日々の憂鬱〜2003年6月中旬〜


1.10703(2003/06/11) 愛と出会いと巡り会い

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0306b.html#p030611a

 砂色の世界・日記(6/10付)で「こんな素晴らしい出会いには、滅多に巡り会えない」という文について考察している。、「こんな素晴らしい出会いには、滅多に巡り会えない」と言う言葉は、「こんな素晴らしい出会いは、滅多に無い」が正しい様な気がする、という意見に私も賛成だ。なぜなら……とその理由を書き始めたのだが、その途中で考えが変わった。
 「出会う/出会い」と「巡り会う/巡り会い」は似たような意味の言葉で相互に置き換え可能な場合も多いのだが、今取り上げている例のように一つの文の中で両方を用いた場合には、微妙な意味の違いが強調され、置き換え不可能となる。ためしに「こんな素晴らしい巡り会いには、滅多に出会えない」と言い換えてみると、もとの文以上に奇妙な印象を受けるはずだ。
 講談社『類語大辞典』では、「出会う」と「巡り会う」は次のように説明されている。

出会う
偶然のなりゆきで、人と会ったり、ものの存在を知ったりする。「町で昔の同級生に出会った」「その本に出会ってから私の人生が代わった」◇「出合う」とも書く。
巡り会う
探していた人やものに出会う。「長年求めていた理想の女性にようやく巡り会った」◇「出会う」とも書く。

 この説明では、「出会う」と「巡り会う」がどう違うのかがわかりにくいが、「出会う」のほうは比較的具体的な人やものを対象とするのに対し、「巡り会う」のほうはやや抽象的な条件や出来事をも対象にとることができるという違いがあるように思う。「巡り会いに出会う」とは言えなくても「出会いに巡り会う」とは言ってもよいのではないかという気がするのだ。
 と、言ってはみたものの、やっぱり違和感はなくならない。広告文としては多少ひっかかる表現のほうが印象に残るので意味があるのだろうが、やはり「こんな素晴らしい出会いは、滅多に無い」のほうが日本語の文としては自然だ。

 今日は「出会いに巡り会う」から「欲しいものが欲しい」を経由して「恋に恋する」に話を運び、その勢いで先日の続きを書こうと思っていたのだが、最初でつまづいてしまった。あまり凝ったことを考えるとうまくいかない。
 もうあまり時間がないので、最後に同時代ゲーム(6/9付)の末尾で提示されたふたつの疑問について所見を述べて締めくくることにする。

  1. 確かめたことがない(この実験は一人ではできない!)ので何とも言えないが、機能する人もいれば全然機能しない人もいるのではないかと思う。
  2. 仮に聖書に書かれていることがすべて真実だとすれば、「父親は、娘が寝に来たのも立ち去ったのも気がつかなかった」と二度にわたって地の文で書かれているので、その解釈は成立しない。

1.10704(2003/06/12) ふと気がついた

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 ああ、先月は推理小説を一冊も読まなかった。
 今月もまだ読んでいない。
 もしかすると、これからずっとミステリと無縁の生活を送ることになるのかもしれない。寂しいことだ。でも、無理矢理意志を振り絞って読んで落胆することを思えば、これはこれでいいような気もする。
 とりあえず、今は『剣客商売』シリーズ完全読破を目指すことにしよう。

1.10705(2003/06/13) 鳥になれずに大人になった少年と大人になれずに鳥になった少女の物語

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 見出しは内容と関係ありません。

 もし全自動少女新青春チャンネル78〜)の続篇を書くとすれば題材は何がいいだろうか? そんな、私が考えても仕方がないことを考えてみた。
 作者本人の言葉によれば、次は『全自動少女2 洗濯機は回らない』だそうで、確かに「全自動」といえば雀卓か洗濯機くらいしかすぐには思い浮かばないのだが、とはいえ洗濯ロボというのはストレート過ぎるのではないかと思う。「ご主人様、今から洗濯しますから着ているものをすぐに全部脱いでくださいね」「ちょっと待て。替えの服は?」「そんなものありません。今日はいい天気だからお庭で甲羅干しでもしていてください。さあ、早く。えいっ」「きゃ〜、えっち〜!」などという展開になることが容易に想像できるではないか。
 ここはやはり読者の意表をつく設定に挑戦してもらいたいところだ。たとえば、自動ドアロボというのはどうだろうか? 人の手でいちいち開かなくても、センサーで感知して自動的に開くのだ。何が"開く"のかは問うてはいけない。ただ、この設定には一つ大きな難点がある。「全自動ドア」という言い方は普通はしないので、タイトルとのズレが生じてしまうのだ。「全自動ドア」というからには「半自動ドア」というものがなくてはならないのだが「開くときは手動だが閉まるのは自動」というドアはあまりない。あるのは列車くらいだが、暖かい地方に住んでいて半自動ドアを装備した列車を見たことがない人も多いだろう。よって、ふつうの自動ドアをことさら「全自動ドア」と呼ぶ必要もないわけで、やはり自動ドアロボには無理がある。
 いや、こんな事で諦めてはいけない。今時代は貪欲に新しい"萌え"を求めている。私の知る限り自動ドアに萌えを見出した人はまだいないので、この分野は未開の沃野といえる。石野休日氏には是非、自動ドアロボを主人公にした萌え小説を書いてもらいたいものだ。別に自動販売機ロボでも構わないけれど。ああ、そういえば自動販売機が児童販売機になるというオチの小説を昔読んだことがあるぞ。ええと、あれは誰の小説だったか……。

 どうでもいいことを考えているうちに、時間がどんどん過ぎていく。明日は国立民族学博物館で一日を過ごす予定なので、今日は早めに寝ることにする。

1.10706(2003/06/14) 空気のような

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 不壊の槍は折られましたが、何か?(6/13付)から。

だから私は溢れる狂気をもって思う。
私は東京にいるべき人間なのだ。他のどこにでもなく。
色々譲っても、私は現住所に住むべき人間ではない。
某有名ソリストと某めっちゃ無名な海外オケのドサ廻りごときを、文化会館の年間最高のイヴェントに挙げる街。
本拠が一番近いプロオケも、ベートーヴェンしか持ってこない街。
宝塚の花組、桂文珍、100キロ向こうのCATSで大騒ぎする文化空白地帯。
こんな部落に私は住んでいてはいけないのである。

 東京に住んでいる人にとって、文化は空気のようなものだ。だが、この"空気"はどこにでもあるわけではない。
「でも、大阪には大阪の、名古屋には名古屋の文化があるだろう? そして、それ以外の地方にも、それぞれの地域文化があるんじゃないの?」
 確かに、大阪などの大都市には文化がないわけではない。だが、どんな特殊な興味関心を持った人でも手軽に享受できるような、そんな文化的状況は東京にしかない。また、中小都市だと、歴史と伝統の残滓としての地域文化と、自治体が無理矢理都会から引っ張ってきた通俗文化がわずかにある程度だ。
「う〜ん、それってよくわからないなぁ。田舎の人間は都会を美化しすぎなんじゃないかなぁ」
 いや、田舎/都会という対立ではないんだ。私が住んでいるようなとことん山奥なら、無惨な文化もどき自体がないから、東京文化への憧れをかき立てられることもない。ここで取り上げているのは東京(またはせいぜいのところ大阪と名古屋程度)とある程度の人口規模をもった都市との間の格差なんだ。
 地方都市の"文化"のみすぼらしさは、メイクや毛染め薬で無理に若作りしている還暦前後の人々に感じる痛々しさに似ている。あまりうまい喩えではないけれど。
 私はクラシック音楽の演奏会の雰囲気をあまりよく知らないけれど、上で引用した文で筆者が言わんとしている雰囲気は非常によくわかる。
「ふ〜ん。ところで、『部落』っていう言葉はよくないんじゃないだろうかね」
 何言ってるんだ。ここでの「部落」が被差別部落を指しているのではないことは、文脈から一目瞭然じゃないか。部落差別との関わりを恐れて、一般名詞としての「部落」を「地区」などと言い換えるほうがずっと差別的で馬鹿げている。
「ああ、そういえば、君の母校の運動会で『部落対抗リレー』だった競技がいつの間にか『地区対抗リレー』に名前を変えていて、憤慨していたのだったね」
 そういうこと。運痴の私はあのリレーが嫌で嫌でたまらなかったんだけどね。それは、また別の話。
「さて、そろそろ民族学博物館へ行かないと」

1.10707(2003/06/14) みんぱく

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 国立民族学博物館へ初めて行ったのは先々週の日曜日、すなわち6/1のことだった。その時は入館したのが午後3時過ぎで、特別展のマンダラ展を1時間ほどかけて見て、「さて常設展示のほうもちょっと覗いてみるか」と思って常設展示場に入ってみると、あまりの広さに驚き、「こ、これは半時間かそこらで見るのはもったいない」(開館時間は午後5時まで)と思い直し、結局展示物を見ずに帰ってきた。
 今回は午前10時の開館から閉館までずっと館内で展示物を見て過ごすつもりで気合いを入れて再訪したのだが、あまりの密度の濃さに圧倒されてしまい、オセアニア→アメリカ→ヨーロッパ→アフリカ→西アジア→音楽と見て回って入口近くに戻ったところで打ち切って、あとは映像資料をいくつか見ただけで出てきてしまった。午前10時過ぎに入館して、午後3時までの約5時間弱の滞在時間だった。途中、午前11時から1階のフリーゾーンで手回しオルガンの演奏を聴き、私も少し演奏してみた(といってもハンドルをぐるぐると回すだけ。これが結構重くてしんどかった)。また、館内のレストランで「マンダラ展」にあわせた特別料理「白いカレーセット」(1500円)という怪しげなものを食べた。酸っぱくてあまり私の口には合わなかったけれど、まあ話のタネにはなった。
 博物館を出た後、万博記念公園内の自然文化園であじさいとしょうぶを見て帰った。

 帰りに難波から日本橋界隈を徘徊し、CDを21枚買った。1枚はナクソス今月の新譜でアルヴォ・ペルトの『ヨハネ受難曲』だ。既に2種類のCDを持っているのでこれが3枚目になるのだが、好きな曲だからいろいろな演奏で聴いてみたいと思って買った。初録音のヒリアードアンサンブル盤では70分を超えるが、今日買った盤は61分50秒で、一割以上も短い。途中で端折っているわけでもないだろうから、その分テンポが速いはずだが、さっき聴いてみたらさほど速いという印象は受けなかった。
 残り20枚はバッハの音楽を収録したボックスCDで、パッケージには曲名が羅列してあるだけで演奏者の記述がない。レーベル名もよくわからない怪しいCDだが、20枚組で4390円(税別)は安いので、ついふらふらと買ってしまった。私はとことん貧乏性だ。
 そんなこんなでほどよく疲れてしまったので、今日は他サイトを巡回してネタ探しをするのも面倒になった。いろいろ宿題がたまっているが、明日以降に先送りすることにする。

1.10708(2003/06/15) さまよえるアンケート

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 (笑)のない掲示板に「さまよえるアンケート」という記事が投稿されていて、どうにもマルチポストくさいのだが、他サイトの掲示板を見て確認するのも面倒だし、さてさてどうしようと思っていたところ、本読みの日常(6/15付)になんだか各地の掲示板にあらわれている「さまよえるアンケート」、と書かれていたので、ほっと安心(?)。
 (笑)のない掲示板は閑古鳥が鳴いているので、ログはしばらく残っていることと思うが、後々のために当該記事を転載しておこう。

●「ミステリ」と「ミステリー」 この2つの言葉を使い分けますか?
使い分ける、という方は、その基準などもあればお書きください。

●「傑作」「佳作」「力作」といった言葉を書評などを書く際使用しますか?
使用する、という方は、それら言葉の使い分けの基準などもあればお書きください。

●横書きの場合、【作者名「作品名」】と【「作品名」作者名】 ではどちらが好みですか?
例: コナン・ドイル「緋色の研究」or「緋色の研究」コナン・ドイル
書評などを書く際とくにどちらかにこだわりがある方は、その理由などもあればお書きください。


失礼しました。

 3つの質問項目があるが、まず表記または表現の仕方について尋ねて、次に理由や基準を問う、という体裁になっている。各項目の前段は、わざわざ質問しなくてもウェブサイト内の記事を見ればわかるはずのことなので、人によっては不愉快だと思う人もいるだろう。もっとも、閲覧者はウェブサイト管理人が思っているほど注意深く熱心に記事を読んでいるわけではないということを私は数々の体験から知った(この言い回しには少し論理的な問題があるのだが、大目に見てほしい)ので、この程度のことで気にしていても仕方ない。
 ただ、FOOL氏が指摘している点はもっともで、やはりこういうアンケートの仕方は具合が悪いのではないかと思う。
 ところで、私の回答だが……。
 「ミステリ」と「ミステリー」は使い分けする。文芸上のジャンルとしては「ミステリ」を用い、それ以外の場合は「ミステリー」を用いる。
 「傑作」「佳作」「力作」はうまい誉め言葉が見あたらないときに用いるが、なるべくなら具体的な評価ポイントを指摘したいと思っている。「傑作」は他の作品に比べて抜きんでている場合、「佳作」はよく書けいてる場合、「力作」は作者の努力が見てとれる場合に用いるが、厳密に使い分けているわけではない。
 私は『作品名』(作者名)または『作品名』(作者名/出版社名)と表記することが多いが、完全に統一しているわけでもない。たいていの場合、言及対象は作品であり、作者名は出版社名と同じく補足データに過ぎないという考え方からである。もちろん、作者に言及して補足として作品名を挙げる場合には順序は逆になる。
 おお、回答してしまったではないか。

1.10709(2003/06/16) 袋小路の奇蹟 ――『わが麗しのきみよ……』を読む――

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 昭和の終わりに現れた「新本格推理」とは一体何だったのか? 今から考えれば、進化の袋小路ということになるだろう。密室殺人や人間消失などの不可能犯罪、時には粗野とも思えるほどの大胆な物理トリック、そして叙述トリック。黄金期の英米ミステリの舞台装置は反復され、拡大され、グロテスクなまでに展開された。他方、戦前の日本探偵小説の雰囲気をも盛り込み、時には猟奇に走ることもあった。そして、ミステリそのものの構造への自己言及。このような特徴は当時の"大人"から「人間が描けていない」と非難を受けたが、その一方で新たなミステリの可能性を予感する人々は熱狂的に支持した。
 だが、どんな運動もいずれは衰退する。奇矯な大トリックは次第に物理学の法則を無視した荒唐無稽な珍トリックへと変貌し、無限の沃野と思われた叙述トリックはいまやペンペン草も生えない荒野と化している。人間を人形芝居の人形として将棋の駒としてジグソーパズルのピースとして扱う先鋭的な文学は、やがてキャラ立ちとキャラ萌えを重視する新たな潮流に呑み込まれ、「新本格推理」という看板はいつしかすすぼけたものになってしまった。
 私見では、この運動の最盛期は1990年頃である。当時、講談社ノベルスの本家「新本格推理」のほか、東京創元社からも続々と新人がデビューしていた。新人作家は今でも雨後の筍のように毎年何人も登場しているが、もはや特定のミステリ運動の闘士とはみなされない。もちろん、当時の新人作家の全員が本当に新しいミステリを作る運動に主体的に参加しているという意識があったわけではないだろうが、半分は周囲の人々の思いこみと期待のせいで、限りなく幻想に近い一大潮流が日本ミステリ界に存在していた。この、奇妙な熱気に溢れた日々は、遅くとも1995年までには終息している。
 「新本格」は終わった。昭和30年代から何度となく提唱されては消え去った他の「新本格」と同じく、歴史の一ページになってしまった。だが、1995年以降にも「新本格推理」の残映とでもいうべき作品はある。今日取り上げる『わが麗しのきみよ……』は、それ自体が大きな袋小路ともいえる「新本格」という潮流が袋小路に陥った後に現れた奇蹟のような小説である。作者は光原百合、初出は『創元推理17 ぼくらの愛した二十面相』(変なタイトルだ。東京創元社の考えることはよくわからない)である。
 1997年10月、すっかりミステリに興味を失っていたときに、私はこの小説に出会った。当時、光原氏は『本格推理』(鮎川哲也・編/光文社文庫)シリーズに吉野桜子名義で短篇をいくつか投稿して採用された程度の純然たるアマチュア作家で、ミステリファンの間での知名度は低かった。私は『本格推理』は一通り読んでいたが、「文章はうまいが、ミステリとしての着想や技巧という面ではあまり見るべきものがない小説を書く人」という程度の印象しかなかった。そんなわけで、光原百合名義最初の作品(ただし、ミステリ以外の著作ではこれ以前から光原百合名義だったようだ。光原百合作品リストを参照)である『わが麗しのきみよ……』にはあまり期待せずに読み始めたのだが……。
 舞台は英国(?)の田園の名家クレアモント家の館。この館の当主リチャードが夏至の夜に突然の死を遂げてからちょうど一年後のこと、女主人のヘレナが降霊会を開き、亡き夫の霊と交信しようとする。降霊会に参加したのは、リチャードの妹たち、ヘレナの愛人と噂される男、地元の治安判事、怪しげな霊媒師などなど。降霊会は異音のあとヘレナの悲鳴とともに中断される。彼女は夫の声を聴いたと主張し、一年前に彼が謎の死を遂げたのち開かずの間となっていた、塔の上の寝室で一夜を過ごすことにする。そして、翌日彼女は密室状態で死体となって発見される。亡霊が愛する妻を招いたのか? それとも……。というところで問題篇は終了。
 ここで、いきなり場面転換。舞台はお馴染み(?)浪速大学ミステリ研究会、略して「なんだいミス研」の溜まり場、喫茶店「オーギュスト」に移る。ここまでの文章は作中の語り手、吉野桜子(先にも述べたとおり、『わが麗しのきみよ……』より前の作品で光原氏が使っていたペンネームでもある)が例会のために書いた犯人当て小説であることが明かされる。三人の先輩、清水、若尾、黒田が口々に問題篇を読んだ感想を述べて、若干の補足説明の後、解決篇に入る。
 解決篇で私は非常に衝撃を受けた。そこで明かされる"意外な解決"に驚いたのだ。ただし、「こんな手があったのか!」という驚きではない。そのトリックには複数の前例があるからだ。前例作品を読んでいたにもかかわらず、そのトリックの可能性に全く気づかなかったので驚いたのだ。
 作者が前例を知らなかったとは考えにくい。実際、作中の若尾先輩が「トリック自体に似た前例はいくつもある」と言っている。トリックの効果が鮮やかであればあるほど、再使用は慎重でなければならないのは当然だが、この作者は大胆にも手の内を読者に晒した上で挑戦しているのだ。よほどの自負がないとできることではあるまい。
 驚愕から覚めて冷静になり、『わが麗しのきみよ……』を読み直してみると、細部にまで工夫と配慮が行き届いていることがわかり、改めて驚嘆した。今回、数年ぶりに読み返してみたが、まるで奇蹟のような筆致には感心せずにはいられない。本当はどこがどう凄いのかを具体的に解説したいところだが、時間と手間の都合があるので差し控えておく。私ごときが下手な説明を加えなくても、現物を読んでみれば一目瞭然だろうし。
 『わが麗しのきみよ……』の翌年、光原氏は『時計を忘れて森へ行こう』(東京創元社)でいよいよ本格的に作家活動に乗り出した。そして昨年『十八の夏』(双葉社)の表題作で日本推理作家協会賞を受賞し、ある種の読者の絶大な支持を集めるようになった。だが、この二冊はミステリ色は限りなく薄く、ミステリファンには不満が残る。比較的ミステリ色が濃い『遠い約束』(創元推理文庫)も日常生活の謎を扱った小粒な作品集だ。それでも私が光原氏の小説を読み続けているのは、『わが麗しのきみよ……』があったからだ。光原氏は私が望むような「本当にミステリらしいミステリ」を書けないのではなく、ただ今のところ書いていないだけなのだ。
 思い入れが深い『わが麗しのきみよ……』をぜひ多くの読者――特に光原ファン以外の人――に読んでもらいたいと思っていたのだが、残念ながら『創元推理17』はもう一般には流通していない(しばらく前には大きな書店でバックナンバーを見かけることがあったので、もしかしたら版元にはまだ在庫があるかもしれないが)ので、薦めることも叶わなかった。だが、このたび『翠迷宮』(結城信孝・編/祥伝社文庫)に収録されたので、この機会に宣伝しておく。
 さあ、今すぐ630円を持って書店へ!
 ……と煽ったところで、最後に一つケチを付けておく。『翠迷宮』では、この小説の解決篇が181ページ5行目から始まるので、非常に具合が悪い。「なんだいミス研」の面々の会話シーンが長大な「読者への挑戦状」として機能しているので、解決篇の前に改めて挑戦状を挿入すると重複するかもしれないが、ここはどうにかして改ページすべきだったと思う。
 これから読む人は179ページまではふつうに読んで、180-181ページを開いたところで左半分(181ページ)を手で隠して右半分(180ページ)を読み、その後、細心の注意をはらって181ページの最初の2行を読んで、本を伏せるようにお勧めする。ちょっと面倒だが、この小説を漫然と読んでしまってはもったいない。

1.10710(2003/06/17) 神々の黄昏

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 ……第二次大戦後、横溝正史が『本陣殺人事件』を発表し、日本にも英米風の「本格探偵小説」隆盛の時代が訪れた。実作こそ伴わなかったものの、江戸川乱歩は「本格」を推奨するために、積極的に評論を書くとともに、高木彬光など新人のデビューに尽力した。日本ミステリ界は「本格」の黄金時代を迎えた。しかし、昭和30年代に入り、松本清張を中心とする社会派が一世を風靡するようになると、「本格」は古めかしく時代遅れだとして衰退していった。昭和30年代から40年代にかけては日本の「本格」の闇黒時代である。「本格」復権の動きが出てくるのは昭和50年の雑誌『幻影城』の創刊以降である。その後紆余曲折の後、綾辻行人の登場が登場し、「新本格推理」の時代の幕が上がる……。
 このような日本ミステリ史観がどのようにして形成されたのかはわからない。が、多少の力点の違いを別にすれば、わりと多くの人々に受け入れられているように思われる。昭和30年前後を境にして、「本格」(しつこいようだが、私は「本格探偵小説」「本格推理小説」「本格ミステリ」などの用語を使用せず、言及のみにとどめる)を巡る情勢が一変したこと、そしてその後の約20年間は「本格」不遇の時期であること。この二点はミステリ愛好家にとってはほとんど常識なのかもしれない。
 しかし、必ずしもそうは言えないのではないか。20世紀最高の推理作家、鮎川哲也が数々の名作を遺したのはこの20年の間だった(むろん、昭和20年代にも昭和50年代にも小説を発表してはいるが)し、同時代に活動した他の作家も謎解きの興味を中心とした、トリッキーな小説を書いていないわけではない。私が真っ先に連想するのは、松本清張の『時間の習俗』だ。トリックのためのトリック、社会性を無視した犯罪動機、ひたすら事件の謎を解くことに焦点を絞った小説だ。都筑道夫なら「昨日の本格」と言って批判するのではないかと思えるほどだ。
 そういうわけで、私は「昭和中後期本格推理闇黒時代史観」(なんとなく漢字を並べてみた。このようなレッテル貼りに嫌悪を催す人もいるだろうが、ご容赦願いたい)には首を傾げる。先日、尾道大学推理小説研究部のサイトから文章を引用した際に、松本清張って傑物の後、一旦本格モノに衰退が見られて、という箇所を強調しておいたのはこういうわけだ。
 だが、残念ながら私のミステリ読書量は非常に中途半端なので、多くの実例を挙げて昭和中後期本格推理闇黒時代史観を覆すことはできない。「なんとなく私には違うように思われる」としか言いようがないのだ。この考え自体がドグマではないか、と非難されれば、返す言葉がない。
 さて、このたび東京創元社から新創刊された『ミステリーズ!』vol.1の巻末に「本格ミステリ・フラッシュバック」(千街晶之・監修)という企画ページがある。この企画の趣旨については監修者(どうでもいいが、「監修」というと名前だけ貸して実質的には何もしていないという感じがする。千街氏が企画・執筆の中心人物なのだとすれば、別の肩書きのほうがいいのではないか。本当にどうでもいいことだが)が「はじめに」と題した文章で述べているので、引用してみよう。

 本格ミステリの本質とは何だろうか。そんな問いが、あちこちで囁かれるようになっている。…(略)…しかし、新本格以前の時期に発表されていた本格ミステリについても考慮しなければ、ジャンルの本質を把握することなど不可能であることは言うまでもあるまい。
 だが、特に若い読者には「新本格以前の本格ミステリって、どんなのがあったの?」と問いかけたいひとが多いのではないだろうか。…(略)…そんな読者にとって役に立つようなブックガイドを編むことは出来ないだろうか……。そういう発想から産まれたのがこの企画である。
 当企画では、松本清張が『点と線』『眼の壁』を雑誌に連載して注目を浴びた一九五七年から、新本格発足の年である一九八七年までの約三十年間に活躍した作家たちとその代表作を取り上げ、…(略)…ブックガイド形式で紹介することを目的としている。…(略)…松本清張らのように社会派と見なされている作家や、他ジャンルに属すると思われる作家の作品からも、本格としての鑑賞に堪えるものは積極的に紹介するつもりである。…(略)…

 第一回で取り上げているのは笹沢佐保と梶龍雄の二人で、どちらも若いミステリファンの間ではあまり読まれているとは言い難い作家だ。実を言えば私も恥ずかしながら梶龍雄は一冊も読んだことがない(だからといって私は「若いミステリファン」だと言いたいわけではない。念のため)。いつかは読もうと思って何冊も積んでいるのだが……もっと精進しなければ。
 ともあれ、この企画が多くの読者の導きの光となることを大いに期待し、千街氏と6人の共同執筆者の活躍を陰ながら応援することにしよう。
 えっ? 『ニッポン硬貨の謎』? 江神シリーズの新作? いや、どちらも読んだけど……。どうせみんな注目しているんだから、私みたいな中途半端な人間がわざわざ言及する必要もないよ。

1.10711(2003/06/18) この先の深い闇にとてつもないなにかが潜んでいるような気がする。

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0306b.html#p030618a

 見出しのフレーズは先日知人に教えてもらったものだが、その後なぜだか脳内をぐるりぐるりと駆けめぐっていて困っている。グーグルで検索して調べたところ、『東電OL事件』で連発しているフレーズ(6/7付)らしい。全然関係ないが、半月ほど前に聞いた講演(ユニセフだったかユネスコだったか忘れたが、国連関係の団体の偉い人が講師だった)で「皆さんには釈迦に説法でしょうが」という言い回しを何度も繰り返していたのを思い出した。この先の深い闇にとてつもないなにかが潜んでいるような気がする。
 ところで、上でリンクしたページの一言コメント欄にいかがなものか。という言葉が最初から入っているのはいかがなものか。もう一つのコメントフォームには欧米では考えられないことです。という言葉が入っているが、来訪者のコメントを求める場でこのようなことを行うのは、欧米では考えられないことです。この先の深い闇にとてつもないなにかが潜んでいるような気がする。

 今日はネタがないので、適当に雑談でお茶を濁そうと思う。いや、本当はここ(6/13付)とここをもとにして、みたび渇望について考えてみるつもりだったのだが、どうにもこうにも考えがまとまらず、考えれば考えるほどどんどん闇に沈み込んでいくような気すらしてしまうのだ。この先の深い闇にとてつもないなにかが潜んでいるような気がする。そういうわけで、今日は難しいことを考えずに、適当にどうでもいい話やいい加減な話を書きとばして頭を休めたい。まあ、いつだって、どうでもいい話が大半を占めているのだけれど、それでも私なりに頭を使っているのだ。
 さて、ヤフーで「帽子」「単位」で検索して「たそがれSpringPoint」に辿り着いた人がいるようだ。きっと帽子を数えるときの単位を知りたかったのだろうが、残念ながらそんな情報は私のサイトのどこを探しても見つかりっこない。なぜなら私自身、帽子の単位など知らないからだ。
 ふつう私は帽子を「一個、二個」と数える。それで話が通じなかったことはない。だが、実は正式な数え方が別にあって、私は無知なせいでそれを知らずに「個」という間違った日本語を使っていたのだ、とも考えられる。きっと周囲の人々は心の底で私のことを嘲りながら、うわべだけ頷いていたのだ。そうだ、きっとそうに違いない。人間の心の闇は計り知れない。この先の深い闇にとてつもないなにかが潜んでいるような気がする。では、いったい帽子を数える本当の単位はなんなのだろう? 頭に被せるものだから「一頭、二頭」と数えるのだろうか?それとも「一首、二首」と数えるのかもしれない。ちょっと捻って「一袋、二袋」という数え方も考えてみた。何しろ箸の単位が「膳」なのだから、帽子の単位が「袋」だったとしても、驚くべきことではない。でも、たぶん「袋」じゃないだろうな。
 突然だが、書いていてつまらなくなったので、この話はおしまいにする。

 アクセスログ関係でもう一つ。これで検索すると、「たそがれSpringPoint」がいちばん上に来る。グーグルで試してみたら、このページがトップだった。日常生活ではあまり使わない言葉だが、それでもヒット数約1,1600件(←なんとなく4桁区切りにしてみた)のうち第1位というのは凄いではないか。誰か私を可及的速やかに誉めてほしいものだ。ついでに可及的速やかにお金をくれるとより嬉しい。

 とある親切な人に教えてもらったのだが、某匿名掲示板に次のような書き込みがあったそうだ。

192 名前:名無しのオプ 投稿日:03/06/17 18:30
   滅・こぉる lostvirgin

 いったい何を言いたいのかよくわからないのだが、この先の深い闇にとてつもないなにかが潜んでいるような気がする。

 さらにどうでもいい話。
 こんな事を考えた。鬱のどん底と切なさの極みとでは、どちらのほうがより辛く耐え難いか、と。
 答えはない。

 昨日『ミステリーズ!』を読みながら、ふと思い出したことがある。かつて私の知り合いに「江神」という姓の人がいた。その人は30歳になる前に死んだ。

 先日買ってきたバッハの20枚組ボックスCDは、いわゆる「歴史的名盤」集だったようだ。モノラル録音でノイズが多く、聴きづらい。でも、中にシュヴァイツァーのオルガン演奏(1935年〜1937年)が収録さていたので、よしとする。一度聴いてみたいと思っていたのだ。

 この先の深い闇にとてつもないなにかが潜んでいるような気がする。

 アルヴォ・ペルトに『スンマ』という大仰なタイトルの小曲がある。弦楽合奏曲として演奏されることも多いが、もとは声楽曲で、ミサ通常文の「クレド」をテキストにしている。宗教的というより官能的な音楽だ。特に、最後の締めくくりは聴いているほうが後ろめたくなるほどだ。
 同じくらい官能的な音楽としてアレグリ(または「アッレーグリ」など、日本語表記は一定していない)の『ミゼレーレ』を挙げておこう。これは詩篇第51番(版によっては50番。どうして番号がずれるのかはわからない。もしかすると番号なしの『詩篇はるかなり』が別にあったのを統合したのかもしれない)をテキストにしている正真正銘の宗教音楽である。この曲は筒井康隆の『モーツァルト伝』で言及されているので参照されたい。
 先ほど、私は「宗教的/官能的」を対にして語ったが、両者はたぶん相反するものではないのだろう。この先の深い闇にとてつもないなにかが潜んでいるような気がする。私はまだ宗教的法悦の境地に達したことがないので、よくはわからないのだけれど。

 明後日、6/20(金)は時刻表の発売日だ。忘れないようにメモ。この先の深い闇にとてつもないなにかが潜んでいるような気がする。

1.10712(2003/06/19) 世界は五分前に始まった

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0306b.html#p030619a

 巷で話題の『涼宮ハルヒの憂鬱』(谷川流/角川スニーカー文庫)を読んだ。所要時間約1時間だった。これほど爽快にさくさく読めた本は久しぶりだ。肩の凝らない娯楽読み物として楽しめた。満足、満足。
 もっとも、全く欠点がないわけではない。たとえば、ヒロインの涼宮ハルヒの性格が第一章と第二章以降で違っているのが気にかかる。最初のほうでは求道者のような性格なのに、途中でいきなり読者に媚びを売って"萌え"路線に転向するのはいかがなものか。欧米では考えられないことです。
 ほかにもいろいろとツッコミを入れたいところはあるのだが、1時間で読んだ本の感想文を書くのにあまり時間をかけても仕方がないので、やめておく。そのかわりに、印象的なシーンをふたつ引用しておこう。
 まず、第一章から。中学時代のハルヒが彼女に告白した男全員を振ったという話を聞いた語り手の「キョン」が、彼女に尋ねる場面。

「じゃあ、どんな男ならよかったんだ? やっぱりアレか、宇宙人か?」
「宇宙人、もしくはそれに準じる何かね。とにかく普通の人間でなければ男だろうが女だろうが」
 どうしてそんなに人間以外の存在にこだわるのだろう。俺がそう言うと、ハルヒはあからさまにバカを見る目をして言い放った。
「そっちのほうが面白いじゃないの!」

 言葉本来の意味での"エロス"にこだわる人間の姿がここにある。
 もう一つは第五章から、ある人物の台詞(ネタばらしを避けるため、誰がどのような文脈で発した言葉なのかは伏せておく)。

「もし、あなたを含める全人類が、それまでの記憶を持ったまま、ある日突然世界に生まれてきたのではないということを、どうやって否定するんですか? 三年前にこだわることもない。いまからたった五分前に全世界があるべき姿をあらかじめ用意されて世界が生まれ、そしてすべてがそこから始まったのではない、と否定出来る論拠などこの世のどこにもありません」

 これはバートランド・ラッセルの「世界五分前創造仮説」そのものだ。この台詞のあと、外界に関する感覚が脳への直接刺激によるものではないかという懐疑や、世界が超越者の夢であるという仮説(これは『鏡の国のアリス』でお馴染みだ)が簡潔に紹介されている。余談だが、以前私が英国の雑誌「マインド」の目録を繰っていたとき、19世紀末のほぼ同時期にルイス・キャロルとラッセルの論文が掲載されている(同じ号だったかどうかは忘れた)ことに気づいた。別にどうということはないのだが、井伏鱒二が変名を使って森鴎外と文通していたというエピソードを知ったときと同じくらい意外だった。
 閑話休題。『涼宮ハルヒの憂鬱』では他にもさりげなく作者の教養が窺える記述(たとえば人間原理への言及など。あっ、既に指摘されてる)がある。きっと、私が知らないネタもいっぱいあるのだろう。小説そのものの面白さにどの程度寄与しているかは別として、これはこれでなかなか興味深い。
 最後に本屋に『ドグラ・マグラ』が置いていなかったので、そのかわりに『涼宮ハルヒの憂鬱』を読んだ人の感想文にリンクしておく。鋭い分析だ。

1.10713(2003/06/20) liner、lovelyそしてlight

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0306b.html#p030620a

 SHADOW-ZERO(6/20付)でクラシック分野の変なタイトルの曲 を集めたページが、次のコメントとともに紹介されている。

> モーツァルト 俺の尻をなめろ、きれいにきれいにね

ほ、本当に?

 本当だったら面白いのだが、残念ながらそうではない。以下、『バッハ――伝承の謎を追う――』(小林義武/春秋社)から抜粋して引用する。

 「おれの尻をなめろ、きれいにな」――いきなりこのような文章で書き出して、読者の方々には申しわけないが、実はこれは、本章で扱う音楽作品の偽作について、非常に興味深い示唆を与えてくれるものなのである。これは、知る人ぞ知るモーツァルトの作品を収めた作品目録、いわゆるケッヘル目録の第三八二d番(旧番号ニ三三)に載せられたカノンの歌詞である。…(略)…人間としてのモーツァルト像というものが論じられるとき、よくこのカノンが引き合いに出されていたようである。…(略)…
 しかしモーツァルトの名誉のために言っておくと、実はこのカノンはモーツァルトの作品ではないのである。この曲は確かに、新モーツァルト全集の中に採り入れられており、また一九九一年に海老澤敏および吉田泰輔監修で出版された『モーツァルト事典』(東京書籍)においても真作として扱われている。それではなぜ、私のようなモーツァルト研究の門外漢がその作品の真偽についての最新の情報を得ているのかというと、一九八八年にドイツで作曲家全集に携わっている諸研究所がマインツの町でコロキアムを開催し各全集における真偽問題について論議した折に、私も出席しており、このカノンについての研究発表を体験したからである。…(略)…カノンの真の作者はヴェンツェルン・ヨハン・トゥルンカ…(略)…。しかもこの曲のトゥルンカによる自筆譜までが存在することがわかったのである。…(略)…
 …(略)…また、「おれの尻をなめろ」という表現は、実はそれほど卑猥な意味をもつわけではなく、…(略)…「糞食らえ」「勝手にしやがれ」といった程度の意味として理解すべきであろう。

 この本は、タイトルからもわかるように、モーツァルトについての本ではなく、バッハについての本だ。モーツァルトの音楽についての最新情報(といってもこの本の初版は一九九五年に出ているので、少し前の話だが)がバッハの本に載っているとは誰も思わないだろうから、今でも誤情報が流布しているものと思われる。
 信頼できる情報を獲得し、適正に処理するのは難しいものだ。私も何度となく間違った情報や不正確な情報を鵜呑みにして失敗している。気をつけなければ、と思うのだが、気をつけたところでどうにもならないこともある。う〜む。

1.10714(2003/06/20) 感傷旅行

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0306b.html#p030620b

 今日は時刻表の発売日だったので、早速買ってきた。時刻表をショルダーバックに詰めて、あてもなく心の傷を癒す旅に出るのだ。だが、その前にまず心に傷を負う必要がある。度胸のない私には非常に難しい。今日こそはと思っていたが、結局ずるずる先延ばし。

 樽見鉄道(岐阜県)が最悪の赤字 1億2400万円 存続危機、増資要請も(情報もと:読無字書弾無絃琴(6/20付))という記事を読んで大いに焦る。まだ乗っていないのに……。