どういうきっかけだったのかは忘れたのだが、突然「推理によって中断される恋愛小説」というフレーズが頭に浮かんだ。
ええと、これは確か有名なミステリの副題だったはずなんだが……。あれ? タイトルが出てこない。そんな馬鹿な! 私はいったいどうしたのだろう?
知っているはずのことが思い出せないというのは非常にいらいらするものだ。最近では「ジャスコで万引き」(そういう替え歌が昔あったのだ)の歌詞の続きが思い出せなくて頭を抱えたことがある。だが、今日はジャスコの話をする気はないので、「推理によって中断される恋愛小説」に話を戻すことにしよう。
わからない事があればネットで検索してみるのがいちばん手っ取り早い。このフレーズでヒットするかどうか心配だったが、幸いこんなページが見つかった。これで一件落着。
『忙しい蜜月旅行』(ドロシイ・セイヤーズ/深井淳(訳)/ハヤカワ・ミステリ413)を読んだのはもうずっと昔のことだ。セイヤーズは苦手な作家で、読まなければならないと思いつつ途中で投げ出した小説がいくつかある(義務感に駆られてミステリを読んでいた頃の話。今は苦手な作家の本を強いて読もうとは思わない)のだが、これは長さのわりに読みやすく面白かった記憶がある。だが、内容はほとんど覚えていない。確か、変な機械的トリックが使われていたような気がするが……。私の記憶力はその程度だから、「推理によって中断される恋愛小説」という有名な副題を忘れてしまっていたことも無理はない。そうさ、何も恥ずかしいことなどないんだ。知っていたからといって実生活で役に立つわけでもなければ、他人から尊敬されるわけでもないんだから。うん、私は下らない知識をひけらかす嫌らしいマニアではないんだ。正々堂々と太陽の下を歩く一般人なのだ!
それはさておき、部屋の隅に積み上げたポケミスの山から『忙しい蜜月旅行』を探している途中に『別れの儀式』(S・F・X・ディーン/秋津知子(訳)/ハヤカワ・ミステリ1502)を見つけた。こちらは未読なのだが、巻末の「ゴールデン・エイジの香り」と題された短い解説(筆者名はなく、単に「O」と記されている)に次のような文章があった。
さて、本書は、ケリー教授シリーズの第三作に当たる。第一作は、八二年に発表され、MWA・CWA両賞の候補になった By Frequent Anguish(「推理によって中断された恋愛小説」と副題が付いている)。(略)そして第一作に付けられた副題などを考え合わせると、ディーンはどうもドロシイ・セイヤーズを強く意識しているようだ(セイヤーズは『忙しい蜜月旅行』(ハヤカワ・ミステリ413)に、「恋愛によって中断された推理小説」という副題を付けている)。"By Frequent Anguish"は「ハヤカワ・ミステリ近刊」だと書かれていて、たぶん『愛と悲しみの探偵』(大社淑子(訳)/ハヤカワ・ミステリ1511)のことだと思う。単に『忙しい蜜月旅行』の副題を間違えているだけなのか、それとも両作の副題を取り違えているのか非常に気になるのだが、残念ながら『愛と悲しみの探偵』は持っていないので、副題を確認することはできなかった。ご存じの方はご教示下さい。
また凄い文章(【12/20@えっせい的論文『豆という形容について』】)を読んでしまった。今の日本でこんな文章が書けるのは、小林氏のほかには上で言及した某評論家くらいではないか。
日付が変わってしまった。『AIR』をコンプリートしようとする堅い決意はどこへ行ってしまったのだろうか?
只今の進捗状況:7月19日。
今日は一日ずっと『AIR』をプレイしていた……はずなのだが、まだ7月22日までしか進んでいない。う〜ん。
中途半端にサイト更新するのはやめてゲームに専念すべきか……。
前回の更新後、『AIR』をさらにプレイし、7月29日まで進んだ。23日くらいからめっきり選択肢が減って、美凪と佳乃が姿を消してしまった。順調に観鈴ルートを辿っている……のかな?
この調子で進めていけば、思ったより早くエンディングに到達できそうだ。でも今晩は眠たいのでひとまず打ち切りにしておく。
某氏の隠しサイトに死刑問題について興味深いコメントがあった。以下無断引用。
他所の死刑制度に賛成のページを読んでいたんですが、「死後、人間はどうなるのか」がわかっていない以上、私は何にも言えないなと。それこそ、肉体的な死の後に魂でも何でもいいが、物を考え感じる精神的な何かが残る(現世だろうと冥界だろうと)なら、死刑も選択肢に。しかし、もし完全な消滅しか意味しないのだとしたら、死刑は余程の何か決定的いや致命的な何かが無ければ私はやれないのではないかと考える。完全な無について想像することほど、精神的に大きな負担をかけるものはないですね。
で、最近になってふと考えた、死刑に代わる新しい刑罰「仮死昏睡刑」。
1〜10年の間、投薬処置により受刑者にランダムで覚醒→昏睡を体験させる。気がつくと覚醒して自分が何日間の昏睡をしていたかわからない不安を味わい、そして気がつくとふとまた昏睡状態に陥る。この繰り返し。たまに覚醒期間を長めにして、その間に自分の罪について考えさせる時間を与えたり。
擬似的に「死」と呼ばれるものに近いと思われるものを体験させることで、何かが変わらないかなと。
死刑に代わる刑罰といえば、式貴士の名作『カンタン刑』を連想するのだが、詳しく説明するとネタを割ってしまうことになるので割愛する。この小説を表題作とする作品集『カンタン刑』(角川文庫)はすでに絶版だが、『鉄輪の舞』(出版芸術社ふしぎ文学館)にも収録されているので今でも読むことができるはず。
いよいよ眠気で意識が朦朧となってきたので、今日はこれでおしまい。
朝から『AIR』を再開し、観鈴ルートの続きをやったのだが、何だか妙な終わり方になってしまった。これはバッドエンドということなのだろうか? むむむ?
気を取り直して最初からやり直し、今度は佳乃ルートで7月30日まで進めた。全く先が見えない。
ゲーム攻略日記を書いていても面白くない。もっと丁寧に状況とか感想を書いていけば読めるものになるのだろうが、全部やってみないとどこまで書いていいのかがわからない。『AIR』の場合は発売直後のゲームほど神経を使う必要はないとは思うのだが……。しばらくはこの調子でいくしかない。
『長期停滞』(金子勝/ちくま新書)を読み終えた。「引当て」という言葉の意味も知らずに読んだので半分も理解できなかったが、憂鬱な雰囲気(そしてところどころに挟まれた「主流経済学者」への非難)は楽しめた。日本はいよいよダメになってきて、今後の見通しも暗い。そう考えると何だか気が楽になってくるから不思議だ。
もっとも景気の動向については、今でもとことん楽観的なことを言っている人(情報もと:わかば日記(12/21付))もいる。
どんどん、子や孫、ひ孫に付け回していけばいい。外国から借金しているわけじゃない。国内の金融機関や生保から金借りてるだけ。右のポケットがふくれて、こっちが少なくなったからといって、同じ洋服の中の話。日本が5年や10年でなくなるわけじゃないんだから。建設国債発行して、道路や港湾、空港をどんどん良くするんですよ。その恩恵は子や孫が受ける。子や孫に一部払わしたって、当たり前でしょ。と言われると「そ、そうなのか!」と頷いてしまいそうになる。だが、子や孫に残す道路や空港がこんなの(情報もと:新鮮なニグ・ジュギペ・グァのソテー。V林田日記12/20付)ばかりだと具合が悪いのではないか。
M-1グランプリ公式サイトが更新されて(情報もと:コミックマーケット63及びM-1グランプリについてのページ)先日ちょっと気になった「きっちりとした警備計画のもとイベントを実施しますのでご安心下さい。」という記述が削除されて、その代わりに
このように当イベントは、各関係機関、指導のもと万全の準備をしております。しかし、当日、コミックマーケットという大イベントが有明地区で行われるために、かなりの混雑が予想されます。ご来場を予定しているお客さんは、くれぐれも注意事項をお守りください。と書かれている。それは結構なことだが、肝心の「注意事項」が、
というもので、「会場外なら徹夜してもいいんだ」とか「じゃあ10時まで近くをぶらついていよう」というふうに考える参加者がいっぱいいそうだ。まあ、いくら注意事項を細かく規定したところで、
- 会場で席取りのための徹夜は禁止します。会場内に警備員がいますので見つけ次第、会場から出ていっていただきます。
- 10時に主催者テント、スポンサーブース、飲食ブースがオープンしますのでその時点から観戦場所の入場順番列を別紙図面場所でスタッフがつくります。それまでは、並ぶことができません。
M−1グランプリファイナルが行われる有明会場に集まったお客様全員を対象に、当日抽選会をします。その中から選ばれたペア10組20名様を決勝戦収録スタジオにご招待します!というシステムをとっている段階で無駄っぽいが。
ひとやすみ終了。『AIR』再開します。
ひたすら『AIR』を続けてようやく佳乃エンドに到達した。ちゃんとエンディングテーマをバックにスタッフロールが流れてるよ、ママン!
してみると、朝方の観鈴シナリオはやっぱりバッドエンドだったのだろう。もう一度やり直さなきゃ。でもどこでどう間違えたのかがよくわからない。選択肢を虱潰しにあたるのはしんどいし、時間もないので、攻略情報に頼ることになるが、その前に美凪シナリオをやっておくことにしよう。
佳乃シナリオを終えて暫定感想、というかメモ。
例によって「家族の絆」と「死と再生」そして「遠い記憶」というモティーフが出てくる。あと「父親の不在」も。「縁日の思い出」というのも前にあったなぁ。どの作品だったか忘れたけれど。マンネリといえばマンネリなのだが、規定競技のようなものだから気にはならない。むしろ総合得点がどれくらいなのか興味をかき立てられるくらいだ。
☆
知人の薦めで買った『僕と彼女の×××』(1)(森永あい/マッグガーデン)を読んだ。ありがちな人格入れ替わりテーマで、これも規定競技のようなものだろう。キャラ造形とエピソードの積み重ね方はうまいが、この設定でどこまで引っ張れるのかは疑問。
なお、タイトルは「ぼくとかのじょのペケ3つ」と読むらしい。
生涯最高ポイント(ただ、風のために。512/21付)を読んで、ふと思ったこと。
評価関数が入力値によって変化するのだとすれば、変化前の関数の出力値と変化後のそれとは比較可能なのだろうか? また評価関数の変化の仕方は、それ自体が関数的なものなのだろうか?
前者の問いについては肯定的に答えられると思う。関数の変化は値の大小の比較を不可能にするものではない、と。ただし、急激かつ大幅に関数が変化した場合(たとえば洗脳を受けた場合など)には、もはや比較は不可能かもしれない。
後者については全く何ともいえない。仮にこの問いに対する解答が否定的なものであったとしても、高階の関数計算以外の方法で評価関数の変化を予測することができれば「生涯最高ポイント」の判定は原理的には不可能ではないということになるかもしれないが。
ああ、「原理的に可能」ってどういうことだろう?
案外、一番大きな問題は関数を計算する行為そのものが入力値に変化を与えることかもしれない。
今日もひたすら『AIR』を続け、ようやく3人全員のトゥルーエンドを見ることができた。
昨日の方針どおり、まず美凪シナリオをやることにして、せっせとマウスをクリックしたが、これが非常に長いシナリオで、このまま永久に終わることがないのではないかと思ったほどだった。これまでの経験から、最初のほうは平穏な日常風景をしつこいほど丁寧に描いておいて、シナリオの核心に入る中盤からは徐々にスピードがあがっていくものだと思っていただけに、この長さには閉口した。最初に到達したエンディングではスタッフロールが出てこなかったため、直前の選択肢(こんなこともあろうかと思ってセーブしておいたのだ。だが、なんでこんな選択肢で結末が変わるのだろう?)からやり直した。すると延々と一本道が続いて、『ONE』を思わせるような視点の切換によるヒロインの独白とか消え去る者と残る者との会話が続いて、ようやくラストシーンに辿り着いたときには既に日が暮れていた。ラストで「奇跡」が起こってみちるが復活したらあまりにもベタで嫌だなぁ、と思っていたのだが、幸いそんな結末ではなくほっとした。だが、ほとんど主人公そっちのけで美凪と家族の物語になっていて、ある意味では『Kanon』や『ONE』を越えて『MOON.』にまで先祖帰りしているような印象を受けた。
残るは観鈴シナリオのトゥルーエンドだけなのだが、到達条件が全くわからない。基本的には観鈴の好感度を上げていけばいいのだろうが、何度やっても尻切れトンボエンディングで、いよいよ攻略情報に頼らざるを得ないのか、いや、もう少しだけ、あと一度あの選択肢を選び変えてやってみよう、と試行錯誤を繰り返し、ようやく感動の(?)エンディングに到達したのは午後10時過ぎ。なんだか尻切れトンボエンドと大して変わらない終わり方で、若干釈然としないところもあるのだが、ともあれこれにて『AIR』の3人のヒロインの攻略を完了した。
まだおまけシナリオが少しあるようだが、メインシナリオをクリアすることが本意なのだから、おまけにまでは手をつける必要はないだろう。まあ、そのうちに気が向いたらやるかもしれないが。
2年以上も前に出たゲームの攻略日記など面白くないし、誰も関心はないだろうと思っていたが、予想外の人が言及(12/21付)していてびっくりした。しかし、そのコメントを読んだのは『AIR』を終えた直後だったので、残念ながら役には立たなかった。まあ、事前に読んでいたとしても、同じことだったろうが。
今日はもう時間がないし、明日からは本格的にコミケカタログのチェックを行う予定なので、『AIR』の感想はたぶん今年中には書けないものと思う。いろいろ不満点も述べたが、トータルで見ると世評に違わぬ名ゲームだと思うので、もう少しきちっとした感想文を書きたいとは思っているのだが……。
見出しの「戯言」は「ざれごと」ではなく「たわごと」と読んでほしい。「ざれごと」だと何となく偉そうだから。
トンキンを漢字で書けば「東京」になる。これはさほど驚くべきことではない。だが、ハノイが「河内」になるというのはいかがなものか。「ハノイの塔」(別名「バラモンの塔」)が「河内の塔」になってしまうのだ。ハノイ音頭も河内音頭と区別がつかない。ハノイ長野など河内長野と同化してしまう。こんなことが許されていいのか!
今日『さぬきうどん偏愛(マニアックス)』(小石原はるかと極東うどん喰え喰え団/小学館文庫)を読み終えた。週末に本場東京のさぬきうどんを食べようと思っているので、その予習のつもりだ。でも行列のできる店は嫌だなぁ。
駅から近くて安くて空いてて旨い店をご存じの方はぜひ教えていただきたい。別にラーメンでも日本そばでも構わないので。
ふとこんなこともあろうかとで検索してみた。約9130件。
昨日、『AIR』を一時封印するようなことを書いたが、やはり石清水八幡宮を見ずに引き返すようなことはできず、たっぷりボリュウムのおまけシナリオに乗り出した。そのせいで今日もコミケカタログのチェックは出来ずじまい。滅・こぉるちん、ぴんち。
なお(誰も訊いてはいないが)私がプレイしている『AIR』は前世紀の終わりに出たヴァージョンである。
某掲示板から、誤変換1箇所訂正のうえ引用。
506 :名無しのオプ :02/12/25 03:40悔しい。
今日から滅・こぉるタンは観鈴ちんと一緒。
にははっ、お友達お友達。観鈴ちん凄く嬉しい。ぶいっ。
最近、ミステリの話題を取り上げていない。ミステリを読んでいないので書くネタがないのだ。だが、今日は『ファンタズム』(西澤保彦/講談社ノベルス)を読んだので、その感想文を……と思ったのだが、作者自身が
本格ミステリの意匠を借用しているけれど、「本格」でもなければ「ミステリ」でもない。本書『ファンタズム』はそういう作品です。と書いているので、ちょっと感想文は書きにくい。
メモ。
現象学 入門 解説。
「サンタクロースなんて、いるわけないんだ!」
「いやいや、サンタクロースはいるよ、本当だ」
「じゃあ、その証拠を見せてみろよ」
「証拠はない。でも証明することはできる」
「どっちでもいいよ」
「では、証明しよう。君はさっき『サンタクロースはいない』と言ったね。この仮定が間違っていることを証明すれば、サンタクロースがいることになる。ここまではいいね?」
「そうだ。でもさっき僕が言ったのは仮定なんかじゃなくて本当のことだ」
「ところがそうじゃないんだな。そもそも君は誰がいないと言っているんだい」
「もちろん、サンタクロースに決まっているじゃないか!」
「では、そのサンタクロースとやらは、誰のことなんだい?」
「誰のことって?」
「君はサンタクロースなんていないって言ってるんだろ? でも君が言った言葉は誰かについての発言だよね。ということは、少なくとも君の発言が向けられている誰かがいるということになるんじゃないかな?」
「むむむ?」
「その誰かがサンタクロースじゃない、とは考えられるだろうか? そんな事を考えるのは馬鹿げているよね。君は確かに『サンタクロースはいない』って言ったんだから。君は確かにサンタクロース本人について話をしていたことになる。すると、君の話題が向けられているサンタクロースがいるということになるだろ?」
「むむむ?」
「さっき『サンタクロースはいない』が本当のことだと仮定したら、サンタクロースがいるという結論になってしまった。これは困った。どうしてこんな変なことになったかといえば、最初の仮定が間違っていたからだ。『サンタクロースはいない』が間違いだとわかったんだから、サンタクロースはいるということが証明されたわけだね」
「むむむ……」
「そう、サンタクロースは本当にいるんだよ」
「ふふふ、それはどうかな?」
「やや、誰だ?」
「私は名乗るほどの者ではないよ」
「その、名乗るほどの者ではない人が何か?」
「いや、ね。君たちの会話が面白かったから、私も少し意見を言ってみたいと思ってね。さっき君は『サンタクロースはいない』が誰かについての発言で、その誰かというのはサンタクロースなのだからサンタクロースがいるはずだ、と言ったのだったね」
「そうだけど……」
「だが、『サンタクロースはいない』という言葉は本当に誰かについての発言なんだろうか?」
「当たり前じゃないか!」
「だがね、こう考えることもできる。そもそも『サンタクロースはいない』という言葉は誰かについての発言ではなくて、『サンタクロースる者はいない』ということを言っているのだ、と」
「『サンタクロースる』って?」
「今、私が作った言葉なんだが、サンタクロースに当てはまるけれど、それ以外にも誰にも当てはまらない性質を表す言葉だと思ってくれればいい」
「それで?」
「『サンタクロースる者はいない』という言葉は、誰かについての発言ではなくて、誰もサンタクロースる者ではないということを語っているだけだ。だからね、この発言が成り立つためには別にサンタクロースがいなければならないということにはならないんだよ。『サンタクロースはいない』も同じ事を言っているんだから、見かけ上はサンタクロースについての発言のようでも、実は誰についての発言でもないということになるんだ」
「むむむ」
「じゃ、そういうわけで。さよなら」
かくして20世紀最大の哲学者は20世紀最後のクリスマスにこの世を去った。享年92。
『AIR』のおまけシナリオはようやくここを脱出するところまで進んだ。もう少しで終わりそうな感じがするのだが、さすがにそろそろコミケの準備をしないといけないので、ここで封印。
昨日の話題が今日には時代遅れになっているネット上で、2年以上も前に出たゲームのことを毎日書いていいものだろうか。でも『学園KING』の攻略日記を書いている人もいるのだから別に構わないだろう。マイペース、マイペース……って他人の動向を尺度にしている段階で全然マイペースじゃないな。
コミケカタログチェックはとりあえず初日分だけ。東館は軽く流す程度にして、西館のミステリ系サークル付近を徘徊するつもりだ。といっても同人誌を漁るのではなく甲影会(西地区"へ"14b)あたりで適当に知り合いとお喋りしていることになるだろう。昼過ぎにその辺りで「マリみて」の話をしている怪しい集団を見かけたなら、そのうちの一人はたぶん私だ。
二日目は昼過ぎに会場入りして、午後4時の鉄道系恒例「三本締め」まで会場にいるつもりだ。本当は最終日のほうが気分が出ていいのだが、仕方がない。三本締めと同時に「まんせー」と叫ぶ怪しい集団を見かけたなら、そのうちの一人はたぶん私だ。
三日目は……まだ予定が立っていない。
昨日『マリア様がみてる 子羊たちの休暇』(今野緒雪/集英社コバルト文庫)を読み始めたばかりだというのに、今日本屋でたまたま見つけた『時間は実在するか』(入不二基義/講談社現代新書)をふらふらと買ってしまい、並行して読む羽目になってしまった。マクタガードの時間論に焦点を絞った本が新書で出たというのは驚きだ。ピンとこない人は島久平の小説が文庫で出たときの衝撃を思い出していただきたい。それでもピンとこない人は諦めてほしい。
10年前ならハードカバーでしか/でさえも出せなかったような本が、新書や文庫で流通されるようになったのは読み手にとってはいいことだ。その背景事情を考えると手放しでは喜べないけれど。
アクセスログより。滅 本格?
ハヤカワSF文庫は今は無い。君たちが言っているのはハヤカワ文庫SFだ。
そういえば、私が子供の頃は「ハヤカワ文庫」の「SF」とか「FT」とか「JA」とか「NV」のほかに「ハヤカワ・ミステリ文庫」というのもあった。
というわけで感想文を書こうと思ったのだが、東へ向かって出発するときが近づいてきたので、その余裕がない。
一昨日読み終えた『ファンタズム』の感想文もまだ書いていないのだが、これでアクセスしてきた人がいるようだ。申し訳ない。
昨日の「ハヤカワ・ミステリ文庫」の話について、姫川みかげ氏からメールを頂いた。
確かに背表紙は今や、どれも「ハヤカワ文庫」という表記のみで、ラベル部分にこれは意外な盲点だった。というか私が迂闊だっただけか。
SFとかFTとかHMとか書かれてるだけですが、表紙をめくったところの上部には
「ハヤカワ文庫SF」とか「ハヤカワ文庫FT」と表記されており、ミステリは
「ハヤカワ・ミステリ文庫」と現在でも表記されています。
解説などに、既刊リストが付いている場合でも、そこでは「ハヤカワ・ミステリ
文庫」と表現されているので、今でもこの言い方で間違ってないと思うのですが…。
私信:命日についてはここを参照しました。
「火箸を振り回した人」はウィトゲンシュタイン、「数は概念の外延であると定義した人」はフレーゲ。「屋根から墜落したと物語に書かれる人」だけ解らないのが無念。
メモ:クリスマスにシュッツの「クリスマス・オラトリオ」を聴いた人の日記。知人から教えてもらったのだが、なかなか面白そうなので早速定期巡回先に追加。
もひとつメモ:仁和寺にある法師(『徒然草』第52段)
次回更新は12/31(火)予定。
ようやく帰ってきたので、形式的に更新。詳細はここ……ではなくて、ここかここを見ていただきたい。
余計なことだが、私は新木場へは行っていない。りんかい線には何度か乗ったが、すべて大井町方面から。
旅行中に会った人や入手した同人誌などの話はそのうちまとめてアップするつもりだ。今晩は疲れたのでこれでおしまい。Mystery Laboratory。
今日は有田鉄道の最終日だ。私はこの前全線完乗したところなので、今日は家に引きこもって静かに冥福を祈ることにするが、きっと現地にはたくさんの人々が集っていることだろう。ダイヤどおりだと、もう運転は終了しているはずだが、もしかしたら臨時列車が今も走っているかもしれない(この文章は午後1時過ぎに書いている)。だが、いずれにせよ、今日が有田鉄道最期の日であることに違いはない。これでまた一つ、古きよき時代の遺物が失われていく。
合掌。
そろそろコミケのレポートを書いておかないと忘れてしまうのだが、性格上どうでもいい細部を書きたくなって文章が長くなり、書いている途中でしんどくなって放り出してしまうことが多く、実際これまでコミ無レポなどまともに書いた覚えがないくらいなので、私が見聞きした出来事を順番に書いていくという方法ではなく、コミケ会場その他でお会いした方々とそうでない方々について数行ずつ書いていくという方法をとることにした。なお、人名の後の数字は一日目(12/28)、二日目(12/29)、三日目(12/30)の別を表す。