【日々の憂鬱】「AB型の人はA型とB型の性格が混じっている」などと言うのはいかがなものか。【2004年8月中旬】


1.11149(2004/08/16) 帰宅

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4泊4日の東京旅行から帰ってきた。

今回は特に目的らしい目的もなく、ただ周遊きっぷのゾーン内で4000円分以上乗ることのみを目標にした。ちゃんと計算はしていないが、一回特急に乗ったので、もとはとれたと思う。

旅行前の予定のうち、成田線は乗ってきたが、途中で成田山新勝寺を見物したら時間を食ってしまい、猛暑の中さんざん歩いて疲れたこともあって、五日市線と鶴見線方面には行かなかった。どちらも今すぐ廃線になるということはないだろうから、次の機会を待つことにしようと思う。上野で国立西洋美術館の聖杯展を見て、ついでに常設展も見た。

コミケ初日は私の興味のあるジャンルがないためどうしようか迷ったが、せっかく周遊きっぷを買ったのだからいちおう会場へ行ってみることにした。12時半くらいに入場し、西館の壁サークルをひとつ見た後、上にのぼって企業スペースへ向かった。入って30秒で出た。不快だった。

この日、私はブリヂストン美術館と出光美術館、国立科学博物館、東京国立博物館を訪れた。一日に4館も回ったのは生まれて初めてだ。科博のテレビゲーム展はあまり面白くなかったが、東博の万博展には非常に感銘を受けた。

コミケ2日目は朝の間に皇居に行き、三の丸尚蔵館で七宝を見た。前日に見た万博展にも七宝が出展されていたので、二日連続ということになる。これまで全然関心もない分野だったが、有線七宝と無線七宝の違いなどなかなか興味深かった。

初日と同じく12時半頃にコミケ会場に入って、目当てのサークルをいくつか回った。いろいろな人に会ったが、いちいち書き上げるのも面倒なので省略する。ただ、日下三蔵氏から天城一本第2弾の話を聞いたので、その事だけ記しておく。出版時期は未定だが、鉄道物を纏めて、非摩耶正シリーズの良作を合わせた短篇集になるらしい。

2時半頃にコミケ会場を出て、りんかい線の駅前で恐竜の化石を展示しているところ(名前は忘れたがパナソニックホールの中にある)へ行き、じっくり見て回っているうちに4時を過ぎて、コミケ帰りの混雑に巻き込まれてしまった。りんかい線からJRへの直通列車に乗り、新宿で降りて喫茶店へ。適当に時間を潰したところで、オフ会の待ち合わせの時間になった。

今回のオフ会の参加者は総勢10人だった。申込者10人プラス飛び入り参加1人マイナス離脱者1人である。参加者の名前をいちいち書き上げるのは面倒なので(以下略)。

まだコミケ最終日の話が残っているが、書くのが嫌になってきたので、今日はこれでおしまい。これまでの例に照らすと、次回はたぶんないものと思われる。

1.11150(2004/08/17) 憑依と言語

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0408b.html#p040817a

『キマイラの新しい城』(殊能将之/講談社ノベルス)を読み始めたのは8/11、読み終えたのは8/15のことだった。時間がかかったようにも思えるが、この間に成田山へ行ったり、博物館巡りをしたり、コミケ会場へ行ったり、オフ会に出たり、かつて18禁ゲーム業界で名シナリオライターとして知られたが数年前に忽然と業界から姿を消したがいつの間にか名前を変えて業界に舞い戻ってきた某氏から業界裏話を聞いたりしていたのは既に書いたとおり。いや、最後のは書いていなかったか。

ともあれ、『キマイラの新しい城』は途中で投げ出すこともなく、さくさくと気楽に読めて、非常に楽しかった。ミステリとしてどうか、と問われると、ちょっと返事に困るけれど、この小説の一番の読みどころはロポンギルズの戦いの場面だと思うので、伏線やらロジックやらにツッコミを入れるのはやめておこう。

さて、この非常に愉快な小説を読み終えてしばらく経って、私はふと次のようなどうでもいい疑問に囚われた。その疑問とは、「稲妻卿はいったい何語を喋っていたのか?」というものである。以下、この疑問をもとに、思いつきを書き連ねることにしようと思う。特にネタばらしは行わないが、『キマイラ』の設定を説明するのも面倒なので、既に周知のこととして話を進める。未読の人は察し読みするなり、本屋で『キマイラ』を買い求めるなり、適宜対応してほしい。


小説の冒頭付近、16ページ下段に次のような一節がある。

わたしはこの外つ国の言葉にはまったく通じていないけれど、話のおおよその意味は理解できた。おそらくは天使が用いるという普遍言語の形で、意味だけが伝達されてくるのであろう。

ここで、稲妻卿が日本語を理解しないことと、にもかかわらず日本語の話し手が言っている事の内容は概ね理解していることが示されている。これは通常は考えにくいことである。なぜならば、日本語であれフランス語であれ、ある言語を理解するということは、その言語を用いて意思疎通に成功するということの積み重ねであると考えられるからだ。もっとも、言語の理解という概念が意思疎通の概念によって定義される――「概念」という非言語的存在者へのコミットを避けるなら、「『言語の理解』という表現が『意思疎通』という表現によって定義される」と言い換えてもよい――と単純に言い切るわけにはいかない。ある言語に習熟した人であっても、すべての言語使用の場において十分な意思疎通が可能であるとは限らないからだ。定義とは被定義項が成立する必要十分条件が定義項によって与えられることだとみなす限り、言語の理解(または「言語の理解」)は定義不可能である。だが、これは大した問題ではない。人は定義によって生くるに非ず。定義など知らなくても我々は言語を理解しているし、「言語を理解する」という表現をも理解しているのだから。

話を元に戻す。日本語を知らないはずの稲妻卿が日本語の話者と概ね意思疎通が可能であるという状況は、通常は考えにくいことだと述べた。しかし、通常の言語使用とは別の機構が働いているならば、全くあり得ないというわけではない。ここでもう一度さきほどの引用文の後半を読み返してみることにしよう。稲妻卿が自分の置かれた言語的状況について立てた仮説は天使が用いるという普遍言語に訴えるものだった。現代日本人が喋った現代日本語は普遍言語へと翻訳(?)されて、中世フランス人たる稲妻卿にその意味を伝えるのだ。

では、普遍言語とは何か? おそらく、日本語とかフランス語といった個別の言語から独立な前言語的な何かだろうと思われる。だが、私は天使学に通じているわけではないので、具体的にどういうものであるのかはわからないし、どのようなメカニズムで稲妻卿が普遍言語とやらを理解しているのかもわからない。

自分自身の心のうちの観念や想念、思念の類(言葉を三つ並べてみたが、特に使い分けを考えているわけではない)は果たして言語を媒介することなしに理解することは可能なのだろうか? 前世紀の哲学の基調は、この問いに対して概ね否定的だった。言語なしにはいかなる理解も不可能であり、そもそも思考そのものが成立しない、と断定する哲学者もいた。しかし、20世紀後半の心理学と脳科学の発達に伴い、前言語的、非言語的な思考の可能性が示唆されるようになってきた。強いて「言語」という語に拘るなら「心の言語」と言ってもよいが、日本語やフランス語やタガログ語やスワヒリ語などとは全く異なる機構が個々人の心のうちにあるというのである。私は最先端の科学に通じているわけではないので、このような考えがどの程度妥当なのかを見極めることはできないが、話の都合上、そのような「心の言語」が存在するものとして考えを進めることにしよう。

「心の言語」が完全に私秘的なもので、各人がそれぞれ全く別の「心の言語」を操っているのだとすれば、意思疎通の場に引き出すことはできない。だが、心が依存しているはずの脳の構造が万人に共通なものなのだから、「心の言語」もまた共通であるに違いないと考えるなら(この仮説にはかなり大胆な飛躍が含まれているが、これも話を円滑に進めるためなのでご了承願いたい)、「心の言語」は少なくとも人類にとっては普遍言語ということになるだろう。中世フランス人であろうが、現代日本人であろうが、脳の構造に違いがあるわけではない。

日本人が日本語を発するとき、その背後には日本語化される前の「心の言語=普遍言語」で形成された意味が隠されている。それは普段は表に出ることはなく、従って意思疎通とは何の関係もない。しかし、何らかの超自然的な力によって、日本語の発話が稲妻卿の耳に届くのと同時に、その言葉の背後の「心の言語=普遍言語」が彼の心に直接響いてくるのだとすれば、彼が相手の言葉の意味を理解できることに不思議はない。

「心の言語」は話し言葉を発する時ばかりでなく、書き言葉を表出するときにも生じているはずだが、稲妻卿が日本語の文面を見たときには彼の心に響いてくるものは何もない。これは、書き言葉の筆者が現前していないからだと考えられる。この仮説が正しいならば、誰かが日本語で文章を書いている現場に稲妻卿が立ち会えば、その文章自体は読めなくても何が書かれているかがわかるはずだ(残念ながらそのような描写は『キマイラ』にはない)。逆に話し言葉であっても、発話者が現前していない場合には、何を言っているかがわからないことになる。これもはっきりと書かれた場面はないが、172ページ〜174ページあたりが傍証になるのではないかと思う。

長々と書いてきたが、ここまでは準備段階に過ぎない。日本語話者が日本語と同時に発する(?)「心の言語=普遍言語」を稲妻卿が認識することにより、日本語を理解せずに日本語で語られた言葉の意味を理解する。この仮説を踏まえて本当の問題に取りかかろう。稲妻卿はいったい何語を喋っていたのか?

稲妻卿が日本人の言葉を理解するのと全く逆の過程を経ているのだとすれば、次のようになるだろう。稲妻卿は自分が言いたいことをただ「心の言葉=普遍言語」でのみ発する(?)のだが、そこに何か超自然的な力が働いて、その言葉に対応する日本語の言葉が付随し、日本人たちはそれを介して稲妻卿が言わんとすることを理解するのだ、と。だが、これはあまりにも無理のある考えである。これだと稲妻卿は通常の言葉は口にしていないことになる。とすると、彼の唇は閉ざされたままということになってしまい、きっと誰かが怪しむだろう。

では、全く逆の過程ではなく、日本人たちと稲妻卿の立場を入れ換えてみてはどうか。すなわち、稲妻卿はフランス語で話し、日本人たちはフランス語を理解しないものの、彼の「心の言語=普遍言語」を理解するのだ、と。これも受け容れがたい説明だ。稲妻卿の言葉遣いの古くささに違和感を覚える者は多いが、誰一人として彼が日本語以外の言語を操っているなどと疑う者はいないのだから。

従って、稲妻卿は日本語で喋っているのだと結論せざるを得ない。だが、日本語を理解しない人が日本語で喋ることが可能なのだろうか? 仮に超自然的な力が働いて、本人はフランス語で喋るつもりなのに口が勝手に日本語を発するのだとすると、稲妻卿には自分自身の言葉を耳で聞いて理解できないということになってしまうのではないだろうか。

かくして私の考察は行き詰まった。

でも、すぐに煮詰まった。

これまでの私の考察は全部間違いだった。それは202ページ上段を読めば明らかだ。「心の言語=普遍言語」などというものが存在し、かつ、それによって稲妻卿が日本人の言葉を理解するのだとしたら、そこで書かれているような誤解は決して起こりえないはずだ。その場面で稲妻卿は通りすがりの女性が発した日本語の音韻をそのまま受け止めている。そして、耳で聞いた言葉の中でフランス語に由来する外来語をより分け、それを原語に戻した上で再び日本語の文脈に挿入するという複雑な過程を経て、初めて誤解が成立しているのである。こんな事は日本語を知らない人間には到底不可能だ。

よって、私の結論はこうだ。稲妻卿は日本語を理解し、日本語で話された言葉をたいていの場合はそのまま理解し、時によっては誤解する。そして自らも日本語で喋る。通常の日本人と異なるのは、他人の言葉を誤解する仕方が独特であること、自らの口調が時代がかっていること、そして本人は自分が日本語を理解していないと思い込んでいること、この3つである。

ここからさらに稲妻卿の存在論的身分へと探究を進めることも可能かもしれない。それは読者諸氏にお任せすることにしよう。


『銀盤カレイドスコープ』の感想文以来およそ一年ぶりにそっち方面に暴走してしまった。そういえば『銀盤』も憑依ネタだった。誰かこの二作を比較検討してくれないだろうか。

1.11151(2004/08/18) ただいま画策中!

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何を画策しているかは秘密だ。不発に終わるといけないから。


世の中には二種類の人間がいる。ひとかどの人とそうでない人だ。後者はさらに二種類に分けられる。諦めた人と諦めきれない人だ。諦めきれない人は何とかして自分をひとかどの人間であるかのように見せようとするが、どう足掻いても無理なものは無理だ。そこで諦めがついたらいいのだが、それでもまだ未練が残る人もいる。そんな人は有名人にすり寄って知り合いになり、それを鼻にかけるようになることがある。逆に有名人をあしざまにこき下ろすことによって自分の偉さを世間に見せつけようとすることもある。醜悪さの程度でいえばどっちもどっちだが、我に返るまでのしばらくの間は甘美な陶酔に浸ることができる。ぜひお試しあれ。


『「行政」を変える!』(村尾信尚/講談社現代新書)という本を読んだ。内容はあまり面白くなかったが、「おわりに」と題したあとがきの、皆さんの温かい心に感謝しつつ、最後のEnterキーを打つ。という最後の一文は印象に残った。

昔はこんな時に「筆を擱く」と言ったものだが、毛筆はもとより万年筆や鉛筆さえも原稿執筆の道具としては用いられなくなりつつある現在、この表現にはどうしても古めかしさがつきまとう。そこで「Enterキーを打つ」と工夫したのだろう。

もっとも、日本人が地動説を知って数百年を経た今でも「日が昇る/沈む」という表現を平気で用いている。「Enterキーを打つ」が「筆を擱く」にとってかわる日が来るかどうか、私にはわからない。

1.11152(2004/08/19) 胃の痛くなる話

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今日、わさび味のソフトクリームを食べた。見た目は抹茶ソフトに似て薄緑だが、味は強烈だった。

1.11153(2004/08/20) 銀盤

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巷で評判の『銀盤プリンセス』(わかつきひかる/フランス書院美少女文庫)を読んだ。で、今日はその感想を書くわけだが、その前にいちおうここにリンクしておく。


さて、『銀盤プリンセス』のカバー裏見返し(という言い方でいいのだろうか? 間違っていたらごめん)を見ると、わかつきひかる作品の一覧が掲載されているので、転記しておこう。なお、4の「(はぁと)」は本当はハートマークなのだが、機種依存文字であるため、便宜的にそう表記することにした。また、丸括弧内は表紙絵、口絵、本文イラストの担当者である。

  1. 『後夜祭 君をイジメたい』(三月春人)
  2. 『永遠の君へ 隣の妹』(Tony)
  3. 『応援します!あなただけのチアリーダー』(あまの・よ〜き)
  4. 『大好き(はぁと)わたしのお兄ちゃん』(三月春人)
  5. 『銀盤プリンセス 生意気なMドレイ』(あきら)

美少女文庫には作者紹介の類は全くないので、私はわかつきひかるという人物については、確か美少女文庫創刊前からノベルス版で本を出していたはずだということくらいしか知らない。調べればわかるのだろうが、面倒なのでやらない。

上に掲げた作品のうち、1は非常に面白かったが、2はそこそこで、3になるとどんな内容だったか覚えていない。で、4を買いそびれているうちに5が出てしまったというわけだ。

1が面白かったのは、一方でお約束のえっちシーンがふんだんにあり、緊縛とか肛虐とかハードなことをやっているのに、日常生活パートに入るとごく普通の青春小説になっているというギャップが楽しかったからだ。同様のギャップは2や3にもあるのだが、巻を重ねるに従ってインパクトはどんどん薄らいでいくため、面白さが減退していったのだと思う。今回は色物っぽいので、果たしてマンネリから脱却できているかどうか、そこが興味の焦点だった。

さて、この小説について語るには当然『銀盤カレイドスコープ』について触れることになる。ネット上では評判になったものの世間一般での知名度はまだまだ『マリア様がみてる』には遠く及ばない『銀盤カレイドスコープ』をネタにするとは美少女文庫もなかなか思い切ったことをするものだ。この調子だと、そのうち『ROOM NO.1301』ネタの本も出るかもしれない。いや、本当に出たら驚きだが。

それはさておき、『銀盤カレイドスコープ』と『銀盤プリンセス』を比較して共通点を挙げてみよう。

『銀盤カレイドスコープ』はヒロインの桜野タズサの一人称だ語られるが、『銀盤プリンセス』のほうは三人称だ。一人称は三人称に比べるとなめらかに視点を切り替えるのが難しく官能描写を当事者双方の視点で語るには不向きだが、仮に『銀盤カレイドスコープ』のパロディを目指すなら多少の犠牲は払ってでもヒロインの三人称で書くところだ。逆にいえば『銀盤プリンセス』は『銀盤カレイドスコープ』のパロディを意図しているわけではないということになるだろう。類似点は本を手に取らせるまでで、あとは独自の内容で勝負、というところか。

従って、あまり『銀盤カレイドスコープ』を引き合いに出しても仕方がないのだけれど、一つだけ言っておくと、自己中心的で傍目には傲慢に見えるヒロインの設定は、その性格から生じる周囲の人々との軋轢とセットになって生きてくるもので、『銀盤プリンセス』には後者の要素がほとんど含まれていないためにやや緊張感を欠く物語になっていたように思われる。『後夜祭』のヒロインの人物造形が面白かっただけに、『銀盤プリンセス』の平板さは残念だった。


やや否定的な感想になってしまったので、バランスをとるために某氏の好意的な評を紹介しておこう。零によって無断転載だ。

この2年ばかり、こういう小説を読みたかったし、何より誉めたかった。

物真似? 市場原理主義? そんな枠で括るには惜しい、業界でも屈指のライトノベルをペースにエッチなパロディ化した、記念すべき一作。

真に優れたエロパロとは、たとえ元ネタを知らなくてもそのエッチさに男子諸君はハアハア興奮でき、元ネタを知っているものには元のヒロインを脳裏に浮かべながらニヤニヤと笑いながら、いたすことはいたせる、そんな作品のことを言う。


本作も、その点では言うに及ばず。元ネタ作品、銀盤の美少女「たずさ」をイメージさせずにはいられない、銀盤プリンセス「理沙」が華麗に銀盤を疾駆し、そして美形にして立派なイチモツの持ち主の少年「雅人」と単なるペアの相手から恋へと関係を進めていく過程は銀盤カレイド〜(3)を彷彿とさせる。


しかし、本作の評価すべき箇所はそこではない。

恋に落ちた2人はしかしお互いの信頼を深めていくのですが、主人公「雅人」は処女を捧げてくれた「理沙」に対しそれ以上のものを要求せずにはいられなくなる。そう恋人である自分に対し、彼女はどこまで真実の、そして素顔を見せてくれるのかと。

それは愛しい彼女への強制フェラ、そしてノーパン放置プレイと日を追う毎にサディズムな仕打ちは加速していき、極限まで理沙を追いつめそして試してしまうという雅人、しかしそんな無茶な要求に氷の女王、プリンセスとさえ呼ばれた自身のプライドすらも捨て彼のある意味で屈辱的とすら言える性的奉仕に応える理沙の健気さは、少年向けライトノベルでは絶対に表現不可能な愛情の形にして、まさしく純愛と呼ぶべきもの。


そんな純愛で結ばれたSとMな2人の前に立ちふさがるのは、ペア・プログラムの国内大会。雅人と結ばれ女に目覚めた銀盤のプリンセス「理沙」は、身につけた新たな魅力、少女ではない女の魅力と気品を武器に挑むがその成果はいかに……。

ここから先は、ぜひ読者のみんなには自分の目で確かめてほしいと思います。


これほど質の高いエロパロを世に出したフランス書院美少女文庫には、心からの拍手喝采を送るとともに、業界初ではないかと思われる直球勝負なライトノベルを元ネタにしたエロパロぶりを高く評価したいと思います。

ところどころ変な言い回しがあるが、これはここで紹介した『銀盤カレイドスコープ』の感想文のパロディである。念のため。


『銀盤プリンセス』の次に『描きかけのラブレター』(ヤマグチノボル/富士見ミステリー文庫)を読んだ。ヤマグチノボルといえば、『つっぱれ有栖川』(角川スニーカー文庫)の作者だ。先月、ここに書いた事情で『つっぱれ有栖川』を読んだら意外と面白かったが、続いて既刊を読むのにはまだためらいがあって、とりあえず次に出る新刊を読んでみることにしていたのだが、その新刊というのが『シスタースプリング 〜いつかの妹〜』(フランス書院美少女文庫)で、これも面白かったといえば面白かったのだが、これはちょっと別格ということにしておいて(実際、『描きかけのラブレター』の著者紹介でも『シスタースプリング』は無視されている)、さらに次の作品を読んでみることにしたのだ。こうやって書いてみると、美少女文庫を毎月読んでいるようだが、別にそういうことはなくてたまたま続いただけだ。創刊の頃には美少女文庫全巻読破を企てたこともあったが、さすがに今はそんな大それたことは考えていない。

さて、『描きかけのラブレター』だが、これは直球一本勝負の恋愛小説だ。ライトノベルにはSFやファンタジー系の小説が多いが、そうでなくても設定を捻ったり、新奇な要素を入れたりしていて、純然たる恋愛小説に出会えることはごく稀だ。しかし『描きかけのラブレター』の場合は、目に見える部分での技巧を極力排して、純然たる恋愛小説に仕上げている。もちろん陰では読者の興味を惹きつけ、心理を揺さぶるために、さまざまな仕掛けが施されているに違いないが、それを分析して露わに示すことは私には無理だ。そのかわりに、あとがきから興味深い一節を引用しておこう(強調は引用者)。

美人で、ナイーブで、ほんとはどんよりとした暗い性格なのに、他人に誤解されるのがいやで、明るく振舞い、社交的な仮面をかぶった少女。

そういった少女の、陰の部分と陽の部分にスポットを当てて、物語を書きました。

そんな女イヤだ、暗い、やってらんね、と思われるかもしれませんが、魅力ってのはギャップであるのです。表面だけでなく、裏面の可愛さを感じ取って欲しいと思います。円はそれだけの魅力を持った女の子に描いたつもりです。

これは『描きかけたラブレター』の作者自身による解説になっているだけでなく、人物造形のための技法の一端を明かしている。創作を志す人は参考にしてほしい。

この作品について、まだ言っておきたいことがあったような気がするが、これ以上書き続けるとボロが出そうなので、この辺でやめておく。