日々の憂鬱〜2003年2月上旬〜


1.10533(2003/02/02) うどんぜんざい

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0302a.html#p030202a

 昨日、「うどんぜんざい」というものを食べた。その名の通り、ぜんざいの中にうどんが入っている。なお、ここでいう「ぜんざい」は関西風のものである。関東で「田舎汁粉」と呼ばれるものと同じだと思う(参考)。
 ぜんざいには餅か白玉団子を入れるのが普通だ。私はそう認識しているのだが、もしかしたらたまたま私が知らなかっただけかもしれない。そう思って「うどんぜんざい」で検索したところ、98件ヒットした。だが、ほとんどは「うどん」と「ぜんざい」が別々に出てくるページだった。
 うどんぜんざいは☆庶民グルメ研究室☆/伊勢編というページで紹介されている。その左下の写真の手前の建物が小俣六軒茶屋「益屋本店」で、私がうどんぜんざいを食べたのもその店だった。たぶん、うどんぜんざいは益屋本店のオリジナルメニューなのだろう。ちなみに、同じ写真の奥に写っているのは、株式会社マスヤの工場である。マスヤといえば「おにぎりせんべい」が非常に有名だ……と思っていたのだが、おにぎりせんべいの分布は西日本に偏っているので、東日本の人はあまり知らないかもしれない。
 マスヤのウェブサイトを見ても、商品Q&Aのページおにぎりせんべいは、赤福餅の残りでつくっているとの「うわさ」は本当ですか?という妙な質問が載っていて笑えた(と書いてみたが、もしかすると東日本の人は赤福餅のことも知らないかもしれない。こちらを参照されたい)ものの、肝心のうどんぜんざいに関する情報はなかったので、いったい誰がいつ頃どういうきっかけで発明したものなのかはわからなかった。また、益屋本店以外にもうどんぜんざいを出す店があるのかどうかも不明だ。ご存じの方はぜひご教示いただきたい。

1.10534(2003/02/02) 70000ヒット突破記念企画

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0302a.html#p030202b

 気がついたら、70000ヒットを突破していた。60000ヒットを達成したのは去年の大晦日だったので、一日あたり平均300ヒット程度だ。
 この機会に記念企画でもやればいいのだろうが、50000ヒットのときにも60000ヒットの時にもやらなかったのに今回だけやるというのも変だ。この調子でいけばゴールデンウィーク前後に100000ヒットに達するだろうから、記念企画はその時にやることにして、今回はここ(締切は2/9)にリンクするだけにとどめておく。

 週末に「渡世の義理」で温泉地へ一泊旅行に出かけた(うどんぜんざいを食べたのは、義理を途中で投げ出して逃亡した先でのこと)。同行した人々は酒を飲んで楽しく騒いでいたが、私は酒が飲めないし他の人々と全然話が合わないので、一人で別室に籠もって本を読んだ。『戦争倫理学』(加藤尚武/ちくま新書)だ。隣の部屋からは歓声が漏れ聞こえてきて、なんだか妙な気分だった。
 私はディズニーシーで『社会的ひきこもり』(斎藤環/PHP新書)を読み、阪神競馬場で『江戸川乱歩傑作選』(新潮文庫)を読んだことがある。どちらも場違いといえば場違いなのだが、読書というのは場所を選ばないのだ、と割り切って考えることにしている。問題は、集団行動に馴染めずひきこもりがちになる私の協調性のなさのほうで。
 さて、『戦争倫理学』は非常にわかりやすく面白い本だった。この本を手に取るまで「戦争倫理学」という学問領域があることを知らなかったのだが、私のような無知な読者でもわかるように、明晰に論述されている。まえがきから少し引用してみよう。

 戦争について意見をもち、討論をし、合意を作り出す上で、どうしても知っておく必要のある基本的な論点(argument)を、しっかりと集約して示しておきたいと思う。
「戦争はきらいだ、自分はどんな力の行使にも反対だ」という人に対しては、「目の前であなたの友人が外国の工作員によって、誘拐されようとしているとき、あなたは実力で救いだしてはならないと考えていますか」と問いかけなくてはならない。「自分は戦争をやりたいと思う。略奪も強姦も虐殺もあらゆる暴力が承認された状態が戦争であって、戦時の人権侵害を禁止すべきではない。それは人間の根源的な暴力性の開放の祝祭である」とうそぶく人がいたら、「あらゆる犯罪を許容することと、どこが違うのか」と問いかけなくてはならない。そういう一見無駄で、ばかばかしくて、白々しいような応答の訓練をし、準備をしておかなくてはならない。
 (略)
 私の立場に賛同できない人も、私のこの本に出されている論点に照らして、自分の立場を説得力の強いものに作りかえてほしいと思う。
 本文では、その基本的な論点を要領よくまとめて提示している。欲をいえば、論点ごとにもう少し深く掘り下げて論じてほしかったし、個別の論点の結合によりどのような体系が構築可能なのかということも示してほしかった。だが、それはないものねだりというものかもしれない。この本は、受身の立場で読むだけで実り豊かな知識が得られるような、そんな本ではない。読者に知的緊張を強い、読者自身が自分で考えるように促す本なのだから。一見無駄で、ばかばかしくて、白々しいような応答を自分でシミュレートしてみる気のない人――自分の立場からしか物事を考えようとしない人や、自分の立場と異なる考えをもつ人々の主張をはなから無視する人――にとっては無用の長物だろう。そのような人にとっては、この本は「わかりきった事」か「てんで話にならない事」しか書いていないと思われるだろうから。
 そういうわけで、この本は、議論(argument)に結論と同じくらい(あるいはそれ以上に)価値があることもあると考える人々にのみお薦めしたい。

 去年の暮れに出てあちこちで話題になっていた『フレドリック・ブラウンは二度死ぬ』(坂田靖子・橋本多佳子・波津彬子/講談社漫画文庫)を読んだ。1983年に「DUO」に掲載されたものだそうだから、今から20年前の作品だ。むかしむかし、元版の単行本を書店でみかけて立ち読みした(当時はまだマンガ単行本にビニールカバーをつけている店はほとんどなかった)記憶がある。本を買わなかったのは、原作小説はほとんど読んでいて絵だけのために金を払うのが惜しかったからだろう。ブラウンは星新一とともに中学・高校時代の私のお気に入り作家だった。『フレドリック・ブラウン傑作集』(星新一(訳)/サンリオSF文庫)は今でも私の宝物だ。
 このたび再読してみて思ったこと。やっぱり『ミミズ天使』はいいなぁ! ミッシング・リンクテーマの傑作で、ご多分に漏れず事物そのものではなく、それを指し示す言葉のほうに関連があるというアイディアなのだが、そこからこんな妙な世界を作り上げてしまうのはブラウンならでは。
 ああ、原作のほうも読み返したくなってきた。

1.10535(2003/02/03) 明日に別れの節分を

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0302a.html#p030203a

 「死の節分」というのも考えたのだが……『死の拙文』という前例があるのでやめた。

 「読無字書弾無絃琴」2/2付「〈クローズアップ現代〉続き」経由でNHK「クローズアップ現代」が放送した「ベストセラーをめぐる攻防作家vs図書館」 に対する町田市立図書館の見解(1/27付)を読んだ。私もG.C.W.氏と同じく一読して納得のいく箇所と納得できない箇所があると感じた。ツッコミどころは多いが、一つだけ挙げるなら番組の中では、ナレーターが「上・下巻合わせて100冊購入」と言ってましたが、聞きようによっては、同じ本を100冊購入していると誤解されかねない表現です。という一文。よほどぼんやりした人でない限り、合わせて100冊同じ本を100冊と誤解することはないと思うのだが。
 いや、もしかしたらナレーターの発音が悪くて「合わせて」を「ともに」と聞き間違える視聴者がいたのかもしれない。私は「クローズアップ現代」のこの回を見ていないので、何とも言えないが。ともあれ「上巻なんと50冊、下巻もさらに50冊、50と50で合わせて100冊」とでも言っておけば誤解を招くことはなかっただろう。
 先ほどツッコミどころを一つだけ挙げると書いたが、そんなことはもう忘れたのでもう一つ。図書館で借りられるからこそ読んでみるという利用者はとても多いのです。また、図書館で読んでみてから購入するかどうかを決めるという利用者もいます。つまり、本当に手元に置いておきたい本なら、図書館があってもなくても市民は自分で購入するのです。という箇所も引っかかる。手元に置いておく必要はないが、とりあえず一度は読んでみたい本があって、別に自分で買ってもいいのだが図書館で借りられるのならなるべくそれで済ませたい、という利用者のことがすっぽりと抜け落ちている。そのような利用者はごくわずかである(または、全くいない)という根拠を出せるのでなければ、図書館が積極的に本を貸し出すことによって、活字に親しむ層が増え、結果的に本が売れるようになるということはあり得ても、図書館が本の貸し出しを規制すれば本が売れるようになるなどというのは、まったくの幻想にすぎません。と断言することはできないだろう。
 図書館が本の貸し出しを規制すれば、本の売り上げは増えるのか、変わらないのか、それとも逆に減ってしまうのか。試しに地域限定で貸出制限を行い、その地域の本の売上高の変化を他地域と比較することは可能かもしれない。だが、活字に親しむ層の長期的な増減を予測するのはほとんど不可能に近い。検証しようのない空虚な議論を振りかざしても仕方がない。私が図書館の担当者なら以下のように議論するだろう。

  1. 公共図書館は一般市民に対するサービスの量や質において責任を負うものであり、本来、出版業界に対して責任を負うものではない
  2. 従って、仮に公共図書館のせいで出版不況が発生しているのだとしても、そんなことは知ったことではない。
  3. ただし、出版業界の自助努力によって事態が好転せず、どんどん出版社がつぶれるという状況になれば、図書館の本務である住民サービスを円滑に果たせなくなるおそれがあるので、何らかの配慮を行うことはあり得る。
  4. たとえば、同じ本を複数購入することで、本の売り上げ向上に寄与してやってもよい。
  5. 各出版社は図書館の温情に感謝し、良書づくりに励むように。
  6. また、本の著者は、読者からのファンレターに「先生の本を図書館で借りて読みました」と書いてあったら、そのファンレターを神棚に供えて「ああ、こうやって地道に図書館で本を借りて読んでくれる読者がいてくれるおかげで、次の本も図書館に置いてもらえるのだ。ありがたや、ありがたや」と拝むように。神棚がなければ仏壇でも可。
 この議論は、図書館の貸出至上主義と出版不況の間の因果関係の有無にかかわらず成立するので、余計な挙証責任を抱え込む心配がない。完璧だ。

 『街の灯』(北村薫/文藝春秋)を買ってきた。読むのはいつになることやら。

1.10536(2003/02/04) 引用の多い図書館の話

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0302a.html#p030204a

 昨日に引き続いてNHK「クローズアップ現代」が放送した「ベストセラーをめぐる攻防作家vs図書館」 に対する町田市立図書館の見解(1/27付)について。二日続けて取り上げるほどの話題でもないと思うのだが、ほかにネタがないのだから仕方がない。
 [公立図書館を無料で利用できるのは、市民の権利です]と題された一節を読んで私は疑問を感じた。確かに公立図書館の利用は無料だが、それは市民の権利に基づくものだろうか、と。その節では図書館法(昭和二十五年四月三十日法律第百十八号)第2条の一部を引用して、次のように主張している。

 図書館法第2条は、図書館の目的を「図書、記録その他必要な資料を収集し、整理し、保存して一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資すること」と規定しています。小説や趣味に役立つ本、生活に必要な資料・情報を利用者の権利として、無料で手に入れることができるのが公立図書館なのです。
 図書館法第2条の全文は次のとおり。
(定義)
第二条  この法律において「図書館」とは、図書、記録その他必要な資料を収集し、整理し、保存して、一般公衆の利用に供し、その教養、調査研究、レクリエーション等に資することを目的とする施設で、地方公共団体、日本赤十字社又は民法 (明治二十九年法律第八十九号)第三十四条 の法人が設置するもの(学校に附属する図書館又は図書室を除く。)をいう。
 2  前項の図書館のうち、地方公共団体の設置する図書館を公立図書館といい、日本赤十字社又は民法第三十四条 の法人の設置する図書館を私立図書館という。
 並べてみると、微妙にニュアンスのズレがあることがわかる。図書館法第2条を素直に読めば、図書館の目的を規定しているのではなく、この法律の及ぶ範囲を規定しているに過ぎない。図書館の為すべき事柄を規定しているのは、次の第3条のほうである。
(図書館奉仕)
第三条  図書館は、図書館奉仕のため、土地の事情及び一般公衆の希望にそい、更に学校教育を援助し得るように留意し、おおむね左の各号に掲げる事項の実施に努めなければならない。
 一  郷土資料、地方行政資料、美術品、レコード、フイルムの収集にも十分留意して、図書、記録、視覚聴覚教育の資料その他必要な資料(以下「図書館資料」という。)を収集し、一般公衆の利用に供すること。
 二  図書館資料の分類排列を適切にし、及びその目録を整備すること。
 三  図書館の職員が図書館資料について十分な知識を持ち、その利用のための相談に応ずるようにすること。
 四  他の図書館、国立国会図書館、地方公共団体の議会に附置する図書室及び学校に附属する図書館又は図書室と緊密に連絡し、協力し、図書館資料の相互貸借を行うこと。
 五  分館、閲覧所、配本所等を設置し、及び自動車文庫、貸出文庫の巡回を行うこと。
 六  読書会、研究会、鑑賞会、映写会、資料展示会等を主催し、及びその奨励を行うこと。
 七  時事に関する情報及び参考資料を紹介し、及び提供すること。
 八  学校、博物館、公民館、研究所等と緊密に連絡し、協力すること。
 いちおう一般公衆の希望にそいとか一般公衆の利用に供するという文言は入っているが、第2条のレクリエーション等に資するに類する文言はどこにもない。小説や趣味に役立つ本を置くことを禁じてるわけではないが、教育・研究方面寄りの硬い条文だ。第2条から受ける図書館のイメージと第3条から受けるイメージはかなり違う。どちらのイメージを優先するかによって、あるべき図書館像も違ってくるわけで、これが図書館を巡る一連の問題の一つの要因になっているのではないかと思う。
 さて、図書館の入館料等について規定しているのは第17条と第28条である。
(入館料等)
第十七条  公立図書館は、入館料その他図書館資料の利用に対するいかなる対価をも徴収してはならない。

(入館料等)
第二十八条  私立図書館は、入館料その他図書館資料の利用に対する対価を徴収することができる。
 ついでに、兄弟法ともいえる博物館法(昭和二十六年十二月一日法律第二百八十五号)から、図書館法第17条に対応する条文を引用しておこう(第28条に対応する条文はない)。
(入館料等)
第二十三条  公立博物館は、入館料その他博物館資料の利用に対する対価を徴収してはならない。但し、博物館の維持運営のためにやむを得ない事情のある場合は、必要な対価を徴収することができる。
 図書館法第17条は、小説や趣味に役立つ本、生活に必要な資料・情報を利用者の権利として、無料で手に入れることができることを定めたものなのか。権利と義務は表裏一体だから、一方に義務(禁止も義務のうち、と考える)があるならば他方には当然に権利が生じていると考えることもできる。だが、私にはたまたま公立図書館が図書館資料の利用に対する対価の徴収を禁じられているため、結果として利用者は図書館を無料で使用できるという事実が生じているだけで、利用者に権利があるとまでは言えないように思う。
 とはいえ、私は図書館法の専門家ではない(そもそも法律の知識はほとんどない)ので、この解釈は間違っているかもしれないし、幸いにも私の解釈が正しいとして、それがどのような法的帰結を生むのかはよくわからない。ただ、図書館が自らの行為を正当化する(「正当化」という言葉には「本当は正当ではないものをごまかして正当であるかのように見せかける」という含みがあるので、あまり使いたくないのだが仕方がない。ここでは、そのような含みはないものとして理解していただきたい)場で利用者の権利に訴えるのはいかがなものか、と思うのだ。
 ……どうもうまくまとまらない。私は一体何を言いたいのか。もう少し続けよう。
 権利に基づく議論は――その権利の根拠を問わない限り――非常にすっきりとしたものになるという利点をもつ。だが、図書館問題では、すっきりとした議論ではなく、ごたごたとした、あるいは細々とした議論の積み重ねを通じて、徐々に靄を払い対立する意見の調和を図るべきではないか。図書館は社会教育の重要性と住民福祉の理念についてさまざまな論点を総動員して自己正当化(「正当化」の用法は上と同じ)を図り、出版業界は業界の発展こそが社会教育の充実と住民福祉の発展に役立つのだと説く。その過程で今までの図書館のあり方と出版業界のあり方の両方が問い直されることになるだろう。それでこそ議論をした甲斐があるというものだ。
 ……いや、どうも話がずれてしまっている。私が引っかかったのは、そういうことではない。
 利用者の要求に応え、複本も用意するのは、図書館として当然の使命ですとか、公立図書館を無料で利用できるのは、市民の権利ですとか、町田市立図書館は、利用者とともに歩みたいと考えていますという主張は利用者にとっては心地よいものだ。言葉は悪いが、住民に媚びているような印象すら受ける。本と読書に関わる文化について、図書館がどのような理念を持って活動しているかが見えてこず、ただ現に住民が持っている欲求の充足を最優先にしているかのように感じられる。現状は必ずしもそうではないのだろうが。
 ……ここまで書いて、ある重要なことに気づいた。我ながら迂闊だった。
 「クローズアップ現代」で図書館問題を取り上げたのは11月で、町田市立図書館が見解を発表したのは12月だ。この時期は次年度の予算編成の大詰めの時期である。番組では出版業界と図書館を対立項として紹介したようだが、公立図書館が直接対峙しているのは出版社ではなく、財政当局であり議会である。予算編成期に図書館にとっては不本意な番組が天下のNHKで放送されたということは、来年度の資料購入費の大幅削減の危機を意味する。地道に、気長に議論を積み重ねる余裕はない。市民にとって心地よい主張をベースに簡明にまとめ上げ、図書館に向けられた批判的なまなざしを少しでも緩和しなければならないのだ。本当に実りある議論を行うのはその後でも遅くはない。マスコミが作り上げた厄介なイメージを振り払うのが先だ。
 そう考えてもう一度件の文章を読み返してみると、ようやく納得できた。私が担当者だったとしても同じように書いただろう。これほどうまくは書けないが。説明すべき点はちゃんと説明しているし、事実をねじ曲げたり虚偽の記述をしたりしているわけではない。力点の置き方に工夫を凝らし、一般市民にわかりやすくしたために、かえって私のようなずれた読者にはひっかかる文章になってしまっているが、その事でこの文章の筆者を責めるのは酷というものだろう。
 すっきりしたところで、昨日の文章について、某氏から頂いたメールから抜粋して紹介する。部分的に語句を変えた箇所があるが、文意は元のままだ。
滅・こぉるさんはジョークのつもりで言ったのかもしれませんが、
「次の本も図書館に置いてもらえるのだ。ありがたや、ありがたや」
……案外、出版社はこんな計算をしています。
専門書と一般書の中間領域にあるような私の本の場合もそうでした。
担当編集と企画を検討している段階で、
「各地の図書館に置いてもらえるような工夫をして欲しい」
「上司を納得させるために、企画書にもその辺りを書いて欲しい」
と言われました。

「ホンマかいな?」と発刊後、いろんな図書館の検索エンジンをかけてみたら、案外、いろんなところで置いてくれているんですね。
この量が案外バカにならない。
特に、シリーズ化されているレーベルの場合、一度図書館で購入して頂いたら、継続して買い続けていくってケースが多い。
まさに、「ありがたや、ありがたや」ってところです。

ただ、著者としては微妙な気持ちもあります。
先日、水軒取材の絡みで和歌山県立図書館に行ったら、私の本が1冊ずつ(あんなに和歌山のことを書いたのに1冊だけか!)蔵書となっていました。
ただ、「貸出中」になっているのをみると、どうせなら買ってくれよ……と思ってしまうのですね。
いやあ、「ありがたや、ありがたや」と図書館側に拝まなけけばいけないんですけど……
 文中の「水軒」についてはこちらを参照のこと。あまり参考にならないかもしれないけれど。

1.10537(2003/02/05) Daseinはここにいるよ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0302a.html#p030205a

 昨日の反動で気合いが出ない。う〜ん。

 第弐齋藤 | 土踏まず日記2/5付)経由で「サイボーグからたい焼きまで 〜現代オタクの存在論〜」(2/6に削除された)Sturm Neu)を読んだ。
 ……。  えっと、この人本当に哲学科の学生さん?
 内容についての批判、苦情、ツッコミ等は受け付けません。もう提出しちゃったし。それと、もし哲学科の学生がこれを読んでいても、何も文句は言わないように。と予防線を張っている(ここの2/3付の記事(これも削除されている))ので、哲学科の学生ですらない私は何も言わずに笑って見逃すべきなのだろう。でも、哲学知識の間違いは笑って許せても、たかだかハイデガーごときのために『Kanon』の根幹に関わる要素の解釈を歪めてしまっているのはちょっといただけない。いや、私は鍵っ子ではないので、別にどうでもいいといえばいいんだけど。

 ……なんだか嫌みな書き方になってしまった。やっぱり今日は調子が悪い。今日も、と言うべきかもしれないけれど。

1.10538(2003/02/06) 私は直にリンクする

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0302a.html#p030206a

 今日、書店で『リアル鬼ごっこ』(山田悠介/文芸社)が山積みになっているのを見かけた。
 にははっ、ぶいっ林田日記で言及されている(2/5)のはシンクロニシティだろうか、それともしんかなシティだろうか。たぶんどちらでもないだろう。
 著者のサイトをざっと見たが、ノーコメント。
 私は年老いてしまった。

 昨日言及した「サイボーグからたい焼きまで 〜現代オタクの存在論〜」が今日はもう削除されている。ウェブの世界は移ろいやすい。
 哲学の話といえば、最近私が注目しているのはここここ

1.10539(2003/02/07) リンクと引用とメモと雑感

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0302a.html#p030207a

 「ただ、風のために。5」2/5付「断章」から。

本が売れなくなると図書館を攻撃する作家と、 CDが売れなくなるとCCCDを導入する企業はどこか似ている。
 作家が図書館を攻撃しようがしまいが、図書館が本を貸し出すことは合法である。レコード会社がCCCDを導入しようがしまいが、自分が所有しない音楽CDをコピーすることは違法である。似た現象なのに法的な扱いが逆になるのは興味深い。


 同じく「断章」から。

商業小説家の適切な数とはどのくらいか。言いかえれば、毎年何人の商業小説家を新しく登場させ、何人の商業小説家を失業させるべきなのか。あるいは、失業させなくてもバランスするのだろうか。とてもそうは思えないが。
 これに関連して、ヘイ・ブルドッグ2/5付「仮装日記」から。
俺の感想は、やはり出版という産業に今まで通りの形でぶらさがっている人間が多くなりすぎてるんで、構造のリストラクション(再構築)が必要かな、というようなところ。読者(顧客)がいて、商売として成り立っているんだったら、別に出版社も書店もリサイクル販売・レンタル商売やればいいと思うんですが、いろいろオトナの事情があって難しいんでしょうね。
 さらに「Takahashi's Web -diary-」2/1付「対価」から。
そもそも、創作って代価を求めてやるものなのでしょうか?
他の人は知らないけど、僕にとってお金とは、第一に次の創作のための、第二に創作以外の仕事をしなくてすむようにするためのものです。
ないと困るお金を捻出するのに苦労しているだけであって、それは目的ではない。


 黎明が閉鎖した。


 バーチャルネットアイドルユニット「テキッ娘。」WHAT×WHAT −【ほわほわ】内のテキッ娘。二次創作コンテンツ【テキッ娘★アンダーコンストラクション】を読む。「鰤腐」を出した段階で、既に二次創作ではなくなっているような気がする。


 白黒学派(2/6付)から。

実は「ゲーデル的問題」や「クラインの壺」や「自己言及性」や「意味地平」という言葉をそのまま人づて程度の意味で使うことに強く反論する気はないけれども、どこかぎこちない違和感を感じます。前後関係から考えてその言葉を提示するべき適切な言葉なのか、それともその言葉の背後にある何かしらの重みだけがたまたまほしいから使っているのか。その齟齬が気になるのだと思います。
 細かな言い回しを別にすれば、概ね賛成できる意見だ。だが、続く段落で「自己言及」とは哲学的領域でいう「反省」という長年思索され続けてきたものと同じだと思えると書かれているのを読んで、ちょっと首をひねった。「この文は漢字11字とひらがな17字とカタカナ8字とアラビア数字6字から構成されている」という文は自己言及的ではあるが、反省的ではないだろう。


 砂色の世界2/6付の日記答えを聞いて納得できる疑問と言う物は実は理論上自力で解けるはずだという前提から我々は実は疑問と言う物を抱く必要性がゼロと言うことになると結論づけ、我々は、何故疑問を抱くのだろうかと問うている。
 1/15付の日記の末尾では一部議論が怪しいと書かれていたのに、いつの間にか解けない疑問はない,と言うことの証明になってしまっていて驚いた。
 私見ではこの証明には二つの難点がある。だが真に驚くべきその難点を解説するにはこの余白は狭すぎる……ということはないのだが、何となく今日はあまり長い文章を書きたくない気分なのでやめておく。

1.10540(2003/02/09) 問いと答え

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0302a.html#p030209a

 反省と自己言及の関係は疑問と質問の関係に似ている。疑問はの中で生じ、質問は言葉で発せられる。両者が同じものだと主張するなら、まず心と言葉が同じものであると主張する必要があるだろう。実際、そういう主張を耳にしたことはあるが、私には納得できなかった。
 では、同じことというのを少しゆるめてみてはどうか。意識の体系の中で反省が占める位置は、言語の体系の中で自己言及が占める位置に相当すると。だが、それでもまだ納得できない。再び疑問と質問のたとえを持ち出そう。すべての疑問は(もし首尾良く言語化できるなら)質問の形で表明することができる。しかし、すべての質問は、その質問内容についての疑問から生じたものではない。たとえば教師が生徒に質問する場合など。同様に反省と自己言及の間にも完全な対応を求めることはできない。一昨日「この文は漢字11字とひらがな17字とカタカナ8字とアラビア数字6字から構成されている」は、典型的な自己言及文であるにもかかわらず意識のうちにこれに相当する反省を見出すことはできないという例である。


 一昨日の文章はなるべく短くしようとしたため、説明不足が目立つ。たとえば。「鰤腐」を出した段階で、既に二次創作ではなくなっているような気がする。という一文は非難ではなくて賞賛のつもりだったのだが、そんな事が相手に通じるわけもなくまことにその通りですごめんなさいごめんなさい。と謝られてしまい、恐縮するばかり。


 砂色の世界・日記2/7付で

>1/15付けの日記の末尾では一部議論が怪しいと書かれていたのに、いつの間にか解けない疑問はない,と言うことの証明になってしまっていて驚いた。

とのことですが,これは”一部議論が怪しい”と書いたために“証明”と言う言葉を使うのはおかしい,と言う意味なのでしょうか。私のあの日記の「中身」のせいではなくて。
と書かれている。私が言いたかったのは、議論と言う言葉と証明と言う言葉は共存できないということではなくて、まだこれから煮詰めていかなければならない事柄を既に証明済みのことであるかのように取り扱い、議論を先へと進めてしまうのはどうか、ということである。怪しい議論は証明としての価値をもたないだろう。
 さて、この議論について砂雪氏が自分で挙げた難点は、
  1. ある問題、または疑問が「解けないモノ」であると証明するのは可能であるか否か
  2. 抱いた時点で答えが解けている筈の疑問は疑問と呼べるのか
  3. 「解けない」疑問は疑問ではないのか
の3つである。私の考えは下記のとおり。
  1. 証明可能性または証明不可能性の証明がまだ得られていないので、現段階では何とも言えない。
  2. そう呼んで差し支えない。
  3. やはり疑問である。
 砂雪氏の考察は「疑問」という語の適用可能性の限界に関わるもので、これはこれで興味深い(少なくとも私にとっては)のだが、私が思いついた難点はそのようなレベルのものではない。砂雪氏の1/15付の日記から引用しながら、説明することにしよう。少々長くなるがご容赦いただきたい。
 まず一つめ。
何故なら,ある疑問に対する説明をされることでその疑問が氷解する場合,我々は少なくともその説明に使われる論理を理解していなければならない。話しを数学にすれば非常にわかりやすい。例えば3次関数の最小点を求める場合,我々は微分と言うものについての理解をしていなければならないし,文字式と言うものの理解もしていなければならない。もし,我々が微分と言う物を理解する以前にそんな存在すら知らなかったとしたら,例え解答を見た所でその問題についての理解は不可能である。と,言うことは疑問は氷解されないのである。が、反対に、その問題を解くに当たって必要な知識があれば、我々は東大の入試問題に対してすら,解説を見れば理解が可能なのである。つまり,解説を見て理解が可能であれば,我々は必ずその問題を解決するのに必要な道具を手の中にもっていると言うことなのだ。ある問題を解くのに必要な道具が手の中になければ,解説を見たところで絶対に理解は不可能なはずだからである。

と,すると,以上のことより,何故?,と問いかけた後に説明をされて納得するような疑問は,そもそも自力で解ける筈なのである。
 この議論には大きな飛躍がある。ある問題の解説を見て理解できるために必要な知識と、その問題を自力で解くために必要な知識は一部分は重なるだろうが、完全に一致するかどうかは定かではない。おそらく数学以外の分野では、一致することはほとんどないだろう。
 私は以前「パンダの尻尾の色は白か黒か?」という素朴な疑問を抱いたことがある。この時、私はパンダという動物種についてある程度の知識を持っており、その中には、全身が概ね白と黒の二色であるという知識も含まれていた。ついでにいえば、白と黒というのはどういう色であるかということについての知識も当然ながら持っていた。だが、パンダの尻尾の色に関する知識は欠けていたのである。
 この時の私の手持ちの知識は、この問いへの答えを与えられたときにそれを理解するために必要不可欠なものばかりである。パンダのことを知らないなら、パンダの尻尾の色についての説明を受けても、それが何の尻尾についての解説であるのか、理解できないだろう。
 では、私の手持ちの知識から自力でパンダの尻尾の色を知ることは可能だろうか? それは「自力で」の意味による。私は自力で上野動物園に行き、自力でパンダの姿を観察し、その尻尾の色が白であることを知った。だが、そのように述べることは「私は自力で問題集の解答を読んだ」と述べることに似ている。今話題となっている文脈では「自力で」は「自らの思考のみにより」という意味だろう。その意味では、私は自力でパンダの尻尾の色を知ったのではない。
 私は上野動物園のパンダの尻尾を見た瞬間に、先の私の疑問に対する答えを得た。私の疑問は氷解した。もし私がパンダがどういう動物か知らなかったなら、現物を目の前にしてもそれがパンダであるかどうかが解らないため、疑問は消え去りはしなかっただろう。この問題を解くためにはパンダについてある程度の知識を予めもっていることは絶対に必要である。だが、そのような知識を持っているだけで、答えを得るのに十分だというわけではない。疑問が氷解するためには、さらに経験を積む必要があった。
 経験的事物に直接関わりがない(かどうかは議論の的だが、ひとまずそういうことにしておく)数学の場合はどうか。問題を構成する諸概念やそれらの概念どうしを結びつける体系を予め知っているならば、その上に何ら経験を経ることなく、ただ自らの思考のみにより当該の問題の答えを知ることになるのではないか。もしそうだとすると、問題が与えられたとき以降に与えられた知識は何もないのだから、問題を理解した時に既に答えは手のうちにあったということではないか……。
 そのように考える人なら誰でも
もし,我々が純粋に必ず解きたいと願う疑問を抱いた時,我々は自分の納得いく答えを聞く,又は考え付くまでは決してその疑問の解決を諦めないだろう。だが、もしその疑問に対して生きているうちに答えを知ることができれば、我々は実はその疑問を解決する道具をすでに手のうちに持っていたわけであり、われわれは「本当は」その答えを知っていたはずなのである。何故なら,思考と言うモノが手のうちの道具を用いた合理的論理的、または演繹的な物である以上,「道具を持っている時点で答えは決定している」はずだからである。つまり、3+4−2*6と言う数式は、計算式という道具の集まりであるが、四則演算が必ず決まった計算を行う以上,この数式はそこにある時点で答えもすでにあるはずなのである。さらに,例えばこの数式の答えを知りたがることが「疑問」であるとすれば,その疑問に答えるにはこの数式の中の一つも絶対に欠けてはならない。数式が一つでも欠ければ,我々はその「疑問」に対し答えを出すことはできない.これは当然のことである。

と、いうことは、この、数式を手元に揃えその数式の導き出す答えを聞くことを「疑問」と定義付けるならば,正確な手順を踏んで成り立った疑問は必ず解くことが可能なのである。と,言うことは,我々が「当然の帰結として」、「疑問」と思うことのすべてにおいて実は我々はすでに解答を得ているのである。
を容易に理解できることだろう。だが、ここから我々にとって解けない「疑問」と言う物はないことになると主張するなら(実際、そのような議論の流れになっているのだが)ここにはもう一つの飛躍があると言わなくてはならない。それは、(この文脈での)「解答を得ている」ということと、問題が解けて答えを知るということの同一視である。両者が別の事柄だとするなら(実際、私はそう考えているのだが)我々は疑問を持つ必要がないとか答えがあればすでに私はそれが解けているとは言えない筈だ。これが私が気づいた二つめの難点である。
 囲碁のルールと19路盤が与えられれば、その盤面で展開されるすべての対局の可能性は既に確定している。よって我々は「神の一手」を既に得ていることになるが、今のところ誰も答えを知らない。棋士は経験を積み重ねることによって「神の一手」に到達しようと努力しているが、自らの思考のみにより「神の一手」を目指すことも可能だろう。しかし、その試みは決して成就しない。可能な対局のパターンはおよそ361!通りあるからだ(竹本健治の『囲碁殺人事件』のあとがきを参照のこと)。すべての放射性物質が鉛となり、進化した蕪が地上の支配者になる時代が到来しても、「神の一手」に到達できないだろう。
 答えを得ている筈なのに知らない。これは非常に奇妙なことのように思われる。他方、答えを知っている筈なのに思い出せない、というのはよくある事で、誰も奇妙なことだとは思わない。
 私は6の次の完全数が何であるかを知っている筈なのだが、今とっさに思い出せない。確か20〜30の間にあった筈だ。そこで計算をしてみる。ある数が完全数かどうかをテストする方法すら忘れてしまったらできないことだけど、幸い私はそこまで物忘れがひどいわけではない。計算の結果28が完全数であることが判明する。その答えは、計算する前に確定していたもので、私が既に得ていたものだ。
 数学上の知識(必ずしもそれだけに限られるわけではないが)の獲得プロセスの特殊性に着目し、それを「忘れていることを思い出すこと」になぞらえたのはプラトン(が描くところのソクラテス)だった。いわゆる「想起説」である。天上界にいるときに知っていた事柄を人は忘れて地上に生まれてくる、という法外な考えだ。そのプラトンでさえも我々は疑問を持つ必要がないなどとは言わなかった。
 出発点に戻ろう。
疑問と言うのはわからないことである。わからないから問いかけるのであり,わからないからわからないのである。わかる物をわざわざ問いかけはしないし,もし問いかけたとしてもそれは純粋なる問いかけではない。しかし,説明を受けるとそのわからない物がわかるようになってしまう。それはおかしくはないだろうか。
 素朴な形で示されたこの問いは、"わかる"とか"知っている"とか"理解する"ということが、本当のところはどういうことなのかという疑問からなる。不思議だ。非常に不思議なことだ。この"不思議さ"の実感をもとにしてどのように思考を展開していけるのか。私はその事に興味を抱いている。
 いや、本当は自分で考えればいいのだが……私はもうとしを取りすぎた。


 なんというか、一般読者を置いてけぼりにしているような気がする。でもここまで書いたのだから、勢いに任せてこのまま押し切ってしまうことにしよう。
 土踏まず日記(2/5付)で引用された「読書猿第115号」の文章は、さらにSHADOW Ver.6.1(2/9付)でも再引用されていて、とぢらでも好意的なコメントが付されている。しかし私には、「哲学的な問い」の内容は、誰もが発することができるし、また時々に発している問いでしかない。とは思わない。確かにそのような問いも中にはあるだろう。だが、そのような問いが「哲学的な問い」のすべてではない。説明を受けるとそのわからない物がわかるようになってしまう。それはおかしくはないだろうか。などという問いを発するのはごく一部の人々(少なくとも私は自力でこの問いを発することはできなかった)だろうし、多くの人々はいったい何が問題になっているのか、どこがどう不思議なのか、ということを理解するのに苦しむだろう。
 「哲学的な言い回し」や「言語資産」は少し努力すれば誰でも獲得できる。なんなら国語辞典を引いてもよい。だが「哲学的な問い」はそういう仕方で獲得することはできない。
 ……と、偉そうなことを書いてはみたが、いったい何の書評なのかわからない(読書猿のサイトには109号までしかアップされていない)ので、これ以上の追究はやめておく。私が何となくイメージしているのと全然違う文脈で語られた言葉だったりすると、大恥をかいてしまいそうだから。

1.10541(2003/02/09) ヤプーの王国

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0302a.html#p030209b

 何となく雑文が書きたくなった。昨日、久しぶりに大阪へ行って、いろいろなものを買ってきたので、その事でも書くことにしよう。

  1. 『完全版・野望の王国』(6)(雁屋哲(原作)/由紀賢二(劇画)/日本文芸社)
  2. 『モトメルオトメ』(琴の若子/大都社)
  3. 『モエかん』(ケロQ)
  4. 『ルネサンスへの旅』(新星堂)
  5. 『スカルラッティ/エィヴィソン編曲:12の合奏協奏曲集<スカルラッティ:ソナタに基づく>』(コンバッティメント・コンソーム・アムステルダム/ヤン・ヴィレム・デ・フリエンド(音楽監督/ソロ・ヴァイオリン)/オクタヴィア・レコード)
  6. 『クラヴィオルガン作品集』(クラウディオ・ブリツィ(クラヴィオルガン)/カメラータ・トウキョウ)
  7. 『ポパーとウィトゲンシュタインとのあいだで交わされた世上名高い一○分間の大激論の謎』(デヴィッド・エドモンズ,ジョン・エーディナウ/二木麻里(訳)/筑摩書房)
 1と2は喜久屋書店阿倍野店で買った。関西最大のコミック専門店だそうだ。
 1は先月下旬に出た本だが、近所の本屋では買えなかった。全9巻なので、残り3冊だ。頑張って「野望の箱」を手に入れるのだ。
 2はつい先日出たばかりの本。たぶん近所の本屋でも売っているだろうが、別に買い控える必要もないので一緒に買った。なぜだか知らないが、私は琴の若子の単行本をほぼ全部買っている。買わなかったのは『お願い神主さまプラス』だけで、これは元版のほうを持っているため。でも、本編の他に2本ほどコミックス未収録の読みきりが追加で入っているそうなので、もしかしたらそのうちふらふらと買ってしまうかもしれない。
 3は初回版と通常版それぞれに別内容の同人誌が入っているゲーム。前週の発売なのでもう初回版はないかも、と思っていたが、ウェアパークNA-VI大阪店で一本だけ残っていたので、それを買った。同店の1/27〜2/7の週間ランキングで第3位(1位と2は『SNOW』のCD-ROM版とDVD-ROM版)と売り上げも好調でめでたいことである。私はしばらく忙しいので、たぶん3月末くらいまでは放置ぷれい状態になると思う。
 4は新星堂堂島アバンザ店で買った。かつてそこにはワルツ堂があった。ワルツ堂が破産した後、一度だけ堂島アバンザに行ったきりで、去年11/15に新星堂がオープンしていたことを昨日の昨日まで(妙な言い回しだ)知らなかった。棚の配置は少し変わっていたものの、品揃えはほとんど以前と同じで、均一価格の安売りもやっているし、輸入盤につけた手書きの札の字体も同じだったので、一瞬ワルツ堂が復活したかと思ったくらいだ。CDはタワーレコードで買うことにしていたのだが、「新星堂オリジナル企画」と銘打った4(演奏者や曲目から察するに、たぶんフランス・ハルモニア・ムンディの音源を使用しているのだと思うが、まだパッケージを開けていないので、よくわからない)を買った。
 でもって、タワーレコード梅田店で5と6を買った。この店は丸ビルの地下にあるのだが、丸ビルはその名の通り丸いビルなので、その一角を占めるタワーレコードは扇形になっていてちょっと不便だ。東京にも丸ビルがあるそうだが、丸くないらしい。丸くない丸ビルに何の意味があるというのか。
 5はスカルラッティのソナタを数曲ずつまとめて合奏協奏曲仕立てにしたもの。スカルラッティのソナタはわりと好きなので、どういう編曲になっているのか興味がある。
 6はクラヴィオルガンという珍しい楽器でスウェーリンク、フレスコバルディ、パッヘルベル、プクステフーデ、バッハの作品を演奏したもの。オビによると、
クラヴィオルガンとは小型のオルガンに、チェンバロ、クラヴィコードなどを組み込んだもので、18世紀にはピアノを組み込んだものまで現れるほど、様々な楽器が作られました。その多彩な音色と表現力で人々の耳を奪いましたが、ピアノの発達に伴って徐々にその役割を失ってゆきました。
ということだが、寡聞にして私はそんな楽器があることすら知らなかった。で、早速聴いてみたのだが……オルガンとチェンバロの二重奏にしか聞こえない。う〜ん。これを一人で演奏しているというのは確かに凄いが、それは『ほしのこえ』の凄さのようなもので(以下略)。
 さんざん散財したので、もう打ち止めにしようと思いつつ旭屋書店本店で見つけてしまったのが7。タイトルもアレだが、オビの煽り文句がさらにアレで、思わず笑ってしまった。
偉大な
二人の哲学者の
生涯ただ一度の
出会い――
灼熱した
言葉の応酬……
そして
火かき棒が
一閃する。

両者の間に横たわる
深淵を探りながら、
二十世紀中欧の
知識人を襲った
苛酷な運命の軌跡を辿る。
 そして表紙にはでかでかと燃えさかる(?)火かき棒のイラストが……。
 ポパーといえば、某バーチャルネットアイドルの中の人にも大きな影響を与えた、二十世紀を代表する哲学者である。超能力者やオカルティスト、ちょー科学者、政治的狂信者、ある種の宗教者などと対決するとき、ポパーの教えは力強い武器となる。そのポパーが、『神狩り』の冒頭で意味ありげに登場しながらその後のストーリー展開に全く関与しない非常識な変人おやぢに火かき棒を振りかざして迫られたとき、どう対応したのか。これがこの本のテーマである(一部誇張と歪曲あり)。私はまだ半分ほど読んだだけだが、非常に面白い。哲学業界の話題を扱ってはいるが、別に哲学書ではないので、特別な知識なしに読むことができる。ちょっと風変わりな評伝ないし歴史書、といったところか。ナチスのユダヤ人迫害に興味のある人には特にお薦めだ。少々値が張る(本体価格2900円)が、それだけの価値は十分あると思う。

1.10542(2003/02/10) 山名一族の陰謀

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0302a.html#p030210a

 砂色の世界・日記2/9付(2/10に改稿)を読んだ。一読しただけでは意味が掴みとれない。もう一度再読したが、よはりよくわからない。筋が通らないことを言っているかのようにも思えるし、私の読解力不足のせいでわからないのかもしれないとも思える。
 とりあえず、わかる部分からコメントをつけていくことにしよう。

ただ,氏の出したこの例はいささか不適当である。何故なら,我々は「神の1手」の定義を『知らない』しなによりも『得ていない』からである。もし,我々が「神の1手」はこう言うものである,と言う定義を有しているなら,『得ている』のも『知らない』のも同一視して良いはずである。何故なら定義に従い考えを進めれば「神の1手」に必ず辿りつけるからである。
 「神の一手」というのは『ヒカルの碁』のキーワードで、作中で定義していたかどうかは記憶にないが、今の議論に即していうなら先手(黒)必勝手順だとみなして構わない。囲碁のルールを知っている人なら、先手必勝手順という概念は誰でも容易に理解することができる。だが、その手順を具体的に知っている人は誰もいない。いや、知り得ない。定義に従い考えを進めれば「神の1手」に必ず辿りつけるとは言えない。なぜなら、検討すべき局面があまりにも多すぎて、「神の一手」に辿りつく前に人生の終局に辿りついてしまうからである。361!という数は人間の思考能力の限界を超えている。
 『得ている』物は必ず『知る』事ができるといえるのは神的な知性をもった者のみである。確かに神はわざわざ疑問を抱く必要はない。だが、わざわざ「わざわざ疑問を抱く必要はない」と言う必要もない。問題は人間だ。
 人間が疑問を抱き、思いを巡らすのは、
  1. 問題を構成する程度の知識は持ち合わせている(パンダという動物の概要を知っている、囲碁のルールを知っている)。
  2. しかし、その問題の答えは知らない(パンダの尻尾の色を知らない、囲碁の先手必勝手順を知らない)。
  3. 問題の答えを知りたいと願う。
という3つの条件を満たす場合である。答えを導出するに足る道具立てを既に得ていようがいまいが、現に答えを知っているのでなければ、人は疑問を抱くだろうし、そのような疑問は不必要なものとは言えないだろう。
私が疑問を抱かなくとも良い,と言うのは,疑問と言う物は『得ていない』物を『知ろうとする』事が出来てしまうからである。即ち解けない疑問を抱くことが出来てしまうからである。そして『得ている』物は必ず『知る』事ができるのであるから、「私はこんなことまで知っているんだぜ。凄いだろう」という虚栄心か、考えることを愛して止まない心さえなければ,疑問をわざわざ抱く必要性は何処にもないのである。
 解けない疑問というのが「たまたま手持ちの道具立てによっては答えを導き出すことができない疑問」ということなら(そうではなくて「原理的に解決不可能な疑問」と読むこともできるが、それでは前後のつながりがおかしくなってしまう)、答えを導き出すために必要な知識を獲得するためのきっかけになるだろう。ちょうど私が「パンダの尻尾の色は白か黒か?」という疑問をもとに行動し、上野動物園に行ったように。
 砂雪氏の議論とどうも噛み合っていないような気がするのだが、今の私に理解できた範囲ではこれくらいしか言えない。私には経験は本当に言語化できなければ知識になり得ないのか?という問いがこの文脈でなぜ問題になるのかがわからない。

 ついでなので、このページに掲げられているエピグラフ風の言葉について。

サイコロを一度しか降れなければ
一の目が出る確率は
その目がでるか出ないかの二分の一である
たくさんの回数を降れてこそ
さいころのそれぞれの出る目は六分の一なのである
 U-kiのメモ帳2/7付「偶然たる必然はない」で似た話題が取り上げられている。
質問です。6面のサイコロを振って「6」が出る確率は?
6分の1?なるほど。でも目が出るか出ないかの二つだとしたら2分の1じゃないの?無論これは詭弁である。これはものの見方の問題である。「確率・統計」という学問の視点ではない。
 私も詭弁だと思う。だが、どうすれば詭弁を打ち破ることができるのかがわからない。いろいろ考えてはみたのだが……。


 V林田日記(寿司が)2/8付経由で池袋に路面電車構想。この種の構想は今までもたくさんあったし、これからもたくさん出てくるだろう(川島令三氏の著書を読むとわんさかと実例が出てくる)が、これまでに実現した例はほとんどない(強いて挙げるなら、豊橋鉄道と土佐電気鉄道の駅前乗り入れだが、新線というほどでもない)し、これからも状況はあまり変わらないだろう。ようやく東京にもLRTが出来ますか。是非実現してほしいものです。というV林田氏の希望は失望にとってかわられることになるだろう、と忠告しておこう(『噂の真相』ふうの締めくくり)。
 ところで、私が今期待しているのは阪神西大阪線の梅田延長である。名古屋からアーバンライナーが姫路に直通する姿を想像するだけで心がおどる。

 SHADOW Ver.6.1(2/9付)の追記を読んで、何か書こうと思っているうちにそろそろ11時。政宗九の視点のチャットを覗きにいくつもりなので、今日はここまで。