1.10188〜1.10193 日々の憂鬱〜2002年3月第5週〜


1.10288(2002/03/25) 親指姫と七人の小人

 例によって見出しは本文と関係がない……と書いて済まそうと思ったのだが、あまりに素っ気ないので一言だけ。ああ、これはチェスタトンだな。
 本当に一言で終わってしまった。何のことを言っているのか、わからない人のほうが多いだろう。どうしても知りたい人はメールをくれれば教えるが、そんな事を言ってメールが来たためしがないから、今回も同じだろう(実際、この件で問い合わせは全くなかった)

 さて、肝心の「本文」が思いつかない。相変わらずネタ切れだ。仕方がないから、親指姫の話をする。親指姫の名前の由来は、彼女の体の大きさがふつうの人の親指くらいしかないからだと思う。「と思う」というのは、実は私は『親指姫』という童話をちゃんと読んだことがないからだ。昔からイソップとグリムとペローは好きでよく読んでいたのだが、なぜかアンデルセンはあまり読んだ記憶がない。というか、そもそも『親指姫』はアンデルセン童話でよかったのか? まさか、ラ・フォンテーヌじゃないだろうな。
 それはともかく、私が不思議に思うのは親指姫をどうして親指にたとえるのか、ということだ。だいたい指の大きさというのは人によってさまざまなのだから、「ふつうの人の親指の大きさ」というのがどれくらいなのか、はっきりと言える人はいないだろう。いや、もしかしたら「日本人の成人男性の親指の長さは平常時で約13cm」とかいう統計データがあるのかもしれない。だが、そんな事はないだろう。13cmというのは長すぎる。
 それはともかく、親指姫は別に「小指姫」でもよかったのではないか、と思うのだ。そりゃ、親指よりも小指のほうが短い。だが、手が大きい人なら当然小指も大きいわけで、親指姫の身長くらいの立派な小指の持ち主もいるだろう。逆に手の小さい人なら、人差し指の長さが親指姫くらいしかないということもあり得る。そうなったら、別に親指姫は「人差し指姫」でもいいわけだ。さらに、人差し指と中指と薬指を合わせて「指三本姫」などという名前も考えられる。
 で、いったい何がいいたいのかといえば、別に何もこれといって言いたいことは何もない。年度末で仕事が増えてきて、今日は残業をして疲れたので、たまにはのんびりとどうでもいいことを書こうと思っただけだ。もともと「たそがれSpringPoint」は、どうでもいい事を書くつもりで始めたサイトなのだが、最近ちょっと真面目な話が続いているので、このあたりで弛緩しただらしない文章を垂れ流しておくのも悪くはない。

 ところで、季節は春、春といえば別れの季節だ。出会いの季節だと捉える人もいるだろうが、私はそれほど前向きな人間ではない。それに、会うは別れのはじめなり、というから、やっぱり春は別れの季節でいいのだ。
 で、春になると会社や学校なので、歓送迎会という行事が行われる。歓迎会と送別会をあわせて「歓送迎会」。だが、ちょっと待て。「別」はどこへ行ってしまったのだ? 去る人を送り、来る人を迎える会というだけなら「送迎会」で十分ではないか? そんな事をいちゃもんをつけるのは、私がこの種の会を嫌っているからだ。
 それはそうとして、似たような言葉はほかにもある。飛行機が離陸したり着陸したりすることをあわせて「離発着」と言うことがあるが、それを言うなら「離着陸」ではないか、とか、単に「離発」という言葉はないものか、などと考えてしまう。また、「統廃合」というのも「廃合」で十分ではないか、とか、「無意識」と「意識下」を合成して「無意識下」というのはいかがなものか、とか、まあそんなどうでもいいことを考えたりしているうちにそれなりの長さの文章を書いたので、これでおしまい。

1.10289(2002/03/26) 「本格」とは何か

 この文章はできるだけ難しい言葉を使わず、誤解を避けるように書いたつもりだったが、ほとんどの人に理解されていないのではないかと危惧する。改めて説明するとなるとそれだけで一項目が必要となるので、とりあえずここでは次の点について読者の注意を喚起しておきたい。
 今日は「本格推理小説」または「本格探偵小説」あるいは「本格ミステリ」について書くことにする。「たそがれSpringPoint」の過去ログを全部読んだ人なら気づいているだろうが、私はこのサイトで「本格」という言葉を地の文で使用したことは一度もないし、今後も使用する予定はない。このように書くと「すぐ上で使っているじゃないか」とツッコミを入れられそうだが、ここでは「使用」を狭い意味で使用していると思っていただきたい。あ、なんかややこしいな。
 ある言葉を使用することと、言及することの違いについて、ちょっとおさらいをしておこう。次に二つの例文を掲げる。
(1)英語では26のローマ字が使われる。
(2)英語は2つの漢字から成る。
 (1)と(2)は適切な解釈のもとではどちらも正しい。(1)は英語で使われる文字がa〜zの26文字であるということを述べている。(2)は「英語」が「英」と「語」という2つの漢字で表されているということを述べている。(1)では「英語」という言葉は、その言葉ではない別のものを表すために用いられている。(2)では「英語」という言葉そのものが主題となっている。(1)では「英語」は使用されており、(2) では「英語」は言及されている。ある言葉を用いてその言葉そのものに言及する場合、括弧で囲むのがふつうである。よって、上記の(2)は、
(2')「英語」は2つの漢字から成る。
と書くほうが自然である。ただし、言葉に言及するときは必ず括弧でくくり、使用するときは絶対に括弧の中に入れないというわけではない。たとえば、
(3)私のハンドルネームは滅・こぉるです。
(4)「たそがれSpringPoint」は基本的に毎日更新です。
という場合、前者は「滅・こぉる」という名前に言及しているが括弧なしで、後者は「たそがれSpringPoint」を使用しているが括弧がついている。
 「使用言及」というテーマはなかなか興味深い(少なくとも私にとっては)のだが、今日の主題ではないので、この辺でうち切って「本格」に話を戻す。私が「本格」という言葉を使用しないのには二つの理由がある。一つはここで書いたように、この言葉にまとわりつくイデオロギー臭が嫌いだからである。「本格派/文学派」または「本格派/社会派」という派閥の対立はもはや昔話かもしれないが、未だにその残滓があちこちに見られるように思う。
 もう一つの理由は、「本格」という言葉の用法についてミステリ愛好家の間で必ずしも意見の一致が得られているわけではないということだ。もちろん、どんな言葉でも人によってある程度理解の仕方が異なるのは当たり前だ。だが、近年の「本格」の使われ方は単なる「本格」観の違いという程度では済まされないほど多様化しているように私は感じている。もはやバベルの塔は崩壊寸前ではないか。
 そんな事は問題ではない、と言う人もいるかもしれない。ちゃんと定義すればいいのだ、と。だが、ちょっと考えてみてほしい。仮に「『本格推理小説』とは、かくかくしかじかの条件を満たす小説のすべてを含み、かつ、その条件を満たさない小説は何一つ含まない集合の名称である」というふうに「本格」の定義を行ったとして、その定義の妥当性はどのようにして判断するのだろうか? 定義は定義だ、と言って問いを封じることができるだろうか? そもそも、そのような定義論争に(言葉を定義するという楽しみは別として)どのような意義があるのだろう?
 どうしても「本格」という言葉を使いたい、「バズラー」とか「謎解き小説」では絶対に駄目だ、という強い思い入れのある人がいてもおかしくはないし、私は決してそのような人を非難するつもりはない。だが、ごくたわいない雑談ではなく、ある程度論理的に精密な議論を積み重ねていこうとする場合、「本格」という言葉を使うことは誤解と紛糾の種になることが予想される。そこで私は、ちょっと極端かもしれないが、次のように提唱したい。「本格推理小説」または「本格探偵小説」あるいは「本格ミステリ」という言葉を無意味なものとみなして議論の場から排除しようと。これの言葉のもつ曖昧さは無視できる程度を越えており、かつ多義的でもあり、さらに相対的ですらあるかもしれない。これらの言葉が表している(はずの)事柄について話を進める前に、言葉そのものの意味の泥沼に足をとられるくらいなら、回避したほうが身のためである。
 ……まあ、こんな事を言っても多くの人に受け入れられることはないだろうなぁ。やはり、「本格イデオロギー」は強固だ(それだけの理由ではないだろうけど)。

1.10290(2002/03/27) 言語・概念・イデア

 時間がないので、余計なおしゃべりはやめて本題だけ書く。
 昨日の文章と関連する話題で市川尚吾氏が興味深い文章を書いている(「日記ぃ・ぽーたー」2/27付Side-C)。その文章の大部分は「赤」という概念を扱い、最後の一段落で「本格ミステリ」に話題を転じている。
 ミステリファンでない人にとって、「本格ミステリ」という概念は、無くても別にどってことはない程度のものであろう。しかしミステリファンにとってみれば、「本格ミステリ」という概念は、それを論じるために、なくてはならないものなのである。たとえそのイデアが各人ごとに多少違っていたとしても。
 一見すると、この文章は、私の主張に対する反論のように受け止めることもできるだろうが、実はレベルの違う話になっている。私は「本格ミステリ」という言葉について、それを無意味なものとみなし、排除することを提案したのだが、市川氏は「本格ミステリ」という言葉が何らかの概念を表すことを前提として、その概念の必要性を主張している。ところで、この前提は私が拒否している事柄そのものである。すなわち「本格ミステリ」という言葉が無意味であるということは、「本格ミステリ」という言葉が特定の概念を表さないということを含意している。従って、私の立場からすれば、市川氏の主張には賛成も反対もできないことになる。いや、厳密に言えば、私は市川氏が上記の文章で何らかの主張をしているということ自体を認めることはできなくなるだろう。「本格ミステリ」という言葉が無意味である(=「本格ミステリ」という言葉はどのような概念をも表さない)ならば、その言葉を含む文も無意味である(=その言葉を含む文はどのような命題をも表さない)ことになるからだ。
 ここでは市川氏の文章に引きずられて、やや混乱した書き方をしている。「本格」とは何かでは、内包的概念(「概念」という概念)に言及せず、外延的に議論を進めたので、そこでの「『本格ミステリ』という言葉は無意味である」というテーゼからは、この言葉が特定の概念に対応しないという事柄は帰結しない。両者は全く別のことである。ただし、私は上で書いたことを撤回するつもりはない。
 だが、そうすると、今私が書いている文章自体も無意味だということになるのではないか? 当然、そうなるはずだ。けれども私はこの文章は無意味だとは考えていない。そうすると、逆に辿って、私が言及している市川氏の文章も有意味であり、その文章に含まれている「本格ミステリ」という言葉も有意味であるということになってしまう。このジレンマを瑣末なものとみなす人もいれば、重大なことだと考える人もいるだろう。私自身は(傍目からは滑稽かもしれないが)とてつもなく重大なジレンマだと受け止めている。だが、ジレンマに悩んでいては話が進まないので、あえて目をつぶることにする。
 この段落では、無意味な言語表現について何を語っても無意味になるという前提で話を進めている。この前提自体が相当怪しいが、差し当たり議論の本筋には関係ないのでご容赦願いたい。
 さて、上の引用文及びそれに先立つ箇所では、市川氏は「概念」を個人の考えや意見からある程度独立した(もしかすると、完全に客観的な)抽象的な事柄を表す言葉として用いているように思われる。他方、「イデア」のほうは各々の人に属する(というのは言い過ぎかもしれないが、少なくとも個人個人によって理解されたり把握されたりすることが不可欠なものであることは確かだろう)事柄を表す言葉として用いて「概念」と対比させているように思われる。すると、概念(市川氏の用法での「概念」という言葉が表しているもの)とイデア(同じく市川氏の用法での「イデア」という言葉が表しているもの)の関係はどうなっているのだろうか?
 各人がもっているイデアは同じものとは限らない(もしイデアが完全に一人一人に属するものだとすれば、私のイデアとあなたのイデアが同じであるということは論理的に不可能である。市川氏はそこまで極端なことを念頭に置いているわけではないだろうが、それでも私のイデアとあなたのイデアが事実として別物であるということはありそうな事だし、仮に同じものだとしても、そのことをどのようにして確かめるかという問題が生じる)が、概念は多くの人々が共有し論じ合うことができるはずのものだ。このギャップをどのようにして埋めるのか?
 そこで私ならこう言う。ギャップを埋めるのは言語だ、と。概念がそれ自体で存在しているものか、それとも何か別のものから構成されるものか、という難問には答えるべくもないが、いずれにせよ人は概念を言葉を通じてしか把握できない(というのが言い過ぎだと思われるなら、一歩譲って、ある程度抽象性が高く、かつ図示できない事柄に関する概念に話を限定しても構わない)。また、イデアも単に「自分の心の中を見つめる」だけでは十分な理解は不可能であり、言葉の助けを借りてはじめて自分のもっているイデアについて理解できる(と断言してしまったが、なぜそう言えるのかを論証するのはなかなか大変だ)。
 もし、この主張が受け入れられるとすれば(受け入れられなさそうな予感がするが……)、次に「本格ミステリ」という言葉に概念とイデアの橋渡しという役割を担うことができるかどうか、と問うてみることにする。30年前だったらできたかもしれない。だが、今となっては無理ではないか。言葉と概念、言葉とイデア、それぞれの関係が混沌としている現状で、どうして言葉を媒介として概念とイデアを結びつけ、論じることができるだろうか?
 私は少し悲観的になっているのかもしれない。言葉の多義性は他の言葉を補うことで解消することができる(たとえば上で私が「イデア」という言葉に「市川氏の用法での」という修飾語をつけることで、それを試みた)し、曖昧さはある程度までは許容できる。「本格ミステリ」という言葉を使ってミステリについて語ることは、原理的に不可能というわけではないだろう。けれど、実際には途方もなく困難な試みのように思えてならない。
 なお、「本格ミステリ」という言葉を議論の場から排除するこということは、この言葉を使って表したい概念そのものを捨て去ることではない。別の、より紛れの少ない言葉(私自身は「バズラー」を使うことにしている)を用いて、より円滑に議論を行うことができるはずだから。この点で私はかなり楽観的である。

1.10291(2002/03/28) 体力の限界

 年度末で仕事が忙しくなっている。忙しくなると疲れがたまる。疲れがたまると病気になる。病気になると仕事を休むことになる。そうなってはいけないので、「あ、そろそろ限界かな」と思ったら仕事を途中で放り出すことにしている。そういうわけで、今日は早退して数時間寝たのだが、中途半端な休息ではあまり疲れがとれない。困ったものだ。

 昨日の文章を読み返してみて、我ながらあきれてしまった。なんでこんな文章を書いたのだろうか。たぶん疲れていたせいだ。そういうことにしておこう。今でも文章の内容自体は間違っていないと思う。問題は、このサイトを見に来てくれている読者の嗜好や指向や思考から大きくかけ離れた話題をかなり無造作に取り上げたことだ。ちょっと反省。

 別に読者に迎合するわけではないが、もう少し一般性のある話題を取り上げたほうがいいのかもしれない。一般性のある話題といっても対象読者層をどのように設定するかによって違ってくるだろうが、芸能・スポーツ・時事あたりが無難なところか。けれど、この三つは私の苦手分野だ。私はモーニング娘。をテレビで見たことがないし、プロ野球の全球団名を言えない。時事ネタは……努力すればなんとか扱うことができるかもしれないが、あとで整理するのが大変だ。

 いろいろ考えているうちにだんだん気が重くなってきた。これも疲れているせいだ。そういうことにしておこう。

1.10292(2002/03/29) 思考力の限界

 突然だが、本日をもって「たそがれSpringPoint」はしばらく更新を中止することにする。「しばらく」というのはあいまいな言葉だから、もしかしたら明後日くらいに再開するかもしれない(少なくとも明日更新することはない)が、一週間くらいほったらかしにするかもしれない。更新中止の理由は、第一に疲れたからで、第二にネタ切れになったから、そして第三にいろいろと忙しくて十分な時間が確保できないからである。
 更新中断の前に今日読んだ本の感想を簡単に書いておこう。
 今日読んだ本というのは、『小説 スパイラル〜推理の絆〜2 鋼鉄番長の密室』(城平京・水野英多/エニックスCOMIC NOVELS)である。同題のマンガの番外編という位置づけのせいか、奥付を見ると著者の城平京よりもイラストの水野英多のほうが上に名前が出ているが、カバーと表紙のほかには口絵にイラストが1枚あるだけで作中には挿絵はまったくない。
 城平京は異色のミステリ作家である。いや「ミステリ作家」と呼んでいいものかどうか、若干の疑問がないでもない。これまでに私が読んだことがある3つの長編といくつかの短編はすべてミステリとして書かれているが、同世代のミステリ作家達(とひとくくりにしてしまうのは乱暴なのだが、あまり細かいことを言うと話が進まないので仕方がない)とはかなり方向性が違っている。「ミステリに絶望したミステリ作家」または「ミステリ界に居場所のないミステリ作家」というべきか。まあ、そんな事はどうでもいい。
 本編はサブタイトルから明らかなように「密室」を扱っている。だが、作中でいちおう示される「密室トリック」は非常に投げやりなもので、不可能犯罪に興味のある読者を満足させるものではない。冒頭で探偵役の鳴海歩が「三つの解決」などと言っているが、『ジェミニィ・クリケット事件』のようにひねりのきいたトリッキーな密室小説を期待して読むと肩すかしを食らわされるだろう。この小説のミステリとしてのポイントはハウダニットよりもむしろホワイダニットにある。
 では、ホワイダニットとして優れているのかといえば、そういうわけでもなくて、「この動機はあり得ないだろう」と思ってしまう。犯行計画を立てた人物のある価値観が事件をややこしくしているというのがミソなのだが、その人物の価値観ではそもそもあのような計画を実行することはできなかったはずだ、と私は考える。ぼかした書き方で申し訳ないが、実際に読めば一目瞭然だと思う。
 では、全然ダメな小説かといえばそういうわけでもなくて、第一章で「リジー・ボーデン」と名乗る少女が現れる場面から、怪著『番長の王国』の概略を説明するあたりまでは非常に面白く読めた。ところが第三章で事件の説明をはじめたあたりから、爽快感が徐々に失せて重苦しくなってくる。そしてどんどん湿っぽいエピソードが積み重ねられて、事件の絵解きの場面に至る。最後の締めくくりがわりと明るかったので、読後に不快感が残ることはないのが救いといえば救いだが……。
 並録されている『殺人ロボの恐怖』は初出がガンガンNETで、もともと読者への挑戦状つきだったため、『鋼鉄番長の密室』に比べれば普通のミステリに近い。いろいろと伏線を張っているが、小説の構造上それらのすべてを回収できているわけではない。「ガンガンNET」のほうでは作者自身の解説が掲載されているので、気になる人は読んでみるといいだろう。
 例によってネガティブな感想文になってしまった。バランスをとるために最後に
  ttp://comic.2ch.net/test/read.cgi/ymag/1007981860/(「2ちゃんねる」では「http」の頭文字を抜く風習があるので、それを真似してみた。深い意味はない)
から、いくつかのコメントをピックアップしておく。
小説2巻記念カキコ
ニヤニヤしながら読了。
どんどん女子供には解りにくい内容になっていく気がする…

いろいろ言いたいことはあるが、とりあえず城平たんまんせー!としておく。

小説版の話はここでしていいのか? なんか、これ・・・・・・・すげぇ〜面白い!
なんだ? この雁屋哲と押井守がラインダンスを踊ったよな設定は!?

1.10293(2002/03/31) 生命力の限界

 「たそがれSpringPoint」の更新を中断してから、いろいろな出来事があった(この間に私は上京して「MISCON3」に参加したのだが、多くのミステリ系サイトで「MISCON」に言及しているので奇をてらってあえて無視した。別に「MISCON」に反発しているとか、会場で不快な事があったということは全くない)が、何事もなかったかのように再開することにする。
 更新再開はいいのだが、一昨日から状況が好転しているわけではない。今日は精神的にも身体的にもどん底だ。いや、本当に今がどん底かどうかは明日になってみないとわからない。アクセスログを見ると今日はじめてここに来た人が多いようなので、こんな事を書いていては第一印象が悪くなって二度と来てもらえなくなってしまうおそれがあり本当はまずいのだけれど、不調なものは不調であり、好調であるふりをしても仕方がない。

 以前からリンク集の手入れをしようと思っていたのだが、結局今日も果たせなかった。とりあえず、あまり意味のなさそうなトップページのリンク集から「ミステリ系更新されてますリンク」に登録されている5サイトを削除した。

(追記)
 上の文章を読み返してみると、ひどく投げやりなので後悔している。毎日後悔することばかり……。それはともかく、私自身は「何事もなかったかのように」振る舞っている(リンクするのが面倒なので)が、言及されたりリンクをはられたりすることを拒否しているわけではないので、ご自由にどうぞ。