1.0226〜1.0227 日々の憂鬱〜2002年4月第5週〜


1.10226(2002/04/29) この見出しは内容と無関係

 昨日、ようやく『暗いところで待ち合わせ』(乙一/幻冬舎文庫)を読み終えた。この薄い本一冊を読むのに約一週間かかっている。読書スピードの遅さにため息が出る。
 さて、この本の感想文を書くのは難しい。なぜ難しいのかは読んだ人には明らかだろう。そして、未読の人には説明するわけにはいかない。というわけで、以下の文章はすでにこの小説を読んだ人のみを対象とする。

 乙一の小説の多くはミステリ的な"意外な結末"を備えている。しかしミステリ的な"謎の提示"はほとんどないと言ってもよい。そこで読者は特にどんでん返しのないふつうの小説だと思って読み進めてゆき、最後の最後であっと驚かされることになる。とはいえ、このような構成の小説をいくつも読んでいると読者の側にも慣れが生じ、小説に仕掛けがあるということを前提として読むことになる。そうなると、ふつうのミステリを読んでいるのとあまり違いはないわけで、"意外な結末"に驚くかどうかは、ただそれぞれの小説のトリックやミスディレクションなど、騙しの仕掛けがうまく機能しているかどうかによることになる。
 先日書いたように、私はかなり身構えてこの小説を読んだ。その結果、私の想像の範囲内の結末を迎えることとなった。また犯人の正体についても、アキヒロが犯人ではないことが明かされるのが比較的早かったためもう一度ひねりがあるだろうと予測し、カズエかハルミのどちからが犯人というところまで予想していた。そういうわけで結末は全然意外ではなかった。このように書くとこの小説が面白くなかったと言いたがっているようだが、そうではない。"意外な結末"を演出するために作者がさまざまな工夫を凝らしていることがわかり非常に楽しめた。ただしハルミに関するデータがもう少しほしかったと思う。
 これで感想の半分。あとの半分は、うまくまとまらないので書かない。本当はこちらのほうがメインなのだが、書けないものは書けないのだから仕方がない。
 書けないものは書けないのだが、「あとの半分」が何だったのかという程度なら書けることに気づいたので補足しておく。この小説の二人の主人公は若い男女である。片方が幽霊だとか、実は二人とも同じ人物だったとか、その種の妙な設定ではない。そうすると、どうしても恋愛の要素が入ってきてしまう。書かれていなくても読者の側で読み込んでしまう。その事に関する感想が「あとの半分」だった。

 三日間休んでいた「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」だが、その間に聴いたのは「鍵盤楽曲集(1700-1710年)」と題したCD3枚。3枚目に収録されている 「最愛の兄の旅立ちに寄せるカプリッチョ」以外は聴いたことのない曲ばかりだった。それに対して今日聴いた「イタリア協奏曲」「フランス風序曲」「半音階的幻想曲とフーガ」は有名曲なので、これまでに何度も聴いたことがある。
 ちょっと余談になるが、「協奏曲(コンチェルト)」という呼称について。初期バロック音楽で「コンチェルト」といえば器楽伴奏付きの声楽曲である。モンテヴェルディやシュッツにその作例がある。それがどういういきさつで純粋な器楽合奏曲の名前になったのかは知らないが、ともあれバッハの時代にはイタリアを中心に器楽コンチェルトが盛んに作られていた。バッハは当時の協奏曲様式(特にヴィヴァルディのヴァイオリン協奏曲)を研究し、鍵盤楽器独奏用に編曲しているが、さらにオリジナルの独奏用協奏曲である「イタリア協奏曲」を作曲した。では、この曲は本当に協奏曲なのだろうか? それとも「協奏曲」というタイトルがついた別のジャンルの音楽なのだろうか? 中学生の頃、私が初めて「イタリア協奏曲」を聴いたときに出くわしたこの問いは、言葉、概念、種、集合、対象、意味、イメージ、定義……これらの事柄について私が興味をもつきっかけの一つとなった。
 ついでに、同じ頃に私のものの見方考え方に大きな影響を与えた例をあと二つ挙げておく。一つは、学校の図書室で古い音楽の本を見たら、「ヘンデルの『田園交響曲』」という記述があって驚いた(『メサイア』の中の一曲だと書かれていたので、すぐにパストラーレ(田園曲)のことだと気づいたが)こと。もう一つは「ヴィオラ・ダ・ガンバ」という名前の楽器について「ヴァイオリン属(ヴィオラ・ダ・ブラッチョ)に対するヴィオール属の楽器の総称」という説明と「ヴィオール属の楽器のうち、バス・ヴィオールの別名」という説明があり、どちらの説明も間違っているわけではないと知ったこと。
 こうやって振り返ってみると、私は常軌を逸した中学生だったことがよくわかる。あれから気の遠くなるほどの年月が過ぎ、私はもはや常軌を逸した中学生ではなくなり、かといって常軌を逸した高校生でもなければ、常軌を逸した専門学校生でもなく、常軌を逸したただの老人になってしまったが、未だに言葉を巡る諸問題が頭を離れない。

1.10227(2002/04/30) 「本格」に関する3つの断片

 その1
 「平穏無事な日々を漂う」(4/26付)で「本格」と「本格ミステリ」の使い分けについて次のような説明がなされている。
「ハードボイルド」「ホラー」はその単語自体が「ミステリ」と結びついて語られる(実は違う気もする)が、「本格」は時に「ミステリ」と離れた部分で論じられることがある。……変かな。けれど「ミステリ」の部分を離れた「謎」「仕掛け」で「本格」を評価する人もいるから、だったら分けた方がわかりやすい。
 この文章を読んで、赤字で強調した箇所(原文では特に強調されているわけではない)の意味がつかみ取れなかった。「謎」や「仕掛け」というのは、まさにミステリの骨格をなす要素なので、「ミステリ」の部分を離れた「謎」「仕掛け」というものが理解できないのだ。
 その後、上の引用文の訂正版が5/1付でアップされている。「本格/ミステリ」の対比だったものが「本格/小説」の対比に変更されており、随分論旨が明確になっている。

 その2
 何度も述べているように、私は「本格ミステリ(本格探偵小説、本格推理小説)」という言葉は現在ではほとんど無意味ともいえるほど混乱した使われ方をしていると考えている。もはや多くの人々に受け入れられるような定義をこの語に与えることは不可能だ、と。だが、昔はそうではなかった。いつ頃までそうだったのかはわからないが、少なくとも江戸川乱歩が盛んに評論活動をしていた頃には、「本格探偵小説」という言葉は、曖昧で多義的な「探偵小説」を明晰化するために用いられていた。空想科学小説や怪奇幻想小説、あるいは情痴小説(!)までをも「探偵小説」の名のもとに一くくりにする風潮に対し、「本格」という冠によって"本来の意味での探偵小説"、"狭義の探偵小説"を明示し、その他の「探偵小説」(いわゆる「変格探偵小説」)と区別しようという意図があったものと思われる。
 おそらく当時の人々にとって、「本格」を「探偵小説」から切り離して論じるなどというのは思いもよらないことだっただろう。

 その3
 『幻影城』冒頭の有名な「探偵小説の定義と類別」からの引用。
探偵小説とは、主として犯罪に関する難解な秘密が、論理的に、徐々に解かれて行く径路の面白さを主眼とする文学である。
 これが「本格探偵小説」の定義だ、と言い切ってしまうことができれば楽だ。だが、そういうわけにはいかない。ここで乱歩が定義しているのはあくまでも「探偵小説」であり、「本格探偵小説」ではない。上に引用した定義に続く逐字解説のなかで乱歩は
又、アメリカのハードボイルドの作風は、行動的で論理性が乏しいけれども、いくらかの謎解き論理は含まれているので、その限りに於いて探偵小説の条件を充たしていると云ってよい。
と述べている。さらにアイルズの『殺意』にも言及し、「倒叙探偵小説」に属すると書いている。乱歩は「本格探偵小説」を定義してはいない。それどころか、この論文の中では「本格探偵小説」という言葉は一度も使っていない

 この後、さらに『幻影城』に踏み込んで、「純探偵小説」と「本格探偵小説」の関係について考察してみたいと考えていたのだが……時間切れ。また、その1〜3は互いに無関係ではないのだが、うまく繋げることができなかった。残念だが、生きていればもう一度くらいチャンスはあるだろう。(そのチャンスは翌日訪れた)

 2002年4月3日から「一日一枚バッハ全曲聴破マラソン」、今日は「ゴルトベルク変奏曲」だ。不眠症の貴族のために作曲した催眠音楽だという伝説があるが、もしこれが事実だとすればつまらない演奏のほうが作曲意図に適うということになる。今回聴いたCDの演奏は可もなく不可もない。一度、キース・ジャレット盤を聴いてみたいと思いつつ、なかなか入手できないでいる。