1.10172〜1.10181 日々の憂鬱〜2002年3月第3週〜


1.10272(2002/03/11) 

 この文章の見出しが通し番号と日付だけなのは、単なるミスである。今(3/21)さら見出しをつけるきにもならないので、そのままにしておく。
 無事、東京から帰ってきた。予定では今日『指輪物語』の感想を書くことになっていたのだが、読了後3日が過ぎてみると、今さら感想文など書いても意味がないような気がしてきた。そういうわけで、もうやめた。

 さて、今回の東京旅行は「一般人無双」の10万ヒット記念オフ会に参加するためだったのだが、オフ会の状況についてはそこに書かれているとおりなので、特に付け加えることはない。
 と、思ったが、オフ会で話題になった「アクセス数至上主義」についてちょっと書いておこう。
 「一般人無双」の管理人BSG氏は以前アクセス数至上主義者だったという話の中で「いや、今でも基本的にはアクセス数至上主義者です」という発言があった(と記憶しているが、若干ニュアンスが違っていたかもしれない)。そこで「なぜ、アクセス数至上主義なのか?」というツッコミに対し、「少しでも多くの人にサイトを見てもらったほうが楽しいから」という回答。そのやりとりを聞いていた私は「それはアクセス数至上主義ではない」と発言した(と思うが、このあたりもあやふや)。
 アクセス数至上主義というのは、ウェブサイトを運営するにあたってどれだけ多くアクセスされるかということに至上の価値を求める立場である。よって「アクセス数が多いと、××だから」という類の説明は不要であり、そのような説明がなされるならば、もはやアクセス数至上主義ではない。なぜなら、その場合アクセス数は「××」という別の価値を追究するための手段として位置づけられるからである。確か、そのような説明をしたと思う。
 しかし、あとで考えてみると、自分の考えに自信が持てなくなってきた。「アクセス数至上主義」とは本当に「なぜならば××」という型の理由付けを完全に拒否する、価値体系のブラックホールのような思想なのか?
 むしろ「アクセス数が多いと××であり、○○でもあり、□□でもあり……△△でもあるから」というふうに多数の理由が挙げられるのがアクセス数至上主義の特徴ではないかとも思える。一つ一つの価値はそれなりに重要ではあるが決定的ではない。もし決定的な価値が一つでもあれば「××至上主義」とか「○○至上主義」と呼べばいい。
 そのような「至上の価値」が存在せず、それぞれの価値に折り合いをつけていかなければならないという状況、そしてしばしば諸価値間で軋轢が発生する(○○を重視すると□□を阻害し、□□を重視すると△△を阻害するというような事例は実際にいくらでもある)という事情は、調整原理を要求する。理想をいえば××や○○や□□や△△のそれぞれに点数をつけて計算をすればいいのだが、それでは実用的ではない。そこで、簡明で判断しやすい指標である「アクセス数」にすべてを委ねて、他の価値を従属せしめる。それが「アクセス数至上主義」ではないか。
 もしこの考えが正しいとしても(あるいは間違っているとしても)現実のアクセス数至上主義者の主張や行動に対して何の影響力もないし、分析のための道具に使えるというわけでもないので「それで?」と訊かれたら「それだけです」と答えるしかない。

 帰りの夜行バスであまりよく眠れなかったので、今日は疲れ気味。会社を休んで一日休養をとったが、まだ回復していない。明日は早朝から出張が入っているので、あまり夜更かしもできない。そういうわけで、最後に旅行中の買ったCDの一覧表を掲げて今日のところはおしまいにしておく。

1.10273(2002/03/12) メモ

 相変わらず低調だ。
 ネタはあるのだが、意欲と時間がない。今日は更新しないでおこうかとも思ったのだが、一旦リズムを崩すとずるずると停滞して、しまいにはサイトを閉鎖することになってしまいそうなので、こうやってどうでもいい文章を書いている。
 とりあえず、今あたためているネタは の3点だ。
 1は昨日の「アクセス至上主義」に関する文章に対してBSG氏(「一般人無双」管理人)掲示板で書き込みされた反論文を読んでいるときに思いついたもの。ただ、ちょっとテーマが大きすぎるので正面切っては論じられない。どのような切り口で問題を絞り込むべきか考え中。というか、それ以前におおもとの「アクセス数至上主義」というテーマについて、もっと突っ込んで考えてみるべきなのだが……まあ、これは掲示板のほうが一段落ついてからまとめることにしよう。
 その後なんとなく話は終わってしまった。するとなんとなくこのテーマへの関心がなくなってしまった。
 2は「日記ぃ・ぽーたー」3/10付(Side-C)と、それに対する「ただ、風のために。5」3/12付「リアルのゆくえ」(どちらも「ミステリ系更新されてますリンク」から辿ることができる。ちなみに「ただ、風邪のために。5」の筆者は「ミステリ系更新されてますリンク」を運営している高橋まき氏である)のコメントをもとにして何か書こうと思ったのだが、むしろ一般論として語ったほうがいいかもしれない。これもかなりテーマが大きいので保留。
 3は先日東京に行ったときにふらっと買った『美少女同級生』(松田佳人/フランス書院文庫)と去年出た『妹【いもうと】』(亜沙木大介/同)とをあわせて感想文というか駄文を連ねてみようと思ったもの。これもフランス書院文庫の歴史の流れに位置づけるとなるとテーマが大きすぎる。
 できればこれらのうち1つくらいは今週中に取り上げたいと思っているのだが……。

1.10274(2002/03/13) オルガン、ハープシコードと管弦楽のための組曲

 先日、東京で買った『バッハ:トランスクリプションズ』というCDにはストコフスキー編曲の『トッカータとフーガ 二短調』(ディズニーの『ファンタジア』で用いられた曲)などの有名な曲のほか、グスタフ・マーラーが編曲した『管弦楽組曲』が収録されている。これはわりと珍しい曲で、私は昔一度だけラジオで聴いたことがあるだけだった。このCDが発売されたときから気にかかっていたのだが、このたびようやく入手した次第。
 バッハの4つ(ほかに「第5番」があるが、偽作)の『管弦楽組曲』のうち、第2番と第3番から数曲ずつ選んで再編したもので、BadinerieとAirが並んでいるのが興味深い(と思うのはもしかしたら私だけかもしれない)が、さほどえげつないアレンジを施しているわけではなく、マーラー節を期待して聴くとがっかりするかもしれない。有名な作曲家の有名な音楽を同じく有名な作曲家が編曲したら自ずと有名になりそうなものだが、この曲が案外知られていない原因はそのあたりにあるのかもしれない。
 ところで、バロック音楽で誰もが知っている有名な曲といえば、パッヘルベルの『カノン』とヴィヴァルディの『四季』が双璧だろう。『カノン』を有名な人が編曲した例を私は知らないが、『四季』のほうは非常に有名な人が編曲している。もったいぶっても仕方がないので書いてしまおう。ジャン・ジャック・ルソーだ。ルソーは作曲家として有名だというわけではないが、それでも『むすんでひらいて』は極東の島国の音楽の教科書にも掲載されているのだから大したものだ。それならルソー編曲版『四季』ももっと演奏され、聴かれてもいいと思うが、こちらは全く無名。いちおうCDは出ているようだが、私はまだ聴いたことがない。積極的に探しているわけではないけれど、今度レコード店に行ったらいちおう調べてみることにしよう。
 同じく東京で買ってきた『軍艦マーチのすべて』『君が代のすべて』『蛍の光のすべて』を続けて聴くと、いろいろな発見があって楽しい。『軍艦マーチ』は「あの人が、こんな編曲を……」という興味には乏しい(単に私が無知なだけかもしれないが)が『君が代』はプッチーニが『蝶々夫人』で用いているし、『蛍の光』はベートーヴェンが編曲している。とことんマニアックな企画ものCDなので純粋に音楽的内容のみに注目すると決して粒ぞろいとは言えない。が、私のように「頭で聴く」人間にとっては、これでいい。

 ここで、強引に『新・本格推理02』(鮎川哲也・監修/二階堂黎人・編/光文社文庫)に収録されている某作品に話を持っていこうとしたのだが、よく考えるとネタに触れることになる(よく考えなくてもそうだが)のでやめた。この本は全部読み終えたら何らかの形でコメントしたいと思っている。

 読みかけの本があるのに、つい『「クロック城」殺人事件』(北山猛邦/講談社ノベルス)を買ってしまった。早速読み始めたが
 淡い水色のパジャマを着た少女が、スクリーンを背にして立っていた。哀しみに耐えるような微笑みをたたえ、何処か遠くを見ている。少女の見た目の年齢を特定することは難しい。あどけない表情が無邪気な子供を思わせるが、微笑んだ顔は大人びて全体の印象を危うげに変化させる。
という一節(8ページ)で早くもめげそうになった。こんなところでひっかかってしまうのは私が「少数者」に属するからだろうか?
 まあ、まだ読み始めたばかりなので、あまり深く追究はするまい。
 「見た目の年齢を特定する」という言い回しが変。最初は「見た目から(実)年齢を特定する」という意味かと思ったが、実はこの「少女」には実年齢などといったものはない。前後の脈絡から考えて、「どれくらいの年齢に見えるのかを言う」という程度の意味だろうと思うが、そうすると「特定」という語を用いるのはおかしい。ほかにも「あどけない表情が……」の文にもひっかかったのだが、詳しく説明する気にならない。
 ところで、ここで「少数者」というキーワードを持ち出したのは、昨日提示したテーマ2について述べる糸口にしようと思ったからなのだが、念のために「日記ぃ・ぽーたー」を見に行くと、市川尚吾氏が3/10付の文章をよりわかりやすく展開していた(3/13付)ので、今さら私が書くこともない。私は市川氏の意見に全面的に賛成する……と、ここでおしまいにしてもいいのだけれど、ちょっとだけ感想を書いておく。
 私見では、市川氏の論述は読者が実際に小説から受ける印象という事実的レベルを超えて、「小説(作家)はかくあるべし」という規範的レベルに及んでいる。規範をもとに小説(作家)について語るというスタイルは、すべての人に理解できるわけではないだろうし、理解できたとしても反発を招くおそれがある。とりわけ「A級/B級」の区別や「大人になろうよ」「あんまり甘やかしていてはいけない」などの文言は、規範的に物事を考えることに嫌悪感を抱く人々にとってはかなり不愉快なものだろう。それらは特定の価値観の押しつけであり、作家と読者の蜜月関係への攻撃であり、小説の価値は読者が面白いと感じるかどうかのみによって決まるという自明な真理への反逆であり……云々。まあ、実際には筋道立てて批判する人は少ないだろうけれど。
 そのような「面白ければいいじゃん」派読者に対して、市川氏の立場からはどのような説得方法が考えられるだろうか? 決定的な方法はどうもなさそうな気がする。アラが多ければ自ずと小説はつまらなくなる、という論点を持ち出すのがいちばんまともだが、「アラに気づかない、あるいは気づいてもわりと寛容だったりする」読者に対してはあまり有効ではない。小説を読む(書く)という行為から規範的側面をどんなに削ぎ落とそうとしても、我々の概念図式の中にしっかりとそれは組み込まれていて暗黙のうちに価値判断を行っているのだ(から、純粋に読後感のみによって小説を評価するという姿勢は破綻を免れない)という論法で攻めるという手も考えられるが、相当困難だろう。結局、議論は平行線を辿ることになるのだろう。
 「ちょっとだけ」のつもりが長くなってしまった。それに、かなり分かりづらい。このテーマはもう少し考えてみたいのだが、明日こそ『美少女同級生』について書く予定なので、しばらく先になりそうだ。

1.10275(2002/03/14) 一発ネタ

 バーチャルネットアイドル・りえちゃん14歳
 某バーチャルネットアイドル系サイトの掲示板を見ると「○○××歳」(「○○」は人名、「××」は年齢を表す数)というハンドルでの書き込みが多かったので、その中に「りえちゃん14歳」(成人コミック系のマンガ家。当たり前だがバーチャルネットアイドルとは何の関係もない)という名前が混じっていても違和感がないだろうと思った。余談だが、ちょうどこの頃バーチャルネットアイドル系サイトの共同企画が進んでいたのだが、マルチポストとかブラウザクラッシャーとかの荒らし行為が発生し、その後数日間かなりごたついたようだ。ご愁傷様。幸い、今(3/21)は落ち着いているようだが、企画の実現まであとしばらく時間がかかりそうである。

1.10276(2002/03/14) ダメ人間万歳

 予告通り、今日は『美少女同級生』(松田佳人/フランス書院文庫)について少しお喋りしてみようと思う。
 『少年ジャンプ』の「努力・友情・勝利」にならってフランス書院文庫の特徴を三つのキーワードで言い表すなら、「凌辱・羞恥・奴隷」となるだろう。極悪非道の鬼のような男が清純な処女に凌辱の限りを尽くし、少女は果てしない羞恥地獄の中で次第に男の奴隷となっていく、というストーリーが基本パターンだ。もう一つ、純真な美少年が年上の妖艶な美女(女教師とか義母とか女医とか)から性の手ほどきを受ける、というパターンもある。いや、まだほかにもいくつかパターンはあるのだが、どれもこれも三文エロ小説のようなストーリーばかりなので、いちいち取り上げる必要もないだろう。
 ところがフランス書院文庫に近年異変が起きているような気がする。たとえば『妹【いもうと】』(亜沙木大介/2001年9月刊)はこんな話だ。会社社長の松浪竜三には三人の息子がいる。長男の剛一郎はエリートタイプ、次男の武広は不良タイプ、そして主人公である三男の優は気の弱いオタクタイプ。彼を慕っていた少女が一年前に交通事故で死に、本人もその事故の後遺症で松葉杖なしでは歩けない身になっている。そんな三兄弟のところに、ある日父親が愛人に生ませた娘の多香子が現れる。彼女は優より一歳年下の十六歳、ずっとアメリカで暮らしていたが、母親が死んだので竜三を頼って日本にやってきたのだった。ちょうど竜三は中国の工場を運営するために日本を離れており、松浪家には三兄弟しかいない。血の繋がった実の妹とはいえとびっきりの美少女を前にして剛一郎と武広は理性のタガが外れて(中略)。一方、優は兄たちの獣欲から妹を守ろうとするが、ただ自作の隠しカメラで妹の部屋を監視するだけで何もできず、自分の無力さに苦悩する。で、いろいろ紆余曲折あって、最後は優と多香子が結ばれてハッピーエンド。
 『妹【いもうと】』を「妹萌え小説」と呼ぶとすれば、『美少女同級生』(2002年2月刊)のほうは「幼なじみ萌え小説」と銘打つことができるだろう。似たようなものだと思われるかもしれないが、『妹【いもうと】』がまだポルノとしての見せ場を作って読者サービスに努めているのに対して『美少女同級生』のほうは「エロ」よりも「萌え」に大きく傾斜しているところが違う。この小説の異様さをよく示しているのがカバー裏の文章だ。全文引用しよう(ポイントと思われる箇所を赤字で強調した)。
「お願い、口でするから、弥生さんに憧れないで
必死のフェラ奉仕で尽くしてくれる同級生・美里。
私も初めてだけど、したいなら……いいの」
美脚を開き、無垢な秘唇で誘ってくれる転校生・弥生。
青い性を誘惑、挑発、悩殺してくれる二人の美少女。
はたして、少年が初体験の相手に選ぶのはどちらか?
 本当は逐語的に解説を加えたいところだが、ぐっと我慢して、二点のみ指摘しておく。まず一点めは、これが処女と童貞の物語であるということ。もう一点は、「主人公−同級生−転校生」の三角関係がラブコメの基本パターンの一つであるということだ。
 『美少女同級生』には五人の主要登場人物がいる。それぞれの人物を簡単に紹介する。
春日俊介
県立桜山高校生。童貞。一年上の後藤に何度も女性を紹介してもらっているのに、まともに会話もできず機会を逃している。転校生の弥生に一目惚れし、弥生を相手に初体験したいと願っている。
木幡美里
俊介の同級生。処女。男子生徒の間では「桜山のアイドル」と呼ばれる美少女。俊介とは中学校の頃からずっと同じクラスで秘かに想いを寄せている。が、俊介は全然気にもしていない。俊介が弥生に惹かれているのをみて、やきもきしている。
冬野弥生
転校生。処女。東京のF学院というお嬢様学校の生徒だったが、父親が代議士である祖父の後を継ぐことになり選挙対策のため引っ越ししたのに伴い、桜山高校に転校してきた。めったに感情を表に出さない謎めいた美少女。
後藤雄二
俊介の上級生。やや不良っぽい。女の扱いが上手で、女性経験の乏しい俊介のためにいろいろと世話を焼いてくれる、いい先輩。
竹内真代
桜山高校教諭で俊介のクラス担任。三十歳くらい。知的な美人だが、後藤の愛人であり、惚れた弱みで彼の無理な要求を断れない。
 中学校からの知り合いは厳密には「幼なじみ」には該当しないかもしれないが、意地っ張りでやきもち焼きな性格とか、誰もが憧れる美少女なのに主人公だけが認めないところとか、典型的な幼なじみ要素をいくつも備えているので、細かい事を気にしてはいけない。
 で、肝心のストーリーだが、うれし恥ずかしちょっとドキドキ寸止め仕切直しのオンパレードで、中途にもポルノチックな場面はあるものの、挿入は244ページの第八章(最終章!)「美少女同級生」までおあずけ、というかなり思い切った構成になっている。いやはや。そういうわけで、どぎついエロよりも萌えのほうが好きだという人におすすめの一冊である。この文章に触発されて本当に『美少女同級生』を読んだ人がいたら、ぜひメールか掲示板でご一報頂きたい。
 メールや掲示板への書き込みではないが、某氏が自サイトで『美少女同級生』を取り上げていた。そのことについては下記を参照のこと。

1.10277(2002/03/15) 親厨の上に子厨が乗って、子厨の上に孫厨が乗って、親厨がこけたら皆こけた

 タイトルには特に意味はない。

 『「クロック城」殺人事件』を読み終えた。まとまった感想文を書く気力がないので、箇条書きにする。
 ガダマーが死んだそうだ。享年102歳。ガダマー関係の本や論文を読んだことはなく、「世界中でたぶん一番長生きしている哲学者」という程度の認識しかなかったが、なんとなく寂しい。

1.10278(2002/03/16) 反省

 一昨日の『美少女同級生』の紹介文を読んだ某氏が詳細な批評をアップしている。諸般の事情によりリンクをはることができないのが残念だ。かなり長文であり、全文引用することはできないし、部分的な引用では某氏の意図がちゃんと伝わらないおそれがあるので、原文にとらわれずに私なりに要約してみると、次のようになる。
 あんなの、「萌え」じゃないよ〜。
 そこで、一昨日の拙文を読み直してみると、かなり偏向した書き方になっていることがわかった。「エロ」と対比するキーワードとして「萌え」を選んだのが間違いのもとで、そのキーワードに引きずられて部分的な「萌え要素」を誇張して、さも小説全体を覆っているかのように書いてしまっている。
 某氏の文章を読むと、読解力と分析力の両方で歴然とした差を見せつけられたような貴がする。まだまだ修行が足りない、と反省した次第。
 ところで、某氏は『美少女同級生』とは全く無関係に「冬野弥生」というキャラクターを考案していたそうだ。妙な偶然もあるものだ。
 偶然といえば、『「クロック城」殺人事件』のあるキーワードが、某氏の日記のタイトルと同じなのだが……。

 さて、全然別の話だが、「UNDERGROUND」の「ライトノベルと『BOY MEETS GIRL』」 について一言。「純粋さ」を求めるご都合主義と対比して、「汚れ」を引き受けるオタクたちを肯定的に評価するという含みをもつ文章だと思うが、別の考え方もあり得るのではないか。
 「汚れ」とはマイナス要素であり、欠点であるから、「汚れた」連中は自分よりも劣った存在である。そのような存在を引き受け、癒し、浄化し、救ってやるのだから、自分は偉いのだ。そのような「痛い」優越感が感じられないだろうか? そのような「優越感」は「劣等感」とほぼ同義であることは言うまでもない。
 ああ、これは「一言」で片づけるにはちょっともったいないテーマだな。もう少し考えてみることにしよう。

1.10279(2002/03/17) 眠気に耐えて

 深夜の更新である。いろいろあって疲れたので、本当は定期巡回サイトを適当に見て回ってさっさと寝るつもりだったのだが、「ただ、風のために。5」の3つの評価軸が気になって寝られなくなった。具体的には、
エンターテインメントは読者をもてなすことに主眼を置くべきもののはずで、そうすると評価は決めるのは他でもない読者になります。とすれば、「アラに気づかない読者」が多数を占めてしまえば、それはもはや「アラ」ではなくなってしまうわけです。少なくともエンターテインメントとしては。
という一節。ここには何か論理的におかしいところがあるような気がする。だが、どこがどうおかしいのかがわからない。それで気になっているのだ。
 ちょっと検討してみよう。
 「エンターテインメントは読者をもてなすことに主眼を置くべきもの」という意見には問題はないと思う。少なくとも私は同意する。すると、エンターテインメントの善し悪しは、いかに読者を楽しませたかという尺度によってはかられることになるだろう。細かい話をすればほかにも尺度はあるかもしれない。だが、すぐにはそのような代替基準は思いつかない。眠たくて頭がうまく働かないせいかもしれない。とりあえず、いかに読者を楽しませたかということがエンターテインメントを評価する唯一の尺度だと考えることにしよう。
 ところで、「アラ」とは読者の楽しみを阻害するものである。私はアラ探しが好きなので、うまくアラを見つけることができたら楽しくなる場合もある(相当意地の悪い性格だ!)が、それは反例にはならない。優れたエンターテインメントに触れる楽しみと、欠陥商品をこき下ろす楽しみは別レベルの事柄だからだ。これをごっちゃにするのは、「観客を笑わせる芸人」と「観客に笑われる芸人」を同列に扱うようなものだろう。アラが多ければ多いほど、またはアラが重大なものであればあるほど読者の楽しみが少なくなるという反比例関係が概ね成り立っているものとして先に進む。
 では、「アラに気づかない読者」が多数を占めた場合はどうなるか。それはもはや「アラ」ではなくなってしまう、というのは文字通りの意味では間違いだと思う。なぜなら、アラはそれに読者が気づこうが気づくまいがアラであることに違いはないと思うからだ。ここで「原理的にいかなる読者も気づくことのない『アラ』は果たして本当に『アラ』と呼べるのか?」という問題を持ち出すと話がややこしくなるのでやめておこう。とりあえず、一人でもアラの存在に気づく読者がいるならば、それが勘違いや誤解に基づくものでないかぎり、そこにアラがあるということは確かだ。
 とはいえ、多くの人が気づかないアラは、多数の人々の楽しみを阻害するものではない。従って、読者がエンターテインメントを評価する際に、アラを引き合いに出して減点することはないはずだ。つまり比喩的な意味では「それはもはや『アラ』ではなくなってしまう」。
 なんだ、全然おかしいところはないではないか。単に比喩的な言葉遣いにひっかかっただけではないのか?
 これ以上嫌疑をかける理由がなくなったので、もう寝ることにする。妄言多謝。

1.10280(2002/03/17) チョロQ詐欺と脳内彼女

 チョロQを使ったネット詐欺事件が発生したらしい。私はチョロQを集める趣味はないのでふつうなら読み飛ばすのだが、野上電鉄のチョロQというところに興味を惹かれた。
 野上電鉄が廃止になったのが1994年だという。すると、もう8年も前のことになるのか。歳月が流れ去るのは、何と早いことだろう! 最終日に乗りに行った思い出は今でもありありと思い出せるのに、それから私は8歳も年をとってしまったのだ。当たり前のことなのに、それを考えただけでちょっと憂鬱になってしまう。
 野上電鉄は和歌山県の数少ない鉄道会社の一つだったが、同じ和歌山県内にある南海和歌山港線の和歌山港〜水軒間(この区間を含む、久保町〜水軒間は和歌山県の所有であり南海電鉄は線路を借りて運営している……といった話は知っている人にとっては言わずもがなのことだし、興味のない人にとってはどうでもいい事だが、それでも書いてみたくなる)が近々廃止されることになっている。一日二往復しか電車が走っていない区間で、近くの道路には路線バスが走っているので、廃止されても別に困る人はいない(というか、今まで存続していたことのほうが不思議)が、私にとっては寂しい話である。半年前まで私が運営していた別サイト(鉄道系ではない)を見た人なら私の心情がわかってくれるだろう。
 さらに、野上電鉄から一山越えた有田川沿いを走っている有田鉄道にも廃止の噂がある。こちらは日曜運休という異色の鉄道だが、平日もほとんど客が乗っていないらしい。私はまだ乗ったことがないので人づての話だが。
 この種の不景気な話は日本中どこにでもあるもので、確か長野電鉄も今月末で一部路線が廃止されるはずだ。最後に一度乗っておきたいが、今月は東京に行ったりしてかなり金を使ったし、年度末で休みがとりにくくスケジュール面でもきついので、たぶん行けそうもない。あと何年かしたら「ああ、あのときなぜ無理をしてでも長野へ行かなかったのだろう」と後悔するだろうなぁ。

 昨日、後輩から『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』(滝本竜彦/角川書店)と『NHKにようこそ!』(同)を貸してもらった。どちらも発売直後(奥付によると前者は去年12月1日、後者は今年1月31日)から読書系サイトでよく取り上げられているのでずっと気になっていた。とりあえず著者のデビュー作である『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』のほうから読み始めたが、いろいろと身につまされるところはあるものの、事前に想像していたほど「痛い」話ではないようだ。最後まで読まないとなんとも言えないが。
 「痛い」本といえば、最近目を覆いたくなるほど悲惨な本があった。大っぴらにタイトルや著者名を挙げると何かと差し障りがあるかもしれないのであえて伏せるが、文章の節々から「痛さ」が滲み出ていて、わずか数ページを読んだだけで「おなかいっぱい」になってしまった。ちょうどここ(例によってリンクを外したので何のことかわからないだろうが、説明はしない)を読んだときのような気分。この本はまだ4分の1くらいしか読んでいないけれど、先を読むのが恐ろしい。

 なんかピントのぼけた文章だな。こうやって独りよがりの駄文を不特定の人々に向けて公表している私自身が客観的にみれば「痛い」人なんだろうな。このどうしようもない閉塞状況、なんとかならないかな。「どうしようもない」ことは「なんとかなる」わけないよなあ。  ……などと考えつつ過ぎてゆく日曜日の午後。お粗末さまでした。

1.10281(2002/03/17) 印象と評価

 今日の一回目の文章の続き。時間がないので結論が出せなかったが、忘れないうちに書いておく。

 一度は高橋氏の意見に納得して就寝したものの、やはり気になって再検討してみた。そこで浮かんできた疑問は、小説の価値を決めるのは個々の読者なのか、それとも読者集団なのか、という点だった。もし前者だとすれば、アラに気づかない読者が「多数」であるか「少数」であるかということは全く意味がない。なぜなら、一人一人の読者は「多数」でも「少数」でもなく、「個人」だからだ。
 個々の読者の印象から完全に独立な、小説の客観的な価値などというものはたぶん存在しないだろう。では、小説の価値は主観的で個別の読者に相対的なものなのか?
 然り、といえば、それで話は終わりだ。だが、そう断言するにはためらいがある。
 ある小説を読んで、面白かったとかつまらなかったと感じること自体は読者一人一人の内面で完結することなのかもしれない。だが、「この小説は面白い」とか「この小説はつまらない」と判断し、評価することは個人の内面で完結する事柄ではないと私は思う。自分がどう感じたか、ということだけではなく、自分以外の読者がどう感じたか(どう感じるだろうか)ということの忖度なしには、小説を評価することはできまい。これは、どの評価軸を採用するかではなくて、「評価する」という行為そのものの性質による。
 もしこの考えが正しいなら、たまたま私がある小説のアラに気づかずに小説を読み終えて面白いと感じた場合でも、他人が指摘したアラによって評価を下げるようなケースがあり得るだろう(もちろん、その指摘に納得がいかない場合もあれば、指摘そのものには同意できても評価を下げる必要はないと思うこともあるわけだが)。すると、アラに気づかない読者が多数であることをそのまま小説のエンターテインメントとしての評価に結びつけるわけにはいかない。
 いや、このような考え方は必要以上に知的反省を重視するもので実状にあっていない、大事なことは「現にどれだけ楽しめたか」であって「他の人はどうか」とか「もし私がアラに気づいていたらどうだったか」などということを考えるのは、印象の純粋性を損なうだけだ。そう考えたくもなる。
 さて、どちらのほうが妥当なのだろう? いや、どちらも間違っているのだろうか?