【日々の憂鬱】牛丼出さずにビーフカレーでごまかすのはいかがなものか。【2004年9月上旬】


1.11162(2004/09/02) 祝! 「文化遺産オンライン」更新

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0409a.html#p040902a

ここしばらく低調だ。先週、『Rance VI ―ゼス崩壊―』(アリスソフト)を始めたらやたらと時間を食ってしまったからだ。セーブ画面でゲーム進行度を確認できるのだが、まだ1/4くらいしか達成していないようだ。この種のゲームはあまり間を置いてのんびりやっていると、伏線を忘れてしまって攻略に行き詰まってしまうことがあるので集中して取り組んでいる。しかし、このままサイトをほったらかしにするのもどうかと思い、今日は休むことにした。で、こうやって久々に文章を書いている。

さて、何の話をしようか。

上記の事情により、いま私はほとんど本を読んでいない。いちばん最近読んだのは『涼宮ハルヒの憂鬱』(1)(漫画・みずのまこと/原作・谷川流/キャラクター原案・いとうのいぢ)だ。これ、どうしようか迷ったのだが、雑誌連載では全く読んでいないし、最初の一冊くらいは試しに買ってみてもいいか、と思って手を出した。原作を超える出来になっているのでは、という期待があったわけではなかったので、読んで不満を感じることもなかったのだが、原作ファンに特にお薦めすることもないし、原作も読んでいない人には「活字に抵抗がなければ、まずは小説版かにどうぞ」と言うのが筋だろう。そういうわけで、つい先ほどまでは無視するつもりでいた。

が。

助詞一つで改行した(残念ながら格助詞ではなくて、接続助詞だ)。

まいじゃー推進委員会!のトップページの「9月発売の注目まいじゃー」の欄に『涼宮ハルヒの憂鬱』マンガ版が紹介されていて、その横に次のようなコメントが付されているのを見て、気分が変わった。

←えーハルヒ漫画版は未読=期待リンク。数日して消えていたらお察しください(爆)

数日後にどうなっているのかをそっと見守るのが賢明な大人の態度なのだろうが、私は性根がひん曲がっているので、あえてこの一文を晒した上で、感想を書いてみようと思い立ったのである。はっはっは。

まず、絵柄から。小説版のイラストとはかなり違っているのはカバーを見ただけでも見当がつくが、マンガ本篇を読むと違和感が増す。登場人物の顎がみな尖っていて、何となく絵が粗いような印象を受ける。小説版の挿絵もさほど繊細なものではないが、タッチが柔らかいのでマンガ版とはイメージが全然違うのだ。別人が描いているのだから全く同じというわけにはいかないだろうし、どうしても先に馴染んだ絵を尺度にして見てしまうので、あまり公平な判断はできないのだが、私はあまりマンガ版の絵が気に入らなかった。

次に、ストーリーについて。小説版では『憂鬱』一冊で完結しきっているのに続篇を書いているので、シリーズの流れが非常にぎくしゃくしたものになっている。そこで、マンガ版では人物紹介のあとは『退屈』のエピソードに移行している。最初から長期シリーズになることがわかっているのだから、これは当然の判断といえるだろう。今後オリジナルエピソードを交えていくのかどうか、興味がそそられる。最後は『憂鬱』288ページのエピソードできれいに締めてほしいところだが、果たしてうまく着地できるかどうか。

エピソードの配置の仕方はだいたいうまく行っているように思う。ただ、ハルヒ初登場の場面と、キョンを従えて活動する展開との間に飛躍があったのは残念だった。なぜハルヒがキョンを選んだのかがわからないのだ。小説版ではどうなっていたのか確認してみると、ハルヒの髪型のパターンにキョンが気づいて指摘するというエピソードがあった。このエピソードは絵になりそうで、よく考えるとなかなか絵にならない。というのは、ハルヒを観察する視点としてのキョンをマンガでは描くことができないからだ。だから、このエピソードを省略したのも仕方がないのだろう。

アレンジされたものに触れることでオリジナルの構造や特質が見えてくるということがよくある。たとえばバッハの「無伴奏ヴァイオリンのためのシャコンヌ」をピアノや室内楽、さらにはオーケストラ用に編曲したものを聴くと、原曲では隠れていた複数の声部の絡み合いがよくわかる。もっとも、私が今までに聴いた限りでは、「シャコンヌ」の編曲はみな原曲への註釈の域を出ていないように思われる。マンガ版『涼宮ハルヒの憂鬱』も「シャコンヌ」の編曲程度のものなのか、それとも「展覧会の絵」(ムソルグスキーの原曲よりもラヴェルのオーケストラ版のほうが知られている)レベルに達するのか、それは今後の展開次第だろう。

1.11163(2004/09/06) ムソグルスキー

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0409a.html#p040906a

また何日も間が空いてしまった。

ゲームにのめり込むと読書の時間もとれず、思考がまとまらなくなり、文章を書く気力もなくなってしまう。これがゲーム脳というものか。でももうどうでもいいや。

と、怠惰な日々を過ごしていたのだが、某書にて前回の記事で「ムソルグスキー」と書くべきところを「ムソグルスキー」と誤記しているという指摘があり、慌てて修正することにした。ひどく恥ずかしい間違いだ。

さらに恐ろしいことに、私はこれを単なる書き間違いだと断言できないでいる。指摘を受けて振り返ってみると、どうもずっと間違えていたようなのだ。たとえば、今年1月に書いた文章でも「ムソグルスキー」と誤記していた(リンク先は既に訂正済み)。

もちろん、「『展覧会の絵』の作曲者の名前は『ムソグルスキー』か、それとも『ムソルグスキー』か?」と問われれば、正しく答えることができるのだが、特に意識せずに言ったり書いたりしたときにはずっと「ムソグルスキー」だった可能性がある。今となっては確かめようもないのだが。

こんな事では他人の間違いをあげつらって、鬼の首でもとったかのように悦に入ることができない。困ったことだ。まあ、一晩経ったら今日のことなど忘れてしまうだろうけれど。


少し間が空いてしまったが、『萌えるミステリサイト管理人 もえかん(仮)』の感想文の続きを書くことにしよう。今日は「萌えミステリ往復書簡」(秋山真琴/雲上回廊:紅蓮魔/ウッドストック1979)を取り上げる。

これはもともとウェブで連載されていたものだが、紙媒体で読み返してみると、パソコン画面で読んだときよりも秋山、紅蓮魔両氏とも文章が硬いような感じがした。横書きと縦書きの違いもあるのかもしれないが。

内容については、私にはよくわからない事が多く、何とも言いようがない。定義の話をしているようだが、そもそも「定義」が定義されていないのでピンとこない。私の考えでは定義とはすぐれて言語的な活動(あるいはその活動の産物)であり、定義項はもとより被定義項も言語的な事柄に限られる。場合によっては準言語的存在者としての概念を被定義項とすることも考えられるだろう。しかし、言語や概念が適用されたり、それらによって指示言及されたりする対象を被定義項にするというのがどういうことなのか、私には全くわからない。なぜなら、定義によって関連づけられる定義項と被定義項の関係とは同値関係であり、言語(または概念)と言語外の事物との間には同値関係が成立しないからである。

そういうわけで、私にはこの往復書簡(のと特に後半)が一体どのような事柄について語っているのかが全くわからなかった。「萌え」あるいは「新本格」というの適用に関する議論なのか、それともそれらの語が適用される事象そのものの特質に関する議論だったのか?

1.11164(2004/09/09) 好きよ好きよも嫌のうち

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0409a.html#p040909a

明日からしばらく旅行に出るので更新を中断する……とわざわざ告知をするまでもなく、既に不定期更新モードに入っているのだが。いつになったら毎日更新できるようになるのかは不明だ。

旅行先は北海道だ。明日、飛行機で帯広へ行き、池田から北海道ちほく高原鉄道に乗って北見まで走り抜け、そこで一泊。翌日は札幌に出て、定山渓にある北海道秘宝館を訪問し、旭川まで戻って宿泊する。札幌で頃合いな宿がとれなかったからだ。そして日曜日の午後に特急「トワイライトエクスプレス」の乗車して月曜の昼に大阪着、という予定だ。台風とか地震とかテロなどにより予定が変更になる可能性もあるが、そんな事態が発生しないことを祈る。


旅行前に『萌えるミステリサイト管理人 もえかん(仮)』の感想文の続きをもう少し書いておく。目次掲載順でいけば、次は拙作「萌えの細道」となるので、感想というよりも自作解説になってしまう。

投稿時に俳句だと言い張ったが、読めばわかるとおり俳句というよりはむしろ川柳だ。もしかしたら季語が含まれているかもしれないが、それは単なる偶然に過ぎない。でも、いちおう春夏秋冬に新年をあわせだ全季節をカパーしているので、やっぱり俳句ということにしておこう。

ふだん、「たそがれSpringPoint」では解りにくいネタを平気で使っているが、『もえかん(仮)』を手に取った人がみな私のサイトを見ているとは限らないので、極力解りやすくしようと思った。ある知人から「レベル下げすぎ」と批判されたが、それはやむを得ない。高踏的でかつ親しみやすい作品が書ければ理想的なのだが、私にはそれだけの力量がない。

最初に思いついたのは夏の句で、次に秋の句が閃いた。秋の句のほうは俳句では字数が足りないのでいっそ短歌にしてしまおうかとも思ったが、結局字余りにした。この二つは自分でもわりと気に入っている。

残りの三つの句のうち冬の句と新年の句は苦し紛れにひねり出したもので、もう少し締切までに時間の余裕があれば別の句に差し替えていただろう。あまり出来はよくない。

そして、春の句だが、この着想は私のオリジナルではなく、どこかの匿名掲示板(2ちゃんねるではなかったと思う)の書き込みをもとにしている。それを五七五の形に纏める際に「中古ゲーム」ではどうしても字余りになってしまうので、二つに分けた。そして完成したのが、次の句である。

中古でも ゲームの中の キャラは処女

この句を詠んだときには全く念頭になかったのだが、後から考えると「中古女」という語を連想させるものになっていて、あまり気分がよくない。女性をモノ扱いしているからというよりも、この侮蔑語を発する場面を想像するとうんざりするからだ。

「中古女」というのは比較的最近うまれた言葉だと思うが、同種の表現は昔からある。以前、ある男性小説家が私生活でトラブルを起こした相手の女性小説家について「あの女は誰とでも寝る女だ」と悪態をついた。その時には私は「口の悪い人だ」としか思わなかったが、同じ作家が今度は仕事上のトラブルを起こした相手の女性編集者について「誰とでも寝る女」発言を繰り返したときには、ボキャブラリーの貧困さに呆れた。悪口を言われた女性作家や編集者の性生活について私は何も知らないのだが、少なくとも悪口を言った件の男性作家とは進んで同衾しなかっただろうと推測する。

なんだか全然関係のない話になってしまったが、もとより真面目に自作解説などする気はなかったので、これでいいのだ。

1.11165(2004/09/09) Metaphisical Fictionとしての『学校を出よう!』

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0409a.html#p040909b

今日は時間があまりないので、前触れなしに本題に入る。『学校を出よう!(5) NOT DEAD OR NOT ALIVE』(谷川流/電撃文庫)の感想文だ。なお、例によって作品の内容に触れる。核心部分は背景色と同化させておくが、スタイルシートの設定によっては丸見えになる。この文が見えている人は特に注意されたい。


巻末のあとがきで興味深いエピソードが紹介されている。作者が幼稚園児の時、友達の家のある団地へ行く途中にトンネルを通った。ところが数日後に友達にトンネルの話をすると、そんなトンネルはないという。そして、再び同じ道を通ると、そこは林の中の薄暗い道に過ぎず、トンネルはどこにもなかった、という話だ。

作者はこの怪奇現象について、3つの説を立てている。見間違えだったという説、夢を見ていたという説、一度目と二度目とでは別の道を通ったという説。この3つの説をことごく否定したのち、最後に持ち出すのは、トンネルの中で道を踏み外して別世界へと迷い込んだという説だ。この説を否定しないまま、あとがきは締めくくられている。だが、これはいくら何でも無茶な仮説だろう。もし、団地への通り道にトンネルがある世界からトンネルがない世界へと移動したとするなら、それはトンネルので起こった出来事ではあり得ないはずだから。

この現象にはいくつかの合理的な解決案が考えられるが、その中でもっとも自然なものは、かのSF作家アイザック・アシモフに由来する。すなわち、このエピソードは実話ではなくて、でっち上げだったというものだ。だが、これではあまり面白くない。もう少し捻って考えてみた。

たとえば、こんなのはどうだろうか。谷川氏は幼稚園児の頃、野球のボールだった。そして、氏が通り抜けたトンネルというのは、草野球の選手がボールを受け止め損ねた際に出現したものだった、という仮説である。野球のトンネルは一瞬の出来事だから、次に同じ場所を通ったときにトンネルがなくて当然だ。

だが、この仮説は、団地への行きと帰りに同じトンネルを通ったという記述により否定されるかもしれない。なぜなら、全く同じ選手が同じ場所で二度ボールを受け損ねたとしても、それぞれの場面で出現したトンネルは同一であるとは言い難いからだ。よって、この仮説は捨て去ることにしよう。

もう一つ思いついたのは、ある時点t(それはがいつかはわからないが、1970年生まれの谷川氏が幼稚園児の時なのだから、およそ30年前のことだろう)を境に、「トンネル」という語の意味に変化が生じたという可能性だ。t以前の「トンネル」はt以後の「トンネル」が適用される対象のほかに、団地への通り道の木立をも適用範囲に含んでいたとすれば、t以前にはそこにトンネルがあり、t以後にはトンネルがないという現象を難なく説明することができる。むろん、「トンネル」という語の意味変化と同時に「トンネルの壁」とか゜トンネルの不気味な雰囲気」とか「トンネルのひんやりとした空気」などの表現の意味も変化したのである。このように意味の変化が系統的に首尾よく為されたならば、我々は言葉の意味が変化したことに気づくことができない。従って、t以前にはトンネルがあったのにt以後にはトンネルがない、と認識することになる。

もっとも、トンネルの有無についての意見の不一致を説明するには、この仮説をもう少し洗練しなければならない。語「トンネル」の意味の違いが単に時点tのみに基づくのではなくて、その語を用いる人によって意味が違うという補助仮説を導入しなければならないのだ。だが、ここでは形式的厳密さにこだわるのは得策ではないだろう。今はただ、言語の意味の相違がときには世界の相貌の相違として現れることもあるということを確認しておくにとどめよう。


さて、例によって小説本文の粗筋などは省略するが、面白かった箇所をいくつか紹介してみよう。まず83ページ、宮野秀作と光明寺茉衣子の会話から。

「……おかしいですわ。班長の言葉は非常におかしさ満載です。死の反対は生でしょう。そのどちらでもないとはどういうことなのか、解るようにおっしゃってください」

「『どちらでもない』のではなく、『どちらかではないのではない』という状態だ。私の解釈ではそうなるのだ」

「どちらかではないのではない」という表現に出会うと、一瞬、頭の論理回路がショートしてしまう。ちょっと落ち着いて考えよう。

まず、選択肢は二つ。生と死だ。「生」も「死」も一語だが、文の省略と考えることができる。従って「どちらでもない(生でも死でもない)」を命題論理の記号で「〜P&〜Q」と書き表すことができる。次に「(生か死か)どちらかではない」を「〜(P∨Q)」と表すことにする。「どちらかではないのではない」は「どちらかではない」を否定しているから、「〜(〜(P∨Q))」ということになる。ところで「〜(P∨Q)」は「〜P&〜Q」と同値だから、「〜(〜(P∨Q))」は「〜(〜P&〜Q)」、すなわち「どちらでもないのではない」と言い換えることができる。より平たくいえば「生きてるか死んでるかどちらかだ」と言っていることになる。つまり、言い回しがややこしいだけで、ここで宮野は何ら奇矯な主張をしているわけではなく、ごく常識的なことを言っているにすぎない。

なお、この説明には少なくとも二つの問題点が含まれている。興味のある人は論理学の入門書をひもといて、「排他的(排反的)選言」及び「二重否定」について調べてみるといいだろう。


次は130ページの最後の行。引用するのが面倒になってきたので控えておくが、ここで宮野はウィリアム・アイリッシュの名作『幻の女』(改訳前の旧版)の冒頭の一文をもじっている。


極めつけ(?)は183ページから184ページにかけての、これまた宮野と茉衣子の会話。

「あの時点での状況はまだまだ流動的だった。死者どもが起きあがる確信は九割九分九厘に達していたが、それでは十全とは言えない。私は定かではない推測を得意げに語ったりはしないのだよ」

「嘘ばっかり。その言葉がすでに嘘にまみれているではないですか。エピメニデスのパラドックスをご存じ?」

「知ってはいるが、あいにくクレタ人に知り合いはいない。会ったこともない。よって彼の地の人々が嘘つき揃いかどうかは留保事項だ。現地取材が必要だな。うむ、海外旅行もよいものだぞ茉衣子くん。次の夏までにパスポートを用意しておくように」

「エピメニデスのパラドックス」について解説すると長くなるので省略する。気になる人はここを読めば、上で引用した会話の意味がわかるだろう。


印象に残った科白を紹介しただけで、ほとんど感想らしい感想を書いていないのはなぜかというと、まだ話が途中だからだ。二ヶ月連続発売だからたぶんそうだろうと予想はしていたが、いよいよ物語が佳境にさしかかったところで切れてしまっている。これではまとまった感想が書けない。

先月、『涼宮ハルヒの消失』の感想文を書いたとき、最後に次作の予想を書いておいた。もし外れていたら、あれは「ハルヒ」シリーズの次の作品の予想だったということにして言い訳しようと思っていたのだが、幸い当たっていたようだ(とはいえ、私が想像していたのとはかなり違った使い方なので、やっぱり外れたと考えるべきかもしれない)。

追記(2004/10/09)

この後に次巻の展開について予想を書いてあったのだが、大外れだったので削除した。

6巻の感想文を参照のこと。