1.10130〜1.10134 日々の憂鬱〜2002年1月第5週〜


1.10130(2002/01/28) ぎくしゃく

 世の中には、何がいけないのかはうまく説明できなくて、そもそも「いけない」のかどうかさえわからないけれど、なんとなくざらついた印象を受けて不快になる事柄がある。そんな事を思ったのは、本屋で『黒いトランク』(鮎川哲也/創元推理文庫)を手にとった時だった。
 表紙に「Inspector Onitsura's Own Case」と書いてある。扉の裏(というのが正確なのかどうか不勉強にして知らない。要するに目次の前のページのこと)にも同じこと(ただしそちらはすべて大文字で「INSPECTOR ONITSURA'S OWN CASE」)を書いてあるから、これは英題のつもりだろう。創元推理文庫は日本人の作品でも必ず英題をつけているらしいので、特に『黒いトランク』だけの話ではないのだけど、なぜかぎくしゃくしたものを感じた。
 本当のことをいえば、日本人作家の作品に英題をつけること自体が気に入らない。かつて本多勝一の愛読者だった身としては、このような行いは「家畜的」だとさえ思う。主に英米作品を扱う文庫だから体裁を揃えるために英題をつける、というなら、フランスものにも英題をつけるべきだろう。本来、原題を書くべき場所に「THE SERCRET OF YELLOW ROOM」などと書くことの滑稽さを考えれば、日本ものに英題をつけることの愚劣は推して知れよう。もっとも、これはウェブサイトのタイトルに意味もなく「spring point」などという語句を用いている人間の言うことではない。そういうわけで、この点についてはあまり深く追及はしない。
 だが、「INSPECTOR ONITSURA'S OWN CASE」はまずいだろうと思う。仮に創元推理文庫版を底本として『黒いトランク』が英訳されるとして、タイトルが『THE BLACK TRUNK −INSPECTOR ONITSURA'S OWN CASE−』とされてしまうことは十分に考えられる。いや、そんな架空の話を持ち出す必要はない。問題は、これが事実上の副題になってしまっているということにある。編集サイドで本のタイトルを変更するというのはよくある話だが、『りら荘事件』が『リラ荘殺人事件』になるのとは、ちょっと訳が違う。発表後半世紀近くを経て歴史的名作として評価も定まっている『黒いトランク』にどうして今さら「INSPECTOR ONITSURA'S OWN CASE」などという余計な付け足しが必要なのだろうか?
 そんな事を考えながら巻末の解説鼎談(有栖川有栖/北村薫/戸川安宣)を読んだ。ますます気分がざらつく。「綿密な校訂による決定版!」の内実がここに書かれているとおりだとすれば、単なるつぎはぎではないか。「決定版」と銘打つからには、諸版の異同を列挙するくらいのことはしてほしいものだ。文庫版という体裁にはそぐわないにしても。
 こんな文句を言ってしまうのも、今月光文社文庫から『黒いトランク』が出たことの影響が大きい。どうしても比べずにはいられない、というのは私に限ったことではないだろう。私は本文まで読み比べるつもりはない(もし読み比べるとすれば光文社文庫版と角川文庫版でやってみたいが……残念ながら人生は短い)が、付録の「創作ノート」(光文社文庫版では「黒いトランク」)を見比べてみると、創元推理文庫版では冒頭の「つぎの」の三文字が削除されていることに気づいた。これは、どちらのほうがいいのか判断に迷うところだ。「創作ノート」から『黒いトランク』に関する部分を抜き出したものだから、「つぎの」という語句は意味を失っているし、「創作ノート」の小見出しである「黒いトランク」をそのままタイトルとして用いるのは本全体のタイトルが『黒いトランク』であることを考えれば不自然だともいえる。そう考えれば創元推理文庫版のほうが読者に対して親切だといえる。が、資料的価値を考えれば光文社文庫版の愚直なやり方のほうがいいのかもしれない。いずれにしても、大した問題ではないけれど。

 「よほどの付加価値がないと買わないつもり」と書いたくせに、結局買ってしまった。私は意志が弱い。

1.10131(2002/01/29) ネタがないのもネタのうち

 テキストサイトではよくネタがないことをネタにする。「たそがれSpringPoint」でもネタがないことをネタにする。故に、「たそがれSpringPoint」はテキストサイトである。
 いきなり誤謬推理から話を始めて、強引にテキストサイトの話へと持っていく。
 私のお気に入りサイトの一つでもある某大手テキストサイト(ここでは仮に「金魚の寝言」と呼んでおく)が最近迷走している。サイトを開設したのはたぶん私と同じ頃(なのに、このアクセス数の差はいったい……)だと思うが、ここに来て深刻なネタ切れに悩んでいるようだ。以前はさまざまなジャンルの話題を惜しげもなく提供して読者を楽しませていたが、最近は生彩を欠いている。テキストサイトが一度は通る道だ。
 ふつうのテキストサイトなら弱音を吐いて「ネタがない〜」と言うところだ(そして「たそがれSpringPoint」では始終そんな事を書いている。故に、「たそがれSpringPoint」はふつうのテキストサイトだ……というのも誤謬推理)が「金魚の寝言」の管理人はそのように安直なサイト運営をよしとしない。そんなストイックな態度が「金魚の寝言」を大手サイトの地位に押し上げた一つの理由だ。「金魚の寝言」は行き詰まりを打破するために新機軸を模索している……というふうに見える。
 だが、日々の更新に追われるあまり、本に書いてあるエピソードを十分に咀嚼せずにそのまま提示しているのは見ていてつらい。たまたま私はそのネタ本を読んだことがあるので、「金魚の寝言」の管理人の苦渋が手にとるようにわかる。単なる偶然の一致? いやいや、「金魚の寝言」の管理人はたぶん根が生真面目なのだろう、参考文献としてその本のタイトルをちゃんと挙げている。もっとも、その本はちょっと特殊なジャンルに属しており、さほど売れているわけではない(が、そのジャンルではよく引用・参照されているので、名著と言っていいだろう)。そのせいか、他のサイトではっきりとネタ本の存在を指摘したところはないようだ。
 「金魚の寝言」がこのままネタ本に振り回され続けるのか、それとも立ち直って再び自分の言葉で語るようになるのか。愛読者としては、再起することを祈りたい。

 さて、今日読んだ本の紹介をしておく。『ラーメンの誕生』(岡田哲/ちくま新書)だ。名著の誉れ高い『とんかつの誕生』(講談社メチエ)の著者が今度はラーメンについて大いに語る、というだけでわくわくしてくる人も多いだろう。私は『とんかつの誕生』をまだ読んでいないのでちょっと迷ったのだが、向こうは選書、こちらは新書、値段がかなり違うので、まずは手近な本から読むことにした。
 日本で最初にラーメンを食べたのは水戸黄門である、という話は今さら紹介するのが恥ずかしいほどよく知られている。たぶん「『オランウータン』はインドネシアの現地語で『森の人』の意味」とか「JRには『柏原』駅が三箇所にあるが、すべて読みが異なっている」というネタと同じくらいには有名だろう。だが、本当のところはどうなのか? 歴史上の有名人が意外な方面でも名を残している、というのは話としては面白いが、本当に水戸黄門はラーメンを食べたことがあるのか? その答えは本書を読めばわかる。
 タイトルが『ラーメンの誕生』だけに、ラーメン前史と成立期に重点がおかれており、昭和後期から現在に至るラーメン文化の繁栄についてはそれほど詳しい記述があるわけではない。その点で物足りなさを感じる人もあるだろうが、最近のラーメン事情についてはほかにいくらでも詳しい解説書があるのだから、そちらを読めばいいだけの話。
 本当はもう少しこの本について語りたいが、いずれこそっとネタ本に使うつもりなので、今日のところはこれでやめておこう。

 「話のネタにするための読書」から「コミュニケーションツールとしての趣味」とか「連帯感の幻想を味わうためのキャラ萌え」とか、そっち方面に話を持っていくこともできるのだが、面倒だからやらない。勘のいい人なら、これだけで私が考えている議論の流れがわかるだろうし、私よりもうまく話を展開することができる人がいるだろう。そのかわり、というわけではないが、今日の締めくくりは先日のなぞなぞについて。私自身の解答はここで書いたとおりだが、「瑞澤私設図書館」の1/27付の日記で別解が提示されている。(リンクを外したので、その別解を書いておく。俳句の季語で「冬」の次は「新年」だそうだ)私にとって全く予想外の答えだった。探せばまだほかに答えがあるかもしれない。この世は一問一答式ではないのだから。
 とはいえ、「雪が溶けるとどうなりますか?」に「春になる」と答えるのは、ちょっとねぇ……。

(追記)
 らじ氏(「求道の果て」管理人)から指摘があり、「氷」を「雪」に(ついでに「解ける」を「溶ける」に)訂正した。元ネタは「天声人語」だったと思うが確認できなかった。

1.10132(2002/01/30) もはや水曜日は存在しない

 もはや水曜日は存在しない。これは誰もが認めることである。かつて誰もが体験したあの感覚、水曜日だけがもつ独特な雰囲気はいまや望むべくもない。水曜日は永久にわれわれの前から姿を消した。あとに残されたのは、ただの空白の曜日、火曜日と木曜日に挟まれ辛うじて一週間の曜日の中に留まっているだけの、のっぺらぼうの一日である。
 この現実に耐えられない人は言う。「水曜日は消え去ったわけではない。ただ、変容しただけだ」と。だが、このような意見はとうてい受け入れられるものではない。たとえば、氷雨の降る金曜の夜が人々に与える印象、月曜の朝のけだるい鶏の鳴き声が生み出す情感、それらに類似したものが火曜日と木曜日の間の日にあるだろうか? ありはしない。水曜日を水曜日たらしめる本質的な要素がすっぽりと抜け落ちてしまった今、ただ「水曜日」という語だけにしがみついても、何の益もあるまい。
 また別の人は言う。「水曜日が存在しないのは、今に始まったことがない。昔から水曜日は遍在したわけではないのだから。火曜日の終わりと同時に生成し、木曜日の訪れとともに消滅する。これが水曜日のあり方である」と。よって、このような人にとっては「"もはや"水曜日は存在しない」という言い回しは誤解のもとであるに過ぎない。しかし、そうではないのだ。七つの曜日が順繰りに現れ、去ってゆく、という果てることのない運動に綻びが生じたことが問題なのだ。もはや水曜日が存在しないということは、もはや1685年が存在しないというような些末な事実とは根本的に異なるのだ。
 われわれは妄言を退けなければならない。水曜日がなくなり、ぽっかりと空虚な一日が取り残されたことを真摯に受け止めるべきだ。なるほど、火曜日と木曜日を繋ぐ架け橋があるうちは、あたかも水曜日が現存するかのように振る舞うこともできよう。だが、水曜日に起こったことが他の曜日には波及しないという保証がどこにあろう?
 危機は間近に迫っている。いずれ日曜日が欠け、金曜日が絶え、月曜日が廃れ、土曜日が滅び、木曜日が潰え、火曜日が消える。その時、われわれはいかにして現行の暦を維持できるのか(あるいは暦の解体再編成を迫られるのか)を今こそ考えなければならない。これは至上命令であり、他のすべての課題を凌ぐ。
 繰り返す。これは至上命令であり、他のすべての課題を凌ぐ。

1.10133(2002/01/30) 無断転載

 行きつけの某サイト(リンク禁止になっているので残念ながらURIはここに書くことができない)で「本好きへの100の質問」に回答していた。最初と最後の分を転載してみる。

001. 本が好きな理由を教えてください。
好きってわけではなく、なんとなく呼吸したり飯食うのと同じ感覚なだけ。

100. つまるところ、あなたにとって本とは。
朝になると起こしに来る幼馴染みたいなやつ。

 そこはかとなく面白い。いや、「だから、どうなの?」と訊かれても答えられないけれど……。

1.10134(2002/01/31) カノンは追いかけ、フーガは逃げる

 昔、某掲示板で見出しに掲げたフレーズを見たことがある。カノンもフーガも楽曲の形式だが、前者は日本語で「追走曲」、後者は「遁走曲」と呼ぶのだそうだ。別にカノンが「遁走曲」でフーガが「追走曲」であっても構わないと思うのだが。ロンドが「輪舞曲」、ワルツが「円舞曲」というのも、字面の意味からすればどっちでもいいように思う。でも、いちおう定着している訳語なので、今さら異を唱えることもないだろう。

 今日、『動物化するポストモダン−オタクから見た日本社会−』(東浩紀/講談社現代新書)を読み終えた。読み始めたのが昨日なので、二日で読んだことになる。これは読んでいる人が多そうなので、内容紹介は省略。ついでに感想も省略。

 おお、終わってしまった。じゃ、また明日。