今回の見出しは名作海外ミステリのタイトルのもじりである。邦題は『キドリントンから消えた娘』だ。と、たまにはミステリマニアのような事を書いておこう。
今日は空き家の草刈りという重大任務を帯びて出張した。いつものスーツ(ただし夏場は「ノーネクタイ、ノー上着」ということになっている)のかわりに作業服を着て、草刈り鎌を持って用務地へと赴いた。
そして、汗だくになって帰ってきた。
午後には、別の任務(ボロ家の修理という重大な任務だ!)があるのだが、その前に一旦家に帰ってきて、今シャワーを浴びたところだ。昨夜、ネット環境の不具合のせいで更新ができなかったので、その埋め合わせわしておこうと思うのだが、あまり時間がないので、ニュース系サイト風にメモ書きしておく。
ここ数日、ネット環境の不具合のせいで、満足な更新ができないでいる。今日はとりあえず定期巡回だけは済ませたが、時間帯が遅くなってくると接続ができなくなる可能性があるので、簡単に近況報告をしておくことにする。
といっても特に普段とは変わったことはない。「美しい日本語」とか「図書館問題」とか「ミステリ系読書サイト平均的運営者像」とか続きを書きたい話題はいろいろあるのだが、今はあまり時間がないのですべて省略。
ただ一つだけ続報を書いておこう。知人からのメールで知ったのだがワルツ堂の社長が自殺していたそうだ。
「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」、今日はCD155枚目。そういえば、このバッハ・エディションはワルツ堂で買ったものだった。
深き苦しみの淵よりわれは汝に向かいて叫ぶ(BWV686)ああ、われらの人生は何ぞ(BWV743)ああ、いかにむなしく、いかにはかなき(BWV644)来たれ、甘き死よ、来たれ、至福の安らぎよ(BWV478)。
見出しとは全く関係なしに安直にリンクをべたべた張ってお茶を濁すことにする……と書いてみたが、「べたべた」という修飾語は「貼る」にかかるもので「張る」にはかからない。じゃあ「リンクを貼る」と書いたらいいのか? ウェブページに画像を貼るのも、他のウェブページへリンクを張るのも似たようなもの(もちろん使用するタグは違うけれど)なので、「貼る」で統一してしまってもいいのかもしれないが、やっぱり「リンクを貼る」という書き方には違和感がある。
そういえば「俺は生まれてこのかた嘘と坊主の髷はゆったことがない」という言い回し(出典は知らない。昔の講談か何かだろうか?)があったが、文字で表すと意味が通じにくい。「言った」と「結った」を掛けてあるのだが、平仮名で書いても表記が違う。こんなちゅーとはんぱなげんだいかなずかいなんかはやくはいしして、ほんとーにはつおんするとーりのかなずかいおさいよーしなければならない。いや、本気でそんなことを考えているわけではない。
ああ、この文章の中でまだ一度もリンクを貼っていない! 無駄話は切り上げて、別の無駄話をすることにしよう。
雨の日はいつもレインで、タウンページの書評をしていた。ちょっと面白そうだと思ってそのリンク先を見てみた。あら、びっくり。高橋まき氏の文章ではないか。
その高橋氏のののぐらむと題する文章では「ののぐらむ」と「イラストロジック」が同年同月同日に考案されていた、というエピソードが書かれていた。同年同月同日といえば、昔ある本で「ヒトラーとチャップリンは同年同月同日生まれである」という一行知識を読んだことがある。もちろんそれは誤りである。たぶん「ののぐらむ」と「イラストロジック」も全く同じ日に誕生したというわけではないだろうが、別に同じ日であっても全然問題なく、私には関係ない話なのである。えっと、いったい何を書こうとしていたのだろうか?
あ、そうそう。高橋氏が名前を挙げている「戸田さん」とは、たぶん戸田和光氏のことだと思うが、先日少し言及した、甲影会の『別冊シャレード第70号 天城一特集7』に戸田氏の「時刻表トリックを分類する(改訂版)」という文章が掲載されている、という話にもっていこうと思っていたのだ。この文章はもともと『別冊シャレード第11号 天城一特集7』に掲載されたものだが、ずっと前に元版を読んだときに私は敗北感に打ちひしがれたことを思い出した。いや、世の中には逆立ちしても敵わない人がいるものである。
同時期に開発されたパズルといえば、何といってもエルノー・ルービックvs.石毛照敏が有名である。どうやら特許をとったのはルービックのほうが先らしい(さらにそれ以前にアメリカで特許をとった人がいるというのは初めて知った)が石毛照敏が最初だ、と書かれているページ(ただし情報もとは明示されていない)もあった。
ついでなので忘れないうちに書いておく(もしかしたら既に書いてあるのを忘れているだけかもしれないが、「たそがれSpringPoint」の過去ログを全部辿る人はあまりいないだろうから気にしないことにする)が、松本零士と石ノ森章太郎はともに1938年1月25日生まれである。ミステリの分野では……いや、そろそろ面倒になってきたから、この辺でやめておこう。
メモ。 SHADOW Ver.6.0の9/12付の記事を読んでシュトックハウゼンの発言(参考)を連想した。なお、私は「メイド属性はないと主張したい」(同9/11付)のではなくて、端的にメイド属性がないのである。
☆ 『猫丸先輩の推測』(倉知淳/講談社ノベルス)読了。各収録作のタイトルが名作のもじりになっているのはすぐにわかったが、『カラスの動物園』だけがどうしても元ネタがわからない。当てずっぽうで調べて『ガラスの動物園』というのを見つけたが、これなのだろうか?
あまりべたべたと張れなかった。
例によってネットへの接続が不調で、定期巡回サイトのチェックが十分にできなかったので、今回は他サイトへのリンクはなし。昨日読み終えた『猫丸先輩の推測』(倉知淳/講談社ノベルス)の感想文を書いて、更新のチャンスを窺うことにする。無事更新できるかどうか、読者の皆さんも祈って下さい。
私は倉知淳の小説のあまりいい読者ではない。デビュー作の『日曜の夜は出たくない』(もとはハードカヴァーで出た本だと思うが、私は文庫化の際に買って読んだ)と『星降り山荘の殺人』(私は講談社ノベルス版で読んだが、今は講談社文庫に入っているはず)の2冊といくつかの短編を読んだ程度である。この2冊がつまらなかったというわけではない。どちらも私の好みにあった面白い本だった。だが、ここ数年の私はミステリからかなり遠ざかっていたので、他の本にまで手を出さなかっただけだ。
今回の『猫丸先輩の推測』にはかなり期待していた。きっと、小粒だけれどよく考え抜かれた本物のミステリが読めるのだ、と。だが、『夜届く』を数ページ読んだところで、何かがおかしいと思った。あれ、倉知淳ってこんなに間延びした文章を書く人だったろうか?
期待が失望にとってかわるのに、それからさほど時間を要しなかった。
文章が冗漫で退屈だ。たとえば『桜の森の満開の下』では約半ページ(91ページ下段2行目〜92ページ上段3行目)を酒宴のどんちゃん騒ぎの最中に交わされた会話に費やしているが、なぜこのようなことを書いているのか私には理解できない。この場面は本筋とは何の関係もない。また『カラスの動物園』では冒頭からの10数ページは不要だと思う。長尾葉月がなぜ動物園に行ったのか、などということは数行あれば説明できることだろう。ほかにも刈り込んだほうがよいと思われる場面や描写が随所にあった。
もしかしたら私の読み方は根本的に間違っているのかもしれない。『猫丸先輩の推測』は謎と伏線、論理と解決を楽しむべき作品集ではなく、平凡で退屈な日常をユーモア混じりに描写することに主眼が置かれているのかもしれない。謎から解決へと至るプロセスはほんの薬味程度のものなのかもしれないのだ。もしそうなら、私にはこれ以上何も言うべきことはない。料理から薬味だけ取り出してあれこれ文句をつけても仕方ないだろうから。
「ミステリ味の薄さ」という観点から――こういう文脈で引き合いに出すのは失礼なのだが――『十八の夏』(光原百合/双葉社)と比較しつつ、もう少しねばろうかとも思った……が、気合いが全然足りない。『十八の夏』のときには病的なほどテンションが高まったんだけどなぁ。仕方がない。これでおしまいにする。
スランプ気味。何もネタがない。仕方がないのでMystery Laboratoryの本格ミステリファン度調査にリンクを張ってお茶を濁すことにする。午前2時47分現在、まだ投票はできないみたいだが、試しにチェックしてみたら45だった。読んだかどうかがはっきりしない本と全部は読んでいない短編集は外した。まあ、こんなものだろう。
あれ、300タイトルもないぞ? ああ、まだ作成中なのか。
最近、身体的にも精神的にも調子の悪い日が続いている。「たそがれSpringPoint」なんか閉鎖して悠々自適の老後を送ろう、と思うこともある。だが、今閉鎖してしまったら、身体的には楽になるだろうが、ますます精神の不調が増してしまいそうだ。もうしばらく続けることにする。
さて、特に何も書くことはないのだが、何も書くことがないとだけ書いても仕方がないので、何も書くことがないと書いている間に次に書くことを考えているのだが、やっぱり何も書くことがないという状態にかわりはなく、結局何も書くことがないのだが、何も書くことがないとだけ書いても仕方がないので(以下略)。
う〜ん、仕切直ししたほうがいいな、こりゃ。
挑戦!鉄人定食!! その一(情報もと、いろいろ)(なお、これは『イリヤの空、UFOの夏 その3』に出てくる鉄人餃子を実際に作ってみたというものである。別に本編のネタばらしをしているというわけではないが、「まずはじめにこれはイリヤの空、UFOの夏その3を未読の人は見てはいけません☆ 作品がつまらなくなりますから☆」という意見もあるので、これから読もうと思っている人は注意されたい)を見た。胸焼けした。通常サイズの餃子30個分だということだが、餃子30個なら食べられないはずなのに、こうやって一つの大きな餃子の形で出されたら、箸をつける気にもならない。この違いはいったい何なのか? 茶葉を囓ってから熱湯を飲めば胃の中で混じって、お茶を飲んだのと同じことになる、という乱暴な話を思い出した。
思うところあって、部屋の中を引っかき回して、昔の「SRマンスリー」の記事のコピーを探した。目当てのものは見つからなかったが、机の上にうずたかく積まれた本の山から『――金田一流の事件簿――ヒ・ミ・ツの処女探偵日記』(しんかいち さとみ/ナポレオン文庫)を見つけた。1997年に出た本で、もう5年も前のことだから、内容は全然覚えていない。
その後、続編が出ていないので、こんな本があったことをすっかり忘れていた。いや、一度だけ思い出したことがある。二、三年前にコミケで買ってきた同人誌にこの作者の連載小説(『コミケ殺人事件』に似たタイトルだったが、正確には覚えていない)の第一回が載っていたのを見たときのことだ。だが、その小説自体も中絶してしまったようだ。
こんな事はよくある話で、別にどうということはないのだが、ちょっと気になったので検索して調べてみると、作者のサイトが見つかった。別にどうということはないのだが、とりあえずリンクしておく。
前回の文章の続き。
Mystery Laboratoryの本格ミステリファン度調査は、まだ完成していないようだが、既に投稿している人が10人以上いた。人はチェックボックスがあるとチェックを入れたくなる生き物であり、また、ボタンがあれば押したくなる生き物でもある。
先日、「ミステリ系読書サイト平均的運営者像」調査というのを思いついたが、実際に調べるのは面倒なので誰かかわりにやってくれないものかと待っていたが、誰もやってくれなかった。そうこうするうちにUNCHARTED SPACE版「ミステリ系読書サイト平均的運営者像」があれよあれよという間に広まってゆき、やっぱりネタを振るときには「誰か何かやってくれ」ではなく、みんなが参加したくなるようなプレゼンテーションが必要であるということに改めて思い至った。反省。
反省はしたものの、どうやったらウェブを徘徊しているミステリ系の人々の読書傾向を知ることができるのかがわからず、「誰か何かやってくれ」状態が引き続いているところに、たぶん"ものぐさ度"では私とどっこいどっこいだと思われるペインキラー氏の発案により、このたびの本格ミステリファン度調査が実現したわけであり、まことに祝着である。ベースとなっている『本格ミステリ・クロニクル300』(探偵小説研究会・編/原書房)は最近の国産作品しか扱っていない(と思うが現物を見ていないので詳しいことは知らない)ので、この企画が成功したら、次はより幅広くアンケートを行ってもらいたいものである。作品選定には『東西ミステリーベスト100』(文藝春秋・編/文春文庫)を使うと、『本格ミステリ・クロニクル300』と重複がないのでいいだろう。これだと、最近の海外古典作品ブームで出版された本が入らないが、仕方ない。
書くことがないといいながら、それなりに書くことがあったので、今日のところはまだ私は大丈夫だとわかった。明日はどうだか、わからないけど。
憂鬱なときには無理に気分を浮き立たせようと考えずに、ただ流されるままに沈んでいくほうがいいのかもしれない。そこで、ダウナー系の本を求めて本屋に行って買ったのが『パイドン――魂の不死について――』(プラトン(著)/岩田靖夫(訳)/岩波文庫)である。もう一冊、『病院屋台』(松村秀樹/小学館文庫)という本も買ったが、これは以前後輩に薦められていたのを思い出し、たまたまみかけたから買っただけで、今の精神状態とはあまり関係がない。
☆
さて、『パイドン』はソクラテスの最期を描いた対話篇である。青年たちを惑わせた罪で裁判にかけられ(『ソクラテスの弁明』)、死刑が決定したのち、弟子や友人たちの破獄のすすめを断り(『クリトン』。どうでもいいが、『クリトン』におけるソクラテスは、福本伸行の『天』の最後のほうの赤木しげるによく似ているような気がする)、とうとう迎えた死刑執行当日の様子が描かれている。
いちばん最後のページから、少し引用しておこう。語り手はこの本のタイトルにもなっているパイドン、聞き手はエケクラテス、「あの男」とは毒薬を与える役目の男(刑務官か?)、そして「あの方」とは言うまでもなくソクラテスのことだ。
すでに、ほとんど下腹部のあたりまで冷たくなっていました。そのとき、あの方は顔の覆いを取って――顔が覆われていたからです――言われました。これがあの方の最後のお言葉でした。「クリトン、アスクレピオスに雄鳥一羽の借りがある。忘れずに、きっと返してくれるように」当時インドにはソクラテスと比肩すべき大人物がいた(ただし生没年にはいくつかの説がある)のだが、むろんパイドンには知りえたはずがない……と、そんな話はどうでもいい。今から早速本を読むことにしよう。
「うん、きっとそうするよ。だが、他になにか言うことはないかね」
クリトンがこう訊ねたとき、あの方はもうなにも答えられませんでした。少したってから、体がピクリと動き、あの男が顔の覆いを取り除けると、あの方の目はじっと座っていました。それを見て、クリトンは口と眼を閉じてあげたのです。
これが、エケクラテス、われわれの友人の最期でした。われわれの知りえたかぎりでの当代の人々のうちで、いわば、もっとも優れた人の、そして、特に知恵と正義においてもっとも卓越した人の、最期でした。
『病院屋台』(松村秀樹/小学館文庫)読了。非常に面白かった。
この本はネット上ではほとんど話題になっていないようだ。検索してみても、数えるほどしか感想文はなかった。そんな本を取り上げるときには、個人的な感想を述べる前に、これがどのような本なのかを紹介しておく必要がある。
だが私は本の紹介が苦手だ。とりあえず、これは小説である、と断言することはできるが、いったいどういう種類の小説なのかはよくわからない。表紙を見ると、
医療制度の崩壊で、屋台経営の病院が誕生と書いてあるので、これは「近未来医学小説」というジャンルに属する小説なのだろう。
前代未聞の近未来医学小説
2002年4月3日から「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」実施中! 一覧表(←外部へのリンク)
5ヶ月以上トップページを飾ってきたこのフレーズをついに外す日がやってきた。ブリリアント版バッハ・エディション全23巻160枚組のCDを今日聴き終えたのだ。これで私は現存するバッハのすべての音楽(厳密に言えば同曲異版でこの全集に収められていない曲がいくつかあるのだが)を聴いたことになる。
この5ヶ月の間にあったことを振り返ってみると、最大の出来事は南海電鉄水軒駅の廃止だと思う。いまやレールに錆が浮き、架線柱はすべて取り払われ、人っ子一人いない廃墟となってしまった。営業していた頃も、ほとんど人気のない駅だったので、あまり大きく変わったわけではないのかもしれないが。
もう一つ大きな出来事といえばワルツ堂の破産とその直前の社長の自殺である。私の持っているCDの大半はワルツ堂で買ったものだが、これから私はどうすればいいのだろうか?
何か明るい話題はないものかと思ったが、なかなか出てこない。楽しかった思い出がないわけではないが、それらはすべて過去の事であり、現存するわけでもなく、再び蘇るわけでもない。7月のペインキラーRD10万ヒット記念オフは楽しかったが、「ペインキラーRD」は二度と10万ヒットになることはない。ああ、時間とは何と残酷なものか。「たそがれSpringPoint」は今後10万ヒットに到達する可能性があるが、「ペインキラーRD」からはその可能性は永遠に失われてしまったのだ。もし叶うならば、「たそがれSpringPoint」と「ペインキラーRD」のカウンターを取り替えたいくらいだ。
ついさっき「たそがれSpringPoint」には10万ヒット達成の可能性がある、と書いたが、それは純粋に論理的可能性に過ぎない。論理的であるということは内容空疎であるということでもある。最近「たそがれSpringPoint」の一日あたりのアクセス数がどんどん減っているので、この調子だと10万ヒット達成の前に私の寿命が尽きるかもしれない。
そんな事をつらつらと考えていると、普段にも増して憂鬱になってくる。座して死を待つのでなく、すっぱりとサイトを閉鎖して田舎に引きこもろうか、と考えたことも何度もある。だが、既に私は田舎に引きこもっているので、サイトを閉鎖することはできても、サイトを閉鎖して田舎に引きこもることはできない。ということはこのままずるずると続けていかなくてはならないのか。なんか論理に飛躍があるような気もするけど。
例によってウェブを巡回していると、いろいろなサイトにいろいろな事が書かれていて、別に私が何を書こうが書くまいが、国際情勢にも科学の発展にも何の関係もないかのような気分になってきた。私がこの銀河系を支えているのだ、という自負と責任意識は今の私にはない。もともとそんなものはない。
このままUNDERGROUNDのように人知れずフェードアウトしてゆくのも一興か。
あ、いつのまにか肺炎時計が復活している。
J-oの日記跡地がまだ跡地になっていなかった頃に、非常に興味深いニュースを取り上げていた。2000年9月19日付で「盛岡の酒造会社からのらくろとミッキーマウスが一緒に悪者退治をする海賊版アニメ発見される」というニュースを紹介していたのだ。今、リンク先を見ようとするとYahoo!ニュースのトップページに飛ばされてしまうので、別のページ(二年前に読んだ記事なので、全く同じ内容かどうかはわからない。子供向けにいくらか端折っているかもしれない)にリンクをはっておこう。
このニュースはずっと私の記憶の底に残っていて、ちょっとしたきっかけで、ふと思い出すことがあった。たとえば、『洋楽事始』に収録された隠れキリシタンの「オラショ」を聴いたときなど。だからどうした、と言われれば何も言うことはないのだけど。
さて、盛岡で無名のアニメファンがディズニーをも恐れぬ所業にいそしんでいた昭和初期のこと、一人の探偵小説愛好家が歴史に残る小説を書いている。
その小説の題名は『鴉殺人事件の真相』だ。
作者は八重座螢四という人物だが、いったいどのような人なのかは今ではもうわからなくなってしまっている。『鴉殺人事件の真相』は「サンデー毎日」1934年(昭和9年)11月増刊号に掲載されたが、その後歴史の闇に埋もれてしまい、40年以上後になって「幻影城」1977年12月号に再掲された。それからさらに四半世紀が過ぎ、『鴉殺人事件』は再び忘却の彼方に消えようとしている。
では、なぜの小説が「歴史に残る」ものなのか? それは、『三つの棺』(1935)に先駆けて、作中で密室トリックの分類を行った小説だからだ。実を言えば私はその密室トリック分類の部分しか読んでいないので、『鴉殺人事件の真相』がミステリとして出来がいいものなのかどうなのかはわからないのだが、ただこの一点だけでも長らく語り継ぐべき作品であると断言してしまおう。
さて、『鴉殺人事件の真相』が密室トリック分類の草分け(もしかしたら世界初かもしれないが、断定は控えておく)だということを、私は数年前に「SRマンスリー」(ミステリサークル、「SRの会」の会誌。念のために書いておくと私は「SRの会」の会員ではない)に掲載された文章で知った。先日その記事を探して部屋の中を引っかき回したが見つからなかった。本来ならその文章の筆者名を八重座螢四と並べて紹介すべきなのだが。ご存じの方はぜひご一報いただきたい。
ここでちょっと余談。
『鴉殺人事件の真相』は残念ながらその後のミステリ界に影響を与えた形跡は窺われないが、『三つの棺』の有名な「密室講義」は多くの作家を触発した。クレイトン・ロースンやH.H.ホームズは自作中でそれぞれの探偵役に密室講義を行わせているし、日本では乱歩が「類別トリック集成」を書いている。本来はミステリという技巧小説の一要素であるべき密室トリックを抜き出しデータベース化する(「類別トリック集成」では密室トリックに限らないが)、という活動を『動物化するポストモダン』(東浩紀/講談社ノベルス)で提示されている議論の枠組みで考えるとどうなるのだろうか? そこでは「大きな物語」が凋落し「データベース」へと移行していくのは1970年代以降のことだとされているのだが、ミステリ界ではそれより30年以上前にデータベース志向が顕在化している。この辺の事情を調査すれば、面白い論文が書けるかもしれない。私はものぐさなので、例によって思いつきだけ述べて逃げることにするが、関心と意欲のある人はこのテーマに挑戦してみてほしい。
ミステリにおける各種のモチーフの伝達、というふうに話を広げると、JUNK-LANDで昨日まで連載されていた「“伝えないもの”としての伝言ゲーム」がさまざまな示唆に富んでいて面白いのだが、既にその1〜4は削除されてしまっているので、うろ覚えによるコメントは差し控えておく。ただ、MAQ氏が言及していた(と思う)UNDERGROUNDの伝言ゲームは失敗したか?――新本格系作家たちの自信のなさ――については――その後『伝言ゲームは失敗したか?』始末で軌道修正を行ってはいるものの――一言文句を言いたい。時間がないので一言だけだ。樋口氏の議論は、ミステリを「ミステリのエッセンス」を読者に伝えるための手段であるという前提によっている(従って、同じ「エッセンス」が込められた作品であれば互いに代替可能である、ということになる)ように思われるのが不満である。「伝言ゲーム」(これはたぶん千街晶之氏の評論デビュー作『終わらない伝言ゲーム』を下敷きにしているのだろう)というのは先行作品を代替物で置き換えることなのか? そうではないだろう。
上の話と何か関係がありそうなのだが、どういうふうに繋げればいいのかわからないネタ2つ。
まず一つめは、2ちゃんねる葉鍵板の太宰治風ToHeartスレ。土屋賢二風@美凪とか大森荘蔵風@セリオなどという凄いネタがあった。
もう一つは、マリみて-GREAT.comのクロスオーバーSSいろいろ。私は元ネタ(?)の『吸血大殲』という作品を知らないので、ちゃんと読んでいないのだが、『黒死館殺人事件』を組み込んだ作品は、ちょっと気になった。今度暇なときにじっくり読んでみたい。
昭和初期に鼠と犬の共演を実現させた人物(複数の人々だったかもしれないが)は自らの名前を歴史に刻み込むことはできなかった。だが、彼もしくは彼女もしくは彼らの情熱は時を超えて21世紀にまで伝わっている。これはなかなかすばらしいことではないだろうか。
見出しにも書いたように、今日「たそがれSpringPoint」は開設一周年を迎えた。そこで、一周年記念企画というのを考えた。
題して「滅・こぉるにもうちょっとマシな名前をつけるコンペ」である。
募集期間は今日から9月30日午後11時59分まで。その間に私が「滅・こぉる」よりもマシだと思えるハンドルがあれば、翌日に改名する。応募資格は特にないが、ただ一つだけ条件がある。それは、必ず口頭で私に伝える(いくつかのサイトで反応があったので、補足しておくが、電話と伝言は不可である。必ず本人が直に私に伝えることが条件となる)ということ。つまり、メールや掲示板での応募は受け付けないということだ。
最も優秀なハンドルを考えついた人には、何かいいものをプレゼントしたいと思っているので、ぜひ奮って応募していただきたい。
今日は残業で帰宅が遅くなった。上の記事だけ書いてさっさと寝ようと思っていたら、昔の知人からのメールが届いていた。なんとあの本が刊行されたというのだ。早速、明日買いに行くことにする。