1.0213〜1.0220 日々の憂鬱〜2002年4月第3週〜


1.10213(2002/04/15) 「本格」とは何か・の・逆襲

 以下、他サイトの文章に言及した文章となるので、ちょっと迷ったのだが、やはり基本方針に従いすべてのリンクを外すことにした。そのせいで文意がつかみ取りにくくなる箇所もあるが、どうせ大したことは書いていないので、特に支障はないだろうと思う。
 大仰なタイトルだが大して意味はない。早速本題に入る。
 ペインキラー氏曰く(「ペインキラーRD/無味(感想)日記」4/13付)、
僕にとって「本格」とは、

 「フェアであること」

 ただ一点のように思います。何をもって「フェアである」と定義するのか、それはまた別の話ということで。
 この意見に対して「本格推理小説」または「本格探偵小説」あるいは「本格ミステリ」という言葉を無意味なものとみなして議論の場から排除しようと言っている私があれこれ言うのは筋違いかもしれないが、何となくコメントしてみたくなった。
 「本格」をフェアプレイのルールと関連づけるアイディアは杉本@むにゅ10号氏の「犯人当て小説のためのフェア・プレイ変換の提案について」でも提示されている。もっともこれは2年以上前の文章なので、今の氏の考えと同じであるかどうかは保証の限りではない(先月お会いしたときには「本格の三要素」という話をされていたが、その中に「フェア/アンフェア」という要素はなかったように記憶している)。ともあれ、ペインキラー氏と(2年前の)杉本@むにゅ10号氏が極めて近い着想で「本格」を捉えていることは確かだろうと思う。
 ところで、あるミステリについて、それが「フェアである」または「アンフェアである」と述べることは価値判断を行っていることになる。これは「フェアである」ということの内実を問うまでもない。すると、仮に「本格ミステリ」が「フェアである」ということで規定されるのならば、あるミステリについて、それが「本格ミステリである」または「本格ミステリではない」と述べることもまた価値判断を行っていることになるだろう。すなわち「本格ミステリ」はそれ以外のミステリよりも優れているという主張を含むことになる。この主張自体に異議を申し立てる人もいるだろうが、私は差し当たりこの主張に同意も拒否もしない。それよりも、たかだか「本格」の特徴付けから、その主張が導き出されてしまうとということのほうが問題だと思う。
 この問題は別の形で言い表すこともできる。たとえば、「本格ミステリ」(というものが私には今ひとつよくわからないのだが、とりあえず館だとか孤島だとか"いかにも本格"という舞台で密室や首なし死体がごろごろ出てきて名探偵が巧みにロジックを組み上げて意外な犯人を指摘するような小説を念頭においてほしい)を読んだ読者が、作中の一箇所にアンフェアな記述(たとえば、真犯人の視点で書かれた箇所で、地の文に「彼女は見知らぬ殺人者の影に怯えた」と書かれていて、かつ、その文中の「殺人者」が別の事件の犯人とは解釈できないような文脈だったとしよう)があったことに気づいたとする。「あっ、この文章はアンフェアだ!」と読者は叫ぶ(別に叫ばなくてもいい)。そして「この小説は本格なのに、どうしてこんなアンフェアなことを書くのだろう?」と首をひねる(別に首をひるらなくてもいい)。だが、このように考えることはペインキラー氏(及び2年前の杉本@むにゅ10号氏)の立場では不可能なのだ。なぜなら、あるミステリがアンフェアであるならば、ただ「アンフェアである」というだけの理由で、それは「本格」ではなくなってしまうからだ。このような帰結はペインキラー氏の意図するところだろうか?
 むろん、この反論はペインキラー氏の文章を「『本格』とは現にフェアであるという特徴をもつミステリのことである」と素朴に解釈したときにのみ成り立つものである。そうではなくて、別の解釈をすることも可能だ。もともと「フェアプレイ」は規範的な概念なのだから、「本格」を特徴づけるにも「『本格』とはフェアであるべきミステリのことである」と言うほうが自然ではないか。ただし、こう言ってしまうと、「本格」以外のミステリはアンフェアでも構わないという含みを持ってしまうかもしれない。そこで「『本格』とはフェアであるかどうかが問題になるような種類のミステリだ」と言い換えてみる。特に謎解きを重んじるわけでもなく、読者を騙すために一字一句に工夫を凝らすことも要求されず、サスペンスとか人間心理の深い闇とか、その他の要素を重視する小説にとっては、そもそも「フェア/アンフェア」といった評価基準は当てはまらないだろう(とはいえ、さすがに地の文で嘘を書いてしまってはまずいと思うが……)。もちろん「本格」であっても「フェアであること」が唯一の評価基準なのではなくて、多くの場合最低条件であるに過ぎない。フェアだからといって面白いとは限らない。
 なんだか、私の立場からは語り得ないこと(=「本格」)についてべらべらと喋ってしまった。反省。余談だが、「犯人当て小説のためのフェア・プレイ変換の提案について」には補足資料があって、そこでは「本格」という言葉を使うことをあからさまに避けている怪しい文章が掲載されている。
 どうもこの種の話をすると、具体的な作例をすっ飛ばして(この文中には小説のタイトルや作者名が全く出ていない!)観念的な方向へと突き進んでしまう傾向が私にはある。これが私の限界だ。というわけで、嵐山薫氏の論考に期待している。「このミステリーがすごい!」以前と以後で「ミステリ」というタームの意味が違っているという指摘(「嵐の館/館の日誌」4/13付)は言われてみると確かにその通りなのだが、私は考えもしなかった。

 昨日から読んでいる『黒祠の島』に続き、今日は『グラン・ギニョール城』(芦辺拓/原書房)を買ってきた。「本格ミステリー大賞」候補作の残り2作は行きつけの駅ビルの本屋にはなかったので、今度大阪へ行ったときにでも買うことにしよう。

 「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」、今日は昨日の続きでBWV235とBWV236を聴いた。

(追記)
 上で言及した嵐山氏の4/13付の文章だが、ついさっき見に行くと「このミステリーがすごい!」以前/以後について書かれた段落がなくなっていた。「ミステリ」の用語法の説明として多少ごたついていたのできれいさっぱり削除したようだが、ちょっともったいない気もする。

1.10214(2002/04/16) 一方通行であるとはどのようなことか?

 今日は昨日の続きを書こうと思っていた。見出しに掲げた問い(もう少し詳しくいえば、「一方通行の道路とそうでない道路とは何が違っているのか? そして、その違いは、道を走る自動車の流れから判別できるものなのか?」というような問い)について考えてみようと思っていたのだ。この疑問を押し進めていくと、結局、昨日私が書いたことは大きな難点を含んでいるということが明らかになるはずで、そこまで話を持っていければいいな、と思っていた……のだが、ペインキラー氏の今日付の文章を読むと、それ以前の段階で私が勇み足をしていたことがわかった。
(以下、小一時間かけてうだうだと文章を書いたのだが、読み返してみると全然すっきりとまとまっていないので削除した)
 というわけで、この話題については一時撤退。

 フェアプレイの問題については掲示板でもちょっとしたやりとりがあった。こちらの相手方はjouno氏だが、同じく一時撤退する。

 今日、『黒祠の島』(小野不由美/祥伝社ノン・ノベル)を読み終えた。今さら私が感想を書くこともあるまいが、ちょこっとだけ書いておくと、事件の絵解き場面が笑えた。「ああ、このシーンが書きたかったんだな」と納得。「本格」としてどう評価すべきかはわからないが、謎解き小説としては共犯説を真面目に検討していないのが気になった。

 今日は、「シェメッリの賛美歌集に収録された宗教的歌曲集」というちょっとくどいタイトルの曲集を聴いている。「シェメッリ賛美歌集」はタイトルだけはそこそこ知られているが、別にどうということのない通奏低音つき独唱曲集で、あまり聴かれることもない。私もこのほかにCDを持っていない。このようなマイナー(この「マイナー」は短調という意味ではない)な音楽が聴けるのが全集のいいところだ。ところでこの曲集の69曲の歌曲(CD2枚に全曲収録されている)のうち、何曲がバッハ作のものかはわかっていないらしい。歴史上もっとも有名なバッハ研究者であるアルベルト・シュヴァイツァーは69曲中24曲がバッハが作曲したものだとみなしたが、現在確実にバッハの曲だと考えられているのはわずか3曲。他の多くは作曲者不詳の既成曲にバッハが多少の手を加えたものらしい。

 先日の予測(深川拓氏の小説が5月発売の「異形」に掲載されることになったということ)は、当たっていた。とりあえず祝辞を述べるところだが、私はひねくれものなので、まだ「おめでとう」とは言わない。それは実物を読んでから。前作については相当ねちねちとした感想文を書いたが、さて次は……。

 おしらせ
 今日の文章は全体的に逃げ腰で内容がないものだったが、明日はもっと内容の薄いものになる見込み。というか、更新できない可能性すらある。理由は先週と同じ。

1.10215(2002/04/17) 苦行を終えて

 苦しい時には、こう考えるとよい。「今、ここにいるのは私ではない。実は私はどこか別の場所にいて、ただこの場所には私の感覚器官のみがあるのだ。周囲のざわめきや話し声はすべて遠く離れた世界の出来事に過ぎない」と。そうすれば、多少は楽になれる。

 予想どおり消耗しきったので、先週と同じくさっさと寝る。「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」は明日CD2枚分まとめて書く予定だ。

1.10216(2002/04/18) 料理の基本はさしすせそ

 今日も疲れた。掲示板でいろいろ書いておいた(この頃、私は杉本@むにゅ10号氏及びiouno氏と「本格」「フェアプレイ」「ウィトゲンシュタイン」などの話題で意見交換をしていた)ので、今日のノルマは果たしたものとしておく。
 あ、「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」が残っていた。昨日は一昨日に続いて「シェメッリの賛美歌集に収録された宗教的歌曲集」を聴き、今日は7曲のモテトのうちBWV231を除く6曲を聴いた。バッハのモテトは全曲を1枚のCDに収めた盤も多いのだが、どうして1曲だけ外したのかはわからない。時間が足りないということはなかったはずだが。

 明日はもう少しまともな文章を書くつもりだが……まあ、疲労の度合いにもよる。

1.10217(2002/04/19) 合成人間クリプゲンシュタインの恐怖

 今日は先日書けなかった一方通行の話を書き始めたのだが、いくら書いても終わらず、というかいくら書いても本題に入ることができず、どんどん文章が膨れ上がってしまい収拾がつかなくなった。2時間程度頑張ったのだが、どうにもならず泣く泣く削除した。
 私は要約が苦手で、「要するに……」という話ができない。あれもこれもと話を広げてしまい、例外も余さず拾い上げようとしてにっちもさっちもいかなくなってしまう。文中に括弧が溢れかえり、括弧の中の表現に註釈をつけるためにさらに括弧を挿入してしまう。丁寧に書こうと思う気持ちが裏目に出て、煩雑でピントのぼけた文章になってしまう。この欠点は自分でもわかっているのだが、なかなか是正できない。簡潔でしかも要点を押さえて隙のない文章が書きたいのだが、一生そんな文章は書けないかもしれない。
 一通り愚痴をこぼしたところで、再度挑戦。要するに……。

 ミステリにおけるフェアプレイという概念はミステリ固有のものであり、他の種類の小説とは無縁である。またミステリというジャンル内部でも要求されるフェアプレイの水準に差があり、たとえば謎の解決に必要なデータを読者に伏せたまま話を進めるのがアンフェアだとみなされるようなミステリもあれば、そのような隠蔽が意外性を生むための技巧の一つとして許容される類のミステリもある。その違いをもってミステリの下位ジャンル分けを行おうとしたとき問題となるのはフェアプレイを要求されているということと実際にフェアであるということとは全く別の事柄だということである。実際にフェアであるかどうかは記述を丹念に読み解けばわかる筈である。だが、フェアプレイのルールが課せられているかどうかは小説の中の記述だけでは判別しがたい。
 一方通行道路のたとえ。ある道路が一方通行道路であるかどうかは、その道路を走る車の流れだけからでは判定できない。なぜなら一方通行制限が課せられていても、そのルールに違反して逆行することはありえるし、そのような制限がなくてもたまたますべての車が同じ向きで走ることもありえるからだ。ある道路が一方通行かどうかは標識を見て確かめるしかない。
 ミステリで一方通行の標識に相当するのは、読者への挑戦状やそれに類する文章だろう。しかし、厳しいフェアプレイの要求を課せられた小説だからといって、必ず読者への挑戦状があるとは限らない。また、挑戦状にパロディ的な意味合いを持たせている場合には、それがあるからといってフェアプレイのルールに従っているということはできない。一方通行道路の場合は、そのルールを周知させるためのルールがあるが、ミステリの場合にはフェアプレイのルールを周知させるルールは存在しない。よって、フェアプレイの概念をもとにミステリの下位ジャンル区分を行うという試みは大きな困難を抱え込むことになる。

 ……というわけだ。自分でツッコミを入れたくなるような書き方だが、差し当たりはこの程度で満足するしかない。

 今日『復活祭オラトリオ』(BWV249)を聴いた。バッハのオラトリオはほかに『クリスマスオラトリオ』と『昇天祭オラトリオ』があるが、どれも大規模なカンタータという感じで、実際『昇天祭オラトリオ』はカンタータ第11番でもある。
 『復活祭オラトリオ』はなかなか景気のいい音楽で、特に冒頭のシンフォニアはわりと好きである。第二曲のアダージョもいい。第三曲で初めて声が入る。このCDでは二重唱から始まって合唱で終わるが、私が持っている別のCDでは最初から合唱になっていた。調べてみると、バッハの初稿では二重唱、のちに合唱曲に改作したらしく、なぜか旧バッハ全集ではそれを折衷したらしい(新バッハ全集では合唱曲)。

1.10218(2002/04/20) 見出しの変更について

 昨日の文章は最初「クリプゲンシュタインの恐怖」だったが、より馬鹿馬鹿しくするために、頭に「合成人間」を足した。

 今日はいろいろと書くことがあるのだが、時間がない。そこで、日付が変わる前に定例の「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」だけ書いておいて、あとは明日に回すことにする。
 昨日で「バッハ・エディション VOL.2 声楽曲集 Vol.1」を聴き終え、今日からは「VOL.3 鍵盤楽曲集 Vol.1」である。初日の今日は『平均律クラヴィーア曲集 第1巻』(BEV846〜869)から前半12曲を聴いた。
 クラヴィーアというのはチェンバロ、クラヴィコード、ピアノなどのことである。バッハはオルガンも含めていたようだが、ふつうはオルガンはクラヴィーアのうちには入らない。なお、バッハが活動していた時期にはピアノはまだ普及しておらず、家庭用の楽器としてはクラヴィコード、演奏会用の楽器としてはチェンバロが一般的だったようだ。また、タイトルに「平均律」という言葉が入っているが、これは意訳で、原題では"Das Wohltemperierte Klavier"となっている。
 う〜む、こんな事をいくら書いても仕方がない。バッハに興味がある人なら既に知っていて当然の事だし、そうでない人にとってはどうでもいい話。だが、そんな事を言ってしまうと、そもそもこの企画自体の意義がよくわからなくなってしまう。まあ、いい。あまり深く考えないことにしよう。と、前にも書いたような気がするな。

1.10219(2002/04/21) 頭に鳥の糞が落ちてくる日もある

 一般に「鳥の糞」と呼ばれているもののうち黒い部分は確かに糞だが、白い部分は実は尿であるから、正しくは「鳥の糞尿」と呼ぶべきである。そんな事を言っている人がいた。真偽のほどは知らないが。
 それはともかく、昨日の事を書く。久しぶりに大阪へ出かけて、天王寺、日本橋(しつこいようだが「にっぽんばし」と読んでほしい)、難波、梅田を巡回した。
 購入物件を箇条書きにしておく。
  1. 『ウィトゲンシュタイン『論理哲学論考』を読む』(野矢茂樹/哲学書房)
  2. 『サロメの夢は血の夢』(平石貴樹/南雲堂)
  3. 『Q.E.D. 証明終了』(12)(加藤元浩/講談社コミックス)
  4. 『ロケットマン』(1)(加藤元浩/講談社コミックス)
  5. 『スパイラル・アライヴ』(1)(城平京・水野英多/エニックス・ガンガンコミックス)
  6. 『碧のミレニアム』(6)(杜野亜希/白泉社・花とゆめコミックス)
  7. 『ジャジャ』(2)(えのあきら/小学館・サンデーGXコミックス)
  8. 『エクスタシー』(大島永遠/シュベール出版・零式コミックス)
  9. 『MOZART The Masterworks』(BRILIANT CLASSICS)
 本のタイトルの中に『』が入っている場合、その本のタイトル全体を『』で括ると『』が二重になってしまう。そんな時私は内側の『』を「」に変えることが多いのだが、1の表記については著者自身の書き方にならった。いつもどおり楽しい文章で、読んでいて気分が弾む。ためしに「はじめに」の最初の段落を引用してみよう。
 『『論理哲学論考』を読む』という本を読んでも、『論理哲学論考』を読んだことにはならない。当然のことである。他方、「『論理哲学論考』を読む」などというゼミに出たりすると、それは『『論理哲学論考』を読む』という本を読むのではなく、『論理哲学論考』を読むことになる。これもまた、当然のことである。しかし私としてはそこを曲げて訴えたい。本書を読むことは、『論理哲学論考』を読むという体験でもある。つまり、私が開講する「『論理哲学論考』を読む」というゼミに参加するような体験を、本書で味わっていただきたい。実際、私はそのようなゼミを東京大学大学院において行なった。そうしてこの薄い著作を検討するのに三年かかった。石の上でもがまんしていれば何かいいことでもあると言い伝えられている年月である。そんなにかかったのかという感想もあるだろうが、よく三年で終わった(というか、そもそもよく終わった)という声も聞かれた。まことに、『論理哲学論考』というのはそういう著作なのである。そして私はその三年の成果を本書に凝縮した。
 この文章を読むだけで期待は嫌が応でも(「弥が上にも」の間違い)高まる。税抜定価2400円というのは高い。ブックオフなら24冊買える。だが、ブックオフでこの本が24冊買えるということではないし、仮に24冊積み上げてあったとしても一人で全部買う人はいないだろう。さらに、もし酔狂な人がいて24冊買ったとしても著者の手元には一銭も入らない。これは不当だ。
 給料日直後だったので、ちょっと気が大きくなっていた私は早速1を買うことにした。なお、上の段落に書いたことは単なる冗談であり、別に新古書店が出版業界を圧迫すしている現状に対して義憤を感じている、ということではない。問題は大きいが、一人一人の消費者の心がけでどうにかなるようなことではない。
 1と同時にもう一冊ハードカヴァーを買った。それが2だ。平石貴樹の新作、というだけで嫌が応でも(「嫌でも応でも」の間違い(と書いたが、この註釈自体が間違い。正しくは「否でも応でも」である。読みは同じで「いやでもおうでも」。もちろん「否応なしに」でも構わない))買わざるをえないという気分になってくるから不思議だ。登場人物表を見た限りでは更科ニッキは登場しないようだが、冒頭の作者の言葉(「読者への挑戦状」と銘打ってはいないが、明らかにその意図をもって書かれている)を読むと謎解き小説であることは間違いない。
 3〜6はマンガである。3は現在連載中のミステリマンガの中では最高水準の作品の最新刊。2は同じ作者が始めた新シリーズで、こちらはストーリー重視だがやはりミステリ色が強い。どちらも技巧的なマンガなので、同時連載は無茶ではないかと思うのだが、これまでのところ特に共倒れしているという印象はない。もしかしたら『Q.E.D.』のほうはそろそろ終わるのかもしれないが。
 4は現在連載中のミステリマンガの中では最も迷走が激しい『スパイラル〜推理の絆〜』の番外編にして、本編が迷走した原因の一つとなったと思しい作品の第1巻。こちらは共倒れの危険が大きい。なお、本編の最新刊も同時発売だが、書店では見かけなかった。正式な発売日前なので仕方がない。
 5はシリーズ最終巻。4巻くらいまでしか読んだ記憶がなく、5巻はもしかしたら買っていないかもしれない。部屋の中を探してみてなかったら買いに行くことにしよう。とはいえ地元の本屋では売っていないんだよなぁ。杜野亜希はもっと読まれていいマンガ家だと思うのだが。
 7はオビによれば「バイクが出てくるラブコメ」または「ラブコメがあるバンク漫画」だそうで、1巻が面白かったので迷わず買い、というか、えのあきらのマンガはほとんど全部買っているはず。どうでもいいが、ラブコメにはセンスが必要で、女の子のパンチラにドキッ、とか、思わず胸を触ってしまい平手打ち、とか、そういったエピソードを積み上げればラブコメになるというわけでは、ない。あれ、いったい私は何を言っているのだろうか?
 8は2週間ほど前に一度見かけていたのだが、何となく買いそびれていた。大島永遠は今のところ内容の如何に関わらず買うことにしているが、どちらかといえば『女子高生』のような非18禁マンガのほうが面白いのではないかと思う(えのあきらも同じ)。
 最後の9はCDである。全40巻で、9590円(税抜)で売っている店を見つけたので買った。重かった。収録曲などの一覧表を見ると『The complete Masterworks』と書いてあるが、CDケースにはそのような記載はないし、歌劇がすっぽり抜けているくらいで、全集ではない。同じシリーズでベートーヴェンも出ているが、そちらはCDケースに『The complete Masterworks』と書いてあった。

 いろいろ書いて疲れた。「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」は夜に回すことにして、今からおひるね。

1.10220(2002/04/21) 空き缶と空き瓶

 今さら、という感じもするが、ブックオフを中心とする新古書店と出版業界を巡る問題について。昨日、ブックオフ大阪難波中店開店初日に行ってきた(が、何も買わなかった)ばかりなので、なんとなく考えてみた。私は今の出版業界が具体的にどのような状況に陥っているのかは知らず、ただ新古書店(とマンガ喫茶と図書館)のせいで売り上げが激減しているらしい、という程度の認識しか持っていない。よって専門的な話はできないし、するつもりもない。いつものとおりの雑談と思っていただきたい。

 本は読み終えたらどうなるか? 一度読むだけではなく、二度、三度と読み返したくなる本も中にはある。だが、圧倒的多数の本は一度読んだらもうおしまいだ。部屋のスペースを占める厄介な紙の束に過ぎない。
 スペースに余裕がなくなったら、処分しなければならない。庭の焚き火にくべて焼き芋を焼いて食べるという有意義な活用方法もある。だが、これは今の季節ではあまり効果がない。またアパート住まいの人にはお勧めできない。
 一昔前だったらちり紙交換に出してトイレットペーパーに替えてもらうという方法もあった。今でも可能だが、あまりいい顔をしてくれない。新聞はいいけれど、書籍は再生効率がよくないそうだ。持って帰っても手間賃にもならない、と嘆く古紙回収業者もいる。
 そこで、いらない本はブックオフに持っていって売る、これ最強。買いたたかれて雀の涙ほどの金にしかならないが、要らない本を処分するのが目的なのだから別に構わない。別にただでもいいと思うこともある。去年近所のブックオフに18禁マンガをいっぱい持っていったら引き取ってくれず、泣く泣く持って帰ってきたことがあった。次はブックマーケットに持っていこうと思っている。知人が数百冊持ち込んだら一冊あたり11円で引き取ってくれたそうだ。うん、そうしよう。
 で、そうやって売った本はいろいろと細工を施したうえで店頭に並び、また誰かが買って帰って読む。自分には必要ない本がほかの人の役に立つかもしれないというのは気持ちのいいものだ。君も私もエコロジスト、環境にやさしい地球人だ。新古書店まんせー!
 だが、こうやって本のリサイクル(狭義の「リサイクル(再生利用)」は物を分解して資源として利用することで、古紙を回収して再生紙を作る場合などが該当する。他方、古本の再販売は「リユース(再利用)」にあたる。だが、心優しい読者諸賢はこの程度のことで目くじらを立てないと思うので、ここでは一般に流布している「リサイクル」のほうを使う)が活発になると、本が売れなくなる。当たり前だ。本が売れなくなると、印刷・出版・流通・書店業界の人々が困る。会社は倒産し、従業員は路頭に迷う。東京に出稼ぎに行っても今は不況で職がない。そもそも出版業界の人々はもともと東京周辺に住んでいるから、上京しようとすれば一旦田舎へ行ってからもう一度出直す必要がある。逆Uターンだ。「U」の字が逆さになると「ターンU」だから、ターンUターンとなる。ちなみに「∪」は集合論や論理学で使われる記号だ。意味は……忘れた。
 閑話休題。ともあれ今出版業界は困っている。どうにかならないものか。マンガたちは反対声明を出した。でもそれで新古書店の隆盛に歯止めがかかったという話は聞かない。このままでは出版業界は衰退し、本が出なくなり、結局は新古書店自体も成り立たなくなるだろう、という人もいる。この意見には疑問もあるのだが、それはともかくこの程度の警告で商売をやめる新古書店経営者はいないだろう。その時はその時、別の業種に鞍替えすればいいのであって、今撤退する必要はないからだ。消費者一人一人に訴えても、新古書店業界に自粛を求めてもあまり効果はない。そうすると出版業界が取るべき手段は……法規制だ。
 現行法規で新古書店を取り締まることは無理だろうから、出版文化の意義と現状の危機を訴えて新法制定を求めるしかない。その過程で新古書店側と協議をし、法制定要求を取り下げるかわりに業界間での自主ルールを制定するという方向に持っていく方法もある。では(法律にせよ、取り決めにせよ)どのような内容の規則にすればいいのだろうか? これがなかなか難しい。
 理想をいえば、古本を一冊売るごとにその売り上げの中から著者や出版社の取り分を控除するのが公平で文句が出にくい方法だ。だが、これは実際的ではない。古本もバーコード管理をすれば理論上は可能かもしれないが、そのための設備投資費用を誰が負担するのか、とか、売り上げデータの改竄を防ぐためのチェックの方法とか問題が大きい。
 では、一冊ずつの集計を諦めて、総売上をもとに控除をするのはどうか? これならできないことはないかもしれない。納税時に一定額を出版業界への還元金として同時に支払うことにすれば手間はかからない。税務署は余計な仕事が増えて嫌がるだろうけど。ただ、この場合の問題は、そうやって支払われた金をどのように出版業界内部で分配するか、ということだ。新刊書店での売り上げデータに基づいて按分するとか、標本調査するとか、いろいろ方法はあるだろうが、誰もが納得する公平な分配方法は考えにくい。
 と、これまでに何度となく議論され尽くされた話題を思い浮かべながら、この文章を書いていたのだが、ここで一つのアイディアを思い浮かべた。といっても大したことではない。デポジットだ。たとえば定価500円の本なら、そこに保証金とか預り金とか適当な名目をつけて100円ほど上乗せしておく。その金は書店から取次を通じて出版社に流れる。
 本を読み終えて、引き続き手元に持っておきたいと思ったら、保証金の100円は諦めなければならない。が、もう処分してもいいと思ったら、古本屋ではなく新刊書店にそれを持っていく。すると保証金100円を返金してもらえる。本屋のほうは取次を通じて出版社に返本し、保証金分を請求すればよい。
 では、出版社に戻された本はどうするのか。状態がよければもう一度出荷してもいい。これが本当の再販制だ。新刊書として売るのが難しいと思ったなら、焚き火にくべて焼き芋を食べる、とかちり紙交換で持っていってもらう、という手もある。それでもダメなら、ブックオフに引き取ってもらうことにしよう。……って、あかんやん。
 結局堂々巡りになってしまうことが判明した。というか書く前からわかっていたことだが。実際問題として業界間の取り決めも法規制も難しいだろうし、出版社にできることといえば本の単価を上げて売り上げ減少分を補填する程度だろう。本の値段が上がってしまうと読書家にとっては辛いだろうが、これも出版文化を守るためだから我慢しなければならない。どうしても高い本が嫌なら、ブックオフで買うという方法もあることだし。

 おまけ
 稀覯本を安く入手したときに、それを自慢したくなる気持ちはわかる。だが、現役本をブックオフの100円均一コーナーで見つけて買ったところで自慢にもなんにもならないと思うのだが、如何?

 「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」、今日は昨日の続きで『平均律クラヴィーア曲集 第1巻』の残りを聴いた。明日と明後日は第2巻を聴くことになる。ところで、昨日初めて知ったのだが、『平均律クラヴィーア曲集 』と同じく24の前奏曲とフーガを作曲した原博氏が今年2月に亡くなっていた。ご冥福をお祈りしたい。