http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0308b.html#p030811a
コミケ前だというのに体調が下り坂で、大変危険な状態だ。また、旅行に出たらしばらく更新が止まってしまうので、今まとまった話題を取り上げるのは難しい。そこで、今日は思いつきをいくつか書き並べてお茶を濁しておくことにする。
私の近所に住んでいるマイスタージンガーは一匹の猫を飼っている。名前は「まだない」。まだないは子猫の頃には大変可愛くて、憂鬱な昨日に猫キック 不安な明日に猫パンチでも紹介されたことがあるという話だが、今ではすっかり年老いて、醜く哀れな老猫と化している。
ある日、流しの獣医がマイスタージンガーに招かれて、まだないを診察して「この猫の命はじきに尽きるでしょう。あと一時間後に生きている確率は五分五分でしょうな」と言った。マイスタージンガーはその言葉をきいて、まだないを暗い箱の中に閉じこめた。箱の中には水と餌がたっぷり用意されているので、普通の猫ならすぐに死ぬことはない。
一時間後、マイスタージンガーが箱の蓋を開けようとした瞬間に、箱の中の猫はいったいどのような状態になっているだろうか?
同人ゲーム『Fugue canonique』を知っている人は少ないだろう。5年前の夏コミが初売りのこのゲームは、あまりに下らない駄作として一時話題になったものの、今ではほとんど顧みられることはほとんどない。
『Fugue canonique』はこんなストーリーだ。7年ぶりに南国の街を訪れた主人公は、そこで5人の少女と出会う。彼女たちはみな心に夢と希望と勇気を持って生きていて、何もなければ幸せな人生を送ることができたはずなのだが、一旦、攻略ルートに乗ってしまうと、どんどん不幸のどん底に沈み込んでいってしまう。
このゲームの発売当時、ごくごく一部のゲームマニアの間で「主人公に攻略されなかったキャラのその後の人生はどうなっていたか?」という議論があった。ある立場の人はこう言う。「諸悪の根元である主人公の関与がないのだから、彼女たちは幸せに包まれていたはずだ」と。また別の人は「いや、主人公の行動だけですべてが決まってしまうというのはおかしい。主人公が関与しようがしまいが、彼女たちはそれなりに悲惨な目にあったと考えるべきだろう」と言う。
この論争はさらにゲームプレイヤーの倫理にまで発展したが、そのうちに立ち消えになってしまった。
「あー、君たちは自分の頭の後ろにも世界が広がっていると思っとるようだが、誰も頭の後ろに目がついていないのに、どうしてそんなことが言えるのかねー」
「いやいや、目がついているかどうかなどということは大した問題じゃないよ、キミ。キミの目は本当に物を見ているのかね? そう思ってるだけじゃないのか」
あなた方は一体何を仰っておいでなのでしょう。本当に物を見ているのか、本当は何も見ていないのか、どちらか一方だと考える根拠など、どこにもないではありませんか!」
物語に触れるとき、私は二種類の相反する想念に囚われる。
一つは、そこで語られている事柄は全くの作り話に過ぎないという考えだ。物語が描き出す人も舞台もストーリーも本当は存在しない。存在するのは、ただことばのみだ。すべてはことばが作り上げた幻でしかない。
もう一つは、物語は確かに何ものかについて語っているという考えだ。なるほど、現実には語られている物事は存在しないかもしれない。だが、物語はどこか遠くの我々が決して見ることも触れることもできない世界の消息をことばによって伝えてくれているのだ。シャーロック・ホームズも帆村荘六も我々と同じく血肉を備えた人間なのだが、ただ住んでいる世界が違うだけなのだ。
私は今フランス語で文章を書いている。私は語学の才能がなく、異国の言語を自由に操ることは夢のまた夢だと思っていたのだが、先日近所の弁天様にお願いしたら「きゃる〜ん。あなたを一日だけフランス語の達人にしてあげるわ」と言われたのだ。
本当はフランス語よりロシア語のほうがよかった(あの鏡文字のようなアルファベットで文章を書いてみたかったのだ)のだが、弁天様に逆らっても仕方がないので、素直に受け入れることにした。ちなみに、どうしてフランス語かというと、「仏語」だからだという。だが、弁天様は仏だったろうか?
そんな事を考えながら思いつきをフランス語で書き連ねているわけだが、生まれて初めてのことなので少々不安もある。もしかすると綴りを間違っているかもしれないし、文法的におかしな事を書いているかもしれない。今この文章を読んでいる人で「おやおや、このフランス語は変だぞ」と思われた方は、ぜひメールか掲示板で知らせてほしい。
"amour mental"か"amour moral"か、それとも"amour spirituel"なのか、ということだ。本当はどれだったのかによって、後の話は全然違ったものになろう。
うっとりとした口調で「私はうっとりと生きることができない」と言う人を見ると、なんとなく居心地の悪さを感じる。それはきっと私が今幸福だからだろう。
恋人と腕を組んで歩き、恋人と口づけを交わし、恋人と抱擁するとき、世界には二人しかいないようなうっとりとした気分になる。きっと傍目にはバカップルのように見えるだろう、と思いつつも、私はそれが全く気にならない。
ただ、周囲の人から見たとき「なに一人で馬鹿やってんだ」と思われたらどうしようか、ということだけが気になる。
やっぱり私はうっとりと生きることができないようだ(うっとり)。
マルチシナリオのアドヴェンチャーゲームやノベルゲームでは、選択肢の選び方によってその後の展開が全然違うものになる。最初にこの仕掛けを考えた人は偉大だ。一つの発端から複数の展開が生じ、思いもよらぬ多彩な結末が待ち受けていることに、初期のゲームプレイヤーたちは大いに驚いたことだろう。
だが、今ではそんなことに驚く者はもういない。いくら物語が枝分かれするといっても、枝分かれする物語全体は一つしかないのだ。プレイヤーに与えられているのは、どのルートから攻略するかという選択権に過ぎない。極端なことをいえば、短篇集に収録された作品を読む順序を決めることができるという程度の自由だ。
次に、どのルートを攻略したかによって再プレイ時の選択肢が異なる、というゲームも登場した。これも最初に考えた人は――マルチシナリオの考案者ほどではないにせよ――偉大だ。枝分かれする物語全体を複数化したのだから。でも、プレイヤーはそれにも慣れてしまった。5回バッドエンドを見た後に初めて登場する裏シナリオにも、もう驚かない。
そこで私は考えた。
初回プレイ時はふつうのマルチシナリオゲームだが、一回クリアすると選択肢のいくつかが脱落し、そこから先のルートには進めなくなるというのはどうか。重要な選択肢の前でセーブしておいて「とりあえずAを選んで最後までやってみて、次はBを選んでみよう」と思っても無駄だ。セーブデータをロードしたとき、そこにはもはや選択肢は存在しなくなっているのだから。
こうして、プレイのたびに選択の幅が狭まってゆき、ついには一本道のシナリオを読まされることになる。そして、一本道の果てには二度と起動しないゲームの残骸が転がっているのだ。
これこそ究極のマルチシナリオゲームだ。なぜなら、プレイヤーの選択によって、攻略可能なシナリオが違ってくるのだから。最初に観鈴ルートを選んだプレイヤーは巫女子ルートに辿り着くことはできず、最初にハルヒを攻略してしまうと、まほろ攻略に必要なフラグが決して立たなくなってしまう。
我ながらなかなかいい発想だと思っているのだが……「それ、前例があるよ」と言われるのだろうな、きっと。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0308b.html#p030812a
某氏の一般非公開サイトに『銀盤カレイドスコープ』の感想文がアップされた。ごく少数の人が目にするだけで流れてしまうのはもったいないので、以下、無断転載しておく。
なお、タグの使い方を変更したのと、固有名詞を一部伏せ字にしたことをお断りしておく。もともと固有名詞はぼかした書き方になっていたのだが、知っている人には一目瞭然なので、完全に伏せ字にした。その他、誤記・誤変換と思われる箇所を含めて、一切手を加えていない。
■ 『銀盤カレイドスコープ』の挿絵って
「そんなに小さくちゃ、処女膜破れない(笑」発言の人なんですね。
一部で猛反発もされたようですが、よく野郎のオタクが逆のことをやってるのは周知の事実なわけで、オタの女性作家に対するドリームというのが今も健在なんだなーとヽ(´ー`)ノ
……まだ全部読んでないので脱線気味にしてみただけです。いや、このヒロインは萌えるヒロインとは程遠いなと思っていたら、上記の鈴平さんの話を思い出しただけで。
これは8/11付の記事。これだけだったら、特に紹介することもないのだが、翌8/12付の記事で少し言及されているので、参考のため。
で、次がいよいよ小説本篇の感想文。
■ 冬の夜の夢 銀盤上の幻影『銀盤カレイドスコープ』
この2年ばかり、こういう小説を読みたかったし、何より誉めたかった。
キャラ萌え? スポ根? そんな枠で括るのは惜しい、否、間違いといっても過言ではない今年度のライトノベルス界でもトップクラスの一作。
優れた作品は、多様な側面を持ち、その多様さが多様な読者層に受け入れられる。その点で、活き活きとしたキャラクター、物語としての完成度の高いスポ根といった面で誉めるのも間違いではないが、それだけで誉めてはならず自分が瞬間的には気づかなかった側面からも読み返して発見すべきエッセンスを秘めた小説として、今年最大の収穫として編集サイドの人間として誉めると同時に、近年の他業界や過去作品に影響されて妙にどっしりと構えた作品が増えたライトノベルス業界に投じられた一石として素直に考慮すべき作品。
まず、前日の記述のとおり、ヒロインである「桜野タズサ」は当初まったく萌えない、それどころかキャラとしての魅力が無い。記者をたじろがせるほどの毒舌、根拠も無く勝気で傍若無人な態度は、近年のライトノベルスに多いヒロインの一例を踏襲しようとして可愛げをだし損ねて失敗したキャラのように見えなくも無いほどに。しかし、偶然にタズサの体に取り憑いたカナダ青年の亡霊「ピート」との奇妙な生活の中で明らかになるのは、そんな彼女の人間的な未熟さ、そしてときどき語られる過去から明らかになる小さなササクレのような心の傷。そう、最初から未熟なヒロインとして描くのが目的である以上、必要以上に可愛げがなくてもいいのはもちろんのこと、憎らしさの中にも可愛げがある必要もなかったのだ。物語中の本当にごく僅かなエピソード、仕草、ピートとのやり取りから生まれるごく僅かな変化。それが、徐々に桜野タズサというヒロインにリアリティを与えると同時に、読者に人と人との相互理解、友情ないし家族愛に近いものを感じるほどの存在感ある人格へと昇華していく。
この物語はタズサの一人称で語られる小説であるのだが、ここまでの記述で述べたとおり、読者はむしろ憑依霊であるピートの視点と気持ちを共有して読むことになるのだ。ゆえに、この小説はごく単純な読み方や視点を許さず、常に変化球の持つ緊張感を保ちつづけ、読者をまったく飽きさせることがない。
このプロセスと読感は、最初から完成品としての魅力を携えたエロゲ系萌えヒロインとはまったく異質で、エロゲ系にありがちな長く続ければ続けるほどボロがでる作品とは正反対。本作品は上・下巻である。しかし、上巻の1/3よりも2/3の「桜野タズサ」に、それよりも下巻の1/3、いやいや2/3の「桜野タズサ」にと長く続けば続くほどキャラの魅力は増していく一方に。同時に最初に人間的なダメさ加減を見せ付けられ、それでも読者が受け入れた、丹念なエピソードや言葉の積み重ねで受け入れたという前述のプロセスがあることから、「桜野タズサ」というキャラは豊かな人間味を持った自分の家族のようにすら感じるほどのキャラとなり、当然そこには飽きるといった要素が入り込む余地はなく、むしろ貪欲に彼女のことを知りたいという欲求に狩られる。
これは、近年の完成形キャラばかりが目立つライトノベルスには珍しい快挙ではなかろうか。
次に、物語の展開だが、この物語にはオリンピックという単純目標がある。そこに向けてのスポ根としてのフィギュアスケート技術の向上、人格の向上というのがあるのだが、ここに豊かな想像性の向上という項目が加わり、この部分が一番伸び伸びと描かれているのが、強く印象に残る。
単純ミスにより追い詰められた「桜野タズサ」に残された最後の逆転のチャンスである国内大会。ここでタズサは勝つために演目を大幅変更するのだが、スポ根でいくと魔球(努力の積み重ねから生まれる圧倒的な力)の誕生ともいうべきこのプロセスで、本作『銀盤カレイドスコープ』が持ち出したのタズサという少女を取り巻く環境から導きだされた、彼女の魅力をスケートリンクに演技として発現させる華麗な新メニュー。これがまた、美少女ヒロインというキャラ設定そしてここまでの成長の過程というものを見事に生かした、人としての、女性としての美しさを堂々と前面に押し出し、読者にビジュアルイメージさせるその姿がまた美しい。
ライトノベルスでは、挿絵の質に本文が負けていることは多々ある。本作の挿絵は、18禁ゲーム業界でもトップクラスの美少女絵師として名を知られる「鈴平ひろ」だ。当然、新人作家の文章では鈴平の絵に格負けするのではないかという杞憂があったのだが、上巻を読み終える頃にはそんな己の勘違いを素直に認める気分になる。この物語を、そして「桜野タズサ」というヒロインを描くには、鈴平ひろの絵が持つ魅力が必要で、この人選は的確だったと。
そして、作家としての小技の展開にも目が離せない。入念によく練ったのが痛いほどわかるくらい、緻密に伏線と教養ネタを張り巡らせた新人作家をよく目にする。しかし、本作で駆使された小技の数々は本当に自然で素朴、なおかつ何気ないところなので読者に警戒心を抱かせることなく、伏線が発動したところでニヤリとさせられる、まるで家庭料理のような軟らかさがあり心地よい。作品中、本当に何気ない通常ならどうでもいいと思わせる部分に連携する伏線が、とにかく無数にある。それらはそれほど難解ではなく、むしろ理解しやすいものばかりで、ゆえに読者は伏線が発動するたびに以前の物語を想起することになり、現在の物語と過去の物語が常に一体となって展開し、読み手に軽妙なれど同時に重厚さをを与えていく。伏線や技法自体は、そんなに手の込んだものではない。しかし、この辺の技術を生かしているポイントがとにかく巧い。
これは、久弥直樹が萌えキャラ作成に際し発揮する的確なエピソード作りと組み合わせの天然の感性に近いものではなかろうか。
そして、オリンピックという大舞台とスケート選手としてのクライマックスを前に始まる、もう一つの結末に向けてのカウントダウン。そこで描かれるヒロインの感情の揺れ動き方と、それを描く淡々としながらも感情的なものをきちんと表現した筆致は見事。最後に描かれる夢の終わりと新たな始まりは、読者に深い読了感を与える。
一方で、終始描かれるフィギュアスケートのトリプルジャンプなどの技を活き活きと表現したは筆致もちろん、業界の内情や駆け引き、マスコミとの関わりといった世界観を支える部分の描写もひじょうにしっかりとしている。よく勉強していますよ、この作者さん。
ここまでベタ誉めだが、本当に面白い。
最後まで読んだ感じでは、全て計算づくというよりは、前述のとおり久弥直樹に似た天然の感性によるものが多いと判断する。作者は考えぬいて書いただけでなく、己の感じるままに書いている部分が多いのではなかろうか。計算づくの文章ではないという印象を強く受ける。
その証拠に、計算づくの小説では考えづらい唐突なネタが多数ある。でも、全体を通して読めばそんなところすらも魅力に感じさせるほど魅力あるのが、本作品の凄みであり面白さである。
以下はとくに個人的な見解。
最近、変に作家が物語性とかを計算して書こうと意図したり、読者もそういう方面でこそ誉めようという流れが強くなってきていますが、この小説は本気でそういう打算を無力化するほどに物語としての勢いと、なぜ人は物語に惹かれるのかという部分を極めて強く感覚的に理解させる強さを持った小説。
この小説を誰に一番読ませたいかというと、実は某***な人にこそ。
『****』を作ったことで迷走している某***な人。もしもこの小説を読んで「構成のここが欠点」とか「物語としてここが弱い」とか言って勝ち誇るようなら、私の興味あるシナリオライターではもう無くなったと判断すると思う。
この小説は、ライトな読書家層よりも、もっと違う読書家層がそれぞれの視点で話のネタにしていいと思える小説。
文章的には羽毛のような軽さをもった、あまり本を読み慣れない中高生にでも読みやすい小説。でも、その物語にこめられた光るものはヘビー級の読書家向けの文体も重厚な作品にはひけをとらず、私が読んだ今年のライトノベルスの中ではダントツに良かったと誉めておきます。
いい作品を読んだ後って最高ですよね。ここまで、嫌味抜きで誉めたくなるライトノベルスに出逢えたのは久しぶりで、読み手としても精神的にハッピーです。
そういうわけで、私も本年度のお奨め小説の一冊に挙げさせていただきます。くだらないエロゲを月に2〜3本も買って「シナリオがアレで〜」とかくだらないこと抜かしている若手には、首根っこ引っつかんで強引に読ませてやりたいかも。
この本、本当に生きた教育をしたい中学校の国語教師は、ぜひ読書感想文の課題の一つに挙げることをお奨めするヽ(´ー`)ノ
ちなみに、S宮ハルヒ〜を比較対照に出さなかったのは、作品ベクトルの違いはもちろん、巧く評価における比較として繋がりにくいのが感覚的に分かったため。
ちなみに、ライバル・キャラ(とくに後編でに登場する面子)の存在感が弱いとか、文章的に描写不足なところがときどき、そのほかにも丹念に追うと大小取り混ぜて欠点も多いですから、完全無比な小説を嗜好する人には不満が出るかもしれません。でも、私は上記の通りに全面的支持です(´¬`)
こんな文章を読むと無性に読みたくなってくるではないか。でも私の近所の本屋には『銀盤カレイドスコープ』は置いていないのだ。欧米では考えられないことです。
せっかくだから銀盤カレイドスコープ感想リンク集(まいじゃー推進委員会!)に再度リンクしておこう。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0308b.html#p030813a
今回で旅行前の更新は終了となる。まだ旅支度をきちんと調えていないので、今日は軽く……と思ったのだが、かなり重い問いを突きつけられてしまった。
この文章を書いたとき、私は物語の実在論的解釈と「摩擦のある世界」との関係は非常に緊密なものだと考えていた。また「摩擦のある世界」という表現は特に説明を要するものではない、とも。だが、今から考えると、どちらも当初思っていたほど自明な事柄ではないことがわかってきた。
いろいろ考えてみたが、なかなかうまく考えがまとまらない。今のところは棚上げにしておくしかない。
特定の倫理的価値観に訴えることなく、物語という制度についての素朴で自然な共通了解のみを基盤にして話を進めるのが理想なのだが、果たして可能かどうか……。灼熱の有明埠頭で、この問題に取り組むことにする。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0308b.html#p030818a
すべては夢のように過ぎ去ってしまった。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0308b.html#p0308
今日からコミケ旅行記を始めることにする。ただし、最後まで書くとは限らない。面倒になったらその場で打ち切る。もしかしたら去年の夏コミ旅行記のように一回でやめてしまうかもしれない。また、旅行から帰ってからずっと虚脱状態が続いているので、まとまりのある文章は書けないだろうと思う。それでも構わないという人だけ以下の文章を読んでほしい。
さて、どこから書き始めればいいのか、かなり迷うのだが、まずはきっぷの話から始めるのがいいだろう。「きっぷ」は漢字で書くと「切符」なのだが、JRではずっとひらがなで「きっぷ」と表記しているのでそれに倣うことにする。要するに乗車券のことだ。
今回の旅行では余裕をもってコミケ前日の8/14(木)に東京入りすることにしていた。前日に東京入りすることはこれまでにもなかったわけではないが、三日開催が常態化してからは初めてのことで、前日の夜行バスで東京入りして、到着したらそのまま一般参賀参加の行列に並ぶことが多かった。
最初は「青春18きっぷ」を使って鈍行を乗り継ぐ予定だった。鈍行乗り継ぎで東京へ行くのも久しぶりで、ここ数年は絶えてなかった。若かりし頃を思い出しつつ、沿線風景を楽しむのも一興。そう考えたのだ。
だが、コミケ前に別の機会に東海道本線に乗ったときに気分が変わった。昔ながらの113系電車にうんざりするほどの乗客が乗っているのを見て、昔日の旅行の苦しみを思い出したのだ。過去は美化されるもので、そんな苦しみはすっかり忘れてしまっていたのだが、あのむせ返るような熱気は否応なしに私の脳みその奥底を引っかき回した。もう、あんな旅行はごめんだ。
では、いつものように夜行バスにするか? だが、既にバスは満席だった。
仕方がないので、少々高くつくが新幹線に乗ることにした。コミケの時期には割引きっぷの類が使えないので、なんだか損をしたような気になる。鬱だ。
多少とも安くあげようとすれば、往復きっぷを使うことになる。片道601キロ(営業キロ)以上だと、往路復路それぞれが1割引となる。昔は往路は割引なしで復路のみ2割引だったと記憶しているのだが、いつから今のような制度になったのだろうか? 往路だけ使って復路を払いもどしする場合の扱いはどうなるのだろうか? 時刻表を見てもよくわからないがきっと何かちゃんとした計算方法があるのだろう。
さて、一般にはあまり知られていないが、JRには周遊きっぷというきっぷがある。昔出ていたワイド周遊券やミニ周遊券が廃止されたときにかわりにできた制度なのだが、周遊券に比べるとやや自由度が低いので魅力が乏しい。だが、往路復路とも2割引になるので、使いようによっては便利だ。
そこで、"便利な使いよう"を考えてみる。東京ゾーン券の値段は4000円だから、ゾーン内で4000円分以上乗ればもとがとれる。幸い東京ゾーンにはJR線のほかりんかい線と東京モノレールも含まれている。モノレールには用はないが、りんかい線乗り放題は有難い。コミケには3日とも参加する予定だから、宿のある大井町から国際展示場まで3往復することになる。この区間の運賃は320円なので、320×6=1920円となる。残り2080円。
コミケ初日にはLEGIOん評価オフin新木場大崎がある。国際展示場から直行すれば320円だが、一旦宿に戻って荷物を置いてから行くとすると200円だ。往復で400円の加算……いや、もし周遊きっぷがなかったら、大井町から大崎へ行くのにりんかい線は使わない。乗り換えは面倒だが、品川経由にするだろう。すると片道150円となる。往復で300円。残り1780円。
この1780円がなかなか大きい。上野や新宿に行っても往復で500円足らず。3日連続でも1500円に満たない。それに、都区内には別のフリーきっぷがあるので、周遊きっぷを使う意味はあまりない。ここは少し遠出をしたいところだ。またゾーン内なら特急列車の自由席に乗れるという利点もぜひ活用したい。
そこで私は少し足を伸ばして、千葉県へと向かうことにした。佐倉市にある国立歴史民俗博物館へ行こう! 東京から佐倉までの営業キロは55.3キロ、時刻表で幹線運賃表(A-1表)を見ると片道950円となる。往復なら1900円だ。これで元がとれる。さらにこの区間で特急「しおさい」号に乗れば900円だ。これで多少のアクシデントがあっても損をすることはない。
歴史民俗博物館は京成佐倉駅のほうに近く、JRの駅からだとバスに乗らないといけないので不便なのだが、周遊きっぷの有効活用のためには多少の犠牲はやむを得ない。今から考えると、ロジックが逆立ちしているような気もするのだが、これで私の気持ちは固まった。
いざ、逝かん! 血沸き肉躍るドキュメント災害史1703-2003 へ!
ただいま『銀盤カレイドスコープ』読書中。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0308b.html#p030820a
というわけで、8/14早朝、私は家を出て最寄駅から始発電車に乗り、乗り継いで、乗り継いで、もう一度乗り継いで東京駅に到着したのはおよそ11時頃で、ちょっと文章がおかしいような気もするが、気にせずにコインロッカーに荷物をぶち込んで、快速「エアポート成田」号に乗り込んだのであった。
家を出たときにはまだ雨は降っていなかったが、東京に着いた頃にはかなり降っていて、千葉県に入ってもそこそこ降っていて、佐倉駅に降り立ったときにもそれなりに降っていた。そこからバスに乗って国立歴史民俗博物館に着いたのは午後1時前だったのだが、やはり雨が降っていた。早く雨が上がればいいのに、と思ったが、なかなか思うようにいかないのが世の常で、結局4日間ずっと雨模様だった。
今回の旅行記は博物館で見物した事を語るのが主目的ではないので、あまり長々と書くつもりはない。常設展を半分も見ないうちに時間がなくなってしまい、企画展を見てさっさと退散したのが3時前。およそ2時間の滞在だった。
再びバスに乗って佐倉駅前に着いたところで、まだ昼食をとっていなかったことに気づき、近くにあった餃子の王将に入った。天津飯を頼むと「ご一緒に餃子もいかがですか?」と店員に言われた。まるで一昔前の某ファーストフード店のようだ。餃子を食べると恋人とのキスに差しつかえるので断って天津飯だけ食べた。ほのかにケチャップ風味だった。
天津飯の味について語るのが今回の旅行記の主目的ではないので、さっさと駅に戻ることにしよう。帰りは特急に乗ることにしてホームで待っていると、やってきたのは旧式の186185系電車だった。ああ、懐かしき簡易リクライニングシート! 特急料金を払ってまで乗りたいとは思わない車輌だ。
東京駅に着いて、ロッカーから荷物を引っぱり出して、京浜東北線に乗って大井町で降りて、降りしきる雨の中をホテルへと向かい、チェックインを済ませて、ベッドインも済ませて、起きあがって風呂に入って、ホテルを出て、再び京浜東北線に乗って、今度は有楽町で降りた。日比谷公園で不愉快なカップルに天誅を下すつもりだったのだが、名高い日比谷公園といえど、さすがにこの天気では誰もいないだろう、と思い直して、みたび京浜東北線に乗って大井町で降りて、りんかい線に乗って、品川シーサイドで降りた。りんかい線の駅のうち品川シーサイドだけ下車したことがなかったからだ。この辺りは夜に訪れる人はほとんどいないが、なぜか24時間営業のジャスコがあって、都市計画と現実との落差が感じられてなかなか楽しい。しばしコンクリートジャングルの雰囲気を堪能したのち、大井町に戻って、京浜東北線に乗って、品川で山手線に乗り換えて、大崎でりんかい線に乗り換えて、大井町で下車。最終列車を見送ってからホテルに戻った。
こうしてコミケ前夜は更けていった。
if → itselfの掲示板から。世間では、哲学というものは、社会の福利に寄与しえない営み、それどころか反社会的な営みであり、畢竟恵まれた者の観念遊技であって、むしろ滅びるべきものであるという認識が浸透しているはずです。
うむむむむ。