【日々の憂鬱】プロット段階で編集者の指示を仰がずに独走するのはいかがなものか。【2004年2月中旬】


1.10958(2004/02/11) 比喩と例示と遠坂ルート

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402b.html#p040211a

昨日の記事が予想以上に厄介だったので、なぜ書くのがしんどかったのかをつらつらと考えてみたところ、次のような結論に達した。論理学には比喩が通用しない

世間の人々にはあまり馴染みのない話題を取り上げて説明するとき、厳密さを犠牲にしていいのなら、別の分野の話題を引き合いに出して、両者の構造的類似を手掛かりにして直感的な理解を促すという手法がある。要するに比喩だ。「たとえば……」と語り出して、みんなのよく知った話を持ち出して、納得してもらうわけだ。

ところが、論理学には、そのようにして引き合いに出すことができる別の分野の話題が存在しない。「たとえば……」と言うことはできるが、それは抽象的な話題を具体例に即して解説しているだけで、比喩ではない。論理学には、それが扱う特定の話題というものがないのだから、別の分野の話題もないのは当然のことだ。

そういうわけで、スマートに説明しようと思えば思うほど、どんどん鈍重になってしまうのであった。困ったことだ。

そんな事をしている間にも、時間はどんどん過ぎていく。『Fate/stay night』の攻略は全然進んでいない。デッドエンドに達して、タイガー道場を見たが、デッドエンドを避けるためのヒントをもらっても、それを実行する選択肢がない。直前の選択肢からやり直してもやっぱり駄目で、もう一つ前、さらにもう一つ前と遡っていって、かなり前の選択肢まで戻って、そこで別の選択肢を選んだら、ようやく当該デッドエンドの直前で回避できる選択肢があらわれた。これまで、「死んだら直前からやり直し」という安直な方法だけで攻略できていたが、それはたまたま攻略がうまくいっていただけだったようだ。

生きるか死ぬかの二者択一か、どれを選んでも後の展開に関係のない味付け選択肢か、『Fate/stay night』にはそのどちらかしかないと思っていたが、さすがにそこまで甘くはなかったようだ。とりあえずフラグを立てておいて後になってからフラグを参照するタイプかもしれないが、私が選び直した選択肢はそれほど重要なものとも思えなかったので、隠しパラメータで後の展開を管理しているのだと思う。攻略本が楽しみだ。

1.10959(2004/02/12) 思いつき

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402b.html#p040212a

先月、ヘンデルの室内楽曲全集を買ってきて、今ぼちぼちと聴いている。トリオソナタを聴くとコンチェルトのようだ。フォルテを合奏、ピアノを独奏にすれば、そのまま合奏協奏曲になりそうな気がする。

ヘンデルの合奏協奏曲といえば、昔、カラヤンがチェンバロを弾きながら指揮したレコードが出ていたように記憶している。まだ聴いたことはないのだが、検索して調べてみると、レビューしているページが見つかった。記憶違いではなかった。

なんだか非常に恐ろしい演奏のようにも思うのだが、機会があれば一度は聴いてみたいものだ。


西尾維新の『きみとぼくの壊れた世界』の登場人物の一人、病院坂黒猫の名前から『病院坂の首縊りの家』を連想した。横溝正史の晩年の大長篇だ。姓が横溝正史に由来しているのなら、下の名もそうだろうと考えるのが自然だ。『黒猫亭事件』が思い浮かぶ。だが、横溝正史に限らなければ、タイトルに「黒猫」が入っている小説でもっとも知られているのは、ポーの『黒猫』に違いない。特に根拠はないのだが、ポーのほうが病院坂黒猫の雰囲気に合っているような気がする。

ところで、『病院坂の首縊りの家』は昭和20年代に中絶した『病院横町の首縊りの家』を改題・改稿したものだ。元のタイトルの「病院横町」はポーの小説『病院横町の殺人犯』(森林太郎・訳)から取られている。この小説は現在『モルグ街の殺人事件』という訳題で知られている。

訳者の森林太郎は、別名義で小説も書いている。だが、その名義をここに書くのは気がひける。正しく書こうと思うと文字化けのおそれがあるからだ。


英米の大戦間探偵小説を主導した、クイーン、クリスティー、クロフツの三人は、みな名前が「ク」から始まる。これは一体なぜなのか? そして、もう一人の重要人物、カーは――同じカ行とはいえ――頭文字は「ク」ではなく「カ」だ。この不徹底の理由は一体何に求めればいいのだろうか?


政宗九の視点で知ったのだが、来月11日には『新・本格推理04』が出るそうだ。MYSCON参加者は必ず当日までに読んでおくように。

ふふふ、待ってろよ、小一時間問いつめてやるから……と某氏に向かって宣言しておく。

ところで、私は一昨年MYSCONに参加しながら、サイト上では一切言及しなかった。昨年は逆に参加するかのようなそぶりを見せながら申し込まなかった。今年はどうしようか迷ったのだが、結局、参加申し込みをすることにした。これは地の文なので、嘘はついていない。

1.10960(2004/02/12) 今日の連想

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402b.html#p040212b

『Fate/stay night』をやっている最中に、どういうわけだか『慶喜、謀叛!!』(大山格/学研 歴史群像新書)を思い出した。一風変わった架空歴史物で非常に面白かったが、今は品切れのようだ。

作者のサイトはここ

1.10961(2004/02/12) ドイツ観念論

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402b.html#p040212c

白黒学派(2/11付)から。

下記、修正するかもしれないけれど「超越論的」の話をしておきます。酔っているので話半分でお願いします。たぶんカント、バークリーといったドイツ観念論のおかげで、物そのものは人間にとって触れることができないものであることが明確になった。私たちが認識しているのは認識している感覚でしかないわけで、それがまやかしである可能性を否定できないし、物そのものを感覚に頼らずに知覚する術を持たないという無茶苦茶な真実が明らかになったわけです。これらの理由によって、感覚では捉えられない領域を「超越的なもの」というようになりました。そして、その事実を踏まえて、物について検証したり、その知覚の仕組みを考えることを「超越論的」という形容詞をつけることで表現するようになりました。だから、本来、私たちが物事について考えたりすることは超越論的な行為なんですね。ただ、その行為は「超越的なもの」と「超越論的なもの」との区別ができていない。それを正しく区別する方法、それが「本質直観」ないしは「超越論的還元」という方法なのです。ああ、そうか、でもここでみっつの「エポケー」の話をしろと、脳内師匠がいっていますが、無視します。

カントはともかく、バークリーの哲学をドイツ観念論と呼ぶのは、いくら酔った上のこととはいえ、いかがなものか。バークリーはドイツ人ではないのだから。

1.10962(2004/02/12) 輪廻の蛇

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402b.html#p040212d

長かった『Fate/stay night』遠坂ルートもようやく最後の決戦を残すのみとなった。もしかしたらそれは私の早合点で、まだこの先にも話が続いているのかもしれないが、まあ、それでも残された戦闘数はたかだか有限であることに違いはない。

今週末までに全ルートクリアするのは、もはや不可能だが、少しでも進めておくことにしよう。

1.10963(2004/02/13) 今日の帰納

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402b.html#p040213a

私は明日まで生きながらえるだろう。なぜなら、今日も昨日も一昨日も、ずっと生き続けてきたからだ。私のこれまでの人生で、死んだことは一度たりともない。

この推論は論理的には妥当ではない。いつかは破れる日が来る。先人たちの末路がそれを暗示している。ゲーデルは死んだ。エッシャーも死んだ。バッハも死んだ。

この推論も論理的には妥当ではない。だが、いつかは破れる日が来るのだろうか?

ともあれ、私はまだ死なない。死ぬわけにはいかない。私はまだ不完全性定理を理解していないのだから。

1.10964(2004/02/13) 13日の金曜日に天保ソバを想うということ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402b.html#p040213b

「天保ソバ」にかける情熱ゆとり都山形ホームページ)という記事を読んで、天保ソバなるものを食べたくなった。2002年の記事なので、順調にいけば今年くらいには食べられるようになっているのではないかと思うのだが、続報が見つからなかった(と書いたが、その後こんな記事を見つけた)

天保ソバが栽培されている飛島は某ミステリの主要な舞台になったことでも知られているが、そのタイトルを書くだけでネタばらしになってしまうので紹介できない。残念なことだ。

……また、どうでもいいことを書いてしまった。

1.10965(2004/02/14) 論理のことば

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402b.html#p040214a

闇黒日記(2/13付)から。

俺は、教條的な論理主義ではなく、合理主義の立場だから、全てのジャンルなり何なりで全く同一の論理を用ゐよなどとは主張してゐない。道徳については道徳的に、政治については政治的に考へよ、と言つてゐる。思想の影響の問題については、人文的に考へよ、と言ひたい。

「論理」という言葉には大きく分けて二通りの用法がある。「命題論理」とか「論理的に真」とかいう場合の「論理」と、「男社会の論理」とか「自衛隊派遣の論理」とかいう場合の「論理」は、同じ言葉であっても用法が異なる。

前者は、考え方の筋道に関する法則という意味合いであり、後者は、ものの見方考え方の枠組みである。後者の意味での"論理"は、前者の意味での"論理"のほかに、理念や常識、特定の分野にのみ関わる共通了解などを加えて構成された信念体系のようなものだ。この説明はあまり厳密ではないが、今の話題にとってはこの程度で十分だろう。

野嵜高橋論争は、ある分野の"論理"を別の分野にどこまで応用できるのかという問題を主に扱っている。そこで取り上げられている分野は、たとえば政治であり、道徳であり、法であり、文学であり、芸術であり、文化である(この列挙が排他的なものでないことに注意!)。分野ごとに想定される"論理"とは、先に二大別した「論理」の後者の用法によるものである。

ところが、この論争では、たまに「論理」が前者の意味でも用いられる。三段論法に関する話題などはその典型だ。私の関心は、その意味での"論理"にあるので、「論理」という語を見かけるとどうしてもそちらよりに解釈したくなる。だが、その意味での"論理"はこの論争にとっては周辺的な話題に過ぎず、じきにもとの"論理"を巡る話題に帰っていく。上の引用文では、もはや「論理」という語が前者の意味で用いられていないことは明らかだ。

今、「明らか」と書いたが、もしかしたら、なぜ明らかなのかがわからない人がいるかもしれないので、ちょっと補足。

政治には、政治理論や政治思想があり、道徳には道徳理論や道徳思想がある。政治についての考え方を道徳の分野に持ち込んだときに全く同じように考えることができないのは当然のことである。だが、政治の分野では肯定式が妥当だが道徳に関してはそうではない、とか、道徳については定言三段論法が成立するが政治に関しては成立しない、とか、そういう意味で"論理"が別物であるわけではない。少なくとも伝統的形式論理学の教養のある野嵜氏がそのような珍妙な主張を真面目に行うとは考えにくいので、上の引用文中の「論理」は、後者の意味だと判断したわけである。

また、これはあまり根拠のない憶測なのだが、引用文中の「合理主義」という言葉が、前者の意味での"論理"を重んじる立場を指しているような印象を受けた。政治と道徳には別の原理があるが、それらに共通の合理精神のようなものがあるとすれば、その一翼を担うのは(前者の意味での)"論理"に対する信頼ではないかと考えるからだ。

長くなってしまったが、今日の文章は野嵜氏の言葉を吟味することが目的ではない。引用箇所から連想したことを適当に書き連ねてみるつもりだったのだが、そのまま書いたのでは、野嵜氏の言葉を誤解して批判しているかのように誤読されるおそれがあったので、予防線を張っておいただけのこと。今日の本題は、前者の意味での"論理"について教條的な論理主義という立場が考えられるとすれば、それはいったいどのような考え方になるのか、ということだ。言うまでもなく、この問題設定は、野嵜氏が扱っている事柄は別のことであり、単に字面をみて私が思いついただけのことに過ぎない。

ようやく主題を打ち出したので、これからそれに沿って話を進めることになるのだが、今日は外出する用事があって、そろそろ家を出ないといけなくなったので、これ以上書き続けることができない。取り上げようと思っていた具体的な話題は「矛盾した前提からはどのような結論でも出てくる」という考え方で、これが論理学の抽象的な議論の場を超えて適用できるのかどうかについて検討してみようと思っていた。つまり、話題の面からみれば先日の続きということになる。とりあえず、予告だけしておく。

1.10966(2004/02/14) 魔術と算術

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402b.html#p040214b

『零崎双識の人間試験』(西尾維新/講談社ノベルス)を読んだ。これまでの作品と比べて何となく鈍重な印象を受けた。それは、三人称のせいかもしれない。

ミステリ要素は限りなく薄く、ただただ登場人物が殺し合いをしているだけという感じ。現代日本を舞台にした武侠小説とでも言うべきか。だが、活劇場面が特に面白いというわけでもない。『Fate/stay night』の合間に読んだのでどうしても比べてしまうのだが、各登場人物の技能や特性、武器の属性などに関する設定があまり書き込まれていないため、その場の筆の勢い次第で勝負はどうとでもなるのだろうと思ってしまう。緊張感がない。

そういうわけで、私は『零崎双識の人間試験』を楽しめなかった。


先日から読んでいた『ゲーデル・不完全性定理 "理性の限界の発見"』(吉永良正/講談社ブルーバックス)を読了した。途中で論理学に関する記述の誤りに気づいたせいもあり、あまり気合いが入らなかったのだが、とにかく全部読み切った。

これでゲーデルの不完全性定理のことがわかったかといえば甚だ疑問だ。考え方の筋道はある程度理解できたような気もするが、数学以外の分野に不完全性定理を援用した議論の妥当性を正確に見積もることができるようになったとは思えない。それができるようになるためには、ゲーデルの論文そのものを読み込み、それがどの程度の射程を持っているのかをきちんと把握しなければならないだろう。私の思考能力でそこまでできるのかどうかはわからないし、仮に原理的に可能であったとしても一歩一歩論証のステップを後追いするだけの時間的余裕は今の私にはない。

どうやら、私は不完全性定理を理解することなく、死を迎えることになりそうだ。


『Fate/stay night』遠坂ルート終了。28時間32分。まだ先は長い。


魔術は算術のアナロジーとして捉えることが可能ではないか、と思いついた。魔術師は魔法陣を描き、算術師(=数学者)は魔方陣を描く。魔術は感覚によって知ることが可能な現実世界の表面上の秩序の背後に関する理論であり、算術もまた同じ。

この思いつきを発展させれば、ちょっと面白い話ができそうだが、明日は休日出勤で朝が早く、今晩は夜更かしができないので、今はこれ以上書き続けることができない。

思いつきばかりがどんどん溜まっていくなぁ。

1.10967(2004/02/15) ふしぎ・ふしぎ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402b.html#p040215a

まいじゃー推進委員会!(2/15付)から。

なぜか知りませんが、戯言シリーズに限ってはさんざん文句を言っておきながらも次の巻もしっかり読んでる人の多いこと多いこと! それも「ウォッチング」と呼ばれる文句をつけるためだけに読んでるわけではなさそうなのです。明らかに本気モードで読破してるっぽい。……なんで? 嫌よ嫌よも好きのうち!?

そういえば、私も戯言シリーズは全巻読んでるなぁ。なんでだろう?

1.10968(2004/02/15) 選択肢AとBとC

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402b.html#p040215b

砂漠といえば砂だらけというイメージがあるが、それは戦後の漢字制限の成せる業、正しくは「沙漠」である。見渡す限り岩だらけの沙漠に立って、茫然とそんなことを考える。

数日前まで緑と水に満ちた生活を送っていたのに、あっという間に環境が激変してしまった。どうしてこんな事になってしまったのか……。悔やんでも仕方がない。森も川も草むらも、二度と戻ってはこないのだ。今はただ生き残ることだけを考えなければ。

ひょこひょこと動く尻尾が岩陰から見える。隠れているつもりなのだろうが、丸わかりだ。まさに、頭隠して尻隠さず。

さて、どうしたものか……。

「見逃してあげましょうよ」と紫音が言った。「あんなに愛らしく尻尾を振る動物を食べるなんて、残酷です」

すると「お姉さん、もうダメ。お腹ぺこぺこ。虎に偽装した豹でもいいから食べちゃいたいくらい」と玖音が返した。

「わたしは反対です!」と紫音はかたくなな態度を崩さない。

「なら、紫音ちゃんだけお預けね。二人でもりもり食べちゃうもんね〜」

この二人の掛け合いを聞いていると、なんとなく気分が和む。だが、今はそれどころではない。決断しなければ。

  1. 紫音の言うとおりだ。ここは見逃してやろう。
  2. 腹が減ってはいくさができぬ。玖音の意見に従う。
  3. というか、この二人は一体何者なんだ?

紫音の言うとおりだ。ここは見逃してやろう。空腹は耐えきれないほどだが、食物を獲得する手段が他に全くないとも言い切れない。

そこで、わざと大きな音を出した。すると、尻尾がぴくりと震えたかと思うと、岩陰から可愛い子猫が飛び出して、遙か彼方へと走り去ってしまった。

「あ〜、もったいない。猫鍋食べたかった……」玖音は口に指をくわえつつ、心底残念そうに言った。紫音は黙っていたが、ちらりと横顔を見ると、かすかに微笑んでいるようだった。

「さて、食べ物を探すことにしよう。子猫がいるということは、この近くには水があるかもしれないし、もしかしたら果物のなる木が生えているかも」

「そうですね。さあ、玖音もすねてなんかいないで、行きましょう」

こうして三人はあてもなく歩き出した。いつかは約束の地にたどり着けると信じて。


腹が減ってはいくさができぬ。玖音の意見に従う。そうと決めたら善は急げだ。紫音は何か言いたそうだが、構ってはいられない。相手が人の気配に気づく前に襲撃する。

手頃な大きさの石を見つけたので、それを持ってこっそりと岩へと近づく。尻尾の位置から推測して、頭のあたりに向けて石を投げた。

「うぉぉぉぉぉーん」

不気味な叫びが聞こえた。命中したようだ。だが、あれは猫なのか?

「あっ、白ライオンの子供よ。大変!」

「え、何? お姉さん、わかんない」

「白ライオンの親が襲ってきたら、わたしたちでは太刀打ちできません。逃げないと……」

紫音が説明し終えるよりも前に、遠くからのっしのっしと大地を揺さぶる足音が聞こえてきた。だんだん近づいてくる。白ライオンの子供の叫びを聞いて、親ライオンがやって来たのか。

こんなところでライオンに食われて死ぬわけにはいかない。「紫音、玖音、逃げるぞ。急げ!」

こうして三人は命からがらその場から逃げ出した。約束の地はまだまだ遠い。


というか、この二人は一体何者なんだ?

「えっ、わたしたちですか? ただの通りすがりの巫女姉妹ですが」

「そうそう、美人巫女姉妹よ。勝手に画像を公開したら著作権とかいろいろうるさそうだから、顔をお見せできないのが残念です」

「ところで全然話は変わりますが」と紫音。「「戯言シリーズ」をここ最近は買っていません。もちろん、人間試験も。

つまらなくはないんだけれど、作者のエクスキューズがそろそろ鬱陶しくて本気で読む気になれない小説なんだよね。」と玖音も同調する。「言い訳の多い人間を見ると、ついチクチクと穴を見つけて突付きたくなる人には絶好の小説なんだろうけれど。

すると、そこに何の前触れもなく第三の人物が現れて、「うえお と 西尾 の作品中のエクスキューズは、なんか似ている気がする。」と呟き、すぐに姿を消した。

なんだったんだろう?

だが、あまり深く考えてはいられない。今は生きるか死ぬかの瀬戸際なのだから。

さあ、決断だ。

  1. 紫音の言うとおりだ。ここは見逃してやろう。
  2. 腹が減ってはいくさができぬ。玖音の意見に従う。

上の文章はシナリオ分岐型ノベルゲームを模したものだ。特に筋立てを考えずに適当に書きとばしたので特に面白くもなければおかしくもないが、そんな事はどうでもいい。私が行おうとしているのは、ノベルゲームの構造と解釈に関する考察であり、上の文章はそのために書いただけなのだから。

一本道の物語を読むとき、読者は主人公の行動を追跡するだけで、行為に介入することはできない。主人公に感情移入するかどうかは読者次第だが、どんな読み方をしたところで、物語そのものが変わるわけではない。解釈により物語のもつ意味が変わることがあるかもしれないが、それは別レベルの話である。

他方、分岐型の物語では、あたかも読者が主人公の行為に介入できるかのような見かけをもつ。冷静になって考えてみれば、予め用意された選択肢の中から一つを選び取るだけなので、実は一本道の物語と大差はないのだが、そう言ってしまうと身も蓋もない。少なくともどの選択肢を選ぶかという自由は読者にあるのだから、その点に着目して話を進めることにしよう。

Aを選ぶと岩陰の尻尾の主は子猫であり、Bを選ぶと白ライオンである。文中では特に明示はしなかったが、子猫と白ライオンは別物であると考えることにする。すると、上の文章はどのように解釈すればいいのだろうか?

ひとつの解釈はこうだ。選択肢の前では尻尾の主の正体は決まっていなかった。それは子猫でもあり得るし、白ライオンでもあり得る。主人公の選択によりその正体の決定が行われたのだ。

もうひとつの解釈はこうだ。選択肢の前の文章は複数の世界についての記述であり、一方の世界では尻尾の主は子猫であり、もう一方の世界では尻尾の主は白ライオンだった。両方の世界に紫音と玖音、そして主人公が存在する。読者(=プレイヤー)の選択により世界の決定が行われたのだ。

さらにもうひとつ、ちゃぶ台をひっくり返すような解釈がある。選択肢の前の文章で記述されているのは一つの世界であり、その世界内部では尻尾の主の正体は子猫か白ライオンのどちらかに決まっている。にもかかわらず、AとBで明かされる正体が異なるということは、この物語が破綻しているということを端的に示している、というものだ。

第三の解釈は第一、第二の解釈とはレベルが異なる。辻褄の合わない記述を発見したときに作者のミスとか誤記といって処理するようなもので、物語の内部構造の分析ではない。とはいえ、無理矢理辻褄合わせをするよりも自然な場合もあるので、第三の解釈の可能性を全く無視するわけにもいかない。

さて、第一の解釈と第二の解釈に話を絞る。

第一の解釈の利点は、物語とそれが記述している世界との関係が簡素であり、通常の一本道の物語の場合と同じように取り扱えるということだ。他方、この解釈は二値原理に制約を加えることになるという難点をもつ。この犠牲を大きいとみるか小さいとみるかは意見の分かれるところだが。

第二の解釈の利点と難点はその逆である。一本道の物語の場合を読むとき、ふつうは二値原理云々を気にする必要はない(物語で書かれていない事柄が確定しているかどうかというのは虚構論の主要な論点の一つなのだが、一般読者はそんな事を気にはしないだろう)が、それと同じ読み方が可能である。だが、物語と世界が一対一対応していないという考えは、主人公への感情移入の妨げにはなるだろう。途中までは似た行動をとる別人に同時に感情移入することはいかにして可能か?

私は物語の主人公に感情移入しない性格なので、どちらかといえば第二の解釈を支持したい。とはいえ、作中のすべての選択肢について第二の解釈を適用するということではない。上の例はわざと自然な読みを妨げるような展開にしたので解釈の余地が生じたが、このような不細工な展開はふつうはほとんどないものだ。

物語の構造に目を向けながら読む、というのは、常に叙述トリックを警戒する必要があるミステリの場合などにはさほど異常な読み方ではない。だが、たとえば一ページあたりのコマ数を数えながらマンガを読んだり、フィルム交換の瞬間を意識しながら映画を鑑賞するような、そんな接し方を一般の読者(=プレイヤー)に強いる物語はあまり上出来とは言いかねることが多いだろう。よく出来たノベルゲームでは、たいていの選択肢はその後の展開を左右するだけで、遡って世界のあり方を改変するような選択肢は全くないか、あったとしても冒頭近くにごく少数ある程度だ。


……と、ここまで書いて息切れした。前にも似た話題を扱って途中で放り出したことを思い出す。

日刊海燕このあたりをベースにして話をしようと思っていたのだが、道具立てを整えるのが大変。無造作に「多世界解釈」などという言葉を使ってしまったが、これは我ながら迂闊だった。

とりあえず、今のところの私の考えは次のとおり。

  1. 基本的に、シナリオの分岐は主人公の選択の結果として解釈する。従って、主人公の行為が及ばない事象については変化は生じないと考える。
  2. 1では説明が困難な場合、シナリオの瑕疵と考えるか、または複数世界の重ね合わせと考える。
  3. たとえば、一方の選択肢の先に幽霊譚があり、別の選択肢の先にスパイ物があるというような場合(某有名ノベルゲームを想定せよ!)、選択肢以前の記述は複数世界に関わるものである。
  4. たとえば、ルートによって天候が違うというような場合は、単なる御都合主義である。
  5. 世界内での不確定状態が事後的に決定されるという考えは、それが物語の中で提示される場合を除いては、採用しない。

問題は、ここでいう「世界」概念をどう分析するかだ。これはちょっと手がつけられない。

1.10969(2004/02/16) そろそろミステリの話でも

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402b.html#p040216a

しばらく固い話題が続いたので、今日は軽くミステリに関する雑談をしようと思う。

先日、私は『QED 百人一首の呪』(高田崇史/講談社文庫)を読んだ。もちろん、来月のMYSCONに備えてである。

『QED 百人一首の呪』が講談社ノベルスで出たのは1998年12月のこと。私は翌年1月にこの本を読み、あまり感銘を受けなかったので、シリーズ続篇には手を出さなかった。それから、はや5年。本を処分した記憶はないのだが、どうやっても探し出すことができないので、文庫版を改めて購入した。

文庫版には、元版の推薦文(北村薫)が再録されている。百人一首の配列を巡る謎と殺人事件の謎が水と油だと指摘したうえで、水と水、油と油を混ぜる作業がなされており、双方の謎が手に手を取り合うという形になっていると述べる。

ところが、文庫版解説(西澤保彦)はこれに異議を唱える。

もしも筆者が北村の真意を取り違えているとしたら素直に謝るしかないが、本解説はこの意見には必ずしも与さない。誤解を招く言い方になるかもしれないが、そもそも本作品の肝は「百人一首配列の謎解き」その一点のみなのである(北村も控えめながら同様の趣旨の発言をしている)。そして「真榊大陸殺人事件」に、敢えてその肝と取り合わせなければいけないほどの有機的必然性があるのかと言えば、そうでもない。よく読んでみれば判るが、双方は根本的に乖離している。

なかなか思い切ったことを書いている。もちろん、これが結論ではなくて、この後に西澤マジックが展開されているのだが、この箇所だけ切り出せば、決して誉めているわけではない。

北村薫と西澤保彦、この二人の作家が一見したところ正反対の意見を述べているのがなかなか面白い。もっとも、西澤解説を読んだあとで北村推薦文を読み返すと、確かに北村も控えめながら同様の趣旨の発言をしていることがわかる。この対立は表面上のものに過ぎない。要するに、新人のデビュー作に寄せた短文と、安定した作家の過去の作品に対する比較的長文の解説の違いではないかと思う。

さて、この小説の主題である百人一首配列の謎は、作中でも述べられているように、織田正吉が『絢爛たる暗号』で先鞭をつけ、林直道が『百人一首の秘密』で追随したものだ。私は織田正吉の『百人一首の謎』(基本的には『絢爛たる暗号』と同じ内容だが、タイトルからもわかるように、林直道への対抗意識があらわれた論争的な本である)を最初に読んだので、どちらかといえば林説よりも織田説のほうに惹かれる。では、高田説の説得力はいかほどか? この本は当然、そのように読むべきものである。

だがしかし。残念ながら5年前の私は既にこの謎への関心を失っていた。私の知的好奇心はすっかり摩耗していて、もはや批判的に吟味しながら本を読み進めるという面倒な作業に耐えられなくなっていたのだ。『QED 百人一首の呪』は、黙って文章の流れを追っていくだけでそれなりに魅力的な謎を体感できるタイプの小説ではなく、読者自身が積極的に謎解きに参加する意欲を見せないと面白さが十分に理解できないタイプの小説だけに、読者の側に関心がないというのは致命的だ。ああ、あと5年早くこの本に出会っていたなら!

それからさらに5年が過ぎ、私はますますとしをとった。いまや、短歌を見るだけで目がストライキを起こすほどに成り果てている。殺人事件の謎のほうは、初読時の記憶をすっかり失っていたため、それなりに興味をもって読めたが、百人一首の謎解き部分はほとんどとばし読みしてしまった。もったいない話だ。

そんなわけで、私にはこの本についてまともな感想を述べる資格がない。せめてもの罪滅ぼし(?)として、引き続き『QED 六歌仙の暗号』も買ってきて、今読んでいる最中だが、こちらは前作ほどがちがちのパズルではなさそうなので、ほっとしている。

MYSCONまで、もう一ヶ月もない。もとより高田崇史の全作品を読む気はないが、文庫化されたものはなるべく読みたいものだが、さて何冊読めることか。

1.10970(2004/02/17) レジオネラ菌とトリハロメタン

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402b.html#p040217a

しばらく旅行をしていない。久しぶりにのんびりと温泉に行きたいものだ。

そんなことを考えているときに、ふと今日の見出しが脳裏をよぎった。急に意欲が失せた。

それはともかく、前振りとは何の関係もなく『QED 六歌仙の暗号』(高田崇史/講談社文庫)を読んだ。六歌仙と七福神を巡る謎が現在の殺人事件に絡んで……という話なのだが、殺人事件のほうはあまり面白くない。七福神と六歌仙のほうがメインであるのは疑い得ない。だったら小説ではなくて、歴史読み物という感じにまとめて講談社現代新書あたりから出せばよかったのではないかと思わなくもないのだが、それをやってしまうと説得力がかなり減じてしまう。やはりこれは小説でなければ成立しないのだろう。

二作目にして既にシリーズの枠が邪魔になっているような印象を受ける(シリーズキャラクターを出さずに、伝奇ロマンとして仕上げたほうがよかったのではないだろうか?)が、面白くなかったわけではない。引き続き三作目の『QED ベイカー街の問題』を読むつもりで、今日買ってきた。だが、他にも読むべき本があるので、いつになったら読めるのかは不明。そういえば、乱歩全集もたまってきた。

1.10971(2004/02/18) カルナップの魔剣

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402b.html#p040218a

デカルトに遭えばデカルトを斬り、ハイデガーに遭えばハイデガーを斬る。そして、もしかするとカルナップ自身をも斬りかねない魔剣。その名を論理分析という。

……などという戯言(例によって「ざれごと」ではなく「たわごと」と読んでください)を書き散らかしたところで、今日読んだ本の感想を書いておく。

昨日、いつになったら読めるのかは不明と書いた『QED ベイカー街の問題』(高田崇史/講談社文庫)だが、なぜか今日一日で全部読んでしまった。一週間足らずの間に同じ著者の小説を三冊も読むのは私にとっては異例のことだ。高田崇史の小説にはそれだけの魅力がある……と書けばいいのだが、嘘はつけない。こんなに続けて読めたのは、要するに適当にとばし読みしたからに他ならない。

私はとばし読みが苦手だ。内容が薄い本でも文章をきっちりと読まないと気が済まないし、そうやって読むとどこかに引っかかる箇所があって、読む速度があがらない。だが、QEDシリーズは、いくらとばして読んでも気にならない。重要なデータとか、押さえておかないと後の展開がわからなくなる設定とか、そういうものが出てこない場面が直感的にわかるからだ。そんな場面は会話文だけを拾い読みし、蘊蓄や事件の説明の箇所だけは地の文も読む。そんな読み方で、私は『QED ベイカー街の問題』を一時間程度で読み終えた。

こんな読者が小説の内容についてあれこれ言うのは失礼だろうから、感想は省略する。

次は『QED 東照宮の怨』なのだが、さすがに傾向の違う本が読みたくなってきた。昨日、『QED ベイカー街の問題』と一緒に買った『ネジ式ザゼツキー』(島田荘司/講談社ノベルス)があるので、これを読むことにしよう。MYSCONの読書会課題本なのでとばし読みはしない。かなり時間がかかりそうだ。

1.10972(2004/02/19) 時刻表は買ったけど

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402b.html#p040219a

G.C.W.氏の日立電鉄紀行を見ると、遙か昔に常北太田駅に行ったことを思い出す。水郡線の常陸太田駅に降り立ち、折り返し列車を待つ間に訪れたのだが、時間の都合で日立電鉄にはまだ乗っていない。そこで、MYSCONのついでに日立電鉄に乗っておこうと考えている。ついで、というには距離が離れているが、一泊追加すれば問題はない。というわけで3/12(金)は会社を休むことにした。

実は、私はまだ常磐線を完乗していない。東京口は上野〜金町間のみ(金町から京成電車に乗って上野に戻った)、仙台口はいわき〜岩沼間(磐越東線からいわきに入り、北へと抜けた。なお、私が乗ったとき、「いわき」ではなく「平」だった)、そして水戸〜友部間(水郡線から水戸線に乗り継いだ)を乗っただけだ。この機会に残りの区間も全部乗っておきたい。

また、茨城交通とか鹿島臨海鉄道とか鹿島鉄道とか真岡鐵道とか関東鉄道とかも乗りたいものだ。去年、北関東の鉄道にはかなり乗ったのだが、このあたりはすっぽり抜け落ちている。

いや、乗りつぶしばかりにこだわっていてはいけない。常磐線には下りホームしかない臨時駅の偕楽園がある。時刻表を見ると3/13(土)には営業しているようだ。また、せっかくだから一編成しかない二階建普通列車(形式は覚えていないが、東海道本線などで走っているのとは別)にも乗っておきたい。

というふうに、時刻表を見ているだけで、どんどん構想が膨らんでいくのだが、それも今だけのこと。だんだん意欲が萎んで、当日になったら引きこもってしまうのだ。きっとそうなるに違いない。


わ、凄いことになってる。


白黒学派経由ここ、さらにここを読んだ。『これが現象学だ』は私がこれまでに読んだ唯一の現象学関係の本(その後もう一冊読みかけたが途中で頓挫した。今となってはタイトルすら覚えていない)だ。私はこんな感想を書いているが、「丸い四角」の話題が出ていたのはすっかり忘れていた。もう一度読み直してみたいが本がみつからない。


某氏から指摘を受けて、2年前の誤記にはじめて気づいた。意図的にやったことではない。検索してみると、同じ間違いを複数の人がしている


さて、『Fate/stay night』の続きをしよう。たぶん今週中に終えることはできないだろうが。

1.10973(2004/02/20) 補足トリビア

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402b.html#p040220a

「たそがれSpringPoint」はトップページしかアクセスログをとっていないので、直リンクされてもわからないのだが、昨日、アクセスログを見ると、ここからとんできた人がやたらと多かったので検索して調べたら、Exciteニュースからリンクを張られていることが判明した。

モーツァルト「おれの尻をなめろ」は本人の作品ではなかった?

昨日「トリビアの泉」で放映されていた、このネタ、しかし実は「おれの尻をなめろ」はモーツァルトの作ではなかったとの説が。(さわだ)

最近「トリビアの泉」を全然見ていないので、このネタがどのように取り上げられていたのかは知らないが、念のため補足しておくことがある。それは、モーツァルト作曲ではないと判明した「おれの尻をなめろ、きれいにな」(K.382d)とは別に「おれの尻をなめろ」という曲があるということだ。変なタイトルの曲にも二つ並んで載っている。

似たタイトルの曲が二曲だったのか、それとも三曲以上あるのかは『モーツァルト事典』か何かで調べてみないとわからないし、私はその種の資料を持っていないので、今は確かなことは言えないが、とりあえず読者諸氏の注意を喚起しておく次第。まあ、どうでもいい話ではあるのだが。

1.10974(2004/02/20) 空気

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0402b.html#p040220b

「空気が読める/読めない」という言い回しが一般的なものになったのはいつ頃だろうか? もしかしたら、ずっと昔から使われていたのかもしれないが、私は5年以上前にはこの表現を見聞きしたことはない。

たぶん、昔は「雰囲気が読める/読めない」という言い方のほうがふつうだったのではないかと思う。「雰囲気」が「空気」に取って代わられるようになったのは、「ふんいき」より「くうき」のほうが発音しやすいからだろう。


空気は主に窒素と酸素から成る。ほかにもいくつかの物質が混じっているが、基本的には窒素と酸素の混合物だ。では、「空気が読めない」という表現には、空気が窒素と酸素の混合物であるという事柄が反映されているだろうか? たぶん反映されてはいない。この言い回しにおいては、「空気」は、人と人の間にある目に見えないもの、という程度の意味しか持たない。だからこそ「雰囲気」に置き換えることが可能だったのだ。

「空気」はまた、ごくありふれた自然なもの、それがあるということを意識することがあまりないもの、などという意味でも用いられる。この場合も、窒素とか酸素とかは度外視される。

空気から窒素と酸素を取り除けば、それはもはや空気ではない。にもかかわらず「空気」の比喩的な用法では、空気の構成要素に目が向けられることはほとんどない。考えてみれば不思議なことだ。


喘息患者は空気を意識する。ぜいぜい、はあはあ、と苦しげに呼吸する。「君はどうしてそんなつまらないことに労力を費やすのか? 呼吸なんてごく自然に行えばいいことなのに」などと言う人は実際にはいないとは思うが、もしこんな発言をする人がいたなら私は暗澹たる気分に陥ることだろう。