1.10182〜1.10187 日々の憂鬱〜2002年3月第4週〜


1.10282(2002/03/18) ダメ人間万々歳

 『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』(滝本竜彦/角川書店)読了。不覚にも感動。『Kanon』の舞シナリオみたいなストーリーで特に新味があるわけではないのだけれど。こんな、ダメ人間の、ダメ人間による、ダメ人間のための小説で面白がっているようではいけない。そんな事はわかっているんだ。ええ、わかっていますとも。
 あとから読み返してみると、作者に対してもの凄く失礼なことを書いているような気がしてきた。だが、この小説を読み終えたときの感動をほかに伝える言葉がないので、そのままにしておく。

 ほとんど衝動的に長野行きのきっぷを買った。今週土曜日に「スーパーしなの15号」(大阪から長野へ直行する唯一の特急列車)に乗って長野へ行き、長野電鉄に乗って同じ日の「ちくま」(夜行急行)で帰る、という行程。全くダメダメだ。何がダメだというと、新大阪〜京都間の新幹線自由席特急券を買って、乗継割引で特急料金を浮かせたことだ。これでどのくらい安くなったのかを計算すれば、私のダメっぷりがよくわかるだろう。

 帰ってきてからなんとなくネットを徘徊しているは、某サイトで私が2年前に書いた文章を見かけた。そのサイトの掲示板に書き込んだ文章を管理人が保存していたものだ。読んでみると、もの凄く青臭い。ダメだ。さらにダメな事に、今書いている文章とほとんど違いがないということだ。ダメダメだ。

 今日はこれから『妻みぐい』(アリスソフト)をインストールしようと思う。全くダメ人間であることよ。

1.10283(2002/03/19) ダメにんげんをかえせ

 いや、「ダメ人間革命」にしようかとも思ったのだけど……。

 『NHKにようこそ!』(滝本竜彦/角川書店)読了。不覚にも感動……と昨日と同じことを書いてみたが、『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』と「感動」の質はやや異なっている。「前作と同工異曲であり、このままでは早晩行き詰まるだろう」という感想がネット上のあちこちにあった(ような気がするが、具体例が見つからない。もしかすると私の思い違いかもしれない)が、私見によればこの評言は半分正しく半分間違っている。『ネガティブ』と『NHK』は同じ人が書いた小説だから似ているのは当然だが、テーマや狙いはかなり違っていると思う。少なくとも主人公の性格は似て非なるものだ。その証拠に、私は『ネガティブ』のほうは"ひとごと"として読んだが『NHK』のほうは読んでいる間ずっと身につまされっぱなしだった。
 わ、これは私について書いているんじゃないか? なんということだ! 少しずつ状況設定をずらして容易にはモデルがわからないように工夫しているけれど、私にかかればそんな小細工は無意味だ。確かにこれは私をモデルにしている。そうだ、そうに違いない。この小説の作者はきっと私をずっと陰から監視しているのだ。悪の秘密結社の陰謀だ。わわわ、いったいどうすればいいんだ? 落ち着け、とにかく落ち着くんだ。まずは全部読むことだ。そう、この小説を読み終えてからでも遅くはない。もしかしたら最後のページに私だけにしかわからないメッセージが隠されているのかもしれないじゃないか。そう、悪の秘密結社というのは世を忍ぶ仮の姿、本当は選ばれた人間の秘められた能力を覚醒させるために試練を与える崇高な組織なのかもしれない。そうだ、メッセージを読み解くんだ、読み解くんだ、読み解くんだ……。
 言うまでもないことだが上の文章は私が思ったことをそのまま書いたわけではない。実を言えば全く冗談というわけでもないのだが、大まじめで書いたと言ってしまうと本当に私が上記のような妄想を抱いているかのように受け止められてしまうので、あえて「冗談です」と言い切ってしまう。人間、余計なトラブルを避けるためなら、多少の妥協は必要だから。
 なお、私は作者とは何の縁もゆかりもない。「実は知り合いなのでは?」などと邪推している人は反省するように。
 このような註釈を多くの読者が不愉快に思ってくれることを私は願う。
 で、「半分正しい」というのは、このままだと行き詰まるだろう、という部分。私のプライバシーを小説仕立てで公開して笑いものにしようとする(上の註釈を参照されたい)人間が行き詰まろうがどうなろうが全く痛痒を感じないのだが、断筆でもされてしまうと今後『NHK』のように面白い小説が読めなくなるので、作者には是非精進して障壁を乗り越えてほしいものだ。
 冗談はさておき、一つ気にかかった点を指摘しておく。

 以下、実在の団体名及び個人を引き合いに出した文章を書いてあったのだが、洒落のわからない人に読まれるとあとあと面倒になりそうなので、削除することにした。削除までの数分間(実際にはアップしてから削除するまで約15分だった)にアクセスした人は、このどうでもいい文章のことを忘れて、明るく正しい人生を歩んでもらいたい。

1.10284(2002/03/20) とりあえず、まあ、なんというか……

 今日は『新・本格推理02』(鮎川哲也・監修/二階堂黎人・編/光文社文庫)の感想を書こうと思っていたのだが、全部読み終えることができなかった。だが、とりあえず半分だけ書いておくことにしよう。全部まとめてだとかなりしんどそうだし。
まえがき(二階堂黎人)
前回と同じく収録作及び落選作への選評が大部分を占める。巻末には別の文章があるので本全体のバランスを考えて前に置いているのだろう。前回は寸評だけだったが、今回は「独創性・雰囲気・文章・トリック・キャラ立ち・論理」の6項目に点数(各5点満点)をつけている。項目の選択方法や採点基準にケチをつけても仕方がないが、一編だけ「面白み」という第7項目を入れているのはいかがなものか。
十年の密室・十分の消失(東篤哉)
 タイトルのとおり、密室と消失をテーマとしている。家屋消失のエレファントなトリックには全く納得できない。選者曰く「動機や手段についてはいろいろ言いたいことがあります。(略)けれども、雪降る山の中で、たった十分の間に、一つの山小屋が幻のように消えていく美しさ(島田荘司流に言えば、これぞ詩美性のある《奇想》!)が、何よりも、この作品を本格推理の高みへと押し上げています」。で、「雰囲気・トリック・論理」の各項目が5点になっている。
 ……。
 この点についてあまり深く考えるのはやめておこう。
 なお、密室のほうの解決は(大トリックを期待する人にとっては拍子抜けするだろうが)説得力がある。対照的な二つの謎解きを一つのストーリーにまとめた作者のバランス感覚は評価に値する。
 ただ、作中に長い手紙を挿入し、その中でさらに十年前の事件についての語りが入るという構成は煩雑だ。シリーズの枠組みで処理しようとしたためだろうが、余計な登場人物(シリーズ探偵とワトソン役)を抜いたほうがすっきりとまとまっただろうし、謎を提示するまでに枚数を費やすこともなかっただろう。
恐怖時代の一事件(後藤紀子)
 歴史上の人物が登場する時代物。「例の人物」が探偵役だが、知っている人は当然予想するはずなので、驚きはない。作者も特に意外性を狙ったわけではないだろう。欲をいえば、この人物を知らない読者のためにガイダンスがほしかったところ。
 謎と論理、トリックの解明に至る流れはよく考えられていると思うが、見せ方があまりよくない。制限枚数を気にしたのか駆け足になっていて、登場人物が整理されていないことと相まって、かなりごたついているという印象を受けた。選者の「まえがき」でも似たような指摘がある。その後手直しして掲載されたヴァージョンになったのか、それともそのまま掲載されたのかはわからない。殺人事件の謎解きだけをとれば短編ネタだが、この舞台設定だとむしろ長編歴史ロマンに仕立てたほうが効果的だったように思う。
月の兎(愛理修)
 バニーさん萌え萌え〜。
 その正体に萎え萎え〜。
 というわけで、この小説の長所と短所はこれに尽きる……というのは極論。バニーさんを登場させたのはたぶんその後に語られるある登場人物の異様な風体を目立たなくするためだと思うが、どれほど効果があるのかは疑問。むしろ読者が身構えてしまって逆効果ではないだろうか? どうでもいいが、私は被害者の死因に驚いた。てっきり刺殺とか射殺のように血が出る死に方だと思っていたのだ。なぜそう思ったのかは説明するまでもないだろう。
 ちなみに私は謎のバニーさんについて、同級生で幼なじみのメイドロボとか、前世で主人公と恋人同士だったとか、実は宇宙人だったとか、正体は狐だった、などというふうにあれこれ推理した。もちろんアナグラムにも気づきましたよ、ええ気づきましたとも。だが、なんでそんな変名を名乗るのか、その理由だけが今でもわからない。
湖岸道路のイリュージョン(宇田俊吾・春永保)
 「まえがき」によると応募時のタイトルは『消失トリック』だったそうで、選者は「これは作品の内容を表しているだけで、小説のタイトルとは言えません」と手厳しいが、『湖岸道路のイリュージョン』というのも、何だかなぁ、という感じ。内容がすっかりタイトルに負けてしまっている。
 両端を監視された道路から自動車が消失するという謎の設定自体は可もなく不可もないが、余計な枠構造のせい(それだけではなく、無駄な描写も多いのだが)で謎を提示するまでが長いのが難点。管理事務所の退職警官でも探偵役にしておけばよかったのではないか。
 ところで、肝心のトリックだが計画的犯行にはまず使えないものだ。そこでとっさの思いつきでその場しのぎのために行ったこと、と説明しているのは賢明だ。だが、それなら探偵役があれこれ推理するまでもなく捜査が進めば自ずと真相は明らかになるはず。それを防ぐための工夫(たとえば陳腐な手法だが、証人が詳しい供述をする前に死んでしまうとか)がほしかった。
 今日はほかに「ミステリではどこまで偶然に頼ることが許されるか」というテーマで考えてみようと思ったのだが、時間切れ。

1.10285(2002/03/21) お前は本当に小1時間問いつめたいのかと問いたい。お前、小1時間と言いたいだけちゃうんかと。

 タイトルは例によって特に意味はない。それにしても「小一時間」を「小1時間」と書く(「吉野家コピペ」のもととなった文章では「小1時間」と表記している)と違和感があるなぁ。

 本来なら、今日は昨日の『新・本格推理02』の感想文の続きを書くべきなのだが、まだ全部読み終えていない。というか、今日は全然手を付けなかった。今日は『妻みぐい』(アリスソフト)をやってみたり、ドライブしてみたり、後輩の愚痴を聞いてみたり(後輩は半ひきこもり生活で「クリエーター」を目指しているのだが、最近大きな壁にぶつかって滅入っているという話だった)、その他いろいろとどうでもいいことをしていたら、本を読む気が失せたのだ。今週末は長野へ行く予定があり、明日はちょっと忙しいので、感想文の続きは来週回しになる予定。
 そんなわけでネタがない。今日は、私が十年以上前から探していた本をようやく入手した記念すべき日なのだが、そんな話をくだくだと書いても面白くないし、読むほうもつまらないだろう。だから何も書かないでおくのが賢明なのだが、もう書き始めてしまった。仕方がないので少しだけその本の紹介をしておく。
 私が探していた本というのは、『パズルランドのアリス――80歳以下の子どもたちのためのキャロル的おはなし――』(レイモンド・M・スマリヤン/市場泰男(訳)/社会思想社)である。1982年に出て、その3年後には邦訳が出ている。私が図書館で見つけて読んだ(もちろん邦訳のほう)のはその少し後だったと思う。その後、書店で何度か見かけたが、当時の私は気軽にハードカバーに手を出せる身ではなかった。そのうち、いつの間にか書店の棚から姿を消してしまった。
 別に絶版になったわけではなく、注文すれば入手できることはわかっていたのだが、どうしても今すぐ手に入れたい本というわけでもないし、書店での再会を待っていた。が、その機会はなかなか訪れず、東京や大阪の大規模書店に行くたびに探してはみるものの、いつも品切れ状態だった。
 その本を先週の土曜日に後輩が大阪で見つけ、買ってくれていたので、今日はわざわざ後輩の家まで引き取りに行ったという次第。で、後輩の愚痴につき合わされることになったのだが、それはまた別の話。
 後輩と話をしているときに、『新・本格推理02』が話題にのぼった。昨日の感想文で『月の兎』(愛理修)について、
 バニーさん萌え萌え〜。
と書いたのだが、後輩によれば「バニーガールはオタク的な『萌え』からはほど遠い」という。バニーガールのかわりにウサ耳メイドにでもしておいたほうが現代の「萌え」文化に合ったものになっただろう、と主張した。
「ちょっと待て。バニーガールとウサ耳は別物か?」
「ええ、全く似て非なるものです。バニーガールの網タイツは攻撃的な女性の象徴であり、気の弱いオタク男性を萌えさせるどころか、むしろ威圧するものなのです」
 そう言われると、なんだか説得力があるような気がするから不思議だ。

 なんか、もう、ダメ人間丸出し……。

1.10286(2002/03/22) 疲れ果てて日が暮れて

 今日は非常に疲れる一日だった。
 朝、電車を待っている間に『新・本格推理02』に収録されている『「樽の木荘」の悲劇』(長谷川順子・田辺正幸)を読んで、どっと疲れが出た。重い足を引きずって会社に着くと、なぜかラジオから『昭和枯れすすき』が流れてきてさらに疲れが増した。その上、仕事でごたごたがいくつかあって、終業時にはくたくたになっていた。
 今日はこれから明日の旅行の準備をしないといけないのだが、その前に簡単に更新を済ませておこうと思ってパソコンに向かったのはいいが、全然ネタが思い浮かばず、フリーセルで一時間以上遊んでさらに疲れた。ああ、明日は五時に起きないといけないのに……。
 疲れると文章にしまりがなくなる。もともと冗長な文体がさらに間延びをしてしまう。なんとかしないといけないと思うのだが、そう思うだけでなく「なんとかしないといけない」と書いてしまうのだから、全くいけない。いけないと思うのなら消せばいいのだが、そう思うだけでどんどん続きを書いてしまうのだから、さらにいけない。
 この調子でいくらでも書いていけるが、この辺りでやめておいたほうがいいだろう。

 『新・本格推理02』に話を戻して、『「樽の木荘」の悲劇』を読んでなぜ疲れが出たのかを書いておくことにしよう。本当は一昨日の感想文の続きとして後半の四編を取り上げるべきなのだが、この一編を読んで他の作品に言及する意欲がなくなってしまった。
 以下、だらだらとトゲのある文章が続くことになるが、別に作者に対して敵意をもっているわけではない。長谷川・田辺両氏とも一度もお会いしたことはないし、ネット上で接触を図ったこともない。もし作者がこの文章を読んだら気分を害するかもしれないが、それは私の本意ではない。私の意図は……この文章の最後で書くことにしよう。
 この小説の舞台は1942年の大連、そして旅順である。冒頭から不穏な空気を感じてはいたのだが、481ページの地図と時刻表を見てもまだその正体に気づかなかったのは、我ながら迂闊だったとしか言いようがない。だが、さすがに482ページの
父が満州鉄道の測量技師として満州に赴任するのに伴い、私は小学校の三年生の時に内地からこの大連にやってきた。
という文を読んだあたりで、疑惑がわき上がり、485ページの
ナターシャは私に、私の本名をロシア風にもじった「トーリア」という愛称をつけてくれ、常にその愛称で私を呼んだ。
で、その疑惑は確信に変わった。その瞬間、ナターシャはこの小説で被害者か加害者のどちらかとなるだろうと予想した。なぜなら、作中の「私」のその後の人生にナターシャという女性のいるべき場所がないからだ。
 ここで勘違いしないで頂きたいのだが、私は自らの慧眼を誇っているのではない。そんな恥ずかしいことは私にはとてもできない。そうではなくて、ある予備知識をもった読者にとっては、この小説の趣向は丸わかりだと言いたいだけなのだ。
 何とも言いようのない嫌な感覚にとらわれながら、私は続きを読んだ。もしかしたら私の想像は全く間違っていて、作者の巧妙なミスリーディングに引っかかっているだけなのかもしれないと思ったからだ。ちょうど『十角館の殺人』を読んだときに見事に騙されたように。
 そして500ページまで読み進んだ。読者に「ここで怪しいことが起こっているぞ」と教えんばかりのわざとらしさでナターシャの異状を描写していた。「ああ、ここでナターシャは人を殺しているんだな」と私は思った。再び、これが作者の罠であることを期待しながら。
 だが、その期待は儚く潰えた。505ページで死体発見、それより前に登場した名前のある登場人物は、ナターシャのほかには若狭駅員しかいないのだから、ナターシャが最有力容疑者であることは全く自明だ。作者はフーダニットを完全に捨てているのだろうか? だが、ほかにどのような魅力ある謎があるというのだろう? ともあれ、先を読まねば。
 そして、509ページでさらなる衝撃。顎の張った中年の男の登場だ。うひゃあ。思わず声をあげそうになる。この作者、なんという野放図なことをするんだ!
 511ページの平面図を見ると、『樽の木荘』にはトイレがない。これはこれで思いっきりツッコミを入れることができるのだが、もはやそんな事はどうでもいい。あとは定められたレールの上を辿るのみ。ともあれ、作者の意図はある程度わかった。この小説の中心的な謎は、死体発見時の不可能状況だ。だが……この状況って、そのまんま『コメントタグ内に書いておく。どうしても知りたい人だけ→←のソースを見ていただきたい』ではないか?
 私は悲しくなった。ほとんど推理の余地がなく、過去に読んだミステリの知識だけで簡単に真相に辿り着けるミステリなんて……。作者はトリックのオリジナリティをどのように考えているのだろうか? 偉大なる先達に対する敬意はないのだろうか?
 前例のあるトリックは絶対に再使用してはいけないとは言わない。要は使い方次第だ。もっとも、どのような使い方ならいいのかという基準をここで論じることはできない。ただ、一つだけ確かなことは謎を提示したその瞬間に読者に先行作品を連想させるような使い方は最悪だということだ。
 いや、それでも他に読みどころがあれば許せるかもしれない。だが、この小説のもう一つのミソは実在人物や既成のキャラクターに頼ったものだ。これも絶対に駄目だとは言わない。だが、このような趣向は、もはや陳腐な常套手段である。よほど慎重に扱わないと、小説に彩りを添えて読者を思わずニヤリとさせるどころか、マイナスになりかねないと知るべきだろう。

 長く書きすぎた。ちょっと感情的になりすぎたようだ。いつもならこの辺りでフォローを入れるところだが、今日は疲れているのでやめておく。最後に予告どおり、このような文章を書いた意図を述べておしまいにする。
 私はかつてミステリ愛好家だった。それが、十年くらい前からだんだん流行についていけなくなり、五年くらい前にはほとんどミステリを読むのをやめてしまった。そのことは以前書いたとおり。
 最近になって、主としてサイト運営の都合から再びミステリを読むようになったが、やはり流行にはついていけない。たとえばミステリ系サイトの人々のミステリに対する接し方とはどうしてもずれがあるように思う。その「ずれ」の正体を見極めたいと思いながらも、なかなか掴めないのが現状だ。
 このたび『新・本格推理02』を読んでいても「ずれ」をたびたび実感した。たとえば編者の二階堂黎人氏のコメントには頷けないところが多かった。またこの本についてのネット上でのレビューを見ても、全く頷けない評がいくつもあった。「本の感想は人それぞれだから、それでいいじゃないか」と言われるかもしれない。けれど、私がどれだけミステリ界の現状から隔たっているのか、または、まだ折り合いのつく点があるのかどうか、というところを一度確かめてみたい。そこで、『「樽の木荘」の悲劇』を取り上げて、作中のいくつかの場面で私がどのように考えながら読んでいったのかを説明してみることにしたのだ。
 別に『新・本格推理02』の他の収録作でもよかったし、別の本でもよかった。だが、特にこの作品を選んだのに全く理由がないわけではない。一つには、これが二階堂氏がオール5をつけたお薦め作品であり、上記の感想とのコントラストがはっきりしているということ。もう一つは、「収録作家8人へのアンケート」への長谷川・田辺両氏の回答(どちらか一方が単独で書いた文章かもしれないが)が非常に目立っていて、このような文章を平然と発表できる心理(それは、『「樽の木荘」の悲劇』のような小説を平然と書き、あまつさえ「好事家のためのノート」を平然と付すことができる心理でもある)に多少の関心があったからだ。いや、他人事ではない。私だって今は羞恥心のほうが強いからなかなかあのような文章は書けないが、何かの弾みに「夫婦漫才」をやってしまうかもしれないという不安と恐怖を常に持ち続けている。
 ともあれ、この文章をきっかけに少しでも私と世間とのギャップの状況がわかることを期待している。それが私が把握しているほど大きくないものだとありがたいが、もし絶望的にまで大きな溝があることがわかったとしても、その事を知らないままよりはマシだろう。

 お知らせ
 明日は旅行のため一日更新を休みます。次回は明後日の夜の予定。ただし夜行列車帰りで疲れてさらに更新を休む可能性あり。

1.10287(2002/03/24) ネガティブな感想文、ネガティブな私

 一昨日の文章を読み返してみた。『新・本格推理02』収録作のなかで一編だけをことさら大きく取り上げて批判的なことばかり書くのはバランスを欠いており、礼を失する行為だった。削除して「なかったこと」にするのもなんとなくアンフェアな感じがするので、その文章には手を付けずにそのまま残しておくが、改めて先日の感想文の続きを書くことにする。
収録作家8人へのアンケート
 八編の収録作品中二編が合作なので作者は全員で十人だが、そのような細かいことは気にしないことにする。だが、「作家」という表現はちょっと気になるが、目をつぶることにしよう。各人の回答については……いろいろと言いたいことがあるのだが、個別にツッコミを入れるときりがないので、やめておく。ただ、『本格推理』シリーズに作品が収録されただけで満足せず、より精進していただきたいと願うばかりだ。
ジグソー失踪パズル(堀燐太郎)
 あまり印象に残らない話だった。つい先日読んだばかりなのに、もうストーリーを忘れかけている。小道具の意外性はちょっと気がきいている(これは実在するものなのだろうか?)が、これだけでミステリを支えるにはあまりにも弱すぎる。伏線はそれなりに張られているが、論理的に事件の真相を言い当てられるだけのデータを提示して読者に挑戦するタイプの小説ではない。小説よりもテレビドラマ向きのアイディアかもしれない。
時計台の恐怖(天宮蠍人)
 手がかりがわざとらしく示されていて、トリックにはわりと簡単に気づく(が、「それはないだろう」と思ってしまうのが難)。手がかりのわざとらしさ自体に意味があるという工夫は認めるが、動機はやや不自然。シリーズものの一編で、キャラクターに馴染んでいればそれなりに楽しめるが、残念ながら私は前作の内容をもう覚えていない。『本格推理』シリーズの刊行形態を考えると、単体で勝負できる内容にすべきだと思うのだが……。
窮鼠の哀しみ(鷹将純一郎)
 途中まではよく書けているが、最後の場面はやや書き急いだ感じがする。枚数を気にしたのだろうか? 犯人が一方的に種明かしをするので推理の妙は全く味わえない(よって私はこれをバズラーとは認めない)が、こういう話が一つくらい入っていたほうがいいのかもしれない。誘拐もの、というだけで、ある程度ミステリを読み込んだ読者なら当然想定するはずのネタが使われており、タイトルから結末がある程度想像できるのが欠点(と言いたいが、バズラー指向でない小説の場合、本当にそれが欠点なのかどうか私にはわからない)。
 文の途中でぶつ切りにする独特の文体は少し気になった。
『樽の木荘』の悲劇(長谷川順子・田辺正幸)
 一昨日は批判的なコメントばかり付けたが、文章、構成ともに完成度が高く、収録作品中最高の出来であることは疑いない。が、裏を返せば、部分的な手直しでよりよい作品になる可能性はほとんどないということでもある。
 旧満州(満洲)の街角風景の描写には感心した。
 当時の世相で仮面をかぶった男が列車や駅に現れたら、それだけで警察沙汰になったのではないか、とか、戦時下の大連で他の警察署から増員が必要なほどクリスマスが盛大に祝われていたのか、という疑問もあるが、どうだろうか? 余談だが、ロシア正教のクリスマスは一月六日である。 
未来の大推理作家たちのために(二階堂黎人)
 巻末に再び編者が登場し熱く語っている。「神秘ミステリー/理知ミステリー」という馴染みのない言葉(一つの「ミステリー」の下位ジャンルとして両者があるわけでなく、もともと別のジャンルに同じ名称が与えられているだけだと私は考える)とか、ミステリにおける「発端の意外性」の強調(私はむしろ中盤から結末にかけての論理性のほうを重視したい。ミステリと他のジャンルの小説の決定的な違いはそこにあると思うから)とか、いくつか異論を唱えたい主張もあるが、全体的にはミステリ作家を志す人間が当然押さえておくべき事柄を的確にまとめていると思う。
 とりわけ、「視野と教養を大きく持つこと」という一節(574〜575ページ)には大いに共感した。『新・本格推理』の投稿者だけでなく、講談社のメフィスト賞を狙っている人(ただしミステリ以外のジャンルの人は除く)にも読んでもらいたい文章だ。
 今回の感想文に限らず、私がミステリについてコメントするときにはネガティブな側面を強調することが多い。なぜかといえば、私自身がネガティブな人間だからだ。「・こぉる」というハンドルで「たそがれSpringPoint」というサイトを運営し、「日々の憂鬱」という見出しで雑文を書き連ねていることからも容易に想像できるだろうが、私は陰気で後ろ向きな人間である。願いは叶わず、叶ったとしてもすぐに潰え、潰えなくても人はそのうち死んでしまう。悪貨は良貨を駆逐する。無理が通れば道理は引っ込む。待てど暮らせどあなたは来ない。贅沢は素敵だ。求めよ、されど与えられぬ。失敗する可能性が1パーセントでもあれば、必ず失敗する。希望は失望の母。山村美沙は紅葉の母。一将成りて万骨枯る。うつし世はゆめ、夜の夢もまた夢。一寸先は闇。まだまだいくらでも続けられるが、続けても仕方ないのでこの辺でやめておく。
 ところで、ことミステリに関しては、私の性格とは別の事情もある。それは、短所は指摘しやすいが、長所を具体的に述べることはなかなか難しい、ということだ。「面白かった」「素晴らしい」などという言葉をいくら積み重ねても、その小説のどこがどのように優れているのかをうまく言い表すことができない。ミステリの書評や解説を書いている人々は特殊な才能を持っていて、なんとなく読者に「これはよさそうだ」と思わせることができるが、私にはそのような技能はないので、どうしても欠点ばかりを誇張して暴き立てることになる。
 それと、もう一つには、私には決してできない事を成し遂げている人々への嫉妬心がある。そんな嫉妬心がないかのように取り繕っても仕方がない。なぜなら、私の文章からそれがにじみ出しているのだから。
 もし私のネガティブな性格が他人に対してのみ発揮されるのなら、それなりにハッピーな人生が送れたかもしれない。何かミステリのアイディアを思いついたら、あれこれ思い悩むことなしに小説の形に仕上げ、自画自賛していられたかもしれない。だが、私のトゲは私自身をもちくちくと刺激する。とてもミステリなど書けないし、仮に書けたとしても発表することができない。そこで、嫉妬心がいびつな形で増幅されて、他人の作品を攻撃する原動力となるのだ。
 そのほかにも、まだいくつか理由があるのだが、続きはまたの機会に。