先日の仕事の成果を信頼できる人にチェックしてもらったら、いろいろと手直しすべき点を指摘された。本当なら自分で気づいていないといけなかった点ばかりなので、ちょっと鬱だ。
鬱ついでに、パルナスの歌(パルナス非公式ホームページから)からダウンロードして聴いてみた。幼い頃から何度となく聴いた歌で、ほとんどトラウマになっているくらいだが、全曲を続けて聴いたのはこれが初めてだ。居ながらにして名曲をタダで聴けるとは、いい時代になったものである。
2次利用が禁止されていなければ、ここで流しっぱなしにしたいくらいだ。あちこちのサイトを巡回していると、たまにページを開くと同時に音楽が流れてきて鬱陶しい思いをすることがあるが、そんなサイトを作っている人の気持ちもなんとなくわからないでもないような気がしてきた。おそらく関西人以外にはほとんど知られていない歌だが、他地方の人もぜひ聴いてほしい。
この文章をアップしたら、再びネット断ちモードに入る。ただ、もう山は越えたと思うので本断ちはしない。早く『蜜の森の凍える女神』を読んでしまいたい。
最後に「こんな辛い坦々麺は初めてだ!」(雨の日はいつもレインから。なおタイトルは私が勝手につけたもので、原文にはない)を紹介しておく。これを読んだだけで担々麺が食べたくなってきた。最後に食べたのは、確か去年3月だった。ああ、もう一年も食べていないや。
昨日ネット断ち宣言をしたところだが、飽きたのでやめた。
著作物の能動的“使用”
というのは「エンドユーザーの著作物使用から見える近代著作権法の問題点」〜利用権中心主義の提言〜(presented by tatuya)のキーワードの一つである。第二章第二節 エンドユーザーによる著作物使用の実態で著作物“使用”の実態
を概説している。
著作物の能動的“使用”を広くとれば、2〜4までのすべてが該当することになる。ただし、この論文での言葉遣いを見ると、「能動的/受動的」という線引きを目的としたものではなく、単に著作物の使用実態の能動性に程度の差があるということを示すために、
著作物の能動的“使用”という語を導入しているように思われる。従って、上の4分類自体が筆者の意図からやや外れた図式化であるかもしれないということを断っておかなければならない。
今日の新聞のテレビ欄に、伝説の迷ドラマのタイトルが掲載されていた(読売テレビ 午後3時49分〜)。そのドラマとは、
湖畔の館殺人事件・雨が降ります雨が降る…今日も童謡が流れて又ひとり殺される私がそれに気づいたのは夜になってからのことだったので、残念ながら録画できなかった。
昨日私は「エンドユーザーの著作物使用から見える近代著作権法の問題点」〜利用権中心主義の提言〜の著作物の能動的“使用”
という言葉をもとにいろいろ考えて、考えているうちに訳がわからなくなって、「下手の考え休むに似たり」を地でいくことになったわけだが、とりあえず著作物に対してエンドユーザーが取りうる態度の分類として次の4分類を思いついた。
さて、著作物の複製や改変は、著作者(改変の場合には、結果として新しい著作物ができることもあるので、改変者も著作者となりうる。ややこしいのでもとの著作物の作者を「原著作者」と呼ぶことにする)との間に軋轢を生むもとになる。勝手にコピーをばらまかれたら原著作者の商売はあがったりになってしまうし、意に添わぬ改変を加えられたら腹が立つだろう。ところで、複製や改変の度合いと、原著作者に与える影響との間には概ね次のような関係が成り立つ(もちろん例外もある)。
先を続ける。
著作者にとって著作物とは何か? ある考え方によれば、それは著作者の人格の延長である。
人格の中心には意識がある(以下、「ある考え方」の説明。本当は"人格"とか"自己"をこのように軽々しく扱ってはいけない。哲学用語は哲学者が使う仕方で(以下略))。意識は意識自体を意識する。それも、単に意識の向けられた対象として意識するだけでなく、"自分のもの"として意識する。"自分のもの"という意識によって統合された一定のまとまり、それが人格である。その自己意識を取り巻くようにして身体がある。身体もまた意識によって"自分のもの"として意識される。ただし、身体の感覚や運動は時には意のままにならないこともあるので、"自分のもの"という意識は完全なものではない。
意識、意識をとりまく身体。これだけが人格のすべてだろうか? 皮膚の内側が"自己"であり、皮膚の外側は"他者"なのか? そう簡単に境界づけることはできないだろう。たとえば衣服はどうか。自分で服を作る人は稀だろうが、どのような服を選び、どういうふうに着こなすかということは自分が決定することではないか。そこに個性があらわれる。普段の生活で、衣服を人物と完全に切り離して認識することはあまりないだろう。その意味で衣服は拡張された自己であり、人格であるといえる。同様にして自分の身の回りの空間、特に私室なども人格の延長と考えられる。ノックもせずにずかずかと自分の部屋に踏み込まれたら誰だった不快に感じるだろう。その不快感の背後には、自室は"自分のもの"という意識がある。"自分のもの"という意識は身体より衣服のほうが弱くなり、衣服より居住空間のほうがもっと弱くなる。意識の中心から離れれば離れるほど人格は薄らいでいく。だが人格とそうでないものとの間に明確な境界線があるわけではない。
著作物もまたある意味では身体や衣服、居住空間に類するものである。単なる紙やインク、絵の具などに著作者が命の息吹を吹き込み、著作物となる。そのとき、人格は拡張されたことになる。著作への意志が人格の中心である意識から流出し、身体を通じて外界へとひろがり、ただの物体を"自分のもの"に変える。「著作物とは著作者の人格の延長である」とはこういう考え方だ。
他方、著作者と著作物の関係はもっとドライに考えることもできる。こっちは一言で言える。飯の種。観念的な理屈を持ち出す必要は何もない。著作者は著作物を他人に買ってもらうことで生計の足しにする。著作物とは商品である。
2通りの考え方は別に対立するものではないが、どちらを重視するかによって保護すべき著作者の権利の内容も大幅に違ってくることになる。前者を重視するなら、著作物の複製には目くじらを立てる必要はない。なぜなら、複製物の配布により原著作者の人格はますます一層拡張されるからである。逆に後者を重視するなら、著作物の改変は営業妨害にならない限りは放置しておけばよい。極論をいえばそういうことになる。
さてさて、だんだん何を言いたいのかわかってきた。少なくとも私にとっては。
著作者と著作物に関する2つの考え方は、著作者はどうあるべきか、どういう著作者が偉いのか、という話題へと繋がっていく。著作物を世に送り出し広めるという純粋な意志に従って営利を求めない著作者こそがあるべき姿なのか? 我を通すのではなく、商品として良質なものを生産するのがよいのか? ディレッタントかプロフェッショナルか?
ここでいきなり話が飛躍する。「カンボジアにはひきこもりはいない」などと言う人がいる。本当にいないのかどうかということはどうでもいい。そういう事を言う人は要するに「ひきこもりは贅沢病だ。甘えるな」と言いたいのだ。生産的な活動により社会に貢献するわけでもなく、家族に寄りかかって迷惑をかけるだけのひきこもりに対する道徳的非難。だが、カンボジアにいないのはひきこもりだけではない。オタクもほとんどいないだろうし、"クリエイター"も日本ほどはいないだろう。
小説を書いたり、絵を描いたり、音楽を演奏したりするのは、基本的に非生産的な活動である。額に汗を流して畑を耕すことを生産的活動の典型とみなすなら。よって、著作活動一般は道徳的非難の対象となる(言うまでもないが、これは私の意見ではなく、ある考え方の道筋をなぞっているだけに過ぎない。この段落の文章はすべて仮定法または接続法で語っていると思っていただきたい)。ただし、それら非生産的活動も生産活動に従事する人々を慰撫し、明日の労働への活力を与えるという効果をもつことがある。その場合、著作者は間接的に生産的な活動に従事していることになり、非難は免除される。著作者は著作物により社会に貢献する。または少なくとも自分の生計は自分で立てることができる。これが著作者のあるべき姿である。webや即売会で一文の得にもならない"作品"を世間に向けて垂れ流す"クリエイター"どもは、唾棄すべき存在であり、保護に値しない。とりわけ、プロの作品に寄生して"二次創作"(創作とは本来一次的なものであるので、この表現自体が矛盾と欺瞞を自ら明らかにしている)などというものを得意げに発表する輩は法的に規制すべきである。彼らの活動は("自然"に対立するものとしては)"文化"的ではあるが、社会が保護すべき"文化"ではない。ひきこもりやオタクを積極的に処罰する必要がないのと同様に、あえて経費をかけて彼らを弾圧するまでもないが、少なくとも「いつ逮捕されてもおかしくはない」「偉くもなく、何の権利もない」「日陰者である」という意識は常に持たせておく必要がある。真に才能がある者なら、その逆境のもとでも自己研磨し、いずれは日の当たるところに出てくるだろう。
……なんだか、だんだんこの考え方のほうが正しいような気がしてきた。危ない危ない。これでは今私が書いている文章そのものを否定することになってしまう。
さらに続けて、非営利目的での著作活動こそ賞賛すべきである、という考え方の道筋を辿って公平を期すべきなのだが、今日は長く書きすぎたのでやめておく。とりあえず、先日、インターネットや同人誌による表現活動に対して批判的な人々
と書いたときに何となくイメージしていた事を書けただけでよしとする。
今日はあちこちのサイトで産経新聞の無許諾リンク警告メール問題に言及しているのを見かけた。朝のメモを書いた段階では私も取り上げるつもりでいたのだが、もう今さら私のような素人があれこれ口出しする必要もないだろう。興味のある人は遙かな道しるべの今日付の記事またはバーチャルネット法律娘 真紀奈17歳の新聞記事の見出しの引用とリンクについてあたりを参照のこと。
数日前から『月姫ごちゃまぜ!!』(宙出版)を探していて、今日ようやく見つけた。ゲーム・アンソロジー系の版型だと思っていたのだが、それよりも大きく、「JTB時刻表」や『ヒキコモリ健康法』(みさくらなんこつ/コアマガジン)と同じサイズだった。値段も予想より高く税抜き1200円だったが、カラーページもそこそこあるので割高感はない。ブックオフなら12冊……などと考えても仕方がないので、その場で買った。
私がこの本を買った理由は2つ。ひとつは深川拓氏の小説が掲載されているからで、もうひとつはしばらく前までネットで活動していた某氏が関わっているからだ。ただし、ネット上で活動していたときとは別名義だし、本人に公表する意図がないようなので、某氏についてはこれ以上触れない。
深川氏の小説は『花に嵐』というタイトルのかるーいSS
だったので、買ってすぐに読み終えた。それぞれのキャラクターの性格や口調をよく再現していて途中までは楽しめたが、最後の締めくくりがよくわからなかった。私が気づかないひねりがあったのかもしれないし、明確なオチはもともとないのかもしれない。ついでに言うと、タイトルの意味もわからなかった。別に「さよならだけが人生だ」と言いたいわけでもないだろうが……。
明日はみんなが待ちに待ったMYSCONだ。私は参加しないけれど。
昨日の文章をアップした後、とある筋(深川拓氏ではない)から、"ある事情"をきいた。
う〜ん。
深川氏に対して申し訳ないことを書いてしまった。予め事情を知っていれば、ああは書かなかったのだが。しかし、昨日私が書いたのは嘘いつわりのない感想なので、削除するのも変だ。そのままにしておくしかない。
とりあえず、次作に期待。
今日、ジュンク堂大阪本店で社会思想社(まだサイトがあったとは! 最終更新は今月だ)の現代教養文庫をまとめて買った。自由価格本コーナーで安売りしていたため。以下買った本のタイトルを掲げておく(定価と売価はそれぞれ税抜き価格)。
『蜜の森の凍える女神』(関田涙/講談社ノベルス)をようやく読み終えた。
この小説には探偵役(オビによるとチャーミングな女子高校生探偵
だそうだ)であるヴィッキーからの挑戦状が挿入されている。
当を得ない間怠っこしい比喩、だらだらとした無意味な描写、間の抜けた観察眼、バレバレの伏線、面白みのない構成、おまけに中学生の作文のような文章、ってなわけだから、読み続けるのはとっても苦痛だったでしょう。……なんなんだ、これは。苦痛に耐えながら読み進めてきてこの文章に至ったとき、私は途方もない脱力感に見舞われた。言い訳なのか、照れ隠しなのかはわからないが、いずれにせよこんな事を書くべきではないと思う。
中学生の作文のような文章という箇所が引っかかった。私にはそうは思えなかったので。
だらだらとした無意味な描写が続く。とにかく登場人物がやたらと喋っている。何もかも会話で説明しようとするため、情報量に比して文章が長すぎる。300ページの小説で、死体の発見が100ページを過ぎてからというのはちょっとひどい。作者は読者をいじめたいのか? せめて見せ場を先取りして冒頭に持ってくるなど、構成上の工夫がほしかった。
そう、だからこれは、皆さんの論理的思考力を試すための挑戦状ではなくて、私とあなたの相性診断だと思ってくれていいの。これが最悪の結果だったりしたら、残念だけど、もうお会いする機会はないでしょうね。私とヴィッキーの相性は最悪だったようだ。二作目以降を読むことはたぶんないだろう。
バスケットボールチームの強化合宿中に選手の一人が殺害された。体育館で練習中にトイレに行き、そこで殺されたのは確かなのだが、不思議なことに犯人の姿を見たものは誰もいない。トイレの出入口付近には常に複数の選手がいて、被害者以外にトイレに入った人は誰もいなかったと証言している。トイレにははめ殺しの窓が一つあるだけで、もちろんそこから出入りすることは不可能だ。
名探偵が登場し、関係者からの証言を一通りきいてから「さて」と言った。「犯人はあなた方の目の前を通ってトイレに入り、殺害後堂々とドアから外に出たのです。だが、その姿はあなた方には見えなかった」
そして、名探偵は皆の脇をすっと通り過ぎようとする"見えない男"の襟首をつかむ。「そう、犯人は池乃めだかだったのです」
締切が迫っているのにどうにも気が進まずネットに逃避して時間を浪費する今日この頃。MYSCONにも参加せずに家にひきこもっているというのに、これではダメだ、ダメ人間だ。ずっとMYSCON
だ。
最近、何かと著作権が話題となっている。そんな中で見つけた(というか定期巡回サイトだけど)のが、伊藤乃絵美はきみづか葵のオリジナルキャラクター(Edgeworth Box3/16付)という衝撃の事実(?) これって法律上はどうなるのだろうか?
これに関連して……いるわけではないが、「名誉毀損より著作権侵害の方が通りやすい」 についての、高橋直樹氏と火塚たつや氏の応酬はなかなか興味深い。
火塚氏の3/14付の日記に次のように書かれている。
自戒の念をこめて書こう。暴露話の是非について論じ始めるときりがないのでやめておく(そういえば以前私はこんな記事を書いている。でもアクセスは全然増えなかった)が、一度急上昇したアクセス数が激減したときの焦りというのは多くの個人サイト運営者に共通のことではないだろうか。アクセス数至上主義に抵抗を感じ、「大勢の人に読んでもらう必要はないんです。私は売名目的でサイトを運営しているわけではないんですから。ただ、数は少ないけれど私のサイトを楽しみにしてくれている人々がいる、それが私の誇りであり、支えなのです」などとキザなことを言っていても、やっぱりアクセス数は気になるものだ。
正直、ここ二週間、私は天狗になった。
「ルール無用の引用ルール」のブレイク。音楽配信ニュースのBBSにリンクをひとつ投稿しただけで、1万人が閲覧。
しかし、その後、閲覧者数は急減。危機的意識のもと、ネタ探しに奔走。そこで、満を持して打ち出したのが、 「名誉毀損より著作権侵害の方が通りやすい」だった。
しかし、これが、予想以上に閲覧者を伸ばさず、なんとなく、焦りを覚えていた段階で見かけたのが、産経新聞の一件だった。
そして、私は悪魔に魂を売った。暴露話の掲載だ。
満を持して打ち出した「名誉毀損より著作権侵害の方が通りやすい」がどうして「ルール無用の引用ルール」ほど受けなかったのか。かたやウェブ上でのトラブル、こなた宗教上の諍い、という話題領域の差だろうか。一般のウェブ閲覧者は前者により関心をもち、後者にはさほど興味を示さないということなのかもしれない。
ところで、名誉毀損と著作権侵害とでどちらが通りやすかろうが、この問題の本質とは関係ないと思うのですがいかに?(3/16付「レス」)というコメントがよく示している(というのは私の誤読だったようだ。Takahashi's Web -diary- 3/17付「レス2」参照)。「ルール無用の引用ルール」で扱われているのは「合法か? 違法か?」という問いであり、「名誉毀損より著作権侵害の方が通りやすい」で扱われているのは「どの法に反しているのか?」という問いである。根拠法を巡る議論は法律家には重要かもしれないが、そうでない人にとってはあまり大した問題ではない。大事なのは結果であって、プロセスではない。
いかんいかん、仕事に戻ろう。
ベッドの上に横たわる死体の首には赤黒い痣がある。指の跡までくっきりとついていて、死因は明らかだ。それを一瞥した名探偵は「また自殺か」とつまらなさそうに言った。「これで何件目だ?」
「今月に入ってから46件目です。でも密室状況で発見されたのはこれが初めてです」と助手は答えた。ちなみに助手は半ズボンをはいている。
「ふん、どうせ自殺なんだから、密室だろうが開けっ放しだろうが同じことさ。ああ、脳髄を痺れさせるほどの不可能犯罪に遭遇したい! 奇想天外なトリックで私に挑戦する奸智にたけた犯罪者はいなかのかっ!」
その瞬間に死体はむっくりと起きあがり、名探偵に襲いかかった。半ズボンの助手は「あっ」と叫ぶ。だが、名探偵は慌てず騒がす、懐から聖水で清めた銀製の懐剣を取り出し、死体の喉元に突き立てた。
「おとなしく寝てろ、グズめ」
うむむ、私はいったい何を書きたかったのだろうか?
先日『蜜の森の凍える女神』(関田涙/講談社ノベルス)を読んだあとミステリを読む意欲が全然沸かないので、今日は気晴らしのために『秘密室ボン』(清涼院流水/講談社ノベルス)を買って読んだ。30分で読み終えた。私はこのタイトルをずっと「ひみつしつぼん」だと思っていたのだが、どうやら「ひみっしつぼん」が正しいらしい。
ところで『蜜の森の凍える女神』の感想や書評をアップしているサイトをいくつか見つけた。以下。メモがわりにリンクしておく(順不同、直リンク、元ページのタイトル転記)。
犯人やトリックが解けていく感覚は最上級の快感だった(^^)。という好意的な評価。
2003年のメフィスト賞ならではと言える、”新しさ”も窺える。 純粋に面白かったです。と言いつつも、
挑戦状の最初にある自虐的なネタは、ちょっと痛かったな。とか
唯一のマイナスポイントは、真犯人の動機。という指摘あり。
ひとことでいえば古い。と2とは逆の評価。
オーソドックスなスタイルで書かれるのならまだしも、すべてにおいて古くさい。とも。
講談社メフィスト賞受賞作らしくない(?)本格ミステリの香りぷんぷんの楽しめる作品でした。と誉めている。
きわめて独特な感性のもとに創作している書き手だ、と思いました。次作以降で化けるような気がと微妙なコメント。
これ結構いいんじゃない?と肯定的に評価。
系統としては氷川透さんかな?という興味深いコメントもある。
「容疑者一覧」としての場面はほとんど有効に機能していないとか
語り手が15歳の少年とは思えないのがつらいところ。とか。
政宗九の視点でインターネットで選ぶ本格ミステリ大賞2003の投票受付を開始しているが、私はまだ候補作を一冊も読んでいない。昨今、ともにミステリ読書力が減退しているので、今年はたぶん不参加になりそうだ。
昨年末には参加する意欲があったのだが、最大の難関である『オイディプス症候群』を前にして、先にその前作の『哲学者の密室』を読んでおく必要があるだろうと思い、その前にハイデガーの入門書くらいは読んでおかなければいけないだろうと思い、さらにその前にフッサールの入門書くらいは読んでおかなければいけないだろうと思い、『フッサール 起源への哲学』(斎藤慶典/講談社選書メチエ)を買ってきて約半分読んだところで頓挫したままになっている。『法月綸太郎の功績』も『GOTH』も積ん読状態で、いつになったら手をつけられるか全くわからない。
残業で疲れた。
仕事の都合で浄化槽法関係の法規を調べていたところ、環境省関係浄化槽法施行規則という省令を見つけた。昭和五十九年三月三十日厚生省令第十七号
だそうだ。法律に詳しい人ならさほど違和感はないのだろうが、私には非常に奇妙に思われる。
この省令の制定文を見ると、
浄化槽法 (昭和五十八年法律第四十三号)第三条第二項 、第四条第五項 及び第六項 、第十条第一項 、第四十五条第一項第二号 及び第四項 並びに第四十六条第五項 の規定に基づき、並びに同法 を実施するため、厚生省関係浄化槽法 施行規則を次のように定める。と書かれている。ますます違和感が増大する。
昭和二十一年十一月三日憲法とだけ書かれていて番号がない。当たり前といえば当たり前なのだが、他法令で言及するときにはどうしているのだろうか、と気になった。「日本国憲法(昭和二十一年憲法)第○条第○項の規定により……」と書いているのだろうか? だが、調べてみるとどの法律でも「日本国憲法」と書いているだけで、制定年は書かれていなかった。
日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。
われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。
日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
一日休みをとった。
かねてから計画していた吾妻線再訪の旅に出る日がやってきた。前回は『悪魔のミカタ』や『イリヤの空、UFOの夏』を読んだが、今回は次の6冊を持って行くことにする。積ん読・読みかけ本の中から適当に選んだもので、前回ほどの一貫性はない。