日々の憂鬱〜2002年10月中旬〜


1.10398(2002/10/11) 締めくくり

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 昨日の文章の最後のほうで

 では、自分の直感が外れていて他人から抗議を受けたらどうするか、という話になるのだが、そろそろ時間切れなので今日はここまで。明日この続きを書くかどうかは未定。
と書いた。話をちゃんとまとめようとすれば、このことについて書いておくべきなのだが、まだ「たそがれSpringPoint」で書いた読書感想文について、ネタをばらしているという理由で他人から表立って抗議を受けたことが一度もないので、具体例なしの空虚な話になってしまうから、結局書かないことにした。先日書いた諸君、私は鮎川哲也が好きだはちょっと微妙ではないかと自分では思っていたのだが、誰も何も言ってこなかった。なんだかほっとしたような残念なような奇妙な気分だ。
 そういうわけで、この話題についてはもうあまり語るべき事柄は残っていないのだが、最後に一つ。「ネタバラシをしてはならない」というルールは、ミステリについて感想文や書評などを書く際に大きな足かせになるのは当然だが、必ずしもそれだけではない。
 私は「どうすれば、未読の人にネタをばらすことなく、既読の人にのみ自分の意見を伝えることができるだろうか?」と考えたり、「ネタをばらしていると見せかけて、逆にネタを誤認させるようなテクニックはないものだろうか?」などと考えたりすることもある。「注意! この先でネタを割っているので未読の人は絶対に読まないように」と警告したところで、その警告を無視する人は必ずいるわけで、その結果「驚く楽しみ/発見する楽しみ」がなくなってしまったとしても私の知ったことではないのだが、どうせならそのような不心得者(?)を騙してやりたいと思ってみるのだ。
 実際に感想文に仕掛けを盛り込むのは至難の業であり、首尾良く実行できた試しはないけれど、そんな事を考えながら文章を書くのはなかなか楽しい作業で、ただ素直に自分の感じたことを書き連ねるよりも多少ともマシな文章がかけるような気がするのだ。そういったわけで、私はネタバラシのタブーをあまり重荷には思っていない。

1.10399(2002/10/12) 今日の出来事

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 今日はあまり時間がないので、箇条書きで済ませる。

 ほかにもいろいろあったのだが、疲れたので省略。適当に定期巡回サイトを見て、さっさと寝ることにする。

1.10400(2002/10/13) 論証と連想

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 第12回鮎川哲也賞受賞作『写本室(スクリプトリウム)の迷宮』(後藤均/東京創元社)を読んだ。
 創元の鮎川哲也賞と光文社の『本格推理』シリーズを通じて世に送り出されて新人は数多いが、鮎川哲也本人が作品を読み、推薦した(かどうかは判然としないが、少なくとも授賞に反対しなかったことは確かだろう)最後の作品であり、また前評判もわりとよかったので、私はわりと期待していた。そして、直に本を手に取ると、オビに書かれた言葉のせいでさらに期待が増した。

雪の館で繰り広げられる推理ゲーム。
作中作「イギリス靴の謎」に仕掛けられた罠とは?
三重構造の騙しの迷宮を構築した驚愕の本格推理!
 「たそがれSpringPoint」をずっと読んでいる奇特な人なら、私が「本格」という言葉に独特のこだわりを持っていることをご存じだろう。そして、そのこだわりのせいで昨今の「本格」のルーズな用法に疑問を感じていることも。もはや「本格」という言葉は一定の意味内容とある程度確定した適用範囲を持たないので、無用の混乱を避けるために退けるべきだ、というのが私の主張である。
 だが、鮎川哲也賞受賞作のオビに「驚愕の本格推理!」などという文言が書かれているのを見ると、いやが上にも期待が高まるのを抑えることができない。もちろん鮎川哲也本人がこの宣伝文を書いたわけではなく、筆者(たぶん東京創元社の編集者だろう)が「本格」をどのように考えているのかは不明なのだが。
 ところで、『写本室の迷宮』の巻末には「第十二回鮎川哲也賞選評」というページがあり、鮎川哲也、笠井潔、島田荘司各選考委員の文章が収録されているのだが、その中で鮎川哲也の文章だけは選評であって選評ではない。むしろ祝辞と呼ぶべき内容になっていて、実際、『創元推理21』2001年秋号では「祝辞」と題されている(他の二氏の文章はそのまま「選評」である)。
 贈呈式には私も出席して、一言お祝いを述べたいところなのですが、体調が芳しくなく、今回は失礼させていただきます。
という一文があり、授賞式で読み上げられることを想定した短めの文章になっている(たぶん、この祝辞は実際には読まれなかったのではないかと思うが)。ともあれ、鮎川哲也が『写本室の迷宮』について本当のところどのように考えていたのか、ということは不明だ。
 「驚愕の本格推理!」に話を戻そう。結論からいえば、私は『写本室の迷宮』を読んで驚愕はしなかった。といっても、結末の前に真相がわかってしまったというわけではない。私が予想したオチは作中に挿入された「手記」に書かれている事柄が実は全く根も葉もない作り話だったというもので、「本当にそんな結末だったら嫌だな」と思いながらページを繰ったのだが、幸い私の予想は外れていて、ほっとした。だが、この結末にはあまり感心しなかった。続編の存在を暗示する締めくくりになっているのだが、なんだか肝心のところが先送りにされてしまったような印象を受けるのだ。
 『写本室の迷宮』は、オビの宣伝文にも書かれているように三重構造になっている。入れ子の一番内側にあるのが「イギリス靴の謎」というタイトルの謎解き小説なのだが、これは――アマチュアのミステリ愛好家が書いたという設定になっていることを差し引いても――お世辞にも上出来とは言い難い代物である。もうちょっと何とかならなかったものか。
 ところで、作中作の「手記」と作中作中作の「イギリス靴の謎」には構成上の共通点がある。それは、どちらも読者に対して謎解きを挑む文章(「イギリス靴の謎」では、そのまま「読者への挑戦」、「手記」のほうでは「挑戦状」となっている)で終わっていて、その続きがないということだ。いちばん外側の階層には、その外側の階層はないから、作中作及び作中作中作と同じ事をするわけにはいかない。そこで中途半端な「先送り」を行ってしまったのではないだろうか。
 作者がもう少し図太くて、謎解きの弱点や説明不足について無神経であったなら、都合の悪いところには目をつぶって適当にごまかすことも可能だったろう。だが、そうするかわりに作者が選んだ方法は「括弧に入れる」というものだった。私が今見ているパソコンの画面や机の上のマウスやキーボードなどは、もしかしたらすべてが虚妄の産物であるかもしれない。「私の目の前にはパソコンがある」と言える確実な根拠はない。だが、「『私の目の前にはパソコンがある』というふうに私には見える」と言えば絶対に確実であり、何人も疑いを挟む余地はない。後藤均はデカルトやフッサールが哲学の分野で行ったことをミステリでやろうとしたのではないか……というのは単なる思いつきだが。
 作者の完璧主義者ぶりはたとえば小説の冒頭に置かれた注意書きにみることができる。
 設定上、星野泰夫の「手記」や「書簡」は旧仮名遣いで書かれていることになっていますが、便宜上、現代仮名遣いで表記してあります。国・都市名なども設定では漢字で書かれていましたが、殆ど片仮名表記に直してあります。これらの変更が推理上の伏線・手がかりに使われることは一切ありません。同様に「イギリス靴の謎」は英語で書かれている設定ですが、これも便宜上、現代日本語に直してあります。推理上、原語を参照する必要があるものについては、原語も表記してあります。
 ふつう、こういう事が気になる読者はあまりいないと思う(が、私自身は大いに気にする)のだが……。こんな断りを入れるくらいなら、「手記」を歴史的仮名遣いで書けばよかったのではないかという気もするのだが、それをやった『ミステリ・オペラ』について私は歴史的仮名遣いと新字体の組み合わせはどうにもぎくしゃくしているように思われると感想を書いているくらいで、やはり気になる人には気になるだろう。では、漢字も全部正字体で、という話になるとなかなか大変だ。歴史的仮名遣いだけなら「ゐ」と「ゑ」だけ追加すれば済むことだが、漢字の場合は現在の標準字体と異なっているものが数多いのだから。しかも、作中の「手記」は手書きなのだから、単純に正字体にすればいいというものではない。戦前の人でも、たとえば「学」を「學」と常に書いていたかといえば、そういうわけではない。では、「手記」の全文を手書きで……。いや、それはさすがに無茶というものだろう。そう考えると(作者がそう考えたのかどうかは知らないが)、冒頭の注意書き一つで済ませたのは賢明な処置だったといえるかもしれない。
 ところで、「イギリス靴の謎」の中に一箇所気になる注意書きがあった。
 アリスンが一階(英国流、日本でいう二階)の部屋から客間に降りてくる。
という記述(86ページ。引用文中の丸括弧内は原文では小さなフォントを二行に組んでいる)である。冒頭の注意書きによれば、この箇所は本当は英語で書かれているはずだから、「一階」というのはたぶん「the first floor」だろう。英語と米語で階数の表示が違うということがポイントとなる小説の場合には、訳し方を工夫する必要があるだろうが、ここでは素直に「二階」と訳すべきであり、それで何の問題もない。どうしてわざわざ「英国流」の「一階」などという珍妙な表現を使ったのか、理解に苦しむ。作者が英語の階数表示について無知であると思われることを恐れたのだろうか?
 なんだか重箱の隅をほじくるような事ばかりを書いているような気がする。私の感想は選考委員の選評に書かれていたものとほぼ同じで、特に独自の視点があるわけでもないのでこうなった。ミステリの感想文を書くのは久しぶりだから、ちょっと気合いを入れようと思ったのだが空回りしたようだ。本当はこの小説の「推理」の特色について書いてみたかったのだが、もはや気力も体力も尽きてしまった。今日の見出しは当初の予定の名残で、内容が予定したものと違ってしまったのだから見出しも変更してほうがいいのだろうが、代わりの見出しを考えるのが面倒なのでそのままにしておく。
 最後に島田荘司の選評にリンクしておく。『写本室の迷宮』の巻末(及び『創元推理21』)に掲載された選評とほぼ同文なのだが、読み比べてみると、「改善の一」の部分で本に掲載されたヴァージョンではカットされた一文があるのが興味深い。

1.10401(2002/10/14) 今日は鉄道の日だが、鉄道ネタは何もない

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 鉄道ネタどころか、そもそもネタが全くない。ネタがない時には他人のサイトをネタにするのが常道なのだが、ここ数日どうもはてなアンテナが不調なようで、定期巡回サイトの更新状況がよくわからなくなっている。ミステリ系ならミステリ系更新されてますリンクでチェックすればいいのだが、私の定期巡回サイトはほかにもいろいろあるので困ってしまうわけだ。
 はてなアンテナの不調に気づく前は、更新サイトが少ないと思いつつも特に疑問に感じずにスルーしていたため、いくつかのサイトの最近の記事を読みのがしていて、ペインキラーRD10/11付の記事などもその一つなのだが、そこでは『五月はピンクと水色の恋のアリバイ崩し』(霧舎巧/講談社ノベルス)を取り上げているのだが、私の書いた感想文と同じ箇所にツッコミを入れていて、「やっぱりこれは気になるよなぁ、うんうん」と一人で液晶ディスプレイを見ながら頷いたりしたわけなのである。ちなみに、この箇所については私の後輩が「『霧舎巧には、そんな推理小説は書けません』というのは『霧舎巧ほどの優れた推理作家には、そんな低俗な推理小説は書けません』と言っているかのように思える」とコメントしていて、あながち邪推とも言い切れないような気がした。どうでもいいが、霧舎巧にせよ森博嗣にせよ、名前を一人称代名詞のかわりに使う人の文章は、どうして不遜な物言いに見えるのだろうか?
 試しに私も「私」のかわりに「滅・こぉる」を使って文章を書いてみることにしよう。
 さて、滅・こぉるは以前にも書いたようにもう次作を読む気がしないと思っていたのだが、ペインキラー氏の文章を読んで考えが変わった。滅・こぉるがペインキラー氏と「同じ精神構造を持っている人」かどうかはわからないが、「たぶん次巻あたりに棚彦に横恋慕する下級生が出てきて琴葉がジェラりつつそいつが犯人みたいなことになるのではないか」という予想を確かめるためだけでも、次作に手を出してみる価値があるかもしれない。しかし、肝心の続編がまだ出ていないし、たぶん年末か年始くらいには出るのではないかと思うが、それまでに滅・こぉるの考えがまた変わるかもしれないので、ちゃんと次を読むという保証はなく、仮に読んでも感想文を書く気になるという保証も全然ない。

 話は変わって、どこかのニュースサイト経由で知った福本語変換っ…!を試してみようと思い、とりあえず昨日引用した『写本室の迷宮』の宣伝文を食わせてみると、

雪の館で繰り広げられる推理ゲームっ…!
作中作「イギリス靴の謎」に仕掛けられた罠とは?
三重構造の騙しの迷宮を構築した驚愕の本格推理!
と変換されたが、元の文章とあまり変わっていなかったので残念だった。途中に意味もなく「ざわざわざわ……」とか入れたほうが面白かったのではないだろうか。

 さらに全然別の話だが、某掲示板経由でこんなページを見つけ、さらに現行スレまで読みふけっているうちに数時間が経過してしまった。もっともエロゲ廃人度調査の300タイトルの中に1タイトルも入っていないメーカーの話題だけに、ふつうの人が読んで面白いかどうかは不明だ。

 『魔岩伝説』(荒山徹/祥伝社)を読んだ。朝鮮通信使に隠された謎を巡って、若き日の遠山の金さんが大活躍する時代活劇伝奇小説である。山田風太郎の忍法帖にも通じる傑作だ。余計な事は言わないから、ぜひ読んでみてほしい。
 特に意味はないがここここにリンクを張っておく。

 「講演会」か……。昔はクイズとかゲームとかオークションのついでにゲスト作家のお話も聞くというスタイルで、ゲストなしの回もあったのだが、時代の流れには逆らえないものだ。同窓会のつもりで参加するか、それとも前回同様パスするか。う〜ん。

1.10402(2002/10/15) ああ秋だ、秋というのは残酷だ

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 突然だが、超短編を一つ。

 そして  もいなくなった
 異変の知らせを受けて私が現場に到着したとき、既に  は半分いなくなりかけていた。
 私の顔を見た  は「やあ、来てくれたんだね」と微笑みながら――少なくとも私には  が微笑んでいるように見えた――言った。「でも、もうお別れだよ」
 それから五分後、  は完全にいなくなってしまった。

 パラレルワールドと永劫回帰は豆電球の並列つなぎと直列つなぎくらいの違いがあるのではないかという気がしないのでもないのだがそんなツッコミを入れている私はまだ282ページまでしか読んでいないので実際のところどういう文脈で出てきた台詞なのかがわからないので他人にツッコミを入れている暇があればその間にさっさと本を読まないといけないよなぁと思う今日この頃。

 先日買ってきた『越天楽のすべて』(KING RECORDS)の解説によると、管弦楽版「越天楽」が1931年にモスクワで初演されたとき、かの地の音楽評論家が「この曲の作曲家はフランス印象派の影響を多分に受けている」と言ったそうだ。そう言われてみると、確かに似ていないこともない。このような愉快な人に、私はなりたい。

1.10403(2002/10/16) さっさと書いて、さっさと寝よう

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 今日ようやく『家蠅とカナリア』(ヘレン・マクロイ(著)/深町眞理子(訳)/創元推理文庫)を読み終えた。10/2に買って、10/4に読み始めたのに、どうして10日以上もかかったのかといえば、その間に別の本を読んでいたからである。
 いつの間にか「たそがれSpringPoint」はミステリ系サイトに位置づけられるようになったので、最近はなるべくミステリを中心に読もうと努力しているのだが、一旦進んだミステリ離れというか小説離れはなかなか直らず、雑学本や新書などが手元にあればどうしてもそちらを優先して読んでしまう。特に海外ものは苦手で、なかなか読み進めることができないため、ますますペースが落ちてしまうのだ。昔はそんなことはなかったのだけど、これもとしをとったせいか。
 『家蠅とカナリア』を読むのに時間がかかった理由は上記のとおりである。決してこの小説が読みにくいとか退屈だというわけではないので、これから読もうと思っている人は安心してほしい。
 さて、以前書いたように『家蠅とカナリア』を読むのはこれが初めてではない。「別冊宝石」版の抄訳で読んだのは忘れもしない1998年7月のことで、ほぼ同時期に『ひとりで歩く女』『暗い鏡の中に』『幽霊の2/3』『殺す者と殺される者』『読後焼却のこと』をまとめて読んだ。本当は『人生はいつも残酷』も読むつもりだったが、なぜかこれだけ読みのがしている。
 これらの作品を面白かった順に並び替えると、『殺す者と殺される者』>『家蠅とカナリア』=『ひとりで歩く女』>『暗い鏡の中に』>『幽霊の2/3』>『読後焼却のこと』となる。世評(といってもごく狭い世界での話だが)では『暗い鏡の中に』はトリッキーでどんでん返しが見事な傑作サスペンスだそうだが、私は短編版の『鏡もて見るごとく』のほうが好きだ。また「幻の名作」として名高い『幽霊の2/3』はあまり面白いとは思わなかった。他方、『殺す者と殺される者』は文句なしの傑作で、どうしてこれが長年入手困難な状況に置かれているのか不思議なくらいだ。訳文はやや古いかもしれないが、改訳して再刊する価値は十分にあると思う。私は知人から借りて読んだだけで自分では本を持っていないので、ぜひ復刊してもらいたいと願っている。
 さて、肝心の『家蠅とカナリア』だが、『殺す者と殺される者』ほどの大傑作ではないけれど、読み終えたときにしみじみと面白かったと思える佳作だと思ったことは覚えている。だが、細かいことは忘れてしまったし、あまり細かくないこと(たとえば「誰が犯人か?」ということ)も忘れてしまっていて、覚えていることといえばせいぜい家蠅とカナリアがそれぞれどのような意味で手がかりになっているのか、ということくらいだった。そんなわけで、今回はほとんど初読と同じような気分で読んだわけである。たかだか4年少し前に読んだ本なのに内容を覚えていないというのはおかしなことだが、これもきっととしをとったせいだろう。
 さてさて、『家蠅とカナリア』を読み返した感想だが、やっぱり面白かったとしか言いようがない。どこがどう面白かったかを書かないと感想文としてはしまらないのだが、いまさら「物的証拠と心理的証拠が……」というようなことを述べても仕方がないので省略する。また、いつもの事だが粗筋も省略。多少とも興味のある人は巻末の「"芝居はつづけなければならない"、たとえ戦争が起こっても、殺人が起こっても!?」(川出正樹)を読んでみてほしい。ミステリ史におけるマクロイの位置および彼女の作風の傾向と変遷を踏まえつつ『家蠅とカナリア』の特徴と魅力について過不足なく語った名解説である。私は本文の後に読んだが、ネタばらし(ここ数日、私は「ネタバラシ」と全部片仮名で書いているが、どうも「ネタばらし」のほうがよさそうな気がするので変えることにした。明日になったら気が変わるかもしれないが)はないので先に読んでも差し支えない。
 今ふと「名解説のことを書いたんだから、駄目な解説の例も挙げようかなぁ」というよからぬ考えがふと頭をよぎったが、それはやめておこう。どうせ「ネット書評家」のひがみだと思われるだけだから。なお、言うまでもないことだが、私は自分をネット書評家だとは思っていない。
 最後に、昨日のツッコミの補足をしておく。天使の階段10/11付の記事で引用されている箇所(287ページ〜288ページ)には「パラレルワールド」という言葉こそ出てこないが、

一般にわれわれは時間の長さについて考え、またそれについて語ります。しかし、一部の哲学者は、時間には長さだけでなく幅もあるという可能性を唱えてきた
という台詞があり、パラレルワールドを暗示していると解釈できないこともない。もしかしたら深遠な思想の一端がこの台詞(これが誰の台詞であるのかは秘密にしておこう)に含まれているのかもしれない。だが、私にはよくわからないので、この話をこれ以上進めるのはやめておく。

 ここここ(ともに10/15付)で「ファン以外見なくていいです」とか「ファンにすら薦められない出来」と言われている某アニメは私の地方では電波が届かないため見ることができないのだが、放蕩オペラハウスでストーリーもトリックも犯人も全部キャブつきで解説してくれていて、それを見るだけでもう十分という気がする(だから別にネタばらしであるということに腹は立たない)のだが、なぜか私の手元には第1話と第2話が収録されたビデオテープ(それぞれ30分テープ)があって、このビデオは「見ると寿命が100日縮む恐怖ビデオ」だと恐れられているわけではないのだが、果たして私はこの衝撃に耐えることができるのかどうか、いやそれ以前に全部見ることができるのかどうか、戦々兢々としているのだが、今日もだらだらと文章を書いているうちに時間がなくなってきたので、とりあえず明日に先送りすることにした。

 『家蠅とカナリア』を読み終えたので、次の一冊として『盤上の敵』(北村薫/講談社文庫)を買ってきた。家には、最近話題の『髑髏島の惨劇』(マイケル・スレイド(著)/夏来健次(訳)/文春文庫)や、全然話題になっていないし最近出た本でもないけれど先日本屋で見かけて思わず買ってしまった『陸小鳳伝奇』(古龍(著)/阿部敦子(訳)/小学館文庫)など未読本がごろごろと転がっているのだが、たまたま手元の本が切れてしまったときに『盤上の敵』を見かけてしまったのが運の尽きだった。
 元版が出たのが1999年だそうだが、その前後の約5年ほどは私の読書力が最も著しく衰退していた時期で、小説本を一冊も読まない日々が何ヶ月も続くのが当たり前だった(マクロイをまとめて読んだ月は例外)ので、『盤面の敵』もスルーしていた。その後、ノベルス版が出たとき(なんと去年の10月だ!)には、手にはとってみたのだが、「ノベルス版のための前書き」にちょっと興味を惹かれた程度で、やはりスルーしてしまった。
 文庫版での出会いが三度目の正直、ようやく買って読み始めたのだが、冒頭からアレなエピソードが出てきて相当「嫌な話」(「嫌な話」というのは悪口ではない。『イノセント・デイズ』の感想を参照のこと)であることが予想でき、期待が高まる。とはいえ、今の私のペースだと明日中に読み終えることはないだろう。本格ミステリファン度調査の締切は明日なのだが、追加投票できる見込みがないので、私の読了冊数をここで公表してしまおう。128冊である。やはり空白の五年間が大きかった。

 と、そんなことを書いているうちに11時過ぎになってしまった。ああ。

1.10404(2002/10/17) 意外や意外

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 不思議なことだが、今日『盤上の敵』(北村薫/講談社文庫)を読み終えた。締切に間に合ったので、先ほど本格ミステリファン度調査に一票を投じてきた。
 今日は時間がないので、感想は後日。

1.10405(2002/10/18) 白と黒と赤

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 『盤上の敵』(北村薫/講談社文庫)の感想を書こうと思うのだが、既にわんさかと感想文や書評が溢れている本なので、新しいことを書くことは難しい。そこで、文庫版の独自要素二つについて軽く言及するにとどめる。
 一つめはカバー裏表紙の内容紹介文(正式にはたぶん別の言い方があるのだろうが、私は知らない)である。私は書店でこの本を見かけたとき、解説を拾い読みしてすぐにレジに持っていった。それからずっと書店のブックカバーをつけたままにしていたので、つい先ほどまでこの紹介文を読んでいなかったのだが、本文を先に読んでいてよかったと思った。別にこの文章がネタを割っているというわけではないのだが、ある意味ではネタばらし以上にまずいことが書いてある。北村薫が一所懸命苦労して書いた(いや、本当に苦労しながら書いたかどうかは知らないけど)小説の、いちばん大事なところを台無しにしているように思うのだ。気にならない人は全然気にしないだろうが、私はこのような粗筋紹介の仕方は絶対にやってはいけないと思う。
 ところで、細かいことだが、紹介文中で「王手」という言葉に「チェックメイト」とルビを振っているのが気になった。
 二つめは巻末の解説(光原百合)である。上でも述べたように、私はこの解説を少し読んで、『盤上の敵』を買うことにした。以前から、いつかは読んでみたいと思っていた本なので、解説のために本を買ったとまでは言わないが、大きなきっかけになったことは確かだ。「『盤上の敵』は本格ミステリの傑作である」という発言から、そこに含まれる「本格ミステリ」の意味を掴み取るには、なんといっても『盤上の敵』を読まなければならない。
 『盤上の敵』をどう評価するにせよ、確実に言えることは、これが謎解きの興味を主にした小説ではない(いや、主にしているかどうかということを論じる以前に、謎の提示から推理に基づく解明へと至るプロセス自体が存在しない)ということだ。謎解き小説でないものを「本格ミステリ」と呼びたい人にはそう呼ばせておくしかない。もはやバベルの塔は崩壊したのだから。
 さて、本文については感想を書かないつもりだったのだが、この文章を書いているうちに気が変わったので一つだけ書いておくことにする。一昨日書いたことだが、私は『盤上の敵』を「嫌な話」だと思って期待して読んだのだが、予想していたほど「嫌な話」ではなかった。読んで、傷ついたと感じる人がいても不思議ではないが、私はそれほどの感受性を持っていない。
 唯一私が顔をしかめた(本当に表情に出たかどうかはわからない。比喩表現だと思っていただきたい)のは201ページから205ページにかけての場面だった。単に不愉快というだけではなく、一瞬恐怖にも近い感情におそわれた。我に返ってみると私はただ本を読んでいるだけで、何も恐れるべきものはないことに気づき、心底ほっとした。そして、さすがは北村薫だ、と感心した。
 それに続くエピソードも客観的にみれば十分「嫌な話」なのだが、私にはあまり気にならなかった。なぜなら……と、ここで時間切れ。

1.10406(2002/10/19a) ペンキ塗りたて

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 昨夜、とうとう「たそがれSpringPoint」は40000ヒットを突破した。30000ヒットに到達したのが9/5で、その時に「このまま順調にサイト運営をしていけば10月末には40000ヒット達成することになるだろう」と書いたが、予想よりも少し早かったことになる。

 今日、朝からペンキ屋さんが家のまわりの壁や屋根にペンキを塗って、そのシンナー臭が家の中まで充満して頭が痛い。このままでは倒れてしまいそうなので、今から避難するつもりなのだが、その前にいくつか用件を片づけておく。
 まず一つめは昨日の文章について。『盤上の敵』(北村薫/講談社文庫)の巻末解説を取り上げて、やや批判的なことをかなり投げやりな口調で書いたのだが、これは「本格」という言葉に対する私の個人的な執着に基づくもので、別に光原氏が悪いわけではない。「かわりにお前が書いてみろ」と言われたら(誰も私にそんなことを言う人はいないと思うが、純粋に仮定の話なのであまり気にしないでいただきたい)とても書けなかっただろう。
 文庫解説は本を買うかどうかを迷っている人のための手引きという側面があるので、ある程度粗筋の紹介をするのがふつうだが、ミステリの場合は下手に粗筋を書くとネタを割ってしまうことがある。さらに『盤上の敵』の場合は、冒頭に置かれた「ノベルス版のための前書き」という厄介な文章をどう扱うか、という問題が出てくる。作者自身が書いた文章に解説者が異議を挟むのは難しいし、かといって前書きの毒気を中和しないと本の売れ行きに影響が出るかもしれない。「嫌な話」が好きで読む酔狂な読者はあまり多数派ではないだろうから。
 この二つの難問を光原氏はクリアしている。「作家 光原百合」のミステリ界における位置づけを前提とした文章から始まっているということを割り引いても、これ以上の解説を書ける人はほかにいないのではないかと思う。
 二つめは……いかん、吐き気がしてきた。もう駄目、逃げます。

1.10407(2002/10/20) ラーゲとラーゲリはよく似ている

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0210b.html#p021020a

 前回の記事を途中で放り出して、私は大阪某所の怪しい集会に参加した。全部で10数人が集ったが、私はもっぱら嵐山薫ペインキラーフクの各氏と怪しい話をした。時節柄鮎の電脳部屋の話題で盛り上がったが、「そのうち誰かが検証サイトを作ってくれるだろうから、それまで静観しよう」ということになった。
 その後、私は各氏と別れてソフマップギガストア梅田店へと向かった。店内の配置が変わってえっちなゲームがいちばん目立つ場所に移動した、とじゃんぼけ(10/17付)で書いてあったので、様子を見に行ったのだ。ついでにアリスソフトの新作DALK外伝を買おうと思っていたのだが、どうやら売り切れていたようで見あたらなかった。別にどうしてもほしいゲームというわけでもないし、次に大阪に出るときにはランス5Dが出ているはずなので、このまま永久に買わずじまいになりそうな気がする。
 その後、大阪駅構内のカレーショップ「サンマルコ」(2店舗あるうち階段下のほう)にて、日本円を持たずにユーロ紙幣でカレー代の支払いをしようとする外国人二人連れに遭遇した。いろいろあって、私が日本円に両替した。そういうわけで今私の財布の中には10ユーロ紙幣が入っている。宝くじみたいな妙に安っぽいお札だ。

1.10408(2002/10/20) 短文

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0210b.html#p021020b

 「そのうち誰かが検証サイトを作ってくれるだろう」と書いたら、本当に作ってくれた人がいた。今のところ検証ページで取り上げられているのは掲示板で挙がっていた情報だけだが、今後新情報があるかもしれないので、とりあえずブラウザの「お気に入り」に登録した。
 私も昨日シンナー臭に耐えながら鮎の電脳部屋の過去ログを全部読んだが、特に他サイトとの類似には気づかなかった。

 明日から三日間、早朝出勤しなければならないので、今日はこれでおしまい。明日以降もこんな感じになる(または更新をさぼるかもしれない)が了解していただきたい。了解してもらえなくても勝手にするだけだが。