大ポカをやらかしてしまった。ドキドキ!! ぱじゃま☆ぱ〜てぃ〜(言うまでもなく、この見出しに意味はない)で、私は十進法では割り切れる1/10も十一進法では「0.aaaaaa……」となり、割り切れない。
と書いたが、これが大間違いだったのだ。掲示板で指摘を受けるまで全然気づかなかった。うかつだった。正しくは「0.1111111……」だ。全く初歩的なミスで、穴があったら入りたいくらい恥ずかしい。
うわっ、引用されてるよ!
私のようなウルトラ文系人間は数学について語るのを控えておくべきかもしれないが、乗りかかった船なので引き続き砂色の世界・日記(2/20付および2/23付)についてコメントする……つもりだったが、その前に私の用語法を説明しておくほうがいいようだ。
まず「数」だ。「数」はある種の抽象的存在者を指す用語である。どのような抽象的存在者を指す言葉なのかをきっちり説明しなければ「数」を定義したことにはならないが、私の力量では厳密な定義は不可能だ。かなりいい加減な説明になってしまうが仕方がない。
さて、数は抽象的存在者であるから、目で見ることも耳で聴くことも鼻で嗅ぐことも舌で味わうことも手で触ることもできない。今私の机の上には本が21冊ある。その一冊一冊は目で見ることができるし、まとめて全体を視野に収めることもできる。しかし21という数を見ることはできない。本を一冊一冊指さして数を数えることはできるし、冊数が少なければ指を使わず目で数えることもできる。だが数そのものを見ているわけではない。数は知覚不可能である。
知覚不可能なもの、などというものが本当に存在すると言えるのだろうか? それは幻想ではないだろうか? そういう疑問は当然起こってくる。それに対して「数は知覚不可能ではあるが、確かに存在する」と考えることもできるし「数というのは、知覚可能な何か別のものから構成された擬似的存在者である」と考えることもできる。前者は数学的実在論、後者は数学的反実在論の立場である(この説明のあまりの粗雑さにあきれる人もいるだろうが、目をつぶって見逃してほしい)。今のところ私は実在論と反実在論のどちらが正しいのか、という問題に答えを出すつもりはない(というか一生無理だろうと思う)が、話を簡単にするために実在論的な語り方で話を進めることにする。
さて、知覚不可能な数を我々はいかにして認識し、操作するのか? 先ほどの机の上の本の例が一つの答えとなる。目に見えない数は、目に見える本によって表現される。別に本でなくても、林檎でも蜜柑でもなんでもいい(ただ、土の塊はちょっと困るし、ねりけしや水飴も避けたほうが賢明だ)。これら、"目に見える物"の数を数え、それらの物を合わせたり、取り去ったりすることで、計算をすることができる。
とはいえ、計算のたびに本だの林檎だの蜜柑だのを持ち出すのは面倒だし、いつも手近にそれらの物があるとは限らない。いつでも使えるのは両手の指で、1から10までの数は指を折ったり立てたりすることで表現することができる。足の指を自由に動かせる人なら、両手両足を使って20まで数えられる。だが、それ以上は逆立ちしても無理だ。数はまだまだたくさんあるというのに。
そこで言葉の登場である。言葉によって数を表現し、その操作や計算も表現することができる。指を1本立てるかわりに「ひとつ」と言い、林檎を2個机の上に置くかわりに「ふたつ」と言う。言葉はタダだし、発するのに手間もかからず、便利だ。ただし、話し言葉の場合、発した言葉はすぐに消えてしまって保存できない(今は録音機器があるからそうでもないが)ので、書き言葉を使うほうが都合がいい。そういうわけで数は文字を使って表現するのが一般的である。数を表現するために特化した文字のことを「数字」と呼ぶ。
繰り返しになるが、数と数字は別物であり、混同してはならない。数字と数の関係は言葉と対象の関係である。数字は数を表現し、数は数字で表現される。この点で、指が数を表現したり、数が林檎で表現されるのと違いはない。違いがあるのは、その表現力の豊かさにおいてである。
我々が通常用いる数字は漢数字かアラビア数字で、たまにローマ数字を用いることもある(が、ローマ数字のことはよく知らないので以下無視する)。漢数字にしてもアラビア数字にしてもさほど多くの種類があるわけではないのに、非常に多くの数を表すことができる。漢数字は「一」「二」「三」「四」「五」「六」「七」「八」「九」「十」「百」「千」「万」「億」「兆」「京」(まだ先があるが、調べるのが面倒なのでここで止めておく)、アラビア数字は「0」「1」「2」「3」「4」「5」「6」「7」「8」「9」。アラビア数字の個数は両手の指の数と同じなのに、指ではとても表現できないような大きな数も造作なく表現することができる。これは複数の数字を組み合わせて数を表現する方法(記数法)のおかげである。アラビア数字で通常用いられる記数法は「位取り記数法」と呼ばれる。漢数字のほうの記数法は知らない。
アラビア数字の「1」は単独で数1を表現するほか、二つ並べて書くことで11を表現することができる。「111」と書けば111を表現する(アラビア数字の用法を既に知っている人にとっては当たり前過ぎて、同語反復のように思われるかもしれないが、我慢してほしい)。「1」と「2」を組み合わせる場合、その順番によって12と21という別の数を表現できる。有限の――たかだか10個の――数字が、無限にある数を理論上は表現可能である(ちなみに漢数字が表現できる数は有限である)。
実は我々は数字以外にもう一つ、豊かな表現力をもつ手段をもっている。それは算盤である。算盤には物理的な桁数の制約があるので、どんな大きな数でも表現できるというわけではないが、我々が日常生活で扱う程度の大きさの数なら十分表現可能だ。だが算盤は数ではないし、算盤の珠が数であるわけでもない。
いい加減疲れてきたところなので、暫定的にまとめておく。数は知覚不可能であるが、知覚可能な手段により表現されうる。数を表現するための便利な道具の一つが数字である。数字は単独で数を表現するほか、複数の数字を組み合わせることでさらに多くの数を表現する。
私は数字のことを「数字」と呼ぶ(これも同語反復めいているが……)。そして単独の数字が数を表現している場合、または複数の数字の組み合わせが数を表現している場合に、それらを「数表現」と呼ぶ。「1」「53」「123」などは数表現の例である。ところで今挙げた三つの例のうちいちばん最初のものは数字の例でもある。単独の数字による数表現と、その数表現を構成(?)する数字の関係は、一語文と単語の関係に似ている。括弧の種類をかえて数字と数表現の違いを明示したほうがいいかもしれないが、面倒なのでやらない。広義の「数表現」には折り曲げた指、机の上の本、算盤の珠の位置なども含まれるが、そこまで射程を広げる必要はないだろうから、以下「数表現」は主に数字を用いて数を表現する場合の当該表現のみを指すものとする。
さて、数字の組み合わせのみによって表現される数を「自然数」と呼ぶことにしよう(0は自然数ではないと考える人には申し訳ない)。だが数は自然数だけではない。0より小さい数はどうする? そのような数を表現するためには、数字以外の記号を導入する必要がある。0より1小さい数は「-1」、それよりさらに1小さい数は「-2」と表すことにする。「-1」は-1を表現し、「-2」は-2を表現する。これらはどちらも数表現である。
数字の組み合わせのみで表現できない数はほかにもある。たとえば0と1の間にある半端な数はどう表現するか? 二通りの表現方法がある。一つは、小数点「.」を用いる方法、もう一つは……ええと、分数の横棒のことを正確には何というのだったろう? まあいい、どうせここでは横棒ではなくてスラッシュを使うことになるのだから。
小数点を使って表現されるような半端な数のことを「小数」と呼ぶ。「小数」はまた半端な数の表現の種類を指す用語でもある。「小数」という用語の二義性はちょっと紛らわしくて鬱陶しい。便宜上、私は数表現のほうのみを「小数」と呼ぶことにする。
小数の例は「0.1」「0.25」「0.6」など。半端な数は0と1の間だけではなく、5と6の間にもあるし、-65と-66の間にもある。だから「5.7」や「-65.28」なども小数の例である。それぞれ、0.1、0.25、0.6、5.7、-65.28を表現している。
ところで、半端な数の中には小数ではうまく表現しにくい数もある。たとえば1を9で割って得られる数を小数で表現しようとしたら「0.1111111……」というふうに無限に「1」を書き連ねる必要がある(無限に同じ数字を書き連ねるかわりに、当該数字の上に点を一つ添えるという手段があるが、HTMLでどう記述したらいいのかわからない。無念だ)。無限に同じ数字を繰り返し書く(繰り返される数字は1つの場合もあれば複数の場合もある)場合、その数表現を「循環小数」と呼ぶ。
半端な数を表すもう一つの方法は「分数」である(この語も「小数」と同じく二義的であるが、私は数表現に限定して「分数」を用いることにする)。「1/9」「2/3」「5/4」などが分数であり、それぞれ1/9、2/3、5/4を表現している。循環小数で表現される数は必ず分数でも表現できるのだが、その証明は省略する。というか知らない。
ここまでに出てきた数表現をまとめると、
ああ、日付が変わってしまった。どうして自分の言いたいことがうまく言い表せないのだろうか。
まいじゃー推進委員会!のトップページで「ロサ・ギガンティアのガイドライン」が公開されている。ネット上のマリみて人口の増加の増加調査を兼ねているそうなので、微力ながら私も協力しようと思う。もっとも、そのような趣旨がなくても、これは紹介に値すると思う。面接官の最後の一言が元ネタと違うのが、マリみてらしくていい。
数日前にイオナズンのガイドラインがまいじゃー推進委員会!で紹介されたときに、私も「これは何かのネタになるかも」と思って、かちゅ〜しゃで全レスを取得してあるのだが、昨今の情勢は余談を許さず、まだ手つかずになっている。もしやるとすれば薔薇つながりで「薔薇小路棘麿のガイドライン」かな、と思っているのだが、こことネタがかぶってしまっている。なかなか独創的なネタを提供するのは難しいものだ。
私はふだんテレビをほとんど見ないのだが、今日はあの滝本竜彦がテレビに出るというので、「人間広場/ひきこもり〜扉の向こうからのSOS〜」を見ることにした。2時間続けてテレビを見たのは今年になってから始めてだ。
見終わって思ったのは、本の言葉とテレビの言葉は全然違う、ということだった。ニュース番組ではあまり気にならないのだが、この種のバラエティー番組(いや、本当はバラエティー番組ではないのだろうが、まあ似たようなものだろう)だと、無性に気になる。だが、どこがどう違うのか、うまく言葉に表すことができない。
滝本竜彦以外の出演者の言っていることはみな気色悪かった。きっと普段はあんなしゃべり方ではないのだろうが。そして、一人だけテレビ的でないしゃべり方をしていた滝本竜彦はとことん浮いていた。敢えて空々しく、その場の雰囲気を白けさせるような発言をしていたのか。さすがは小説家だ。
とりとめのない事を書いてしまった。
白黒学派「追憶遡行」2/21付で「群像」に載っている笠井潔と三浦雅士の対談
について言及しているのを読んで興味を惹かれた。論理実証主義と推理小説との関係性を示唆してみたり
しているらしい。そこで「群像」を書店で探してみた。田舎の書店にはないかもしれないと思ったが、一冊だけあった。いったい誰が買うのだろう?
論理実証主義を話題に出したのは笠井潔かと思ったが、三浦雅士のほうだった。「形式化」というキーワードを使っていたので、たぶん柄谷行人を念頭に置いているのだと思う。大戦間探偵小説と論理実証主義の類似を示唆しているようだったが、軽く触れているだけで、これだけのために「群像」を買う気にはならず、棚に戻した。
探偵小説と論理実証主義を類比的に論じることができるものなのかどうか、ちょっと気合いを入れて考察してくれる人はいないものだろうか。
今日の見出しは、「群像」の対談とは関係ない。今読んでいる本に「論理原子主義」という言葉が出てきて、ちょっと気になったので書いてみただけ。これが誤訳かといえば必ずしもそういうわけではないのかもしれないし、"logical positivism"を「論理実証主義」と訳すのに合わせたのかもしれないが、"atomism"を「原子主義」と訳してしまうと、"holism"は「全体主義」になってしまうわけで、これはちょっと具合が悪いのではないか、などと思ったり思わなかったり。
犬は動物である。猫も動物である。犬は漢字ではなく、猫も漢字ではない。
「犬」は動物ではない。「猫」も動物ではない。「犬」は漢字であり、「猫」も漢字である。
「いぬ」はひらがなではない。「ねこ」もひらがなではない。「いぬ」は単語であり、「ねこ」も単語である。
「い」「ぬ」はともにひらがなである。「ね」「こ」もともにひらがなである。「い」「ぬ」はともに単語ではなく、「ね」「こ」もともに単語ではない。
「犬」は犬を表現し、「いぬ」も犬を表現する。「猫」は猫を表現し、「ねこ」も猫を表現する。
犬といぬは同じである。猫とねこも同じである。
「犬」と「いぬ」は同じではない。「猫」と「ねこ」も同じではない。
昨日うまく書けなかったことをもう一度考えてみた。まだうまく整理できていないのだが、なんとか砂雪氏の議論への反論を述べることができるようになった。
砂雪氏は、1/9がどんな数字であるか明確に言い表せる人はこの世にいない
と主張する。砂雪氏の用法で「数字」というのは、「+」や「/」などの演算記号を含まず、専ら数字から構成された表現(ただし、小数点は含んでいてもいいらしい)である。1/9を小数で表そうとすると「0.1111111……」というふうに無限に「1」を書き連ねることになる。よって,1/9の結果である数字を確認する事は不可能である
、と砂雪氏は主張する(なお、『数』を表現する文字である『数字』を確認するとは,書き表すか,または頭の中に思い浮かべるかのどちらかである
)。
だが、その一方で砂雪氏は9進法で考えるのならば,0.1は1/9の計算結果である数字を言い表していると言って良い筈だ
ということを認める。ところで、九進法の「0.1」は十進法の「0.1111111……」と同じ数を表現する。従って、一方の数が確認されたなら、他方の数も確認されていることになる(同じものがある性質を持ち、かつ、持たない、というのは矛盾である)。よって、1/9がどんな数であるかは確認されている。
以上の議論により、砂雪氏の主張は反駁されたものと私は信じる。
吾妻線温泉旅行計画が頓挫した。いや、頓挫というほど大げさなものではない。要するに私がダメ人間だったということだ。
私は電話が苦手だ。知人の家に電話するときでも、本人以外の人が電話に出たら声がうわずってしまうくらいだ。なんだか悪い事をしているかのような気になってくるのだ。どうして罪悪感を感じるのか、自分でもよくわからないのだけれど。
そういうわけで、ホテルや旅館を電話で予約するのにも勇気がいる。相手は見ず知らずの他人なのだから、緊張してしまう。私の内心の動揺を相手に悟られないように、事務的に話をしようと思って予め台詞を紙に書き出しておいたのだが、それでも「はい、○○温泉○○旅館です」という声を聞いた瞬間に、ひゃっ、と飛び上がりそうになった。おずおずと「3月21日に1人で1泊したいのですが……」と切り出したところ、「しばらくお待ち下さい」と言われて待つこと数時間、いや実際には1分にも満たなかったのだが、とにかく長い長い沈黙の後、「3月21日というとちょうど祭日ですね。その日はおひとりの部屋はご用意できないのですが……」と言われてしまった。
私は拒絶された。受け入れてもらえなかった。まだ名前を告げてもいないのに、どうして人々は私を否定しようとするのか!
それは私がダメ人間だからだ。一言私の言葉を聞いただけで、それがわかるのだ。いや、一言も喋らなくても、電話回線が接続された瞬間に私のダメダメパワーが相手に伝わってしまうのかもしれない。
温泉宿などいくらでもあるのだから、別の旅館を探せばいい。理性はそう告げる。だがもうダメだ。最初の一軒で断られたということは、以下同様ということだ。同様でないにしても、私はこれ以上電話をかけ続けることができない。私は打たれ弱い。
そこで私は温泉宿を諦め、群馬県内のビジネスホテルをインターネットで予約した。直接人と話をしなくても予約ができる。なんと素晴らしいシステムなのだろう!
さあ、吾妻線を乗りつぶすぞ。終点大前駅では6分で折り返すぞ。上毛電鉄も上新電鉄も乗りつぶすぞ。わたらせ渓谷鉄道にも乗るぞ。観光地も温泉も無視だ無視! 鉄道に乗って乗って乗りまくるのだ。時間がもったいない。食事は駅弁か立ち食いそばだ。いや、出発前にカロリーメイトを買い込んでおこう。どうやって乗り継げば効率的なのか時刻表で確認だ。地図も必要だ。前橋と中央前橋の間の距離は? 桐生と西桐生は徒歩連絡可能か?
こうして、のんびり温泉の旅は、いつもの鉄道乗り継ぎパズル旅行に変貌したのだった。
昨日、NHKの「人間広場/ひきこもり〜扉の向こうからのSOS〜」を見て、見終わって思ったのは、本の言葉とテレビの言葉は全然違う、ということだった。(略)だが、どこがどう違うのか、うまく言葉に表すことができない。
と書いたのだが、その後某氏の非公開サイトで私の感じた違和感を的確に表現しているのを見かけたので、紹介しておく。
滝本氏が出るというので、テレビはめったに観ないわたしも楽しみにしていました。私の印象では、司会者(名前は忘れた)と江川紹子は
滝本氏の紹介のとき、司会の方が著書の題名に「NHK」という文字が入っていたのに驚いたと言っていましたが、たぶん、あらすじだけで本の中身はきちんと読んでいないのでしょうね。
読んでいたら、その後の流れがあそこまで酷いものにならなかったでしょう。
結局、番組自体の中身のなさに呆れ果ててしまい途中で消してしまいました。
あのような番組では「視聴者のために」という大前提を満たすよう、誰にでもわかりやすく、そして納得しやすい結論に持っていくのが義務だという共通意識を出演者たちは持っているのでしょうね。
だから、あの方たちは最初から本質を捉えようとせず、ありきたりの空虚な切り口ばかりなのだと思いました。
正直、「引きこもり」というものは、理解のために言葉を費やせば必ず誰にでも理解できるようになるものではないでしょう。
「信仰」と同じで、信じられる人もいれば信じられない人もいます。信じられない人が躍起になって理解しようと無理をしても、おそらくは無理でしょう。これらは、視聴者、聞き手側の素質次第かと感じています。
信じられない人で、そのせいで話がトンチンカンになってしまったのだと思う。残りの出演者のうち精神科医2人と(滝本竜彦を除く)ひきこもり経験者2人はテレビの魔力のせいで当たり障りのない発言しかできなかったのではないか。そして滝本竜彦は、あの気色悪い空気によく耐えて、場をぶち壊さない程度に異議申し立てをしていたのだと私は思う。そう考えると、みんなよく頑張ったわけだ。司会者も江川紹子も悪くはない(ただし、司会者が「笑顔がこぼれています」と言ったのはプロにあるまじき発言だが)。
あまり長い文章を書く気がしないので、メモ程度に。
"裏"日本工業新聞!!で昨日の「人間広場/ひきこもり〜扉の向こうからのSOS〜」にコメント(2/23付)。妙になま暖かい視線と言葉
というのは昼に私が書いた文章であの気色悪い空気
と書いたのと同じことことだろう。やっぱりそうだよな、あの雰囲気って変だよな、うん。
エロチック街道でネコ耳、アホ毛などの不条理突起物
(いい言葉だ)と付属小動物の関係について興味深い考察があった(2/23付「日曜アニメ館」)。このネコ耳やらアホ毛というのは、古来から魔法少女につきものであるとされた小動物の延長(退化か?)なのではないか
という仮説については「そう言われるとそうかもしれない」という程度。というのは、魔法少女にはペンダントやコンパクト、スティック、リボンなどの小道具もつきものだが、小動物と小道具のどちらのほうが不条理突起物の直系の先祖なのか、私には判断できないからだ。
ともあれ、不条理突起物の系譜を辿ってみるというのは、"萌え"の外見的要因の分析にかなり役立つように思う。
遥かな道しるべでディープリンクを推奨しているのを見て、初めて日付にアンカーが付けられていることに気づいた。ソースを見ればわかることなのだが。早速、2次元ヲタは正しい(2/21)に直リンク。江川紹子に読ませてみたい文章だ。
書店で『キャラクター小説の作り方』(大塚英志/講談社現代新書)を買った。バーチャルネット転校生・双海詩音16歳で紹介されていて(2/21付「現実と幻想」)、10ページに1回以上の割合で角川書店への批判が続くのは、ある意味壮観
というコメントに興味をそそられたからだ。で、ぱらぱらと開いてみると、「江戸川乱歩のミステリー小説観」という一節(80,81ページ)があって、そこだけ先に拾い読みしてみた。彼ら(引用者註:京極夏彦と清涼院流水)の小説がキャラクター小説的支持を受けることにミステリー業界内部から批判があるのは奇妙なことです
、という箇所にはツッコミを入れたい気もするが……まずは通読してから。
同じく講談社現代新書の今月の新刊『私はどうして私なのか』(大庭健)も買った。これはちょっと気合いを入れて読むつもり。
先日確定申告をした後輩から去年の年収をきいて仰天した。真面目にこつこつ毎日通勤している月給取りの私より、ひきこもりの後輩のほうが桁違いに稼いでいるなんて……。もしかして3300万ウォンではないだろうか? いや、私は生まれてこの方税務署に行ったことがないのでよくは知らないのだが、たぶん日本の税務署ではウォンで確定申告はできないだろう。
なんだか非常に不条理だ。
土踏まず日記で一昨日の「人間広場/ひきこもり〜扉の向こうからのSOS〜」についてなんか気持ち悪かったなあの番組自体
、とコメントしている(2/23付)。やっぱりそうだよな、あの雰囲気って変だよな、うん。
昨日、寝る前に思いついたことだが、"脳内彼女"には2種類ある。いわゆる"おしかけ厨"や"なりきり厨"の場合は、全く無縁の赤の他人を脳内で勝手に恋人に認定してしまう。これを「第一種"脳内彼女"」と呼ぶことにする。もう一つは滝本竜彦のエッセイに登場する"脳内彼女"である。こちらは純然たる架空の存在であり、脳内に住まう恋人である。これを「第二種"脳内彼女"」と呼ぶ。
どうして"脳内彼女"に二つのヴァージョンが生じるのか。これは「脳内彼女」という言葉の成り立ちに起因する。「脳内……」はある人物の脳の中でのみ「……」が成り立っているという意味である。「彼女」は(もともとは女性を指す三人称単数の代名詞だが)ある人物と恋人関係にある女性のことである。すると、「脳内彼女」とは、「ある人物の脳内でのみ、その人物と恋人関係にある女性」とパラフレーズできる。
ところでこのフレーズには2種類の読みが可能であることは容易に見てとれる。まず「ある人物の脳内でのみ、(その人物と恋人関係にある)女性」と読む。これは第一種"脳内彼女"である。次に「ある人物の脳内でのみ、(その人物と恋人関係にある女性)」と読む。これは第二種"脳内彼女"である。「脳内……」の「……」に恋人であるという関係のみが含まれ、相手の女性自体は含まれない場合と、「……」に相手の女性ごと含まれている場合である。
私はこの発見に有頂天になった。もしかすると私は今まで誰も気づかなかった宇宙の真理の一端に触れたのではないか。壮大なる"脳内論理学"が今まさに始まろうとしているのではないか。将来「脳内論理学の黎明期を語るには滅・こぉるの名を外すことはできない」と言われるようになるのでは? (このあと妄想はまだまだ続くのだが、大方読者諸氏の予想通りであるので割愛する)
しばらくたって、口吻、いや興奮からさめて我にかえった私がそこに見出したのは、命題的態度の意味論の残骸に過ぎなかった。日のもとに新しきものなし。
無職女性、1カ月間何も食べずに餓死…。ひきこもりネタの流れで紹介していいものかどうかちょっと迷うのだが。憂鬱な昨日に猫キック 不安な明日に猫パンチのコメントが味わい深い。
仕切直しして、鉄道の話でも。
今日、JTB時刻表の3月号を買った。2月号は結局一度も活用せずじまいだ。東日本はダイヤ改正がないので別に買い直さなくてもいい。そこで数日迷っていたいたのだが、結局買うことにした。西日本の3/15ダイヤ改正以降に山陰方面へ出かけることがあるかもしれない(たぶんないだろうが)し、せっかく青春18きっぷを使うのに前月号を車内で広げていては恥ずかしい。
付録ページを見ると「ひと目でわかる電化と複線区間」が掲載されていた。羽越本線の細切れ複線は相変わらずだ。
昨日、前橋と中央前橋の間の距離は? 桐生と西桐生は徒歩連絡可能か?
と書いたところ、掲示板でG.C.W.氏にシャトルバスの存在を教えていただいた。また、G.C.W.氏の群馬旅行記と栃木旅行記を見ると、行きたい場所が増えてきた。
時刻表を見るとわたらせ渓谷鉄道から「足尾鉄道全線開通90周年記念フリー切符」が出ているようだが……。両毛線は一度乗ったことがあるから夜でもいいとして、未乗路線はなるべく日中に乗りたいし、吾妻線を往復するだけで半日潰れるし……。うう、乗り継ぎパズルを組み立てるのが難しい。
『エマ』(2)『シャーリー』(ともに森薫/エンターブレイン BEAM COMIX)を買った。先週すでに入手済みの人が多いが、私の地元の書店では正式発売日の今日やっと入荷した。一度でいいからフライングゲットしてみたいものだ。
まだ封を切っていないので内容はわからないが、ここの紹介文を読むと興味がそそられる。
今しがたカウンターを見たら77777だった。誰も祝ってくれそうにないので、自分で祝っておくことにする。
「滅・こぉるちん、おめでとう! にははっ」
平日の私の睡眠時間は約6時間である。深夜12時から朝の6時までだ。平日というのは平らな日だから、逆にでこぼこな日もあるわけで、そんな日の睡眠時間は一概には言えないのだけれども、ならせばやっぱり6時間程度だろう。あと、会社への往復の電車でも眠ることにしているので、その時間を併せると7時間になるが、布団にくるまって眠るのとロングシートで居眠りするのとではかなり状況が違うので計算に入れないことにしよう。
さて、この6時間というのは長いのか短いのか。世の中には平均一日3〜4時間程度しなくても平気な人もいるようだが、所詮他人は他人だ。苦境に陥ったときに助けてくれるわけでもなければ、あたたかい声をかけてくれるわけでもない。やはり頼れるものは金である。金さえあれば人生は薔薇色だ。金は私を裏切らない。
それはそうとして私には6時間の睡眠時間は短い。仕事中にはさすがに居眠りはしないが、頭の中に靄がかかったような感じがずっと続く。遠くから私を呼ぶ声が聞こえることもある。たまに命令されることもある。「今日の晩ご飯は是非麦飯にし給え」とか「犬を飼いなさい、犬を。泥棒よけには犬がいちばん」とか。これはあまりいい兆候ではない。
きっと今の私には睡眠が足りないのだろうと思う。一日8時間くらい眠れば、もっと頭脳明晰になるに違いない。今よりもっと本が読めるかもしれない。だが、あと2時間をどうやって確保するのか。それが問題だ。
起床時刻を8時すると会社に遅刻する。遅刻3回で欠勤扱いだ。いや、本当にそんなルールを採用しているのどうかは知らないけれど、少なくとも社内での私の評価が今以上に下がることは間違いない。苦痛に耐えて渡世の義理をなるべく果たすように心がけているのに、これでは努力が水の泡だ。そういえば明日はボーリング大会だった。ボウリング大会だったかもしれない。帰宅は10時か11時くらいか。更新を一回休んだほうがいいかな。
では、逆に就寝時刻を午後10時にするのはどうか。これなら少なくとも仕事にも会社でのつき合いにも影響は出ない。明日のボーリング大会を断る口実にもなる。「いや、今から珠転がしをしていたら、10時までに寝られなくなるので」と。ダメだダメだダメだ。こんな言い訳が通るわけはない。
明日のことは考えないことにしよう。
ところで全然話は変わるのだが、ボケとツッコミというのはいかがなものか。人はボケたくてボケるのではない。年老いると自然と頭の働きが衰えていくのだ。それなのにツッコミを入れるというのは倫理にもとるのではないか。というかこれは犯罪だ。ツッコミは刑法第177条違反である。ツッコミなどという卑劣な犯罪を許してはならないのだ。
さて、そろそろ気がついた人もいるだろうが、今私は無性に眠たいのを我慢してこの文章を書いている。ほとんどテキストプレイ状態だ。2秒以上手を止めることもあるので、厳密にはそうではないのだが。
そういうわけで全然まとまりのない文章になってしまった。刑法の条文もちゃんと確認していないので、もしかしたら第177条ではなかったかもしれない。
習慣の力は偉大だ。
今日のボウリング大会では、参加者64人中63位でブービー賞だった。
実はこっそりと500文字の心臓に投稿していたのだが、入選するどころか選評でも言及されなかった。自信作だったんだけどな。
仕方がないので、ここで紹介しておこう。
どうしてこの新幹線は名古屋駅に停まらないのか?もしこの作品が入選していれば、他の入選作が霞んでしまうほどのインパクトがあったと思うのだが、さすがの大野伴睦先生の遺徳も選者には通じなかったようだ。とりあえず「マグロ漁船に乗るか」と捨てぜりふを残して
それは君が降車ボタンを押さなかったからだ。ぼやぼやしていると、岐阜羽島も通過してしまうぞ。
「次はぎふはしま〜、ぎふはしま〜、名鉄新羽島駅前です。大野伴睦先生の銅像をご覧の方は当駅で下車して下さい」
さあ、早くボタンを押したまえ。
心理的に困惑させることにしておく。
赤松健はやはり天才だ。『ラブひな』新連載の時にも大ショックを受けたが、これにはもっと驚いた。一瞬『動物化するポストモダン』(東浩紀/講談社現代新書)のパロディかと思った。
『キャラクター小説の作り方』(大塚英志/講談社現代新書)読了。
今回の更新はここで「講談社ノベルス」を「講談社現代新書」に訂正するためのものであり、それ以外に変更または追加事項はありません……と書いたものの、よく考えれば、今書いているこの文章自体が追加事項なので、追加はあると書くべきだったかと思うが、どちらが正しいのか考えているうちに出勤時刻が迫ってきたので、とりあえずこのままアップ。
先日の記事の見出しを「可能世界は枝分かれしない」にしたのは、『キャラクター小説の書き方』(大塚英志/講談社現代新書)165ページの「図2 可能世界」を念頭に置いてのことだった。ぱらぱらとページを繰っているときにこの図が目に止まり、何となくケチをつけてみたくなったのだ。
その後、最初から順に読んでみたのだが、未だになぜここで「可能世界」などという言葉を持ち出す必要があったのかがわからない。「新世紀エヴァンゲリオン」の最終回について言及する場面で出てくるのだが、作中で用いられている言葉なのだろうか? ともあれ、「可能世界」についての以下の説明(164ページ)は読んでいるほうが恥ずかしくなってくるほどだ。
これは多分、庵野秀明くんが当時流行していた哲学用語で言うところの「可能世界」というものを作中で示したかったからです。可能世界、というのはつまり、今という「現実」はたまたまこうなった結果としての「今」であって、こうならなかった別の今というものが常に可能性としてある、という考え方です。この説明と次ページの図を見ただけで、筆者が
哲学用語で言うところの「可能世界」についてほとんど何も知らないということが明らかだ。知らないなら黙っておけばいいのに。
……と、ここまで書いたところで昔の知人から電話がかかってきて、1時間以上話し込んでしまった。本当はまだもう少し『キャラクター小説の書き方』への疑問点とか気になったこととか書くつもりだったが、時間切れ。「可能世界」という言葉一つにいちゃもんをつけただけになってしまった。
『旧石器遺跡捏造』(河合信和/文春新書)読了。面白かった。