「こんな蛆のわいた肉が食えるかっ! 店主を呼べ」
「六分一殿」という洒落なのだが……まあ、わからなくて当然だよな。反省。
昨日の文章の後半で取り上げた確率の話は予想以上に反響が大きかった。いつもは閑古鳥が鳴いている掲示板に何人もの人々の書き込みがあり、186(一服中) ( ◎Д)y-~~でも言及されていた(2/11付)。
186(一服中)氏の詭弁論破方法は、
6が出る確率は、出るか出ないかの1/2だという場合の「1/2」は「1通り/2通り」という意味だと言われてしまったら、我々にできる反論はせいぜい「それは確率を語る文法に違反している」という程度ではないか。
……というようなことを考えながら砂色の世界・日記(2/10付)(実はこちらのほうが186(一服中)氏の文章より先に書かれている)を読んだ。純粋に完璧に全く同じ状況でサイコロを振りつづける事が出きれば,物理法則に従いそのさいころは常に同じ目を出す
のなら、サイコロと言う物の一の目が出る確率は出るかでないかの二分の一
ではなくて、出る(確率1)か出ない(確率0)のどちらかということになるのではないか。ここまでくると、もはや確率という概念そのものの放棄である。実際、少し後には次のように書かれている。
確率?統計をその存在の基礎とする学問は心理学に限らない。たとえば気象学も統計なしには成り立たない。過去の気象データからパターンを抽出し、現在の天気図に当てはめて明日の天気を予想するのも
それこそ詭弁である。神はサイコロを振らない。
そんなものは実現不可能なことを頭の中に浮かべることが出きる人間が抱く幻想に過ぎない! 我々は『今』と言う瞬間を物理学的に一度しか生きれない! 統計などとは所詮まがい物の現在の寄せ集めに過ぎない! 何が不幸かと言えばそんなまがい物の寄せ集めがある程度の効力を現在に発揮することこそ不幸なのである!! よって統計をその存在の基礎とする心理学を私は絶対に信じない!! 心理学などまがい物の学問に過ぎない!! 統計が神の家計簿ならば統計学者は全員億万長者だ!! ぎゃー−−−−−−−−!!!
人間が抱く幻想に過ぎないし、
まがい物の寄せ集めに過ぎないだろう。そういえば、天気予報には確率予報というのもあった。
砂雪氏ほどラディカルではないが、jouno氏も掲示板で確率概念への疑念を表明されている。ちょっと長いがログが流れる前に(いつになったら流れてしまうのかはわからないが、人間何事についても備えが大切だ)全文引用しておく。
六分の一のはなしですが。本当は僕は確率というのは統計についてのみ語られているのだと思います。十分に大きな数の試行データの統計結果を個別の試行に投射するのは確かに
つまり、「その一回の確率」というのはほんとうは概念上おかしいんだろうと。
つまり、六分の一の確率だというのは、十分に大量試行を行うと六つのパターンが同数に近づいていくという大数法則がなりたつ、ということを意味していて、そのような事態に結果するようなその一回の属性としての確率というのは論理的なファントムでしかないのではないだろうかと思います。
つまり、確率というのは十分な数の試行の群の(そして重要なのはすでに行われた)の属性で、いまだなされていないことや、一回の出来事の属性ではないのだと思います。
にもかかわらず確率が予測と結びつくのはあくまでも自然は反復するという予測にもとづくので、つまり、ある意味で、反復として再来する未来は、反復であるという側面に限って言えばすでにおきたことで、その意味でも確率は「個々の試行ではなくその十分な大きい群の」しかも「すでに行われたもの」にかかわる概念、属性なのだと。
問題は、そのような試行群を生み出すであろうある特異な属性が、その個々の試行にもそれぞれそなわっているであろうと考え、それをもまた確率と呼ぶことの妥当性ではなかろうかとおもいます。
二分の一ということについていえば、出るか出ないかをメルクマールにしてたくさん振って表を作ればやっぱり出る確率は六分の一に近づきます。
ですからある特定に一回に関する確率という概念そのものが矛盾を持っている、というべきなのではないでしょうか。
論理的なファントムでしかない。ちょうど「もし世界が100人の村だったら」のように。だが、それは矛盾ではないだろう。
掲示板に書き込まれたご意見のうち、
だから、サイコロのある目が出る確率を1/6とする場合と1/2とする場合とでは、その後にくっつく単位が違ってくるんです。
(遊美氏)というのはよくわからなかった。確率の単位とは何なのだろう? %だろうか?
またサイコロを1回振って6が出る確率2分の1が出ない確率2分の1より起こる確率が6分の1、とか(短絡
(「潜伏中なので匿名で(マテ」氏)はそもそも何を言っているのか理解できなかった。同氏の絶体絶命のピンチに追い込まれたヒーローが1%の可能性に賭けた最後の作戦に成功する確率が100%なのと似た理屈、とか。
についてはこう答えたい(私が答える必要があるとも思えないが)。「最後の作戦に失敗した99%の人々はヒーローとは見なされない」と。
どうでもいいが、潜伏中の人がこんなところに出てきていいものだろうか。発売予告が出ているのに特に潜伏する様子もない同業者もいることだから、なんとかなっているのだろうが。
今日も本が全然読めなかった。
最近、本の話題が少ないので読書関係のリンクに登録されているのを見ると心苦しくなる。しばらく私も潜伏しようか。
昨日の政宗九の視点のチャットは非常に盛り上がった。私は1時くらいで抜けたが、その後どうだったのか、ログが公開されるのが楽しみだ。なぜか某ファンクラブの会員増という副作用もあったが……。
確率の話が出て、ヘイ・ブルドッグの仮装日記1/14付で小学校からやり直せ>笠井潔
と書かれているのを思い出した。確か探偵小説の祖であるポーも同じ間違いをしていた筈だが、どの小説だったか思い出せない。
『新現実』から東浩紀が降りた(情報もと:"裏"日本工業新聞!!)そうだ。『新現実』の次の号にはちょっと意外な人の小説が掲載されるという話をある人から聞いていたのだが、ライトノベル関係で執筆を依頼した東浩紀担当の3人の原稿は、原稿用紙にして250枚近くもの量であるにもかかわらず、みな掲載を見送られることになった。
と書かれているからには、ボツになったのだろう。残念だ。どうにかして読めないものか。
うだうだと書いている間に砂色の世界・日記が更新されていた。186(一服中)氏の文章に対する反論は概ね予想通りの内容。
無風地帯(2/11付)の同じ土俵に乗りながら土俵の上の人を批判しているので何の意味もないのでは…。
という批判に対する反論はちょっとピントがずれているように思う。確率の概念を前提しながら(一の目が出る確率
という表現は確率概念にコミットしている)確率論を批判していることを同じ土俵に乗りながら土俵の上の人を批判している
と言っているのだから、2/10の段階で私は当然の事ながら「二分の一」すら認めたくはありませんがね。
と言い、もはや確率の概念そのものを放棄している((確率は)実現不可能なことを頭の中に浮かべることが出きる人間が抱く幻想に過ぎない
)と応えるだけで十分だったのではないだろうか。
「六分一殿」についてはここ(戦国武鑑-戦国武将の家紋)を参照のこと。
わっ、11時だ。
もう寝ようと思っていたのに、ちょうどエロチック街道でテキストプレイが始まってしまい、なんとなくずるずると見てしまった。
チャットや2ちゃんねるの実況でもないのにリロードするたびに新しい文章がどんどん増えているというのは、なかなか新鮮なものだ。
0時44分現在、まだテキストプレイが続いているのだが、眠たくなってきたので最後まで見ることができないのが残念だ。
しかし「お待ちなさい」「なんすか」「エリが曲がっていてよ」「曲がっているのは金のエリですか銀のエリですか」
なんて、よく考えつくなぁ。
今日も確率の話の続きを書こうと思っていたのだが、その前にちょっとした用事を片づけるため後輩に電話したところ、小一時間話し込んでしまい、時間も気力もなくなってしまった。私もそうとうネガティヴな人間だが、リアル×××××(「鬼ごっこ」ではない。字数が違う)のネガティヴパワーにはかなわない。
ここ数日の確率を巡る議論の経緯はこちらを参照のこと。また、確率についての学説はここ(2/12付「かくりつのはなし。」)で纏められているので、そのリンク先と併せて読むと参考になると思う(専門的な話が出てくるので、リンク先の3つの記事を読むのは私にはしんどかった)。
『女犯坊はわらったよ』
『女犯坊はかぷかぷわらったよ』
『女犯坊は跳ねてわらったよ』
『女犯坊はかぷかぷわらったよ』
う〜ん、モランボンにしておいたほうがよかったか。『女犯坊』なんか読んだことないしな。
確率を巡る議論の続き。といっても、大勢の人々が意見を述べていて、誰もが見落としている意外な着想とか論点などというものがあるわけではないので、軽く雑談する程度にとどめておく。
V林田日記(寿司が)2/12付確かに馬のチンチンは最強だ(私の山名一族の陰謀もかなりアレな見出しだが、これには到底太刀打ちできない。まだまだ私は修行が足りない)から。
じゃあ、「本物」は何になるんでしょうか? 「まがい物」というのは「本物」があるからこその「まがい物」なのであって、全てが「まがい物」ならばそれは「まがい物」とは言えないでしょう。これを読んだ瞬間、「おおっ、これは鋭い!」と思った。それで終わっていれば、こうやって紹介することもなかっただろう。
キングオブまがい物が心理学ということになるのだろう。このように、まがい物の中にも程度の差があることを示すためには、「まがい物」と対になる「本物」の概念が必要となるのだが、現実に本物の学問が一つもなくても「本物」概念がないということにはならない。よってV林田氏の批判は失当である。
絶対確実な基盤と厳密な論証によって体系が構築されたときに初めて学問の名に値することになるという砂雪氏の条件付け(いや、本当は私が勝手に言っているだけだが)自体に難点があるのだから、その枠組みで「本物みたいなまがい物/まがいっぽさが目立つまがい物/キングオブまがい物」などと区別しても(これも、本当に砂雪氏がそのような区別をしているというわけではない。「キングオブまがい物」以外は私が勝手に言っているだけ)意味がない。
軽く雑談する程度
だった筈なのに、妙に深入りしてしまった。おまけに確率の話ですらない。
仕切直しして、今度こそ雑談。
砂色の世界・日記(2/13付)で、6つの疑問点を提示している。
全く同じ状況はなくても、
同様の状況はあるだろう。
同様のたしからしさが成立するためには、同様の状況があれば事足りる。
降らない確率20%は当たりましたという言明を弁解とみなすということは、とりもなおさず確率言明の有意味性を認めているということである。
だらだらと書いている間に11時を過ぎてしまった。本当は西尾維新を巡る議論についてもちょと触れてみたいのだが、最初のほうは忘れてしまっているし、再読するのも面倒だし……。
バーチャルネット転校生・双海詩音16歳の記事では「なぜ人を殺してはいけないのか」も興味深いが、そこで言及されている本は2冊とも未読なので、感想は控えておく。
偶然落下ノート2/13付「応答:様相とあいんすたいん」を読んで無理矢理翻案。
「確率は人間の認識能力の限界が生んだ幻想である。だが、人間の認識能力に限界があることは幻想ではない。よって確率は人間にとっては幻想ではない」
どこだったか忘れたが、ラプラスを悪魔であるかのように語っているサイトがあった。これは間違いだ。ラプラスはれっきとした人間だ。マックスウェルも人間だ。フランケンシュタインも人間だ。でもフランケンは怪物だ。
今日は何の日か? 1年前ならほとんどの人が「バーチャルネットアイドル・ちゆ12歳の誕生日だ」と答えただろう。だが、今やバレンタインデーなどという切支丹伴天連の習俗に埋もれてしまった。時の流れは残酷だ。
バレンタインデーについて私は多くを語る気はないのだが、あちこちのサイトを見ると何らかの形で言及していることが多く、あえて無視すると妙に勘ぐられそうな気がして不安だ。そこで何か書いておこう。
遥かな道しるべから。
今日はバレンタインです。普段非モテを標榜しているサイト管理人にとっては持てる技術の全てを尽くした渾身のテキストをアップしなければならない日でもあります。(略)因みにうちはその手の日記はアップしないです。なにせチョコを貰える貰えない以前に今日は家の外に出てないし。家にひきこもっていても、SFおしかけ女房的妄想に浸ることは可能だ。夜遅く、そろそろ日付が変わる直前にいきなり家のドアをノックする音が聞こえて、「おや、こんな夜更けになんだろう」と思いながらドアを開けると、そこには……という感じ。「……」の部分は各自補完されたし。
普通の生活をしている人ならどんなにモテなくても妄想を働かせる余地ぐらいはあるんですよ。(略)しかし流石に一歩も外に出ないとあってはそれもありえない。(略)
来年はチョコを貰いたいなんていう贅沢な事は恐れ多くて言えないので、せめて妄想を働かせる余地がある程度の生活を送っていたいです。
だって「人妻」というのは「人の妻」ということで、裏返せば彼女自身は「人」ではないということにほかならない。男性しか「人」として認めない意識からしか発想できない呼称だと思います。彼女もまた一人の「人」だと認識するなら、「人の妻」なんて呼べっこないでしょう。私は「ひとづま」というのは「他人妻」ということだと思っていたのだが。「ひとはひと、私は私」と言い方をする人は自分のことを「人」ではないと認めているわけではない。
もっとわかりやすいのが「ご主人」という呼称のおかしさですね。ある女性の配偶者を「ご主人」と呼ぶなら、「主人」に対応する単語は「使用人」か「奴隷」ですから、彼女のことをそう決めつけるに等しい。それにくらべればまだましだけれども、「だんなさん(=一家を取り仕切る存在)/奥さん(=奥に引っ込んで家を守っている存在)」という言葉にも実は差別意識が忍びこんでいるように感じてしまいます。これは同感。ただ、言い換える言葉が見つからないという難問がある。「奥さん」がいかに差別的な含みをもつ語であるとしても尊称であることは間違いがないので、「妻」とは呼べない。
「夫/妻」というのは、語源的にはともかく、すくなくとも現在の民法上では確立した平等概念だから、性差別の解消という観点からみれば「夫さん/妻さん」という呼称は優れたものかもしれない。しかし、これは本来尊称ではない呼称に安直に「さん」を付けているだけで、日本語の伝統を重視する立場からすれば到底受け入れられない。法律や行政の専門用語なら、好きなように造語を作って使えばいいのだが、窓口で一般住民を相手にする言葉だけに、あまり新奇な言葉はふさわしくない。「夫/妻」をいかすなら「夫君/妻君」なのだが、現在の日本語で「君」が尊称として受け入れられるかどうか疑問がある。
じゃんぽけ(2/12付だが内容から考えると今日の文章)で今日、丁度学校で『やまなし』の話をしていたら、クラスメイトで判ってくれたのは2人だけだった。関西って、福岡と国語の教科書違ったのだろうか?
と書かれていて愕然とした。『やまなし』は説明抜きで誰にでもわかると思って昨日の文章を書いたのだが。谷川俊太郎も有名だけど、宮沢賢治のほうがもっと有名だろう。
気になって調べてみたところ、今でも教科書に載っていることがわかった。ただ、少なくとも1992年以降は光村図書の教科書にしか載っていないので、知らない人がいても不思議ではない。ちなみに『居直りりんご』は三省堂の中学2年の教科書に載っているようだが、私は読んだ記憶がない。たぶん小中学校通じて光村図書の教科書だったと思う。
絶望書店の2/8付の日記にあの関西人の心のふるさとパルナスが1年前に消滅していたことを先日初めて識りましていささかショックを受けております。
と書かれていて、私もショックを受けた。去年の暮れに久しぶりに南海高野線(およびJR阪和線)三国ヶ丘駅に降り立ったとき「あれ、パルナスがないぞ?」と思ったのだが、その時にはもう潰れていたとは……。パルナス非公式ホームページを見ながら、ありし日の追憶に浸ることにしよう。
……そういえば、私はパルナスのケーキを食べたことは一度もなかった。
前回の見出しは、本当は「桃の酸化二水素」だったのだが、ついうっかりふらふらと間違えてしまった。こっそり修正しようかどうしようか迷ったのだが、よく考えるとどうでもいいことなので、そのまま放っておくことにした。放っておくなら放っておくで、わざわざこんな注意書きをしなくてもいいのだけど、それでも書いてしまうのは私が自意識マンマン(自信マンマンでないのがちょっと悲しい)だからだろう。で、わざわざこうやって訂正記事を書いておきながら、全然内容と関係ないよー(ここで客席から失笑)な見出しをつけてしまうのはなぜだろう?
ところで、ついさっきじゃんぽけを見に行ったら、
じゃんぐるぽけっとは、移転しました。と書かれていた。いったいどこに移転したのだろうか? 謎だ。
http://www4.kcn.ne.jp/~misakey/
きっと彼女の耳は「見えないネコ耳」に違いない。ピンと凛々しく立った焦げ茶色のネコ耳だ。
二時間目と三時間目の間の休憩時間のことだった。クラスメイトとたわいない雑談に興じる彼女の姿を眺めているときに、ふと気づいたのだ。学年一、いや学校一の美少女だと評判の彼女に欠けているものがあることに。彼女にはネコ耳がない。成績優秀、スポーツ万能、気だてが優しく力持ちで、野郎ばかりか女子の間でも憧れの的になっている彼女。そんな彼女にネコ耳がないというのは理解しがたい。まるで刻み海苔のないざるそばのようなものではないか。不当だ! そんなことがあっていいはずがない。
そこで思いついたのが「見えないネコ耳仮説」だ。
なかなかいい思いつきだ。目を閉じて彼女のネコ耳姿を思い浮かべるだけで楽しくなってくる。うきうきして両耳が立った状態、ちょっとすねて片耳だけ寝かせた状態、両耳とも伏せたしおしお状態。そうだ、耳だけじゃなくて尻尾もほしいな。
「ねえ、何でにやにや笑っているの?」
うるさいな。今いいところなんだから。
彼女にネコ耳があることは秘密だ。頭の横にはダミーのヒト耳が付いていて、それだけ見ればふつうの人間と変わりはない。見えないネコ耳に気づいているのは、今のところ世界中でただ一人だけ。安心しな、この秘密は決して誰にも漏らさないから。
「ねえ、ねえってば」
ああ、可愛いネコ耳、可愛い尻尾。ネコ耳がなくても彼女は可愛いけれど、あれば一層魅力がひきたつ。なんて愛らしい見えないネコ耳。ピンと凛々しく立った焦げ茶色のネコ耳……あれ? 見えないのに焦げ茶色、というのは変じゃないないか。見えないものに色はないはずだ。
瞼の裏の幻の彼女のネコ耳姿を打ち消して、ぱっと目を開き、同時に思わず立ち上がっていた。
「にゃ!」
驚いたような彼女の声。さっきまで教室の隅で雑談していたはずなのに、いつの間にか隣りに立っていた。しかし、驚きの声にしても「にゃ?」というのは変だな。
「にゃ、にゃにゃにゃ……じゃなくって、わっ!」
慌てて口の前で手を振ってみせたかと思うと、すぐに頭の上に手を載せて、「じゃあ、これで」と妙な事を言いながら後ずさりで教室から出ていった彼女の姿はどことなくつまみ食いを見つかった子猫のようだった。
そうか、invisibleではなくてhiddenだったんだ。ふだんは豊かなみどりの黒髪に隠されて見えない、愛らしい焦げ茶色のネコ耳。
996字(句読点・記号込み)
スキー場危機相次ぐ黒字は1割 安比もアルツも夢破れ(情報もと:愛・蔵太の気ままな日記)
私見では、スキー場の利用客が減った理由は違法コピーの蔓延と郊外型リサイクルショップの増加にある。
スキー場の違法コピーはもちろん著作権法違反だが、厳しく取り締まるのは現状では困難だから、コピープロテクト技術の活用などで対処すべきだろう。その結果、多少雪質が劣化するかもしれないがやむを得ない。
リサイクルショップの増加に対しては有効な対応策はない。倒産するスキー場が増えると長い目で見ればリサイクルショップの経営にも悪影響を及ぼすのだから、業界どうしで理性的な話し合いを行い、冬場の営業自粛やある程度の利益還元などのルールを作ってはどうか。
昨日の記事はもともと500文字の心臓に投稿しようと思って書いたものだが、制限字数のほぼ2倍になってしまった。無駄な描写をそぎ落とせば500文字以内におさめることも可能だが、そもそもこの内容で選者の眼鏡にかなうとは思えないので、投稿を断念した。
だったら最初から書くなよ、と言われてしまいそうだが、書きたかったんだから仕方がない。好きなら書いちゃえ、掲載しちゃえ。
ちなみに私にネコ耳属性はない。
今日は珍しく本を読み終えた。それも二冊だ。同時並行で読んでいた本のうち『イソップ寓話 その伝承と変容』(小堀桂一郎/講談社学術文庫)と『癒しの楽器パイプオルガンと政治』(草野厚/文春新書)を読了したのだ。どちらも面白かった。感想は明日以降、更新のネタに詰まったら書くことにする。
U-kiのメモ帳2/15付から。
1+1=2、以外の解答はないだろうか?このような場面で教育者は子供が出した「解答」を否定してはならない。しかし、数学者は全身全霊をかけて否定しなければならない。私は数学者ではないが、この「解答」を肯定的に受け入れることは心情的にどうしてもできない。私は教師に向いていない。
そう説く教師にある子供はやおら地面の土を両手に握って差し出し、こう云った。
「1+1は」両手の土塊を一つに合わせて「でっかい1だ!」 こういう発想はステキじゃないか、と思うわけ。彼の示した「正しさ」をあなたは否定できマスカ?
一昨日取り上げた「人妻」の話題(氷川透 on the WEBより)の続きを書こうと思っている。取り上げる候補は、
ちかちかするので、今晩はこれ以上書けません。
一昨日、U-kiのメモ帳の2/15付の記事で紹介されたエピソードについて、数学者は全身全霊をかけて否定しなければならない。
とコメントしたところ、果たしてこの問答は「数学者が全身全霊をかけて否定すべき」なのか、についてははなはだ疑問だ。(略)「土の量」に着眼すれば「1+1=2」という数学としての加算が成り立つし、この解答を数式「1+1=1」と表現するのは間違いだ、というのは「+」「=」という記号の意味を含めて数学者が「加算」について説明して否定すべきだろう。しかし「土の塊の数」は間違いなく1に1を加えたところで1である。これは誰がどのように否定すべきことなのだろう。
という応答(2/17付)があった。
私が言いたかったのは、数学は体系的な学問である(そもそも体系的でない"学問"があるのか、という疑問もあるが、ここでは論じるつもりはない)ので「1+1=1」という数式を正しいものとして認めてしまうと、ありとあらゆる数式を正しいものとして認めざるを得なくなる恐れがあるので、断固として拒否しなければならないということである。たとえば、「1+1=1」の両辺に1を加えれば「1+1+1=1+1」になるし、「1+1=1」と「1+1+1=1+1」の両方が成り立つならば「1+1+1=1」も成り立つ。「1+1=1」から別の式を導出することを妨げるめに何らかの制限を加えるのでない限り、その結果は破滅的なものになるだろう。
では、具体的にどのようにして否定すればいいのだろうか? 最初私は、右手に握った土塊と左手に握った土塊を一つに合わせる操作は、数学上の加算には当たらない、ということで否定できるのではないか、と考えていた。では、林檎の場合はどうか。右手に林檎を一つ持ち、左手にも林檎を一つ持つ。右手の林檎と左手の林檎を一つに合わせて差し出せば、そこには二つの林檎がある。これを「1+1=2」の実例だと言うことに何か問題があるのか? そこで考えが止まってしまった。
もう少しましな説明を思いついたのは、U-kiのメモ帳2/17付の記事を読んだ後である。しかし「土の塊の数」は間違いなく1に1を加えたところで1である。
という一文に答えが隠されていた。
「右手に握った土塊は1であり、左手に握った土塊も1である。そして両手の土塊を合わせてもやっぱり1である」
これは間違いではないが、重要なポイントを省略している。言葉を補うと「右手に握った土塊の数は1であり、左手に握った土塊の数も1である。そして両手の土塊を合わせてもやっぱりその数は1である」となるだろう。これは「右手に握った土塊の数は1であり、左手に握った土塊の数も1である。そして両手の土塊の数を合わせてもやっぱり1である」とは別のことを言っている。前者は正しく、後者は間違っている。そして、間違っている後者こそが「1+1=1」という数式が表している事柄なのだ。
数学つながりで砂色の世界・日記2/17付の1/9と1*9の区別がつきません。
について。
1/9と言う物は割りきれないから,1/9がどんな数字であるか明確に言い表せる人はこの世にいない。だとするなら,どうして1/9に9を掛けると1になると言えるのか。1は9つに分け切れないはずなのに,その分けきれない物とされた筈の1/9という存在を9つ集めるとはどう言う事なのか。それがどんな数であるかも判らない(見た事が無い)のに,9つ集めると1になってしまうと断言できるのは何故なのか。1/9が0.1111111・・・と無限に続くのであれば,それを9つ集めた物は限りなく1に近いだけの物であり1じゃ無いのではないのか前半部分をちょっと整理してみよう。
それがどんな数であるかも判らない(見た事が無い)という記述にその事が窺われる。私は1/9に限らずいかなる数も見たことがないが、「1/9」という数表現は見たことがあるし、この数表現によって表される数がどんな数であるかもわかっているつもりだ。この数は
9つ集めると1になってしまう数である。
1/9が0.1111111・・・と無限に続くのであれば,それを9つ集めた物は限りなく1に近いだけの物であり1じゃ無いのではないのかという疑問は昔私も抱いたことがある。懐かしい。0.1111111……を9つ集めると0.9999999……だが、これは1と同じなのか別なのか。
最後におまけ。割り箸立てから割り箸を一本取って、それを二つに割ると二本になる。よって「1÷2=2」。
『塔の断章』(乾くるみ/講談社文庫)を買った。巻末に元版にはなかった作者自身による解説があり、それがなかなか面白い、という情報をネット上で見かけたからだ。早速解説を読んでみた。予想以上に面白かった。やたらと「ネット上の感想」(どうでもいいが、紙媒体で書く場合には、少なくとも最初の一回くらいは省略せずに「インターネット」と書くべきだろうと思う。「ネット」がネットを指すというのはネット内での常識だろう)を気にしていたり、作品内で伝えられなかったことを、作者が別な形で文章化することは、基本的にはとてもみっともないことだと思っている。
と書きながら、そのみっともないこと
をあえてストレートにやっていたり、さらにシリーズは全二十二作の予定。
などという構想を語ってみたり。
このように書くと嫌みか皮肉のようだが、私はただただ面白がっているのである。何もかもわかっていながら、イタい文章を書かざるを得ないジレンマ、そしてそのイタさを芸にして読者を面白がらせるサービス精神、そしてそのサービス精神がさらにイタさを増幅するという循環構造。これは滝本竜彦に似ている。ただ、乾くるみは過去の経歴や私生活をネタにせず、作品及び作家活動のイタさを強調する。ある意味では純粋だともいえるが、もっとイタい文章が書けるはずなのに……と思ってしまう。
もう一冊、小説本を買った。『夜鳥』(モーリス・ルヴェル(著)/田中早苗(訳)/創元推理文庫)だ。ルヴェルが文庫本で読めるというのも驚きだが、田中早苗訳というのも驚きだ。どうせなら正字正かなのままにしてもっと驚かせてほしかったが、さすがにそれは高望みか。それにしても、本体価格700円で採算がとれるのだろうか?
明日から青春18きっぷが売り出されるので、久しぶりに5日分全部一人で使う覚悟で買ってみようと思う。昨年夏に終点の一駅前で引き返すという屈辱を味わった吾妻線に再び挑むつもりだ。
しかし、一駅区間を乗るという目的だけのためにわざわざ群馬県まで行くのはさすがに馬鹿らしい。吾妻線沿線には温泉地が多いのだから、温泉巡りをしてみたい。嬬恋村だけでもわんさかと温泉があり、中には駅から歩いて行ける温泉もいくつかあるようだ。ややこしいことに「嬬恋温泉」と「つま恋温泉」が別々にある(「つま恋温泉」は全然別のところにもある)。
そんな事を考えながら旅行の計画を練っているのだが、時刻表を開くとついつい効率的な乗り継ぎプランを考えてしまう。乗り放題のきっぷなので、少しでも長時間・長距離乗って元を取りたいと考えてしまうのだ。長年の間に染みついた貧乏性はなかなか直らないものだ。
ちょっとしつこいかもしれないが、砂色の世界・日記について再度検討する。2/18付(2回目)で、
私は少なくとも1/9と言う物を『数』として認識していません。これはあくまでも「1を9で割ります」という宣言であり,『操作』だとみています。1/9と言う物は=の先にはじめて『数』として,計算の『結果』としてのみ『数』として表される物だとおもいます。と書かれている。似たようなことを私も考えたことがあったような気がして過去ログを辿ってみた。1年前にこんな文章を書いている。ちょうど『月姫』をプレイ中だったので、「魔法のメガネ」などという言葉を持ち出してきている。今から思えば相当アレなのだが、今さら書き直すのもナニなのでそのままにしておく。
「1を9で割ります」という宣言なのだが、私はずっとこれを「きゅうぶんのいち」と読み、数を表すものだとみなしていた。「いちわるきゅう」は「1÷9」で、それを計算して得られる数が「きゅうぶんのいち」すなわち「1/9」なのだと。だが、今パソコンのテンキーを見ると、どこにも「÷」の記号はなく、わり算は「/」で行うようになっている。なんだか時代の流れに取り残されたような気がする。
さて,私は上記の様に,計算式というものを数としては認識していない。数,数字,滅・こぉる氏の文中ではこの二つの使い方を分けられていたようだが,私はこの二つを同一視する。辞典を調べたわけでは無いので間違っているかもしれないのだが私は敢えてそうする。そして,式を含んだ物を『数式』、含まない物を『数字』とする。昨日、私は
1/9は数であって数字ではないと述べ、
砂雪氏の混乱の一因は、数と数表現の区別がうまく出来ていないことに求められるだろう、と指摘した。数と数字は同じものではなく、数と数表現も同じものではない、というのが私の基本的な主張である。では、数字と数表現の関係はどうなのか。「数字や記号類から構成された、特定の数を指し示すものが数表現である」と大ざっぱに言っておくことにしよう。
敢えて砂雪氏が
この二つを同一視するのはなぜなのか? 私にはちょっと理解しがたい。
確認するとはどういうことか? (砂雪氏の用法による)「数字」を目で見れば
確認した事になるのか?
1/9という数式の計算結果である数字を言い表したことにはならないのか?
昨日から『夜鳥』(モーリス・ルヴェル(著)/田中早苗(訳)/創元推理文庫)を読み始めた。昨日は3篇、今日は7篇。全部で31篇収録されているので、これでおよそ1/3読んだことになる。1/3といえば、0.3333333……である。3倍すれば0.9999999……だ。こんなに面白い本に出会ったのは久しぶりだ。八百十日目だ……というと大げさだが。
どこがどう面白いのかを説明してしまうともったいない。何も言わないから、ぜひ読んでほしい。読んだ人とだけ語り合いたい。そんな作品集だ。
とはいえ、何もとっかかりがないと手に取る気にならない人もいるだろう。唐突だが、ここでクイズを出しておこう。 『夜鳥』のある作品で「死刑」「死刑執行吏」にたいそう愉快なルビが振られている。さて、何でしょう?
昨日書いた吾妻線再挑戦のための計画を立てるために時刻表で調べたところ、青春18きっぷだけで旅行した場合、どうやっても一日では終点の大前に辿り着くことができないことが判明した。そこで選択肢は2つ。