日々の憂鬱〜2002年10月下旬〜


1.10409(2002/10/21) 早起きすると夜眠くなる

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0210c.html#p021021a

 そんなわけで、今日も簡易更新ですませる。明日も5時起床だ。

 読んでいるときは面白いし、読み終えた瞬間には「これは傑作だ!」と叫びたくなるほどなのに、しばらく経つと印象が薄れて、次第に「実はそれほどたいした出来ではなかったのでは?」と思うようになる小説がある。先週読んだ『盤上の敵』(北村薫/講談社文庫)がそうだった。なぜ、そんなふうに思えてくるのか考えてみると、この小説は(というか北村薫の小説は全部そうだけど)ちょっとしたエピソードや細かな表現が非常に上手で、読んでいる最中には文章の魔力に酔わされてしまうが、時間が経つと、細部の描写を忘れてしまって、小説の骨格しか記憶に残らないからではないか。と、そんなことを書くと、『盤上の敵』の構造や仕掛けには面白みがない、と暗に言っているかのようだが、別にそこまで言いたいわけではない。ただ、ちょっと物足りなかったという気がするのだ。
 そんな気がする、と言うのは簡単だが、なぜそんな気がしたのかを説明するのは大変だ。今日はあまり長い文章を書く余裕はないし、短くまとめるにはもっと時間がかかる。そういうわけで、この話題は次回に続く。
 参考までに風野春樹氏の感想文にリンクを張っておく。「正面から批判すべき欠点というわけではないが、どうしても拭い去ることができない違和感」を――それは言語化するのが難しいのだが――うまく表現していて、大いに納得。私の感じた物足りなさも、同じくらい明晰に言い表せればいいのだけれど。

 http://maijar.org/が完全復活し、臨時運営場所は閉鎖された。今後はミラーサイトになる予定だそうだ。
 復活記念のプレゼント企画として

が放出されるそうなので、興味のある方はどうぞ。
 私? 『マリみて』はもう持っているし、積みゲーが増えるのは怖いので遠慮しておく。
 それよりも、
追伸:なお、ライトノベルファン度調査はCGIテストも開始しているので今週中には発表できるかと。350?下手すりゃ400作品か?
こっちのほうに注目したい。本格ミステリファン度調査が始まった直後から話題になっていた「ライトノベルファン度調査」がいよいよ現実のものとなるのだから。

 久しぶりに復活したSHADOW Ver.6.010/4付の記事(私が見落としていたのでなければ、アップしたのは今日のはずだ)に、

余談だが、読んでいて滅・こぉる氏の文体が頭をよぎった。
という一文があった。ちょっと意外だった。その人の文体は一つの理想ではあるのだが、私はその理想の足下にも及ばないと思っているし、意識的に文体を真似たことはない。その本に限れば、この辺が何となく似ているような気がしないでもないが、でもやっぱり似ていないように思う。
 ちなみに、私が文体上で大きな影響を受けたのは、その人の先輩にあたる人物の文章である。一時期ほとんど文体模写に近いことすらやっていた。未だに、文中に「(?)」を使う癖があるのは、その名残だ。

1.10410(2002/10/22) 早起きが続くと体調が崩れる

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0210c.html#p021022a

 昨日『盤上の敵』(北村薫/講談社文庫)の物足りなさについて「次回に続く」と書いてしまったので、続けて書かなければならないのだが、今日もかなり疲れ気味なので、さらに次回に回すことにする。要するに「これはチェスになっていない」と言いたいだけなのだが……。

 冬野佳之氏からメールが届いた。件名が「VNIデビューおめでとうございます」となっていたので驚いたが、用件は来月の旅行のことだった。某方面の期待に応えるために一日だけちゆフォーマットを使ってみようか、と一瞬思ったのだが、さすがに時期的にズレ過ぎているのでやめた。
 VNIといえばななめよみ。経由で栞16歳からのラスト・メッセージを読んでいろいろと考えたが、うまくまとまらないので省略。

 髑髏島の惨劇で検索して「たそがれSpringPoint」に来る人がちらほらいるのだが、まだ積ん読状態だ。このまま読まずじまいになるかもしれない。なんでこんな本を買ってしまったのだろう。

 明日も早朝5時に起きなければいけない。では、おやすみなさい。

1.10411(2002/10/23) 早起きはもうおしまい

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0210c.html#p021023a

 『盤上の敵』(北村薫/講談社文庫)の目次を見ると「第一部 駒の配置」の「第一章 黒のキングが盤上に置かれる」と、「中入り 観戦者の視点」を除くすべての章題に「白のキング」か「白のクイーン」が入っている。つまり、"最初の一手"を除いては、"白の指し手"ばかりが記述されていて、"対戦相手"である"黒"の側の記述がない。いや、記述されていない、というだけではない。"黒"は"対戦"の間ずっと"パス"を繰り返し、"白"の思うがままに攻められ、最後には"詰まされて"しまっているのだ。私はこの点に物足りなさを感じた。
 主人公の末永純一は苦境に立たされている。彼は警官隊に包囲された自宅から立て籠もり犯の石割強治を脱出させ、かつ、石割を打ち倒さなければならない。この二つの条件をクリアしないと、妻の友貴子を窮地から救い出すことができないのだ。読者は――いや、この言い方はアンフェアだ。言い直そう――私は、彼がどのような手段を用いて、この困難事を成し遂げるのかに興味をそそられた。作者の思う壺だ。
 予想もしないところから一撃を食らい、私は驚いた。作者の技巧に感心し、拍手を送りたくなった。これこそミステリの醍醐味だ。だが、その一撃から立ち直って先を読み進めると、事はあまりにもあっけなく収束を迎えてしまった。警察はボンクラで、石割は単純馬鹿だ。末永が考えた(さして機知に富んでいるとは思えない)戦略が何の障害もなく成功してしまうのだから。知略の限りを尽くした心理戦もなければ、相手の裏をかいて出し抜くための罠や仕掛けもない。登場人物をチェスの駒に見立てた趣向がまるで生かされていない。
 もちろん、チェスの見立てだからといって、小説で棋譜を書くわけにはいかないのだから(『鏡の国のアリス』のことは忘れよう!)、別にこの事は『盤上の敵』にとって欠点だというわけではない。ただ、欲張りな私は、読者を後ろから殴りつけるだけではなく前からもパンチを入れてほしかった、と思ってしまう。文庫版で約350ページの長編小説なのだから、それだけの内容を期待しても罰は当たらないと思うのだが……。

 『陸小鳳伝奇』(古龍(著)/阿部敦子(訳)/小学館文庫)を読んだ。古龍は金庸と並ぶ武侠小説の大家で、私は今年2月に『多情剣客無情剣』を読んで感激し、続けて他の作品も読んでみようと思っていたのだが、他に読む本が多くて、つい先延ばしにしているうちに半年が過ぎてしまった。『陸小鳳伝奇』も面白かった(『多情剣客無情剣』に比べるとちょっと軽めの話だが)ので、このまま邦訳のある古龍の小説を全部読んでみようかとも思うのだが、既に品切れになっている本もいくつかあって入手が面倒だし、古龍ばかりではなく金庸も読んでみたいし、それよりも積ん読本を片づけるほうが先……というふうに、相変わらずふらふらしている。

 なんとなく伏見稲荷大社のサイトを見た。URIはhttp://inari.jp/だ。火焚祭に行ってみたいが、11/8は金曜日なので難しそうだ。
 全然脈絡はないが、世界のCMフェスティバル 2002にも行ってみたい。

 カエレ!〜招かざる厨房たちへ〜押し掛け聖戦を読んで

夕べは泣いたけど彼女のしでかした事の中で一つ
お互いに2ちゃんねらーであることがわかり、私たちの愛は
より深まりそうです。
という一節が何となく気に入った。本当に「何となく」なので、説明はできないけれど。

 どうも調子がでない。延々と続くだらだらと長い文章が書けなくなってしまった。休養をとって再起を図ることにする。

1.10412(2002/10/23) 取り急ぎ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0210c.html#p021023b

 今日も眠いのでさっさと寝てしまおうと思っていたのだが、その前に定期巡回サイトを一通りチェックしておこうと思ったのが運の尽きだった。凄い文章を読んでしまった。いや、これまでも凄かったのだが、今回は凄さの程度が桁違いで、でも語彙が貧困な私はやはり「凄い」としか言いようがない。多くは語るまい。是非リンク先の文章(【10/23@マリみて道:特別編『白き花びら』徹底解法】)を読んでみてほしい。読者に甘い文章ではないので、読むのに多少の労力が必要かもしれないが、それだけの価値はある筈だ。

1.10413(2002/10/24) 注文の多い特別料理

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0210c.html#p021024a

「ウチでは妙な食材は使ってませんぜ」と言って、店主はにやりと笑った。

1.10414(2002/10/25) 抱腹絶倒

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0210c.html#p021025a

 先日から『どんどん橋、落ちた』(綾辻行人/講談社文庫)を読んでいて、今日読み終えた。そこで職場の近くの本屋で買ってきたのが『日本システムの神話』(猪瀬直樹/角川oneテーマ21)である。裏表紙に「太宰治が道路公団民営化を予言」とか「大蔵省で三島由紀夫が大臣スピーチ原稿を没にされた」という、何だかよくわからないが面白そうなことが書かれていたからである。
 まだ半分くらいしか読んでいないので、太宰治云々の話がどういうことなのかはわからないが、「三島由紀夫が……」のほうは単なるこぼれ話であまり面白くはなかった。その代わりに(?)非常に面白い一節があったので、紹介しておこう(94ページ)。文字色を変えた箇所(もちろん原文ではそこを強調しているわけではない)に着目してほしい。

 民営化されたJRは、秋田新幹線や山形新幹線をつくった。いわゆるミニ新幹線である。JRは狭軌の在来線と新幹線のレールの両方を走れる車両を開発し、それを走らせることによって在来線をうまく活用した。巨額の土木投資を行わなかった結果、フル規格の新幹線にくらべコストは十分の一である。山形や秋田に新幹線を接続させて住民のニーズに応え、かつ採算をとっている。
 高速道路もこのミニ新幹線に学ぶべきだ。
 ううう……誰かこの文章をチェックする人はいなかったのだろうか?
 上の引用文は道路公団民営化を主張する文章の一部なので、ミニ新幹線とフリーゲージトレインの区別がどうこうという細かい話ではなく、文脈に沿った形でツッコミを入れるべきなのだが、資料調べが面倒なので省略。
ところで新幹線といえば、今年12月に東北新幹線の盛岡−八戸間が開業する予定だが、これは全線フル規格である。一時期、一部ミニ新幹線にするという案もあったのだが、紆余曲折の結果こうなった。

 『どんどん橋、落ちた』の感想は書かない。しめっぽくなりそうだから。

1.10415(2002/10/26) 憂鬱で感傷的なワルツ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0210c.html#p021026a

 昨日読みかけていた『日本システムの神話』(猪瀬直樹/角川oneテーマ21)の続きを読んだ。全体的に繰り返しと無駄が多い冗長な本だった。内容を精査して刈り込めば三分の一くらいの厚さになったはずだ。「太宰治が道路公団民営化を予言」については言わぬが花だろう。
 ところで昨日の文章を書いているときに、ふと「昭和の三大バカ査定」という言葉を思い出した。整備新幹線について大蔵省の主計官が言った言葉だったと思うが、あと二つは何だったろう? 青函トンネルだったか、戦艦大和だったか……。そこで「昭和の三大バカ査定」に言及しているサイトをいくつか見てみると、

  1. 「戦艦大和・武蔵」「青函トンネル」「伊勢湾干拓」
  2. 「戦艦大和」「青函トンネル」「整備新幹線」
  3. 「戦艦大和」「青函トンネル」「整備新幹線」
  4. 「万里の長城」「戦艦大和」「青函トンネル」(世界の三大バカ査定)
  5. 「ピラミッド」「万里の長城」「戦艦大和」(文末に註釈あり)
  6. 「戦艦大和」「伊勢湾干拓」「青函トンネル」「整備新幹線」(昭和の4大バカ査定)
  7. 「戦艦大和」「鍋田湾干拓」「青函トンネル」
  8. 「戦艦大和・武蔵」「青函トンネル」「整備新幹線」
  9. 「戦艦大和・武蔵」「青函トンネル」「伊勢湾干拓」
  10. 「戦艦大和」「青函トンネル」「整備新幹線」
  11. 「戦艦大和」「青函トンネル」「整備新幹線」
  12. 「戦艦大和・武蔵」「青函トンネル」「伊勢湾鍋田干拓」
というふうに、バラバラだった。
 どうやら「昭和の三大バカ査定」は、1987年に当時運輸省担当の主計官だった田谷廣明氏が整備新幹線計画を批判するときに引き合いに出して有名になったもののようだ。もともとの「三大バカ査定」にはなかった整備新幹線が、伊勢湾干拓(鍋田湾は伊豆の下田市にあるが、そこで干拓事業があったかどうかはわからなかった。7はおそらく伊勢湾の鍋田干拓の誤記だと思う)という比較的マイナーな事業を押しのけた、というのが真相ではないだろうか? 5の註釈から察するに、4は「昭和の三大バカ査定」と「世界の三大無用の長物」を混同しているのだろう。

 今日は『完全版・野望の王国』(3)(雁屋哲(原作)/由紀賢二(劇画)/日本文芸社)の発売日だったので、後輩と二人で難波、日本橋付近を歩き回って探したのだが、どこの本屋でも見つからず、もしかして発売日を間違えたかと思ったのだが、最後に寄った信長書店でやっと見つけた。たぶん他の本屋では売り切れていたのだろう。
 話題の本がオタク系の書店では売り切れていたが信長書店では売れ残っていた、という経験は『空の境界』を買った時以来だ。『空の境界』を買ったのは大阪駅前ビルで、今回は堺筋沿いの店(それぞれ「……店」という名称があるのだろうが、私は知らない)だったが、どちらもオタク層への食い込みを図った品揃えにつとめているわりに今ひとつ客を掴み損ねているという印象がある。
 『野望の王国』で膨れた鞄をもって難波駅方面に向かうと、破産したワルツ堂の在庫一掃セールがまだ続いていた。2週間前には30%引きだったが、今日は70%引きになっていて(その間に50%引きの時期もあったようだ)さすがにほとんど商品は残っていなかった。こんな機会でもなければ買わなかったはずのCDを10枚買ったが、全部で5000円強だった。
 安い買い物をして得をしたのだが、何となく憂鬱になった。

 今日は「東郷ビール伝説」について書こうと思っていたのだが、「昭和の三大バカ査定」で手間取ってしまったので、やめた。そのうち取り上げることもあるかもしれないが、今日はとりあえずリンクだけ。

1.10416(2002/10/27) 祝! ライトノベルファン度調査

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0210c.html#p021027a

 まいじゃー推進委員会!で、今日からライトノベルファン度調査が始まった。
 本格ミステリファン度調査に始まった調査企画はさまざまなジャンルに広がったが、ライトノベルだけが取り残されていた。その理由は、極楽トンボ氏がサボっ……もとい、ライトノベル一般についての総合的なガイド本や年次アンケート調査がなく、作品選定に難航したためだと思われる。
 やや待たされ過ぎたという感がなきにしも非ずというほどのこともないこともないのだが、ともかく今日のよき日にライトノベルファン度調査が開始されたことは祝着の極みであり、極楽トンボ氏及び助力者の方々の功績は大いにたたえられるべきである。
 ところで私はあまりよいライトノベル読者ではない。今回の調査で不安だったのは、果たして私は投票できるだろうか、ということだった。300作品のうち一つでも読んでいれば投票は可能だが、たかだか一つや二つで投票するのは気がひける(もちろんこれは私の個人的な考えであり、別に投票条件がそうなっているわけではない)。翻訳SFファン度調査では、対象作のうち3作しか読んでいなかったので、投票しなかった。
 幸い、今回の調査対象作品は25作読んでいた。中には1巻しか読んだことのない作品もあるのだが、単純に数字だけでみれば、まあ投票しても構わないかな、という程度(繰り返すが、これは私の個人的な考えである)だった。以下、投票結果をコピペして簡単にコメントをつけておく。

[ライトノベルファン度調査]

 既読は300作品中 25作品です(平均は 0.04作品)
 69 人中 57 位でした。

 今気がついたのだが、平均が0.04作品というのはおかしいのではないだろうか? 最低でも1作品は読んでいるはずなのだから。

(追記 10/28)
 その後、平均作品については修正されたようだ。
 それと、遙かな道しるべを読んでいたら、

富士見ファンタジア文庫が存在する前からのライノベファンとしては聖エルザがあるのがちょっと嬉しい。
と書いてあり、『聖エルザクルセイダーズ』が入っていたことに気づいたので、追加投票した。

[ライトノベルファン度調査]

 既読は300作品中 1作品です(平均は 49.7作品)
 798 人中 798 位でした。

 追加投票した場合に、もとのデータが反映されないのは残念だが、ともあれ、これで私の投票数は26になった。とことん地を這う数字であることに違いはないが。
(追記 終わり)

 UNCHARTED SPACEで数回にわたって本格ミステリファン度調査の結果に基づく読者層や読書傾向の分析を行っていたが、断念した模様。投票者の年齢、本を買って読んだか借りて読んだか、シリーズの他の作品を読んでいるかどうか、などのデータがあればいいのだが、ただ「対象作品のうちのどれを読んでいるか」ということに焦点を絞って回答しやすくしたから本格ミステリファン度調査はあれほど多くの回答を得ることができたのだし、もともとフク氏がしようとしていた分析を意図した調査ではないから、仕方がないだろう。

1.10417(2002/10/28) 「うにこうる」を知っていますか?

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0210c.html#p021028a

 「無学」という言葉には二つの意味がある。一つは「これ以上学ぶべきことがない人、またはその状態」である。もう一つは「学問に通じていない人、またはその状態」で、現在「無学」はたいてい後者の意味で用いられる。
 私はもとより学識豊かな人間ではないけれど、今日、自分がいかに無学(もちろん上に掲げた第二の意味で)であるかを思い知らされた。ここ一年半ほど仕事で土地や建物を扱っていて、法務局で不動産登記をしたこともあるのだが、今日の今日まで土地の売買には消費税が課せられないということを知らなかったのだ。幸いそのことで実害はなかったけれど、大恥をかいてしまった。
 もっと勉強しなければならないと思いつつも、いったん社会に出たらなかなか勉強はできないもので、こんなことなら学生時代に勉強しておくべきだったと後悔しつつ反省してはみるものの、もし仮に学生時代に戻ることができたとしても一所懸命に勉強したかといえば、たぶんそんなことはなくて、根が怠け者な私のことだから、適当にサボって遊んでいたことだろう。
 そんなわけで、系統だった学問を修めるために必要な資質がすっぽりと抜け落ちている私だが、年齢を重ねるにつれ、どうでもいい雑然とした知識はそれなりに溜まっている。最近はすっかり老け込んで記憶力が減退しているため、徐々に知識の水漏れが起こっているようだが、それでもまだまだ若い者には負けはしない、と威張ってみたくなることもあって、いや、そんな年寄りの冷や水みたいな話をしたいわけではなかったので、やや強引だが今日の本題に入るとしよう。
 先日、後輩に『退屈姫君伝』(米村圭伍/新潮文庫)を薦められた。それまで、米村圭伍という人のことは何も知らなかったのだが、タイトルがよさそうだったので、試しに買ってみることにした。が、『退屈姫君伝』はシリーズものの第2作で、先に『風流冷飯伝』(新潮文庫)を読んでおいたほうがよい、と言われたので、仕方なくそちらも買った。『風流冷飯伝』のほうもかなり捻ったタイトルだと思うが、『退屈姫君伝』ほど魅力あるタイトルだとは思わなかったので、ざっと流し読みするつもりだったのだが、読み始めるとなかなか癖がある文体で、決して読みにくいわけではないのだが流し読みがしにくい。そんなこんなで、まだ途中なのだが、その中で「うにこうる」という言葉が出てきたのでちょっと紹介しておきたい。
 『風流冷飯伝』の主人公というか狂言廻しの役どころを割り当てられた幇間の一八が、ある武士の顔を見て「うにこうる」というあだ名をつける場面(96ページ)があって、そこでこの言葉が説明されるのだが、無学な私は今日の今日までこの言葉を知らず、本当に江戸時代の日本語の語彙として実在したものか、それとも作者の空想の産物なのか、ちょっと判断がつかなかった。作者は「持参金うにこうるまで飲んだ面」という川柳まで引き合いに出しているが、疑おうとすれば疑うこともできる。
 家に帰ってから調べてみると、こんなページが見つかった。古語辞典に載っているのなら、やはり江戸時代の言葉(語源から考えて室町時代以前に遡るとは考えにくい)なのだろう。またカタカナの「ウニコウル」について言及しているページもあった。いや、何でも調べてみるものだ。
 こんな事を知っていても別に何の役に立つわけでもないのだけど、知る前に比べると少しは賢くなったような幻想を味わうことができ、人生って満更捨てたものでもないという錯覚に陥ることができ、大変有意義である。
 案外、「うにこうる」は一般常識に類する事柄で、世間一般の人々にとっては周知のことなのかもしれない。こうやって物知り顔で文章を書いて大恥をかくことになるかもしれないのだが、そんなことを恐れていては何も書けなくなってしまう。
 話のついでなので書いてしまおう。今日、本屋である雑誌を読んでいると、木々高太郎が虫食い算の本を書いている、という記述を見つけた。そりゃ違うだろう、と私はツッコミを入れたくなった。虫食い算の本を書いたのは海野十三で、木々高太郎は序文を書いただけだ。ここで紹介されている『推理学校 虫食い算大会』という本がそれだ。昔、私が通っていた高校の図書室に置いてあって(リンク先で紹介されている二つの版とは違ったと思う)序文だけ読んだ覚えがあるのだ。年老いたとはいえ私の記憶力もまだ捨てたものではない。
 もっとも、私が知らないだけで、木々高太郎自身も虫食い算の本を書いているのかもしれない。私は他人のあら探しをするのは大好きだが、自分が同じ目に遭うと非常に不愉快になるという身勝手で我が儘な性格なので、ここはあまり深く追究しないことにする。件の雑誌名も筆者名も伏せておく。
 ついでのついでに、不特定多数の人々に自分が書いた文章を見られることの怖さについて書いておきたい。最近ウェブ上で無防備に自分をさらけ出している人をよく見かける。いまやウェブ日記などで個人情報をさらすことの怖さは常識だから、よほど迂闊な人か信念を持った人以外はそんな事をしないのだが、住所や氏名、職業、年齢などの情報を伏せていても、ただ文章を書いて公開しているというだけで自分の知識や性格、品性までもが露わになっているということに無頓着な人がわりと多いように思われる。
 自意識過剰だと嗤われるかもしれないが、私は自分の文章のミスや間違いを突かれて攻撃されることを非常に恐れている。少しでも自信がないことについては、断定を避け、留保をつけ、万が一のことを考えて逃げ道を作っておく。「滅・こぉるってバカだよな」と言われる前に「私はバカですから」と言い訳をし、「『私はバカですから』と予め言い訳をするのは卑怯だ」と言われる前に先回りして言い訳の言い訳をする。そんな卑屈で腰の引けた回りくどい文章ばかり書いている。賢明な方なら既にお察しのことと思うが、今あなたが読んでいるこの文章自体が、その実例だ。
 ところが、世の中には不特定多数の人々に自分をさらけ出すことを全く怖がらない人々がいる。もちろん確固とした信念と、それを裏打ちする知識や教養、技能があって、全く言い訳をしない竹を割ったようにまっすぐで正々堂々とした文章を書いているのなら何も恐れることはない。だが、そうではなくて、ほとんど何も考えずにただキーボードを叩いているとしか思えないような文章も多くて、私は首を傾げてしまう。この人たちは自分がいかに浅薄で思慮に欠けた人間であるかということを世間に知らしめたいと思っているのだろうか、と。で、そのようなサイトはたいてい某匿名掲示板あたりで叩かれたり嗤われたりするのだ(もっとも叩かれるサイトのすべてがそうだというわけではなく、理不尽な叩かれ方をされているサイトも多い)。
 その種の見苦しく恥ずかしいサイトの運営者は、一度つれづれなるままに日暮かごめでも読んで、思い当たる点があれば反省してもらいたいと思っているのだが、なかなか面と向かってそんな事は言いにくいものだ。結局、その種のサイトを反面教師として自分のサイト運営に役立てるしかないのだが、自分の欠点は他人のそれほどにはよく見えないもので、たぶんこうやって書いている間にも心ある人から見れば「あああ、こいつ何という恥ずかしい事を書いてるんだぁぁぁ」と叫んで頭を抱えて転げ回りたくなるような記述があちこちにあるのだろう、と思うと背筋がぞっとしてくるのである。
 「うにこうる」の話がどうしてこんなウェブサイト論もどきになってしまったのか、自分でもよくわからない。話の勢いというか、思いつきのなせる業というか……。
 ついでのついでのついでに特定の人に見られると怖い文章の話をしよう。読書感想文や書評を扱うサイトを運営している人は、取り上げた本の作者が自分の書いた文章を読んでいるかと思うと怖くなることがあるらしい。ある人は「作家さんが自分のサイトを見ているとわかった瞬間に悪口が書けなくなった」と言っていた。
 「たそがれSpringPoint」の場合、一日あたりのアクセス数はだいたい200ないし300で、たまに見に来る人を含めても定期読者は500人に満たないだろう。これまでに「たそがれSpringPoint」で取り上げた本の総数がどれくらいか数えたことはないが、現存する日本人作家の本の感想文はそれほど多くはないし、中には北村薫のようにインターネットと無縁の人(というのは去年ある講演会で聞いた話。今はどうだか知らない)もいるので、作者本人がここを読んでいる公算は限りなくゼロに近い。だが、万が一ということがあるので私も気を引き締めなければならない。これからは現存作家の本の感想文を書くときにはなるべく誉めることにしよう。予防線は多いに越したことはないのだから。

 なんとなくRuins11/2付(なぜ未来の日付なのだろう?)の『写本室の迷宮』評にリンク。厳しい評価だが、単なる悪口ではない。私もこんなふうにバランスのとれた文章を書きたいものだが……。

 まいじゃー推進委員会!では、ライトノベルファン度調査について

今回の調査では「誰がどの本とどの本を選んだか」という個別データをとってまして、この本を読む人にはこういうものを読む傾向がある……といった報告などに今後つなげられるといいなあと思ってます。
とのこと。この個別データでフク氏が本格ミステリファン度調査をもとにやろうとして断念したことができるかもしれないが、残念ながらフク氏はライトノベルは専門外だそうなので、誰か代わりにライトノベル読者層の分析をやってくれないだろうか。もっとも調査は今年いっぱい続くので、まだまだ先の話。

 帰りに立ち寄った本屋で『論理パラドクス 論証力を磨く99問』(三浦俊彦/二見書房)という本を見つけた。わりと薄いソフトカバーで税抜き1500円だったのでちょっと迷ったのだが、「レディメイド運勢占い」という怪しげな占い(?)に惹かれて買ってしまった。序文でいきなり

 一般向けの哲学の本に、時々こんなことが書いてあります。問題を解くよりも、問うことの方が難しく、重要なのだ、と。
 なぜそういう決まり文句がもてはやされるのでしょう? 哲学って努力なしでも大丈夫、みなさん童心に帰りましょうというポピュリズムでしょうか?
 (略)もっともらしい問いをめぐらして感慨にふけるよりも、正々堂々と解ききることの快楽に目覚めていただこう――それが本書の狙いです。
と三浦節全開だ。といっても私はこの人の小説は一つも読んだことがないのだが。これからぼちぼち読んでいくことにしようと思う。

 ああ、今日も駄文で読書の時間を潰してしまった……。鬱だ。

1.10418(2002/10/29) この見出しは十四文字から成る

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0210c.html#p021029a

 天使の階段に『青空の卵』(坂木司/東京創元社)についての 非常に激烈で、やや鬱がまじった書評がアップされていた。ちょっと乱暴だが、文脈を無視して適当に抜き出してみよう。

 何というか、「容赦はしない」という意気込みが感じられる文章だ。こんな文章を読んでしまうと、私も『青空の卵』を読まないといけないという気になってくる。読んでみてもし松本氏と同じ感想を抱いたなら、尻馬に乗って徹底的に罵倒することができるし、逆に面白く感じられたなら「この小説の真価がわからない人はミステリ読み、いや、本読みとしての資格がない」とか何とか書いて松本氏を罵倒することができる。どっちに転んでも罵倒できるのだから一読の価値があるのではないか、と思った(というふうに書くと「滅・こぉるは他人を罵倒するために本を読むのか!」というツッコミが入りそうだが、いつもそんな読み方をしているわけではない。もっともミステリの場合はネガティブな読み方に走る傾向があることは否定はしない)。ただ、問題は「松本氏の感想ももっともだけど、そこそこ面白かったしなぁ」と思ってしまった場合にどうするか、だ。そんな中途半端な思いをするために1700円プラス税を費やすのはもったいないのだ。
 ところでbk1の『青空の卵』紹介ページを見ると「大切な大切な宝物のような一冊です。 」とか「★5つになっていますが、これは上限のせい。制限がなければ★10はつけます。」とか、ほとんどベタ誉めのような感想もあり、松本氏の感想とのギャップの大きさに驚かされる。もし私もこれらの感想文を書いた人々(といっても二人だけだが)のように感じることができるのなら、なんと幸せなことだろう。
 bk1からリンクを辿って、3307ノートというサイトを覗いてみた。上の「制限がなければ★10はつけます」の人のサイトだ。この人の感想文が私にとってどの程度参考になるのかを知るためには、私も読んでいる本の感想を読んでみるに限る。そこで『十八の夏』(光原百合/双葉社)の感想ページを読んでみた。これは私もベタ誉めしている(この辺を参照のこと)本なのだが、誉め方が全然違っていて興味深かった。
 で、肝心の『青空の卵』のほうなのだが……手元にある未読本をあと数冊片づけて、その間にほかの本に手を出していなければ買ってもいいかもしれないという気になってきたが、でももう一つ弾みがほしいところだ。どんな本でも"積み"は"積み"なのだが、ハードカバーから受けるプレッシャーはノベルスの約2倍、文庫の3倍くらいに達するので、買うには勇気が必要だ(「創元クライムクラブ」だからハードカバーだと思っていたのだが、ソフトカバーだったらしい。取り急ぎ訂正 2002/10/30)

 JUNK-LANDの「本格・破格・脱格」についてそろそろ何かコメントをしようと思っていたら、フク氏に先を越されていて、フク氏のコメントに対してMAQ氏が応答する、という展開になっている。それはそれで結構なことなのだが、何だか話がずれているような気がする。思うにMAQ氏は「本格ミステリ」を文字通りの"ジャンル"を示す語として、すなわち生物学上の"種"や"類"と同様に、並列的な他ジャンルとは互いに排他的である(「哺乳類であり、かつ、両生類である」という動物は存在しないし、「イネ科に属するのと同時にマメ科にも属する」という植物は存在しない。これは動植物がもつ特性ではなく、動植物を分類する枠組みがもつ特性である)ものとして取り扱っているが、フク氏は単に属性を共有する集合の名称として取り扱っている(「独身者」の集合と「日本人」の集合の両方に属する人は存在するし、「日本の歴代首相」の集合と「女性」の集合のように両方に属する人がいない場合でも、人を分類する枠組みがもつ特性からの帰結ではない)ために、ずれが生じるのではないだろうか? これはただの思いつきなので、もっと別の考え方ができるかもしれないし、実は両氏の間にはただ意見の相違があるだけで、話がずれているという私の考えは錯覚なのかもしれないが。
 もの凄くややこしい話題に足を踏み入れてしまったような気がする。今日のところはひとまず書き逃げ。それに、よく考えれば、私は「本格ミステリ」という言葉を無意味なものとして捨て去ろう、と提唱しているのだから、あまり深入りはできないのだった。

1.10419(2002/10/30) 定義と特徴づけ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0210c.html#p021030a

 今日は「本格ミステリ」について(というのは無論「本格ミステリ」という言葉について、という意味だ。決して「本格ミステリ」という言葉が指す対象についてではない)また性懲りもなくだらだらと語ってみようと思って上記の見出しをつけたのだが、まだ機が熟していないという気がしてやめた。でも、ほかに見出しを考えるのが面倒なので、そのままにしておく。つまり、今日はそういう投げやりな気分だ。

 『退屈姫君伝』(米村圭伍/新潮文庫)(タイトルを間違えた。読み終えたのは『風流冷飯伝』のほうだった)を読み終えた。面白かった。
 この小説は時代小説なのだが、活劇ものでも伝奇ものでも人情話でもない。ではいったいどういう話なのかといえば、ホラ話とでも言うしかなく、紹介するのが難しい。
 私はほとんど予備知識なしに読み始めたので、最初の1/3くらいは方向性が全く見えず、かなり戸惑った。そのうちに背景が徐々に明らかになってゆき、作者のやりたい事もわかってきたのだが、狙いを一つに絞った一点集中突破型の小説ではないため、あらすじを紹介しても仕方がない。まあ一度読んでみてください、と言うしかない。
 今年に入ってから読んだ小説の中では、『病院屋台』(松村秀樹/小学館文庫)と似ているように感じた。どちらもジャンル分けが難しく、他人に薦めにくい。全く縁もゆかりもない人に興味を持たせ、本を手に取らせる力が私にないのがもどかしい。

 ライトノベルファン度調査がきっかけで、『聖エルザクルセイダーズ』(松枝蔵人/角川スニーカー文庫)が求道の果てほかあちこちで話題になっている。私は最初投票したときに見落としていたくらいで、すっかり忘れ去っていた。新刊が出るのが待ち遠しかったことは覚えているのだが、内容はもう全然覚えていない。読み返してみようにも手元に本はないし、そもそも自分で本を買ったのか友人から借りて読んだのかさえ定かではない。ブックオフ巡りでもしてみるか。
 あ、『星へ行く船』も見落としている。後で投票しておこう。

 昨日『青空の卵』(坂木司/東京創元社)について読もうかどうしようか迷って、「もう一つ弾みがほしい」と書いたのだが、たまたま郭公亭讀書録(10/30付)で『青空の卵』に言及していたので、これも何かの縁だと思い、読んでみようと決心したのはいいが、田舎住まいの悲しさで、行きつけの本屋には在庫がなくて、わざわざ取り寄せてもらう気にもならず、やっぱり縁がなかったと思い諦めた。
 次は『紳士遊戯』(赤城毅/カッパ・ノベルス)でも読もうか。

 今、『プーランク:オルガン協奏曲/田園のコンセール/グローリア』(DECCA)というCDを聴いている。プーランクの音楽はほとんど聴いたことがないのだが、オビに

ここに収められた3つの作品はいずれもフランス・バロックへのノスタルジーを示すものです。特にプクステフーデ風のファンタジー様式を現代に蘇らせた《オルガン協奏曲》はよく知られた作品です。
と書かれていたので、試しに買ってみたのだ。余計なツッコミだが、プクステフーデはドイツ・バロックの大家である。
 ところで――たぶん気づいている人は多いのではないかと思うが――「プーランク」という名前は「クープラン」のアナグラムになっている。元の綴りでは"POULENC"と"COUPERIN"なので、このアナグラムは成立しない。ああ、日本人に生まれてよかった。

1.10420(2002/10/31) いたずらしなけりゃ、お菓子をくれるぞ!

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0210c.html#p021031a

 "Trick or treat!"というのは選言文だが、「お菓子をくれなきゃ、いたずらするぞ!」は条件文だ。
 ……後が続かない。

 昨日の文章でポカミスをやらかしていた。『風流冷飯伝』(米村圭伍/新潮文庫)の感想を書いたつもりが、同じ作者のシリーズ2作目『退屈姫君伝』のタイトルを書いてしまったのだ。これで、粗筋紹介でもしておけば勘違いに気づく人もいただろうが、例によって一切内容に触れずに印象だけを書き記したため、私以外の誰にも間違いがわからない(ただし「最初の1/3くらいは方向性が全く見えず」というくだりでは首を傾げた人もいるかもしれない)文章になってしまった。
 今朝、郭公亭讀書録を見ると、

▼『姫君退屈伝』(新潮文庫、ってもう文庫になったのか……)はたしかに面白いですね。なんたって主人公の姫君の名前が「めだか」。めだか姫が主人公の小説、これが面白くないと思いますか貴方。
と書いてあって、その段階で間違いに気づいてもよさそうなものなのに、迂闊にも「誰か最近『姫君退屈伝』を読んだのか。これだけ煽られたら私も早く読まないといけないなぁ」などと呑気なことを考えていた。
 そんなわけで、今日は予定していた『紳士遊戯』(赤城毅/カッパ・ノベルス)を後回しにして、『退屈姫君伝』にとりかかり、そして読み終えた。たしかに面白かった。なんたって主人公の姫君の名前が「めだか」。めだか姫が主人公の小説、これが面白くないと思いますか貴方。
 これがどういう小説かというと……ええと、やっぱり説明しにくい。『美琴姫様騒動始末』(結城恭介/新潮文庫)の江戸時代版とでも言っておこうか。全然たとえになっていないような気もするが。
 とりあえず、これから読もうと思っている人は、先に『風流冷飯伝』を読んでおいたほうがいい、と忠告しておこう。シリーズものとはいっても登場人物にはほとんど重複はないし、筋立ても全く別物なのだが、まずはシリーズ第一作で作中世界の雰囲気に馴染んでおくべきだと思う。
 一作目がそこそこ面白くて、二作目はそれよりも面白かったのだから、三作目はもっと面白いだろうと期待したくなる。だが、三作目の『錦絵双花伝』(確認してはいないが、同じ世界を舞台にしているものと思う)はまだ文庫化されていない。単行本で買ってもいいのだが、そこまで手をのばす前に積ん読本を減らすべきたと思うので、とりあえず一休止。

 最近、妙に読書意欲が沸いている。今なら『徳川家康』でも『失われた時を求めて』でも読めそうだ……というのは大げさだが、『銀河英雄伝説』くらいなら読めるかもしれない。どうせ長続きはしないのだから、この機会に読めるだけ読んでおきたい。しばらく「たそがれSpringPoint」の更新はおざなりになるかもしれないが、生温かく見守ってほしい。