【日々の憂鬱】無料見学バスツアーもいかがなものかと思ったが、グラスポートはもっといかがなものか。【2004年7月上旬】


1.11114(2004/07/01) 暑い

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あまりに暑いので、一回休み。

1.11115(2004/07/01) 二回休み

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依然として暑く、思考力がうまく働かない。こんな時には、どうでもいいことを考えるに限る。

たとえば、「北口」という駅名について考えてみよう。私の知る限りでは、「北口」そのものが名前になっている駅はないが、駅名の一部に「北口」が含まれている駅はいくつもある。思いつくまま挙げてみる。

兵庫県に2駅、奈良県、香川県、島根県にそれぞれ1駅、全部西日本だ。

この地理的な偏りは単なる偶然なのか、それとも「南口」なども同じように西日本中心に分布しているのか、と検討してみるのも楽しいのだが、別に私はそんなことがやりたくてこの話題を持ち出したわけではない。

では、他に何かやりたいことがあるのかといえば、全くないわけでもないのだが、別にここにあえて書くほどのことでもない。だったら最初から書くなよ、と言われてしまいそうだが、何も書かなければ伝わるものも伝わらない。いや、書いたところで伝わるかどうかは甚だ疑問だ。なぜなら、私が伝えたいと思っている相手がここを見ているかどうかすら不明だからだ。だが、万が一ということもあるので、私信を書いておこう。

私信:いろいろ話したいことがあるので、第三土曜日の夕方に出てきてください。

あかん。やっぱり夏の暑さには勝てない。


大阪では喫茶店に行くことを「茶をしばく」と言うらしい。実際に日常会話でそう言っているのを聞いたことはないので、都市伝説の類かもしれないが、案外使っていてもおかしくはないような気もする。大阪だから。

さらに、牛丼を食べることを「牛をしばく」と言うらしい。こっちはたぶん嘘だと思うが、そんな事を言ってしまうと身も蓋もないので、現に使われている言い回しであると仮定しよう。なんといっても大阪なのだから。

で、私がふと思ったのは、牛丼が簡単には食べられなくなった昨今のご時世、マリー・アントワネットなら「牛がないなら豚をお食べ」と言いそうな状況(ただし「パンがないならケーキをお食べ」はマリー・アントワネットの言葉ではない)において、大阪の人々は豚丼を食べることを「豚をしばく」と言うのだろうか、ということである。

これは一見、素朴な疑問であるようだが、実は非常に複雑な構造の問いである。というのは先に我々は、大阪人は現に「牛をしばく」という言い回しを用いるものだと仮定したのだから、その仮定の下で「豚をしばく」について考察しなければならないからである。大阪人にアンケート調査を行ってみれば判定できるという、そんな簡単な問題ではないのだ。

1.11116(2004/07/03) 隘路にアイロニー

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暑さのせいで見出しがベタになっているが、そんなことには構わずに、いきなり引用から始めよう。

「だから一緒に死んでいいよ」

「でもわたしの事一番大事に思っているわけじゃないでしょう!」

「太宰治だって心中相手は一番じゃなかった」

「誰よそれ!?」

「『人間失格』書いた人」

「それは何とかって言う脚本家でしょ!!」

これは『ファミリーアワー』(遠藤淑子/白泉社 JET COMICS)所収の「真夏」からの引用(原文はフキダシ内で改行している)だ。終盤近くの場面なので、未読の人のため状況説明は控えておく。

実は、ここに抜き出した会話は一つのコマに収まっている。非常に密度が濃い。この会話を分析するだけで、ちょっとした論文を一つ書くことができるのではないかと思うくらいだ。さすがは遠藤淑子、科白回しのうまさは現役マンガ家の中でもトップクラスだ。

もっとも、このコマの会話の含意を読み取るためには、かなりの知識が要求される。太宰治の小説と生涯についての知識のほか、彼が現代日本でどれくらいの知名度を有しているのかという知識も必要だ。また、『人間・失格』というドラマがあったという知識ももちろん必要だし、「何とかっていう脚本家」の名前や他の仕事についてもある程度知っていたほうがよい。

もちろん、少なくとも遠藤淑子のマンガを読むような人なら、こんなことは常識であり、特に過大な要求ではない。だが、文化的背景が異なる人々にはこの会話は理解しがたいことだろう。たとえば、このマンガが英語(別に英語に限る必要はないが、次の話題との兼ね合いがあるので英語を例に挙げる)に翻訳されたとして、一般的なアメリカ人(別にアメリカ人に限定する必要はないが……以下同文)は字面だけを読み飛ばしてしまうことだろう。

さて、次に別の会話を取り上げよう。

「驚いた、ふざけてるの? それは1と2が等価値であるというわたしの計測と、わたしの直観的把握とのちがいなのよ。わたしはもう頭の中にはっきりした量の概念を持てなくなった。どれもがおなじように感じられる」

「そんなはずはないだろう」カールはいった。「だれもそんなことを現実に経験できるはずはない。それはまるで朝食の前に六つの不可能事を信じるようなものだ」

「わたしがなにを経験しているか、どうしてあなたにわかるの?」

「ぼくは理解しようとつとめているんだよ」

「よけいなお世話」

『あなたの人生の物語』(テッド・チャン/ハヤカワ文庫SF)所収の「ゼロで割る」(浅倉久志・訳)の一節。これも状況説明は省略する。

この中の「朝食の前に六つの不可能事を信じる」という言い回しは明らかにルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』が出典で、もとは白のクイーンの科白だ。ここまではわかる。

だが、ここまでだ。

この言い回しがアメリカでどの程度知られているのか、そして、一般にどのような含みをもって用いられているのかなどということは私には全くわからない。もしかしたら大した意味はなく、ただ作者の気まぐれで挿入されたフレーズなのかもしれないし、登場人物の性格や感情の動きについて何らかの示唆を読者(もちろんアメリカの読者)に与えるために計算ずくめで書いたのかもしれない。「かもしれない」だけなら何とでも言えるが、それを越えては何も言えない。

なお、誤解のないように言っておくが、この二つの作品はたまたま私が最近読んだので取り上げただけで、引用箇所をもとに作品論を行おうと思っているわけではなく、単にテキストを読み解くには十分な背景知識が必要だという、ごく当たり前のことを言っているだけに過ぎない。


『あなたの人生の物語』について、もう一つ、忘れないうちに書いておこうと思いながら忘れていたことがあった。それは表題作に登場するエイリアンの用いる文字言語がフレーゲの概念記法に似ているのではないか、ということだ。非線形で二次元的に展開されるという外見上の特徴と、発話言語とは別の体系になっているという構造上の特徴からの連想だ。「で、それが?」と問い返されたら「それだけです」と言うほかはないが。

1.11117(2004/07/03) ある問答

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「『くじびきアンバランス』がアニメ化されるという現象は、ある意味で現代オタク文化のウロボロス的状況を象徴していると言えるのではないかね?」

「う〜ん、『母をたずねて三千里』っていう例もあるしなぁ」

1.11118(2004/07/04) 石野兄妹の休日

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午前11時ちょうどにJR天王寺駅構内の待ち合わせ場所に行くと、そこで本を読んでいる人は二人いた。一人は二十代半ばくらいの青年で、もう一人はどう見ても十代前半にしか見えない少女だった。

石野休日氏のサイト、新青春チャンネル78〜自己紹介のページによれば、性別は男で、生年は1978年だから、先の青年のほうが該当する。後者の少女のほうは性別も年齢も違っているので、石野氏だとは考えにくい。ただ、問題は彼女が読んでいる本が『名探偵 木更津悠也』だったことだ。

待ち合わせの際の目印については、僕の考えがあります。
つい最近読んで、いたく気に入りましたミステリ小説がございまして、
僕は待ち合わせの場所で、その小説を持って立っていることにします。
装丁はなかなかに目をひきますし、
滅・こぉるさんも確か読んでいたはずですから、
わかりやすい目印になるのではないかと。

『名探偵 木更津悠也』の装丁が目をひくかどうかはやや疑問だが、少なくとも私が読んでいる本であることに違いはない。私と石野氏の待ち合わせ場所で、偶然全く無関係な第三者がこの本を読んでいるということは考えられるだろうか?

少しためらいながら、私は心持ち男性の側に向かいつつ「ええと、石野休日さんですか?」と尋ねた。

すると……

「はい、僕が石野です」

「石野でーす」

二人からほぼ同時に声があがり、私は驚いた。


それから数分後、阪和線の車内で事情をきいて、ようやく私は事の次第を理解した。件の二人は両方とも石野休日氏本人だったのだ。要するに、「石野休日」というのは個人名ではなく、二人の共同ハンドルだったということになる。二人は実の兄妹だそうだ。本名はきいていないので、便宜上、青年のほうを石野(兄)氏、少女のほうを石野(妹)嬢と呼び分けることにする。

新青春チャンネル78〜開設当初は、「石野休日」は石野(兄)氏の純然たる個人名だったらしい。しかし、(兄)氏が仕事で忙しいときに石野(妹)嬢が代理でサイトの更新をしたり、二人で合作した小説などを公開するうちに、次第に「石野休日」は共有名となっていったそうだ。そして、今では本サイトはほとんど(妹)嬢が単独で運営していて、(兄)氏は競馬場が遠すぎるのみを更新しているそうだ。

「え〜っと、じゃあRoseColor関係は?」

「対外的には僕が全部やっています。箕崎君との打ち合わせとか、ねとらじとか」

「そ、お兄ちゃんたら、まだ一度も箕崎さんに会わせてくれないの。実際にシナリオ書いてるの、あたしのほうなのに。変に気を回しすぎてるんじゃない?」

「気を回しすぎ、って?」と石野(兄)氏

「ほら、箕崎さんだって男の人だし……」

ここで石野(兄)氏が大げさに手を振って、ツッコミのそぶりを見せた。こうやって文章にしてみると、現場の雰囲気が伝わりにくいかもしれないが、もちろんこの二人の会話は冗談交じりのものであり、箕崎准氏に対して何ら含むところはないのは明らかだった。誤解のないよう、念のため言い添えておく。

しかし、それにしても中学生くらいの女の子が、同人とはいえゲームのシナリオを書いているとは俄に信じがたい。担がれているのではないだろうか?

「えっと、あたしはこう見えても18歳です」

それは失礼しました。

そうこうするうちに電車は堺市駅に到着し、私たちは下車した。今日最初の目的地アルフォンス・ミュシャ館は駅を出てすぐのところにある。


ミュシャの絵は少女画が中心だと何となく思っていたのだが、実際に見てみるともう少し年齢を重ねた女性の絵が多かった。二重顎のおばさんの絵もあったくらいだ。少し意外だったが、まあ実物を鑑賞できたのだから、これはこれでよしとしよう。

そんなことよりも私が気になったのは石野兄妹のほうだった。電車に乗っているときにはさほどにも思わなかったのだが、ミュシャ館(と、そのついでに見た与謝野晶子文芸館)での二人は、何というか、ふつうの兄妹の関係よりもやや親密なのではないかと思われた。よりはっきりいえば、恋人のように見えた。なぜなら、きっぷを改札機に通すとき以外、ずっと手を繋ぎっぱなしだったからだ。

いや、としの離れた異性のきょうだいなら、もしかすると手を繋いで歩くのはさほど不自然なことではないのかもしれない。18だと言われても石野(妹)嬢の見かけは13歳くらいにしか見えないので、石野(兄)氏(こちらは年相応の外見)にとってはいつも目が離せない子供なのだろう。私はそう思うことにした。ただ、それでも違和感は残る。うまくは言えないのだが、兄が妹を保護しているというよりは、妹が主導権を握っているような――少し変な言い方だが、妹が兄を操っているような――そんな印象を受けたのだ。

だが、初対面の相手に、あまり家庭の事情を根掘り葉掘り訊くものではない。「お二人に肉体関係はありますか?」などとは尋ねられなかった。いやまあ、石野兄妹が相手でなくても、こんな事を問うてはいけないのだが。


それから、さらに電車を乗り継いであちこちを見て回ったのだが、面倒なのでそのあたりのことは省略。もしかしたら石野氏が書くかもしれないし、書かないかもしれない。

今日は、幸い薄曇りで直射日光は当たらなかったものの、非常に蒸し暑く不快な気候だった。公園の傍を通りかかったところで、ちょうど涼しい風が吹いてきたので、ちょっと休憩しようということになり、私たちは空いたベンチに腰掛けた。が、私はひどく喉が渇いていたので、ベンチに鞄を置いて、自動販売機で飲み物を買うことにした。すると、石野(妹)嬢も同じくベンチから立ち上がった。

その瞬間、石野(兄)氏の身体が、くたくたと崩れ落ちるような妙な動きを見せた。

「あれ?」

既に自販機のほうに向かって歩き出していた私は、しばしその場で立ち止まったが、「いいの、いいの」という石野(妹)嬢の言葉で再び自販機に向かった。続いて(妹)嬢も自販機へと歩を進める。

自販機の前で、どれにしようか迷っていると、私に追いついた石野(妹)嬢が呟くようにして言った。

「う〜ん、お兄ちゃん、もうちょっと保つかと思ったんだけど。ちょっと介入しすぎちゃったかな」

私には彼女の言葉の意味がわからなかった。強いて理解しないほうがいいとも思った。

「ま、夏コミまではだましだまし行きましょう」

ベンチに戻り、石野(妹)嬢が缶飲料を石野(兄)氏に手渡すと、(兄)氏は生き返ったようだった。あるいは「干物が水を吸って張りを取り戻したようだ」と表現すべきかもしれない。ふと二人の間に目を向けると、いつの間にか手を繋いでいた。


ところで、書き忘れていたが、私が石野休日氏に連絡をとって会うことにしたのは、ちょっとした下心があったからである。もし、今度のコミケのサークルチケットが余っていたら、1枚もらおうと思っていたのだ。

コミケのサークルチケットは1サークルにつき3枚。箕崎氏と石野(兄)氏の分を除けばあと1枚残るはずだ(というのも勝手な思いこみで、RoseColorは別に2人だけのサークルではなく、私が知らないだけで他にも関係者が何人もいる)。だが、公園の情景を見て、私はその考えを引っ込めざるを得なくなった。

コミケスタッフは、石野兄妹を合わせて1人とは数えてくれないだろうから。

1.11119(2004/07/05) 千円札は日本銀行券である、故に、もし私の財布に千円札が入っているならば私の財布には日本銀行券が入っている

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やはり、見出しは本文と無関係なほうが書きやすい。


なんとなくリンクしておく。


昨日買った本。


ついでだから、日刊海燕『DEATH NOTE』評にツッコミ。賢いものが生き延び、愚かなものが死んでいく、ただそれだけがゲームのルールで、超越的な道徳律がはたらいて悪を裁いたりはしない。だが、このマンガの死者の大部分は、悪人ではないだろうか? 悪人ではないが愚かなために死んでいく者はごく少数に過ぎない。キラは自らを超越的な道徳律の権化とみなし悪人を裁いていくのだし、Lは正義の名のもとに捜査を進めるのだから、その意味で『DEATH NOTE』はとことん道徳的な物語である。

他方、ごくありふれた倒叙ミステリですら道徳を超越している。なぜなら、犯罪者たちは自らが犯した罪の代償としてではなく、犯行計画のちょっとしたミスのせいで破滅するのだから(『殺意』という偉大な例外があるが、これも「道徳的結末」を迎えるとは言い難い)。

もちろん、道徳べったりの物語は一般に道徳を超越した物語に劣るというわけではない。物語の面白さは個別に判断するしかない。


近所のコンビニでファンタゴールデングレープを売っていた。懐かしい。でも、飲んでみたら、どうということのない味だった。


私信チケット云々は話にオチをつけるために書いただけなので、あまり気にしないで下さい。

1.11120(2004/07/06) メンヘル肯定液

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何事にも自信が持てず、気が塞ぎ、不安な毎日を過ごしている人。朝になると頭が重く、身体を動かす気力が出ない人。そんな人々に私はメンヘル肯定液をお薦めする。朝起きがけに軽く一本飲み干せば、その日一日快適に、自分の存在を肯定して生きていける。ああ、メンヘル肯定液とは何と素晴らしい妙薬であろうか!

むろん、メンヘル肯定液は万能薬ではない。自己陶酔にも限度がある。楽しい夢の後には寒々とした現実が待ちかまえているのだ。メンヘル肯定液の効き目が切れたら、肯定液を服用する前よりも一層沈み込み、生命力の源泉が枯渇し、世界から色つやが消え去り、身体の精神は引き裂かれ、見慣れた風景は異形の物象に変じ、あなたを押しつぶそうと襲いかかる。

だが案ずる事はない。メンヘル肯定液を上回る究極の霊薬、メンヘルファンキーがまだ残されている。1本あたり30万円(メーカー希望末端価格/税込)を高いと思うのはあなたの自由だ。しかし、この1本で俗世間の瑣末事を忘れ、極彩色の高次空間で1日を過ごせるのだから、決して高いことはないと私は断言する。

お求めはお近くの無認可薬店でどうぞ。

1.11121(2004/07/07) 棚からバター餅

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『つっぱれ有栖川』(ヤマグチノボル/角川スニーカー文庫)が出たのは一年くらい前のことだが、この小説の主人公の名前が有栖川ありすだという、ただそれだけの理由で一部ミステリサイトで話題になったことを思い出す。もっとも、主人公の名前が有栖川ありすだという、ただそれだけの理由で話題が続くわけもなく、ミステリでもなければミステリ的技巧や趣向を用いているわけでもない『つっぱれ有栖川』は、すぐにミステリ系の人々に忘れ去られてしまった。

私も、この小説の主人公の名前が有栖川ありすだという、ただそれだけの理由で記憶の片隅に留めてはいたのだが、当時の私はライトノベルにはあまり関心がなく、どちらかといえばラノベに冷淡であり、いやむしろラノベの流行を苦々しく思っていたくらいなので、当然のごとく『つっぱれ有栖川』を手に取ることもなく、ちょっと読んでみようかなどと考えることもなかった。

それから、一年が経過した。かつて「てやんでぃ、ライトノベルなんて小説じゃないやい! 本当の小説ってぇのは、こう腹にずんと重く響くような、そんな感動があるものを言うんでぃ。江戸っ子だったらラノベなんか読まねぇで、ヘビーノベル、略してヘノベを読みやがれってんだ、てめぇ」などと言っていた私もすっかりとしをとってしまい、『南青山少女ブックセンター』を読んで面白がるほどに枯れ果てた。

そんなある日(というのは昨日のことだが)、まいじゃー推進委員会!で『つっぱれ有栖川』が取り上げられているのを見かけた。それだけなら別にどうということはないのだが、昨日は所用のためいつもの通勤ルートを外れて、ふだんはめったに行かない本屋に入ってみたところ、何の因果かちょうどたまたま偶然ばったり『つっぱれ有栖川』に巡り会ってしまったのである。

かくして私は、有栖川ありすという名前の主人公が活躍する小説を買い求めることとなった。本との巡り合わせというのは不思議なものだ。

ところで、有栖川有栖の本名はもちろん「有栖川有栖」ではない。デビュー前に本名で鮎川哲也の文庫本の解説を書いたこともある(ほかに北村薫も本名で解説を書いている)ので知っている人も多いことだろう。だが、今は有栖川有栖の本名を話題にしたいわけではないので、ここには書かない。某ナベツネ新聞社の年鑑に載っている(住所と電話番号も載っているのにはびっくりした)ので、知りたい人は参照するといいだろう。

で、先ほど『つっぱれ有栖川』を読み終えたところだが、予想していたよりも意外と骨格がしっかりした熱いスポ根ものだったので驚いた。基調がギャグなので、もっとルーズな小説かと思っていたのだ。

決してミステリファン向きの小説ではないので、主人公の名前が有栖川ありすだという、ただそれだけの理由ではお薦めはできないが、ヘノベに食傷した人の気分転換にはいいだろうと思う。『銀盤カレイドスコープ』のファンにもお薦めしたい。

1.11122(2004/07/08) 齲歯をしばく

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国の役所が出したある文書で「う歯」という言葉を見かけた。「ウハ」と読むのも変だからきっと「ウシ」と読むのだろう。そう想像はついたのだが、意味がわからない。辞書で調べて、ようやく虫歯のことだと知った。なお、本来は「クシ」と読むべきで「ウシ」は慣用読みだそうだ。

私は不勉強で、これまで「齲」という漢字を知らなかった。漢字なんてごまんとある(本当に五万字かどうかは知らない)のだから、私の知らない漢字のほうが多くて当然だが、ATOKで簡単に変換できるような漢字を知らないのは恥ずかしい。もっと勉強しなければ。

ところで、「う歯」と同じ文書に「咽頭」という言葉もあった。「咽」には「いん」とルビが振られていた。「咽」は常用漢字ではないのでルビを振ったのだと思うが、それだったら「う歯」もルビつきで「齲歯」と書けばよかったのではないか、と思った。お上の考えることはよくわからない。


会議をひらくのは開会で、おひらきにするのは閉会だ。


せっかくだから言葉ネタでまとめてみようと思ったが、あとが続かない。全然関係ない話をしよう。

私はこの夏に二回旅行する予定だ。本当は三回だったのだが、資金繰りの都合でひとつは断念した。

まず断念した旅行計画だが、題して「のと鉄道終点まで行って戻ってくるだけ一泊二日の旅」だった。のと鉄道は国鉄赤字路線を引き継いだ第三セクター鉄道の一つで、ご多分にもれず経営が苦しい。既に数年前に穴水〜輪島間を廃止していて、残る和倉温泉〜蛸島間もいつまで残るか、わからない。私は油断していて廃止区間に乗らずじまいだったのだが、せめて残りの区間だけでも乗っておこうと思い、計画したのである。

だが、関西からは距離のわりには意外と不便で、一泊二日だと行って帰ってくるだけになってしまう。昔の私ならそれでもよかったのだが、最近、少しは観光もしようと思うようになったので、これではちょっと物足りない。できれば二泊三日であちこち見て回って、温泉にもつかって……などと欲張ってどんどん計画を膨らませていくと、かなりの資金が必要になった。コミケ前後にあまり金を使うわけにはいかないので、この計画は凍結することにした。

次に山陰方面への旅行計画。一畑電鉄が消えそうだという噂を聞いていて、去年の冬にも一度計画を立てたのだが、何となく気分が乗らず、実行しなかった。

今度も夜行列車を絡める点では前回と同じだが、使う列車が異なる。「ムーンライト八重垣」で直接出雲市に向かい、一畑に乗るつもりだ。この列車は運転日がごく限られていて、大阪発の下り列車の場合、8/6,7の両日と8/11〜16の期間しか運行されない。コミケと重なる時期は論外なので、8/6に出発することにした。もちろん、青春18きっぷを使う。

最後に恒例コミケ旅行。行き先が東京なので新味もなければ旅情もないが、何とか工夫してちょっと変わったことをしてみたい。去年は夏冬ともに往復新幹線だったが、今回は夜行列車にしてみたい。でも寝台だと高いので座席車だ。指定席券とれるかなぁ。

1.11123(2004/07/10) 多数派・少数派・中途半端

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私の趣味や関心は、明らかに多数派のそれとは異なる。私はプロ野球に興味をもたないし、酒を飲むことでコミュニケーションが円滑になるとも思わない。

他方、私は他人に比べて特に秀でた技能をもつわけでもなければ、私だけに与えられた才能などというものもない。ナンバーワンでもオンリーワンでもない。

要するに私は中途半端な人間である。

中途半端な人間は、中途半端でない人間を圧倒できるほどの多数派ではないが、少数派としてアピールできるほど稀有な存在でもない。中途半端は中途半端であり、それ以上でもそれ以下でもない。「以上/以下」の数学的用法に従えば、「それ以上でもそれ以下でもある」と言うべきだが、そう言ったところで、中途半端な人間に何らかの利点が加わるわけでもない。

たとえば、本読みについて考えよう。その中の大多数は、ただ本を読む人である。中に稀に自らも本を書いて多数の人々を楽しませる人もいる。そして、それら多数派と少数派の間に中途半端な人間がいる。

ネットで書評を書く、自分でも小説やマンガを書いてみる、同人誌を発行する、読書系のサークルをつくって活動する、作家とお友達になっていろいろと話をする、時には運良く商業デビューすることもある、でも評判がぱっとしなくてすぐに消える……。もちろん、本の世界に限らず、他の分野でも同じような現象を挙げることはいくらでも可能だろう。芸能、スポーツ、学問など。どの分野でも、中途半端な人間がいる。

「中途半端」というのはどちらかといえば否定的な意味合いのある言葉だが、「中庸」といえば逆に肯定的な含みをもつ。これは単に言葉の上の違いなのか、それとも両者の指す事柄に実質的な違いがあるのか、私にはわからない。果たして「中途半端から中庸へ」というスローガンを打ち立てていいものかどうか。それが可能だとして、具体的にどうすれば中途半端から中庸へと移行することができるのか?

あるいは、「中庸」などというのは言葉のまやかしだとして切り捨てるべきか。中途半端な人間の中にも、どちらかといえば多数派寄りの人もいれば、逆に少数派寄りの人もいる。曖昧なままの状態から、少しでも多数派のほうに潜り込むように、または、少しでも少数派のほうによじ登るように努力すべきなのか。

「こんな問題は考えたことがない」という人々は幸いだ。あなた方は多数派なのだから。

「こんな問題は考えるに及ばない」という人々も幸いだ。あなた方は少数派だから。

「これこそ私が抱える問題だ」という人々は、私と同類である。すなわち中途半端な人間ということになる。


上の文章を書いて一晩寝かせてから読んでみると、ほどよく熟成してまろやかに味わいに、もとい、最初は趣味関心の話だったのが、途中から技能の話に変わっていて全体が繋がっていないことがわかった。予めしっかりと構成を考えずに思いつきを適当に書き並べるとこういうことがよく起こる。書き直したほうがいいのかもしれないが、面倒なのでそのままにしておく。