仮定する。それは確かにそうなのだが、私の性格ではある程度まとまった時間があると漫然と過ごしてしまい何もできないことが多いので、むしろ時間に制約のある平日のほうが都合がいいのだ。実際、本を読むのも通勤時間のちょっとした空き時間が中心で、休日に本を読むことはあまりない。

というわけで、サイト更新を中断し、原稿執筆に専念することにしたのだが、それでも原稿が書けるという保証は全くなく、むしろ書けない公算のほうが大きい。そんな状況でずるずると7/1の時間切れまで引っ張っても仕方がないので、サイト更新中断期間は最高一週間ということにした。その間にめどが立たなかったら、きっぱり諦めよう。特別原稿で参加するという手もあるが、初恋の思い出を書いても湿っぽくなるだけだ。相手はもはやこの世の人ではない(最初からこの世の人ではなかったわけではない)のだから。

そんなこんなで、一週間経ったわけである。


では、この一週間に私は何をやっていたのか? もちろん昼間は会社に行っていたのだが、そんな日常生活のことを書いても楽しくないし、むしろ辛いことが多いので省略する。

この一週間で読んだ本は二冊、どちらも電撃文庫で、ちょっと偏っているような気がするが、今はあまり重い本を読む気にならない。昨日、『フェッセンデンの宇宙』(エドモント・ハミルトン(著)/中村融(編訳)/河出書房新社奇想コレクション)を買ってきたが、これもいつになったら読めるものか……。

ハミルトンはさておき、読んだ本のことを少し書いておく。まず一冊目は『学校を出よう!3 The Laughing Bootleg』(谷川流)だ。1巻と2巻を続けて読んだので、その設定や登場人物の名前を忘れないうちに続きを読んでおこうと思ったからだ。世評では2巻が最高傑作だとされているそうだが、私の個人的な好みでは3巻のほうが面白かった。ただ、難点もあって、3巻を楽しむためにはまず1巻を読んでおく必要がある。作品内容について詳しい感想を書くと書評系サイトになってしまうのでやめておくが、ひとつだけ気になったことを書いておく。あとがきの文体や書き方にデジャ・ヴを感じるのだ。以前ネット上にこんな感じの人がいたような気がするのだが……。

二冊目は『バッカーノ! The Rolling Bootlegs』(成田良悟)だ。成田良悟のデビュー作だが、完成度は高い。速筆多作の人なので、ずっと追いかけていくのは息切れしそうだが、とりあえず読めるかぎりは読んでみようと思う。

あと、『ヴァンパイヤー戦争』(笠井潔/講談社文庫)の1と2も買ったが、これは積ん読。


昨日、私はスルッとKANSAIの「神戸ときめきチケット」を使って、六甲山とポートアイランドへ行った。六甲山では、ホール・オブ・ホールズ六甲でオルゴールの演奏を聴き、隣の六甲高山植物園で小便小僧を観察した。

ポートアイランドではUCCコーヒー博物館を見学した。コーヒーカップの形の博物館だと思っていたのに違っていたのでがっかりしたが、展示は面白かった。また、館に附設された喫茶店で、ターキッシュ・コーヒー(トルココーヒー)を生まれて初めて飲んだ。

いろいろあったが、いい一日だった。


身辺雑記を一通りすませたので、いよいよ「もえかん(仮)」の原稿の話に進む。

3箇月前に私は次のように書いた。なお、文中で言及した「炭酸カルシウムガールズ」はhttp://ec.uuhp.com/~takeyama/に移転しているが、リンク先は現在「もえかん製作委員会日誌」として存続しているので、そのままにしておく。

炭酸カルシウムガールズもえかん原稿募集要項が公開された。

以前私はいろいろ好き放題に意見を述べているうちに、だんだん私も参加したくなってきた。書くとすれば小説だが、果たして締切に間に合うかどうか。と書いた。締切は7/18なので今から書けば十分間に合う。だが、私には小説が書けるかどうか非常に怪しい。小説が書けないのなら、エッセイや評論でもいいではないかいいではないか、と言う人もいるかもしれない。「いいではないか」がダブった。だが、それではここで書いていることと同じになってしまうから、私としてはもし参加するなら小説を書くという一線は守りたい。また、できればミステリを書きたいとも思っている。

細かい話は後回しにして、結論を先に述べる。私はミステリを書くことはできなかったし、小説を書くことすらできなかった。


小説を書くには、当たり前のことだが特別な技能が必要だ。いま私が書いている雑文とは、内容はもとより文体から構成まで全然違っている。もっとも、小説にはこれといった定型はないので、別にいま私が書いている雑文のスタイルで書いた小説というものも理屈の上では可能だ。今それに気づいた。よし次のチャンスがあれば、それでいこう。

話をもとに戻す。私には小説を書く技能がない。内なる素質、とか、秘められた潜在能力、とか、先祖代々受け継がれた血の記憶、とか、そういった領域まで話を広げると、もしかしたら私にもあるのかもしれないが、確かめようがない。ともあれ、今の私には、何らかの状況と人物の設定を思いつき、筋立てを考えたところで、それを文章化することができない。もうずっと前からわかっていたことだが、この一週間で改めて骨の髄まで思い知らされた。

ちなみに、私が思いついたストーリーは次のようなものだ。読みたくない人も多いだろうから、背景色と同化させておく。

私立逸翁学園一年生の栃原佐奈はひどく不器量な少女で、それを気に病んでいた。ある日、彼女は学園内の「造形部」の噂を聞く。そのクラブの部長、舞木三春は人体を変形させる謎の力「造形術」をもった男で、彼に顔の造作を変えてもらえば、美人になることができるというのだ。栃原は意を決して造形部に入部した。三春は栃原の想像を超える変人で最初は反発していたが、顔面整形のための修行の中で次第に彼に惹かれてゆく。

幾日かが過ぎて、栃原の顔の整形の仕上げが完了した。包帯でぐるぐる巻きになった彼女に向かって三春は、これから催眠術で彼女の記憶を消して元から美人だったという偽の記憶を植え付ける、と宣言する。人工的な美貌では自信が持てないからだ。栃原は三春と過ごした数日間の記憶がなくなることに反発するが、抵抗する間もない。

そこで、ぱっと目が覚める。そう、すべては夢だったのだ。「造形部」も「造形術」も実在しない。栃原は逸翁学園きっての美少女で、入学時から男子生徒のアイドルだった。もちろん、栃原と三春が一緒に過ごした日々などない。三春は妙な夢を見てしまったことに呆れ、溜息をついた。

こうやって粗筋を書いてみると、我ながら凡庸な話だと思う。無理矢理書いてもつまらない。筆が進まない。頭が痛い。鎮痛剤がほしい。文章の面白さだけで読ませる技能、または強引にでも書き貫く腕力、若しくはとりあえず書いている間だけでも自己陶酔できる才能、これらのうちのいずれかがあれば何とかなったかもしれない。だが、私にはそのいずれもなく、手許には鎮痛剤もなかった。

そして、書けないものは書けないんだからしょうがないという結論に達した。


ところで、もし参加するなら小説を書くという一線を守れなかったのだから、当初の方針に従えばさっさと撤退すべきなのだが、気が変わったので「もえかん(仮)」参加することにした。とはいえ初恋の思い出を書くわけではない。

今日の更新と同時に原稿を送信する予定だ。もう後戻りはできない。後悔するなら今のうちだ。