【日々の憂鬱】狂犬病はいいのに狂牛病は駄目というのはいかがなものか。【2004年7月下旬】


1.11130(2004/07/21) 赤錆びた鉄路

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0407c.html#p040721a

越美北線が危ないらしい。先日の洪水で鉄橋がいくつも流されてしまい、復旧には莫大な費用がかかるので、このままずるずると廃止されてしまう公算が大きい。まだ決まったわけではないそうだが、「どうせ一日5往復程度の路線なのだから、このままバス転換しても……」と考えている人は多いことだろう。

しまった。油断していた。私はまだこの路線に乗っていない。

具体的な廃止日程が決まっている路線には極力乗ることにしているのだが、事故や災害がきっかけでそのまま廃止してしまう路線にまではなかなか手が回らない。思えば京福永平寺線のときもそうだった。一回目の事故のあと、すぐに乗りに行っておけばよかったのだが、今となっては後の祭りだ。

今夏、私は一畑電鉄に乗る予定だ。秋口には北海道ちほく高原鉄道にも乗る。あと、できれば年内に上田交通とのと鉄道にも乗りたいと思っている。だが、時間と金は無限にはないので、思っているだけに終わってしまうかもしれない。人生は短く、鉄道は長い。

ところで、6月末にさりげなく廃止になった路線があるらしい。らしい、というのは正式発表を確認していないからだ。知人からのメールで知ったのだが、阪和貨物線のサビ止め電車が6/30を最後に走らなくなったそうだ。

阪和貨物線というのは不幸な路線で、堺から泉州にかけての工業地帯と国鉄の鉄道貨物網を直結するという遠大な構想に基づいて建設されたものの、当初の目的を達成する前に鉄道貨物衰退の時代が来て、阪和線の定期貨物輸送が廃止されてからは、細々と団体臨時列車が運行されていた程度にまで落ちぶれてしまった。さらに、天王寺に阪和線と関西本線の連絡線が建設されると、臨時列車の本数もめっきりと減ってしまった。営業列車が全く走らない日のほうが多くなり、レールのメンテナンスのために無意味な回送列車だけが運行されていた。だが、その回送列車も走らなくなり、いまや線路に赤錆が浮いているらしい。

幸い、私は今年2月に阪和貨物線に乗っている。この後、旅客列車が運転されたという話を聞かないから、もしかしたら私は阪和貨物線の最後の乗客のうちの一人だったのかもしれない。

もちろん、これで阪和貨物線が消えてしまったわけではない。もしかしたら、大阪外環状線の一部として復活することがないとは言えないのだ。今はただ目を閉じて、阪和貨物線に乗車したときの追憶に浸ることにしようと思う。

1.11131(2004/07/22) 今日の散財

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0407c.html#p040722a

甲賀三郎の新刊が出ていたので、ついふらふらと買ってしまった。『裸の王様』(司書房)という本で、えっちなマンガだった。

どうやら、作者は木々高太郎と探偵小説論争をした人物とは同名異人のようだ。

1.11132(2004/07/23) 2004年の夏休み

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0407c.html#p040723a

今年は西暦2004年であり、1999年ではない。

いきなりこんな事を言っても信じては貰えないだろう。だが、これは紛れもない事実なのだ。今年は2004年である。20世紀はとうに過ぎ去り、いまや21世紀が到来しているのだ。

「何を馬鹿な事。今日の新聞を見てみろ。ちゃんと、1999年7月23日と書いているじゃないか」

あなたはそう言って反論するかもしれない。だが、その反論こそ私が待ちかまえていたものなのだ。

あなたの手許の新聞をよく見てほしい。「1999年」の後に括弧書きで「平成16年」と書かれてはいないだろうか? そう、元号でいえば、今年は平成16年だ。

では、思い出してみてほしい。平成元年は西暦何年だったのかを。昭和が終わり、平成が始まった年のことだ。当時ものごころがついていたあなたなら、きっと覚えているはずだ。そう、1989年だ。間違いないね?

さあ、計算してみてごらん。平成16年は確かに2004年になるだろう? なんなら対照表にしてみてもいい。

西暦平成
19891
19902
19913
19924
19935
19946
19957
19968
19979
199810
199911
200012
200113
200214
200315
200416

これで、今年が1999年ではないことがわかっただろう?

まだ納得できないだろうか? だったら、もう少し話を続けよう。

あなたはいわゆる「2000年問題」を覚えているだろう。コンピュータのプログラムが西暦を下二桁で処理する設定になっていたため、西暦2000年を1900年と誤認して予想もしない誤作動を起こすかもしれない、という問題だ。幸い、大事には至らずに済んだけれど、一時期は世界中で取り沙汰されて、2000年問題をテーマに扱った小説や映画もあったくらいだ。それが今からかれこれ5年くらい前のことだ。

さて、今年が1999年だとすると、ちょっとおかしな話になるのではないかね。我々は2000年問題を既に解決された過去の問題として記憶している。しかし、1999年時点から見れば、この問題はまさに今直面している問題ということになってしまうではないか。

もう一つ別の例を挙げよう。今年はオリンピック発祥の地アテネでオリンピックが開催されることになっている。ところで、オリンピックは西暦年を4で割って割り切れる年に開催されることは誰だって知っている。だが、1999は4で割り切れないはずだ。すると、オリンピックの開催周期が変わったのだろうか? そんな異例の事態が起こっているのではないことは、あなたも知っているはずだ。

まだ、いくらでも例を挙げることはできるが、これくらいでいいだろう。あなたは今、自分の認識に綻びがあることに気づいて混乱しているだろうから。でも、落ち着いて考えれば混乱を鎮めるのは簡単だ。今年が1999年であるという――全く根拠がないくせに執拗に迫ってくる――観念を振り捨てて、ありのままの事実を受け容れればいい。

あの年は既に過ぎ去った。件の「七の月」に空から大王が降ってくることはなかった。もちろん人類はまだ絶滅していない。国際テロや報復戦争など相変わらず愚行を繰り返してはいるけれど、それでもまだ人類は生き延びているのだ。不安の種は尽きず、時にはそれが具体的な恐怖として襲ってくることもある。だが、インチキ予言者の四行詩に怯える必要は全くない。それはもう過去のことなのだから。

去年のことを思い出してみよう。あなたは今年と同じように不安と恐怖におののいていた。しかし、7月が終わると、予言が外れたことに安心してほっと胸をなで下ろしたはずだ。その記憶は隠蔽され、今となってはおぼろげにしか思い出せないかもしれないが。

一昨年も同じだった。そして、その前の年も。あなたは「1999年」を繰り返し繰り返し体験してきた。そして、きっと来年も同じことだろう。新聞を開くと「1999年(平成17年)」という文字列が目に入り、あなたは予め定められた破滅の時が日に日に近づいていると思い込まされてしまうのだ。

残念ながら、私にはあなたを恐怖から完全に救い出すことはできない。私の説明がうまくあなたに伝わっているなら、今この瞬間だけ、あなたは今年が1999年ではないことを知っている。けれど、この文章を読み終えてしばらくすると、光明は勢いを失い、あなたの意識には靄がかかってくるだろう。おそらく明日には、あなたは再び1999年の暗闇に舞い戻っているに違いない。

もっとも明日は7月24日、「七の月」が終わるまであと一週間だ。この一週間を乗り越えれば、ひとまずあなたの日常は平穏を取り戻す。半年もすれば、また「七の月」の戦慄が忍び寄ってくるのだが。

願わくは、この文章が少しでも多くの人の目に触れんことを! そして、世界を1999年に足止めしようとする陰謀から解放され、平穏な夏休みを迎えんことを!

1.11133(2004/07/24) 君は知っているか、コミケカタログに『ハッとしてトリック!』の広告が掲載されているのを!

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0407c.html#p040724a

最近不調で本が読めない。いや、全然読めないわけではなく、ぼちぼちと読んではいるのだが、こう、何というか、ほら、身体の奥底から沸き上がってくる読書意欲といったものがなくて、何となく漫然と字面を追っているだけのことが多い。読むスピードは落ちるし、集中して読めないし、読んでも頭に入らないし、満足感もない。

今日は『インナーネットの香保里』(梶尾真治/講談社青い鳥文庫)を読んだ。子供向きの本なので苦労はしなかったが、感銘も少なかった。だが、この小説そのものがつまらないというよりも、私の感受性のほうに問題があるのだろう。私にとって久々の梶尾真治(『恐竜ラウレンティスの幻視』以来だ)だったのに十分楽しめなかったのは残念だった。


気分転換を兼ねて、久しぶりにテレビを見ることにした。NHK教育のETV特集「江戸川乱歩の幻」だ。何年か前に民放で乱歩特集を組んだとき、当時まだ存命だった渡辺啓助が出てきてびっくりしたが、今回はそれほどの大物(?)は出演していなかった。

戦時中に『芋虫』が削除させられたという事件を紹介する際に、乱歩自身には反戦の意図がなかったことをはっきりと説明していたのはよかった。別の番組(渡辺啓助が出演した番組だったかどうかは忘れた)では、乱歩がまるで平和主義の立場から戦争反対を訴えるために小説を書いたかのように歪曲していて、呆れたものだ。

ただ、この構成で一時間半は少し長かったように思う。

1.11134(2004/07/25) 『クリスチアナ・ブランドを読んだ男』を読んで叫んだのけもの

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0407c.html#p040725a

史上最高のミステリは何か?

初心者でも取っつきやすいかどうか、現在書店で簡単に入手できるかどうか、そんな顧慮を完全に取っ払って純粋に独断と偏見で選ぶとすれば、私の答えは一つに決まっている。『浦和が嗤う』(沼島りう)だ。

沼島りうという名前に馴染みのある人は少ないだろう。私も『浦和が嗤う』以外の作品を読んだことがない。沼島氏はこの一作だけしか書いていないわけではないようだが、他の作品は歴史の闇に消えてしまっている。

私は『浦和が嗤う』を『鮎川哲也と13の殺人列車』(鮎川哲也・編/立風ノベルス)で読み、非常に感心した。そして、ガチガチのハードパズラーに興味がありそうな人に出会うたびにこの本を押しつけて読ませているうちに、いつしか行方不明になってしまった。今から10年以上前に出た本なので、きっともう品切れになっているだろう。惜しいことをした。

そういうわけで、いま私の手許には『鮎川哲也と13の殺人列車』はなく、読み返すこともできない。だから再読して幻滅することもない。時間を経て美化された記憶を凌駕する読書体験はなかなか得られないので、もしかすると私のベストワンは一生『浦和が嗤う』かもしれない。

ところで、この『浦和が嗤う』がどういういきさつで世に出た作品なのかといえば――もしかすると記憶違いがあるかもしれないが、ご容赦願いたい――作者の沼島氏が北大ミス研に在籍している時に会誌に発表したものを、全ミス連(ここを参照のこと)を通じて交流のあった同志社ミス研の有栖川有栖が所持していて、鮎川哲也に見せたところ、感心してアンソロジーに収録することにしたらしい。名作であるが故に出るべくして世に出たと考えるべきか、たまたま見識のある人の目にとまったという僥倖の賜物と考えるべきか、今は判断を留保しておく。ともあれ、『浦和が嗤う』がミステリ愛好家必読の傑作であることは保証しよう。もっとも私はあなたがミステリ愛好家であることを保証はしないが。


さて、見出しに掲げた『クリスチアナ・ブランドを読んだ男』の話題に移ろう。この小説は立命館大学推理小説研究会会誌「青髭通信 No.71号」(「No.」と「号」が重複しているのではないかとも思うが、奥付の表記に従った。なお、「青髭通信」というのは通巻で呼ぶときの会誌名で、この号の表紙と目次には「Rit's Mystery Magazine」と書かれている)に掲載されたものだ。執筆時期の記載はないが、「青髭通信」のこの号が出たのは今年の6月なので、たぶんそう古い作品ではないと思う。作者は「ウィリアム・ブルテンJr.」なる人物だが、訳者の「H・T」氏によれば正体不明の人物であるらしい。

ところで、今回私が翻訳したウィリアム・ブルテンJr.とは何者であるか? ジュニアとつくから、ウィリアム・ブルテンの息子だろう、という推測はどうも外れらしい。出身地はアメリカのフロリダ州、生年月日不詳、現在の職業も不明、著作そのものすら、現段階でどのくらい書いているのか、日本ではまったく紹介されていない。翻訳を手掛けるのだから少しは知っておこうと私自らも若干の調査を行ったが、この作家についての情報は得られなかった。

かなり胡散臭い文章だが、作者の詮索をせずに早速、読んでみることにしよう。

舞台は英国トーリントン、時代はおそらく一九五〇年代。殺人事件がほとんど起こらず暇をもてあましているトーリントン署のミート警部に、部下のチャペル巡査がブランドを読むように勧める。「是非、ミート警部にも読んで頂きたいですね。トーリントンですよ、トーリントン。確かにコックリル警部は架空の人物でしかないかもしれませんが、赤の他人とも思えません。トーリントンが誇るエドワード・ミート名警部も、同僚に敬意を表する気分でお読みになっては如何でしょう」そしてトーリントンで一年ぶりに殺人事件が発生する。事件現場は半密室状態で、容疑者も限られている。一見単純な事件のようだが、にわか仕込み「クリスチアナ・ブランドを読んだ男」が捜査に乗り出すと、そこに驚くべき論理の迷宮が出現する……。

文体もブランドふう(というかブランドの邦訳ふう)だし、ミート警部の推理もコックリルばりだ。ちょっとモースが混じっているような気もするが。パロディ小説だと知って読めば、本当の犯人やトリックを言い当てるのはさほど難しくはないが、この小説のポイントはむしろ途中で提示される数多くの仮定上の犯人やトリックのほうにある。脳髄がぎりぎりと搾り取られるような、めくるめくハードパズラーの世界がそこに開けているのだ。

部分的にはいくつか難がないわけではない。たとえば、数少ない登場人物のうち明らかに被害者と関係があって殺意を抱いていてもおかしくはない人物が、ただアリバイが成立しているというだけの事実(それも軽く触れられるだけで詳細は不明のままだ)のみによって容疑者から除外され、執拗な推理の俎上に上ることがないのは不自然だ。ある事情により詳述するのが困難だったのはわかるのだが、他の人物とのバランスを考えると、ある程度の改めは必要だし、できればその人物を犯人に擬した仮説もほしいところだ。

もう一つ、これは必ずしも難点ではないかもしれないが、オチの付け方があまりブルテンっぽくない。最後の最後までブランド一色という印象を受けた。

もっとも、私の読み方はかなり偏っているので、今述べた感想についてもどの程度公正なものなのか自分でもよくわからない。ここは是非見識豊かなミステリ愛好家諸氏の意見を伺いたいところだが……。

「青髭通信」のこの号は二部構成になっており、第一部の「山口雅也読本〈完全版〉」には昨年、立命館ミス研が主催した講演会の筆記録が収録されているほか、会員諸氏による読みごたえのある全作品レビューが掲載されている。また第二部の「クリスチアナ・ブランド読本」にも詳細なレビューが掲載されている。巻末にはミステリファン界の重鎮、畸人郷会長の悪駆良人氏の特別寄稿エッセイまで収録されていて、興味が尽きない。山口雅也とブランドという取り合わせも単なるページ数合わせでないことは言うまでもないだろう。

興味のある向きには、できれば「青髭通信」をどうにかして入手してもらいたいのだが、そうは言っても部数の少ない同人誌だけに一般の人が入手するのは困難だろう。せめて『クリスチアナ・ブランドを読んだ男』だけでも何らかの形で一般公開すれば、日本中に確実に数百人はいると思われる熱烈なハードパズラーマニア(たとえば、謎の覆面作家永井坂奈先生とか)に受けると思うのだが……。第二の鮎川哲也、名伯楽の出現を切望する。

と、夢物語を語っても仕方がない。無名の人間の作品をアンソロジーに収録して広く世間に問う人は、滅多に現れるものではないし、仮に現れたところで昨今の出版業界を取り巻く情勢が許すかどうか。

それよりもむしろ私が願うべきことは、ウィリアム・ブルテンJr.氏のさらなる精進と飛躍のほうである。目指せ、第二の沼島りう! いや、それだとこのまま筆を折ってしまいそうだから、言い直そう。

目指せ、第二の大山誠一郎!

1.11135(2004/07/27) 酷暑箝口会

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0407c.html#p040727a

毎日どんどん本が増える。どうせ読めやしないのに。

今日、『二人のガスコン』(佐藤賢一/講談社文庫)を買ってきた。上中下巻の三冊で1200ページ近い長篇だ。ダルタニャンとシラノが活躍する話で、元版が出たときから気になっていたのだが、文庫化したのをきっかけに思い切って買うことにした。このまま積ん読本にしないように何とか頑張って読もうと思うが、他にも読みたい本や読みかけの本がいっぱいあるので、どうなることやら。

ところで、上巻のカバー裏の宣伝文に一人は誉れ高きかつての三銃士・ダルタニャン。もう一人はご存じ「鼻」のシラノ・ドゥ・ベルジュラック。と書かれていて、一度はそのまま読み過ごしたのだが、後から考えてみると少し引っかかる。ダルタニャンは三銃士の友人ではなかったろうか? それとも昭和の三大バカ査定のようなものなのだろうか?


本が読めないと言いつつ、『新本格魔法少女りすか』(西尾維新/講談社ノベルス)を読んだので、簡単に感想を書いておく。

これまで西尾維新はほとんどの作品で程度の差こそあれミステリ的な技巧や要素を用いてきたが、魔法少女物の本作も例外ではない。いや、魔法で何ができて何ができないかを予め丁寧に説明しているので、過去の作品以上にミステリらしさを感じた。

もっとも、強いてジャンル分けをすれば、『新本格魔法少女りすか』はミステリというよりは活劇小説(伝奇小説といってもいいのだが、何となく古めかしい「活劇小説」という言葉を使ってみたい)に属するだろう。敵がいて味方がいて、裏切りと信頼(と隠し味で恋愛)があり、冒険と対決、絶体絶命の危機と智恵の勝利がある。途中、いつもの西尾維新節(たとえば150ページ)も見られるが、全体としては比較的癖のない娯楽作品に仕上がっていると思う。どことなく奈須きのこに似ているような感じもした。

どこかの雑誌かムック本に掲載されたインタビュー記事か対談・鼎談の類(だと思うが、どこで読んだのかが思い出せない)で、デビュー当時の西尾維新は奈須きのこの存在を知らず、よって全く影響を受けていなかったというような事を語っていた。二年くらい前にはこの種の作品がまだ少なかったこともあって両者の類似性が目につき、てっきり影響関係があるものだと思っていたので、私はちょっと驚いた。今から思えば、二人の作風も文体もさほど似ているわけでもない。ただ、さすがに『新本格魔法少女りすか』を書いている頃には西尾維新も奈須きのこの作品に触れていただろうから、この作品にその影響が現れているのかもしれない。

西尾維新の小説は、モノローグが延々と執拗に続くものが多い。このせいで、物語の内容に比して小説の物理的な長さが異様なほど長くなる。要するに冗長になる。これは大きな欠点だと思うのだが、『新本格魔法少女りすか』の場合はモノローグがあまり長くなかったので辟易せずにすんだ。といっても、これは「西尾維新にしては」という修飾語句付きの感想だが。

ともあれ、読んでいる最中は楽しかったし、続篇が出れば読んでみたいとも思う。


『自己決定権は幻想である』(小松美彦/洋泉社新書y)を読んだ。こんな挑発的なタイトルはあまり好きではないが、このタイトルだからこそ手にとってみたので、あまり文句はいえない。

この本のタイトルを敷衍した文章があったので、引用してみよう。

何度も繰り返してきたように、自己決定権とは、個人主義を擬装しながら、実際には抽象化され、普遍化されることによって、いつでも国家共同体に転化・悪用されかねない危険性をもったものです。

その意味では、自己決定権を個々人の具体的な実存の側から見てみたら、そんなものは、はじめからないのだと極論してもいいような気がします。それをあるのだとなお言い募るのであれば、幻想としてあるのだと言うしかないと思うのです。

反国家主義を標榜する共同体主義者が読めば、「国家」と「共同体」をひっつけて一語にしてしまう乱暴さに憤慨するかもしれないし、私には(「個々人の具体的な実存」はともかく)「個々人の具体的な実存の」という視点自体が一種の幻想なのではないかという疑念がある。

筆者は生命倫理を専攻しているそうで、脳死臓器移植の問題を中心に話が進む。私にはあまり興味のない分野だし、どうも語り口が感情的であまり私の好みではない。

とはいえ、いろいろと考えさせられる点もあった。また、「地獄への道は、善意で敷き詰められている」という言葉(レーニン『何をなすべきか』)に出会えただけでも、この本を読んだ甲斐があった。いい言葉だ。座右の銘にしよう。

1.11136(2004/07/28) 牛魔王への道は失礼で敷き詰められている

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0407c.html#p040728a

私の部屋は足の踏み場もないほどに本が散らかっているのだが、昨日その一角を探ってみると『失礼文学∞号 くだん、やきいも、牛魔王伝説』(失礼文学会)という同人誌が出てきた。確か去年の冬コミで買った本だが、ずっと本の山に埋もれたままになっていたのだ。

奥付を見ると、発行日は2000年12月30日となっている。今から3年半前のことだ。『月姫』の初売りもこの日(またはその前日)だったはずだ。

失礼文学というのは前世紀末に主にインターネット上で流行したジャンルだそうだが、読解するにはある分野の特殊知識が必要であり、当時その分野のことを全く知らなかった私には十分な理解は不可能なのだが、字面を追うだけでもそこそこ楽しめた。

なかでも興味深かったのは、『失礼館殺人事件』(リエゾン団十郎)で、文体やペダントリーから察するに、作者はpuhipuhi氏ではないかと思う(違ったら失礼!)のだが、どうしてそれが興味深いかといえば、その中で「モンセラートの朱い本」に言及していたからである。

「モンセラートの朱い本」といえば古楽ファンなら知らぬ者がないほど有名な曲集で、私は「スペイン古楽集成」盤を愛聴している。「死の谷の聖十字架聖歌隊・児童合唱団」の中に物凄く色っぽい声のボーイソプラノがいて、官能的な歌声を聴かせてくれる。しかし、少年老いやすく、楽成りがたし。手持ちのCDには録音年代の記載がないのでよくわからないのだが、たぶん今から30年以上前に録音されたはずだから、件の歌声の主が今生きていれば中年のおっさんになっていることだろう。また、アトリウム・ムジケー古楽器合奏団を率いる"音楽界のサルバドール・ダリ"ことグレゴリオ・パニアグァも既にこの世の人ではない。ああ時間は何と残酷なことか!

……失礼文学の真髄とは全く何の関係もなく、つい追憶に浸ってしまった。何となく先を書き続ける気がしないので、今日はこれでおしまい。

1.11137(2004/07/31) 電子

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0407c.html#p040731a

私は電子メールが嫌いだ。電子レンジには憤りすら感じる。電子政府などもってのほかだ。

なぜ電子ばかり優遇するのか。電子などというものは、電流の向きに逆らって動く半端者に過ぎないというのに。それよりも陽子のほうが大事ではないのか? 中性子の立場はどうなる?


電子擁護派の人々は偏見に凝り固まっていて、他人の意見に謙虚に耳を傾けようとしない。傲慢にして不遜、まるで自らを不可謬の存在であるかのようにみなしている。

だが、彼らのアイデンティティは案外脆い。ただ電子のみに依存しているのだから。

言うまでもなく電子は目には見えないし、手で触ってみることもできない。そこが陽子と異なるところだ。私は陽子を通勤電車の中で毎日見かけている。触ると痴漢と間違われる恐れがあるので、まだ試みたことはないが。けれども、陽子はもちろん不可触ではない。

電子擁護派が反対派を口汚く罵り、時にはわざとらしく呆れたような表情を浮かべたり、同情しているかのようなふりをして見せるのは、すべて彼らの無意識の防御反応である。そう、彼らは怖いのだ。電子だけが唯一無二の存在ではないということを知らされ、電子がいかにちっぽけで無力なものであるかを実感させられるのが。


なるほど、電子は使いようによっては役に立つこともある(譲歩構文)。しかし、その効果が発揮されるのは、ごく限られた領域だけだ。電子が原子核のまわりをまわる速度は一定しているから、その回数を正確に数えることができれば時計代わりにはなる。だが、電子にはアラーム機能がないから、目覚まし時計としては全く使えない。

それなら腹時計のほうがまだましだ。

では、腹々時計は?


電子には電親がいる。電父と電母が。電父と電母にはそれぞれ電祖父母もいる。ただし一人っ子政策により電父と電母には兄弟姉妹はいない。もちろん電子自身も一人っ子だ。

電子は孤独だ。複数の電子がともにぐるぐると回っていても、全く無縁なのだ。仮に電子が疲れ果て、命尽きたとしても、誰も見取ってはくれない。

ああ、可哀想な電子!

1.11138(2004/07/31) 吸血詐欺の二類型について

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0407c.html#p040738b

近年、吸血鬼を巡る状況は非常に厳しいものになっている。従来は、吸血鬼と被吸血者の合意により自由に吸血行為が可能であったが、吸血後の処置を巡るトラブルが絶えないため、平成6年のいわゆる「吸血適正化三法」(一部の規定は翌平成7年から施行)に基づき、大幅な規制が実施されることになった。この法改正の結果、夜な夜な街中を徘徊する「生ける屍」(法律上の用語では「吸血行為に起因する死者及び半死者並びにその他の吸血鬼の活動に基づく疑似生命体であつて吸血能力を有せざる者のうち住民生活又は社会秩序に著しく悪影響を及ぼす虞がある別に政令で定める者」という長ったらしい表現になる)の数は激減したが、一部の悪徳吸血鬼は法の網をかいくぐり、詐欺的な手法により吸血を継続しているのが現状である。

違法吸血鬼の虞犯行為については、警察、保健所、日本赤十字社及び各都道府県公共嘱託吸血鬼協会が常に監視しているが、我々一般市民の普段の心がけも重要であることは言うまでもない。特にここ一、二年急増している「オレオレ吸血」と「架空吸血請求」という手口には注意が必要だ。とっさの気の迷いでこのような詐欺に引っかかることは、単にあなたの生命や人格に危険をもたらすだけでなく、第二、第三の被害の原因にもなりかねない(被害者が加害者に転化しうるという点で吸血犯罪は無限連鎖講に似ている)。

これらの手口については既にマスコミでも大々的に取り上げられているため、よく知っている人も多いだろうが、少しでも多くの人に憎むべき吸血詐欺について十分な正しい知識を知ってもらいため、あえて紹介しておくことにしよう。


このあと、「オレオレ吸血」と「架空吸血請求」の具体例をでっち上げておもしろおかしく書く予定だったが、どう捻っても読者の予想の範囲内にとどまることがわかり、嫌になったのでやめた。

興味のある人は適宜脳内補完していただきたい。

1.11139(2004/07/31) 黄色いケーキ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0407c.html#p040731c

「イエローケーキは洋菓子じゃない」

「じゃあ和菓子なの?」