日々の憂鬱〜2003年1月上旬〜


1.10497(2003/01/01) 喪中欠礼

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301a.html#p0301

 初詣に行ってきた。他の地方ではどうだか知らないが、私の家の近所では深夜12時前に家を出て日付が変わるとともに氏神様にお参りするという風習がある。それが終わったらさっさと帰って寝る人もいるし、さらに遠くの有名神社へ向かう人もいる。私は出不精なので前者である。
 新年を迎えたという実感は全くなく、昨年の総括も今年の抱負も何にもない。昨日「たそがれSpringPoint」のアクセス数が60000に到達したので何となく節目のような気もするが、暦とは全く何の関係もないことだし。
 そんなわけで、めでたさもちうくらい、なのだが、ともあれ今年もよろしく。

 なお、見出しの「喪中」は有田鉄道のこと。私の家族に不幸事があったわけではない。

1.10498(2003/01/01) どこまで行ってもお茶の時間

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301a.html#p030101b

 小春日和に誘われて特に用もないのに街を散歩していると、街路樹の下に立ちすくむメイドさんを見かけた。頭には純白のカチューシャ、黒いワンピースに白いエプロン、胸元には真っ赤なリボンをつけて、お屋敷でモップを持って走り回る元気な姿が目に浮かぶようだが、眼前の彼女は買い物袋をぎゅっと握りしめて、しょぼんとした顔で道ゆく人々を眺めている。
「やあ、メイドさんだ、メイドさんだ」とはやし立てる子供たち。この街でメイドさんを見かけることは稀だから、指さしたくなる気持ちもわかる。
 見て見ぬふりをしようとも思ったけれど、弱り切ったトホホ顔を見るに見かねて声をかけた。
「どうしたのですか、かわいいメイドさん」
「あなたは親切な方ですね、ありがとう。私は右も左もわからない迷いメイドです。どうか私にお屋敷までの道を案内してください」
 聞けば彼女は町はずれの大きな屋敷に最近越してきたばかりで、今日はじめてのおつかいで街へ買い物に来たのだという。
「それは可哀想に。幸い大した用事があるわけでもないので、私がお屋敷まで同行しましょう」
「ありがとうございます、親切な方」
 彼女はワンピースの裾を軽く摘みながらペコリと頭を下げた。その所作から上流階級の令嬢を連想する。そういえば最近妙な噂が流れていることを思い出した。
「かわいいメイドさん、こんな話を知っていますか?」
「なんでしょうか、親切な方」
「町はずれに住む高貴な令嬢の話です。彼女の父親は海外航路の船長、母親は都会でファッションデザイナーとして活躍していて、大きな屋敷にひとりで住んでいるそうです」
「まあ、それは寂しいこと」
「いや、正確にいえば一人暮らしではなくて、彼女専属のメイドさんが何人もいるそうです。それがいけなかったのかもしれません。メイドさんたちに取り囲まれ、家族のふれあいを知らずに育ったその令嬢は、いつしか自分自身がメイドさんだと思いこむようになってしまったのです。しかしそのお屋敷には仕えるべきご主人様がいないので、彼女は街に出てきて、通りすがりの人を言葉巧みにたぶらかしては屋敷に連れ帰り、ご主人様に仕立て上げてしまうのです」
「それは恐ろしい話でございますね、親切な方」
「かわいいメイドさん、あなたのお屋敷にはそのようなご令嬢はいらっしゃらないでしょうか?」
 隣りを歩くメイドさんはにっこり笑って「いいえ」と答えた。「私がお仕えしているお屋敷にはお嬢様はいらっしゃらないのです」
「ああ、そうですか。疑ってすみません」
 そんな話をしているうちに家並みが途切れて田畑が目につくようになってきた。のどかな農村の丘の上に大きな西洋館がそびえている。
「あ、お屋敷が見えてきました!」と嬉しそうな声をあげるメイドさん。もし別の屋敷だったらどうしようかと思ったが、これで一安心だ。
「なんとかお茶の時間に間に合いました。私のような卑しいメイドのためにお屋敷をご案内いただきありがとうございます、ご主人様。さあ、早速お茶の用意をしますから、ご主人様は居間でお待ち下さい」
「そうだね。おいしいロイヤルミルクティーが飲みたいな」
「はい、かしこまりました」

 参考:制服学部メイドさん学科

1.10499(2003/01/01) 今年のまとめ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301a.html#p030101c

 2003年は激動の年だった。まだ今年が終わったわけでもないのに「だった」と過去形で書くのは気が早すぎるかもしれないが、来年の話をしているわけではないので鬼が笑うこともないだろう。今日は2003年の出来事を振り返ってお喋りしてみることにする。キーワードは「双竜争珠」。
 「双竜争珠」というのは麻雀の役名である。正月元旦からAI麻雀で遊んでいるといきなりこんな役であがってしまい驚いた。手牌は五萬、六萬、七萬、八萬、九萬、三筒×2、四索、五索、六索、七索、八索、九索で、四萬で栄和したので、ただの平和だと思ったのだが、これがなんと満貫だった。
 いったいこの「双竜争珠」とは何なのかと思って検索してみた。サイトごとに紹介している内容がばらばらなのだが、最低条件としては雀頭が筒子で萬子と索子でそれぞれ順子を2つずつ作る必要がある。さらに雀頭は一筒(または五筒)に限るとか、順子は連番になっていないといけないとか、萬子と索子がそれぞれ同じ数字で順子になっていないといけないとか、いろいろ追加条件があるようだ。
 ともあれ、こんな珍しい役であがれるなんて新年早々ついている、そう思って喜んだのがまるで今日の昼過ぎのことのようだ。今から考えれば、この時に一年分の運を使い果たしていたのかもしれない。
 今年も残すところあとわずかだが、一日一日を大事にして、これ以上の不運を避けて暮らしたいものだ。来年こそはいい年でありますように。
 あ、来年の話をしてしまった。

 『AIR』のおまけシナリオをクリアした。これでコンプリートかと思ったのもつかの間、さらに隠しシナリオがあることが判明した。泣く泣くプレイ再開して8/6まで進めたところで放り出して現在にいたる。このゲームのシナリオはいったい何メガバイトあるのだろう?

 新年最初に聴いた音楽は昨年末に東京で買ったシュッツの10枚組CDから『ダヴィデ詩篇曲集』。音とびが激しくほとんどラップ状態だった。ベルリン・クラシックスの廉価版(税抜き3390円)侮るべからず。もしかしたらプレイヤーのほうの問題かもしれないが。

1.10500(2003/01/02) 成し遂げた

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301a.html#p030102a

 V林田氏の温かい(?)励ましのおかげで、ようやく『AIR』を完全クリアした。CG100パーセント(カウントされない「マスタ―・オブ・裏庭」のCGも見た)だし、もうおまけシナリオも隠しシナリオも残っていないはずだ。間に合った。
 早速感想文を書こうと思ったのだが、よく考えれば2年4ヶ月前のゲームだけに既に多数の感想文・評論・レビューの類が書かれている。中にはゲーム本編だけでなく、他の媒体で発表されたサイドストーリーなども視野に入れた力作もあり、私など到底かなわない。また本編に限っても、私がプレイ中に考えたことのほとんどは既に他の人が指摘済みであり、これ以上何も語るべきことはない。
 ただ、せっかくこの長大なゲームをクリアしたのだから、何か一言言っておきたいという気もする。そこで考えついた一言は、『金魚の寝言』だったのだが、この一言では全くわけがわからないだろうから、もう一言付け加えておこう。『殺す者と殺される者』。ますますわけがわからない。

1.10501(2003/01/03) 『AIR』の感想

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301a.html#p030103a

 味も素っ気もない見出しだ。内容も見出し以上に素っ気ないと思うので覚悟して読んでほしい。なお、以下の文章は『AIR』(初回版)の内容に大きく踏み込んでいるので、未プレイまたはプレイ中の人は絶対読まないようにお願いする。読んでも意味がわからないだろうし。

 まず大ざっぱな印象を一言で述べると、「長い物語」である。これが天国的な長さに感じられるか、それとも地獄的な長さだと思うかは人それぞれだろうが、私はたとえ天国的な長さであっても洗練された簡潔さには劣ると考える。『AIR』は果たしてこれだけの長さを必要とするゲームだったのか? DREAMの美凪シナリオ後半とAIRが特に冗長に感じられた。
 他方、短すぎると感じた箇所もある。それはSUMMERの冒頭付近である。柳也が神奈を連れて社から逃げ出そうと考えるに至るまでの過程にもう一つくらいエピソードがほしいと思った。もしかしたらこの感想はDREAMの執拗なエピソードの積み重ねに感化されたものかもしれないが。
 もちろん、ゲーム全体のバランスを考えれば、選択肢なしで延々と語られるSUMMERは今のままでも長すぎるくらいだ。私はSUMMERに対して「長すぎ、かつ、短すぎる」という矛盾したことを言っていることになる。これは困った。
 SUMMERは平安時代を舞台にしており、その時代の制度や習慣などを読者に理解させないといけないので、DREAMやAIRに比べると地の文が多い。会話中心のテキストなら、マウスクリックで「間」を体験することに意味があるが、地の文が細切れに表示されても読みにくいだけなので、いっそSUMMERだけ画面全体表示(いわゆる「ビジュアルノベル」方式)にしてしまったほうがよかったのではないか。それなら、あと一つか二つエピソードを追加しても、さほど長さを感じずに読むことができたのではないかと思う。
 逆に美凪シナリオの後半はエピソードを整理して短くまとめたほうがよかっただろう。プレイ中、何度「みちる、さっさと消えてしまえ」と思ったことか。

 さて、問題はAIRだ。前半はDREAMの観鈴シナリオの繰り返しで、テキスト量のわりに冗長に感じられる。同じ出来事を視点をかえて描写することで違った側面が見えてくる面白さがないことはないが、会話中心のテキストなのでその効果はあまりあがっていない。だったらAIRは往人の死(消滅?)から始まってもよかった、と言ってしまうのは乱暴だろうか。
 AIRでDREAMと同じ時間を繰り返すことには形而上学的な問題もある。これはプレイヤーの誰もが引っかかる点で、多くのレビューで指摘されている。往人はただ同じ世界で時間を遡って転生し、そらとして観鈴の前に姿を現したのか? それともDREAMとAIRはパラレルワールドの出来事を描いているのか?
 選択肢つきの物語はもともと形而上学的問題を孕んでいる。読者もしくはプレイヤーは選択肢Aを選んだあとの展開と選択肢Bのあとの展開の両方を知ることができる。では、二つに分岐した流れは同一世界に属するのか、それとも世界が二つに分裂してしまったのか? もし後者だとすると、複数の世界の流れを描く物語自体の存在論的身分はどうなるのか? だが、この問題はたいていの場合表面化することなく、読者(プレイヤー)は自分がひとつの世界の人物であるかのように行動することができる。
 ところが、AIRではその問題が前面に押し出されてしまっている。プレイヤーに対して物語の形而上学への扉を開くつもりだったというわけでもないだろうから、これは瑕瑾とは言い難い。
 ついでに言うと、DREAMの8/13には雨が上がっているのにAIRの同日は夜まで雨が降り続いて夏祭りが中止になっているというのは、やはりよくないのではないだろうか? 晴子が「やっぱりうちのせいか…/うちがおらへんかったら、今日も晴れてて…/ここも、夏祭りで賑わってたんやろか…」と呟くシーンがあるが、だからといって晴子の存在もしくは言動が台風を呼んでしまった、などという滑稽な解釈(多世界説では「往人は他の点ではDREANの世界と非常に似通ってはいるが、たまたま夏祭りの日に台風が来るという点で違っている世界に転生した」という解釈になるが、これも滑稽さの度合いでは大差ない)を支持する気にはなれない。ここは、作中世界のメカニズムについて何らかの解釈を施すのではなく、単に製作者側のご都合主義による綻びとして軽く流しておこう。

 解釈の話が出たところなので、二つの優れた『AIR』解釈サイトにリンクしておく。ひとつはその名もずばりAIR解釈ページ、もうひとつはぱすてるげ〜ま〜ず内の「AIR ゲームインプレッション」(当該ページの要請に従い、直リンクは自粛しておく)である。他にもあると思うのだが、とりあえずこれだけ。

 昨日の記事に反して、既に語り尽くされた事ばかり書いてしまった。少しは独自色を出したいものだが、誰も言っていない事を言おうとすると、どうしようもなくつまらない事か全くお話にならないくらい的はずれな事のどちらか(または両方)になってしまう。たとえば――
 SUMMERの冒頭で「正歴五年 夏」と表示される。西暦でいえば994年だ。『AIR』のオープニングに「the 1000th Summer」と表示されるが、これがDREAMとAIRを指しているのだとすれば、1994年夏ということになる。しかし7/17は作中では月曜日だが1994年では日曜日だったので、日付と曜日が食い違っている。作中の曜日と一致するのは、1989,1995,2000,2006などだが、1989年だと早すぎるし2006年では遅すぎる。残るのは1995年と2000年のどちらかだ。
 では、どちらがゲーム内の年なのだろうか? このことについて癒しの解剖学 ――― 『Air』/KeyBM98'S ROOMつう)に興味深い考察がある。結論としては2000年と解釈するほうが自然だそうだ。
 だが、ここであえて異を唱えてみよう。確かにゲーム中では7/20を表示する数字は赤であり、海の日を指しているように思われる。しかし、その日に観鈴は補習のため学校へ行っているではないか? どうせ夏休みなのだから平日も祝日も関係ない、などと言ってはいけない。教師にとっては夏休み中も勤務日である(昔は「自宅研修」と称して出勤せずにすんだが……)。国民の祝日に勤務を命じた場合には雇用者は休日勤務手当を支払う義務がある。サービス出勤ならその必要はないが、体育会系の部活動ならともかく、補習程度でわざわざ休日に出てくることもあるまい。よってゲーム内の7/20は平日であると考えられる。
 では日付表示の配色はどうなのか? ここで私は再び作中での整合性を図るための解釈を放棄することにする。これはゲーム製作者のミスである。おそらくシナリオライターから日付画像作成担当への連絡に不備があったのだろう。『AIR』開発時には既に1995年のカレンダーなどないから、つい目の前の2000年のカレンダーを見ながら作業してしまったものと思われる。
 なんだか邪馬台国なみの苦しい解釈だが、無茶は承知のうえだ。先を続ける。
 DREAMが神奈が昇天した正歴五年の次の年(なぜ次の年から起算しないといけないのかはわからないが、たぶん一周忌と三回忌の違いのようなものだろう。……説明になっていない?)から1000回めの夏、すなわち1995年の出来事を描いたものだとして、それに何の意味があるのだろうか? 単独では何の意味もない。だが、ここでAIRを重ね合わせるとある意味が生じてくるのである。
 さらに苦しくなってきたが、気にしてはいけない。
 私の考えはこうだ。DREAMの観鈴シナリオの最後で往人の死が暗示されているが、死そのものが記述されているわけではない。人は誰しも自分の死を体験することはできないのだから当たり前だ、と誰もが思う。そこにトリックが仕掛けられていたのである。往人はこの時仮死状態に陥っただけであり、実は死んでいなかったのだ。
 そして数年を経て往人は蘇生する。柳也と裏葉の子供が生まれてからちょうど1000年後に(SUMMERの記述では柳也と裏葉が知徳の寺にたどり着くまでの経過時間があいまいなので、子供が生まれたのは999年とも考えられるが、もしそうなら翌年から起算すればいいだけの話)。もちろん人間が鳥になるわけはない。だが、往人は5年間の昏睡を経て自分がカラスになったかのような妄想にとらわれている。たぶん観鈴と初めて会ったときにいたカラスに自己を投影してしまったのだろう。
 AIRの前半部分の大部分は往人の白昼夢であり、5年前の記憶の残滓である。観鈴や晴子、そしてその他の人物は皆5歳ずつとしをとっているが、往人の目には5年前の姿に見える。そして、彼らが交わす会話は脳内変換されて5年前の会話に置き換わる。この部分で客観データとして信頼できるのは画面左上の日付表示だけである。これはゲーム内世界にあるものではないので。
 8月に入っても自分がカラスであるという妄想はそのままだが、現実認識は多少まともになっている。なぜなら、往人は5年前の自分の仮死以降の記憶を持っていないため、現に見聞きしている事柄に置き換えるべき出来事がないからである。敬介の出現や晴子の苦悩などをすべて往人の妄想だとみなす必要はない。
 そして運命(?)の8/13。5年前と同じく夏祭りが開催される予定だったが、運悪く暴風雨のため祭りは中止された。別に晴子が台風を呼んだわけではなく、運が悪かっただけだ。まあ、そんな年もあるだろう。
 その後怒濤のラストシーンへと向けて物語は急転回していくわけだが、正直いってこの辺りの解釈は私の手に余る。ただAIRが単に時間を遡ってDREAMを繰り返したわけでもなければ、往人がどこか別の世界へ行ってしまったわけでもないということを示しただけで満足することにしよう。

 あえて無理筋を狙ってみた。これで前例があれば泣くしかない。
 この他にも、高野山に囚われていた八百比丘尼は贋者で、本物のほうは金剛山のほうにいた……というネタを考えてあったのだが、正歴五年当時にこの山が「金剛山」と呼ばれていたかどうか調べることができなかったので断念した。実現していれば、『AIR』が大規模な時間トリックと空間トリックを備えた技巧作であることを明らかにすることができたのだが……残念だ。だが「汝、身の程を知れ」という格言もあることだし、之くらいにしておいたほうがいいだろう。
 これで私の感想文は終わりだ。さようなら。

1.10502(2003/01/03) 冬休みの宿題

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301a.html#p030103b

 今日、生まれて初めて魚沼産コシヒカリを食べた。いや、これまでにも食べたことがなかったとは断言できないのだが、少なくとも自覚的に食べたのは今日が初めてだ。
 魚沼産コシヒカリといえば誰もが『マリア様がみてる 子羊たちの休暇』(今野緒雪/集英社コバルト文庫)を連想することだろう。私がこの本を読み終えたのは昨年12/27、コミケットに向けて旅立ったまさにその日のことだった。わずか一週間前のことなのに、なんと遠くへ去ってしまったことだろう。もはや取り返しがつかないという点では一週間前も千年前も同じことだ。いや、少なくとも私は千年前には「マリみて」を読んでいなかったので今さら取り返したいとは思わないから、一週間前のほうがより"取り返しのつかなさ"の程度が大きいようにも思われる。
 「マリみて」シリーズ既刊11冊はまとめて読んだので『子羊たちの休暇』は私が初めて"待って読んだ本"だ。これは本に限ったことではないが、欲しいものを待っているうちに期待がどんどん募っていき、現物に満足できなくなることがよくある。余談だが、私は奈須きのこの次作(ゲームではなく小説)を心待ちにしている。いざ読んでみたら小説そのものの出来とは関係なく失望してしまいそうな気がして怖いのだけれど。
 さて、私が定期巡回しているサイトやコミケ会場で会った人々などの話を総合すると、『子羊たちの休暇』の評価はあまり高くはない。紅薔薇姉妹中心で黄薔薇、白薔薇姉妹はとってつけたような出番しかないし、元「白薔薇さま」など影も形もない。シリーズ全体の流れからすると、あってもなくても構わない番外編に過ぎず、単体でみてもお嬢様方の祐巳いびりが中途半端で萌えない(?)し、オチも薄々わかってしまう。まあ、そんなところだろう。
 私もそのような評に異存はないのだが、つまらないとは思わなかった。私は「マリみて」にキャラ萌えを求めてはいないし、ひねりの効いたプロットや起伏に富んだストーリー展開も――あるに越したことはないが――必要不可欠だとは思わない。では、私にとって「マリみて」の魅力は何か? あれでもなく、これでもない、と排除していくと何も残らない(しかし魅力は歴然として、そこにある)。強いていえば、細やかな言葉遣いが産み出すそこはかとないユーモアと穏やかな雰囲気だろうか? なんだか違うような気もするが、うまく表現できないので仕方がない。
 『子羊たちの休暇』は誤植が非常に多くて興をそがれることがあり残念だったが、その点を除けばシリーズ既刊と同じくらい文章を楽しく味わうことができた。たとえば、70ページ付近のダブルミーニングの妙(ミステリ作家ならこれだけのネタで短編小説を一つこしらえることだろう)、101ページのキヨさんの推理(これもミステリっぽい)、124ページで「漱石の『こころ』は主人公が親友を裏切る話」とだけ書いて裏切りの内容を伏せておく匙加減(私は『津軽』は読んでいないが、読めばきっと新しい発見があるのだろう)、そして98ページの「グノーのアヴェ・マリア」(ここを参照。他の巻でもこの曲を演奏するシーンがあるが、私の記憶では伴奏にあわせて歌を歌ったという記述はどこにもない)。謎かけ、暗喩、語呂合わせ、そして「わかる人にはわかる」微妙なネタの数々。私が素通りしている描写の中にも、楽しみの種がさりげなく埋め込まれているのだろう。そう考えると少しもったいない気がするとともに、ちょっと贅沢な気分になる。
 何かにつけて刺激が多いものが幅を利かせる昨今だが、このような穏やかでほのかな雰囲気の、しかし生ぬるくもなければ平板でもない巧みな小説が書き続けられ、多くの読者に読まれているというのはいいことだ。そして、私がその小説の読者の一人であるということに本読みとしてのしあわせを感じる。


 柄にもなく神妙な事を書いて疲れたので、いつもの雑談で凝りをほぐすことにしよう。

 「あけましておめでとう、ことしもよろしく」を略して「あけおめ、ことよろ」と言う。いつ頃誰が言い出したことなのかは知らないが、あまり「美しい日本語」ではない。幸い私の付近にはこんな言葉を使う人はいないのでどうでもいいのだが、どうでもよくない場もあるわけで冬野氏が吼えている(1/1〜1/3付)。その後でバーチャルネット一般人無双(1/3付「あけましておめでとうございます」)を読んだら、思わず吹き出してしまいそうなほど笑ってしまった。

 年始からずっとシュッツの宗教曲を聴いている。今日のような雨の夜に一人で部屋にこもって聴くと、ほどよく鬱になる。モンテヴェルディに師事して壮麗なヴェネツィア様式を身につけた人なのに、骨の髄までドイツ的な峻厳な音楽ばかりで、聴けば聴くほど滅入ってくる。いい感じだ。

 神経衰弱に使うカードが「シュレディンガーの猫」状態だったなら、いったいどういうことになるだろうか? 予め決定されていることは、52枚のそれぞれが別のカードであるということだけで、それぞれのカードがどれなのかはめくってみて初めて決定されるのだとすれば。
 何回めくってもカードの同一性が損なわれないなら、別にどうでもいいような気もする。

 そろそろ去年読んだ本のベスト10をまとめてみようと思っている。1位は文句なしに『空の境界』、2位は「マリみて」シリーズ合わせて一本にしようか、それとも『多情剣客無情剣』にしようか。出版年に拘らなければ『退屈姫君伝』を入れてもいい。
 選定中に気づいた。ああ、ミステリがひとつも入らない。何ということだ!

 昼に書いた『AIR』の感想文の補足。DREAM1995年説の傍証として、携帯電話が作中に出てこないことを挙げておこう。観鈴や美凪は持っていなくても不思議はないが、佳乃は聖に携帯電話を持たされていると考えるほうが自然ではないだろうか。

 大晦日からトップページをモノトーンにしているが、三が日も今日で終わりなので、次回更新時には元の配色に戻す予定。

1.10503(2003/01/04) だらだら

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301a.html#p030104a

 よく考えると、新年に入ってから私はまだ一冊も本を読んでいない。というか、最後に読んだのは昨年12/27の『マリア様がみてる 子羊たちの休暇』だ。年末は本が読めるような状況ではなかったからがないが、今のうちに冊数を稼いでおかないと年間100冊の目標を達成することができない。でもそんな目標を立てた記憶はないから、これでいいのだ。おしまい。

 light as a feather100,000Hit突破記念企画「俺に訊け。」回答がアップされている。このページで2箇所ほど個人的に愕然とした回答があったのだが、それはさておき、市川憂人氏の質問なのか『Kanon』『AIR』評なのかよくわからない長文が興味深かった(市川氏自身のサイトにこの2作のレビューがあっただろうかと思い探してみたが、2001年6月の日記(『Kanon』)と2001年9月の日記(『AIR』)で軽く言及されているのを発見しただけだった)。
 『Kanon』と『AIR』を比較すると、ゲームとしての完成度では確かに『Kanon』のほうが勝っている。また、いわゆる"萌え"要素をとってみても『Kanon』のほうが上、というか『AIR』はこの種のゲーム全体の中でも極めて"萌え"要素に乏しいゲームだろう。最初から全くないというのではないが、キャラに萌えようとする情動にブレーキをかけるようなストーリーになっている。
 ただ、私の個人的な評価としては『AIR』に軍配を上げたい。『ONE』で衝撃を受け、待ちに待った『Kanon』は期待が高かまりすぎたせいか、そこそこの出来にしか感じられなかったのに対し、いちおう初回版発売日に入手しながらもずっと放置ぷれい状態だった『AIR』は過剰な期待なしに素直に遊ぶできたからだ。もう一つ言うと、どうも私は『Kanon』のメインシナリオの温かさが肌に合わない。舞シナリオと真琴シナリオは好きだったのだが……。
 『AIR』の凄いところは、プレイヤーが主人公だと思って感情移入の対象にしようとする国崎往人が実は主役ではなく、途中でフェイドアウトしてしまうという傍若無人な構成にある。そりゃ欠点だろう、とツッコミが入りそうだ(実際、市川氏の批判の眼目もそこにある)が、プレイヤーの最初の立脚点が崩されて、先の見えないところへとどんどん流されてゆく不安定さ、虚脱感は、まるでホームズ物の長編(ただし『バスカヴィル家の犬』を除く)を読んでいるかのような、あるいはチャイコフスキーの『ピアノ協奏曲第1番』を聴いているかのような……いや、他ジャンルを引き合いに出すまでもない。『AIR』は『MOON.』への先祖帰りである(むろん、リメイクということではない)。あの奇妙な感覚をもう一度味わうことができたというだけで十分だ。
 ところで、気になるのはKeyの次作『CLANNAD』だ。予備知識がなければ多分いたる絵だとは気づかないほど進化したグラフィックス(あの触覚頭はいかがなものか)とか、とうとう鬱だ『SNOW』に先を越された(?)発売日とか、巷に流れる年齢に関する噂とか、また一人馴染みの名前が消えてしまったこととか、いろいろ不安材料は多いのだが、やはり最大のポイントは、コミケで売っていたKeyパックのパンフレットに書かれていた次の一文である。

「CLANNAD」は、Keyの集大成としてお送りする作品です。Keyはどこに向かうのか?、ではなく、Keyはここに終着した、というひとつの解答でもあります。
 読みようによっては「これにてKeyは解散!」ともとれる微妙な言い回しだが、それよりも「集大成」という文言のほうが気になる。『Kanon』と『AIR』を世に出して、これ以上何をしようというのだろうか? マンネリズムに陥るか、セルフパロディに走るか、それとも文字通り"summa"を構築するのか?

 ゲームの話ばかりしていると、ミステリ系更新されてますリンクあたりから来た人に申し訳ないので、そろそろミステリの話でも。といっても最初に書いたとおり今年はまだ一冊も読んでいないので、去年最後に読んだ『ファンタズム』(西澤保彦/講談社ノベルス)の感想を書いておく。なお、いちおう核心部分は文字色を背景色に同化させておくが、未読の人はここまで読み飛ばしてほしい。
 この小説はミステリではない。作者はそう断言している。だが、読んでみると途中までは連続殺人犯と捜査陣の視点から交互に描いたサスペンス小説のように思われる。すると、この小説の結末は……というふうに読者は考えを巡らせていくことになる。とはいえ「天使の階段」の『ファンタズム』感想リンク集から辿ってみたところ、作者の仕掛けを全部見抜いた人はないようだ。ただ、作者の言葉がなければ「『月長石』だと思って読んでいた小説が、実は『クルンバーの謎』だった!」という感じの驚きを味わうことができたのではないだろうか。そんな驚きは味わいたくない、という人のほうが多いかもしれないが。
 私は不可能状況や完璧なアリバイにはまともな解決はないだろうと思いながら身構えて読んだが、被害者の名前の共通点は何かあるだろうと勘ぐりながら真相を見抜くことができなかった。また犯人の視点での描写に仕掛けられた叙述トリックは他の人の感想文を読んで初めて気づいたくらいだ。そんな私が言うのもどうかと思うがこれは誤読ではないだろうか? 『ファンタズム』はドッペルゲンガーネタではなくてテレポーテーションネタだと思う。
 作者はこの小説はミステリではないと言っているが、視点をかえれば「ある特殊な趣向を用いたミステリ」であるとも考えられる。その趣向はアンフェアなのだが、それは覚悟の上だからいいとしよう。私には次の点が気になった。

  1. 第五部の終わりで交換殺人の仮説が浮上したのだから、一連の事件の現場に遺された指紋を米国の指紋データベースと照合した筈だが、その段階で彼の地の殺人現場に遺された指紋と一致していることがわからなかったのだろうか? 有銘継哉の指紋を採取する前に、それくらいやっていそうなものだが。それとも1992年の段階では、技術的に指紋データの太平洋を越えた電送は不可能だったのだろうか?
  2. 谷萩紘介はいかにして有銘継哉が犯人だと知ったのか?
 ところで、この小説は基本的に各場面ごとに一人の視点人物を設定し、その人物の認識と思考内容を追うという形で記述しているが、ときどきその枠組みを超越してストーリーの流れを先取りしたような記述が見られる。
 たとえば、
 もし仮にここで捜査陣が、前任のLL管理者の名前を訊くなり調べるなりしていたとしたら、あるいはこの事件はまるで異なる展開を見せていた可能性はある。しかし司辻も柘本も、この段階ではそこまで考えが及ばなかった。
というように(57ページ。「辻」のしんにょうは私の環境では三画だが、もちろん原文では四画である)。
 これは西澤氏の小説ではよく使われる手法で、別に『ファンタズム』に限ったことではない。この手法はしばしばアンフェアな叙述の原因になるので私は好きではない(それ以前に、作者の手が透けて見えるから嫌だと思う人もいるだろう)が、『ファンタズム』に限れば、予め定められたカタストロフィーへと至る道筋を告げる神託の役割を果たしていて効果的だと思う。
 人によって大きく評価が別れそうな作品だが、私は楽しめたのでよしとする。

 ふう。調子に乗って書きすぎた。ここらで一休み。

 相変わらずシュッツを聴いている。今聴いているのは『マタイ受難曲』(SWV479)だ。同じ受難曲でもバッハだとコラールや自由詩に基づくアリアをふんだんに盛り込んで賑やかなのだが、シュッツの場合(当時は大抵そうなのだが)は、ほとんど全編が聖書のテキストどおりに歌われる。通奏低音もその他の伴奏もない地味な曲だが、それでもクライマックスの恨み節はそれなりに盛り上がる。

JESUS
Ely, lama asabtani.
EVANGELIST
Das ist : Mein Gott, warum hast du mich verlassen?
 全編喋りっぱなしの福音史家(最近の訳では「福音書記述者」。ここではマタイの事)がここだけ歌う。ただし、直前のイエスの言葉をドイツ語で繰り返すだけで、自分自身の言葉で歌うわけではない。バッハの『マタイ』だと「ペテロの否認」の場面でも福音史家に歌わせているが、シュッツは厳格にして質実剛健、そんな演出はしない。語り手が物語の登場人物に共感して自らの立場を振り捨てて感情を露わにする、という趣向をどう評価するか。難しいところだ。
 さて、続いて『ルカ受難曲』(SWV480)を聴くことにしよう。

 3日連続でエポック社の「ドラえもん ドカン! わくわくくうきほう!!」(こんなゲーム)で遊んだら、喉が痛くなった。

 今年は年賀状が12枚届いた。毎年1枚も書かないのに大したものだ。去年の1/4の記事を見ると、返信は出したようだ。今年もいちおう年賀はがきは買ってあるのだが、なかなかその気分にならない。
 こうやってだらだら駄文を書き連ねているのはある意味で現実逃避だということはわかっている。年賀状なんか決まり文句を書いておけば別に何の問題もないのだから、12枚くらいさっさと書けばいいのだが、なかなか弾みがつかない。ウェブ上で公開している文章は不特定多数の人々に向けたもので、実際にはさほど「多数」ではないが、少なくとも特定の個人に向けてメッセージを発しているわけではない。たまに「私信」と称して個人あてのメッセージらしき文章を書くこともあるが、もちろんそれは私信などではない。年賀状とはわけが違うのだ。
 理屈にもなっていない理屈をこねてはみたが、それで年賀状の件が片づいたわけではない。親戚ご一同様が帰ってしまって静かになったところなので、今晩こそ返事を書くことにしよう。うん、そうしよう。
 ところで、某氏から来た年賀状に次のようなことが書かれていた。

サンタクロース問答を貴サイトにて拝読、論理学とは壮大な遊び心(←無論ほめ言葉です。念のため)かと感じたのは勘違いでしょうか? 今年もよろしく。
 ええと、ここからは私信。
 論理学は遊び心の産物です。勘違いではありません。数学者に数学者の楽園があるように論理学者には論理学者の楽園があります。私は論理学者ではなく、論理学者の楽園に足を踏み入れたこともありませんが、論理学の楽しい雰囲気を味わって、同じ楽しみをより多くの人々と共有したいと思っています。もっとも私は論理学のevangelistになるだけの力量がありませんので、目についた面白そうな本やウェブサイトを紹介するのが関の山ですが。
 ところで「サンタクロース問答」というのは昨年のクリスマスに書いたこの文章のことでしょうか? お褒めいただいて恐縮ですが、実はこの文章には元ネタがあります。アメリカの哲学者クワイン(クワインについてはここを見て下さい。私には理解不能な言語で書かれていますが、たぶんクワインの紹介サイトだと思います)の論文“On What There Is”(これも私には理解不能な言語で書かれているので、邦訳で読みました。概要はこことかここを参照して下さい)に出てくる「ペガサスる」を「サンタクロースる」に置き換えただけです。元ネタと違う点があるとすれば、それは私の誤解に基づくものです。
 一般受けしないネタですみません。今後も突発的に意味不明な文章を書くことあると思いますが、引き続き「たそがれSprintPoint」をご贔屓にしていただけると幸いです。

 ああ、『ルカ』も終わってしまった。では、『ヨハネ受難曲』(SWV481)を聴くことにしよう。元日からずっと聴き続けてきた10枚組CDもこれが最後。

 朝から何度も求道の果てが更新されているが、特に内容が変わっているようには見えない。もしかして

50万ヒット&6周年企画 「らじに質問」(目標100人/現在 xx人) 募集期間:12/25(水)〜1/25(土)
の人数のところだけを逐一更新しているのだろうか?
「いやぁ、世の中には暇な人がいるものだねぇ」(出典:江戸小咄)

 予定どおり、が明けたということにしてトップページの配色を元に戻した。

 約42.2Mの修正プログラム……。コミケの企業ブースで見かけたときに少し迷ったのだが、買わなくてよかった。私のネット環境はまだダイアルアップなので、42.2Mビットでも辛いくらいなのだから。

1.10504(2003/01/05) 保守反動

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301a.html#p030105a

 今さらだが、ここここはよく似ている。

 昨日までの反動で、今日は一気に更新意欲が萎えてしまった。明日から仕事だし、これはこれでいいのかもしれないが。
 そんなこんなでとりあえず去年読んだ小説(去年出版された本に限定しない)のベストでも。面倒なので著者、出版社銘は省略するが、検索してもわからないほどマイナーな小説はないはずだ。

第1位『空の境界』
 文句なし。以上。
第2位『多情剣客無情剣』
 これと「マリみて」シリーズのどちらを2位にしようか迷ったのだが、1位が超有名作なので、バランスをとるためにこちらにした。私の定期巡回サイトではあまり言及している人はいないが、もともと武侠小説はオタク的文脈で語られることが少ないので仕方がない。痛快無比の活劇小説なので、ぜひ読むように。馳星周も絶賛!
第3位『マリア様がみてる』シリーズ
 他言無用、じゃなくて多言無用。
第4位『退屈姫君伝』
 『姫君退屈伝』ではない。飄々としたユーモア溢れるトリッキーな快作。
第5位『魔岩伝説』
 山田風太郎ばりの活劇伝奇時代小説。杉良太郎や高橋英樹を連想しながら読んではいけない。
第6位『NHKにようこそ!』
 果たして3作目は書けるのだろうか、と心配になってくるほど息詰まる名作。驕れる者は是非読んでみて自らの才能に絶望すべし。
第7位『病院屋台』
 非常に面白いのだが、説明が難しい。とにかく読んでほしいのだが……もう絶版だろうか?
第8位『愚者のエンドロール』
 「スニーカー・ミステリ倶楽部」をバネにしてどこまで成長するか? 有望株。できればこのままミステリ中心に頑張ってもらいたい。
第9位『輪舞曲都市』
 雰囲気がいいので私は好きなのだが、ネット上ではほとんど話題にならなかった。
第10位『クビシメロマンチスト』
 シリーズ中いちばん好きなのがこれ。どうしてかと訊かれても困るのだが……。
番外『悪魔のミカタ』シリーズ
 第1作を読んだときには、『空の境界』と肩を並べる傑作だと思ったのだが、2作目以降を読んでどんどん評価が下がっていった。1作目の評価のうちには「シリーズ続編への期待」が多分に含まれていたからだ。私的評価もそろそろ下げ止まり、かな?
もひとつ番外『小説スパイラル〜推理の絆〜2 鋼鉄番長の密室』
 名作『野望の王国』へのオマージュということで。
 小説よりマンガのほうがたくさん読んだはずだが、ベスト選びをする気にはならない。一般書はそもそも順位づけができないし。あとは、映画、アニメ、ゲームなどだが、どれも規定数に達していない(去年は映画は1本も見なかった……)のでパス。

 一昨日はアクセスが倍増して「新年早々景気がいい」と思ったが、昨日は半減していた。一昨日の来訪者の半分くらいは放蕩オペラハウスから来たのだが、みんな一回きりで帰ってしまったのだろう。まあ仕方ないか。

1.10505(2003/01/05) 13枚目の年賀状

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301a.html#p030105b

 昨日うだうだと書いた後、結局年賀状の返事を書かずに寝てしまった。さすがに今日中に書いておかないと明日から仕事があるので、一念発起して年賀状の山(といっても12枚だが)に真摯に立ち向かい、差出人の住所氏名を転記し、私の住所氏名を書き添え、裏面には「年賀状ありがとうございました。今年もよろしくお願いします」と書いた。簡潔にして要を得た名文である。
 12枚書いて一息ついたところで、ふと年賀状を置いてある棚を見て気づいた。あ、1枚増えてる。昨日は確かに12枚しかなかったはずなのに……。
 13枚目の年賀状の返事を書いたところで、私は力尽き、倒れた。後は任せた。

 この正月にはいろいろな事があったような気がするが、振り返ってみると外出した記憶がほとんどない。確か1日にはコンビニで裏面印刷済みの年賀はがきを買った覚えがある。2日には親戚の子供たちへのお年玉代わりにゲームを買ったような気もする。だが3日以降はどうやら家から一歩も外に出ていないようだ。
 明日からは平常通り早朝に起きて、片道一時間半の道のりを経て会社に出勤してそれなりに仕事をこなさなければならないのだが、果たして今の私にそれが可能だろうか? 不安だ。仕事のやり方をほとんど忘れてしまったような気がする。仕事納めの大掃除をはっぽかして東京へ旅立った隙に私の机がどかされていないだろうか? 机の上に花瓶が置かれていないだろうか? ああ、このまま暖かい布団にくるまってぬくぬくと時を過ごしていきたい……。
 だが、現実は非情だ。時は待ってくれない。いつまでも若いと思っていてはいけない。もっと若い世代が確実に後から迫っている。立ち止まるな、逃げるな、前を見ろ。自分の力量を正確に見積もり、自分にできること、やれることはしっかりとやれ。自分にできないことは潔く他人に任せろ。趣味は趣味、実益を兼ねていると思うな。趣味でやっていることが知らず知らずのうちに身について芸の肥やしになるなどと甘い事を考えるな。修行は苦しいもの、楽して上達すると思うな。
 世の中誰もが必死に生きている。自分に有利なように世間が取りはからってくれるわけではない。リップサービスに惑わされるな。苦言こそ芸の肥やしだ。誹謗中傷と的確な批判を区別できないようなら、ひきこもっておけ。もう誰の前にも姿を見せるな。それはあんまりだと思うなら、親切な忠告があるうちに忠告に従え。誰からも見放されて、お追従とおべっかしか見聞きしなくなったら、もうおしまいだと思え。終末の日は近づいている。躊躇している暇はない。
 やりたい事とやれる事、そして世に受け入れられることは別物だ。言い訳するな。その言い訳にも一分の理があるかもしれない。だが、批判のほうには二理も三理もある。ほんの少しの努力で大きな成果があげられるのだから、一文の得にもならないこだわりは捨てろ。

 あれ? 私はいったい何を書いているのだろうか? 謎だ。

1.10506(2003/01/06) ここだけの話

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301a.html#p030106a

 私の町の図書館では、入館者に氏名と住所を書かせる。ほんとだよ。

1.10507(2003/01/06) 『ファンタズム』の教訓

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301a.html#p030106b

 『ファンタズム』(西澤保彦/講談社ノベルス)についての私の感想はここに書いたが、「みすらぼ日記」でのやりとりをもとにもう一度考えてみた。
 やや繰り返しになるが、ちょっと整理しておこう。

  1. 私は『ファンタズム』を読んでいる最中には殺人場面に仕掛けられた叙述トリックに気づかなかった。
  2. 私が叙述トリックを知ったのは、読了後、他サイトのレビューを読んでからである。
  3. それと知ってみると、確かに「なるほど」とは思ったが、さほど驚きもせず、効果的だとも感じなかった。
  4. なぜなら、小説の最後で真相が明かされてしまうと、殺人場面が日本であろうがアメリカであろうが小説全体の流れにとっては大差ないからである。
 さて、ここでちょっと言い訳。なぜ私は叙述トリックに気づかなかったのか? 「そりゃ、あんたがぼんやりしていたからだよ」と言われそうだが、そうではない。なぜなら、『ファンタズム』は推理力のあるなしにかかわらず、誰でも叙述トリックに気づくように書かれている(その点で、私が「館シリーズ」の某作品の密室トリックを引き合いに出したのは間違いだった)からである――ただし、読者が小説の途中で適宜既読ページを読み返す労を怠らなければ、という条件つきだが。私は先へ先へとストーリーを追いかけることばかりを考えて、立ち止まって後ろを振り返らなかった。その怠惰さ故に叙述トリックを見逃してしまったのである。
 もう少し詳しく書こう。この小説では最初から犯人の正体が明らかになっている。犯人の視点から殺人を描いているから疑いようがない。有銘継哉と捜査陣との攻防戦がこの小説の焦点である、というふうに読者はこの小説の構造を理解する。第二、第三の事件でも基本的な構図は同じだ。だが、最初の事件にはなかった不可解な要素――第二の事件では足跡のない殺人、第三の事件では密室殺人――があらわれる。さらに第四の事件(事件そのものはさほど不可解なものではないが)の後、継哉に鉄壁のアリバイがあるという強烈な謎が提示される。
(ここで少し弁解。作者の言葉のせいで私は最初からこの小説にはまともな解決はないものと決めてかかって読んでいたため、第四部までに提示された謎については完全に推理を放棄していた。よって上記の「強烈な謎」も私にとっては単なるアクセント程度にしか感じられなかった。)
 第五部では、まず替え玉説が出てくるが、これはどう考えても無理があり、次の場面までの"つなぎ"であることは明らかだ。次にFBI捜査官が登場し、交換殺人説が浮上するが、こちらは検討に値する。ただ、捜査陣は知らないが、読者は継哉が殺人を行っている場面を読んでいる。これは交換殺人説と抵触するのではないか?
 そこで読者はページを繰って、問題の場面を読み返すことになる。そして、叙述トリックが仕掛けられていたことに気づき、驚く。第五部で明らかになった新事実を当該場面に当てはめれば、どんなにぼんやりとした読者でも気づかないはずがないはずだ。
 だが、読者が責務を果たさず、そのまま先を読み進めてしまうと――実際私がそうだったのだが――叙述トリックが無効となる地平へと辿り着き、本を閉じることになる。そのまま気づかないまま一生を終える人もいるだろうし、他の人に教えられて知る人もいるだろう。後で知ったところで既に叙述トリックは無効となっているのだから、「ふーん、そんな仕掛けがあったのか〜」と言うだけで、もはや読者は真に驚くことが不可能になっている
 さて、上で「責務」という言葉を使ったことに違和感を覚える人もいるだろう。楽しみのための読書に義務や責任が生じることはないだろう、と。この事について深く突っ込んで論じる余裕はない。ここでは「バイキング形式の料理店では、何をどれだけ食べるのも客の自由だが、一度自分の皿に盛った料理は残さず食べる責務がある」という程度の軽い意味だと思っていただきたい。
 教訓:作者の仕掛けに驚くためにはそれなりの手間(といってもごく些細なものだが)がかかる場合もある。
 以前、JUNK-LANDで連載していた「サプライズ」に関する論考(残念ながら今はもう読むことができない)をふと思い出した次第。

 おまけ:第三の殺人の描写で「前回」を回想するシーン(92ページ)があるが、これが前回の殺人時のことだとすれば、この場面はアメリカの事件である。なぜなら同日の事件でも日本のほうが約半日早く発生しているから。

 おまけ、その2:先日の感想文で挙げた疑問点の2つめは、第四部の末尾が解答のようだ。でも、やっぱり釈然としない……。

1.10508(2003/01/07) ハロゲンヒーターには羽根がない

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301a.html#p030107a

 二日続けて仕事をしたせいで、今日の私は疲れ切っている。体調を崩すといけないので、軽く済ませることにする。

 エロチック街道(1/6付)経由で「メイド」は、いったい誰を代表=表象しているのか?(「中里一日記」1/4,5,6付)を読んだ。「ノックスの十戒」に言及していたりして興味深いのだが、私には難しくて理解しにくい。
 12/31付の記事で西洋人の自己イメージから話を始めて、次に植民地住民に対する先入観のメカニズムへと話を進め(1/4付)、さらにフィクションが描き出すイメージと先入観の関係の例として「ノックスの十戒」を引き合いに出し、「中国人」→「女性」→「メイド」というふうに話を展開する(1/5)。筋道は通っているようだが、どうにも腑に落ちない。どうしてだろう?
 それはともかくオタク文化におけるメイド像が拡散しない理由として「萌え」概念に訴えるのはいい着想だと思う。ただ、ここからは、どのようなメイドにオタクは「萌える」のか、オタクがメイドに「萌える」ポイントはなぜ拡散しないのか、という問題が新たに生じる。この問題をうまく処理できるのかどうか、今後の展開が楽しみだ。
 ところで、メイドというのは純粋に架空の存在ではない。オタク文化におけるメイド像が西洋近代のメイドの実像からどれほどかけ離れているとしても、両者の間の因果関係を否定することはできまい。私たちがいるこの世界こそ「メイド実在世界」なのである。

1.10509(2003/01/08) "萌え"の概念(The Concept of "MOE")

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301a.html#p030108a

 昨年末にコミケの企業ブースで『ふゆじぇね』(小学館)という同人誌(?)を買った。「島本和彦デビュー20周年記念特別編集」と題しており、『吼えろペン』のパロディマンガが中心になっている。その中の一編、後藤羽矢子の『萌え〜よペン』(本当は「〜」と「よ」の間にハートマークが入る)はタイトルどおり、"萌え"をテーマにしている。"萌え"とは何かがわからずに悩むマンガ家炎尾燃にアシスタントのヤス(註1)がレクチャーするのだが、その内容が興味深い。少し整理して紹介してみよう。なお、以下の記述は必ずしも台詞そのままではなく、語順を入れ換えたり言葉を補ったりしているので、ニュアンスが違っているかもしれないことをお断りしておく。

 私は"萌え"に疎くて、自分では"萌え"衝動に駆られたこともなければ"萌え"行動に出たこともない。だが、"萌え"を実感したことがない私でも、この説明は非常によくわかる。さすがは後藤羽矢子、『どきどき姉弟ライフ』の作者だ。
 さて、ここから一歩考えを進めて、"萌え"の本質について考えてみた。いつもなら、あれこれと考えを巡らせた過程をだらだらと書くところだが、今日は肩凝りがひどくてあまり長文を書く気にならないので、途中経過をすっぱりと省いて、結論(ただし暫定的なものである)を書いておこう。

 "萌え"とは対象への到達不可能性による絶望が予め自らの内に含まれた渇望である。

 少しだけ説明しておく。
 「何ものかが何ものかに"萌える"」という事態が生じたとき、前者(以下「"萌え"主体」または単に「主体」と呼ぶ。「主体思想」とは特に関係はない)と後者(同じく「"萌え"対象」または「対象」。用語を統一するためには「"萌え"客体」のほうがいいような気がするが、「客体」というのはどうもなぁ)の間に生じる関係は恋愛関係に似て非なるものである。また性的関係でもない。しばしば"萌え"は性的な含みをもって語られるが、それは概念的混乱に基づくものである(註2)。なぜなら、"萌え"主体と"萌え"対象は遠く隔てられていて、どんなに主体が努力しようとも決して対象に手が届くことはないからである。
 "萌え"の典型的な対象は虚構的存在者である。マンガ、アニメ、ゲームなどの登場人物に"萌える"とき、主体と対象の間には歴然とした断絶がある。主体は"萌え"対象に手を触れることもできず、声をかけることもできない。なぜならば、現実世界の住人("萌え"主体)は虚構世界の住人("萌え"対象)と因果的交渉をもつことが不可能だからである。この場合、最も強い意味で「到達不可能」である。
 では、実在する対象に対する"萌え"はどうか? 「猫耳」や「魔女っ娘」には到達不可能でも「眼鏡っ娘」や「妹」なら到達可能ではないか? だが――ほとんどの「妹」に"萌える"者には実際には"萌え"対象となる「妹」がいない、という事実は無視するとしても――これらの場合でも"萌え"主体は"萌え"対象に到達不可能なのである。なんとなれば、眼鏡っ娘と恋人になったり、妹と性的交渉をもったなら、もはやそこには"萌え"はないからである。"萌え"事象は消滅し、"萌え"主体も"萌え"対象も既にない。
 やや詭弁じみているかもしれない。同じ論法で"片想い"についても到達不可能性を主張できるのではないか。すなわち「"片想い"は決して成就しない。なぜなら、想いが成就したならすでに"片想い"ではないのだから」と。これでは"萌え"と恋愛感情の区別ができない。
 そこで「絶望が予め自らの内に含まれた」という文言が必要となる。"萌え"は単に対象に到達してしまえば"萌え"と呼ばれなくなるという意味で到達不可能なだけではなく、最初から(註3)自らの成分として、絶望(註4)が含まれている。"片想い"が"両想い"に変わっても依然として残る要素がある(註5)のに対して、"萌え"には、その成就した形態が最初から考えられない、いや、そもそもどのような事態になれば「到達した」といえるのかがわからない。従って、成就後に同じ要素が残っているかどうかを検討する余地がない。
 "萌え"のもつこの特性は、おそらく"萌え"の自己完結性とも関係があるだろう。ここから「"萌え"対象は、"萌え"主体の関心によって構成される」という仮説を立てることもできるかもしれない。さらに、実在するメイドさんと"メイド萌え"の対象としてのメイドさんは存在論的身分を異にする(註6)、というふうに話を展開していければ上々なのだが……ちょっと先走りすぎたようだ。上で提示したテーゼ自体がまだ十分に擁護されたものとはいえないのだから。
 差し当たり"萌え"現象のサンプルデータを多数収集し、"萌え"対象がもつ属性と"萌え"主体側のふるまいとを分離し、それぞれ抽出した上で上記のテーゼに合致するかどうかを調べてみる必要があるだろう。その作業の結果、次の段階に進むことができればいいが、案外初歩的なところでつまづいて一からやり直しを余儀なくされるかもしれない。
 "萌え"概念の十全な分析への道のりは果てしなく遠い。(註7

註1
実は、私は『吼えろペン』も『燃えよペン』もよく知らないので、この辺りの人間関係はよくわからない。
註2
ただし、"萌え"感情と性的欲求が両立しないというわけではない。同様に"萌え"感情と恋愛感情の混在も想定可能なのだが、話がややこしくなりそうなのであまり深く考えないことにする。
註3
何らかの活動の結果絶望するのではないということ。"片想い"の末に失恋して絶望するのとは訳が違う。
註4
「絶望」という言葉を使うか「諦念」にするか迷ったのだが、「渇望」と語調を揃えるために「絶望」を選んだ。また「諦念」だと老成した自己反省の状態を連想されてしまうかもしれない。それは明らかに"萌え"からほど遠い。
註5
付き合ってみてすぐに恋心が冷めた、というケースは考えないことにしよう。
註6
結局メイドさんの話になってしまう。昨日の記事を参照のこと。それと元日に書いた戯文も。
註7
もちろんこの遠い道のりを辿る気は全くない。

1.10510(2003/01/09) 宵えびす

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301a.html#p030109a

 今日は頭の調子が悪いので、ウェブ巡回して拾ってきたネタを羅列してお茶を濁すことにする。

 昨日の文章を後から読み直してみると、「さて、ここから一歩考えを進めて」の前後が全く繋がっていないような気がしてきた。いまさら書き直しはしないけれど。

1.10511(2003/01/10) 本えびす

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0301a.html#p030110a

 ただ今、政宗さんちのチャットルーム見学中。