1.0221〜1.0225 日々の憂鬱〜2002年4月第4週〜


1.10221(2002/04/22) チューインガムの食べかすを踏んづける日もある

 今日は何となく一回休みということにしたい気分だ。でも、せっかくだから何か書いておくことにしよう。

 まずは定例の「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」から。今日は『平均律クラヴィーア曲集 第2巻』の前半を聴いた。それだけ、と言ってしまってもいいが、ちょっとした発見があったので書いておく。それは、第5番ニ長調(BWV874)の前奏曲が以前JR京浜東北線大井町駅の発車メロディーとして使われていたということだ。『平均律』はバッハのクラヴィーア曲の中でも有名な曲集なので、もちろん聴くのはこれが初めてではないのだが、今日初めてそのことに気づいた。我ながらぼんやりしている。現在の大井町駅の発車メロディーがヴィヴァルディの『春』と『秋』からとられているのはよく知られているが、その前の初代発着メロディーを記憶に留めている人は少ないだろう。
 世の中にはいろいろな趣味の人がいるもので、駅で流れるメロディーを収集しているサイトがいくつかある。そのうちの一つで確認した。冒頭の2小節め第1音までを繰り返すだけだが、印象的なフレーズなので間違いないと思う。なお、初代発車メロディーはもう一つあったはずで、聴けばタイトルをすぐ思い出す有名曲なのだが、忘れてしまった。
 非常にローカルな話題で申し訳ない。

 さて、今日も購入物件を書いておこう。マンガ2冊だ。  1は番外編『スパイラル・アライヴ』(1)と同時発売のはずだったが、先週入手することができなかった。サブタイトルは順に「遠い夜明け/暗闇へのワルツ/死はわが踊り手/黒い天使/恐怖の冥路/あざける者の座」となっている。ちなみに『アライヴ』のサブタイトルは「あなたならどうしますか?/笑っている場合ではない/見えない蜘蛛の巣/アルバトロス/敵/生垣を隔てて」だ。作者の読書傾向がよくわかる。
 2は何気なく1巻を手にとったら面白かったので続けて買うことにした。原作の小説版はまだ読んでいないが、そのうち読んでみることにしようと思う。

 どうでもいい話。
 「たそがれSpringPoint」はリンクフリーである。以前はトップページにそう書いてあったが、今は別ページに移してある。「リンクフリー」というのも妙な言葉で、たぶん英語としては意味が通らないだろうと思うが、どうせ英国人はカタカナが読めないのだから、下手にローマ字表記をしなければ問題ない。ローマ字表記でも"rinku hurii"なら安心だ。
 いや、そんな話じゃなくて……。
 リンクフリーというのは、「リンクを張りたけりゃ勝手に張って下さい。外したい場合もご自由に。許可願いも事後の連絡もいらないよ」という考え方だと私は理解している。そこで、これまで私は他サイトからリンクを張られても「取り上げていただきありがとうございます」などと一々お礼の言葉を述べることはなかった。もしかしたらどこかでそのような事を書いているかもしれないが、それはタイプミスだ。私は、他サイトからリンクされたことを話題にすることはあっても、ただリンクされているということだけを取り上げて「ありがとう」とは言わない。「リンクしてくれている」とも書かないことにしている。
 他方、自サイトへのリンクを見つけるたびに丁寧に謝辞を述べる人もいる。もしかしたらそのほうが普通かもしれない。リンクを張るという行為は日常生活での挨拶に相当することだとすれば、当然のことだ。別に挨拶してくれと頼んだわけではなくても、誰かが「こんにちは」と言ってくれば「どうもこんにちは」と返すのが大人というものだろう。私もそうしようかと思わないでもない。だが、そうすると、自分の文章と関連のある話題を扱っているサイトを読者に参照させる、というハイパーリンク本来の目的から外れてしまう。別に外れたって構いはしないが、なんとなく釈然としない。
 どちらの考え方のほうが一般的なのだろう? アンケートをとってみたい気もするが、自分で集計するのは面倒だ。誰か代わりにやってくれるとありがたい。これはもう、掛け値なしにありがたい。だから、やってくれる人がいれば「かわりにアンケートを実施していただき、ありがとうございます」と書くつもりではいる。

 だらだらと書いているうちに一日分の文章になったようなので、今日はこれでおしまい。 

1.10222(2002/04/23) 終わりの始まり

 これでいいと思うことがある。だれかと話をしていると、なぜかわからないが、自分が否定され続けているように思えてくるからだ。話をしている最中は、普通に応対できるし、まともなことを話すことができる。しかしその後で一人になると、会話の内容を思い出し、ひとつひとつの言葉を反芻してしまう。自分の言ったことについては自己嫌悪し、相手の言葉については様々な疑問があふれる。会話の最中には気づかなかった意思や価値観の違いに気づき、打ちのめされる。自分の考えや想像していたものが、周囲の人の価値観に侵食されて、破壊されていくようでもあった。だから結局のところ、世間とは無関係になって孤立しているのが、一番、穏やかな気持ちでいられる方法だった。
 これは『暗いところで待ち合わせ』(乙一/幻冬舎文庫)からの引用である。先週買った本だが、読み始めたのは昨日からで、今日になってもまだ52ページまでしか読んでいない。ここ数日、体力が落ちているので、いつになったら読み終えることができるのか、予想もつかない。本来なら全部読み終わってから感想を書くべきだが、それでは忘れてしまうおそれがあるので、とりあえず印象に残った一節を抜き書きしておいた。
 うまい文章だと思う。名文とか美文という意味ではない。人物の性格を簡潔に言い表し、特徴づけているという意味で。私だったら、もっとくどくどと説明し、肝心なところがぼやけてしまって、よく伝わらなくなるだろう。もっとも私は小説を書かないから、「私だったら」という想定にはあまり意味がないかもしれない。
 世の中には、いつも活力に溢れ、自分の能力と運に自信を持ち、前向きに行動し、失敗しても他人に責任を転嫁して平然と生きていける人がいる。そのような人が乙一の小説を読んだら、どういう反応を示すだろうか? 『しあわせは子猫のかたち』を読んだ頃から気になっているのだが、まだこの疑問にこたえてくれる人は現れていない。疑問が解決しても、たぶん私にとってはあまり幸せなことではないような気はしているが。
 ところで、乙一は技巧派として知られているが、今回はどうだろう? 46ページを読むと中町信の小説のプロローグみたいな感じがする。これまでに乙一の小説を何作か読んでいる人なら、アキヒロが松永を殺した可能性と、同じホームに立っていた女性が殺した可能性の両方を念頭に置いて続きを読むことだろう。もし改札の部屋にいた駅員が遠隔殺人トリックを使ったというような話なら、かなり意外だが……。

 先週の文章を読み返していて気が滅入った。書いている最中は普通にまちもなことを言っているつもりだったが、後になってみると自己嫌悪し、打ちのめされる。特に「嫌が応でも」という言い回しを使った文章は最悪だ。ちょっと気のきいたことを書いたつもりになっていたのが恥ずかしい。

 「本格」についてのメモ。
 平穏無事な日々を漂う(いつもならリンクをはずすのだが、なんとなく残しておく)の4/22付の文章で
“本格”だけではなく、“本格推理小説”として面白いからだ。
という一文を発見した。「本格」と「本格推理小説」の対比は珍しい。
 一昔前には「推理小説は“推理”小説である以前に、まず“小説”でなければならない」というような論調の文章をよく見かけたことを思い出した。よく似てはいるが、「推理/小説」は「部分/部分」の対比だが「本格/本格推理小説」は「部分/全体」の対比だろう。

 「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」は今日でCD21枚目。今日で『平均律』を全曲聴き終えた。明日は「6つのパルティータ」だ。なんか一覧表があれば、それで足りるような書き方だな。音楽の感想は書きにくい。

1.10223(2002/04/24) 「猫耳」とは何か?

 第一回全日本猫耳美少女コンテストは数次にわたる予選を経て、とうとう候補者を4人(4匹?)まで絞り込んだ。
 エントリーNo.1は北海道代表の紗那はにゃ〜ん。彼女はピンと立ったりりしいシャム猫耳が自慢だ。
 No.2は西東京代表、にゃみ子・タナーシ。猫なで声で審査員たちの心を鷲掴みにした。
 No.3は伊丹市代表、たつみゃあ。正体不明、この名前も偽名のようだが、その謎めいた魅力に注目が集まっている。
 そして最後、エントリーNo.4は竹島代表のにゃむにゃむ・ド・ノストラダムス。すらりとした美人で、猫耳コンテストでなくても優勝が狙えるほどだと噂されている。
 この4人が歌って踊って、水中騎馬戦を戦って、ついでに政見放送を行い、全国から集まった108人の審査員の審判を仰ぐ……はずだったが、本選前日になって事態は急変した。エントリーNo.3のたつみゃあが実は男性だという怪情報が流れてきたのだ。猫耳美少女コンテスト準備会(実質的には実行委員会なのだが、「準備会」と名乗っている。その理由は誰も知らない)は極秘にセックスチェックを行い、情報が正しかったことを確かめた。この段階でたつみゃあは失格となった。
 残る3人で本選を行うことになったが、ここでもアクシデントが発生した。水中騎馬戦の最中、にゃみ子の猫耳が落ちてしまったのだった。いくに激しい格闘が繰り広げられたからといっても、素手の闘いで自耳が落ちることは考えにくい。そこで調べてみると、案の定、義耳だった。つまりにゃみ子は猫耳美少女ではなく、ただの美少女だったのだ。彼女は「私の心の猫耳を見て下さい!」と涙ながらに訴えたが聞き入れられず、コンテスト会場を後にすることになった。
 残るは2人、はにゃ〜んとにゃむにゃむだけだ。どちらが栄えあるグランプリの座にを獲得するのか? すべての種目が終わった後、審査員たちは別室で審議を行った。が、結論がでない。
 ある審査員は言った。「シャム猫耳のはにゃ〜んと比べると、にゃむにゃむは雑種耳なのでちょっと見劣りするは明らかだ。よって、はにゃ〜んの勝ちだ」
 すると、別の審査員が反論した。「いや、顔、スタイルなどを総合すればにゃむにゃむのほうが勝っている。耳だけを取り上げて優劣を判断するのはいかがなものか?」
「しかし、これは"猫耳"美少女コンテストではないのかね?」と先の審査員。
「確かに、"猫耳美少女"コンテストだ」と第二の審査員。「単に猫耳だけを比べるのではなく、総合判断が大事なのだ」
 ここに至って議論は混迷の色を深めることとなった。各審査員は口々に意見を述べ合う。
「そもそも猫耳だけを切り離して論じることができるだろうか? 猫の頭に耳がついていても、我々は全く"萌え"を感じない。美少女と一体となって初めて猫耳は"萌え"を生み出す装置として機能するのだ」
「いや、儂は耳だけでも十分萌えられるが……」
「そりゃ、あんたがフェチだからだ」
「まあまあ、議論を整理しようではないですか。我々のコンテストにとって猫耳は参加資格の有無を決めるだけのものなのか、容姿などと同列に扱うべき尺度の一つなのか、あるいは他の要素とは比べられない絶対無二の価値判断基準なのか。この点をはっきりさせておかないと、審査は不可能です」
「君は何でも物事を簡単に割り切りすぎる。仮に猫耳の優劣を他の要素と区別するにしても、その猫耳がどのようなタイプの美少女の頭の上にあるかを考慮にいれないといけない。たとえば、東欧美少女紀行みたいな女の子が三毛猫耳だったらアンバランスだろう」
「なんだい、その『東欧美少女紀行』ってのは?」
「そもそも、どのような猫耳が優れているのかという基準は」
「それは本質直観で」
「あなた方は問題を複雑にしすぎだ。当面の問題は2人ののうちから優勝者を決めることじゃないか。それを優劣の判断基準だの、本質的直感だのと、どうでもいい議論ばかりで」
「本質的直感ではない。本質直観だ」
「まず、猫耳美少女を"猫耳型美少女"と"美少女型猫耳"にわけてですね」
「"美少女型猫耳"なんて、お前、日本語を知らんだろう?」
「言うに事欠いて貴方はなんて事を」
「ここで『貴方』という言葉を使ったのがポイントです。もし女性に呼びかけるなら『貴女』と言ったはずです。よって、『貴方』と呼びかけられた相手は男性であることになります」
「早く結論を出さないと、賞品の"かつぶし一年分"が腐ってしまうよ〜」
「いや、『貴方』は男女どちらでも使える言葉です。相手が男性であることを明示するなら『貴男』と言うべきで」
「やっぱり鍋は猫鍋に」
「猫耳メイドが」
「えっ、竹島は韓国固有の領土だからにゃむにゃむには日本のコンテスト参加資格がない? 誰だい、そんな事言ってるのは」
「韓国でも"萌え"文化は確実に浸透」
「うへぇ、するってぇと今度の単行本の書き下ろしでは嫌な男が出てくるんで?」
「ああこの肉球が肉球がぷよぷよとした肉球が」
「ここで猫耳と眼鏡っ娘の合わせ技を使うの反則です。いや、むしろ姑息で安直な愚策と言うべきでしょう。なぜなら」
「ブロッコリーの株がほしい」
「カリフラワーの株ならあるよ。ここにあるよ」
「では、問う。猫耳だけが正義なのか、と。ウサ耳は駄目なのか。蛇耳は?」
「蛇には耳はない。蛇はミルクも飲まない」
「猫耳美少女とは主として"萌え"に関する難解な魅力が」
「つまり、猫耳美少女というのは一個の幻影に過ぎないのであって、畢竟」
「私は本物の猫耳美少女よ。耳は付け耳だけど、志は誰にも負けないわ。真の猫耳美少女は猫耳の有無によって決まるにあらず。にゃー、ふにゃー」
「わっ、にゃみ子が乱入して来たぞ。誰か取り押さえろ」
「合点、承知の助」
「とんでもハップン」
「ああ、かつぶしが……賞品のかつぶしが……」
「たつみゃあ死すとも猫耳死せず!」
「ああっ、今度はたつみゃあまで。しっしっ、お前は締切前だろう。あっちへ行け!」
「猫耳とその他の容姿を比較考量するのは至難の業でありまして、なんとなれば両者には共通の単位が存在しないからで」
「歴史的にみれば、猫耳偏重に対する反動として」
「にゃあ、にゃあ」
 こうして、審査会は果てしなく続いていくのであった。この話にはオチはない。おしまい。

 今日は正三角形の定義についてどうでもいい話をする予定だったのだが、そのマクラのつもりで書き始めた文章が長くなってしまったので、やめにする。最後に「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」であるが、今日と明日は「6つのパルティータ」を聴く。パルティータというのは組曲のこと(と断言してしまうと語弊もあるだろうが、あまり気にしないことにする)である。バッハはほかに「イギリス組曲」「フランス組曲」というクラヴィーアのための組曲を作曲しており、どちらも6曲セットになっている。当時、同種の曲を6曲ないし12曲セットにする習慣があったためだ。例によって音楽の内容についての感想はなし。とりあえず、聴いた、ということだけ書いておく。ああ、なんかなげやり。

1.10224(2002/04/25) 過酸化水素水から水を取り去れば過酸化水素だけが残る

 毎日後悔することばかり。
 何もしなければ後悔することもないのだけれど、それでは息苦しくてたまらない。たまには酔っぱらったふりをしてみたいと思うこともある。私は酒が飲めないが。そして後悔の種の増やすことになる。
 以前、知人と話をしていて、私がいかに"萌え"に対するセンスに欠けているか、という話になった。知人の出した結論は「あんたには"萌え"のことがわかっちゃいないんだから、サイトで的はずれな萌え話をして恥をかくより黙っているほうがいい」というものだった。その後、約一ヶ月ほど忠告に従ってその種の話題を控えていたのだが、昨日は羽目を外してしまった。
 振り返ってみると、どうしようもなくつまらない。読み返す気にもならない。いろいろと小細工をして誰にも完全には読解できないようにしてある(これはそう難しいことではない。ちゃんと書かないと理解できない事を、ちゃんと書かないでおくだけだ)ので、後でツッコミが入ったら「ふふふ、君は上っ面しか理解していないね。この文章は君が思っているより、ずっと"深い"のだよ」と言うことができる。ああ、何と浅ましいことだろう。
 私は他人の目が怖い。逃げ道なしでは文章が書けない。実を言えば、今書いているこの文章もまた言い訳に過ぎないのだ。

 アクセスログをみると天使の階段(松本楽志氏のサイト)のDiaryから来ている人が何人かいた。嫌な予感がした。もしかして昨日の文章について「すげー、つまんねぇ」と書かれているのではないか、と。もしそんな事を書かれていたら、当たっているだけにぐぅの音も出ない。もしかしたらショックでしばらく更新を中断してしまうかもしれない(この文章を書いたときには、全く別の理由から更新を中断することになろうとは思ってもいなかった)。そんな事を考えながら恐る恐るリンク元の文章を読んでみた。違った。ほっとした。
 掲示板について「いつのまにかとてもおもしろい話題になっています」とコメントされているが、「ありがとうございます」とは言わない。なぜ言わないかといえば先日書いた「リンクフリー」についての私見によるわけではなくて掲示板で話題を振ったのは>jouno氏であり、その話題を盛り上げたのは杉本@むにゅ10号氏であって、管理人たる私はおざなりなレスを付けただけだからだ。
 ついでに書いておくと、ミステリ系の話題で盛り上がっているところといえば、『「政宗九の視点」の新掲示板』が面白い(と書いたら、政宗氏に日記で謝辞を書かれてしまった)。前からたまに見ていたのだが、今日「漂泊旦那の漂流世界」の「平穏無事な日々を漂う」の今日付の文章を読むと、一昨日メモ書きしておいた「本格」と「本格推理小説」の対比について説明があり、そこから『「政宗九の視点」の新掲示板』へのリンクがあったので、早速辿ってみた。すると……いや、あとはじかに確かめて頂きたい。
 ついでのついでに書いておくが、「本格」と「本格ミステリ(推理小説)」が同義語でないのは当然のことだが、ミステリについて論じる文脈で「本格」を単独で名詞として書いた場合は「本格ミステリ(推理小説)」の省略形と解釈するのが自然ではないだろうか? ちょうど「携帯」と「携帯電話」の関係と同じように。
 私の立場からすれば、「本格」という言葉の使い方が人によってばらばらであるという実例が一つ増えたので、以前書いた主張が補強されることになる。
 ついでのついでのついでに書いておくと、先ほど漂泊旦那氏の自己紹介を読んで、ずっと前にちょっとした縁があった人だということを初めて知った。当時、私のほうも別名義で活動していたので、漂泊旦那氏ご自身はもしかすると気づいていないかもしれないが。
 閑話休題、『「政宗九の視点」の新掲示板』を見ていると、ミステリの評価基準についての議論が特に興味深かった。そうだ、昨日の文章はその議論をもじったものだったのだ。そういうことにしておこう。これもまた言い訳だが。

 ところで、一昨日乙一の『暗いところで待ち合わせ』に触れて「いつになったら読み終えることができるのか、予想もつかない」と書いたが、今になってもまだ半分くらいしか読めていない。読みにくい文章ではないし、さほど長くもないのだが、時間と体力と心の余裕が乏しい今の私にとっては難関だ。「本を読んだ」という話ならともかく、本を読んでいないことを書いても仕方がないのだが、もしかしたら気になっている人も0.5人くらいはいるかもしれないので、念のために記しておく。

 今日も正三角形の定義の話が書けなかった。あと某氏が昨日期間限定で公開した某社の暴露ネタの話も書きたかったのだが、下手に触れると洒落にならなさそうな気がして断念。そういうわけで、今日は全文が埋め草のような内容になってしまった。というのも言い訳だからこんなことを書いていてはいけない、というのも言い訳だ。ところで、今日もいちおうバッハを聴いてはいる。昨日の続きだ。それだけ。

1.10225(2002/04/28) 更新再開

 またしてもハードディスクが壊れた。「またしても」と言っても「たそがれSpringPoint」を去年から読んでいた人でないとわからないだろうが、過去ログのどこかに書いてあるはずだから、興味のある人は探してほしい。私は探す気力がない。
 ハードディスクの中のすべてのデータが消えてしまった。バックアップはとっていなかった。去年一度ひどい目に遭っているのに何も学んでいなかった。結局残ったのはサーバー上のデータだけだった。
 まあ、「たそがれSpringPoint」を運営するのに支障はない。それでよし、ということにしておこう。

 さて、一昨日の予定では高橋まき氏の『「技術」としての宮部みゆき』をネタにしていろいろ書く予定だった。が、今となってはもう時期はずれになってしまったので、長々と書くのはやめて簡単にまとめておくことにする。
 以下、いろいろと書いてあったのだが、読み返してみると全然面白くないので、削除した。

 二日更新しないとどうも調子が出ない。あまり調子に乗っても仕方がないので、これくらいでいいのかもしれないが。

 最近、あちこちで「本格」を巡る話題が出ているが、ざっと見たところ私の意見に賛成してくれている人はいないようだ。かといって真っ向から反論を提示する人もいない。ということは「あえて言及するまでもない」というふうに思われているのだろうか? だとすると、悲しいことだ。
 そもそも世のミステリ愛好家たちは「本格(ミステリ/推理小説/探偵小説)」を個別の作品から独立した何らかの実体だと考えているのだろうか? それとも各々の小説がもつ性質の集まりというふうにとらえているのか? あるいは単に小説の集合か? そこが私にはわからない。「本格」を具体的に特徴づけたり定義したりする前に、いったいどういう領域の事柄について話をしているのかをはっきりさせておかないと、まともな議論にならないと思うのだが……。誰も気にならないのだろうか?
 こんな事が気になる私はきっとミステリファンではないのだろう。

 やっぱり調子が出ない。

 読書会『鏡の中は日曜日』非公式記録(これもリンクを残しておく)を読むと
素晴らしく妄想力を発揮した「滅・こぉるさん解釈」
という記述があった。う〜む。私はただ素直に読んだだけなのだが……。要するに第一章の太字部分は信頼できる記述なのだから、そこで「石動を殺した」と書いている以上、石動は『鏡の中の日曜日』で死んでいるはずだということなのだが。とはいえ、この素直な読みを補強するために若干の妄想をブレンドした論証を行ったことは否定しない。

 なんか、書けば書くほどテンションが下がっていくような気がする。今晩はもうおしまい。「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」はまたの機会に。