日々の憂鬱〜2002年10月上旬〜


1.10386(2002/10/01) 引き続き

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0210a.html#p021001a

 今日は「たそがれSpringPoint」正式公開一周年記念日だが、記念企画の「滅・こぉるにもうちょっとマシな名前をつけるコンペ」が不調に終わった(当たり前だ)ので、しばらく「滅・こぉる」のままにする。
 今日は珍しく残業して帰宅が遅れたのと、昨日受け取った某氏からのメールに返信を書くのに予想以上に時間を費やしたので簡単に済ませる。

 最近「ああ、としをとったなぁ」と思ったこと。それは、いつものようにウェブを巡回していて、じゃんぽけの9/30付の記事を読んだとき。
 私にはもうこんな文章は書けなくなってしまった。

 鮎川読者への8つの公開質問に回答しようと思ったが、今は時間がない。週末にじっくり考えて書くことにする。

1.10387(2002/10/03) 「無題」もタイトルのうち

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0210a.html#p021003a

 相変わらず何も書くことがない。全然意味はないのだが、映画『千年女優』のパンフレットの「千年広告」のページに書いてあったURIにリンクしてみる。

  1. 千年石油
  2. 千年の湯 古まん
  3. せんねん灸
  4. 千年の湯 権左衛門
  5. 千年通信工業株式会社
  6. 千年梅
  7. 千年日記 万人日記
  8. 十勝千年の森
  9. 千年の祈り
  10. 薩摩の千年水
 各ページの表記はすべて「千年広告」に記載されていたもので、サイト名とは異なる。たとえば6は千年農園のサイトで「千年梅」というのは商品名である。また10は有限会社みやぎ温泉のサイトで「薩摩の千年水」の紹介は次のページにある。
 さて、リンクしてみたものの、別にそこから話が弾むわけではない。予め「全然意味はない」と断っておいたとおりだ。

 聞くところによると、私は「ネット書評家」であるらしい。私は書評を書いた覚えはないが、読書感想文と書評の違いがわからないので、書評を書いていないとも断言できない。知らず知らずのうちに書評を書いていたのかもしれない。
 読書感想文にしても書評にしても、ごく例外的な場合を除けば、本を読んで書くものだ。ところが私は本を読むスピードが遅いので、コンスタントに感想文をアップすることができない。今、読んでいる本は『ミステリは万華鏡』(北村薫/集英社文庫)だが、読了するのは週末になりそうだ。
 本を読むペースに合わせて本を買うのが健全なのだが、ついつい自分のペース配分を無視して本を買ってしまうのが"積み人"("積み人"については7/31付の記事を参照のこと)の性である。今日も二冊本を買ってしまった。一冊は『SF大将』(とり・みき/ハヤカワ文庫JA)で、もう一冊は『家蠅とカナリア』(ヘレン・マクロイ(著)/深町眞理子(訳)/創元推理文庫)である。どちらも先月出た本で新刊といえば新刊だが、ほやほやの最新刊ではない。これまでに何度か書店で見かけつつ、「どうせ読まないからなぁ」と思って買い控えていたのだが、今日とうとう買ってしまったのだ。どうして今日になって買ってしまったのかは定かではない。せめて『ミステリは万華鏡』を読み終えてからにすべきだったと反省しているのだが、いくら反省したところで本を返品するわけにもいかないし、代金が返ってくるわけでもない。
 『SF大将』は単行本では未読だったので、雑誌掲載時に読んだ数編を除けば初読だが、『家蠅とカナリア』は「別冊宝石」に掲載された旧訳で読んでいる。原題は"Cue for Murder"で、直訳すれば「殺人の手がかり」となるのだろうが、それではちっとも面白くない。『家蠅とカナリア』(もしかしたら旧訳では『家蠅とカナリヤ』だったかもしれない。肝心の「別冊宝石」が本の山に埋もれてしまい確認できない)というのはいいタイトルだと思う。よく考えると、タイトルでネタを割っているような気がしないでもないが、『奇絶怪絶飛来之短剣』(誰の何という小説なのかは書かない)ほどではなく、せいぜい『人それを情死と呼ぶ』(鮎川哲也)程度であり、鑑賞の妨げにはならないだろう。
 話がそれた。既読である『家蠅とカナリア』を買ってしまったというのは、大いなる"積み"である。「別冊宝石」版が抄訳であることをもって自己弁護したいところだが、読まない本なら抄訳であろうが完訳であろうが関係がない。少しでも"積み"を軽くするためには何としてでも読まなければならないだろう。最近海外ミステリをほとんど読んでいないという事情もあるので、この本だけは"積ん読"にせず、必ず読み切ることにする。
 こうやって宣言しておかないと本が読めないというのも情けない話だ。


 平穏無事な日々を漂うの10/2付の記事を読んだ。長野県の田中康夫知事が建設中のダム工事の契約を解除したというニュースを取り上げて批判している。契約金額が129億円で、契約解除により業者に賠償すべき金額が50億円以上だそうだ。田中知事もなかなか大胆なことをするものだ。
 ……と一旦は素直に納得したのだが、よくよく考えてみるとこの文章はちょっとおかしい。一昨年に開始した工事で、今年中断して50億円もの損害が出るはずがない。そこでもう一度読み返してみると、

工期が2000年9月19日から2007年3月20日なので、実稼働年数を6年、その間に働く職員、作業員の数を一日70名(適当だな)とする。彼らにかかる経費を平均月50万円とすると25億円。
という箇所が引っかかった。ダム工事を中断した後も2007年3月まで作業員を拘束して他の仕事が出来ない状況におくわけではないのだから、この計算方法はおかしいのではないか? もし、この計算方法が通用するのなら、工期中のどの時点で契約を解除しても業者に25億円支払わなければならないということになってしまう。これは明らかに不合理だろう。
 そもそも契約の一方の当事者の事情により契約を解除したときに、もう一方の当事者は逸失利益に基づく賠償請求を行う権利を有するものだろうか? 129億円もの高額契約であれば、当然途中で解約する場合を予定した条項もあるはずだから、契約条件違反の場合の賠償金請求とは自ずと意味合いが違ってくるのではないか。
 漂泊旦那氏は、
ただ、契約している工事を解除するというのは暴挙だ。代替案すら決まっていないのに、いきなり中止とはどういうことか。技術的な検討をいっさいせず、自分の感覚だけで物事を決めるようでは暴君以外の何者でもない。
という田中知事に対する憤りから、ストレートに
こうなったら業者側は賠償額を思いっきり取ってほしい。別に業者に不備があったわけではないのだから。
へと話を進めているように見受けられるが、仮に代替案があろうがなかろうが、また自分の感覚だけで物事を決めようが県民の総意で決まったことであろうが、請負業者であるJVには全く関係がないことだ。よって、契約解除に至った意思決定手続きの問題と、契約解除に伴い発生する請負業者への支払い義務の範囲の問題とは分けて考える必要がある。
 さらに、
他にも、例えばそこで消費されるはずだった食事代や宿代、遊行費なんかも含めたら、とんでもない数字になる。
 これらの金額をすべて賠償するつもりなのかね、田中康夫知事さんよ。
というのは、請負業者が被った損害と地域経済に与えるマイナスの経済効果が混同されているように思われる。一歩譲って「食事代や宿代、遊行費」を賠償する責任が田中知事にあるとしても、その対象はJVにではなく地元の食堂や旅館などである。もっとも、ダム建設工事によって地元が潤うのは当然の権利に基づくものではないのだから、それが得られなかったからといって知事に賠償を求める権利もないだろう。知事が負うべきは賠償責任ではなく、政治責任である。
 そのように考えると、
 いくら「脱ダム」を世論が支持したからといって、本契約を破棄するということの重大さを認識すべきだ。何度でも言う。逸失利益分の賠償請求は当然の権利である。発注者である長野県は契約を破棄したために、当然それだけのペナルティを負うべきなのである。
という結論にはかなり無理があるように思われる。
 なお、言うまでもないことだが、私は漂泊旦那氏の主張を否定しようとしているのではなく、田中知事を擁護しようとしているのでもない。ただ主張と論拠とが噛み合っていないということを指摘したいだけである。もしかしたら漂泊旦那氏の主張を支持する論拠及び論証方法があるかもしれない。

 ついついミステリのあら探しのようなことを書いてしまった。漂泊旦那氏が気分を害されたなら申し訳ない。
 書くことがない、と言っていたわりにいっぱい書いてしまった。もう日付が変わってしまった。さっさと寝ることにしよう。

1.10388(2002/10/03) 逆立ち

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0210a.html#p021003b

 こんな事を考えた。「私は足を地面につけたまま逆立ちをすることができる」と言うなら、私は矛盾したことを言ったことになるのだろうか? それとも単に嘘をつくことになるだけなのだろうか?
 しぱらく考えているうちに頭が痛くなってきたので、私はもうこれ以上考えないことにした。とことん考え抜くというのは少なくとも私にとっては至難の業だ。

 今日、『ミステリは万華鏡』(北村薫/集英社文庫)を読み終えた。さらに返す刀で『SF大将』(とり・みき/ハヤカワ文庫JA)を読んだ。「返す刀で」という言い回しの使い方がおかしいかもしれないが、気にしてはいけない。百歩譲って確信犯だ役不足。
 さて、今日読了した2冊はどちらも「本についての本」である。『ミステリは万華鏡』はエッセイで『SF大将』はマンガだから表現形態は全然違うし、両者で取り上げられている本も違っているので、「本についての本」などという大ざっぱなくくり方でまとめてしまうのは乱暴なのだが、実はこの2冊の共通点はそれだけではない。取り上げられた本についての知識がなくても十分楽しめるが、原典を知っているほうが楽しみが倍加するであろうということ。それゆえ、そこで取り上げられた本のうちまだ読んでいないものについては、是非とも読んでみたいと思わせられてしまうということ。これが『ミステリは万華鏡』と『SF大将』の大きな共通点である。
 こういう本は危険だ。ただでさえ私は多くの積ん読本に責め苛まれているのに、さらに読みたい本が増えてしまうのだ。いくら読みたいと思っても時間には限りがあるし、としをとって読書力も落ちている。私の余生があとどれくらいあるのかはわからないが、これまでに読んできた本の半分も読めないだろうし、読んでも覚えておくことができないだろう。なんだか切なくなってくる。北村、とり両氏には申し訳ないが、私はこの2冊を読むべきではなかったという気がする。
 だが、愚痴ばかり言っても仕方がない。とりあえず『家蠅とカナリア』を読むことにしよう。

 白黒学派の10/2付の日記で、東京創元社の戸川安宣会長が新聞に寄せた鮎川哲也追悼文に言及して「謎解き推理小説、いわゆる本格もの」という表現が気になった、と書いている。蔓葉氏がいったいどういう意味で「気になった」のかということも気になったのだが、それよりも「本格」という言葉の上に「いわゆる」がかぶさっていることのほうが興味深い。これをネタに「本格」という言葉についてのいつもの持論を述べてみたくなったのだが、また長くなりそうなのでやめておく。

 鮎川読者への8つの公開質問についてのMystery Laboratoryのコメントを見て、10/1現在、matsuo氏が鮎川哲也作品を一つも読んでいない、ということに驚いた。まるでバベルの塔の崩壊を目撃したかのような気分だ。
 「本を読んでいない」という理由で他人を批判したり見下したりするのは愚かなことだ。そのような批判はきっと我が身にはね返ってくるに違いないのだから。また、「必読の書」とか「これを読んでいないのは恥ずかしい」などといって自分の趣味を他人に押しつけるのも見苦しい。たかがミステリ、娯楽じゃないか。
 そんなことは承知のうえで、私はあえて言いたい。非難でも嫌みでもなく、「鮎川哲也の小説を読んでください。短編一つでもいいから読んでください」とmatsuo氏にお願いしたい。ミステリ系ではおそらく現在一日あたりのアクセス数が最も多いウェブサイト運営者に対して、このくらいのお願いをするのは許されると思うのだ。鮎川読者への8つの公開質問の発案者である茗荷丸氏を差し置いて私ごときがこのようなことを書くのは僭越の極みかもしれないが、「故人を悼むと同時に、ミステリ界に遺した多大なる功績を称え、さらには一人でも多くの人に、その作品に興味を持ってもらおう」という企画の趣旨には反していないと思うのでご容赦願いたい。
 私の「お願い」は、Mystery Laboratoryの影響力を利用しようとするあざといものであることは否定できない。matsuo氏が気分を害されたなら申し訳ない。

 ああ、何だか謝ってばかりだ……。

1.10389(2002/10/04) 冥福を祈る

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0210a.html#p021004a

 こんな事を考えた。人は死んだらおしまいで、「あの世」とか「死後の生」などというものはなく、端的に無に帰す、という信念を抱いている人物が、たとえば「鮎川哲也氏の冥福をお祈りしたい」などと発言したなら、その人は何か矛盾したことを言ったことになるのだろうか? それとも単に知的不誠実さを露わにしたことになるだけなのだろうか?
 しぱらく考えているうちに頭が痛くなってきたので、私はもうこれ以上考えないことにした。とことん考え抜くというのは少なくとも私にとっては至難の業だ。

 昨日の文章(1回目)漂泊旦那氏の田中知事批判の文章(10/2付)に対して疑義を呈したが、それについて補足説明(10/3付)があった。それでもやはり納得できないのだが、私も漂泊旦那氏と同じく裁判や法律に関して素人なので、前回書いたこと以上に踏み込んだことは何も言えない。契約関係の法律に詳しい方がいればご教示願いたい。
 ところで――この件とは直接関係はないが――日本でも懲罰的損害賠償は可能なのだろうか?

 昨日の文章(2回目)に関してのことだと思うが、求道の果て

 鮎川哲也は5番目に作品を所有している推理作家なのに、『りら荘事件』と短編『五つの時計』しか読んでません。実はあんまりピンと来なかったこともあり、思い入れが全然無い作家だったりするので。
というコメント(10/3付)があった。『りら荘事件』と『五つの時計』はどちらも鮎川哲也の代表作なので、この二編を読んで「ピンと来なかった」のなら、たぶん他の作品を読んでも同じことだろう。
 いや、横溝正史の『上海氏の蒐集品』が好きだというらじ氏なら『絵のない絵本』を読めばもしかしたら気に入るかもしれない。もし気に入らなくても責任はとれないので、強いて薦めることはしないが。
 ところで、matsuo氏の
滅・こぉるさんの言いたいことを意訳すると「鮎川哲也を1冊も読んでない人間が本格ミステリファン度調査を行うとは、なんていい根性してるやがるんだ。この○○野郎!!!(←何かひどい言葉をいれてください)」と、こうなるはずです。
というコメント(みすらぼ日記10/3付「行員、矢野ごとし」)に対しては一言弁明(弁解?)しておきたい。私は「(事前に)鮎川哲也を1冊も読んでいない人間が本格ミステリファン度調査を行ってはいけない」と言っているのではなく、「本格ミステリファン度調査で一躍人気サイトになったのだから、鮎川哲也をまだ呼んだことがないなら、この機会に読んでみませんか?」と言いたいだけなのだ。
 ところで前回の文章では、「まるでバベルの塔の崩壊を目撃したかのような気分だ」とも書いている。これは、「ミステリ読者の世代間断絶」という話題(以前MAQ氏がミステリ作家について書いていた話題のミステリ読者版のつもり)のための"仕込み"だったのだが、一晩経ってみると、どうにも私の手に余るテーマであることに気づいた。そのうちに何かの弾みで書くことになるかもしれないが、その頃にはこんな"仕込み"は忘れ去られていることだろう。

 『家蠅とカナリア』を読み始めた。現在66ページまで。これをきっかけに積ん読本を少しでも減らせればいいのだが、そんなことを言っている一方で、今日も本を買ってしまった。『団地になった男 図らずも歴史に名を残しただいたい60人の男とほぼ5人の女の物語』(藤井青銅/朝日文庫)だ。ただの雑学コラム本、といってしまえばそれまでなのだが、著者名につられてついつい買ってしまった。ああ、『愛と青春のサンバイマン』は面白かったなぁ。

1.10390(2002/10/05) 諸君、私は鮎川哲也が好きだ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0210a.html#p021005a

諸君 私は鮎川哲也が好きだ
諸君 私は鮎川哲也が好きだ
諸君 私は鮎川哲也が大好きだ

鬼貫警部が好きだ
丹那刑事が好きだ
星影龍三が好きだ
三番館のバーテンが好きだ
田所警部が好きだ
安蒜先生が好きだ
膳所善造が好きだ
亀取二郎が好きだ
宇多川蘭子が好きだ
薔薇小路棘麿が好きだ
青井久利が好きだ
Q・カムバア・グリーンが好きだ

大連で ハルピンで
"白鳥"で "ながら"で
りら荘で 楡の木荘で
鳥取砂丘で 阿蘇山噴火口で
汐留貨物駅で 伊勢奥津駅で

この世界で発生するありとあらゆる難事件が好きだ

黒死館を模した建物で起こる連続殺人が見事に解決されるのが好きだ
"ゴア大佐の推理"と"停った足音"のどちらを読もうかと迷う場面など心がおどる

人吉市郊外の緑風荘で学生たちの間で殺人事件が起こるのが好きだ
尊大な名探偵星影龍三を鬼貫警部がやりこめた時など胸がすく気持ちだった

徹頭徹尾技巧的で実用性のかけらもないアリバイトリックが見事に遂行されるのが好きだ
アリバイ証人の目撃日時と場所と人物のすべてを誤認させる驚異の小説など感動すら覚える

密閉された解剖室からバラバラ死体が発見される様はもうたまらない
ナイフで刺された痛みを我慢しながらトリックを実行し最後にナイフを抜いて鮮血が飛び散るのも最高だ
精神病院で狂い死にをした妹の仇をうつために警官が人を殺した時など絶頂すら覚える

独逸白百合が地虫に滅茶苦茶にされるのが好きだ
詩情溢れる格調高い幻想小説が忘れ去られていくのを見るのはとてもとても悲しいものだ

苦手分野で愛嬌のあるミスをするのが好きだ
鬼面警部が旦那刑事にからかわれ馬鹿にされるのは屈辱の極みだ

諸君 私はミステリを奇蹟のようなミステリを望んでいる
諸君 私と同病の巧緻なミステリに飢えた愛好家諸君
君たちは一体何を望んでいる?

更なるミステリを望むか?
情け容赦ないハードパズラーを望むか?
超絶技巧の限りを尽くし壮大な論理の城を築いた奇蹟のような推理小説を望むか?

『ミステリ!! ミステリ!! ミステリ!!』

よろしい ならば鮎川哲也だ

我々は多くの積ん読本に囲まれ日々の新刊に追い立てられるただの読者だ
だがこの日本ミステリ界で半世紀もの間良質なミステリを書き続けた巨匠の後に
ただのミステリではもはや足りない!!

鮎哲を!!
一心不乱のミステリへの情熱を!!

我らはわずかな畸形読者 千人に見たぬネット弱者に過ぎない
だが諸君は真性の探偵小説の鬼だと私は信仰している
ならば我らは諸君と私で総力100万と1人の布教集団となる

本物のミステリを捨て去り名のみの「本格」に興じている連中を叩き起こそう
難解なる謎で脳髄を痺れさせ掻き回し謎解きの興趣を知らしめよう
連中にミステリ初読者の頃を思い出させてやる
連中に謎と論理の楽しみを思い出させてやる

アリバイ崩しは魅力的な謎ではないなどという奴らのミステリ観では思いもよらぬ傑作があることを思い出させてやる
一千人の鮎哲信者の普及活動で
世界を論理で再構築してやる

鮎川読者への8つの公開質問 企画に参加せよ

征くぞ 諸君

1.10391(2002/10/06) 「諸君、私は鮎川哲也が好きだ」の補足説明

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0210a.html#p0210

 今朝書いた諸君、私は鮎川哲也が好きだについて、少し補足説明しておく。これを書いたときには「元ネタは有名だし、面倒だから解説はいいや」と思っていたのだが、白黒学派

といいますか、もはや旬は過ぎたのにもかかわらず、何の説明もなしにやってしまう滅・こぉるさんのひねくれっぷりはすごいなあ。芸ですな。
というツッコミが入ったので、考えを改めたのだ。元ネタは『ヘルシング』(平野耕太/少年画報社YOUNG KING COMICS)第4巻186ページ〜198ページ(ただし途中見開き2ページ分を除く)である。
 原文及び先達のパロディはあちこちにあるが特にまいじゃー推進委員会!諸君、私はマリア様がみてるが好きだを参考にした。文章のいじり方にかなり影響を受けている。たとえば原文の戦闘の種類を人物名に置き換えたところなど。感謝したい。なお、上のリンクをクリックしても「まいじゃー推進委員会!」に繋がらないかもしれないが、リンクミスではない。サーバー会社が土日休業のため(?)だと思われる。
 ついでなので、内容面でちょっとわかりにくい点についても補足しておく。最初に人名を羅列したうち安蒜先生は怪作『朝めしご用心』に登場する探偵役、膳所善造(ぜぜぜんぞう、と読む)は『黒いトランク』の登場人物の一人(名前のインパクトが強すぎてどんな役回りだったか覚えていない)、亀取二郎は『王を探せ』の犯人の名前である。宇多川蘭子以降はすべて鮎川哲也の別名義だ。
 鳥取砂丘で死体が発見されるのは『砂の城』、阿蘇山噴火口は『死のある風景』でどちらも被害者は女性だ。伊勢奥津駅はJR名松線の終点で、『戌神はなにを見たか』でちょっとだけ出てくる。
 黒死館を模した建物というのは薔薇荘のこと。『薔薇荘殺人事件』及び『砂とくらげと』の舞台になっている。『ゴア大佐の推理』はリン・ブロック作、『停った足音』はフィールディング作。
 鬼貫警部と星影龍三が共演する作品は『呪縛再現』。後にトリックを鬼貫ものの『憎悪の化石』と星影ものの『りら荘事件』に流用したため、出版芸術社版『赤い密室』に収録されるまで長らく"幻の名作"だった。
 その次の二つの段落はネタをばらしているため作品名は省略。全部有名なものばかりだ。
 独逸白百合が出てくるのは異色短編『地虫』。忘れ去られているわけではない(と信ずる)が、話の綾であのような紹介の仕方になった。
 鬼面警部と旦那刑事のコンビは小林信彦の「オヨヨ大統領」シリーズその他に登場するパロディキャラクターである。『風の証言』の原型である『城と塔』でカメラについて鮎川哲也がミスをしたことを『大統領の晩餐』でネタにされている。
 最近記憶力が減退しており、また資料の多くが本の山に埋もれてしまっているため、かなり杜撰な出来になっているがご容赦願いたい。昔、私が若かった頃には同作異版にまで目を向けていたが、いまや「保瀬新一」と「星野新一」のどちらが先だったかすら思い出せないくらいだ。元ネタの流れに沿ってかなりテンションの高い煽り文句を書いたが、私自身は鮎哲信者でもなければ、布教活動を行っているわけでもない。
 最後に、本物の鮎哲信者とはどのような人であるのかを紹介しておこう。『東西ミステリーベスト100』(文藝春秋・編/文春文庫)の『黒いトランク』(国内篇第8位)のところで、匿名の解説者が次のように書いている。
 鮎川哲也は、彼を愛する多くの読者を持っている。「鮎川哲也長編推理小説全集」が出始めたとき、各配本ごとに必ず二冊ずつ買っている人がいた。その人曰く、「鮎川を理解してくれる、これならという人に会ったとき、揃いで渡すためです」。これは、もはや布教活動である。
 このエピソードを読んだとき、私は「どこの誰かは知らないけれど、世の中には凄いマニアがいるものだ」と思った。今だったら何でもないが、当時の私には同じ本を二冊買うということが世にも稀なる椿事だと思われたのだ。
 無名の"その人"は同じ本の『りら荘事件』(第48位)のところで、もう一度登場する。
「先生は、いつもと違うこの長篇を、うなりながら書いたんだろうな」と一人決めしていた読者が、「本篇は別に苦労をせずに書き上げました」という鮎川の言葉を読んで驚き、会ったときにわざわざ、「意外でした」と報告したそうである。
 同じ人物だとは書いていないが、両者が同一人物であることはまず間違いない。そして――他人事のような書き方をしているが――筆者が自分自身の体験を書いているのだということも。
 残念ながら、『東西ミステリーベスト100』には各作品の紹介文の筆者名は記されていない(もう一つ不満を述べると、このアンケートが実施されたときに、同時に好きなミステリ作家についてのアンケートも行われたのに、その結果が載っていない。もちろん国内トップは鮎川哲也だったのだが)が、今読み返してみると、その文体上の特徴から鮎哲作品の紹介文の筆者が誰であるのかは明らかだ。『東西ミステリーベスト100』が出版されたのは1986年だが、その数年後に"その人"はミステリ作家としてデビューし、いまや押しも押されもせぬミステリ界の重鎮である。私はつい先日"その人"の本を一冊読んだ(言うまでもないが『SF大将』のことではない)ところだ。

 「少し補足説明しておく」つもりが長くなってしまった。まだ私は鮎川読者への8つの公開質問に応募していない。なんとか今晩中に書いて送りたいので、今日はこれにて打ち止め。

1.10392(2002/10/06) 難問

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0210a.html#p021006a

 三等兵・林の不純粋科学研究所(というサイト名なのかどうかは知らないが、今トップページを見るとそういうタイトルになっていたのでそのまま書いておく)の草の日々、藁の日々で『日曜の夜は出たくない』(倉知淳/創元推理文庫)について、「総じて『猫丸先輩の推測』の方が良かった」(10/4付)と書かれていて、ちょっと驚いた。その根拠は、

  1. ラスト2編の仕掛けが蛇足である。(←デビュー作だから出版社の意向に逆らえなかったのだろう。でも、あれはやっぱり蛇足だろうな)
  2. 猫丸先輩のキャラが揺れている。(←確かに話のストーリーに都合のいいようにキャラを変えているところはあるかもしれない。その点『猫丸先輩の推測』のほうは一貫している)
  3. 犯罪捜査とは無縁の人物なのに、殺人事件ばかり扱っている。(← !)
ということ(適当に要約したので、ややニュアンスは違っているかもしれないが)だろう。私はミステリとしてあまりにも冗長すぎるという理由で『推測』を全く評価しない(よって、総じて『日曜』の方がよかった、と判断する)のだが、上の評価基準をもとにすれば『推測』のほうが良くできている、ということに異論はない。
 ただ、一般人(ミステリに登場する名探偵はたいてい一般人とは言い難いが、ここでいう「一般人」というのは、警察官でも職業探偵でもない、という程度の意味である)がやたらと殺人事件に巻き込まれるのは不自然だという点については、「それを言っちゃあ、おしまいだよな」と言いたくなる。それなら、ブラウン神父も亜愛一郎も駄目だということになってしまうではないか。
 「それを言っちゃあ、おいまいだよな」をもう少し理論的(?)に言い直せば、次のようになるだろう。
 文芸上の諸ジャンルには、それぞれそのジャンルを成立せしめるルールがある。それらのルールの中には現実世界では必ずしも成立しないものもあるが、そのジャンル内では暗黙のうちに作者と読者の間で共有されている筈である。「一般人が次から次へと難事件に巻き込まれている」という設定は、現実にはありそうもないけれど、ミステリのルールでは許容されるべき事であり、何ら不自然なことではない。
 と、ここまでなら、他人の意見にケチをつけているだけなのだが、話はそう簡単ではない。ミステリにみられる「暗黙のルール」をジャンル成立のための条件(従って、その条件に違反した場合には、それはもはやミステリでは何か別物――たとえば、「ミステリパロディ」――である)と考えることには問題がある。「暗黙のルール」が現実には不自然であるということを手がかりとして推理するミステリが書けなくなってしまうのだ。
 話が抽象的になってしまい、ややわかりづらいかもしれない。私が念頭に置いているのは、天藤真の『陽気な容疑者たち』とかマクロイの『ひとりで歩く女』なのだが……。もしこれらを単なるパロディではなく、本物のミステリとみなす(余計な註釈:「単なるパロディ/本物のミステリ」という二項には前者より後者のほうが優れたものであるという含みはないものと解されたい)ならば、「暗黙のルール」はミステリというジャンルそのものの成立要件ではなく、個々のミステリを書きやすくするための恣意的な慣習となるのかもしれない。
 と、ここまで書いて、佐野洋と都筑道夫の有名な「名探偵論争」を思い出した。手元に資料がないので断言はできないが、一般人がシリーズ名探偵になることの不自然さを佐野洋が指摘していたような気がする。
 ミステリは様式文学であり、さまざまな「暗黙のルール」が存在する。その一方で、ミステリがフェアであるためには、現実世界で自明のこととして認められているルールと作中で明示的に述べられたルール以外に「暗黙のルール」などというものを密導入してはいけない。この緊張関係をうまく分析して解消することは難しい。今の私には解決案を提示することはできないので、例によってネタだけ振って逃げることにする。

 蛇足その1
 上の話は、もちろん例の物理的にあり得ないトリックとは関係がない。理屈の上では、(実際にはそんなことはしていないが)現実世界とは異なる物理法則が成立していることを作中で予め明示的に提示しておけばこのトリックは成立するかもしれない。だが、それをやってしまったら、トリック以前に世界が崩壊してしまうだろう。

 蛇足その2
 ところで、誰か『紫の鬘』(『ブラウン神父の知恵』)と『双頭の鮹』(『亜愛一郎の逃亡』)と『寄生虫館の殺人』(『日曜の夜は出たくない』)の読み比べをやってくれないだろうか?

1.10393(2002/10/06) 堅い話は抜きにして

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0210a.html#p021006b

 昨日、「サーバー会社が土日休業のため(?)」繋がらないかもしれない、と書いたまいじゃー推進委員会!だが、今日臨時ページに移行したそうだ。情報もとはMystery Laboratory……と思ったら、私のところにもメールが来ていた。

予定としましては、10月7日(月)にサーバー移転作業を行いますが、
DNS情報の変更が行われるのに最低2日、最長2週間程度かかると思われ
ます。
ということだそうなので、私のたそがれアンテナにもしばらく臨時ページを登録しておくことにする。
 過去ログを探ってみると、8/19にも
 まいじゃー推進委員会!がサーバーのトラブルのため、別サーバーで臨時運営中とのこと。なんだかよくわからないが、かなり馬鹿げた人為ミスのようで、今後の展開が楽しみ、もとい、ご愁傷様。
などと書いていた。「まいじゃー推進委員会!」側の過去ログが死んでるので確認できなかったが、かなり「とほほ」な事情だったと記憶している。そして今回のサーバーダウンも前回以上に脱力を誘う事情(メールには書いてあったがサイトでは未公開なのでここには書かない)で発生したらしい。
 でもって、二回目だということで怒りのサーバー会社実名公開に踏み切っている。たぶん私には一生縁がない会社だろうとは思いつつ、それでも野次馬精神に促されるまま、リンクをクリックした。が、次の瞬間、自分の愚かさに気づいた。
 サーバー落ちてるんだから、繋がるわけないやん。
 件のサーバーは12日には復旧予定だそうなので、その頃にもう一度アクセスしてみることにする……といった話をなんでわざわざ書いたかというと、首尾良くいけばその頃には「まいじゃー推進委員会!」は新サーバーに移行しているだろうし、そうでなくても臨時運営中のはずだから、こうやって書いておかないと忘れてしまいそうだからだ。別に忘れたって構わないのだけど。

 もう一つMystery Laboratoryかからの情報で、このミステリは読んではる? 300作品というアンケートを知った。早速チェックをつけて投稿したところ、私が読んでいたのは138タイトルだった。ついでに、そのページの左上にあるTOPに戻るというボタンをクリックしてみたらその先にはぱっと見には掲示板には見えない掲示板があった。これもウェブサイトの一つの形だろう。
 今、私はちまちまとHTMLを手打ちしているが、別に画像を貼り付けるでもなし、JavaScriptやCGIを使っているわけでもなく、リンク集もほぼ死に体という状態なのだから、別に掲示板オンリーでも構わないのではないかという気がしてきた。過去ログがどれくらい保存できるか、とか、掲示板荒らしにどう対応するか、という問題もあるので、今の「たそがれSpringPoint」をそのまま掲示板で展開できるわけではないだろうが、今後検討してみたい。

 昨日、行きつけの書店で『完全版・野望の王国』(1)(2)(雁屋哲(原作)/由紀賢二(劇画)/日本文芸社)を買ってきた。由紀賢二は「作画」じゃないのか、と思うのだが、本には「劇画」と書いてあるのでそれに従う。
 『野望の王国』についてはバーチャルネットアイドルちゆ12歳を始めとする多くのサイトで取り上げられていて、私もその勢いに押されるようにしてコンビニ本の1,2巻を買った(ただし、それよりずっと前に古本屋で元版を何冊か読んだことはある)のだが、その後続刊が出ないなぁ、と思っていたらこのたびの「完全版」発行で、どこがどう「完全版」なのかはわからないけれど、一冊あたり600ページを超える厚さと内容の熱さ(暑さ、と書くほうが適切かもしれない)に圧倒されてしまい、時間を忘れて読みふけった。巻末の雁屋哲のエッセイも秀逸である。
 雁屋哲といえば今の読者にとっては『美味しんぼ』の原作者として知られているが、もともとは『野望の王国』のようなヤバめのマンガ原作が中心で、『美味しんぼ』はむしろ異色作なのだそうだ。そうはいっても私は『美味しんぼ』以外には読んだことはなくて、やはり「あの『美味しんぽ』の雁屋哲が……」という捉え方をしてしまう。
 『美味しんぼ』といえば、何といっても「まったり」だろう。それまでは京料理の世界など、ごくローカルなところでしか使われていなかった「まったり」を一躍全国区に押し上げ、それがやがて「マターリ」(半角カナを使うほうが雰囲気が出るのだが、なんとなくやめておく)へと発展するのだから、その功績は大である。いや、もしかしたら宮台真司もこの流れに一役買っているのかもしれないが、あんまり関係なさそうな気もする。
 最近、疲れが溜まっているせいか、私の文章がやや荒れ気味だ。休日の今日くらいはマターリとした文章を書いてみたいと思ったのだが、こうやって書きとばしてみると、なんだかガチガチに凝った文章で読み返すだけで肩のあたりが重くなってきた。
 軽やかに、柔らかに、流れるような文章を書くのは、もしかしたら私には一生無理なのかもしれない。
 いつの間にか『野望の王国』から話がそれてしまったが、もともと丁寧に感想を書くつもりはなかったので、これでいい。
 あ、『野望の王国』にかまけて、『家蠅とカナリア』が全然進んでいない。これはいけない。

1.10394(2002/10/07) 「ネタバレ」は嫌い、「ネタバラシ」が好き

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0210a.html#p021007a

 今日は何となく普通の文章を書く気が起こらず、「全国大和町リンク集」を作って、説明も何もなしにただそれだけをアップしようと思い、そのためにまずyahoo!とかGoogleで検索して調べてみたのだが、そうこうするうちにまほろば連邦国というのを見つけてしまい、意気消沈した。とりあえず、公式サイトがまだない(らしい)鹿児島県大島郡大和村の大和村商工会のサイトにリンクしておく。
 ネット上で最も有名な大和町といえば、誰が何と言おうと佐賀県佐賀郡大和町であり、トップページからアクセル全開なのだが、個人的には広島県賀茂郡大和町もなかなかのものではないかと思う。間違った選択肢を選んだら全身から力が抜けていくのが秀逸だ。

 見出しについて。ミステリとネタバレただ、風のために。510/5付。どうでもいいが、「あまりの悲しさに思わず飯田隆『言語哲学大全』を全巻大人買いしそうになりました」というのはいかがなものか)を読んで、リンク先を辿ってみた。で、別に何も言うことはないということに気づいた。それだけ。
 なお、私は「ネタバレ」以上に「ミステリ者」が嫌いだ。「SF者」は気にならないが、「ミステリ者」には腹が立つ。その理由はよくわからない。
 むろん「ネタバレ」にしても「ミステリ者」にしてもネット上では既に市民権を得ており、私一人が騒いでも仕方がないのだけれど。

 ヘイ・ブルドッグで「映画は若く、彼もまた若かった」というフレーズを見て、何となく嬉しくなった。

 カエレ!〜招かざる厨房たちへ〜で久々に凄いエピソードに出会った。「私はキレイだから誰に何度抱かれても処女でいられる」。ブーム(?)が去った後もずっと定期巡回していた甲斐があった。

 ここ(639以降)でミステリのリアリティについて興味深い論争が発生している(ネタに触れているので『スパイラル〜推理の絆〜【ソードマスターの犯罪】』(城平京(著)/水野英多(画)/エニックス)を未読の人は読んではいけない)。残念ながら明日はアニメ放映日なので、このスレも荒れてしまうことだろう。

 更新直後にもう一度覗いてみると……明日になる前にスレの流れが変わってしまっていた。詳しくは同スレの691以降を参照のこと。

 哲学往復書簡2002第13回 傷より。

 立場とは何か。それは言語行為論の言葉で言えば、事実確認的(コンスタティヴ)と区別される、行為遂行的(パフォーマティヴ)な選択に関わるレベルのことです。世界をより良くすることが可能かどうか、などという問いには、「世界」も「良く」も定義が曖昧な言葉である以上、原理的に答えられない。したがって、「世界をより良くするのは不可能だ」と「世界をより良くするのは可能かもしれない」という二つの命題のあいだには、事実確認的には差異はない。
「するってぇと、『さだまさしはハゲである』って言うのと『さだまさしはハゲではない』って言うのも、"事実確認的には差異はない"ってかい?」とツッコミを入れたくなった。いや、ツッコミというよりボケかもしれない。

 "長文だらだら路線"からの脱却を図ろうとしたが、あまりうまく行かなかった。

1.10395(2002/10/08) 湯上がり

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0210a.html#p021008a

 昨日から我が家の風呂が工事中のため、今日は家族全員で銭湯に出かけた。私の住んでいる山奥の田舎から最寄りの銭湯まで自動車で片道約30分かかるので、せっかくゆっくり湯に浸かって温まったのに、家に帰りつく頃にはすっかり冷めてしまっていた。
 そんなこんなで貴重の夜の自由時間を費やしてしまい、今日はもうたいした事は書けないから適当にお茶を濁すことにしたが、それでも何かネタはないものかと思ってネットに接続すると、なぜか今日はいつもより「たそがれSpringPoint」のアクセス数が多い。どうやら姫川みかげの しゃんぶろう通信からリンクが張られていたのが原因のようだ。
 昨日の文章では高橋まき氏のコメントを紹介しただけで、「別に何も言うことはない」と言って簡単に片づけたが、その後もまだ続いているようだ。でもって、ちょっと考えてみたのだが、やっぱり別に何も言うことはない。
 とはいえ、明日以降ネタ切れに苦しんで再度この話題を取り上げることになるかもしれない。それまでに何か新しい展開があればいいのだけれど。

1.10396(2002/10/09) トラックの日

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0210a.html#p021009a

 明敏なかたならもうお気づきだろうがここしばらく私は下らない身辺雑記のほかは他人のサイトにべたべたリンクを張りまくるだけの芸のない文章ばかり書いておりそれではいけないと思うのだが無い袖は振れないわけで今日も今日とてどうでもいい日常のエピソードを書き流して一回分の更新にしてしまおうと思っているのであるけれどさて何を書いたらいいのかと思っているとトレンドマイクロ社からウィルスバスターの更新案内が届いていてオンラインなら無料で更新できるそうなのだが困ったことに私は4月末に壊れた前のパソコンとその後買いなおした今のパソコンの両方にウィルスバスターを入れていてどちらの更新案内が来たのかわからずそもそもメールで案内が来たときもプロダクトIDがどちらのものなのかがわからず調べるのも面倒なのでそのままにしておいたという経緯があって今さらパソコン関係の雑品を入れた箱を引っかき回すのも面倒なのでそのままにしておくつもりなのだがこんな事を書いてもたぶん多くの人には全然興味も関心もないだろうし書いている本人さえだんだんうんざりしてくらいなので適当に読み飛ばしてほしいと説に希望する次第でありそのためにここの真似をしてみたわけである。

 引き続き、身辺雑記。
 今日、久しぶりに某菓子メーカーの「十七アイス」なるものを食べた。自動販売機で売っていたのだが、名前に反して選択肢が15しかなく、しかも3種類が重複していた。つまり12品目しかなかったわけだ。
 それだけならまだいいが、期間限定の「ぶどうのレアチーズ」(濃厚なレアチーズ風味のクリームにすっきりとしたぶどうソースのおいしさ)を選んだはずなのに、取り出し口に出てきたのは誰が見ても「チョコナッツコーン」(ザクザクしたビスケットとコーンのコンビネーションがきめて)だった。私がボタンを押し間違えたわけではない。
 それだけならまだいいが、出てきた「チョコナッツコーン」は半分溶けかけていて、どろどろのチョコとクリームのせいでコーンがふやけてしまっていた。
 そんなこんなで今日の私はかなり不幸だ。

 嫌煙者と喫煙者のたとえを読んで感心した。確かにこれはよく似ている。また、もう一つ感心したのは、

あ、似てないところも思いついた。「ネタバレを気にする人」が自分で紹介をするときには思いっきりネタバラシすることがある(お前がゆーな、って奴)、というのはタバコの例では珍しいな。
と、このたとえの限界をちゃんと押さえているところだ。で、この事について別に何も言うことはないのだが、三日続けてこの話題を取り上げながら三日続けて「別に何も言うことはない」ではしまらないので、何か言うことにしよう。
 ええと。
 誰かがミステリを書いたとする。別の誰かがそれを読んでネタをばらしたとする。さらに別の誰かがネタをばらしたことに対して抗議をしたとする。この場合、三者はそれぞれ「ミステリを書く」「そのネタをばらす」「ネタバラシに抗議する」という行為を行っている。ここで注目すべきなのは、これらの行為はすべて言葉を用いて行われるものだということだ。
 ええと。
 この後、言語行為論がどうたらこうたら、という話に持っていこうと思ったのだが、よく考えると私は言語行為論のことはよく知らない。誰か引き継いで続きを書いてほしい。
 ああ、「別に何も言うことはない」で止めておいたほうがよかったか。でも、明日があるさ。明日まで引っ張るほどの話題かどうかはわからないが。
 しまらない文章で申し訳ない。最後にここにリンクを張っておく。

1.10397(2002/10/10) 橘外男生誕108周年

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0210a.html#p021010a

 性懲りもなく昨日の続きを書くことにする。
 「ミステリのネタをばらす」ということの是非と「ネタバラシに対して抗議する」ということの是非は密接に関わっている。しかし、「さだまさしはハゲである」という文の真偽と「さだまさしはハゲではない」という文の真偽の関係ほどには密ではない。後者の場合、【真/偽】または【偽/真】という組み合わせは考えられるが【真/真】及び【偽/偽】という組み合わせはあり得ないが、前者の場合は【是/非】【非/是】のほか、【是/是】【非/非】という組み合わせも考えられないことはないからだ。さらに【どちらともいえない】とか【わからない】などという選択肢を導入すれば、組み合わせのパターンはどんどん増えていく。さらにさらに、それらの組み合わせから一つを選択すること自体の是非を問うことも可能であり、そうなってくると議論が錯綜してきて収拾がつかない。
 そういうわけで……「ミステリのネタをばらす」ということは是か非か、ということに話を絞ることにする。
 私の答えは簡単だ。ミステリのネタをばらすのは――常に、というわけではないが、たいていの場合には――やってはいけないことである。なぜいけないのかといえば、ミステリのネタをばらすことは未読の人の興を殺ぐことになるからである。では、ネタをばらすことによって未読の人から奪ってしまう興趣とは何か? それは二種類ある。一つは「驚く楽しみ」であり、もう一つは「発見する楽しみ」である。
 「驚く楽しみ」を読者に与えることを主な目的としたミステリが、そうでないミステリに比べて低級なものであるのか否かということ、また主に「驚く楽しみ」を求めてミステリを読む読者がそうでない読者に比べて未熟であるかどうかということは、大きな問題ではない。多くのミステリには「驚く楽しみ」を生む要素が含まれており、たいていの読者は「驚く楽しみ」を多少とも意識しながらミステリを読むという事実が重要である。
 なかには「驚く楽しみ」が全くないミステリもあるだろうし、そのような楽しみを味わうことを忌避する読者がいるかもしれない。だが、そのような例外を根拠に、ミステリに「驚く楽しみ」を多少とも求める読者に対して「驚く楽しみ」を多少とも与えてくれるミステリのネタをばらす行為を擁護することはできない。
 「驚く楽しみ」に比べると「発見する楽しみ」のほうはちょっとピンとこないかもしれない。ガチガチのパズラーの場合は「推理する楽しみ」と言い換えれば理解してもらえるだろうか? たとえば殺人事件の容疑者が三人いて、そのうちの誰が犯人であってもおかしくないという状況が提示されているとしよう。その場合、(三人以外の誰かが犯人だった、という結末でない限り)犯人の正体について「驚く楽しみ」を味わうことはできないが、それでも「発見する楽しみ」すなわち作中で犯人が三人のうちの誰であるかを明示する前に、読者が自力で真犯人を突き止める楽しみはある。むろん、「発見する楽しみ」は犯人の正体に限ったことではなくて、トリックやその他の仕掛け、あるいはストーリー展開についても「発見する楽しみ」はある。
 「驚く楽しみ」にしても「発見する楽しみ」にしても、数多いミステリの楽しみ方のごく一部分に過ぎない。ネタをばらされてこれらの楽しみが奪われても、まだそこには他の楽しみが残されているかもしれない。だが、「まだ残っている」というのと「手つかずのまま残っている」ということは同じではない。未読のミステリのネタをばらされることで一層楽しみが増すという場合もあるかもしれないが、それを一般論に拡張するのは無理だろう。たいていの場合、ネタバラシは楽しみを減らすだけで何も付け加えはしない。
 「しかし」と疑問を呈する人がいるかもしれない。「『驚く楽しみ』はともかく『発見する楽しみ』などというものまで考え始めたら、ふつう"ネタ"だとはみなされていない事柄についても、何も言えなくなってしまうのではないか?」と。然り。ここまでの話をそのまま受け入れるならば、「あらすじ一行書いただけでネタバレになるかもしれない」(白黒学派10/8付)ということになる。ある小説のどの部分に「発見する楽しみ」を感じるかは読者によって異なりうる。漫然と筋を追って「驚く楽しみ」に身を任せる読者にとっては結末付近で明かされる「意外な真相」以外は瑣末な事柄に過ぎないかもしれないが、あれこれ考えながら読む読者にとってはそうではないかもしれない。私に「発見する楽しみ」を与えてくれた要素があなたには何の楽しみも与えてくれないかもしれない。「かもしれない」を積み重ねれば、ほとんど何でも言えることになるだろう。
 もっとも、ある程度ミステリを読み込むと、「これは明かしても大丈夫だろう」「これはもしかしたら未読の人の興を殺ぐかもしれない」「これは絶対に書いてはいけない」という区別が直感的にできるようになる。その直感はいつも正しいというわけではないのが困りものだが、差し当たりそれ以外に頼るべきルールがあるわけではない(もしかしたらパソコン通信の時代にはローカルルールがあったのかもしれないが、私はパソコン通信の経験がないので知らない)ので、直感に従って書くしかない。
 では、自分の直感が外れていて他人から抗議を受けたらどうするか、という話になるのだが、そろそろ時間切れなので今日はここまで。明日この続きを書くかどうかは未定。

 堅い話の後で、何の意味も脈絡もなく全国巫女さん分布図(情報もと:リンク不可の秘密のサイト)にリンクを張っておく。誰か「全国メイドさん分布図」も作ってほしいものだ。