【日々の憂鬱】アナーキストが警察を頼るのはいかがなものか。【2004年3月上旬】


1.10984(2004/03/01) 問いとこたえと精神分析家

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0403a.html#p040301a

今日から青春18きっぷが使える。早速、常備券(赤券)を買った。冬にも常備券を買ったが、頭の調子が悪くなって旅行を中止し払いもどしたので、手許にのこっていない。今回は少なくとも3日分は使いたいものだ。

ところで、青春18きっぷとはあまり関係はないのだが、In a flurry/晴雨両用日記2/28付の記事を読んで何となく思いついたことを書いておく。

問いを立てるということと問いにこたえるということは対になっている。前者は後者を予期し、後者は前者に後続する。一人で両方こなすこともあれば、別の人が立てた問いにこたえることもある。また、問いにこたえることを予期して問いを立てたのに、実際には誰もその問いにこたえないということもあるだろう。

さて、「こたえる」という動詞は「答える」とも「応える」とも書くことができる。「応える」のほうは表外訓なので、学校の漢字テストでこう書くと間違いということにされてしまうが、それでも「応える」という表記を用いる人は多い。また「堪える」という表記(これも表外訓)もあるが「問いに堪える」とは書かないので無視する。

ふだん私は「答える」と「応える」をあまり厳密に使い分けてはいないが、強いて区別するなら前者は問いに対して解答を与える場合に用い、後者は問いに対して何らかの反応を示す場合に用いる。たとえば「どうして人を殺してはいけないのか」という問いに対して「それは社会の秩序を乱す行為だからだ」と述べるのは、その問いに答えて、かつ、応えたことになるが、「そんな問いは不健全だ」と言うのは、その問いに応えてはいても、答えたことにはならない。

問いにこたえるということに二通りの仕方があるのだとすれば、問いを立てるということにも二通りの仕方があるのではないか。問いに答えることと対になるような問いの立て方と、問いに応えることと対になるような問いの立て方とは自ずと性格を異にするに違いない。

素朴な疑問、不思議な謎として問いを立てる場合、それは答えられることを予期している。他方、解答が与えられるかどうかに関わらず、単に応えられることを目的として問いを立てることもある。どちらも文法的には疑問文の形で表されるが、後者の場合はむしろ反語文というほうが適切かもしれない。

In a flurry/晴雨両用日記で引用されている永井均の文章では「問いを立てる」という表現の二義性については語られておらず、ただ「素朴な問い」と「不穏な問い」を対比しているだけだ。だが、問いは問いでしかなく、問いそのものが素朴であったり不穏であったりするわけではない。よって、私は永井均は二通りの問いの立て方について述べているのだと解釈する。そう解釈すると、一見したところ因果関係が逆転しているような奇妙な文章もすんなりと読み取れる。

ところで、ここ三浦俊彦 小説家・精神分析家と書かれているのを見て驚いた。三浦俊彦って精神分析家だったのか。なんと多彩な人なんだろう。

1.10985(2004/03/02) サムソンとデリダ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0403a.html#p040302a

ふだん私は愚にもつかない戯言(しつこいようだが「ざれごと」ではなく「たわごと」だ)を書き連ねているのだが、疲れてくると頭が180度回転しなくなるために、さらに程度が低くて散漫な文章しか書けなくなってしまう。そんな事より>>1よ。きのう近所じゃない吉野家行ったんです、吉野家。そしてらなんか人が全然いなくて寂しかったんです。夕方6時半で、いつもならそこそこお客がいる時間帯なのに、店員がぽつねんと立っているだけ。私が入っていったときの笑顔が侘びしかった。

で、何が言いたいかというと、つまり、こういうことだ。運動会の徒競走で全員が1位になるために、足の速い子供がゴールの前で足踏みして、最後尾の子供が追いついたところで全員一斉にゴールイン、という儀式が昔あった。戦後民主主義に反感をもつ人々が悪平等の例としてよく挙げるエピソードで、今となっては確かに愚劣で滑稽なしきたりだとしか言いようがないのだが、そう言って切り捨ててしまうと、なぜこのような習慣が生じたのか、という疑問を隠蔽してしまうことになる。というか、「なぜ、戦後の一時期の運動会では全員同時にゴールしなければならなかったのか?」という問いを立てることは悪いことだとして退けてしまうことになる。そうすると、本来は率直で素朴な問いだったものが不穏なものに変じてしまうのだ。いや、あんまり不穏でもないか。

いや、私が言いたかったのはこういうことではなかった。真面目にやろうではないか。

光文社文庫版江戸川乱歩全集全巻読破の試みは常に危機に瀕しており、先月は『Fate/stay night』のせいで全然乱歩が読めなかったのだが、新しい月に入ったことだし気分も新たに『悪魔の紋章』(これは去年12月配本だ。ああ、何という遅れが生じたことでしょう)を読み始めたのだが、冒頭に収録されているのが『少年探偵団』、その次が『妖怪博士』、そして巻末にようやく表題作が置かれているという恐るべき本で、今日『少年探偵団』を読み終えたものの、引き続き少年物をもう一篇読む気にはなれず、一休みしているところだ。感想文は明日書く予定だが、明日も疲れそうなので、明後日に延ばすかもしれない。

乱歩と並行して読んでいるのが『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』(大塚英志/講談社現代新書)でである。ちょっと分厚くて、まだ半分ほどしか読んでいないが、かがみあきら(本当は「かがみ」と「あきら」の間に音符が入る)の名前が出てきて、非常に懐かしく感じた。まだおたく文化がサブカルチャーの下位文化に過ぎなかった頃、すなわちサブサブカルチャーだった頃に一部の人々の間で注目されていたマンガ家だ。かがみあきらが世を去ったのは一九八四年だから、ちょうどオーウェルの小説のタイトルと同じ年だが、その時にはこせけい氏はまだ生まれていなかった(こせけい氏の名前を挙げたのは、ちょうど今日『おたく」の精神史 一九八〇年代論』に言及していたからだ)。そう考えると、まさに隔世の感がある。そういえば、この本ではほとんど説明なしに宮崎勤に言及しているが、今の若い人に通じるのだろうか?

時代の雰囲気というものに私は全く興味がないわけではない。万歩書店や超書店MANYOなどのごった煮型巨大古書店に行くと、新刊の洪水に押し流され、埋もれ、忘れ去られてしまった過去の書籍や雑誌の雰囲気に圧倒され、何ともいえない感慨に耽ってしまう。だが、その一方で……あ、急にこの先を書く気が失せた。真面目にやろうではないか。

で、通勤途中や昼休みには上記2冊を読んでいるのだが、家に帰ってくると『徹底検証 古史古伝と偽書の謎』(新人物往来社 別冊歴史読本77)を読んでいる。非常に愉快だ。

やあ、もう何が何だかわけがわからなくなってきた。はっはっは。年度末は疲労が溜まるので、しばらくこの調子だ。銚子は醤油の名産地だ。

1.10986(2004/03/03) この部屋にはいくつの萌えがありますか?

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0403a.html#p040303a

メイドちゃん保管庫DEVIL BLUE)を読んで、あれこれと連想した。客観的にみれば、いちばん似ているのは『これが私の御主人様』(まっつー・椿あす/ガンガンコミックス)だろうが、私は80年代ラブコメを連想した。メイドちゃんとご主人様の仲が恋愛関係に発展するという展開にはならないだろうが。

なんでまた80年代というふうに限定してしまったのか、自分でもよくわからない。『「おたく」の精神史 一九八〇年代論』(大塚英志/講談社現代新書)を読んでいる最中だからかもしれない。ふと、「オレンジからいちごまで 〜「少年ジャンプ」にみるラブコメの変遷〜」というタイトルを思いついた。なかみはまだない。たぶんこれから先もずっとない。書きたい人がいれば、タイトを進呈するので、ご自由にどうぞ。


求道の果て(3/2付)で一日が24時間じゃなく48時間あればとよく言いますけど、交通手段の発達が逆にゆとりを奪ったように、きっと過労死か発狂すると思うのですが。と書かれているのを読んで、その本来の趣旨とは無関係に「もし1日が48時間だったなら」という反実仮想について考えてみた。

「もし1日が48時間だったなら」と考えるとき、我々はふつう1時間の長さは現実と同じで、1日の長さが倍であるような状況を想定する。逆に1日の長さは現実と同じで、1時間の長さが半分であるような状況は考えない。では、「もし1メートルが200cmだったなら」という反実仮想の場合はどうか?


県有財産売却公告和歌山県ホームページ

こんなモノを買う人がいるのだろうか? 買うとすれば、いくらくらいなのだろうか? そもそも、これって県有財産なのだろうか?


牛がないなら豚をお食べ。

某所から吉野家豚丼レポを無断転載。

ちょっと聞いてくださいよ、1さん。

今日のお昼は久しぶりに吉野家へ行ったんですよ。吉野家。


そしたら何かお店の前で若い男性の店員さんが呼び込みをやっているんです。 「豚丼はじめましたー! 320円です。美味しいので食べていってくださーい!」 ですって。

もうね、何を考えているのかと。吉野家なんて、松屋と競争を始めて280円に値段を下げてからは味は滅茶苦茶。今では吉野家なんて、値段にしか取り柄のない貧乏人の食べ物のお店じゃないですか。それなのに320円なんて、勝負を捨てているとしか思えないですよ。


思わずお店に入って、こう言いましたよ。「豚鮭定食くださーい♪」って。わたしは490円の豚鮭定食を食べますから、貧乏人は普通に豚丼を食べて空腹を満たしていなさいと。

牛肉のかわりに豚肉を使うという発想は凡庸だ。ここは、牛乳の代わりに豚乳を使うという荒技に挑戦してほしいものだ。「豚乳」というのは馴染みのない言葉だが、豚だって哺乳類なのだから乳が出るはずだ。

1.10987(2004/03/04) 人を煽らば

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他人に本を薦めるのは難しい。私が読んで面白かった本があなたにとっても面白いとは限らない。つまらない本を読んで時間と金の無駄遣いをするのは勝手だが、他人にそれを強いるとなると話が違う。本を買ってプレゼントすれば相手に金銭的な負担をかけることはないが、別の意味で重荷になることもある。サン・ジョルディの日がなかなか普及しないのは、本を貰って困ることが多いからだろう(どうでもいいが、これには笑った)。

他人に本を薦めることの難しさにはもう一つ理由がある。その本の面白さを誇張して煽れば煽るほど未読の人の期待感が高まり、その結果、現物に触れたときに落胆する危険が増すからだ。この危険を回避しつつ本の紹介をするのは至難の業だ。

そういうわけで、私はあまり他人に本を薦めないことにしているのだが、中には上記の困難を無視してでも薦めてみたい本というものがある。そして、時には調子に乗って、特定の人を煽ってみたりもする。ネット上でそれをやると、いわゆる"馴れ合い"にも繋がる。ネットはもっと殺伐としているべきだと思うわけではないが、よほど注意しないとかなり困ったことになるので注意が必要だ。変な日本語だ。

さて、一月半ほど前に私は次のように書いた。

百聞は一見に如かず。趣味にあわなさそうということと、本当に趣味にあわないということとは別でしょう……と呟いてみる。

……いや、今の今までこんな事を書いたのを忘れていた。幸いお気に召したようでほっとしたが、本当に趣味にあわなかったら、と思うとひやひやする。もうこんな煽りはやめよう。

と、反省したものの、もう一件あったことを思い出した。楽しみ〜!と書かれてしまっている(ここ)ので、びくびくしている。さらに面白くなかったら窓から投げ捨てます。地上の歩行者めがけて力強く。という文章(ここ)を読むと、ますますひやひやびくびくしてしまう。

やっぱり煽りはよくない。本の紹介は控えめに、落ち着いて、地味に、渋く行うべきだ。

そう心に固く決めたのだが……。

 『さよなら妖精』をまいじゃーに薦めた滅・こぉる氏は、畳みかけるように今度は恩田 陸『麦の海に沈む果実』(講談社文庫)を、彼に薦めてあげてくれないかな? 学園青春物だってことにして。

いや、さすがにそれは無理。煽りはしないと決めたから、というわけではなくて、私自身が読んでいない本は薦められない。実は、私は恩田陸は一冊も読んだことがない。特に忌避しているわけではないが、私の守備範囲から微妙に外れているように思えたので自発的に手にとってみる気になったことがなく、誰からも特に薦められなかったからだ。そして、いま私は乱歩と大塚英志と別冊歴史読本を同時並行で読んでいるので、これ以上の手出しはできない。ああ、1日が48時間あったなら……。

と、言いつつ、いま私の机の上には『麦の海に沈む果実』が載っている。いったい私はどうすればいいのだろうか?


おまけ。

669 :名無しのオプ :04/03/04 10:33
滅タンの2日の日記のタイトルが「サムソンとデリ“ダ”」なのが非常に気になる。
670 :名無しのオプ :04/03/04 13:59
俺はその下の『「ざれごと」ではなく゜たわごと」だ』が気になってた。
671 :名無しのオプ :04/03/04 14:51
デリダはわざとだろ。ジャック・デリダのことならん。
(マジレスすまそ)
672 :名無しのオプ :04/03/04 16:18
滅たん、「1日が〜時間」と言われた時、1時間と1日とどちらが不変なのか、
は必ず考えるんだが……。
それより1日が48時間(1時間不変)のとき、自転速度が半分になるわけで、
そのとき地球にどんな変化が起こるのか、の方が自分は興味があるが。
遠心力が小さくなって重力が大きくなるのでどうなるか、とか。
673 :名無しのオプ :04/03/04 19:34
木星では考えられないことです。

「デリダ」は故意(別に意味はないけど)。『゜たわごと」』は誤記なので訂正。遠心力と重力の関係はよくわからないが、赤道上と極点で重力が大幅に違うという話を聞いたことはないから、地球の自転速度が半分になった程度では、その点での影響はあまりないのではないかと思う。

1.10988(2004/03/05) パズルランドのアリス

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0403a.html#p040305a

レイの本ではいつもそうなのですが、奇妙な形而上学的質問があなたをびっくりさせることがあります。たとえば、ハンプティ・ダンプティがアリスに、おまえはあらゆることを考えなければならないのだと語ると、アリスはそれは不可能だとはっきりいいきります〔『パズルランドのアリスII』8章〕。

「(おまえにそれが)できるなんてわしはいっていないぞ」とハンプティ・ダンプティは答えます。「考えなければならないと、いっただけなんだ」

「でも、私ができないことを、私がしなければならないとおっしゃるのは、理屈に合わないんじゃなくって?」

「それは道徳哲学(倫理学)のおもしろい問題なんだ」とハンプティ・ダンプティは答えます。「でもそんなことに足を突っこんだら、本題をひどくはずれてしまうだろう」

たしかにそうでしょう! レイは語ってはいませんが、ハンプティ・ダンプティはヒンティカのパラドックスと呼ばれている有名な問題を出しているのです。これは「可能世界」という流行の新しい哲学学派の指導者ヤーコ・ヒンティカの名がついたパラドックスです。人が行なうことのできない何かを、道徳的にまちがっていると呼ぶことは正当でしょうか? ヒンティカは、何か不可能なことをしようと努めるのはまちがっていることを明らかにするための、名高いが評判のわるい論法を考え出しました。この奇妙な質問は義務論理と呼ばれる様相論理の一タイプに属するものですが、これについては今では大量の文献があります。私たちはキャロルから、ハンプティ・ダンプティが古典論理と意味論に精通していることを知りました。いま私たちはレイから、この卵の化け物みたいな人物は、様相論理にも精通していることを知るのです!

これは先日出版された『パズルランドのアリスI 不思議の国篇』(レイモンド・M・スマリヤン(著)/市場泰男(訳)/ハヤカワ文庫NF)の巻頭の「紹介のことば」(マーティン・ガードナー)の一節で、文中の「レイ」とはこの本の著者であるスマリヤンのことだ。少し長い引用になったが、これでこの本の魅力が十分に伝わったものと思われる。ピンと来なかったらごめん。

『パズルランドのアリス』は長らく私の探求本だった。最初に図書館で借りて読んでから十余年を経て、ようやく入手したのが2年前のこと。その少し後に版元の社会思想社が倒産して、幻の本になってしまったが、このたび「不思議の国篇」「鏡の国篇」の二分冊でハヤカワ文庫から復刊されることになった。めでたい事だ。「鏡の国篇」はまだ出ていないが、まさか「不思議の国篇」だけで頓挫することはないだろう。

私は本の増殖に悩まされているので、版が変わったからといって同じ本を買うことはあまりないのだが、『パズルランドのアリス』は特別な思い入れのある本なので、あえて買い直すことにした。社会思想社版はハードカバーで持ち運びに適していなかったが、文庫だと電車の待ち時間などに気軽に読むことができるので便利だ。もっとも文庫版でも内容はハードなので、何かの合間に読んで理解できるかどうかはわからないが。

さて、上で引用した箇所の後半を社会思想社版からも引用して対比してみよう(異同箇所を強調しておいた)。

たしかにそうでしょう! レイは語ってはいませんが、ハンプティ・ダンプティはヒンチッカのパラドックスと呼ばれている有名な問題を出しているのです。これは「可能な諸世界」という流行の新しい哲学学派の指導者ジャーコ・ヒンチィッカの名がついたパラドックスです。人が行なうことのできない何かを、道徳的にまちがっていると呼ぶことは正当でしょうか? ヒンチッカは、何か不可能なことをしようと努めるのはまちがっていることを明らかにするための、名高いが評判のわるい論法を考え出しました。この奇妙な質問は義務論理と呼ばれる様式論理の一タイプに属するものですが、これについては今では大量の文献があります。私たちはキャロルから、ハンプティ・ダンプティが古典論理と意味論に精通していることを知りました。私たちはレイから、この卵の化け物みたいな人物は、様式論理にも精通していることを知るのです!

「可能な諸世界」はおそらく"possible worlds"、「様式論理」は"modal logic"だろう。今の感覚ではおかしな訳語だが、社会思想社版が出版された1985年当時にはさほどでもなかったのかもしれない。「ヒンチッカ」の原綴りは"Jaako Hintikka"で、検索してみると「ヒンティカ」よりも「ヒンティッカ」のほうが、やや優勢。フィンランドの哲学者で、可能世界意味論の創始者の一人として有名だ。


どうでもいい事を書いているうちに、妙に時間を食ってしまった。今日はほかに書こうと思っていた話題があったのだが、果たせなかった。まあ、別にノルマがあるわけではないのだから、何も問題はない。

1.10989(2004/03/06) 丸い四角は素数ではない

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Nachklang /日々の残響『これが現象学だ』の「丸い四角」の件への批判を読んだ。非常に興味深い内容だ。じっくり検討してみたいのだが、手許に『これが現象学だ』(谷徹/講談社現代新書)がない。いや、ないはずはないんだ。捨てたり売ったりした覚えはないのだから。だが、見つからないものは仕方ない。仕方がないったら仕方がない。ちょうど私の机の上に『血ぬられた鏡像』(和久俊三/講談社文庫)があるので、それで代用することにしよう。

「うむ。やっぱり、"あいつ"は化け物だ。人間ではにゃぁでいかんわね」

赤かぶ検事は、空恐ろしくなってきた。

"あいつ"が、復讐をたくらみ、またぞろ、誰かに化けて闇の世界を跳梁するのではないか。

それが懸念された。

著者は別人だが、版元は同じ講談社だし、紙やインクの成分にも大差ないだろうから代わりに使えるかと思ったのだが、どうもうまくいかない。

挫折した。

立ち直った。

さて、フッサールが「丸い四角」について実際にはどう考えていたかということにはあまり興味がなく、フッサール的には「丸い四角」についてどう考えるべきかということには多少関心がある程度の私にとって、もっとも興味深かったのは、次の一節である。

まず、一番酷い仕方の反論から。谷の「丸い四角」の議論は、端的に無意味である。「丸い四角」は無意味である。このことはすでに確認した。そして谷によれば、「無意味は、そもそも、真理にも誤謬にも関わることができない」(前掲書、92頁)。つまり、無意味なものについて、真偽を問うことはできない。そうすると、無意味なものを含んだ言明について、その真偽を問うことができなくなってしまうのではないか。少なくとも谷の記述を(やや意地悪なしかたで)額面どおりに受け止めるかぎりでは、そのように理解することができる。このような理解にもとづくと、恐ろしいことに、谷が無意味なものについて述べた『これが現象学だ』の一節は、真偽を問えるようなものではなく、端的に無意味である。

続いてこれは自分で書いていて酷いと思えるほど意地悪で、あまりセンスのいい反論の仕方ではないと思う。と書かれているので、今引用した箇所が『これが現象学だ』批判の要点でないのは確かだが、これはこれで面白い。

ここでの議論の構造を私なりに整理すると次のとおり。

  1. 『これが現象学だ』では「丸い四角」は無意味だと言われている。
  2. 『これが現象学だ』では無意味なものは真理にも誤謬にも関わることができないとも言われている。
  3. 無意味なものを含んだ言明は真偽を問うことができず、無意味である。
  4. よって、『これが現象学だ』で言われている事柄(1と2)を認めるならば、『これが現象学』の「丸い四角」の議論そのものが無意味となってしまう。

あまり厳密な整理の仕方ではないが、今はこの議論の論理的妥当性を問題にしているわけではないので、これくらいで十分だろう。

何かある主張に対して、その主張自体から非常に受け入れがたい帰結が導かれることを示して反論するのは、非常に有効なやり方である。この手法は、しばしば揚げ足取りだと言って非難されるので、日常生活で無造作に行うと人間関係をまずくすることがあるが、学問の世界では揚げ足取りをされるほうが悪いのだから問題ない(と言い切ったが、現実にはそれほど簡単でもないようだ)。

さて、上で整理した議論の1と2は、批判対象である『これが現象学だ』から引っ張ってきた主張だ(と思うが上述のとおり私は現物で確認していない)から、文句のつけようがない。問題は3だ。これも『これが現象学だ』で言われていることか、あるいは明示的には言われていなくても当然のこととして前提されていることなのかどうか。もしそうなら『これが現象学だ』に対する有効な反論として認められるだろう。そうではなくて、3が筆者独自の意見なのだとすれば、3がもっともな主張であることを何か別の論拠をもって示さない限り、この反論の説得力は著しく弱まることだろう。

なお、ここでの議論の脈絡を離れて一般論として述べるなら、無意味なものを含んだ言明について、その真偽を問うことができなくなってしまうとは必ずしもいえないと私は考える。その理由を説明しようとすると長くなるので省略。

最後になったが、『血ぬられた鏡像』は1993年に角川ホラー文庫から出たものの再刊である。当時「なんでホラー文庫で赤かぶ検事奮戦記が?」と訝った覚えがある。あれからもう10年以上経ち、フランキー堺はもはやこの世の人ではない。合掌。

1.10990(2004/03/07) 一字の違い

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0403a.html#p040307a

うたたねこや『さよなら妖精』の感想文で書かれている、ある固有名詞(そろそろ解禁時期だと思うが、念のため私は伏せておく)について。その末尾の文字に着目。作中ではヒロインの台詞でのみ「ヤ」で、地の文や他の人物の台詞では一貫して「ア」となっている。

どうでもいいことだといえばどうでもいいのだけれど、こんな細部にまで作者が丁寧に気を配っていることに好感が持てる。でも、校正係の人は大変だったろう。


ついでに(誰も関心はないと思うが)『血ぬられた鏡像』(和久俊三/講談社文庫)の地の文は1箇所を除いてすべて1文ごとに改行している。ライトノベルでもそこまでやるのは少ないのではないか。

1.10991(2004/03/07) 長くなるので省略

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0403a.html#p040307b

昨日の続き。ただし、ちゃんと続いているかどうかは保証の限りではない。

ある言語表現が有意味であるということは、いったいどういうことなのか? その表現が何らかの事物や事態に対応しているということなのか? それとも、別の基準があるのか? あるいは、有意味性とはそれ以上遡って考えることが不可能な事柄なのか?

間口を広くとると、さまざまな視点が考えられ、なかなかまとまらない。どうせ今日の文章はまとまった結論に達しないに決まっているのだが、最初から空中分解してしまうのは情けない。そこで、独断と偏見に基づき、思い切って問題を絞り込んでしまおう。以下の文章で取り上げる言語表現は、文なら平叙文のみ、文の要素としては名詞または名詞句に限定する。また、コミュニケーションの現場を度外視して、基本的に意味論の分野のみについて考えることにする。

さて、ある表現は明らかに有意味である。たとえば「赤い丸」とか「黄金の王冠」など。私は赤い丸は見たことがあるが、残念ながら黄金の王冠は見たことがない。だが、探せばどこかにはあるだろう。「赤い丸」「黄金の王冠」はともに、この世に存在する事物を言い表している。

では、「黄金の山」はどうか? 山盛りにされた金塊のことだと解釈するなら、これも探せばどこかにあるかもしれない。しかし、文字通りの山、丘よりも高く盛り上がった地形のことだと解釈するなら、世界中を探しても「黄金の山」と呼ばれるような場所はどこにもない。では、「黄金の山」という言語表現は無意味だ(=有意味ではない)ということになるのだろうか?

それは違うだろう、と何となく思う。言語表現が言い表したり指し示したりするものが現実には存在しないとしても、その言語表現が無意味だということにはならないだろう、と。本当に無意味な言語表現というのは、たとえば「丸いしかしそして」のような、まったく何を言っているのかちんぷんかんぷんなもののことだ。「黄金の山」だと、少なくともどういう山なのか、想像してみることは可能だ。絵心がある人なら、イメージを絵に描いてみることもできるだろう。

ここで、想像可能であるということ、またはイメージできるということとはどういうことか、という新たな問題が生じるわけだが、今は頬被りしておく。とりあえず、有意味な言語表現の中には、現実に存在する事物に対応するものもあればそうでないものもあるということだけ確認しておこう。

では、ある言語表現が有意味であるのか、それとも無意味であるのかは何によって決まるのか? 「有意味である」というのは「意味を有する」ということだから、ある言語表現が意味を有するとき、かつそのときに限り、その言語表現は有意味である、と言ってよさそうな気もする。だが、そう言ってしまうと、言語表現の意味とは何か、というさらに厄介な問題を引き起こすことになる。ここはちょっと慎重に考えなければならない。

さて、明らかに有意味な言語表現と明らかに無意味な言語表現の間には、どちらとも言えそうで、どちらとも言い難い無数の表現がある。たとえば「赤い素数」はどうか? これは「赤い丸」と同様に「形容詞+名詞」という形をとっているので「丸いしかしそして」のような文法違反ではない。だが、「赤い素数」と呼ばれるようなもの(数?)を我々は想像したりイメージしたりすることはできない。また「赤い緑」はどうか?

ある考え方によれば、「赤い」という形容詞は形あるものを表す名詞(または名詞句)のみを修飾するものだから「赤い素数」や「赤い緑」はその"文法"に違反するが故に無意味である。この考えを発展させれば、言語表現が有意味かどうかは、その言語表現が"文法"に従っているかどうかにより決まる、という仮説を立てることができるかもしれない。でも私はこの考え方はなんだか嫌だ。「文法」という語を拡張しすぎだから。

「丸いしかしそして」と「赤い素数」とでは事情が異なる。そして、「赤い素数」と「赤い緑」も少し違っている。では、これら三者に共通しているのは何か? ――それらが表している事物が想像できないということ、イメージできないということだ。

あー、そう言ってしまうと、さっき頬被りした問題に真っ正面から向き合わないといけなくなる。私はカレーライスにコカコーラをぶちまけて10時間煮込んだ味を想像できないが、かといって「カレーライスにコカコーラをぶちまけて10時間煮込んだ味」という言語表現が無意味だとは思わない。正一京角形をイメージすることはできないが「正一京角形」という言語表現が有意味ではないとも思わない。もう少しましな特徴付けはできないものか。

たとえばこんなのはどうか。カレーライスにコカコーラをぶちまけて10時間煮込んだ人は実際にはたぶんいないだろうが、それは不可能なことではないのだから、もし実行すればどんな味なのかはわかる。正一京角形はたぶん描こうと思っても描けないだろうが、論理的に不可能な図形ではない。黄金の山も現実には存在しないけれど、存在することが不可能だということではないだろう。

では、ある事柄が論理的に可能であるとはどういうことか、という難問が新たに……なんだかこんなのばっかりだ。なかなか話が先に進まない。

ところで、「丸い四角」はどうだろうか? 丸いものには角がない。四角には角がある。だから「丸い四角には角があって角がない」。この文は明らかに矛盾だ。矛盾したものが存在するのは論理的に不可能だ。よってこの文の主語である「丸い四角」は無意味な言語表現だ。そう考えていいのだろうか?

いよいよ訳が分からなくなってきた。考えの道筋にどこか大きな欠陥があるに違いない。

そこで全然別の考え方を導入する(とはいえ、論理的可能性を持ち出したときに既に密導入していたのだが)。それは、言語表現の有意味性について考える際に、語を基本的な単位とするのではなく、文を基本的な単位とするという考え方だ。ある文が有意味であるとき、その文を構成する語も有意味である。逆に、ある文が無意味であるとき、その文には無意味な語が含まれるかまたは文法的に適切に構成されていない。そして、ある文が有意味であるということは、その文の真偽を問うことが可能ということだ。

……と議論が見え透いた転回を遂げたところで、先を書き続ける意欲が失せた。せっかくのレスにもコメントする元気がない。これでおしまい。

1.10992(2004/03/08) もし1日が48時間だったなら

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0403a.html#p040308a

先日「もし1日が48時間だったなら」と考えるとき、我々はふつう1時間の長さは現実と同じで、1日の長さが倍であるような状況を想定する。逆に1日の長さは現実と同じで、1時間の長さが半分であるような状況は考えない。と書いた。だが、本当にそうだろうか? 気になって後輩に電話して「もし1日が48時間だったなら」に続けて文を完成させるように求めた。すると、後輩が挙げた例は……

もし1日が48時間だったなら、1日に2回日が昇るだろう。

というものだった。

これは私の思いこみを超えたもので、非常に驚いた。もし、誰もがこのような例文を容易に思いつくのだとすれば、私は自らの発想力の貧困さを恥じなくてはならない。

私は打ちひしがれた。

すぐに気を取り直した。

都合の悪いことは忘れよう。そして、自分の考えの及ぶ範囲で話を進めよう。

さて、現実には1日は24時間である。細かい話をすれば、閏秒が挿入された日はきっかり24時間かどうかは疑わしい。「閏秒が挿入された日もやはり24時間である。そのうちの1時間が他の23時間の各々よりも1秒だけ長いだけだ」と言い抜けることも可能だろうが、今はそこまで強弁しない。1日はだいたい24時間であるということにしておこう。

さて、1日は48時間ではない。それがわかった上で「もし1日が48時間だったなら」と仮定するのは反実仮想である。たとえば「もし邪馬台国の所在地が大和だったなら」という仮定とは異なっていることに注意。知らない事柄について仮定するのと、知っている事柄をあえて曲げて仮定するのとでは、仮に言語表現のレベルとしては類似したものになるとしても、自ずと別の枠組みに従って思考しているはずである。だが、反実仮想の考え方一般にまで話を広げると収拾がつかなくなるので、ここではこの問題にあまり立ち入らないことにしよう。

さて、「もし1日が48時間だったなら」という反実仮想が成立するためには、"日"か"時間"のどちらかの長さを変えなくてはならない。変更の仕方は3通りある。

  1. "日"の長さをそのままにしておき、"時間"の長さを半分にする。
  2. "時間"の長さをそのままにしておき、"日"の長さを倍にする。
  3. "日"の長さと"時間"の長さの両方を変更して「1日=48時間」となるように調節する。

反実仮想が現実に反する状況を想定するものだといっても、どこかで現実と接点をもっていなければならない。すると、"日"と"時間"の両方を変更してしまう3番目の方法はちょっと採用しにくい。いちおう論理的な可能性を尽くすために掲げておいたが、これ以上検討する気はない。

さて、1と2は一見したところ対称的であるように思われる。しかし、我々が「もし1日が48時間だったなら」と考えるとき、1の場合はまず想定しない。上で紹介した後輩の例文は非常に奇妙なものではあるが、それでも2の場合に含まれることは確かだ。

では、今みた見かけ上の対称性を打ち破るものは何なのだろうか? これが私の問いである。

"日"という単位は地球の自転により決まっている。地球が一回転する時間がだいたい1日だ。地球は自転するとともに公転もしているので、1日の長さを厳密に述べようとするとちょっと面倒になるが、今はおおまかに「1日=太陽が南中してから次に南中するまでの間」と考えておくことにしよう。

では"時間"という単位はどうか? これは1日を24等分したものだ。なんで24に分けるのかは知らない。昔の日本では12分割(ただし、12等分ではなく昼と夜をそれぞれ6等分するほうが一般的だった)していた。日常生活での使いにくさを無視すれば、別に13等分でも41等分でもよかったはずだ。ともあれ、"時間"は"日"から派生した単位であるということが重要だ。ここにおいて、先にみた見かけ上の対称性は破られる。

いや、ちょっと待て。"日"が基本的な単位で、"時間"が派生的な単位だとすれば、反実仮想の場では、基本的な単位をそのままにして派生的な単位のほうを変更したような状況を考えることになるのではないか? 現実の歴史の流れとは異なり1日が48等分されて、その各々を"時間"と呼んだような仮想的状況とは、すなわち上の3通りのうちの1である。

これでは話が逆だ。

もう一度考え直そう。"日"は地球の自転という自然現象により規定されている。他方、"時間"は"日"から派生したものではあるが、その切り分け方は人間の都合によるものであり、ある意味では歴史的偶然に基づく。その意味で"時間"は恣意的な単位と言うこともできる。もっとも「恣意的」という言葉は誤解を招きやすい。かわりに「規約的」と表現することにしよう。

"日"は自然的な単位であり、"時間"は規約的な単位だとすると、それぞれの長さの変更は全く別の意味をもつことになる。"日"の長さを変更するということは自然のあり方を変更するということであり、"時間"の長さを変更するということは人間の取り決めを変更するということにすぎない。「もし1日が48時間だったなら」という反実仮想は、単なる取り決めではなく、実質的に世界が現実とは異なるような状況を仮定するものであるから、"日"のほうを変更することになるのだ。

実際には、人間の生活の大部分は人間が取り決めた事柄に左右されている。確かに自然の動向は重大だが、人工的な規約が瑣末なものだということにはならない。だが、ことさら反実仮想を行おうとするとき、実際にでもやろうとすればできる規約の変更は軽く見られ、やろうにもできない事柄について仮想するのだ。これが「もし1日が48時間だったなら」という反実仮想の場の背景にある原理なのである。

……とまあ、こんなふうに考えた。

冒頭に掲げた後輩の例文は、今述べた私の考えには当てはまらない。そこでは"日"と地球の自転との関係が断ち切られているからだ。1日が48時間(1時間不変)のとき、自転速度が半分になるという発想とは正反対である。だが、既に述べたように、私は自分にとって都合の悪いことは忘れることにしている。よって、反例など存在しない!


あー、こんな話に興味はない? そうですか。なら、お口直しにこちらでも。

いや、ほんとは私もこんな感じでまとめたかったんだけど……。

1.10993(2004/03/09) どうして人を殺してはいけないのか?

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0403a.html#p040309a

反語や修辞疑問ではなく素朴な問いとして立てられた「どうして人を殺してはいけないのか?」という問いは私にとってあまり魅力のあるものではない。この問いに対しては「当たり前だ」としか答えられないからだ。

「どうして人を殺してはいけないのか?」という問いは、「人を殺してはいけない。それはどうしてか?」と言い換えることができる。この問いを立てるためには、人を殺してはいけないということを知っていなければならない。もし知らなければ「それはどうしてか?」と問うこともできない。

「知っている」という動詞は多義的である。ある意味においては、信念を含意する。だが、ここではそこまで強い意味に解する必要はないだろう。人を殺してはいけないということ自体に疑念を抱いていても構わない。その疑念に重きを置くと、最初に掲げた「どうして人を殺してはいけないのか?」がもはや素朴な問いではなくなってしまうので、当面の私の考察からは外れてしまうことになるが。

さて、人を殺してはいけないということを知っている人は、当然のことながら人を殺すということがどういうことかも知っているはずだ。また、やってはいけない事というのがどういうことなのかも知っているに違いない。もし、このどちらか(または両方)を知らないなら、人を殺してはいけないということを知っているとは言えないだろう。

もちろん、人を殺すということはどういうことかを知っているということは、いついかなる場合にも殺人と殺人でないものとを区別できるということではない。私は東京がどこにあるのかを知っているが、東京と東京以外を隔てる境界を十分に知っているわけではない。私の東京についての知識は漠然としているが、それでも私は東京がどこにあるのかを知らないということにはならない。

さて、やってはいけない事とは例えばどのような事か? 窃盗、強姦、放火、剽窃などさまざまな事柄が考えられる。だが、今挙げた事柄のどれにもまして典型的な事柄がある。それが殺人である。もし、ある人が「自分はやっていい事とやってはいけない事の違いはだいたいわかっているが、殺人がどちらに含まれることなのかは知らない」と言ったなら、その人は実はやっていい事とやってはいけない事の違いをちゃんと理解していないのだと判断せざるを得ない。我々の了解している、やってはいけない事の中心には殺人がある。

すると、人を殺してはいけないということを知っているためには、やってはいけない事の中心がまさにその人を殺すことだということも知っていなければならない。そして、やってはいけない事についての理解の中心に殺人が据えられている以上、「どうして人を殺してはいけないのか?」という問いは、もはや素朴な問いとしては立てることができない。よって、「当たり前だ」としかこたえられない。

たとえば「やってはいけない事の理解から殺人を取り去っても、やはりやってはいけない事についての理解は保存されるのか? もし保存されるのだとすれば、その理解をもとにして、殺人がやってはいけない事であると判断できるか?」という問いなら検討の余地がある。だが、これは最初に掲げた問いとは別物である。


上の文章を一気に書き上げたのち、少し時間を置いてから読み返すと論証が不十分なように思えてきた。規約的な事例(たとえば「どうして1mは100cmなのか?」)と比較検討してみる必要があるかもしれない。ともあれ、「どうして人を殺してはいけないのか?」という問いを素朴な問いとして立てることが難しいことは確かだ。素朴であろうとすれば、足下の地面を掘り崩してしまう。確固とした地盤の上に立つと、問いに文字通りの意味以外の含みが忍び込む。

1.10994(2004/03/09) 素朴な疑問

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0403a.html#p040309b

私のサイトにアクセスする人は、いったい何が面白くてこんなところを見ているのだろうか? 不思議だ。

はてなアンテナに「たそがれSpringPoint」を登録している人のサイトを見に行っても、サイトの傾向が私と似ている人はあまり多くはない。気になって、未公開アンテナの主のサイトもわかる限りは見に行く(はてなダイアリーに登録している人なら、http://a.hatena.ne.jp/××のaをdに変えると日記にアクセスできる)のだが、私が書いているのと全然別の話題を取り上げているところが多い。書くのと読むのとでは別だから、それはそれで不思議はないのだが、隅から隅まで読んでみても私との接点が感じられず、首を傾げることが多い。

もともと私の関心は一般の人々とはかなりずれていて、かといって唯一無二の比類なき存在というわけではなく似たようなこと考えてより面白く書いている人はほかにいるわけで、そう考えるとあってもなくても同じようなものだと思えてくるのだが、それでもせっかく手間暇かけて文章を書いているのだから、多少とも関心のある人に楽しんでもらえるものを書きたいと願っているのだが、ふだんの私の文章は必ずしもその願望にかなうものにはなっていない。ここで文を切って改行する。

では、どうすればもうちょっとはましな文章が書けるものか? 考えてもいい知恵は浮かばない。もともと私の関心は(中略)なので、自分の考えだけでは読者の需要にかなったものにはならないのだ。本当はアンケートでも実施すればいいのだろうが、それは面倒なので、かわりに私のサイトをアンテナに登録している人のサイトを見て参考にしようと思うわけだ。それで何かヒントやきっかけが掴めれば、みるみるうちに文章が上達し、ユーモアとウィットが溢れ、しかも実用的で明日から使えるネタをふんだんに盛り込んだ人気サイトにできるかもしれないから。

しかし、最初に書いたように、私のサイトとは何の関係もなさそうな話題を扱っているサイトのほうが多くて、そのようなサイトを運営している人が何を望んでいるのか、どのような事柄に興味を感じているのかが容易には見当がつかない。結局、私は今までと同じように、自分で考えて自分で面白いと思った話題ばかりを書き連ねることになる。でも、後で読み返してみると、思ったほど面白くないのが困りものだ。

と、こんなふうに適当に思いついたことを書きとばしていると、いつまだ経っても終わらない。そろそろ眠たくなってきたので、特にオチはないけれどこれでおしまいにしよう。

あ、そうそう。今日、ようやく『Fate/stay night』のタイガー道場全ステージをクリアした。総プレイ時間45時間半。長かった。これで本当におしまいだ。MYSCON前にクリアできてよかった。

1.10995(2004/03/10) サ店のマーメイド

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0403a.html#p040310a

飢えたたこは自らの足を食う。だったら、飢えた足もまた自らのたこを食うに違いない。たこを食い尽くしたら、次はうおのめだ。うおのめがなくなると、指を一本一本食ってゆき、そのうち足全体を完全に食ってしまう。そして最後には、おあしがなくなるのだ。

ここに触発されて下らないことを書いてしまった。もちろんリンク先が下らないと言うつもりはない(が読者諸君がどう思おうと自由だ)。


明日の夜、私は夜行バスに乗って東京へ行く。東京は去年の冬コミ以来だ。いつもなら東京方面の知り合いに声をかけるのだが、今回はMYSCONまで完全単独行動だ。前に書いたように、日立電鉄に乗りに行く予定だ。


素顔のままでの3/8付の記事について一言。そこで例示されている「赤い素数」は「表中で赤い数字で表示された素数」の省略である。コミュニケーションの現場では有意味な表現とみなしてさしつかえないが、ここでの私の議論とは関係がない。