【日々の憂鬱】そろそろどうでもいかがなものか。【2004年8月上旬】


1.11140(2004/08/01) 読みかけ

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今読みかけの本を順不同で挙げてみる。過去3日間以内に最低1ページ以上読んだ本ばかりだ。

  1. 『哲学・航海日誌』(野矢茂樹/春秋社)
  2. 『Mew Mew! Crazy Cat't Night』(成田良悟/電撃文庫)
  3. 『部首の話 漢字を解剖する』(阿辻哲次/中公新書)
  4. 『天狗の落し文』(筒井康隆/新潮文庫)
  5. 『誰でもない男の裁判』(A.H.Z.カー/晶文社)
  6. 『二人のガスコン』(上)(佐藤賢一/講談社文庫)

6/26の読みかけ本リストにも『哲学・航海日誌』が入っている。あれから一箇月以上経ってまだ読み終えていないのは恥ずかしいかぎりだが、ひとつ言い訳をしておくと、この本は一つの節(場合によっては一つか二つの段落)を読むたびに立ち止まって考える必要があるので、そう簡単に読破できないのだ。

6月の私は近年稀なほど読書意欲が高まっていた。ちゃんと数えてはいないが、たぶん20冊くらいは本を読んだだろう。まあ、ほとんどがライトノベルだが。

その反動で7月にはすっかり読書ペースが落ちてしまった。ラノベに飽きたからヘノベ(「ヘビーノベル」の略。ただし私以外にこの言葉を使った例を知らない)でも読もうかと思ったものの、そう思っただけで終わってしまった。きっと記録的な猛暑のせいだ。そういうことにしておこう。

以下、簡単にリストに挙げた本について書いておく。

1については上に書いたとおり。今、299ページまで読んでいるので、きっと8月中には読み終えることができるはずだ。

2は発売直後に買ったが、何となく手付かずで、昨日ようやく読み始めたところ。成田良悟の既刊は一箇月ほど前に全巻読破していて、今後もなるべく追いかけていこうと思っている。ラノベ系ではもう一人、谷川流も出れば読むつもりなのだが、今月と来月連続で本が出るそうなので忙しい。

3は先日書店の新刊コーナーで見かけて、ついふらふらと買ってしまった。漢字の部首を肴にした軽いエッセイ集で、ところどころに面白いエピソードがある。

4は単行本で買おうか迷ったこともあるが、近所の書店の棚からいつの間にか消えてしまった。筒井康隆の本を読むのは久しぶりだ。10年ぶりということはないはずだが……最後に読んだ本がなんだったか思い出せない。『薬菜飯店』だったろうか?

5は傑作揃いの短篇集だが、若干ヘノベの気があって続けて読む気にならない。『あなたの人生の物語』の時もそうだったが、夜寝る前に一篇読んで極上の読後感を味わって満足すると、そこで本を閉じてしまうのだ。

6の裏表紙について先日疑義を呈しておいたが、作中でダルタニャンの回想として三銃士について語られる箇所を読むと、やはり三銃士の一員ではなかったようだ。私は「ダルタニャン物語」そのものを読んだことがない(『シラノ・ド・ベルジュラック』のほうは読んでいる)ので、間違っていたら大恥をかくところだった。海燕氏のコメントによれば四銃士(三銃士+ダルタニャンということだろう。そういえば「ダルタニャン物語」の中にそんなタイトルの本もあったような……)はあまり清廉潔白なヒーローではなさそうだ。

1.11141(2004/08/01) 呂宋、土手舐れ

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今日の見出しはクープランのCDを聴いているときに思いついたもの。「ルソン・ド・テネブレ」と読んでいただきたい。


現代の日本では『氷点』よりも「笑点」のほうが知られているのではないか。どうでもいいが、本のタイトルはなぜ二重括弧なのか?


先日、会社の同僚(30過ぎの男性)と話をしていたら、「昨日、近所の鰻屋の前を通りかかると人だかりが見えた」と言うので「そりゃ、土用の丑の日だから」と応えたのだが、「ドヨウって何?」と聞き返されてしまった。


大日本除虫菊株式会社とは金鳥のことと見つけたり。


溺れている人を助けるのは難しい。手をさしのべてもばたつく手をうまく掴むことができず、かえってバランスを崩してしまう。ますます苦しむのを見るのは耐え難い。岸から身を乗り出すと自分まで溺れてしまう。見捨てようにも、足掻く姿が脳裏に焼きついて離れない。もしかしたら自力で岸にたどり着くかもしれないという希望を抱きながら、ただ見続けるしかない。もちろん「見守る」などというきれいな言葉は当てはまらない。


「わかやまけん」という絵本作家がいる。岐阜県出身だ。


論理と思考についてのよくある誤解。人は論理的に考えることもできれば、論理的にではなく考えることもできるというもの。これは論理を思考の(非本質的な)要素と考える点において誤っている。真実はこうだ。人は論理的にしか考えることができず、論理的にでなければ考えてもいないのである。


常識とは世間一般の人々が受け容れている知識のことだが、ある知識が単に多くの人々に受け容れられているというだけでは常識の名に値しない。その知識が常識であるという知識も共有されていなければならない。


「やわらかい時計」も「やわらかな時計」も意味は同じだが、品詞の組み合わせは異なっている。前者は「形容詞+名詞」で、後者は「形容動詞+名詞」だ。形容動詞という品詞を認めない文法ではどう扱うのか私は知らないが、両者を同じ構造だとみなすことはないだろう。


台風が去って少し涼しくなってくると、インターネットへの接続不良が緩和された。とはいえ、長くて3分、短ければ数秒で接続が切れてしまう。気候により調子が違うということは、おそらく私のパソコンに原因があるのだろうと思うが、調べるのも面倒なので放置している。来年の夏には新しいパソコンに買い換えているだろうから、この夏だけの辛抱だ。


他人はみな陰では私の悪口を言っているが、私を前にすると顔色一つ変えずに普通の人を相手にしているのと同じように振る舞う。私の周囲の人々はなんと礼儀正しいのだろうか。


時刻表の今月号を見ると、紀勢本線の南部〜印南間の普通列車はすべて岩代駅に停車するようだ。


入浴剤問題で話題になった白骨温泉のことを思い出しながら、ドラッグストアの入浴剤コーナーを見ていると、「乳頭温泉」という表示を見かけた。どこにある温泉かは書いていなかった。


来年廃止されることがほぼ決定した名鉄美濃町線のうち私は新関〜関の間だけまだ乗っていない。


一人称代名詞として「当方」を使う人がいる。これは背景に組織や団体が控えているときに使うものだと思うのだが如何?


国民主権体制で地方分権を云々するのはどこかおかしいような気がする。


「最大多数の最大幸福」というスローガンには検討すべき三つの問題がある。一つはこのスローガンが果たして我々の素朴な実感に即したものであるのかどうかということ。第二に仮にこのスローガンを受け容れるとして、いかなる状態を幸福だとみなすのかということ。第三に幸福について満足な定義が得られたとして、個々人の幸福をどうやって集計するのかということ。そして第四に幸福の集計方法が確立したとして、実行可能な手段のうちどれを選べばその理想状態に最も近づくのかということ。三つの問題が四つになってしまったが、それだけこの問題は難しいということである。


前向きな人には後ろは見えない。後ろ向きな人には前が見えない。では、前向きな人と後ろ向きな人をくっつけてしまえばどうか?


特に私信というわけではないけれど、約2週間後に会ったりニアミスしたりする人々に向けて。今年は特にオフ会を開催する予定はないので、誰か誘ってくれればほいほいとついていきます。


久しぶりに我が町の図書館に行くと、新刊(せめて「新着図書」と表現してほしいものだ)の棚に『ハッとしてトリック!』があった。ここで借りて読めばタダだ。でも返却が面倒なので借りるのはやめにした。

1.11142(2004/08/02) ドン・キホーテの愛馬の名前はロシナンテ

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今日も不調だ。一回休みにしようと思ったが、前回の誤記訂正のついでに形だけ更新することにした。といってもパソコンも不調なので、いつ更新できるかわからないのだけれど。

今日はドン・キホーテのことについて書こうと思って上の見出しをつけたのだが、正式なタイトルがどうやっても思い出せず、何となく気分が乗らなくなったので、やめた。

明日になれば多少は復調していると思うが、二日も引っ張るほど楽しい話題でもないので、ドン・キホーテの話はしないことにする。

1.11143(2004/08/03) まいじゃーvs.みすらぼ 真夏の死闘

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……もう終息してるやん。

1.11144(2004/08/04) お言葉ですが……

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『涼宮ハルヒの消失』(谷川流/角川スニーカー文庫)を読んだ。今読みかけの本が何冊もあるので、ちょっと後回しにしておこうと思ったのだが、某所で次のような感想文を見かけたので興味をそそられたのだ。

どんどん面白くなくなってきている同シリーズですが、今回もまたさらに退屈になって帰ってきました。

ハルヒさんが文字通り姿を消すお話ですが、そのまま消えててください、と読者としては思ってしまうため、その失跡したハルヒさんを本気で探す主人公にまるで感情移入できませんし、何より失跡に至る理由付けが退屈です。

で、今日はその感想を書くつもりだったが、なかなかうまくまとまらないので次回回しにして、そのかわりに[増刊海燕] 第28回 イカロス、オイディプス、フランケンシュタイン、キラ――大場つぐみ&小畑健「DEATH NOTE」についてコメントしておく。これは以前私が海燕氏の文章に入れたツッコミに対する再論なのだが、本筋以前のところで躓いているように思われる。

海燕氏はギリシャ悲劇の「オイディプス王」を世界最初の探偵小説(これは小説ではないから厳密にいえばおかしいのだが、そこは海燕氏にとっても私にとっても主要な論点ではない)であるという説を紹介した上で、つまり、最初の探偵小説は最初の倒叙探偵小説(犯人の視点から物語が進む形式の探偵小説)でもあったのだ。と暫定的に結論づける。しかし、これは倒叙探偵小説の特徴付けを誤っている。犯人の視点から物語が進む形式の探偵小説を一般に倒叙探偵小説と呼ぶのだとすれば、クリスティの例のアレも倒叙探偵小説だということになってしまうだろう。

通常の探偵小説は、事件を取り巻く環境に関する情報を手掛かりとして、推理によって事件の真相に迫る。これに対して倒叙探偵小説では、事件の真相を手掛かりとして、推理によって推理によって事件の真相に迫ることが可能となる情報に迫る。このややこしい構造を単純化してみれば、述が転しているといえなくもないが、視点の転倒に集約してしまうと単純化のしすぎだ。

海燕氏が倒叙探偵小説に与えた特徴付けはもう一つある。神をも恐れず完全犯罪を目論む犯罪者がどれほど巧妙に欺こうとしても、運命は最後にはひとを裁くという思想が倒叙探偵小説の根底にあるのだという(海燕氏はこの思想を指して超越的道徳と呼ぶが、私にはむしろ通俗的な勧善懲悪思想の典型のように思われる。だが、今は用語法には立ち入らないことにしよう)。だが、これは倒叙探偵小説に限らず、古典的な探偵小説に共通の特徴ではないだろうか? 一般の探偵小説では、犯人が裁かれる運命はあまり強調はされないが、探偵の行動規範に組み込まれていたり、作者と読者の暗黙の了解事項になっていたりしていることが多い。倒叙探偵小説では裁かれる身である犯人を中心に叙述するため、このモチーフが表面化しているだけだと思う。

海燕氏はさらにサイバーパンクSFに目を向ける。私はその分野の知識がないので何とも言えない。ただ、倒叙探偵小説の枠組みをサイバーパンクが破壊したり超越したりしたというわけではないと思う。

肝心の『DEATH NOTE』について私はまだまとまった意見を持っていないので、前に述べた以外のことは今のところは言えない。これは宿題ということにしておこう。

1.11145(2004/08/05) 応募券2枚で「涼宮ハルヒ」特製サマー・バッグが当たる!

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さて、前回書きかけてやめた『涼宮ハルヒの消失』(谷川流/角川スニーカー文庫)の感想文を書いておく。

前回引用した某所の感想は半分冗談みたいなものだが、それでもここまでボロクソに貶されると可哀想になってくる。そこで、私は「ハルヒ」擁護に回ることにしよう。

このシリーズの魅力は、本名不明の主人公「キョン」(または「ジョン」)のぼやき混じりのねじくれた語り口にある。たとえば……。

さすがに、生まれた年すらよく解っていないキリスト生誕日にまつわる諸学説をここでそらんじるほど俺は空気の読めない人間ではない。それにキリスト誕生推定日が複数あるなんてことを言えばハルヒのことだ、「だったらそれ全部をクリスマスにしたらいいじゃない」とか言い出して、年に何回もツリーを持ち出すハメになりかねないし、いまさらA.D.の始まりが前倒しされても困るだけだし、太陽暦だろうが古代バビロニア暦だろうが所詮は人間の勝手な都合だし、広大な宇宙を黙々と回る天体たちは別に何を気にすることもなく寿命の果てるまでそうやっていることだろう。ああ、宇宙はいいなあ。

別に本筋とは何の関係もなく、ただ主人公の性格を強調するという程度の意味あいしかもたない文章で、見方によっては小説を間延びさせる無駄な要素に過ぎないともいえる。というか、その見方のほうが自然で妥当なのだが、実はこの種のひねくれた文章は私の好みである。A.D.の前倒しなどと書かれても興味のない人にはちんぷんかんぷんだろうが、こんな事をさらりと書いてのける作者の教養と連想力に、私は素直に感心する。また、上の引用箇所以外にも面白い比喩やペダントリーが随所にあり、しばし立ち止まってあれこれ思いを巡らせてみるのも楽しい。

「ハルヒ」シリーズで最も完成度が高いのは第1作の『憂鬱』で、これだけで完結しきってしまっているから、極論するなら第2作以降のストーリーは長大な蛇足に過ぎない。その観点からすれば、前回紹介したような感想になってしまうのも頷けるのだが、蛇足には蛇足なりの面白さがある。一つは、上で述べたように文章そのものが持つ面白さであり、もう一つは発展性のないキャラクターと舞台設定のもとで毎回手を変え品を変えて事件を起こしてみせる、作者の工夫と技巧の面白さだ。『孤島症候群』(『退屈』所収)で感心したのは前に書いたとおり。今回はやや息切れしているような感もあったが、それでも私は別に退屈はしなかった。


ここから『消失』及び他の谷川流作品の内容に立ち入るので注意されたい。


今回のテーマの一つ、タイムスリップは既に「ハルヒ」シリーズで用いられているし、同じ作者の「学校を出よう!」シリーズでもこのテーマをメインに据えた巻がある。もう一つのテーマ、記憶の改変も既出(『消失』ほど大々的に用いられているわけではないが)だ。先ほど「やや息切れ」と書いたのは、そういうわけだ。

もう少し抽象的な話をしよう。「学校」シリーズのほうに顕著なのだが、谷川流の発想の根底には同一人物の複数顕現または複数人物の同一相貌があるように思われる。これをさらに要約すれば(非常に陳腐な表現で申し訳ないが)人格同一性のゆらぎということになる。この基本テーマを骨格としてSF的な個別テーマで肉付けしたのが谷川作品なのである。おお、断言してしまった。その意味ではどうやってもマンネリズムに陥らざるを得ないのだが、特に「ハルヒ」シリーズでは主要キャラクターが固定されているために、余計にマンネリ感が増すことになる。

本当はそろそろこのシリーズを打ち切って、別の設定とキャラクターで小説を書いてもらいたいのだが、角川スニーカー文庫の看板シリーズだし、マンガ連載やキャラクターグッズ製作などメディアミックス展開が進んでいる現状では、そう簡単にはシリーズを終わらせることはできないのだろう。

閑話休題。

例によって『消失』でも丁寧に伏線が張られているので、事件の仕掛け人の正体を推測するのはさほど難しいことではない。犯行(?)動機については詳しくは語られていないが、微妙な心理の襞を無視して身も蓋もない言い方をすれば恋敵をキョンから遠ざけたかったからだと考えられる。いや、「考えられる」だけで、本当かどうかはわからないのだが、少なくとも読者をそのような読みに誘導するだけの手掛かりはばらまかれている。

で、作者の手筋を読み解くつもりで読んでいくと、79ページのエピソードが非常に思わせぶりなものに思えてきた。そこで、谷川流の基本テーマ(と私が勝手に考えているもの)を思い起こすと、ある仕掛けが透けて見えた……ような気がした。すなわち、メタ・フィクションである。「ハルヒ」シリーズ全体が長門の小説だったというオチではないかと思ったのだ。

『消失』を最後まで読んで、私は自分の考えが全く的外れだったことを知った。ちょっとがっかりした。だが、私はまだ諦めない。今回は外れたが、次はきっとこの手法がメインになっているはずだ。うん、そうに違いない。

というわけで、私にとって谷川流という作家はしばらく目が離せない存在である。個々の作品の出来不出来はもはや重要ではない。

なんだか誉めているのか貶しているのかわからない感想文になってしまった。

1.11146(2004/08/08) 淫靡泉

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旅行から帰ってきた。概要は下記のとおり。

また、旅行中に『二人のガスコン』(佐藤賢一/講談社文庫)を読了した。非常に面白かった。

1.11147(2004/08/09) やる気のない話

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ここ数回、コミケ前になるとテンションが下がる。いや、傍から見ればそんなに下がっているわけでもないのかもしれないが、昔だったらコミケ前に数週間はカタログチェックをしたり、巡回ルートの計画を練ったりしたものなのに、いまや全然やる気が起こらない。

最近はコミケ会場で昔の知人に会ったり、夜のオフ会でネット上で知り合った人に会ったりするほうがメインになっていて、毎回コミケ前にはあちこちにメールを出して連絡をとっていたのだが、今回は例年以上にネット接続不良が甚だしく、メールの送受信も億劫なので、自分からは全然連絡をとっていない。本当はこの機会に是非会いたい人が数人いたのだが、面倒になつたのでまたの機会を待つことにする。そんな機会があるのかどうかはわからないけれど。

幸い、今年も冬野佳之氏がオフ会をやってくれることになったので、この機会に私に会ってみたいという奇特な人は申し込んでいただきたい。


全然関係ない話だが、私は花火のうちではヘビ花火がいちばん好きだ。あまり一般的な花火ではないらしく、この時期にスーパーマーケットなどでよく売っている家庭用花火セットにも入っていないことのほうが多いようだ。

誰か、ヘビ花火メインの花火大会を開催してくれないだろうか? 長さ50メートル、直径80センチメートルの巨大ヘビ花火、とか。

まあ、無理だろうな。


前にも書いたような気がするが、今回のコミケ旅行は水曜日の夜に出て個室寝台車に乗り、木曜日の朝に東京に着く予定だ。コミケは金曜日からだから一日まるまる空くことになる。前日設営に参加するほど熱意に燃えているわけでもないので、この日は一日JR乗りつぶしに費やそうと思っている。周遊きっぷを使うから、少しでもたくさん乗らないと損だ。

で、時刻表の地図を開いて見たのだが、周遊きっぷの東京ゾーンの範囲内でまだ私が乗ったことがない区間はごくわずかだった。

  1. 成田線(成田〜我孫子)
  2. 鶴見線(浅野〜海芝浦)(安善〜大川)
  3. 南武線(浜川崎〜扇町)
  4. 五日市線(拝島〜武蔵五日市)

安善と大川の間は、間の武蔵白石にホームがあった頃に乗ったことがあるが、その後大川発着の全列車が武蔵白石を通過するようになり、時刻表の地図上では安善で分岐して武蔵白石を通らない形に描かれるようになったので、この区間は未乗とみなすことにする。その他の路線は掛け値なしに全くの未乗区間である。

まだちゃんと時刻表を見ていないが、この区間を乗るだけでほとんど一日費やしてしまうのではないかと思う。なんとなくうんざりだ。

1.11148(2004/08/10) 旅に出る前に

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本当はスルーするつもりだったが、ここまで話が広がってしまったら、私一人が何事もなかったかのようなふりをしても始まらないと思い直し、例の件に気づいた頃のことを書くことにした。


で、ここ3箇月のことを思い出して一通り書いてみたのだが、読み返してみるとどうにも嫌らしい。今さら秘密の暴露云々といった話でもないだろうが、自慢話は見苦しいので削除した。私の鼻持ちならない話が聞きたいという物好きな人は、オフ会に参加してもらいたい。


削除した文章を書くのに時間を費やしてしまい、今から代わりのネタを探して書いている間がない。これから明日の夜の出立の準備をしないといけないし、できれば少しでもコミケカタログをチェックしておきたい。

そういうわけで、今日はこれでおしまい。次回は旅行後だ。生きて帰ってくることができれば。