今日から更新再開である。
旅行で家を空けていた三日間のことについてどう書こうか、少し迷った。私が思いついた案は次の3つ。
ここから本文。まずはコミケ前日のことから始めよう。
私は旅行に出るときには予め鞄の中に本を数冊入れておくことにしている。これまでの経験からいえば、旅行に持っていった本をちゃんと読んだことはほとんどない。絶海の孤島や人里離れた山奥へ行くわけではなく、本が読みたくなったら現地で調達すればいいだけのこと。旅行先に着くまでの暇つぶしにしかならない。ただ、今回は夜行バスを使うので、どうせ本など読めるわけがない。それなのになぜ本を持っていくのか?
――それは、そこに本があるからだ!
いつもなら小説、マンガ、その他書籍、と3種類くらいの本を用意するのだが、今回は1冊だけに絞ることにした。この判断をむしろ誉めてもらいたいくらいである。私が、「この1冊」に選んだのは、『クビツリハイスクール』(西尾維新/講談社ノベルス)である。8日(木)の昼休みに会社の近くの本屋で買ったばかりの本だ。講談社ノベルスのいわゆる「密室本」の一冊なので、軽くて薄くて嵩張らない。ついでに値段も安ければ言うことなし、なのだが。あ、あとできれば余計な袋とじもやめてほしいなぁ。
講談社ノベルスの今月の新刊はいろいろな意味で話題を呼ぶ品揃えだったが、私がとりあえず買ったのは『クビツリ』と『五月はピンクと水色の恋のアリバイ崩し』(霧舎巧)の2冊だけだ。本当は『人形幻戯』(西澤保彦)も買いたかったが、あまり"積み"を重ねたくないので、薄い本から攻めることにしたわけである。
☆ 『五月』は「私立霧舎学園ミステリ白書」の第2弾で、1作目の『四月は霧の00(ラブラブ)密室』を読んで感想文中で「とりあえず、次作も読むつもり」などと書いていることを今の今まですっかり忘れていた。『五月』を買ったのは、そのあとがきの一節を読んで首を傾げたからだ。
実は、私は《アリバイ崩し》もののミステリはあまり好きではありません。それは、読者も登場人物も、誰が犯人かわかっているところから出発する謎解きだからです。
(略)
謎を解く前に犯人がわかっているのですから、執筆者側からすれば、こんなに楽なことはありません(だって、意外な真犯人の設定に頭を悩ませる必要がないんですから)。
筆の立つ作者なら、その分、犯行動機や事件の背後に潜む社会問題を描き出すことに余力を費やすでしょう。(略)
ごめんなさい。霧舎巧には、そんな推理小説は書けません。物語の半ばで犯人がわかってしまっていいのなら、その分、私は別の謎を紡ぎ出すことに力を使ってしまいます。読者を最後のページまで引っ張っていくのは、やはり魅力的な謎と、論理的な謎解きでありたいと思うのです。
むむむ……。いろいろとツッコミどころがある文章なのだが、私が今書いている文章は旅行記のはずなので、旅行と直接関係のない事をだらだらと書くのは好ましくない。だが――ちょっとだけなら許されるだろう。いや、許してもらわなくても、書く。
この引用文を読む限りでは、どうやら霧舎氏の考える「魅力的な謎」の典型は「犯人は誰か?」という謎であり、「犯人はいかにしてアリバイを偽造したのか?」という類の謎は「魅力的な謎」ではないらしい。私は犯人のアリバイに関する謎は(うまく処理できれば)「犯人は誰か?」という謎に取って代わるくらいの「魅力的な謎」であり得ると思うし、実際、鮎川哲也の《アリバイ崩し》ものの数々は「魅力的な謎」と「論理的な謎解き」を備えた傑作だと思っている。むろん、何をもって「魅力的な謎」と考えるかは人それぞれだろうし、ミステリ愛好家の中にでも《アリバイ崩し》に魅力を感じない人がわりといるということは承知している。そのような人々にとっては、《アリバイ崩し》を扱うことで「犯人は誰か?」という謎を捨てたかわりに何か別のもので補完しなければならない、と考えるだろう。その意味では、霧舎氏の言葉は筋が通っていてわかりやすい。ただ、《アリバイ崩し》の謎と、「何か別のもの」による謎が一つの小説の中でうまくバランスをとって共存できるものかどうかが心配になる。
そういうわけで、私は『五月』に関心を持ち、買うことにした。作者の思うツボ、という感もなきにしもあらず。
さて、鞄の中に『クビキリ』を入れて、用意万端、最後にこれから会う予定の人々にメールを送っておこうと思い、メーラーを立ち上げたら、JUNK-LANDのMAQ氏からのメールが届いていた。そこで慌てて書いたのが先日の文章である。旅行から帰ったらもう少し補足しようと思っていたのだが、今読み返してみると別にこれ以上何も言うことはない。
ところで、MAQ氏のメールには、本題のあとに「コミケは当方も10日に顔出しするかもしれません」と書かれていた。MAQ氏は私の「一度は会って直に話してみたい人リスト」に入っている(ほかにはペインキラーRDのペインキラー氏やUNDERGROUNDの樋口氏ほか数人がこのリストに入っていたが、ペインキラー氏の名前は先月「もう一度会ってみたい人リスト」に移した)ので、この機会にどうにか日程調整できないものかと思案した。だが、間もなく東京へ向かって出発するという状況ではMAQ氏と連絡を取り合いながら待ち合わせ場所と時間を決定するのは無理なので、やむを得ず断念した。
接続障害に悩まされながら旅行前最後のサイト更新を済ませ、MAQ氏には本題について簡単な返信を書いて送り、午後8時半に家を出た。駅で電車を待っている間に東京で会う予定の人々や、せっかくサークル参加できるのに仕事の都合で潜伏中の内田氏に携帯電話でメールを送った。3月にメール機能付きの携帯電話を買ったもののこれまでほとんど使っていなかったのだが、ようやくそれが生かせる日が来た。だが、電話のボタンで入力するのは難しい。わずか数10文字のメールを書くのに10分くらいかかった。
その後いろいろあって(さすがにこの調子ではテンポが遅すぎることに気づいたので、多少端折った)午後10時20分過ぎに夜行バスに乗り、一路東京へと向かったのである。続く。
昨日の「だらだら旅行記」の続きを期待していた人には申し訳ないが、あれは一回限りでおしまいにする。人と会った話を書くのは苦手で、どうにも先が続かなくなってしまったためだ。ネタに詰まっていたら無理矢理書き進めるところだが、それより最近読んだ本のことを書くほうが楽しい。
☆
今日、『五月はピンクと水色の恋のアリバイ崩し』(霧舎巧/講談社ノベルス)を読んだ。特にとばし読みをしたつもりはないのだが、文章に引っかかるところが全くなく、すらすらと読めた。あまり丁寧に感想文を書く気にならない本なので、前作の感想文と同様に箇条書きにしておく。
☆
気を取り直して、別の本の感想文を書くことにしよう。次に取り上げるのは『LAST KISS』(佐藤ケイ/電撃文庫)である。この作者については事前に全く予備知識がなく、男性か女性かということさえ知らずに読んだくらいだが、ペインキラーRDの8/11付の記事を読むと同じ作者の『天国に涙はいらない』シリーズの詳細な感想文があり、かなり面白そうではある。
そのペインキラー氏が8/10付の記事の最後で
◆『LAST KISS』 佐藤ケイ (電撃文庫)を読んでしみじみと泣く。俺にもまだ人間の心が残ってたよ。よかたー。とさりげなく書いている。今引用したのが、この作品に対するコメントのすべてである。感涙のあまり長々と感想を書く気にならなかったのか、それとも何とも書きようがなかったのか、ちょっと気になるところではある。今度機会があれば訊いてみることにしよう。
超最高傑作っっ!! や、ひたすら号泣。[WIN]『加奈』の 100万倍くらい。という文章は強く印象に残った。翌日、コミケ初日の帰りに秋葉原の某書店で現物を見つけてすぐに買い、そのまた翌日の一般参加者の入場待ち行列で黙々と読み、さらにホテルに戻ってからも読み続け、読み終えた。
さて、ここから本文である。
『LAST KISS』が"泣かせる小説"であることは間違いない。これを読んで本当に泣けるかどうかという点ではいろいろな意見があるけれど、この小説の本質が"泣かせ"にあるということでは衆目は一致している。
だが、先人たちの『LAST KISS』評は"泣かせ"のポイントを見誤っているように私には思われる。私に言わせれば、この小説の最大の"泣かせ"ポイントは次の一節(31〜32ページ)である。
「で、どこら辺回る?」くぅ〜、泣けるねぇ。たまらないねぇ。
「……お兄ちゃんの行きたいとこ」
「俺の行きたいとこ?」
って言うと、ゲーセンとか、あにめい都とか、後は……。いや、あそこのパソゲーショップは女の子を連れて行くような場所やない。とすると、他にはどこや。三ノ宮最大の売り場面積を誇る浸々堂書店か。
そやな。浸々堂がいい。あそこの文庫のコーナーとかでもうろついてたら、知的なお兄ちゃんのイメージやしな。よっしゃ。決定や。
俺はそう決定すると、センター街のエスカレーターを上がって三階の浸々堂へ行った。
俺は足取りも軽くあにめい都に向かった。そして、奥の漫画コーナーに由香を置いてくると、自分はパソゲー関連グッズを見て回る。とりあえずまずは『踏破痕』のトレカか。そういや今度プレ捨てに移植するらしいな。フルボイスで。でも俺の好きなキャラは基本的に無言で喋らへんから、あんま関係ないか。一応買うけどな……。という記述(32ページ)から1998年のことだと特定できる(『To Heart』は1997年発売、プレイステーションに移植されたのは1999年)。
次回予告
東京都営バスの虹01系統と宇宙開発事業団のNASDA i について、滅・こぉるが生暖かく語る……かもしれない。期待せずに待て!
今日『クビツリハイスクール』(西尾維新/講談社ノベルス)を読んだ。だが、その感想の前に昨日の「次回予告」を果たしておくことにする。それだけで時間いっぱいになりそうだが、その場合『クビツリ』の感想は明日以降に、ということで。
先日のコミケで私が行き帰りにとったルートは以下のとおり。
今日はこれで終わりにしようと思ったが、まだ少し時間がある。ここ数日さぼっていた「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」の状況を書いておく。
昨日からまた教会カンタータを聴いている。今日は通算129枚目、カンタータ第51,32,14番を聴いた。一覧表を見ると、このあとまだまだ教会カンタータが続くようだ。
明日締切の白黒学派のアンケート企画への応募を断念した。「よいところ」にせよ「わるいところ」にせよ、「白黒学派」について語るとなれば「哲学」というキーワードを避けるわけにはいかないだろう。だが「哲学的だから(非哲学的だから)よい/わるい」と簡単に断じられるものではないし、そもそも哲学というのは私が今いちばん避けて通りたい話題なのだ。……というのは表向きの理由で、実は「白黒学派」についてはここ数ヶ月の日記して読んでいないというのが最大の理由だ。過去ログを読もうと思っていたが、接続障害やら旅行やらで時間切れ。
同じく明日締切の政宗九の視点の企画のほうも応募しないことにした。これも時間切れだ。政宗氏への質問が全く思い浮かばない。まだ誰も訊いていないことを……などと考え始めるともう駄目駄目だ。逆さに振っても何も出てこない。
「たかがアンケートなのだから気楽にやろう」と考えてみたのだが、そんなことを考えること自体が不自然なことであることに気づいた。ちょうど「『おはよう』と言うべきか、『こんにちは』と言うべきか? いやいや、どちらでもいいんだ。たかだか挨拶なのだから難しく考えずに自然に振る舞えばいい」と考えてかえって言葉が出てこなくなり、酸欠状態の金魚のように口をパクパクさせてしまう状態に似ている。
こんな事なら中途半端に言及したりせずに気がつかなかったふりをしておけばよかった。後悔先に立たず。だが、過去のことばかりを気にしてはいけない。そうだ、私にはまだ未来がある。
とりあえず茗荷丸氏のアンケート企画には私はまだ気づいていないので、このまま締切日まで気づかずにいられれば同じジレンマに悩まされることはないだろう。
ただ今午後3時40分。私の会社には盆休みがないので、平日の昼間にこうやって自室でパソコンに向かっているということは、私が会社を休んだということを意味している。といっても朝から休んだのではない。今朝もいつもと同じように家を出て駅で電車を待ちながら鞄から本を取り出し、電車が到着すると座席に腰掛けて本を読み、電車が動き始めると一旦本を閉じ……ようと思ったがそのまま読み続け、終着駅に着いてもそのまま本を読み、バスを降りて会社についてもさらに読み続け……そして「よし、今日は会社を早退して続きを読むことにしよう」と思った。そして、ようやく先ほど本を読み終えたわけである。
私が今日読んだ本は『暗黒童話』(乙一/集英社)だ。去年の秋に出た本だが、例によって積ん読状態が続いていた。春に一念発起して少し読み始めたのだが、冒頭の「アイのメモリー●前」を読んだだけで「おなかいっぱい」になってしまった。
一度放り出した『暗黒童話』を読むことにしたのは、JUNK-LANDの『ぐぶらん』でこの小説を取り上げた“意識する”本格“意識しない”本格と題する鼎談形式の文章を読むためである。先週、私はMAQ氏との『アフター0』を巡るやりとりの最後に、「本格」という言葉を使って何らかのミステリ(またはミステリ以外の)作品について語ることについて私がどのように考えるのか、ということを再度改めて書いてみたいと書いておいたので、その宿題を果たすのにちょうどいいと思った次第。
“意識する”本格“意識しない”本格については、ごくたま昨日日記で取り上げられ、それに対して松本楽志氏の反論があり、さらにいくつかのサイトで言及されたのが記憶に新しい。ここで私がツッコミを入れて、ただでさえややこしい問題をさらにぐちゃぐちゃにしてしまうのも面白い、と思ったのだが……『暗黒童話』に対する私の感想は“意識する”本格“意識しない”本格におけるBooことaya氏とほとんど同じで特に付け加えることはなにもない。またこの小説が「本格ミステリ」かどうか、という点についてもaya氏の意見が的を射ているように思われる。
ただし、残念ながらaya氏の意見は松本氏を論破できるものではない。なぜなら――ここら辺から私の持論が丸出しになるので注意されたい――aya氏の議論は、「本格ミステリ」という言葉のある用法の正当性に依存したものであり、たとえば第4節で言及されている「北村薫さんが例のアンソロジでやってる汎本格主義」の信者に対しては、決定的な効力を持たない。松本氏が北村説に与しているのかどうかはわからないが、少なくともaya氏とは「本格」という言葉を別の用法で用いていることは確かである。現在のミステリ界におけるこの言葉の使用実態を背景にして、aya氏は「松本氏は『本格』という言葉を誤用している」と言い切れるかどうか? 私には難しいと思う。
私はずっと「荒げる」というのは明らかに間違った言葉遣いだと思っていたが、今の国語辞典には「荒げる」が見出し語に採用されていることをショックを受けた、という話を前に書いたことがある。「本格ミステリ」の場合も、言葉のルーズな使用が一般化することによって、もともと正当だった言葉遣いを唯一の正統として主張することが難しくなっている、という点では「荒げる」と似ている。ただし、「荒げる」は「荒らげる」と共存し特に混乱なく意志疎通を図ることが可能だが、「本格ミステリ」に複数の用法を与えることは、場合によっては大きな誤解のもととなったり、発言や文章全体の意味が掴めなくなってしまうという点が違っている。
たとえば、私は“意識する”本格“意識しない”本格を読んで、結局松本氏とaya氏の間にどの程度の「本格ミステリ観」のずれがあるのかがわからなかった。「本格ミステリ」という言葉が指示するもの、或いはこの言葉の適用範囲について不一致があるので、事柄についての捉え方の相違が覆い隠されてしまうのだ。相違点を浮き彫りにするためには基盤の一致が必要だ。だが、長年にわたる無造作な使用の積み重ねにより、「本格ミステリ」という言葉は、意見の食い違いを示すめの物差しとしては使いづらくなってしまっている。これなら、まだ「パズラー」という言葉のほうがましだろう。もっとも、その場合「『暗黒童話』はパズラーではない」という一言で話が終わってしまうかもしれないが。
さて、ごくたま昨日日記のツッコミは今私が書いているのとは別のレベルのものだと思われるので、議論が繁雑になることを避けるために触れないでおくことにするが、松本楽志氏の反論の中で提示されているマンションの住人のたとえには一言述べておく必要がある。話をわかりやすくするたとえ話なので、やや誇張があるのは当然なのだが、ここには見過ごすことのできない誤りが一つあるように思われるからだ。
このたとえ話では、小説の面白さを構成する〈論理的謎解き〉という要素に対する名称として【ほんかくみすてり】という言葉を新たに導入し、その言葉を通じて他の人々と意志疎通を行ったり、意見の齟齬について調べる過程が描かれている。だが、現実には「本格ミステリ」という言葉はそのような仕方で日本語の中に取り入れられたのではない。
大ざっぱに言えば、もともと〈論理的謎解き〉の面白さを重視する小説のことを単に「探偵小説」と呼んでいた。ところが、時代が下るにつれこの言葉の使い方がルーズになってしまい、ある程度厳密な話をしようとすれば、「本来の意味での探偵小説」とか「怪奇小説や科学小説などを含まない狭義の探偵小説」という回りくどい言い方が必要になってきた。その省略表現として「本格探偵小説」という言葉が使われるようになった(その後、「探偵小説→推理小説→ミステリ」という流れに沿って「本格推理小説」「本格ミステリ」という言葉が生まれた)、と考えれば(歴史的厳密さには欠けるだろうが)松本氏のたとえ話の問題点がわかるだろう。「本格」は第一義的に小説内の特定要素を指して、次にその要素が含まれる小説作品を二次的に指す言葉ではなく、「探偵小説」(あるいは「推理小説」「ミステリ」)という大きな枠組みを前提として、その中で不純物(何を不純物とみなすかは時代によって違う。ある時にはエログロナンセンスであり、別の時には文学性であり、さらに別の時には社会性が不純物とみなされた)の含まれていない小説を指す言葉なのである。
いや、「そのような言葉だった」と言うべきかもしれない。今ではSF的設定のもとで〈論理的謎解き〉の面白さを追求する作品を「SF本格ミステリ」と呼ぶことに抵抗のある人は少ないだろう(私は単に「SFミステリ」と呼びたいが)。上で松本氏のたとえ話には誤りがあると言ったが、それは「本格ミステリ」という言葉が辿ってきた歴史的経緯を反映していないという程度のことで、現在のこの言葉のある用法をうまく反映していると評価しても構わない。ただし、あくまでも「ある用法」であって、「標準的用法」でないことに注意。現在、「本格ミステリ」という言葉には、精密な議論に耐えられるほどの標準的用法(なお、ここでいう「標準的用法」とは、他の用法を誤用だと決めつけるほど強力なものを想定しているわけではない。他の用法に優越し、特に断りがなければ「本格ミステリ」という言葉がその用法で用いられているとわかる程度のもので足りる)は存在しない、と私は考える。
結局、最後は持論をぶちまけて終わりということになってしまった。本当は「本格として読む」ということについても語りたかった(「本格」という言葉のもつ問題点を回避して、たとえば「パズラーとして読む」と言い換えても、この言い回しは分析を要すると思われる)のだが、長くなってしまったのでこれでおしまい。
最後に、“意識する”本格“意識しない”本格におけるGooことMAQ氏の発言に全く言及しなかったことについて若干の言い訳。この鼎談では、松本氏とaya氏が対照的な意見をぶつけ合い、ホスト役のMAQ氏は基本的に松本氏寄りの立場から、ややトンチ……のきいた合いの手を入れるというスタイルになっている。これはたぶんゲストである松本氏を引き立てるためだと思うが、ともあれ特にMAQ氏の発言を引っぱり出す必要はないと判断したからである。
ただ今午後6時15分。
この世には、展開もオチもわかっているのに面白い、という不思議な物語がある。すべては予め定められており、ただその道筋を辿っているだけのに、なぜだかぐいぐいと引っ張られていくような気がする、そんな物語である。たとえば『ロウフィールド館の惨劇』(ルース・レンデル)などがその一例だ。物語の結末は最初の一文で簡潔に述べられている。そして、その結末に至る過程は、別に読者の意表をつくトリッキーなものではない。なのに読者は――その本を読むことが運命であるかのように――ページを繰り続ける。そして予想した結末に辿り着き、物語は幕を閉じる。
あるいは、「水戸黄門」や「吉本新喜劇」などもこの種の物語だとみなしてよいかもしれない。だが、これらは、むしろ「マンネリズムの面白さ」を追求した物語であると特徴づけるべきだろう。少なくとも「決定論」とか「宿命」などといった抹香臭い言葉を連想することはほとんどあるまい。今は「水戸黄門」や「吉本新喜劇」に深入りすることはやめておこう。
さて、先日私は『LAST KISS』(佐藤ケイ/電撃文庫)の感想文を書いた。そのマクラでペインキラーRDの8/10付の記事に言及し、
感涙のあまり長々と感想を書く気にならなかったのか、それとも何とも書きようがなかったのか、ちょっと気になるところではある。とコメントしたところ、発憤した(?)ペインキラー氏が長文をアップされた。で、それを読んで連想したのが『ロウフィールド館の惨劇』だったわけだ。そこで、両者を比較して検討する……というふうに話を進めるべきなのだろうが、よく考えてみれば(よんく考えてみなくてもそうなのだが)『LAST KISS』と『ロウフィールド館』は「展開もオチもわかっているのに面白い物語」という以外には全然似ていないので、その代わり前回時間切れで書けなかった『加奈〜いもうと〜』D.O.)との比較でお茶を濁すことにしよう。
さて今回の『LAST KISS』ですが、実はこの話を書いたのは、私がまだデビューする遙か前のことでした。と書いていること、そして1998年に年代設定されていること(『加奈』は1999年6月に発表された。なお、その少し前には『Kanon』(Key)が出ている。発売当初『加奈』は『Kanon』の陰に隠れてしまいほとんど話題にならなかった。その後、じわじわと人気が上昇し、韓国でパクリドラマが作られ視聴率30パーセントを超えたり、「ニュース23」で取り上げられたりすることになるのだが、それはまた別の話)は一種の心理的なアリバイの主張のように思われる。もっとも、私は『LAST KISS』が『加奈』の後に着想されたものなのか、それとも『加奈』以前に初稿が書かれていたのかということにはあまり関心がない。ただ、両者がよく似た主題を扱っているということだけに着目しようと思う。
ああ、全然ダメだ。明晰じゃない。この後『クビツリハイスクール』(西尾維新/講談社ノベルス)の感想を書こうと思っていたのだが、そんな気分になれない。今から深夜営業のコンビニにでもいって激辛カレーパンでも買ってこようかしらん。
一昨日に断念したはずのアンケート企画2件だが、昨日気が変わって応募した。弾みで書いたので、蔓葉、政宗両氏に対してかなり失礼なメールを送ってしまったように思う。反省。
別件にはまだ気づいていないのだが、何かの弾みで気づくことがあるかもしれない――たとえば、『LAST KISS』の感想文がアップされた場合など――ので、その時はもう少しマシなことを書くようにしようと思う。
今日のバッハは見出し(BWV643)とは関係なく、教会カンタータ3曲(BWV104,83,183)と断片ひとつ(BWV50)。
コミケで買ってきた同人誌のほとんどが手つかずのままになっていて、そろそろ読まんといかんわなぁと思う今日この頃、相変わらずだらだらとネット上を徘徊していると、コミケで買った同人誌を一覧表にしているマメな人が何人もいて頭が下がる。いくら同人誌リストを見ても同人誌そのものが読めるわけではないのだが、「へぇ〜、この人がこんな本を買ったのか〜」と感心することもあるので、一通り目を通すことにしている。
そんな時間の無駄遣いのなか、この人やこの人が『性善説 Vol.01』(性善説)を買っていることを知り、「『性善説』購入者リンク」を作ってみようと思い立ったのだが、ほかにはこの人くらいしか見つからなかった。私が気づいていないだけで、たぶんほかにも購入者はいるはずだけど。
そんなこんなで「『性善説』購入者リンク」は思い立っただけで終わった。まあ、別に私がやることでもなかろう。
リンク集といえば、前からやってみたかったことがある。それは「たそがれSpringPoint」にリンクしているはてなアンテナリンクである。「たそがれSpringPoint」を定期巡回している人がほかにどのようなサイトを見ているのかがわかれば、私がこれまで知らなかった面白いサイトに出会えるかもしれない、と思ったからだ。ついでにリンクされている各サイトについて捕捉しているアンテナ数を数えてリストを作るのも面白いのだが、私のパソコンには表計算ソフトもデータベースソフトも入っていないので集計が面倒だ。とりあえず、はてなアンテナリストだけにしておくことにしよう。
なお、以下のリストはアクセスログから私が把握したアンテナのみであり漏れがあるかもしれないこと、プライベートモードに設定されているアンテナは他にどのようなサイトが登録されているのかがわからないので外したこと、順序は私のブラウザのブックマーク順であるのであまり意味はないこと、リンク先はシンプルモードであること、そしてアンテナ及びアンテナ管理人サイトへのリンクはすべて無断・無許可で行っていることを予め断っておく。
見出しの元ネタは「ため息は真珠色」である。これが音楽のタイトルであることは確かなのだが、具体的なことは知らない。検索すればわかるのだろうが面倒だし、どうせ本文と何の関係もないのでやらない。
政宗九の視点のアンケート企画政宗への77の質問の結果が発表されている。今日はそれをネタにしてお茶を濁そうと思う。朝の文章も他人のサイトに寄りかかった内容だったので、ちょっとまずいのではないかという気もするのだが、まあ仕方がない。
この企画に私はきっかり5問応募した。第1問はジャブのつもりで人間関係について、第2問はちょっとした難問(同じ質問を私に出されても答えられない)、第3問は政宗氏の周囲の環境に関するもの、第4問は軽いくすぐり、第5問は趣味に関する問題、というふうに、互いに脈絡のない質問にした。私の嗜好が丸出しになっているのもあればそうでない(と思っている)ものもある。何も出ないけど、暇な人はどれが私の質問かを考えてみてほしい。
さて、77の質問(というか、それへの回答)のうち私が特に興味を惹かれたのはQ51だった。クラシック初心者へのお薦め、として政宗氏が挙げている3曲が「惑星、カルミナ、春祭」だったというのが何とも……。私は「カルミナ・ブラーナ」のCDは持っている(演奏者は忘れた)が後の2つは持っていないし、仮に持っていたとしてもたぶん初心者に薦めることはないだろう。政宗氏と同じく20世紀の音楽に限定し(別に20世紀である必要はないが、何らかの限定なしに「お薦めクラシック」を選ぶのはなかなか難しい)3曲を選ぶなら、順不同で
音楽ネタをもう一つ。
今日久しぶりに大阪へ出かけ、CDを5枚買ってきた。
今回は「たそがれSpringPoint」の一般的な読者(というのは実際の所よくわからないのだが……)の興味から外れたことばかり書いてしまった。まあ、こんな日もたまにはある。
西尾維新の小説について何かを述べるというのは、なかなか難しい。どのような枠組みで語ればいいのかがわからないからだ。一言「面白かった」と言っておしまいにしてしまいたい。うん、そうしよう。誰も私の感想を心待ちにしている人はいないだろうし。
というわけで、『クビツリハイスクール』(講談社ノベルス)については感想文を書かないことにした。
昨日「たそがれSpringPoint」にリンクしている「はてなアンテナ」リンクというのをやってみたが、その後、はてなアンテナにアンテナ検索機能があることを知った。私はいつもシンプルモードで使っているので知らなかったのだ。迂闊だった。
ここ経由で近鉄北勢線存続のニュースを見た(なお、ここでいう「近鉄」というのは近畿日本鉄道のことであり、近江鉄道のことではない。滋賀県人の注意を喚起しておく)。鉄道愛好家としては、鉄道が廃止されずに残るのは嬉しいが、将来の展望なしに問題を先送りするのはどうかとも思う。
もう一つ、どうかと思ったのが、
具体策として、桑名駅で北勢線と近鉄関西線のホームの一体化や、運賃の値上げを検討していることを挙げた。という一節である。「近鉄関西線」ってどうよ、と言いたい。声を大にして言いたい。
今日は全くやる気が出ないので、これでおしまい。
旅行に行きたい。とにかく遠くへ行きたい。そう思う。
ついこの間コミケに行ったばかりだが、あれは旅行のうちには入らない。単なる長距離移動だ。たまたま私の家が東京から遠く離れているから旅行(のようなもの)をする必要が生じただけで、もしコミケ会場が私の家の前にある農協の集荷場だったなら、そのような必要はなかっただろう。
だが「これは本当の旅行ではない。真の旅行とは……」という物言いは危険だ。「本当の〜」「真の〜」という言葉はしばしば人を錯誤へと陥らせる。だから前言を撤回して言い直そう。先日コミケに行ったのも旅行のうちだ。だが、それだけでは私の旅行欲を満足させてはくれなかった、と。
先月から私はコミケとは別に旅行の計画を立てていた。行き先はここ(URIから察するに、普段は観光協会のウェブサイトのようだ。後になって見るとわからないかもしれないので捕捉しておくと、8/19現在のリンク先は「熊野大花火オフィシャルホームページ」になっている)である。先週の土曜日に「青春18きっぷ」を使ってのんびり行こうと思っていた。
だが、台風13号のせいで花火は今週の金曜日に延期になってしまった。平日である。仕事の段取りがうまくいって、その日に会社を休むことができれば行きたいのだが、どうなるかわからない。また再延期の可能性もある(去年は2回延期した)。
当初の予定では、行きは和歌山方面から串本、新宮経由で熊野市へ行き、花火を見たあと午前0時過ぎに出る臨時夜行列車に乗って亀山まで行き、あとは適当に名古屋あたりをぶらぶらするつもりで、「青春18きっぷ」2日分を知人から譲り受けることにしていた。だが、花火の延期のせいで予定がすっかり狂ってしまった。臨時夜行列車さえ走れば花火などどうでもいいのだが(こう言ってしまうあたり、私は人間としてどうかしているのではないかと思う)当然のことながら臨時列車の運行のみ予定通りというわけはない。別に紀伊半島一週にこだわる必要もなく、東海道本線の臨時9372Mでも9375Mでもいいのだが、とっさに頭の切り替えができなかった。そうこうするうちに知人から「青春18きっぷ」を譲り受ける予定そのものが流れてしまって……ああ、私は一体何をうだうだと書いているのだろう。
ちょっと気分転換しよう。
最近、『大人になる呪文』(1)(パニックアタック/FOX出版 FOX COMICS)が一部で話題となっている。私は冬野氏に有明埠頭の灼熱の駐車場でこの本を薦められて買った。同じ日に『LAST KISS』(佐藤ケイ/電撃文庫)も買ったので、もしかしたら私に妹属性゛あるのではないかと勘ぐる人もいるかもしれないが、そのような属性はないとここできっぱりと断言しておこう。
妹属性がないのだから特に『大人になる呪文』に思い入れもなく、思い入れがないのだから特に何も書くことはないのだが、あちこちの書店でこの本が平積みされているのを見かけて一言言いたくなったことがある。
それは――
この機会に『オレの妹、マジ、好き、かわいい』(うういずみ)が復刊しないかなぁ。という心の呟きであって、私は古本屋で探して単行本を買ったので今さらどうでもいいのだけど、これは広く、いや狭く、いや狭いけどちょっとは広く世間の人々に読んでもらいたいと思っているのであって、少しでも気になる人は作者本人のサイトの『オレの妹、マジ、好き、かわいい』紹介ページを見てもらえれば、どんなマンガかはなんとなくわかるのだが、まあタイトルだけで一目瞭然なアレなマンガなので別に強いて勧めるわけではない、と一応予防線を張っておくのである。
気分転換終わり。
旅行の話の続きだが、実はもう一つ旅行の計画があって、その行き先は東京なので「またか」という気がしないでもなく、さらに目的がこれ……とリンクを張ったものの、これだけではどのイベントかわからないので補足しておくと、9/6(金)の「本日開店!メガネっ娘 居酒屋『委員長』」なのだが、よく考えれば私にはメガネっ娘属性は全くないので、行く価値は無に等しいのであるが、ではどうしてこんなものに気をとめたのかというと――この文体は長く続けると飽きるのでこの辺でやめておこう――出演者の面々が凄いからである。まあ、一度この人々を直に見てみるのも悪くはないだろう、と思ってしまうのだ。
ただ、問題はやはり平日だということだ。夜7時開演のイベントなので、東京の人なら仕事を終えてから行けるのだろうが、私はそういうわけにはいかない。たかがメガネっ娘ごときで何が悲しゅうて会社を休まなくてはならないのか。
だが、もう会社に休暇届を出してしまった。
あれ?
本の話をしよう。
☆
近頃ヤングアダルト系の小説ばかり読んでいるので、ちょっと気分を変えて別の種類の本を読んでみようと思った。積ん読本(私は「つんどく」を「積ん読」と表記しているが、「ん」を抜いて「積読」と書く人のほうが多いようだ。別にどちらでもいいのだろうが、別にポリシーがあってやっていることではないので、大勢に従うほうがいいような気がしてきた。何か意見のある人は掲示板かメールで教えてほしい)の中から手に取ったのは『郵便的不安たち#』(東浩紀/朝日文庫)である。同じ著者の『動物化するポストモダン』(講談社現代新書)は楽しく読めたので、これも面白いだろうと思って読み始めたのだが……全然ダメ、受け付けない。「1 状況論」はまだ何とか読めたけれど、「2 批評」の「ソルジェニーツィン試論――確率の手ざわり」になると何を書いているのかさっぱりわからず、何度も挫折しそうになった。最後は目を字組に沿って無理矢理動かし文字を追っていったが、続けて次の文章を読もうという気にならない。たぶん「3 サブカルチャー」は多少は読みやすいのだろうと想像しているが、私は特に差し迫った事情のない本はとばし読みしないことにしているので、先に進めないのだ。
ついさっき「全然ダメ」と書いたが、『郵便的不安たち#』が「全然ダメ」な本だと言いたいわけではない。私には難しすぎて「全然ダメ」というだけのことだ。いや、「難しい/易しい」という尺度を持ち出すのは的はずれかもしれない。私にはなじみのない言葉(たとえば「境位」とか「事実性」など)が多く使われているから、難しく感じるだけなのかもしれないからだ。もしかすると、この種の文章を読む経験を重ねたいけば、さほど苦労せずに『郵便的不安たち#』を読み解けるようになるのかもしれない。だが今は無理だし、あえて理解したいという意欲も沸いてこない。
☆ 『郵便的不安たち#』を読むのは一時中断することにした。家に帰ればいくらでも積ん読本があるのだが、とりあえず帰りの電車の待ち時間に読む本が必要だ(あいにく今日は鞄に『郵便的不安たち#』しか入れていなかったので)。そこで書店で薄くて読みやすそうな本を物色した。そして見つけたのが『方法序説』(デカルト/谷川多佳子(訳)/岩波文庫)だ。137ページで400円(税別)、活字も大きめで読みやすそうだ。
実際、読んでみると、すらすらと読めて非常によくわかる。難しい言葉はほとんど出てこない(せいぜい「形相」とか「偶有性」くらいだ。しかも丁寧に註釈がついている)し、文章の構造も簡明でわかりやすく、挿入句に注意さえすれば、一文一文が比較的長いわりには簡単に読むことができる。
たとえば、第1部の冒頭はこんな感じである。
良識はこの世でもっとも公平に分け与えられているものである。というのも、だれも良識なら十分身に具わっていると思っているので、他のことでは何でも気難しい人たちでさえ、良識については、自分がいま持っている以上を望まないのが普通だからだ。この点でみんなが思い違いをしているとは思えない。むしろそれが立証しているのは、正しく判断し、真と偽を区別する能力、これこそ、ほんらい良識とか理性と呼ばれているものだが、そういう能力がすべての人に生まれつき平等に具わっていることだ。だから、わたしたちの意見が分かれるのは、ある人が他人よりも理性があるということによるのではなく、ただ、わたしたちが思考を異なる道筋で導き、同一のことを考察していないことから生じるのである。というのも、良い精神を持っているだけでは十分でなく、大切なのはそれを良く用いることだからだ。大きな魂ほど、最大の美徳とともに、最大の悪徳をも産み出す力がある。また、きわめてゆっくりと歩む人でも、つねにまっすぐな道をたどるなら、走りながらも道をそれてしまう人よりも、はるかに前進することができる。この調子でずっと文章が続いていく。私は約15分で40ページほど読んだ。あと半時間もあれば本文を全部読み終えることができるだろう。ちゃんと頭に入るかどうかは定かではないが。
今日のバッハはカンタータ第39,143,175,65番の4曲。
おしらせ。
まいじゃー推進委員会!がサーバーのトラブルのため、別サーバーで臨時運営中とのこと。なんだかよくわからないが、かなり馬鹿げた人為ミスのようで、今後の展開が楽しみ、もとい、ご愁傷様。
先日、20世紀の音楽から私のお気に入りの曲を3曲紹介した(といってもタイトルと作曲者名だけだが)ところ、政宗九氏に
滅・こぉるさんは「いかにも」なリアクションをされてますが、私は滅・こぉるさんが挙げておられる20世紀クラシックの3曲はひとつも聴いたことありません。と言われてしまった。
☆ 『方法序説』(デカルト/谷川多佳子(訳)/岩波文庫)読了。昨日は「あと半時間もあれば本文を全部読み終えることができるだろう」と書いたが第4〜6部は多少込み入った話だったので半時間では読めなかった。
『方法序説』(1637)には「我思う、ゆえに我あり」という有名な言葉が出てくる。フランス語で"Je pense,donc je suis"である。どちらかといえばラテン語の"cogito ergo sum"のほうが有名だが、それは『哲学原理』(1644)に出てくる言葉だ。また、コギトの議論をしつこく展開しているのは『省察』(1641)だが、そこでは「我思う、ゆえに我あり」という言葉そのものは登場しない。以上、『知識の哲学』(戸田山和久/産業図書)に書いてあった豆知識。
「我思う、ゆえに我あり」が出てくるのだから哲学書なのだろう、と思って読んだのだが、予想に反して『方法序説』の大半は学問遍歴を中心にした自伝のようなもので、哲学的なテーマはごく簡単に素描されるだけだった。『省察』を読んでおけば別に『方法序説』は読まなくてもいい、というのは言い過ぎかもしれないけれど、私にはこの本から多くを得ることは出来なかった。
このように書くと、私は『省察』を読んでいるかのようだが、実は半分も読んでいない。第一省察と第二省察だけ、それも自発的に読んだのではなくて……いや、この話はまたの機会にしよう。かなり長い思い出話を語ることになるだろうし、私はまだその当時の思い出を十分客観視できないので。
今日も大方の読者を無視した話題ばかりだった。