【日々の憂鬱】ばればれの伏せ字はいかがなものか。【2004年10月中旬】


1.11183(2004/10/11) 壁のカペ

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今日はどうしようもなくネタがない。今読んでいる本が終わったら感想を書くつもりだが、もうしばらくかかりそうだ。デリダが死んだがそれもどうだっていい。相変わらず憂鬱だが、パソコンのキーボードを叩く気力も出ないほどではない。パソコンの調子も悪く、3回に2回の割で起動に失敗する。台風通過後、日中の気温が上がっているので、インターネットに接続できない。転送メール会社からサービスを今年茉でやめると言ってきた。早く次のメアドを探さなきゃ。


私が最後に国立西洋美術館に行ったのは今年8月のことだった。夏コミ前日に成田山見物に行った帰りに上野を通ったので、ふらりと立ち寄ったのだ。当時の記録を見ると、上野で国立西洋美術館の聖杯展を見て、ついでに常設展も見た。とただ一文だけ記してあった。よほど聖杯展がつまらなかったのだろう。

私が美術に興味をもつようになったのは、二年くらい前からで、それまでは全然関心がなかった。今でも美術に関する知識や教養が身に付いたとは思わないが、機会があればなるべく博物館(美術品を中心に収集展示している博物館のことを、通常「美術館」と呼ぶが、実際には呼称ほどの違いがあるわけではないので、ここでは「博物館」で統一する)に行くように努めている。

数多い博物館の中でも、やはり国立のそれは地方自治体や民間企業、財団などが設立したものに比べて大規模なものが多い。大きければいいというものではないが、小さな博物館よりも大きな博物館のほうが収蔵品が充実しているので、自分の感性にあった作品に出会える確率も高くなる。また、上野には、国立西洋美術館のほか国立科学博物館、東京国立博物館があり、国立以外でも東京都美術館、上野の森美術館、東京藝術大学大学美術館などが建ち並んでいて巡回効率がよい。そこで、年に数回東京へ行って、博物館巡りをするときは、どうしても上野が中心となる。

そういうわけで、国立西洋美術館に行く機会は多い(といっても、年に二回くらいだが)のだが、時間の都合で特別展だけ見て帰ることがほとんどで、常設展は一昨年り夏以来、二年ぶりのことだった。二年ぶりといっても常設展のことだから、ほとんど見知った絵ばかりで、中にはその二年の間に私が知識を得たために前回とは違った見方ができるようになったもの(主に印象派)もあるが、概して新しい発見や驚きには乏しかった。

その中で一枚だけ非常に印象に残った絵があった。それはカペという画家の自画像だった。

画家の自画像は、美術的には価値のあるものも多いのだろうが、素人が見てもあまり楽しくないものがほとんどだ。若い頃の自画像を見ると貧相な癖に自尊心ばかり高そうな兄ちゃん(「にいちゃん」ではなく「あんちゃん」と読んで下さい)がルサンチマン丸出しでこちらを見つめていて不愉快になるし、功成り名遂げた後の自画像は絵の具のかわりに体脂肪を使って描いているかのような錯覚さえ覚えるほどだ。不遇のうちに世を去った画家の場合、見るも哀れで正視に耐えない。

ところが、カペの自画像は今述べた例のいずれにも当てはまらない。カペの生没年(1761〜1818)とこの自画像の制作年代(1783年頃)から22歳頃の自画像だと知れるが、自分の画才への自負と社会的名声のなさとのギャップが表情に微妙な歪みを与えるでもなく、ただ溢れんばかりの自信で鑑賞者を生意気に見下している。その生意気さは不快なものではなく、むしろ「若いってのはいいことだなぁ」とひとりごちて、画家の将来を応援してやりたくなるほどだ。

もちろん、21世紀の私がいくら応援したところで、200年前の画家の人生に影響を与えることはできない。身なりはわりと裕福そうだが、果たしてフランス革命からナポレオンに至る激動の時代を無事乗り切ることができたのだろうか? それとも、自画像に描かれている微笑みはじきに絶えて、後半生は眉間に皺を寄せながら生き続けたのだろうか? 有名画家なら伝記を読めばわかることだが、カペの伝記なんかあるのかどうかすら知らない。

上で「非常に印象に残った」と書いたものの、その後カペの自画像のことはすっかり忘れてしまっていたのだが、先週発売された「日本の美術館を楽しむ No.1 国立西洋美術館」(朝日新聞社)を手に取ったとき、ふとそれを思い出した。「日本の美術館を楽しむ」はよくある週刊(または隔週刊)のムック本で、最初の号だけ値段が安くしたり特典をつけたりするあざとさが気に入らないので、私はこれまでずっとこの種の本を無視していたのだが、先月だったか、ついふらふらと「世界遺産 DVDコレクション」(ディアゴスティーニ)に手を出してしまい、毒を食らわば皿まで、と思い直し「日本の美術館を楽しむ」にも手を付けてしまったのだ。でも、表紙を見ると、モネ ルノワール ロダン ドラクロワ ゴッホなどと有名どころの名前が並んでいるし、私が見た自画像の作者(名前すら忘れてしまっていた)はたぶん無名の画家だろうから、紹介されているはずなどないよなぁ、と思っていたのだが……。

やっぱり紹介されていなかった。おしまい。

というのは嘘。さすがにそんなオチでは話は纏まらない。ちゃんと紹介されていました。とはいえ、本篇(?)ではなく、「ミュージアム漫遊記」(山下裕二)という連載コラムの中でだったけれど。筆者は明治学院大学教授で「美術館の達人」と呼ばれる人だそうだが、冒頭でいきなりこの絵のことは、いつの時代、どこの国の、誰が描いたものなのか、まったく知らなかった。と書かれている。私が知らなかっただけでなく、美術の専門家の間でも無名の作家・作品だったのだ。でも、いいものはいい。権威に頼るわけではないが、有名な画家のB級作品ではなく、ほとんど無名の画家の、超一級作品。名前ではなく、クオリティー。西洋美術館がいい買い物をしてくれて嬉しい。という意見に大賛成だ。

このコラムはカペの自画像の写真つきなので、興味のある人は「日本の美術館を楽しむ No.1 国立西洋美術館」を手にとってもらいたい。また、近場の人はぜひ実物を見てほしい。確か本館2階にあったはず。

1.11184(2004/10/11) 生首長屋捕物さわぎ

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賢明なる読者諸氏におかれては、今日の見出しから既に御推察のことと思われるが、いちおう宣言しておこう。今から私は『生首に聞いてみろ』(法月綸太郎/角川書店)の感想文を書く。オッホォン。未読の者はみな今回の文章をとばすがよろしい。オッホォン。

というわけで、そこそこネタに触れながら感想文を書くことにする。いちおう核心は伏せ字にしておくが、作中のどの箇所が核心であるのかについての意見はまちまちだろうし、閲覧環境によっては丸見えになってしまうので、注意されたい。

悪いことは言わないから、今すぐ『生首に聞いてみろ』を買って読むことをお勧めする。ハードカバーだからと躊躇している人もいるだろうが、二千円札一枚でおつりが出るのだから安いものだ。もちろん、強いて二千円札を使う必要もない。以下、『暗黒館の殺人』を引き合いに出した文章は不適切だと判断したので削除する。そう判断するに至った経緯については、2005年1月1日付の記事を参照のこと。また、『暗黒館の殺人』と『生首に聞いてみろ』のどちらを読もうかと思っている人には迷わずに『生首』にしなさいと忠告しよう

あー、今いやな想像をしてしまった。年末ベストで『生首』より『暗黒館』が上位に来るんじゃないだろうか。まさかとは思うのだが、今の日本ミステリ界、何が起こってもおかしくないからなぁ。


先ほど『暗黒館の殺人』を引き合いに出したが、どちらも久々の長篇で、しかもシリーズ初の雑誌連載作品という点が共通している。そういうわけで、『生首に聞いてみろ』のできばえにも多少の不安があったのだが、それは杞憂に終わった。法月綸太郎は健在だった!

私は、謎解きの興味を中心にして構成されたミステリは中篇程度の長さが適正だと考えている。短篇だとトリック一つで終わってしまいかねないし、長篇だとロジック以外の要素で引っ張る必要が生じる。その意味では『生首』でも少し長いのだが、捜査と探索、仮説の構築と修正の過程を丹念に書き込んでいるので、余計な夾雑物で膨らませているという印象はあまりなかった。

部分的には「ここは余計だろう」と思う箇所がないでもなくて、たとえば200ページから201ページにかけての磁性アタッチメント入れ歯に関するQ&Aなど無駄ではないかと思ったりもしたのだが、最後まで読むと事件と関わりがあったので安心した(まあ、これは別になくても構わないとも思うが……)。その他、事件と直接関係のないエピソード(たとえば武相困民党の件など)も無駄というより筆の余裕を感じさせられ、全盛期の鮎川哲也を連想した。

法月綸太郎の過去の長篇で最も印象に残っているのは『誰彼』で、これはがむしゃらに推理をごりごり押し進めていくハードパズラーだった。『生首』も結構ディスカッションの場面が多いのに『誰彼』のような息苦しさを感じなかった。また、家庭内の悲劇を扱ったいくつかの長篇に見られる重苦しさもなく、バランスのとれた作品だと感じた。事件の真相はわりと陰惨なものではあるのだけれど、全体的に苦味も酸味も抑え気味で、秋の夜長に楽しむのに適している。

作者の筆運びの円熟は喜ぶべきことだが、少し地味すぎるような気もする。生首が出てくるからといって「おお、何という残虐な犯行! 犯人は果たして人か、それとも鬼か!」などと仰々しく書く必要はない(というか、そんな描写は願い下げだ)が、448ページで元産婦人科医の述懐が終わった直後、場面転換したかと思うといきなりあっさり犯人の名前を書いてしまっているのは、ちょっと拍子抜けした。「読者への挑戦状」を挿入するのはハッタリ臭いし、そもそもそういう種類の小説でもないのだが、せめてここで改ページしてほしかった。

さて、肝心の事件の真相だが、表面上の事件が行き当たりばったり隠された事件が計画犯罪というバランスの取り方が絶妙だ。それぞれ個別にみれば関係者の行動に少し無理っぽいところもあるのだが、併せて一本にしてみると、こんな事もあるかもしれないという気にさせられる。これは法月綸太郎にしかなし得ない業だ。

ここでちょっと余談。私が買った本のオビには有栖川有栖と貴志祐介の推薦文が掲載されていたのだが、貴志氏が伏線をたぐり寄せるマジシャンの手際は、驚愕と納得を保証する。作者の手腕に言及しているのに対し、有栖川氏はお帰り、法月綸太郎! 名探偵の代名詞よ。この事件は、あなたにしか解けない。作中の名探偵法月綸太郎の才能を強調している。厳しい字数制限のもとで少しでも読者の興味をそそるようにと工夫した結果だから文句をつけても仕方がないのだが、一つだけ言わせてもらいたい。法月綸太郎より前に事件の真相に気づいた人物がいるのだから、この宣伝文句はいかがなものか。

余談はこれくらいにして、私がこの小説でいちばん感心した点について書いておこう。この小説のいちばんの大仕掛けは、人物の入れ替わりだが、それをフェアに記述するのは非常に難しい(よく誤解されるのだが、三人称だからフェア/アンフェアの問題が生じるというわけではない。一人称でも事後にすべての真相を知ってから記述したという体裁をとるなら同じことだ)。そこで、ミステリ作家はあの手この手を使って、地の文で虚偽の記述を避けようと努力するのだが、しばしば叙述の不自然さから読者に仕掛けを見抜かれてしまう。

ここで法月氏(もちろん作者のほう)がとった方法は非常に効果的なものだった。わざと少し不自然な描写を行って、読者が勘繰る前に、それがちょっとした軽い叙述トリックだったことを明かしてみせる、というものだ。

具体的にいえば第24章各務タエ子と名乗った人物について地の文で「各務夫人」とのみ記述し、法月警視や綸太郎(もちろん作中人物のほう)にはその人物が各務タエ子ではないと解っているのに読者にはその人物が各務タエ子であるかのように錯覚させるトリックを用いる。そして、その章の終わりで、さっさと読者の錯覚を解いてしまう。すると、この章の地の文にやや不自然な記述があったことに気づいていた人も、それは叙述トリック(というほど大したものではないかもしれないが、いちおう作中人物とは無関係に読者のみを誤導しているので、叙述トリックと呼んでおく)のせいだったと納得してしまうのだ。そこで、作者が地の文で「各務律子」と書けなかった本当の理由から目を逸らされてしまう。ところで、これも叙述トリックではないかと思う人もいるかもしれないが、私の考えでは別のトリックをサポートするための叙述上のミスディレクションである。両者の違いは明確ではないが、作中人物がトリックの対象になっているかどうかが判別の一つの目安になるだろう。

ちょっと説明がくどくなった。解っている人には解っていることだし、別にこれが解らなくても『生首』の読みどころはほかにいくらでもある。

やや尻切れトンボだが、書きたいことは書いてしまったので、『生首』の感想文はこれでおしまい。

1.11185(2004/10/12) どのライトノベルがすごい?

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最近なぜか読書が順調で、今日も一冊読み終えることができた。『退屈姫君 海を渡る』(米村圭伍/新潮文庫)だ。で、感想を書こうと思ったのだが……気が変わった。続けて読み始めた『食卓にビールを2』(小林めぐみ/富士見ミステリー文庫)を読み終えたところで、まとめて感想文を書くことにしたのだ。全然ジャンルが異なるこの二冊、はたしてうまく結びつけて語れますかどうか、それは次回(?)のお楽しみ。

というわけで、書くことがなくなってしまった。仕方がないので、「このライトノベルがすごい!」新名称アンケートに応募するつもりでいろいろと考えてみた。

既にいろいろ新名称案が出ていて、それぞれ工夫があるのだが、ぱっと見た感じではどうもピンとこない気がする。たぶん、この種の名称にはある程度の慣れが必要だということなのだろう。本家宝島社(最初の頃はJICC出版局だったが)の「このミステリーがすごい!」も、初めて出たときには変なタイトルだと思ったものだ。ああ、としがばれてしまう……。

今はしっくりこなくても、だんだん馴染んで広く人々に親しまれるようになる名称ならいいのだが、そんな事は今の段階では予想しにくい。とはいえ全く手掛かりがないわけでもない。人でも本のタイトルでもそうなのだが、多くの人々から愛され、親しまれているものは、元の名称を縮めた略称で呼ばれることが多い。「このミステリーがすごい!」なら「このミス」だ。「このライトノベルがすごい!」も同様に縮めて「このラノ」と呼ばれることが多かった(初期には「ラノすご」とも呼ばれていて、これはこれで味わいのある略称だった)。

将来、企画名の省略形が愛称として使われることを考えるなら、せっかく名称を変更するのだから省略形が「このラノ」になるような名称は避けたほうがいいのではないか(というのはもちろん私の個人的な意見であり、スタッフ諸氏がどう判断するかは別だが)。とすると、たとえば「このライトノベルどすこい!」とか「このライトノベルガスコン!」のような名称は控えたほうがいいだろう。だったら一字変えて「あのラノ」とか「そのラノ」はどうか? いや、これではあまりにも姑息だ。ついでに感嘆符を疑問符に変えてしまおう。

そうして私が到達したのが、今日の見出しにも掲げた「どのライトノベルがすごい?」略して「どのラノ」だ。この疑問形には、出来合いのベストではなくて、これからみんなですごいライトノベルを選んでいくという、未来に向けて開かれた可能性が暗示されているのだ。これでいいのだ。

この「どのライトノベルがすごい?」をひっさげて投票に赴こうと思ったのだが……気が変わった。もう一つ別の名称を思いついたのだ。それは、「かつて『このライトノベルがすごい!』と呼ばれた企画」略して「かつラノ」だ。うん、これも略称の語呂がいいぞ。略称だけだけど。

よし、これで投票しようと思ったのも束の間、また別の案がひらめいた。「食卓にラノベを」略して「食ラノ」だ。何を見て思いついたのかは言うまでもあるまい。

さて、こうなると、どれで投票したらいいのか、わからなくなってきた。別に何回投票しても構わないそうだが、あまりやり過ぎると荒しになってしまう。できればどれか一つに絞りたいものだが……と思っているうちに、もう一つ思い浮かんだ。それは、もし応募すればかなりの得票が見込めるのではないかと思うのだが……。

私が最後に思いついた名称案は、「輝け! 第○回極楽トンボ杯ライトノベル大賞」略して「極ラノ」である。


ここまで書いたら、毒を食らわば皿までだ(なぜか最近「毒を食らわば皿まで」という表現が気に入っている。どうでもいいけど)。ついでにまいじゃー推進委員会!で紹介されていたパズルに挑戦してみる。以下、引用(言及の都合上、一部タグを改変した)。

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  1. 空白部分に1〜9までの数字を入れます。ただし縦軸横軸ともに同じ数字を2度使うことはできません。つまりどの縦軸と横軸を見ても完成すれば1〜9までの数字が1個ずつ入ることになります。
  2. ヒント:赤で表示した部分には1〜9までの数字が1個ずつ入ります。
  3. 一番左上には3が入る、らしいです。

この3つの条件のうち、1および2と3は異質な感じがする。前者はこのパズルの出題者が設定した条件だが、後者はパズルを解いた人が付け加えたヒントのような気がするのだ。なぜそう思うのかというと、もし最初からあった条件なら、図の中に書き込んでおけばいいのにそうしていないからだ。この想像は間違っているかもしれないが、今はまず3つめの条件を無視して取りかかることにしよう。

上の図から左上の部分を抜き出し、空欄にa〜fの文字を入れてみた。条件2により、それぞれのマス目には1〜9の数字が1個ずつ入るわけでが、既に1と2と8は使われているので、残りは3,4,5,6,7,9である。

さて、条件1から、4の入る場所がbしかあり得ないことがわかる。aとcは同じ行の下に4があるために、もう4を入れることができない。また、dとeの行の下にも4がある。さらに、eとfの右にも4があるので、a,c,d,e,fが除外される。考えられる可能性のうち一つを除くすべてが排除されたならば、たとえどれほど受け容れがたいものだとしても、残された一つが真実なのだ。受け容れがたくなければなおさらだ。

早速、4を書き込んでみる。

次に、残された数字5つと空欄5つとの対応関係について表を作ってみる。

数字数字が入る可能性のある空欄
aかcかd
aかeかf
dかeかf
cかdかeかf
aかcかf

おお、全然絞り込みができていないではないか。うう、仕方がないから条件3に頼ることにしよう。

すると、上の表はこうなる。

数字数字が入る可能性のある空欄
eかf
dかeかf
cかdかeかf
cかf

ええと、fには4つの数字のどれでも入る可能性があるが、eには9は入らないし、cとdも入る可能性のある数字は2つずつに絞られている……ええい面倒だ。空欄を基準にして表を書き換えてしまえ。

空欄空欄に入る可能性のある数字
7か9
6か7
5か6
5か6か7か9

むむ、これでも一通りに絞れていないぞ。

空欄パターン1パターン2

だんだんわからなくなってきたので、元の図に戻してみよう。パターン1だとこうなる。

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パターン2だとこうだ。

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どちらでも条件には違反していなさそうだ。

このあと、パターン1なら左下隅に9が入って……というふうに詰めていくことになるのだが、だんだん考えるのが面倒になってきた。ちょっとした気晴らしのつもりだったが、あまり考えすぎるとかえって疲れてしまう。

この後もしばらく考えてはみたが、当てずっぽうで数字を入れたら手詰まりになり、しかもどの数字を当てずっぽうで入れたのか忘れてしまったので、嫌になってやめてしまった。

パズルにかまけている暇があったら、本でも読むほうがましだ。いい教訓を得た。なんだかすがすがしい気分だ。気のせいか、天から光が差し込んでいるようだ。おお、どこからともなく天上のラッパの音が聞こえてくる。ついに最後の審判の日がやってきたか。南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏。

1.11186(2004/10/13) 絶飲絶食12時間

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健康診断を受診するために、絶飲絶食の苦行に耐えた。昨夜9時から今朝9時までの12時間だ。

健康診断は毎年受診しているのだが、今年は初めて胃がん検診(胃部X線間接撮影)を受けた。これは労働安全衛生規則で定められた法定項目に含まれていないので、私はこれまで受診したことがなかった。

今年春まで勤めていた会社で私は健康診断関係の事務を担当していたので知っているのだが、胃検診は他の検査項目に比べて費用がかかる。会社によっては希望者を募っていくばくかの自己負担で受診できるようにメニューに入れているところがあるのは知っていたのだが、予算面でどうしても折り合いがつかず、前の会社ではとうとう導入することができなかった。残念だ。

今年、転職して私は健診事務とは無縁の仕事を行うことになり、一受診者として心機一転(?)胃検診を受けることにしたのだが、前の晩から一切何も飲まず食わず検査に臨むというのは予想以上に辛かった。血液検査でも絶食しなければならないが、水や茶を飲む程度なら問題ない(ただし、もちろん酒は駄目だし、糖分の入った飲み物も血糖値に影響するので控えなければならない)。それに対して胃検診の場合は、胃の中を空っぽにしなければならないから、原則として一切水分の補給ができないのだ。

巡回検診車の前で順番待ちの行列(受診したことがある人なら知っているだろうが、胃部X線撮影は胸部X線撮影よりもかなり手間がかかるので、どうしても待ち時間が長くなる)に並んでいるとき、私の頭の中をぐるぐると渦巻いていたのは、次の飲食物だった。

  1. 三日とろろ
  2. 干し柿
  3. もち
  4. おすし
  5. ブドウ酒
  6. りんご
  7. しそめし
  8. 南蛮漬け
  9. ブドウ液
  10. 養命酒

だが、私の空っぽの胃に入ってきたものは、そのいずれでもなかった。バリウムだ。

いや、その前に変な粉薬のようなものを渡されて、少量の水とともにのむように係員に指示された。「げっぷが出そうになっても我慢するように」と言われたのだが、薬が胃の中に入ると今まで感じたことのない刺戟とともに空気の塊が食道を逆流するのを止められなかった。係員は「はい、もう一度、ハッポーザイのんでね」と言った。おそらく「発泡剤」だろう。「八宝菜」の聞き間違いでないことは確かだ。

発泡剤を二回のんで受けたレントゲン撮影は苦痛に満ちたものだった。だが、聞くところによれば胃カメラのほうがもっと苦しいらしい。文句を言ってはバチがあたる。

レントゲン撮影が終わると、再び係員に薬を渡された。今度は錠剤だった。「これは下剤です。健診が終わったらすぐにたっぷりの水と一緒にこの下剤をのんで下さい」と言われた。「たっぷりの水」というのがどのくらいの分量なのかわからなかったが、バリウムが腸内で凝固するよりはましだと思い、無理をして1リットル近くがぶ飲みした。これもまた、かなりの忍耐を要する行いだった。


健診の待ち時間を利用して『食卓にビールを2』(小林めぐみ/富士見ミステリー文庫)をさくさくと読んだ。さすがにそれだけの時間で読み切ることはできなかったが、帰宅後に続けて読んで先ほど読了した。

昨日書いたように、『食卓にビールを2』を読んだら『退屈姫君 海を渡る』(米村圭伍/新潮文庫)とあわせて感想文を書くつもりでいた。同年代の若い既婚女性(『食卓』は16歳。『退屈』は17歳だが、たぶん数え歳)が主人公で、どちらもかなり頭のネジがゆるんでいて突飛な行動をとるという共通点があるし、作品全体の雰囲気や語り口も何となく似ている。だが、いざ比較してみようとすると、「何となく」を言語化するのが難しい。

『退屈』は時代小説で、『食卓』はライトノベルだ。一見、全然別のジャンルに属する小説のように思われる。だが、時代小説は歴史小説とは違って、舞台が過去の時代であれば物語の内容には決まった型もなければルールもない。ライトノベルには時代設定の制約すらない。書店の棚では明確に区分されているが、厳密にいえばどちらも小説のジャンルではない。何なら両方ともユーモア小説として一括してもいい。

とはいえ、現に別物扱いされているということは確かで、おそらく『退屈』と『食卓』の読者層はほとんど重なっていないだろう。『退屈』の主な読者は(たぶん)中高年男性で、『食卓』のほうは(きっと)十代後半から二十代だ。男女比は6:4くらいか(これは全然根拠がないのだが、富士見ミステリー文庫は他のラノベレーベルと差別化を図るため女性読者を主要ターゲットにしているそうだし、『食卓』の作者は女性だから、比較的女性読者の占める割合が大きいのではないかと思った次第)。

『食卓』はSF的ギミックがふんだんに盛り込まれているので年配の人にはちょっとしんどいかもしれないが、案外『食卓』のナンセンス感覚は世代を超えた普遍性をもっているかもしれない。もちろんナンセンスな面白さを理解できる人はどの世代にとってもごく少数派だろうが。

他方、『退屈』のほうは「です・ます調」が若い人にはややとっつきにくいかもしれないが、それさえクリアすれば特に読みにくい要素はないだろう。『退屈』の江戸川柳的ユーモアも世代を超えたものだろう。

たとえば、父親は50代半ばのサラリーマン、娘は20歳の女子大生、どちらも読書が大好きだけど父は髷物一辺倒、娘は絵付き小説しか読まない。そんな父娘が手持ちの『退屈』と『食卓』を交換してみたら、意外と世代間のギャップが埋まるのではないか。ぜひ一度実践してみてほしい。ただし、かえって溝が深まったとしても、私は一切関知しない。

1.11187(2004/10/19) いろいろ不調

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最近いろいろと不調続きだ。先週はとうとうパソコンが壊れてしまった。2年半の命だった。このサイトのデータとブラウザのブックマーク、メーラーのアドレス帳はなんとか救出できたが、その他各種データ類は永遠に消え去ってしまった。『ランスIV』のデータも消えた。いちおうエンディングまで到達していたのが不幸中の幸いだ。

壊れてしまったものは仕方がないので新しいパソコンを買うことにした。予定にない出費が財布を直撃したため、しばらく財政の引き締めを行わなければならない。全国の鉄道が断末魔の叫びをあげているというのに、旅行費用がないのは辛い。うかうかしている間に屋島ケーブルが消えてしまった。

新しいパソコンは画面が横長で使い勝手が悪い。慣れれば便利なのだろうが、ずっと縦横比3:4の画面に親しんできたので、すぐには馴染めそうにもない。今、こうやって文字を入力していても、違和感がつきまとっている。

どうにも調子が悪いので、今日はこれでおしまいということにする。なお、パソコンが壊れる直前に書いてアップロードしていなかった記事があるので、併せて読んでいただきたい。読んでどうなるというものでもないけれど。

1.11188(2004/10/20) 鈴木佐太夫は鈴木重秀の父親ではない

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台風のせいで電車が止まり、駅で数時間を過ごすことになった。最近、身体的にも精神的にも不調なのに、パソコンが壊れたり電車が止まったりと不運続きだ。このまま幸運に恵まれないまま一生を終えるのか、それとも一発逆転して幸運に恵まれて一生を終えるのか、それは神ならぬ私には知るよしもない。どちらにせよ、最後は一生を終えることになるのだが。

電車の運転復旧を待っている間に『戦国鉄砲・傭兵隊 天下人に逆らった紀州雑賀衆』(鈴木眞哉/平凡社新書)を読んだ。以前、同じ著者の『謎とき日本合戦史』(講談社現代新書)を読んで面白かったという記憶があり(探してみると感想文を書いていた)、今回も期待して読んだのだが、その期待は裏切られることがなかった。

雑賀衆というのは戦国史を語るには欠かせない集団でありながら、その正体は曖昧でよくわからない点が多い。信頼に足る史料が少ないということと、後の時代の史観に収まりきらない行動原理を持っていたということが曖昧さの原因なのだろうが、この本ではそれを強いて割り切らずに述べているために、粗筋を要約して紹介するのがなかなか難しい。興味のある人は直接この本を読んでほしい。

ところで、雑賀衆のなかでもっともよく知られた人物は雑賀孫一だが、この人物の正体も謎めいている。「雑賀孫一」と名乗った人物は何人もいるということは知っていたが、伝説上の雑賀孫一(鈴木重秀)が「雑賀孫一」と自称したことは一度もないというのは、この本を読んで初めて知った。また、重秀と佐太夫は親子ではない、というのも衝撃だった。「信長の野望」に騙された!

『戦国鉄砲・傭兵隊』を読み終えてもまだ電車が動かなかったので、仕方なく『赤い霧』(ポール・アルテ(著)/平岡敦(訳)/ハヤカワ・ミステリ)を読み始めた。例によって不可能犯罪ものだが、ツイスト博士は登場しないらしい。果たして私はこれを全部読み切ることができるだろうか?