日々の憂鬱〜2003年1月中旬〜


1.10512(2003/01/11) 残りえびす

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301b.html#p030111a

 これより、政宗さんちのチャットルームに突入。

1.10513(2003/01/11) 辺り一面、真っ白な壁

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301b.html#p030111b

 「」(Takahashi's Web)より。

「どんなことがあっても君の傍にいてあげるよ、僕は君を分かってあげられるよ、世界を敵に回してでも、俺は君の味方だよ」
などと言ってもいいのは、傍にいて分かってもらえて味方でいてくれて嬉しいなあと思ってもらえるだけの価値のある人だけで、そうでない人が言ってもイタイだけなのだ。
 至言である。誰もがわかっているはずなのに、気づかないふりをしている人がどれだけいることか。
 上の文中の「価値」について人間の9割9分は平凡で代替の効く無価値な存在であるという価値観に基づくものだという註釈がついている。すなわち代替不可能性に基づく価値のことだろう。だが、人は代替不可能な価値のみを求めるわけではない。好意や愛を他人に向けるきっかけが代替可能な価値であることは十分あり得るだろう。
 「ルックスがいいから」とか「お金持ちだから」という理由で人を愛するのは不純であり、そんなのは本当の愛ではないと言う人もいるかもしれない。だが、ルックスのいいお金持ちに「どんなことがあっても……」と告白されて嬉しい気持ちになることは現実にはいくらでもあるはずだ。
 代替可能な価値をも含めた場合、人間の何割くらいに価値があることになるのかはわからないが、それでも「無価値」という烙印を押されてしまう人は少なからず存在するはずだ。価値を評価する側の人間が、すべての価値基準を採用してくれるわけではないのだから。私もきっと「無価値」側の人間だろう。
 価値の無い人間はどうすればいいのか? 自分が無価値であるという認識を封印して夢にひたるのがいいのか。現実を直視して自己破壊に走るべきなのか。どちらも私には受け入れがたい選択肢だ。

 数日前から中里一日記を読んでいるのだが、「メイド」萌えの話が続くかと思えば、1/8以降別の方向へと進んでいる。元の路線に戻っただけかもしれないが。文学作品などで問題のある先入観をベースにした描写を行うことで差別が助長された場合に、作者はどれだけの責任を負うべきか、という話だと思う(違っていたら申し訳ない)。
 さて、今日の新聞の折り込みチラシの中に分譲地の広告があった。周辺の地価と比べると破格に安い。大きく裁判所が競売した土地ですと書かれている。だが競売物件だから安いのではない。その土地が同和地区に位置しているからなのだ。当然チラシにはそのような事は書いてはいないが、事情を知っている人には一目瞭然だ。
 このような不自然な価格設定を行うことで、先入観が固定化され存続していくことになる。では、この広告を出した不動産業者は部落差別に対して責任を負うべきなのだろうか。もしそうだとすれば、競売時の最低価格を設定した裁判所の責任はどうなるのか。

 MYSCONについて。このイベント名は「ミスコン」と発音するが、「カタカナ表記をなさらないよう御注意下さい」とのこと。私は和製英語はあまりローマ字表記したくない("life line"とか"nighter"という表記はどうにも違和感がある)のだが、個別の明確な指示に反するほど自分の方針を強固にうち立てているわけではないので、指示に従って「MYSCON」と書くことにする。
 さて、MYSCONには「協賛」という制度(?)がある。サイト持ちがMYSCONにリンクを貼り、その旨をMYSCON掲示板で告知すれば、「MYSCON協賛サイト」と認定される。協賛サイトアンテナを見ると現在140サイトが登録されている。ちなみに、この中に「たそがれSpringPoint」は入っていない。
 私はこれまで何度かMYSCONに文中リンクしたことがあるが、話題として取り上げた際のリンクであり、今もまさにそれを行っている。MYSCON協賛のリンクとは趣旨が違うので、わざわざリンク通知をしたこともない。よってMYSCON協賛サイトの条件を満たしていない、ということになりそうだ。だが、果たしてそうか?
 そもそも「MYSCONに協賛する」とはどのようなことなのだろうか? しかるべき状況(「しかるべき状況」というのは「たそがれSpringPoint」で張ったようなリンクを除外するための限定句と思っていただきたい。曖昧な言い方だが当座の議論には支障ないと思う)で自サイトからMYSCONにリンクを張り、かつ、掲示板でその旨を告知することなのか。それとも、掲示板での告知はMYSCONスタッフが協賛の事実を知るために要請する手続きであり、協賛の事実そのものはMYSCONにリンクを張った時点で発生しているものか。いや、MYSCONにリンクを張ることは(既に成立している)協賛という事態をサイト閲覧者に知らしめるための手段であり、協賛そのものはサイト管理者の何らかの心的状態(おそらく、MYSCONの理念への共感)であるのか。
 たぶん「協賛=心的状態」説は成り立たないだろう。何かに協賛するということは行為である。協賛の意図が心中にあるかどうかは、協賛という事態を構成するものではあるまい。趣旨に賛成も同意もしていないのに協賛するということも(MYSCONの場合にはどうかは知らないが一般論としては)あり得る。協賛者がその意図を持っていなかったことが明らかになっても、協賛の事実が消滅するのではなく、単に不誠実な協賛であったことが明らかになるだけだ。
 では、協賛というのはどのような行為か? 「私は×××に協賛します」と宣言することが、協賛なのか。もしそうだとすると、(文中で話題としてMYSCONを取り上げた場合など、宣言の形式をとっていない場合を除き)MYSCONにリンクを張るという行為はMYSCONへの協賛宣言だとみなせるので、しかるべき状況でのMYSCONへのリンクが即MYSCONへの協賛ということになるだろう。
 しかし「協賛=宣言」説にも難点がある。協賛者が被協賛者に協賛する(もの凄い悪文だが、ほかに書きようがないので仕方がない)ということは、協賛者と被協賛者との間に関係を樹立するということであり、一方的な応援とは違うのではないか。MYSCONスタッフが協賛宣言を認知していなければ両者の関係は樹立していないとみるべきだろう。そうすると、掲示板での告知はMYSCONに協賛するための必要不可欠の手続きということになる(ただし、掲示板に障害が生じた場合などには、メール等による通知も受け入れるだろうから、「掲示板もしくはそれに代わる手段による告知」と条件をゆるめたほうがいいかもしれない)。
 協賛とは協賛者と被協賛者の相互行為により樹立される関係である、と考えるならば、さらにMYSCONホームページから協賛サイトへのリンクをもって協賛の事実が成立するとも考えられる。誰かが協賛を宣言し、その事を掲示板で告知したときにMYSCONスタッフ側がそれを拒否するという事態は考えにくいが、「協賛の拒否」は論理的に不可能な矛盾した事態だということにはならないだろうから。この点でも協賛と応援は異なっている。別に応援してほしくない相手から応援されてうざったく思い、拒絶の意志を明確に表明したところで、応援者が応援したという事実そのものがなかったことになるのではない。そのような応援は単に不首尾な応援であるに過ぎない。
 さて、ここで全然別の話。仮に私がこう言ったとしよう。「どんなことがあってもMYSCONの傍にいてあげるよ、僕はMYSCONを分かってあげられるよ、世界を敵に回してでも、俺はMYSCONの味方だよ」と。そのとき、私はMYSCONに愛される(?)価値のある人間なのだろうか? それとも単なるイタイ人なのか?
 私がMYSCONに協賛していない理由はあえて説明する必要はないと思うが、説明しなかったら妙な誤解を受けるおそれがあるので、説明する必要があるかもしれないが、ここまでの文章から十分察することができるはずのことを説明するのは野暮な気がするのだが、野暮は承知でちょっとは言い訳をしておかないとやっぱり具合が悪いという気がするのでちょっとだけ。私は、MYSCONが下らないとか、MYSCONに興味がないとか、MYSCONのやり方が気にくわないとか、そんな事は考えていない。それだったらわざわざ高い金(参加費よりも往復の交通費のほうが嵩む)を出してまで参加しない。ただ、MYSCONの目的がミステリ愛好者の交流の場の提供という環境整備に限定されていることを鑑みれば、その趣旨への賛同の意志は実際に参加することによって表明すればいいだけのことで、それ以上/以外の「協賛」にはあまり積極的な意味があるようには思わない。初期の頃なら無名のイベントを周知させるために効果があっただろうが、私が初参加したのは去年のことだ。今さら私ごときが協賛しなくても……というのが本音である。
 去年の3月頃には、今に比べてひきこもり度が高かったため、MYSCONに全く言及しなかったほどだが、最近は少し落ち着いてきたので、こうやって話題に取り上げるくらいでは呼吸不全に陥ったり卒倒したりすることはない。でも、やっぱり協賛するにはためらいがある。と、このように書くと妙な誤解や曲解を招くおそれがある。私はなるべく世界を敵に回さずに平穏無事に老後の余生を過ごして、死ぬときは畳の上で、亡骸は家の向かいの山の中腹の墓地の片隅に土葬してもらいたいと願っているので、余計な言い訳をしておくが、ここで書いた「協賛」の趣旨に関する意見やそれについてのためらいなどはあくまでも私個人の性格と体質に基づくものなので、最近になってMYSCONに協賛した人を愚弄するつもりの発言ではない。
 本当はこの文章ではバーチャルネットアイドル・ちゆ12歳の決まり文句「ネットアイドルちゆは○○を応援しています」をもとにして、「応援」という行為の成立条件について書くつもりだったのだが、昨夜(今朝?)政宗さんちのチャットルームでMYSCONの話題が出たので、急遽変更した。

1.10514(2003/01/12) 裏情報

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 アクセスログを見ると求道の果てからの来訪者が多い。宴席で語られた内容を期待してのことだと思う。いつもは自分の趣味に走ったことばかり書いて閲覧者のことはあまり省みない私だが、たまには読者サービスもしてみることにしよう。

 昨夜、らじ氏のお誘いにより、あの世で乳に詫び続けろ…オルステッドッ…(と、タイトルタグに記載されている。本当のサイト名は「Komeya-great」、私が読み始めた頃は「マリみてgreat.com」だった)の小林氏、涼元悠一氏、私、というメンバーで大阪某所で焼肉食べ放題2980円プラス飲み放題500円コースでたらふく飲み食いしてきた(ただし私はアルコールが駄目なので、ソフトドリンクのみ)。すぐ近くには屋台が並んでいて、笹を持った人々がいっぱいいた、といえば焼肉屋の場所がわかる人もいるだろう。
 私は焼肉屋では必ず冷麺を注文することにしている。いつもの癖で初回注文時から冷麺(ハーフサイズ)を頼んで、一人でずるずると食べた。といっても肉を食べなかったというわけではない。上カルビ、上ロース(並のロースもメニューにはあったが、どうせ食べ放題なのだから注文しなかった)、塩タン、地鶏、ウィンナソーセージ、合鴨、テッチャン、ユッケなどなど、それなりに食べた。またキムチ盛り合わせ、焼きニンニクなど匂いのきついものも食べた。帰りの電車で私の隣りに座った人はさぞ不快な思いをしただろう。申し訳ない。
 あと、こんなことまで書いてしまっていいものかどうかちょっと迷うのだが、心を鬼にして暴露してしまおう。デザートのアイスクリームを注文する際に私は抹茶アイスを頼んだのだが、たとの三人が苺アイスを注文したので「じゃあ、私も苺アイス」と言った。みんなと同じものを食べないと仲間はずれになったように感じる浅ましい島国根性である。しばらく経って抹茶アイスと苺アイスの両方が運ばれてきた。抹茶アイスの注文を取り消したつもりだったのだが、店員に通じていなかったようだ。残すとペナルティが課せられるので、私は泣く泣くアイスクリームを二つとも食べた。
 ああ、ここまで暴露してしまってよかっただろうか。ちょっと良心の呵責を感じるのだが、アクセス数獲得のためには手段を選んではいられない。アクセス亡者と呼びたければ呼べばいい。アクセス数至上主義マンセー!
 ここまで書いてしまったら、もう何も隠す必要はないだろう。私は最後の仕上げとしてカルビクッパを注文した。ビビンバにしようかとも思ったが、石焼きビビンバではなかったので、それならクッパで十分だと判断したのである。と、こう書けば私が石焼きビビンバが大好きであることを自ら露呈したようなものである。ところで、今私は「ビビンバ」と書いたが、本当は「ピビンバ」だったか「ビピンバ」だったか「ビビンパ」だったか、半濁音が混じっていたはずだ。だがどうせ濁点は半濁点の違いなど凝視しないかぎりわからないので、気にせずに「ビビンバ」にしておく。
 クッパに話を戻す。クッパとアイスクリームを同時に注文したら、当然のごとくアイスクリームが先に来た。前述のとおりアイスクリームを二つ食べて死にそうになっているときにクッパが来たものだから、さあ大変。甘いデザートの後にビリ辛のクッパですよ、クッパ。しかもカルビ(これも「カルピ」と書くべきかもしれないが、同じく気にしないことにする)が入っているのだ。
 全部食べ終わったときには私はすっかり萌え燃え尽きていた。

 さあ、ニュースサイト管理人諸君、直ちにこのページにリンクを張りたまえ! 諸君らの働きを期待しているぞ。


 メモ:まんが家Webトーク 佐々木淳子先生
 佐々木淳子ファントークサイトR-DREAMING(非公認ファンサイト)によると、『霧からはじまる日』は『ブレーメン5』に収録されている。

1.10515(2003/01/12) 失意のどん底

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 ニュースサイトからのリンクが全然なかった。
 人気サイトへの道は遠い。

1.10516(2003/01/13) 今後の予定

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 昨夜、見下げ果てた日々の企て年忘れチャット2003があった。話題があえば参加したいと思って11時過ぎからこっそり覗いていたのだが、非常に濃いメンバーが集まってアニメの話題で盛り上がっていたので入室を断念。その後『げんしけん』の話になったそうで、それまで粘っていればよかったと後悔。
 私のほかにもこの人この人この人がROMっていたようだ。


 郭公亭讀書録(1/13付)から。

京極夏彦の『覘き小平次』は新刊当時手に取ったが、冒頭の「不可視い」と書いて「みえない」と読ませる当て字に脱力して購入しなかった。
 チェスタトンの名作『見えない男』を京極夏彦流に表記されば「不可視い男」となるのだろうか? 「見える」だと「可視る」か。まさかそんなことは書かないとは思うが……。
 「機巧」と書いて「からくり」と読ませるような当て字は場合によっては効果的なこともあるが、「不可視い」はどうだろうか?
 最近読んだ某氏の小説で、「躊躇う」と書いて「ためらう」と読ませるものがあった。ATOKで変換できるくらいだから、さほどひどい当て字ではないのかもしれないが、「躊躇」は単独で「ちゅうちょ」と読むので、少し戸惑った。「不可視い」がどのような文脈で出てきたものかわからないが、「ふかし+い」というように区切って読んでしまう恐れがある。動詞の当て字は避けたほうが無難かもしれない。
 と、ここまで書いて自問する。「戸惑う」というのはどうなのだろうか、と。「惑う」はいいとして、その上の「戸」は何なのだ?


 エロチック街道(1/13付)から。

モーツァルトの音楽は1/fのゆらぎで作られてる、だから美しいだとさ。これ周波数がどうのこうのという話でして、そうするとあのですね、そのモーツァルトの曲を最後から最初へ、つまりまったく逆の順に音を並べて演奏しても同じ「1/fのゆらぎ」になる理屈ですよ。さあ、それでリラックスできるっつーんならやってみやがれべらぼうめ。
 案外逆弾きを聴いてもリラックスできたりして……。モーツァルトファンには怒られるかもしれないけれど。
 うろ覚えだが、「二人の奏者が一枚の楽譜を挟んで対峙し、それぞれ自分の位置から見えたとおりに演奏する音楽」がモーツァルトにあるらしい。単なる逆弾きではなくて、音高も逆になるのではないかと思うが、詳しいことは知らない。バッハなら、文字通り「前から演奏しても後ろから演奏しても同じになる音楽」がある。
 逆弾きといえば、ルネサンス期のリュート曲を逆弾きしたアルバムを最近見かけた。気にはなっているのだが、洒落で買う気にもならない。
 逆再生だと、いわゆる「マッドテープ」の初期に逆再生の「君が代」が収録されているものがあった(「テレビまんが20年のたくらみ」ではないかと思うのだが、違うかもしれない)。ちょっと聴いただけでは普通に演奏しているように聞こえる。


 上で言及した「テレビまんが20年のたくらみ」が1982年の作で、同年に昨日のアレな文章(複数のサイトからリンクされていて、その洒落心には感謝するものの、ここでリンク返しをしてしまうと洒落が洒落でなくなってしまうので自粛。こんなことでは人気サイトへの道はますます遠い……)の最後にメモっておいた『霧ではじまる日』が発表されている。私がもっともオタクに近かったのがその頃のことだ。
 最近よく思うのだが、「オタク」の時代はもはや終わったのではないか。今の20歳前後の人々を「オタク第3世代」と呼ぶのは「第1,2世代」の人間の勝手な思いこみによるものではないのか。
 そんなことをうだうだと考えているが、なかなかうまくまとまらない。これもまた今後の課題ということにしておく。

1.10517(2003/01/13) 機械仕掛けの猫の死体

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 知っているはずのことが頭からすっぽりと抜け落ちてしまうというのは気分が悪いものだ。たとえば私が毎日通勤に使っている電車の14の停車駅のうち始発駅から数えて8番目の駅名がなんだったかというどうでもいいことであっても、いやどうでもいいこであるが故に思い出せないのがいらいらしてたまらなくなる。明日になればいちもと同じように電車に乗って会社へ向かうわけで、その時に確認すればいいことなのだが、それでは遅い、その時には今の私の疑問自体を忘れ去ってしまうから駄目なのだ、今すぐ答えを知りたい、と思って居ても立ってもいられなくなる。明日には忘れてしまう疑問ならなおさらどうでもいいことなので、このぎくしゃくする感じは非常に不合理なことなのだが、そうは言っても感じるものは仕方がない。
 つい先ほど、何の拍子にか頭に浮かんだ疑問は「『時をかける少女』の続編の作者は誰だったろう?」というものだった。少し前に古本屋でその本を見かけて「へぇ〜、『時をかける少女』に続編があったのか〜」と思って手にはとったものの、特に関心があるわけではないのでそのまま棚に戻した。その時に作者名を見たはずなのだが、今となっては全く思い出せない。たぶん私がほかで名前を見たことがない人で、思い出せないのも無理はない。いやむしろ思い出せなくて当たり前だ。だが、いらいらは一向に収まらない。一昔前だと、こんな時には古本に詳しい知り合いに電話をして訊くくらいしか手だてがなかった。しかし今はインターネットという便利な道具がある。調べてみると案外簡単に見つかったここでは著者は筒井康隆とされているが、これは間違いだろう。いくら私の記憶力が不確かでも筒井康隆の名前を忘れてしまうわけがない)。これですっきりした。ついでにここここなど面白そうなページをいくつか見つけた。あとで読んでみよう。
 いやぁ、インターネットって素晴らしいなあ。
 あれ? そんな話をするつもりではなかったんだが……。書いているうちに結論を忘れてしまった。ええと、私は一体何を書こうとしていたのだったろう? 知っているはずなのに思い出せない。ううううう。

 あちこちで話題になっている『いちご実験室』(山名沢湖/講談社 KCデラックス)をようやく今日買った。まだ表題作のシリーズしか読んでいないが、あとの半分を読むのがもったいなくなってきた。ナンセンスファンタジーの傑作といっていいだろう。どうやったらこんなマンガが描けるのだろう?

 LOGIC&MATRIXの「推理小説でこれはないだろ」(1/9付)と「推理小説でこれはないだろ2」(1/11付)を読んだ(情報もと:ななめよみ。)。こうやって図解されてみると無茶苦茶さが際立つのだが、前者はミステリ的には許容範囲ではないかと思う。後者は、あえて許容範囲外のトリックを提示してみせたところに意味があるので小説全体ではノン・ギルティだと思う。もっとも、今読み返してみたら全然別の感想になるかもしれない。昔に比べると私はかなり偏屈になったので。
 過去の名作、たとえば『黒死館殺人事件』や『本陣殺人事件』なども図解すると無茶苦茶なトリックということになるかもしれない。いや、『黒死館』は図解しなくても無茶か。

1.10518(2003/01/14) 失われた時を求めよ、さらば見出されん

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 毎度のことながら見出しには特に意味はない。求めよ、さらば与えられん。尋ねよ、さらば見出されんというのは山上の垂訓の一節だそうだが、今日の文章はキリスト教とは関係がない。もちろん、あの長い小説は読んだことがない。

 昨日モーツァルトの珍曲のことを書いたが、タイトルがわからなくて困っている。いろいろと言葉をかえて検索してみたが見つからない。ここで言及しているのを発見したが、残念ながらタイトルを書いてくれていない。せめてケッヘル番号でもわかれば探しようがあるのだが……。で、探してどうしようというのだろう、私は?
 ところで、エロチック街道の「逆再生音楽について少し」(1/14付)で書かれていることはもっともで、調性音楽だとよほど単純な和声進行(主和音と属和音を繰り返すだけ、とか)でない限り、逆弾きしても心地よい音楽というのはないはず。では、「1/fのゆらぎ」というのはいったい何なのか、という話になるのだけれど、これはきっと「アルカリ性食品」のようなものだろう。「お肌にやさしい弱酸性」とか。今度、水道水に酢を混ぜて顔を洗ってみようか。
 で、顔を洗ってどうしようというのだろう、私は?

 『いちご実験室』(山名沢湖/講談社 KCデラックス)読了。最初から最後まで面白かった。強いてベストを選ぶなら『雪玉ロンド』か。ごく短い枚数で技巧の限りを尽くしているので。次点は『空色探偵帳』だ。海外古典ミステリに前例があるアイディアなので、心もち減点しておく。こんな事を書くと嫌われ者になりそうだ。でもいいんだ、嫌われたって。アクセス数が増えさえすれば。
 冗談はさておき。作者のサイト訂正情報が掲載されている。『真夜中郵便』のページが入れ替わっているというのだが……これは意外な盲点だ。
 昔、国語の教科書で『夢十夜』の抜粋を読んだ。小説そのものは面白かったのだが、その後に「『運慶が今日まで生きている理由』を考えてみよう」というふうな事が書かれていてげんなりした覚えがある。『いちご実験室』を『夢十夜』に喩えるのは変かもしれないが、センスとナンセンスの配分の絶妙さという点では似ていると思う。ちょうど、適度な不協和音により高まった緊張が心地よい協和音でほぐされるような、そんな感じだ。下手に言葉をかぶせて汚い雑音にしてしまうより、そっと差し出すほうがいいだろう。
 この本はおすすめです。

 数日前から佐々木淳子のマンガが気になって仕方がない。ずっと忘れていたのになぁ。
 昔、人間の骸骨が水晶に痴漢、もとい置換されるという短編を読んだ記憶があるのだけど、あれと何というタイトルだったろうか? 『ブレーメン5』の一場面で「ドラえもん」と「衣紋かけ」の語呂合わせがあったような気がするが、私の記憶違いだろうか? そんなとりとめのない疑問が浮かんでは消えていく。
 今日会社の帰りにいきつけの書店のマンガ文庫コーナーを見ると、『ダークグリーン』全5巻(メディアファクトリー MF文庫)が揃っていた。マンガ文庫はほとんど買わないのだが、今日は躊躇わずに全巻購入した。このマンガは最初のほうだけ読んだことがあるが、むちゃくちゃ怖くて途中でやめたような気がする。それもまた記憶違いかもしれないけれど。

 あ、「ためらう」を「躊躇う」と書いてしまった。

 JUNK-LAND2002 GooBoo本格ミステリベストの発表(ただし、今日のところは国内篇のみ)。ちなみに私は投票していない。締切日当日の大晦日まで迷ったのだが、「狭義の本格」以前にミステリ全般の読了数があまりにも少なかったため断念した。
 去年のはじめに当サイトがミステリ系更新されてますリンクに登録されたのをきっかけに、数年ぶりにミステリを集中的に読んでみようと思ったものの、すぐに息切れして一年も経たないうちに力尽きた。今年は気が向いたら昔の名作をぼちぼちと読む程度にしたい。私はもはや「幸福な少数者」ではないのだから。

1.10519(2003/01/15) ただいま発熱中

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301b.html#p030115a

 風邪でダウン。会社を休んで一日寝ていた。暇なので、昨日買ってきた『ダークグリーン』を読んだ。面白かったが、体調を崩しているときに読む本ではない。今晩悪夢にうなされそうだ。

 いつものように定期巡回サイトをチェックしていると、A@(1/15付)でコミケがもし100サークルのイベントだったらを紹介しているを見つけた。これは瑞澤私設図書館の企画ものの一つ。いつ発表されたものかは忘れたが、半年以上前ではなかっただろうか。「なぜ今頃?」と思いながら情報もとのつかれた(1/14付)→BRAINSTORM(1/14付)→はっぴい!ぱらだいす!(1/13付)と順に辿ってみた。なるほど、納得。
 ある情報を紹介するときに自分が情報を知ったサイトをどう扱うべきかという問題がある。私の考えはぐらついている。ここでは、自分が直接参照したサイトだけ明記するという方針を提示したが、情報もとを明示しなかったことも何度かある。エロチック街道ななめよみ。のように比較的長いコメントつきで情報を紹介するのを基本にしているサイトの場合、情報ページと紹介ページの両方にリンクを張っておくことで読者の便宜を図ることができる。だが、一行コメントだけとか全くコメントを書かずに情報ページにリンクを張るスタイルのサイト(カトゆー家断絶Mystery Laboratoryなど)の場合、情報紹介サイトにリンクを張ることには礼儀以上の意味はないように思われる。だが、果たして情報もとサイトへの礼儀は必要なのか? よくわからない。
 いろいろ考えてみたものの、リンクを巡る他の諸問題(すべてのサイトは"リンクフリー"であるべきかどうかとか、相互リンクと馴れ合いの問題とか)と密接に関わっている問題でもあるし、さらには個人サイト運営の目標とか理念などの問題とも関係がありそうだ。発熱中の頭ではうまく整理できないので、今日はここまで。
 この時もそうやって問題を先送りにしたんだよなぁ。どうも私は同じところを堂々巡りしているようだ。

(追記)
 上の文章をアップした直後にU-kiのメモ帳でもコミケがもし100サークルのイベントだったらを紹介しているのを見つけた。情報もとサイトの表記はないが、時期的にみて上の系列のどこか(またはそこから派生した系列)で知ったものだろう。だが、このページを見て「情報もとサイトへの礼儀を欠いている」と非難する人はいまい。
 要するにサイトのスタイルとスタンスをどうするかというだけの事のような気がしてきた。あれこれと難しい事を考えようとして行き詰まった私はどうかしていたのかもしれない。

1.10520(2003/01/16) 思想朦朧

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301b.html#p030116a

 引き続き発熱中。
 某サイトに興味深い記事があり、それについてほとんど一日中考えていた。考えはある程度まとまったが、長文を書く体力がない。今日のところはパス。
 明日は会社へ行けるだろうか。

1.10521(2003/01/18) 題不定

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301b.html#p030118a

 昨日、『陰の季節』(横山秀夫/文春文庫)を読んだ。マンガと再読本を除けば、これが新年初読書ということになる。もう「新年」などという時期を過ぎてしまったような気がするが……。この調子だと年間に読める本はせいぜい二十数冊程度だろう。寄る年波には勝てない。
 『陰の季節』は横山秀夫の第一作品集で、第5回松本清張賞を受賞した表題作のほか3篇が収録されている。4篇ともD県警を舞台にしていて、警察内部の不祥事を巡る謎が中心となっている。全体の印象を一言でいえば「ステレオタイプとマンネリズム」(二言になってしまった……)である。主人公はみな自らの仕事に誇りをもった硬骨の職業人で、人間としての弱さと卑しさ、家庭人としての温かさが少しずつブレンドされている。いや、主人公ばかりでなく、登場人物のほとんどが同型の人物として造形されている。「ミステリも小説である以上は人間が描けていなければならない」という立場の人なら、『陰の季節』に収録された諸作の評価はかなり低いものになるだろう。
 だが、私の評価は異なる。ミステリとはたまたま小説の形式をとったパズルなのであって、極論をいえば「人間を描く」必要などない(むろん、「人間を描く」ことが不可欠な種類のパズルの場合は別だ)。特に、『陰の季節』のように謎の設定に工夫を凝らし、丁寧に伏線を張りつつその中にレッドへリングを紛れ込ませ、意外な真相を読者に突きつけてあっと言わせることを主眼とした小説の場合には、下手に人間の実存をえぐり出したりするのはかえって有害だとさえいえる。あえてマンネリズムに徹し、完成度の高い技巧小説を提示した作者の腕前に賞賛の拍手を送るべきなのだ。
 収録作の各々についてどこがどのように面白いのかを逐一述べることは未読の読者の興をそぐことになるだろうし、既読の人には全くわかりきったことだから省略するとして、一つだけ気になった点を指摘しておくことにする。『地の声』の一節に次のような記述がある(93ページ〜94ページ)。

 新堂は本庁舎を出た。市道に回り、県警本部の敷地に並ぶようにして建つ、D共済組合の自動ドアを割った。
 県警の外郭団体だから、幹部職員の多くはOBの天下りだ。知った顔に頭を下げ、内密にと断りを入れて曾根の借り入れ状況を調べさせた。外に女を作っているとなれば金が要る。
 警察官(曾根)が金を借り入れることができる共済組合は、日本でただ一つ警察共済組合だけである。D県にあるのは「警察共済組合D県支部」であって「D共済組合」という独自組織ではない(そのような名前の共済組合が仮にあったとしても、曾根は組合員ではない)し、その幹部職員はOBの天下りではなく現職である(支部長はD県警本部長が兼務)。架空の県の話だから現実の組織構成とは違っていても構わないといえばそれまでだが、警察共済組合は地方公務員等共済組合法に基づく団体なので、ちょっと気になった。
 なお、警察共済組合とは別に各都道府県には警察職員の互助団体があり、地方によって「互助会」「互助組合」「共助会」などと呼び名はまちまちである(ただし、さすがに「共済組合」という名前の互助団体はないだろう)。ふつう共済組合・互助団体はともに県警本部厚生課に事務局を置いている。84ページに厚生課の売店に甘い物でも仕入れに行くのだろうという記述があるが、この売店はおそらく互助団体が経営しているはずだ。互助団体は法律に基づくものではなく、せいぜい便宜供与に関して条例で規定されている程度なので、現実と違った組織構成のものがあっても、さほど違和感はない。上の引用文の「D共済組合」が「D互助組合」だったなら、引っかかることはなかったのだが。
 むろん、ここで指摘したことは小説の評価とは全く関係がない。共済組合は小説を構成するパズルのピースではなく、単なる背景の一部に過ぎないのだから。

 横山秀夫の本は『陰の季節』の前に第二作品集の『動機』(文春文庫)を買ってあり、表題作だけ読んだところでストップしていた。『陰の季節』が予想以上に面白かったので、こちらも早く読んでしまおうと思う。

1.10522(2003/01/19) 題未明

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301b.html#p030119a

 相変わらず体調が悪い。体調が悪い日には頭の調子も悪い。頭の調子が悪い日には面白い文章が書けない。故に面白い文章が書ける日には体調は悪くない。それはともかく、大下宇陀児と原田宇陀児はどちらがより有名だろうか? 「原田宇陀児は今後ミステリ作家としてデビューする可能性があるが、大下宇陀児が今後シナリオライターとしてデビューする可能性はないので、原田宇陀児のほうが有名だ」という論証を思いついたが、むろんこれは誤謬推理に過ぎない。それはともかく、『召しませバニー星人』が『少女標本』になってしまうのはいかがなものか、と思ったりしたのだが、別に抗議したいわけではない。それはともかく、ハイドンの交響曲第45番「告別」は第4楽章で演奏者がどんどん減っていき、最後には誰も残らなくなる(参照)ので、クラシック音楽版『そして誰もいなくなった』ではないかと思うのだが、よく考えるとこのたとえには非常に大きな無理がある。『そして誰もいなくなった』の作者は言うまでもなくクリスティーだが、ハイドンはクリスティーではない。それはともかく、「保証」と「保障」はふつう使い分けるものだと思うが、どうか。それはともかく、「尽き姫」ではなくて「月姫」だと思う。それはともかく、じたばたあがいてもやっぱり面白い文章が書けるわけではないので、今日はこれまで。

1.10523(2003/01/20) 大未定

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301b.html#p030120a

 例の「ブログ史に残る」事件以来、「ブログ」という言葉は嘲笑の的になっていたので、自サイトのコンテンツにあえて「みすらぼブログ」という名前を付けたmatuo氏のひねくれぶりには感心していたのだけれど、内容はウェブログというよりもウェブアーカイヴではないかと思う。むしろみすらぼ日記のほうがウェブログっぽい気がする。それはともかく、昨日掲載された「見えない」という字に「不可視い」 を読んでみると、フク氏が郭公亭讀書録とたそがれSpringPointの往復書簡と書いていて、ちょっと意外だった。というのは、私はそこに引用された文章を不特定の人々に向けた独り言のつもりで書いていたからである。もちろん、郭公亭氏も私の文章を読むだろうと想定してはいるのだが、それは結果の一つに過ぎず、当該文章にとって郭公亭氏は不特定多数の閲覧者のうちの一人に過ぎない、というつもりだった。
 一連の文章を「不特定多数の人々にも公開された往復書簡」として読み返すと、「だ・である」調で書いた私の文章はひどく尊大なものに思われてくる。郭公亭氏の最初の文章(1/13付)は純粋な独り言だから「だ・である」調で、私の文章のあとに書かれた二番目の文章(1/14付)は「です・ます」調になっている。往復書簡に割り込み、とわざわざ断って書かれたフク氏の文章(1/16付)は当然のことながら最初から「です・ます」調で、その後のやりとりもすべて同じ調子だから、結局私の文章だけが浮き上がってしまっている。さて、どうしたものか。
 私は必ずしも「です・ます」調を使わないというわけではない。ほとんど誰も読んでいないだろうとは思うが、サイトの案内文などでは「です・ます」調で書いている。サイトを開設する際に、メインとなる「日々の憂鬱」を「です・ます」調にするか、それとも「だ・である」調にするかで迷った。読者に語りかけるような調子で書くと話題がかなり制約されて更新がしんどくなるだろうと思い、独り言/ぼやき調を採用することにした。とはいえ読者の目は常に意識しているので、聞こえよがしに独り言を言っているかのような嫌らしさがないわけではない。 だが、あからさまに読者にすり寄って媚びを売っているような嫌らしさと比べると多少はましだろう。そう判断したのだ。読者に対する距離の取り方を決めたことで、ほぼ自動的に文末を「だ・である」調にすることも決まった。
 そういうわけで「日々の憂鬱」はほとんど「だ・である」調で書いているのだが、例外もある。最近では、12/27蔓葉信博氏あての短い私信、1/4の某氏あての比較的長い私信で「です・ます」調を使っている。"私信"とはいってもウェブ上で公開するからには純粋な私信ではなく、ただそのような見かけをとっているだけなのだが、その"見かけ"のためには「です・ます」調が不可欠(蔓葉氏ももう一人の某氏も私が気軽にタメ口をきける間柄ではない)である。では、なんで私信の見かけをとるかといえば、扱っている話題がかなり特殊だからだ。それに対して「見えない/不可視い」は、きっかけは確かに郭公亭讀書録だが、話題そのものは特に限定されたものではなく(実際、フク氏も加わっているわけだから)、あえて郭公亭氏あての"私信"という体裁をとらなくてもいいだろうと思い、"独り言"という体裁(つまりいつもどおりの文体)で書いたわけである。
 個人サイトを運営する上で読者との距離をどのくらいに設定するかということは誰しも一度は悩むところだろう(一度も悩んだことがない、という幸せな人は無視しよう!)。私はどちらかといえば、親密感や親しみやすさの雰囲気ではなく、文章の内容そのものの価値で読者を惹きつけたいと考えていて、いわゆる"馴れ合い"に対して時には過剰なほど反感を表明したりもするのだが、「見えない」という字に「不可視い」 に転載された一連の文章を読んでみて、果たして自分のやり方はこれでいいのだろうかと疑問に思わないでもない。郭公亭氏とのやりとりがフク氏には往復書簡に見えたということは、私の他人への距離の設定の仕方が自分の意図したとおりではなかったということを意味しているように思われる。それなら私はどうすべきか? もう少し親密さを表すスタイルに改めるほうがいいのか、それとも逆にスタイルにあわせて他人との距離をとるほうがいいのか?
 ところで、上で「某氏」というふうに名前を伏せたのも、他人との距離をとるための手段の一つである。本人から名前を伏せてほしいという要望があったわけではないし、名前を出せば「たそがれSpringPoint」の読者のおそらく半分以上の人は知っているはずだから、不特定多数の人々に公開する文章としては不適切なほど内輪の話だということにはならないだろう。もっとローカルで読者を置いてけぼりにするような文章を書いたことはこれまでにいくらでもある。けれども、自分のオフラインでの社交関係をありのまま素直に公開するのには抵抗があり、それが「某氏」という伏せ字となった(蔓葉氏のほうは最初からオンラインで知り合った人なので、そのような抵抗はない)のだが、その某氏もいくつかの掲示板に出没しているし、とある掲示板では私も某氏と会話(チャットではないので「会話」というのも妙だが、ほかにうまい言い表し方が思い浮かばない)をしたことがあるので、オン/オフの区別にはあまり意味がないのかもしれないのだが、その一方で、ある日突然サイト運営が嫌になったときに「たそがれSpringPoint」を削除して「滅・こぉる」なる架空人格を消滅させて、後腐れなく実生活に戻っていきたいとも思っていて、なかなかオン/オフの垣根をとっぱらってしまうわけにもいかないなぁ、と思う今日この頃である。いったい私は何の話をしていたのだろう?

 今日買った本。

  1. 『美鳥の日々』(1)(井上和郎/小学館 少年サンデーコミックス)
  2. 『Q.E.D. 証明終了』(14)(加藤元浩/講談社コミックス)
  3. 『ロケットマン』(4)(加藤元浩/講談社コミックス)
  4. 『甘い水』(上)(松本剛/講談社)
  5. 『津軽』(太宰治/新潮文庫)
 最後の一つだけ浮いているが、ここには本来『Cobalt』2月号が入る予定だった、と言っておけば、それ以上の説明の必要はないだろう。