日々の憂鬱〜2003年3月上旬〜


1.10571(2003/03/01) 三月は去る

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0303a.html#p030301a

 昨日は読んだ本のタイトルを挙げただけだった。今日はもうちょっとまともな事を書こうと思っていたのだが、ちょっと遠出をして帰ってきたのが午後11時前で、あまりまともな事が書けそうもない。ふだんからさほどまともな事を書いているわけではないので、別にこれはこれで構わないのではないかという気もするのだが、その一方でやはりこれではまずいだろうという気もする。だからといって何をするわけでもなく、こうやってただ字数を稼いでいるだけなのだが。
 唐突だが白書について疑問に思ったことがある。うん、あまりにも唐突だ。せめて一行くらいあけておいたほうがいいのかもしれない。だが、それは欺瞞に過ぎないのだ。前段落と全然関係のない話題だということに変わりはないのだから。だったら改行せずにそのまま続けて書いてもいいのではないか。そんな声も聞こえてきそうだが、本当に聞こえてきたらいよいよ私はダメかもしれない。さて、白書というのは本当に白い書物なのか。そう考えて書店の政府刊行物コーナーに行ってみたのだが、あまり白っぽい本が多いという感じはしなかった。ブックオフなどの新古書店では白っぽい本ばかり置いているが、もちろん、今の文脈での白っぽい本とは別である。なんだか、もの凄くわかりにくい文章で申し訳ない。反省する。反省だけなら猿でも出来る。猿は去る。犬は往ぬ。
 政府刊行物は白書だけではなく、青書もある。聖書ではない。外交青書を見たら、表紙は青かった。ほかにも黒書というのもあったような気がするが、今日行った書店にはなかった。たぶん私の思い違いだったのだろう。
 ちょっと気になったので調べてみたところ「白書」「青書」の語源は英語だそうだ。そうだったのか。同じページには「パフェ」の語源も載っていた。パフェとサンデーはどこが違うのだろう? これも調べてみたのだが、あちこちのサイトで説明がばらばらでよくわからなかった。ざるそばともりそばの違いのようなものか。
 というふうな事を適当に書き並べているうちに夜も更けてきた。これからこっそりここの「年忘れチャット2004(仔羊)」でも覗いてみようと思う。参加するかどうかは、その場の雰囲気次第。

1.10572(2003/03/02) 京のねずみ、田舎のねずみ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0303a.html#p030302a

 深川拓氏によると渋谷は田舎だそうだ(3/1付日記)。その理由は、

  1. 上映中の映画のパンフレットを切らしていた。
  2. 予告編を流している映画の前売り券をまだ入荷していない。
 渋谷住民や渋谷に愛着を持つ人々がこの文章を読んでどう思おうが私の知ったことではない。しかし、田舎住まいの私にとって、この文章は非常に不愉快である。
 田舎は都会に比べると物資が乏しいし、新しいものが伝わるのに時間がかかるのも事実だ。私自身、欲しい新刊が近場で入手できないときなど、「田舎は嫌だ」と言うこともある。だから、もし深川氏が何らかの事情で田舎の映画館に行き、そこでパンフレットや前売り券が入手できなくて「だから田舎の映画館はダメなんだ」と言ったのなら、別に私はその事について文句を言うつもりはない。だが、ふつう田舎と見なされることはない渋谷について、あえて渋谷は田舎だと言うのは田舎についての固定観念に基づく比喩であり、田舎の現状についてのコメントとは全然別の事柄だ。映画館の段取りの悪さを非難するのは勝手だが、田舎を引き合いに出すのはどうか、と思ってしまうのである。
 このように考えてしまうのは、都会人に対するひがみのせいかもしれない。それは否定しない。


 Mystery Laboratoryのトピックス紹介にコメントが付かなくなった。みすらぼ日記(3/1付)によると記事紹介+ユーモアを目指したんですが、ぼくには無理だったということです。考えなしの発言が多く、他人様を不快にさせるようになった。というのが理由のようだ。
 その記事を読んだあとにU-kiのメモ帳を見に行ったら個人ニュースのモラルとかマナー考えると何も出来なくなるので特にリンク関係は(〜より)という発見場所はこれからも特に記入しない方針。(略)あと引っ張ってきたネタにコメント付けないということはないと思う。それを書き留めるのが目的なんで。(3/1付)と書かれていた。非常に対照的だ(情報もとサイトの取り扱いも含めて)。
 ついでに、komeya-GREAT.comから。アクセス解析も既に止めちゃったし(というか、既に解析が当然設置されているという前提で構築されている世界より脱出したかった)、この機会に「お前のサイト、キモイ」とか「早く氏ね」とかあからさまな反応をダイレクトに知りたいので、アンケート、やっちゃいます。
 我々は確かに解析が当然設置されているという前提で構築されている世界にいる。「たそがれSpringPoint」でもアクセス解析をしている(ただしトップページのみ。最新20アクセスのログしか残らない)。
 先日こんな事があった。アクセスログを見るとその前日に「たそがれSpringPoint」からリンクを張った先からのアクセスがあったので、早速見に行った。すると、そのサイトではトップページにリンク元サイト一覧表を自動生成する仕様になっていた。
 いったい何を言いたいのか自分でもよくわからないのだが、ついでなので思いついたことをもう少し書いておく。
 はてなアンテナの普及により、誰がどのようなサイトを定期巡回しているかがわかるようになってきた。ただし、一般公開していないアンテナの場合、アクセスログにひっかかったのを見て自分のサイトがアンテナに含まれていることしか知ることができない。知人と話しているときに、私が「どうせリンク先サイトの管理人には巡回していることを知られているのだから、こそこそせずに一般公開すればいいのに」と言ったところ、件の知人は「いや、公開したら気楽にリンク削除できなくなる人もいるだろう。そんな雰囲気が嫌な人なら非公開にして当然ではないか」と言った。そう言われればそうかもしれない。


 500文字の心臓 ♪掲示板(情報もと:天使の階段

1.10573(2003/03/02) 念のため

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0303a.html#p030302b

 先ほどアップした文章を誤解されるといけないので、補足。私は深川拓氏に抗議しているわけでもなければ、当該文章の削除を求めているわけでもない。むしろ、これで削除されてしまったら私の文章が宙に浮いてしまうので、ちょっと困る。
 これは、どんな文章でも取りようによっては不快になることもあるという実例で、その後の文章のマクラのつもりだ。
 こんな註釈は私の美学に反するし、基本的にはとてもみっともないことだと思っているのだが。

1.10574(2003/03/02) ひきこもり対LRT

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 最近「新型路面電車」という言葉をよく見かける。LRTの訳語なのだが、ちょっと変だ。いや、かなり変だ。この言葉を見聞きしたとき、大部分の人は路面を走る新型車両を連想するだろう。車両だけでなく軌道や停留所、さらに都市計画まで視野に入れた総合的なシステムを想像してみろ、というのは無茶だ。だから私は「新型路面電車」という言葉はあまり好きではない。
 では、いったいどういえばいいのか。昔、「軽快電車」という訳語を見かけたことがあるが、普及しなかったようだ。このまま「LRT(新型路面電車)」というこなれていない呼称を見過ごすしかないのか。
 考えれば考えるほど鬱になってくる。私が鬱になったところで、世の中がよくなるわけでもないのに。富山港線と吉備線のLRT化で突破口が開けて私の頭の調子も多少は回復するのだろうか?

1.10575(2003/03/03) 宮脇俊三死す

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1.10576(2003/03/03) 東京巨人軍vs.大阪警視庁

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0303a.html#p030303b

 先月半ばに「人妻/ご主人」という呼称に関する話題に触れて、その後、続きを書こうと思っている、などと言いながらほったらかしになっているのだが、今日、日本語平等化計画というページを見つけたので、メモ代わりにリンクを張っておく。同じサイト内にはほかに「女」なんか見たくないという文章もある。また、全然別の話題だが、無量大数の彼方へも興味深い。各ページのリンク先ともども、そのうちじっくり読んでみたい。
 ところで、今紹介したページでは触れられていなかったのだが、「女優」という呼称が最近気になっている。なぜ気になっているかといえば、今年の確定申告のポスターに「職業、女優」と書かれているのを毎日のように見ているからだ。女性の俳優のことを「女優」と呼ぶのは全く差し支えないが、それは職業名ではないだろう。女性の医者は確定申告のときに職業欄に「女医」と書くのか? 「女教師」とか「女流作家」という職業があるのか?
 ちなみに、私は基本的に「女流〜」という言葉は使わない。ただし、将棋の「女流棋士」は例外。囲碁なら単に「棋士」で済むのだが。

 上の話題はもともと氷川透 on the WEBに触発されたものなのだが、その3月欠日付の記事(一度「欠日付」という表現を使ってみたかった)に次のような文章がある。

 あ、「読売」って書きましたけど、ぼくは「巨人」って表記が大嫌いです。「○○×××××」というプロ野球チーム名の「○○」を基本的な呼称としているはずの日本のスポーツマスコミは、なぜか「あのチーム」だけは特別扱い。「×××××」にあたる「ジャイアンツ」を「巨人軍」と和訳して、そこから「巨人」と呼んでるわけですね。でも、「阪神タイガース」を「猛虎」ではなく「阪神」、「西武ライオンズ」を「獅子」ではなく「西武」と呼ぶなら、「読売ジャイアンツ」のことは「巨人」じゃなくて「読売」と呼ぶべきでしょう。「巨人」という表記は、ひどく非論理的です。
 ひどく非論理的、というのは言い過ぎのような気もする(私は、論理というのは推論に関わる規則であると考えているので)が、他の球団の略称と不釣り合いであるのは確かだ。なぜ巨人は「巨人」なのだろう?
 ここ(「巨人軍」の項)を見ると、戦時中の敵性語禁止のせいで言い換えたのが定着したらしいが、別のページを見ると、既に昭和11年の段階で「東京巨人軍」と呼ばれていたようだ。
 ところでここによれば、昭和10年に「名古屋金鯱軍」が結成されている。「東京巨人軍」と釣り合いをとったかのような名称だ。「都市名+軍」の「名古屋軍」とか「会社名+軍」の「阪急軍」(ただし阪急電鉄は当時「阪神急行電鉄」だった)とか、命名方法がばらばらで、しかもここを見ると、設立当時のタイガースの正式名称すら定かではないらしい。なんだかよくわからない時代だったようだ。

 東京の警察はなぜ「東京都警察本部」ではなく「警視庁」なのか、という問いも思いついた。思いついたところで、そろそろ時間切れ。
 今日も漫然としたしまりのない雑文だった。

1.10577(2003/03/03) うろ覚えだが

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0303a.html#p030303c

 確か、宮脇俊三と生島治郎は、どちらも鮎川哲也の担当編集者だったことがあるはず。たぶん。誰か確認お願い。

1.10578(2003/03/04) とちクレタ人のパラドックス

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0303a.html#p030304a

 巧言令色吉野仁孤低のつぶやき2/3付「2月は美食でしめ3月はペペロンチーニであける」から。

 もし、すべての人間が狂っているなら、いったい誰がその狂っていることを判断できるのか、と。すなわち「誰もがトチ狂ってる」との言葉は「クレタ人はみんな嘘つきだ、とクレタ人が言った」というパラドックスと同じだ、というのだ。
 これは、某本格ミステリ「トンデモ論」作家の発言だそうだが、その意図や背景はともあれ、狂気に関する言明をパラドックスに類するものとして捉える発想はなかなか興味深い。
 OK's Book Case某本格ミステリ「トンデモ論」作家本人の言葉が引用されている(3/1付「だれもかれもがとち狂っている」?)ので一部孫引きしておこう。
「だれもかれもとち狂っている」(中略)のですから、この陳述をしている主体もまた「とち狂っている」に違いありません。「とち狂っている」者の判断は当然のこと「とち狂っている」はずだから、「どいつもこいつもとち狂っている」という陳述は信用できないことになります。
 さて、これは本当にパラドックスなのか、ということについて考えてみようと思う。なお、ここから先は上で紹介した議論の文脈を無視した全然別の話になっているので注意されたい。当然のことながら、以下の議論は吉野仁、馳星周、笠井潔(あ、名前を出してしまった)の各氏のいずれかに対する批判的意図に基づくものではない。

 まず最初にごく初歩的なことを指摘しておく(知っている人には退屈な話だが、勘弁してほしい)。いわゆる「クレタ人のパラドックス」はそのままの形ではパラドックスではない。あるクレタ人が「クレタ人はみんな嘘つきだ」と言った場合、2通りの解釈が可能である。

  1. 本当にクレタ人はみんな嘘つきである。従って発言者も嘘つきなのだが、たまたまこの発言は嘘ではない。
  2. 実はクレタ人の全員が嘘つきであるわけではなく、中には正直者もいる。この発言者は嘘をついている。
 ここから本当のパラドックス(というのは語弊があるかもしれないが、ほかにうまい言い方が見つからない)を導き出すことにしよう。まず解釈1を封じるために「すべてのクレタ人は生涯に一度だけ発言する」という条件を加える。この条件により、嘘つきがたまたま本当のことを言ったという状況を排除できる。なぜなら、生涯に一度きりの発言で本当のことを言う人は嘘つきではないからだ。
 次に解釈2を封じるために「この発言者のみがクレタ人である」という条件を加える。この条件により、クレタ人のうち何人かは嘘つきで何人かは正直者だという状況を排除できる。
 これでパラドックスが成立する。生涯に一度だけ発言した唯一のクレタ人の発言内容が「クレタ人はみんな嘘つきだ」だとすると、この人物が嘘つきであるとも正直者であるとも言えなくなってしまうのだ。なぜなら、この発言は「私は今嘘をついている」と同じことだから。
 さて、「誰もがトチ狂ってる」または「だれもかれもとち狂っている」も同様に処理しよう。「私は今とち狂っている」と。これはパラドックスなのだろうか?
 もし私が今とち狂っているのだとしよう。とち狂っている私は自分自身について正しい認識を持つことができない。従って、私の「私は今とち狂っている」という発言は、たまたま事実ではあるが、私自身にとって確実性を欠いた信頼できないものである。
 逆に私は今とち狂ってはいないとしよう。とち狂っていない私は自分自身について正しい認識を持っている。従って、私は私が今とち狂っていないことを知っている。それなのに「私は今とち狂っている」と言うのだとすると、そのとき私は嘘をついている。
 とぢらにしてもパラドックスではないように思われる。どうも「私は今とち狂っている」という発言を取り上げる限り、パラドックスの円環を閉じることはできなさそうだ。そこで、言語のレベルから意識のレベルへと話題を転換しよう(といっても、私の意識をそのまま表すことはできないので、完全に言語との縁を切ることはできない)。すなわち、私が「私は今とち狂っている」と確信するならば、そのとき私は本当にとち狂っているのか否か、と問うのである。
 私が「私は今とち狂っている」と確信する。とち狂っているなら、自分自身について正しい認識が持てないはずだ。そうすると、この確信自体があやふやなものになるだろう。だがこれは矛盾だ。一方で確信しつつ、もう一方で疑惑を抱くというのはあり得ることではない。パラドックスだ!
 だが、ちょっと待て。これは全然パラドックスではなくて、ただ私は「私は今とち狂っている」と確信するということはあり得ない(したがってそんなことを確信してはいない)ということを示しているだけだ。
 本当のパラドックス(?)である「私は今嘘をついている」のほうは、そのような発言をすることはあり得ない、とは言えない。誰でも好きなときに「私は今嘘をついている」と発言することができる。このパラドックスを解決または解消するためには、言語と真理についての探究が必要である。

 上の文章を読み返してみると相当ルーズだ。「とち狂う」という言葉の意味を十分吟味していない。どうせ元の文脈を無視しているのだから「とち狂う」に拘らずに、いっそ「私は今すべてを誤認している」という例で考えたほうがよかったかもしれない。なんだかデカルトのようだが。


 メモ:21世紀活字文化プロジェクト
 馬的思考日記文庫を例に乱暴なことを言わせてもらえば、自宅の本棚に岩波文庫・中公文庫・ちくま文庫・講談社文芸(学術)文庫がどれも一冊もない四十代五十代の日本人は、「若者は活字文化に親しもう」なんて考える資格はゼロだ。というコメントに同感。乱暴な意見ではないと思う。
 私の本棚(床に積み上げた本を含む)には岩波、中公、ちくま、講談社学術文庫はあるが、講談社文芸文庫はない。無念。こんなことなら『死霊』を買っておくのだった。
 それにしても、21世紀になって「活字文化」とはなぁ。読売新聞だって今は活字なんか使っていないだろうに……と、とことんずれた感想で今日の締めくくり。

1.10579(2003/03/04) 偉大さの証明

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0303a.html#p030304b

 鉄道総合@2ch掲示板のトップ画像を見れば一目瞭然。

 後になるとわからなくなってしまうので、補足しておく。
 画像左側に宮脇俊三の顔写真、右側に追悼文という構成になっている。追悼文は下記のとおり。

心よりお悔やみ申し上げます
さようなら宮脇俊三氏

鉄道と文芸の融合を示してくれた浪漫人、
終わり無き旅路へ・・・

2ちゃんねる 鉄道総合板

1.10580(2003/03/05) Karl Popper and the Philosopher's Poker

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0303a.html#p030305a

 『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い一○分間の大激論の謎』(デヴィッド・エドモンズ,ジョン・エーディナウ/二木麻里(訳)/筑摩書房)を読み終えた。1ヶ月近くかかった。別に読みにくい本だったわけではない。ただ忙しくて時間がとれなかっただけだ。もう一年以上前から言っていることだが、ウェブサイト更新にかける時間をもっと減らさないと本が読めない。
 さて、『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い一○分間の大激論の謎』は私にとっては非常に面白い本だった。半分ほど読んだときに書いた暫定的な感想文に付け加えることはあまりない。いちばん面白かったのは第13章「哲学者シュリック、ウィーンに死す」だった。
 ところで、今日の見出しは何となく『ハリー・ポッターと賢者の石』の原題(Harry Potter and the Philosopher's Stone)をもじってみた。アメリカではタイトルが違うそうだ。なお、私はまだこのシリーズを読んだことがない。

 朝方、80000ヒット突破。

1.10581(2003/03/06) 春は別れの季節

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 私は今やっかいな仕事を抱えている。今月中旬までに何とか目鼻をつけないといけないのだが、何となく気乗りせず、今日まで延ばしのばしにしていた。
 これではいけない。このまま時間を無為に食いつぶしていったら、無様な醜態を晒してしまうことになる。そこでしばらく「たそがれSpringPoint」の更新を中止することにした。また、ウェブの巡回も中止する。仕事に関係のない本もしばらく読まないことにする。ゲームも完全封印。
 仕事が順調に進めば、今週末で何とかなるかもしれない。そしたら来週から更新を再開する。だが、これは希望的観測だ。壁にぶつかって七転八倒し、一週間以上苦しむことになりそうな気がする。一週間も更新を休んでしまうと客足が離れてしまい、更新再開してもアクセス数の回復に時間がかかることが予想されるが仕方がない。アクセス数より仕事のほうが大事だ。
 宮脇俊三追悼モードも終了したし、昨日80000ヒット達成して一区切りついたところだし、今がちょうど節目だ。今思い切ったことをしないと惰性に負けてしまいそうだ。私は意志が弱い人間だから。
 こんな、閲覧者にとってはどうでもいいことをわざわざ書くのも、弱い自分にプレッシャーを与えるためだ。このままではいけない。やるべき時には、ふだんの生活習慣を捨てて、集中して事にかからなければならない。
 やや繰り返しになるが今後の方針を纏めておく。

 この文章をアップしてメールチェックをすませたら、定期巡回サイトを一切見ずに早速仕事に取りかかることにする。
 それでは皆さん、ごきげんよう。

1.10582(2003/03/09) 小休止

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0303a.html#p030309a

 ネット断ちと本断ちのせいで禁断症状に悩まされながらも、なんとか仕事が一段落ついた。とはいえ完全に仕上げたわけではなく、ちょっと休憩中といったところ。しばらく不定期更新が続くことになる。

 メモ。

1.10583(2003/03/09) 髭と著作権

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0303a.html#p030309b

 ヒゲには三種類ある。髭と鬚と髯だ(卑下とか日下は無視する)。それぞれはえている場所が違うのだが、どれがどこだったか忘れた。心臓にはえるヒゲは髭か鬚か髯か?

 髭の話はさておき、著作権の話。
 ネット上で活動していると、否応なしに著作権関係のトラブルを見聞きする。当「たそがれSpringPoint」では、二次創作もやっていないし、アニメの画像キャブもやっていない。書評に添えて書影を飾ることもない。というか、そもそも書評なんか全然書いていない。だから、その種のトラブルは他人事だと思っていたのだが、こんなページを見て恐怖に駆られてしまった。私は頻繁に他人のサイトから無断で文章を引用しているからだ。このページはUNCHARTED SPACE雑文03/02(2/19付)で紹介されていた。以下、紹介文を引用してみよう。

・仕事関係で紹介を受けたサイトの「著作権ガイド」のページ。 当サイトそのものはこれほど厳密に管理するつもりはないし、実際していないけれど、運営する側からするとこういうゴリゴリの武闘派の存在は確かに頼もしくみえる側面はある。私自身はリンク先を明示しての引用は構わないと思っているし、全てのサイトがこうなるとHEY BULLDOGのようなサイトは困るでしょうしね。
 当該サイトの記載を読む限り、この程度の引用でもアウトになるのは間違いない。愛・蔵太氏ならずとも困る人は多いだろう。特に私は名前が似ているので他人事ではない。
 転ばぬ先の杖、法律を繙いてみる。著作権といえば著作権法(昭和四十五年五月六日法律第四十八号)だ。著作権法施行令(昭和四十五年十二月十日政令第三百三十五号)とか著作権法施行規則(昭和四十五年十二月二十三日文部省令第二十六号)もあるでよ。だが、しかしっ! こんなの素人が読んでも全然わからん。だいたい「著作物」の定義すら行っていないではないか。
(著作物の例示)
第十条  この法律にいう著作物を例示すると、おおむね次のとおりである。
 一  小説、脚本、論文、講演その他の言語の著作物
 二  音楽の著作物
 三  舞踊又は無言劇の著作物
 四  絵画、版画、彫刻その他の美術の著作物
 五  建築の著作物
 六  地図又は学術的な性質を有する図面、図表、模型その他の図形の著作物
 七  映画の著作物
 八  写真の著作物
 九  プログラムの著作物
 2  事実の伝達にすぎない雑報及び時事の報道は、前項第一号に掲げる著作物に該当しない。
 3  第一項第九号に掲げる著作物に対するこの法律による保護は、その著作物を作成するために用いるプログラム言語、規約及び解法に及ばない。この場合において、これらの用語の意義は、次の各号に定めるところによる。
 一  プログラム言語 プログラムを表現する手段としての文字その他の記号及びその体系をいう。
 二  規約 特定のプログラムにおける前号のプログラム言語の用法についての特別の約束をいう。
 三  解法 プログラムにおける電子計算機に対する指令の組合せの方法をいう。
 例示とかおおむね次のとおりとか言われてもなぁ。おまけに例示した各号の中に著作物という言葉が入っているし。まあ、法律というのは大抵こんなものだ。法制執務家は、定義項の中に被定義項が含まれて循環定義に陥ることなど考えもしないのだ。
 より実際的な手段としては著作権関係の解説サイトを見るという方法がある。たとえばネット創作トラブル対策避難所からリンクを辿ってみるとか。ただし、その先に書かれている事柄がどの程度信用できるのか、全く保証はない。といってもそれぞれのサイト管理者を疑っているわけではない。ただ、特定の立場から著作権について一定の主張をすることと、それが裁判の場で認められることとは別だということだ。
 前振りが長くなってしまったが、ここから先は付け足しだ。本題などどこにもない。
 ただ、風のために。53/9付「トリックと著作権とか」からリンクを辿って、「文芸の著作物におけるアイデアの保護」という文章を読んだ。外部へのリンクがない独立したページだがURLを削ってみるとGuardian’s webというサイトの一部らしい。トップページから当該文章に至るリンクが見つからなかったので、もしかしたら隠しページのつもりかもしれないが、特にリンクについての断り書きもないようなので、いつもの方針に従って無断リンクする。筆者はたぶん小樽商科大学知的財産権法ゼミナールの学生さんで、これは卒業論文らしい。卒業論文といえば、「サイボーグからたい焼きまで 〜現代オタクの存在論〜」というのがあった。今年は卒業論文の当たり年だ。
 さて、「文芸の著作物におけるアイデアの保護」は『占星術殺人事件』(なぜか星占術殺人事件と誤記された箇所がある)パクリ事件(こういう表現の仕方は価値判断を含むのであまり好ましくないのだが……)に触発して書かれたものである。この事件が起こったのがいつだったか、私はもう覚えていない。確か求道の果ての初期の頃にこの事件に関するコーナーを設けていて(今はもうない)某週刊誌で紹介されたことがあったはず。事件そのものは既に風化していると言っていいだろう。
 だが、この事件を本格的に著作権法に照らして考察した例はこれまでにあっただろうか? 少なくとも私は知らない。仮に前例があったとしても、私が、ミステリ小説のトリックの盗用に深い憤りを覚え、このような行為が許されるのかという疑問を持ったことが、著作権法を学ぶ動機になり、これはゼミナール所属直後から卒業論文制作に至るまで、一貫して研究テーマとなっている(序詞)と書く筆者の意気込みは評価に値するだろう。
 では、内容のほうはどうか。法律についてはずぶの素人である私には何とも判断がつかない。ただ、法律論とは別のところで「金田一少年の事件簿」は、「占星術殺人事件」の本質的特徴部分を盗用しているものであり、私見では翻案権侵害の類似性の要件を満たしていると考えられるのである(第2章)という見解には若干の疑義がある。高橋まき氏曰く作者はミステリ読みっぽいですが、ミステリの歴史にはさほど詳しくなさそう。六とんはどう評価するんだろう? 氏はエレガントに軽くほのめかしているが、私は露骨に書いておく。『占星術殺人事件』のトリックは島田荘司の創案ではない。このトリックは実際にあった紙幣変造事件がもとになっており、『占星術殺人事件』の中でも言及されている。ミステリの分野ではクレイグ・ライスの某長篇に類似したアイディアが見られるし、戦後すぐの日本作家の某短篇にもあった。あと、図形パズル(サム・ロイドの作だと記憶しているが、違っているかもしれない)で、2枚の円盤をスライドさせると、そこに描かれている人が……というものがある。
 別に私は『金田一少年の事件簿』の作者が直接参照したのが『占星術殺人事件』であることを疑っているわけではない。先行するアイディアがあろうがなかろうが『占星術殺人事件』はオリジナル作品なのだし、『金田一少年の事件簿』はパクリ作品だ、と考える。だが、この区別は難しい。非常に難しい。「文芸の著作物におけるアイデアの保護」の筆者の努力は認めるが、もう一息、という感じがしてしまうのだ。
 偉そうなことを書いてるなぁ、我ながら。
 ついでに、ミステリのトリック一般についての意見(第4章)を引いておく。ちょっと長くなるので著作権法上合法かどうか不安なのだが、元の文章には章ごとにアンカーがついていないので仕方がない、と自己弁護しておく。なお、引用文中の強調は私がやったもので、原文にはない。
 次に推理小説のトリックについて考える。本項前述の論旨によって、推理小説のトリックがそう簡単なものではないということがわかるであろう。推理小説のトリックとは、推理小説の存在価値の全てである。トリックは推理小説における根幹をなすものであるということについては、既に触れた。さらに踏み込んで、推理小説を愛好する者として言えば、推理小説のトリックは、作品全体を支配する基礎である。トリックが先に出来て、それからストーリーやプロットや表現ができるのであり、これらはトリックに従って作成されていく。一般に推理小説と縁が無い人は、トリックと言えば密室の作り方だとか電車のダイヤとかそういう小手先のものを想像されるであろう。たしかにそういう要素もあるが、それだけがトリックの要素ではない。トリックとは、例えば殺人の仕方、アイバイの作り方であるのと同時に、さらにこれらをどのような順序でどのようなヒントを提示していくかというプロットである。謎を(トリックを)作るだけでは、読者を騙すことなどできない。そんなミステリ読者は居ない。それらを分かりにくく、しかし確実にわかるヒントを秀逸なプロットで提示していくことが、ミステリ小説の根幹であるが、これらの周到なプロットは周到なトリック無しには完成されない。そういう意味でトリックが作品全体を支配していると言うのであり、作品はトリックが全てであると言う私見もここからくるのである。であるから、トリックというのは、とても、簡単な思い付きであるからとか当たり前のパブリックドメインであるからという理由で定義できるようなものではないのである。
 1つめの強調箇所だけを読めば、到底支持できない極論のように思われる。だが、2つめを読むとその印象は若干緩和される。ある種のミステリ(ここで取り上げられている作家たちの作品。ただし司馬遼太郎は除く)については、概ね妥当な意見だといえるだろう。だが、今やミステリは拡散しきっている。「本格ミステリ」という言葉ですら単一のサブジャンルを指すものとしては使いづらくなっている。『金田一少年の事件簿』がトリックををパクったら著作権侵害でも、『ルパン三世』がパクったら侵害にはならない、という考え方もできるのではないか。
 かなり長くなってしまった。
 「文芸の著作物におけるアイデアの保護」について法的観点から検討しているpresented by tatuya内の更新日記(3/4付)も興味深い。同じサイト内には、先日ニュース系サイトでよく紹介されていた「ルール無用の引用ルール」ほか面白そうな文章が多い。特に重要だと思われるのは、次の一節(更新日記(3/5付))である。
 メイドなんて飾りに過ぎません! エロい人にはそれがわからないのです!
 大切なのは翻るスカートと、翻るスカートから覗くズロースパンツと、ヴィクトリアな空気なんだよっ!

 ニセ首相官邸より、イラク問題への対応について
 いつもの事ながら、凄い。
 きっちりと論理を積み上げてゆき、その間にこっそりと伏線を張り、問題点を明示したら急転直下の意外な解決を迎える。よくできたミステリを読んでいるようだ。

1.10584(2003/03/09) ラーメン大好き国警さん

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0303a.html#p030309c

 なんとなくラーメン関係で2件リンク。

 先ほど「エンドユーザーの著作物使用から見える近代著作権法の問題点」〜利用権中心主義の提言〜presented by tatuya)を読み終えた。この論文の筆者のハンドルは「火塚たつや」氏、メールアドレスは「tatuya215@hotmail.com」、URLは「http://tatuya.niu.ne.jp/」である……と書いておけば、自由に引用できるらしいが、今日はあまり時間もないので一箇所だけメモ程度に引用しておく。
 第三章第三節 考えられるべき利益衡量(このページ上部の目次からのリンクは別ページに置かれた同じ文章に向けて張られているが、ここでは筆者のサイト内のページにリンクを張ることにした)から。

ここで、著作権者等の経済的利益のみにこだわり、著作物の消費者、特にエンドユーザーによる著作物の能動的“使用”を過剰に制限することになれば、社会の流れは再び逆行し、エンドユーザーすなわち国民は、再びマスメディア(企業)を介さねば情報を受けかつ発信することは出来なくなる。企業による著作物発表の独占およびコンテンツ・コントロールを許してはならない。これからのweb社会において、これだけは絶対に避けねばならない現象である。ここに、著作物の消費者、特に、国民の大部分であるエンドユーザーに著作物の能動的“使用”を認めなければならない理由がある。
 インターネットや同人誌による表現活動に対して批判的な人々に対して、この主張はどの程度有効か。「技術の進歩により個人の表現手段が豊かになったという事実を無批判に追認している」という批判が生じたときに、どのように対応すればいいのか。そういう問題をふと思いついた。筆者の意図とはたぶん全然別方向だが、表現や創作についての意識の世代間格差に話をもっていけるかもしれない。

 全然脈絡のないリンク2件。

1.10585(2003/03/10) 散漫

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0303a.html#p030310a

 某掲示板で私は質問した。

ちょっと質問ですが、「○○にはわからんのですよ」の元ネタは何なのでしょう?
「偉い人」か「お偉方」だと思うのですが、出典がわからんのですよ。
テレビのコマーシャルか何かでしょうか?
 すると、らじ氏が回答してくれた。
えーと、素で答えて良いものやら……
ガンダムでジオングの足が無いことに対して
偉い人の理解が得られないことに対して
「偉い人にはそれが分からんのです」
といったのが元ネタなんでしょうが、
余りに有名というか、質問はネタですか???
 それだけ。オチはない。


 昨日の文章で、『占星術殺人事件』のトリックは島田荘司の創案ではない。このトリックは実際にあった紙幣変造事件がもとになっており、『占星術殺人事件』の中でも言及されている。ミステリの分野ではクレイグ・ライスの某長篇に類似したアイディアが見られるし、戦後すぐの日本作家の某短篇にもあった。と書いたのだが、後から考えてみるとライスの長篇のネタはあまり『占星術殺人事件』とは似ていないような気がしてきたので撤回しておく。


 いきつけの書店で『蜜の森の凍える女神』(関口涙/講談社ノベルス)を買ってきた。今年に入ってからミステリをほとんど読んでいないので、そろそろリハビリをしようと思ったのだ。ちゃんと全部読み通せればいいのだけど、私は衰弱しきっている。


 知人の某氏が『月姫』をやっている。私は大好きなのだが、某氏の好みにはあわないだろう、と思っていたら、案の定長くてウンザリですと言っている。幼女が活躍しそうになくて更に輪をかけてウンザリですとも言っているが、さすがにそれは無茶だと思う。

1.10586(2003/03/10) スミルノ博士とシェパード医師と

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0303a.html#p030310b

 『占星術殺人事件』のメイントリックが変造紙幣のトリックと同じだとすれば、『盗まれた手紙』と『八墓村』も同じになってしまうのではないか、というようなことをふと思いついた。『盗まれた手紙』→『折れた剣』→『ABC殺人事件』 →『不連続殺人事件』→『八墓村』という系譜があるからといって、その両端が同じだと言い切ることはできるだろうか?
 さらに思いついたこと。ふつう『そして誰もいなくなった』と『歯と爪』と『占星術殺人事件』のトリックが同じだとは誰も言わないが、これらはすべて擬死トリックを用いているという共通点がある。「事実はAであるのに、それをBであるかのように誤認させる」という図式の「A」と「B」の両方が一致すれば同じトリックである、という見地に立てば、この三作品は同一トリック使用作品ということになりかねない。「事実はAであるのに、Cという機巧によりそれをBであるかのように誤認される」という図式を採用するべきか。
 つづく……かもしれない。