【日々の憂鬱】何となくいかがなものか。【2004年7月中旬】


1.11124(2004/07/11) 北へ

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北に向かって旅に出ることにした。といっても、親愛なる領導者様のいる共和国ではなく、北海道だ。

北海道旅行の計画はこの頃から考えてはいたのだが、往復鉄道利用ではあまりにも時間がかかりすぎるため、片道は飛行機を使うことにした。

今回の旅行の主な目的は、北海道ちほく高原鉄道に乗ることだ。JR北海道はずっと前に全線完乗しているのだが、ちほく高原鉄道はまだ乗っていない。廃止される前にぜひ乗っておこう、というわけだ。

ちほく高原鉄道・ふるさと銀河線(旧国鉄池北線)は田と見を結ぶ営業キロ140.0kmの路線である。池田の最寄り空港はとかち帯広空港、北見の最寄り空港は女満別空港だが、どちらに行くにしても金がかかる。大阪発着の帯広便の運賃は通常期で39500円、女満別便だと41500円にもなる。「時は金なり」とはいうものの、さすがに正規運賃で飛行機に乗る気にはならない。そこでバーゲンセールを利用することにした。これだと両空港とも12000円で行ける。鉄道を利用した場合よりも安い。バーゲンセールには申し込みが殺到してすぐに売り切れることが多いそうだが、私は幸い9/10の大阪(関西)発帯広行きの航空券を入手することができた。

関西空港9時20分発のJAL2531便でとかち帯広空港に着き、そこからバスで帯広駅に向かう。時刻表を見ても詳しい時刻はわからないが、たぶん14時くらいには着くだろう。うまくいけば帯広13時54分発2551D列車に乗れるだろう。この列車は池田からちほく高原鉄道701D列車、快速「銀河」となる。もし帯広でこの列車に乗れなくても、14時11分発の特急「スーパーおおぞら5号」に乗れば、池田で「銀河」に乗り継ぐことができる。

「銀河」は北見に17時01分に到着する。北海道は日が沈むのが早いが、なんとか最後まで景色を見ることができるのではないかと思う。私はあまり車窓風景にこだわりはないが、たぶんちほく高原鉄道に乗る機会は今後二度とないので、できれば全線の風景を記憶に留めておきたい。

さて、そこから先はどうしたものか。夕方5時を過ぎたら観光施設はもう開いていないだろう。北見駅付近には5000円前後で泊まれるビジネスホテルが何軒かあるので、そこで一泊するのもいい。あるいは、もう少し鉄道に乗っておくか。18時08分発の特急「オホーツク8号」に乗れば、その日のうちに札幌に到着することも可能だ。

あるいは逆に網走まで行って、そこで22時20分発「オホーツク10号」で折り返し車中泊、という手もある。昔、貧乏旅行をしていた頃の私なら、間違いなく宿泊費を浮かせるために後者のルートを辿っていたことだろう。だが、私はとしをとり体力が衰えてきたので、座席車で一夜を明かすのには不安がある。かといって寝台車に乗ると、それだけでビジネスホテル一泊分くらいの金がかかってしまう。

ところで、今回の旅行の目的はもう一つある。それは、定山渓温泉にある北海道秘宝館を訪れることである。秘宝館は全国的に衰退しつつあり、北海道秘宝館もいつまで営業しているか知れないので、この機会に行っておきたい。ついでに温泉に入るのもいいかもしれない。

定山渓温泉で宿泊すると高くつくので、札幌市内のビジネスホテルに泊まるほうがいいだろう。さっさと9/11のトワイライトエクスプレスに乗って帰るという手もあるが、札幌発が14時05分なので、それまでに北海道秘宝館に行って戻ってくるのはきつそうだ。やはり、もう一日ほしい。しかし、うまく休みがとれるだろうか。それが心配だ。とれなかったら、北斗星に乗って東京回りで帰るか。う〜ん。

1.11125(2004/07/11) 『虎の牙』の感想

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光文社文庫版江戸川乱歩全集第15巻『三角館の恐怖』所収の『虎の牙』の感想。『青銅の魔人』の感想を書いたのは6/2だっので、一箇月以上も間があいてしまったことになる。その間、ほとんどライトノベルばかり読んでいたのだが、そろそろ飽きてきたので初心にかえることにした。

『虎の牙』は少年探偵団シリーズの一つで、今回の敵は魔法博士だ。『魔法博士』というそのままのタイトルの小説が別にあるが、まだ読んでいない(子供の頃に読んだかもしれないが、もう覚えていない)ので、関連はわからない。だが、『虎の牙』に登場する魔法博士とたぶん同一人物だろうと思う。

内容は例によっていつものアレなので特にどうということもないのだが、明智小五郎が魔法博士の正体を言い当てる場面には驚いた。ちょっと引用してみよう。たぶん未読の人の興を殺ぐことにはならないと思うが、いちおう一部伏せ字にしておく。それでも気になる人は以下の文章を読み飛ばしてほしい。なお、文中の強調箇所は原文では傍点である。

ああ、××××××。読者諸君は、この一しゅんかんを、どんなに待ちかねていたことでしょう。諸君はさいしょ魔法博士が野球をする少年たちの前にあらわれた時から、心の底に『××××××』の六字をえがいていましたね。魔法博士こそ××××××にちがいないと、ほとんど信じていましたね。そして、その真相がばくろするのを、いまかいまかと、待ちかまえていたのではありませんか。

見事な開き直りっぷりだ。大衆小説の勘所を知り尽くした乱歩ならではの大見得に感心してしまう。これはもう探偵小説というより時代劇に近い。水戸黄門の印籠や遠山の金さんの桜吹雪に通じるものがある。

……でも、私はやっぱりミステリのほうが好きだ。

ところで、作中で小林少年が自動車の助手に扮装する場面があって、そこに註釈(平山雄一)が付けられている。この小説の感想とは直接関係はないが紹介しておく。

チンピラ助手
かつて、自動車を運転する際には、運転手のほかに助手がいて、クランクでエンジンの始動を助けていた。また円タクの客引きもやっていた。運転席の隣を助手席というのはその名残である。

過去ログを探ってみると、「たそがれSpringPoint」開設直後にこんな文章を書いていた。そういうわけで、個人的には非常に興味深い。関心がない人にとってはどうでもいい話だけど。

1.11126(2004/07/12) 旅の始まりは個室寝台車

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最近、旅行の話題ばかりだ。これというのも、読書意欲が全くなくなってしまい、読書感想文が書けないからだ。私の興味にはムラがあって、ある一時期には特定の事ばかり目を向けたかと思うと、ある日突然急に関心がなくなって、何がどうでもいいという気分になる。そして、別の分野に気をとられるようになるのだ。

で、今日の話は見出しに掲げたとおりである。夏コミ旅行の往路に特急「サンライズ出雲」の個室B寝台を使うことにした。新幹線よりも高い。

本当はノビノビ座席(よく知らないがのびのびできる座席なのだろう)にしたかったのだが、「サンライズ出雲」「サンライズ瀬戸」とも満席になっていた。そこで、何となく寝台に乗ってみようと思ったわけだが、今から振り返ってみると、素直に翌日朝の新幹線にしておけばよかった。なんだかひどく損をしてしまったような気分だ。さらに、同じ個室B寝台でもソロではなくてシングルなので1050円も高い。ソロとシングルの違いはよくわからないのだが、値段が高いのは嫌なものだ。

で、せっかく高い金を払ったのに、乗る区間は大阪〜東京間で、乗車時間は約6時間半。非常にもったいない気がする。

こうやって書いているだけでだんだん気が滅入ってきた。誰か私にお金を下さい。そしたら気分も晴れることだろうから。

お金は偉大だ。お金は素晴らしい。お金さえあればたいていの事は可能だ。そう、たとえばハンバーガーとポテトとドリンクをそれぞれ単品で買うことすらできなくはないのだ。

1.11127(2004/07/13) 麦茶

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今日も恐ろしく暑いので、軽く雑文を書いてさっさと寝ることにする。

さて、麦茶だ。麦茶といえば麦でつくった茶だ。ん、本当か? あれは本当に茶の部類に入るのか?

昔、東京では麦茶のことを「麦湯」といったらしい。今でもいうのかもしれないが、実際の会話で聞いたことがないのでわからない。

「〜湯」という名の飲み物で私が真っ先に思いつくのは飴湯と生姜湯だ。飴湯を冷やせば冷やし飴になる。生姜湯を冷やしても冷やし生姜にはならないと思うが、それはきっと生姜湯を冷やして飲む風習がないからだろう。

でも、麦茶(麦湯)は冷やして飲むこともある。というか、熱いままで飲むことのほうが珍しいくらいだ。じゃあ、「冷やし麦」か? そういう言い方もあるのかもしれないが、私は知らない。なんとなく冷や麦のような感じがする。

ともあれ、飴湯も生姜湯も茶ではない。麦茶も別に茶葉を使っているのではないのだから、「麦湯」のほうが実情にあっているのかもしれない。逆に、茶葉を使っていなくても似たような色の飲み物は全部茶のうちに入るのだとすれば、肉桂水も茶の仲間に入れていいのではないか。ついでにココア(飲むチョコレート)のことを「カカオ茶」と呼ぶことにしてはどうか。

まだまだ話は続くが、だんだん嫌になってきたので、今日のところはこれでおしまい。次回はたぶんない。

1.11128(2004/07/15) あなたには明るい未来があり、私には昏い過去がある

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昨夜も暑く、今晩も暑い。

暑いと頭がうまく働かなくなる。そんな時には更新のネタがない。昨日はそれで「今日は更新のネタがない」とだけ書いて更新しようと思ったが、さすがにそれはどうかと思い直して、フリーセルをやりながらもうちょっとましなネタがないものか考えていたのだが、そうこうするうちに20連勝してしまい、自己最高記録を達成したことに満足して就寝した。

それから一夜明けても、やはりネタがない。二回続けて休んでしまうと、そのままずるずるとサイトを閉鎖してしまいそうな予感がして不安でならないため、無理矢理にでも更新しようと思い、こうやって駄文を連ねているのだが、それでもやっぱりネタがない。でも、本当に全くネタがないかといえばそういうわけでもなくて、あまりたいしたことがないネタでよければないわけでもない。で、背に腹はかえられないので今日はそのネタを書こうと思っていたのだが、ちょうど一つ前の文を書いている時にちょっと厄介な電話がかかってきて、それが存外に長引いて、結局2時間以上も話し込んでしまった。

すっかり夜が更けてしまった。もう何も書きたくない。

1.11129(2004/07/16) ミステリのルールに関する一つの考察

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見出しは偉そうだが、なかみは大したことはない。『ブロークン・フィスト 戦う少女と残酷な少年』(深見真/富士見ミステリー文庫)の感想文だ。

この作品は第1回富士見ヤングミステリー大賞受賞作で、奥付によれば平成14年1月30日に本が出ている。今から2年半前のことだ。それを今取り上げるのは、日刊海燕書評を読んで気になったからだ。その書評が発表されてから半月が過ぎてしまったが、これまでのびのびになっていたのには次の事情がある。

  1. 最初は海燕氏の書評に対するコメントを書くつもりだったが、折からのネットへの接続不良のせいで、アクセスできたりできなかったりして、思い立ったときに自由に当該記事を読み返すことができなかった。
  2. なんとか再度のアクセスに成功して書評をローカル環境に保存できたので、一旦コメントを書き始めたのだが、やはり言及されている当の作品を読まないことにはピントはずれでしまらない文章になることに気づいた。
  3. で、『ブロークン・フィスト 戦う少女と残酷な少年』を探したのだが、リニューアル前の富士見ミステリー文庫は徐々に淘汰されつつあって、この本もなかなか見つからず、入手するのに手間取った。
  4. ようやく本を買ったものの、先月の反動で読書意欲が大幅に低下していて、読むのにかなり時間を費やした。
  5. 読み終えて一息ついて考えてみると、この本の感想にせよ、海燕氏へのコメントにせよ、単純に割り切って書けるものではないことに気づき、かなり迷った。

実を言えば、未だにどういう切り口で書けばややこしい話を整理してわかりやすく書けるのかがわかっていない。だが、あまり時間を置きすぎると忘れてしまうので、見切り発車することにした。よって、以下の文章は論旨不明確でごたついたものになっているかもしれない。

また、どうしても内容に踏み入って説明する必要があるため、『ブロークン・フィスト 戦う少女と残酷な少年』をまだ読んでいない人の興を殺ぐおそれがある。というか、一発ネタの意外性で勝負している小説なので、これから私が行うネタばらしはほぼ致命的だ。海燕氏に倣い、核心の部分は背景色に同化させておくが、スタイルシートに対応していないブラウザなどでは丸見えになってしまう。よって、この小説を未読の人は決してこの先の文章を読んではならない


まず、海燕氏の書評から一部引用する。

本格推理とは基本的にあるルールのなかで行われる知的遊戯をえがく小説である。それは不可解な現象、ありえない事態、正体不明の犯人、それらの神秘的な謎(ミステリ)の解答が人間の推理によってあざやかに解き明かされるスリルを巡る物語、近代が生んだ理知の小説、それが本格推理なのだ。この精神を明文化したのが、有名な「ノックスの十戒」や「ヴァン・ダインの二十則」であり、じっさいにそれらが束縛の効果を持ったことはなかったにせよ、まともな推理作家なら読者がしらない情報を最後になって持ち出すことはしないのが常識である。

これは私にはしごくまっとうな見解のように思われる。ただ一つケチをつけるとするなら、「本格推理」という言葉を用いてしまっていることだろう。「本格」の名の下に、興味の焦点が異なるさまざまな種類のミステリが(ときにはミステリですらないものまでが)包摂される現状においては、いくら正論であっても万人に受け容れられるとは限らない。

この箇所について、コメント欄でツッコミが入っている。

# スズキトモユ 『あとは、ミステリ語る上で「ノックスの十戒」や「ヴァン・ダインの二十則」引き合いに出すのは現代の感覚ではギャグとしてしかやっちゃダメなんじゃないかと。だって、中国人ダメ、使用人ダメ、秘密結社ダメとかそんなのですよ。』

これはスズキトモユ氏にしては珍しく不用意な発言で、全く的外れである。というのも、上で引用した箇所で海燕氏は別に「十戒」や「二十則」を根拠にして『ブロークン』を批判しているのではないからだ。「十戒」「二十則」はミステリがルールの下で展開されるジャンルであるということの傍証として持ち出されているに過ぎない。従って、「十戒」「二十則」の具体的な内容のおかしさを指摘したところで意味はない。海燕氏にとって重要なのは、「十戒」「二十則」がミステリ作品及びミステリ作家に対する規範という形式をとっているということなのだから。

スズキトモユ氏のツッコミに対して、海燕氏は次のようにこたえる。

# kaien 『「ノックスの十戒」「ヴァン・ダインの二十則」については、もちろん現代の常識からみればばかばかしいものであるわけですが、とにかくミステリにはルールが必要なんだという思想を前提にして、そのルールを具体的に定めようとした試行錯誤の一例としてあげました。もちろんどんなルールでもそれを蹴り倒す傑作というものは生まれえるわけですが、そういった作品の特異性をあきらかにするためにも、読者と作者のあいだに共通認識を持っておくのは悪いことではないと思います。不磨の大典としてあがめるべきものでは、むろんありえないとしても。』

この説明は明解であり、ほぼ異論の余地はない……と言いたいが、外野のほうではスズキトモユ氏の正論に対する苦しい言い訳というふうに受け止めた人もいるようだ。もちろん、スズキトモユ氏本人はそんな事は言わないが。

# スズキトモユ 『いや、日刊海燕批判とか、そういう意図は毛頭ないんで、ただのツッコミです。「ミステリにはルールが必要」とかそれだけ書けばいいような気がするのにわざわざ「ノックス」なりなんなり引き合いに出しちゃうところが海燕さんの魅力であり同時に「本当にわかってるのかな?」とこちらを微妙な気分にさせるところでもあります。面白いからツッコミがあるんだと思いますよ。これからもどんどん続けてください。』

ギャグとしてしかやっちゃダメという強い表現から大幅にトーンダウンして、わざわざノックスの名前を引き合いに出したハッタリ臭さへの違和感の表明という程度に落ち着いている。

たかが読書感想文なのに「ミステリのルールに関する一つの考察」などという大げさな見出しをつける私が言うことではないかもしれないが、確かに海燕氏の書評は仰々しい。一つのミステリ作品に焦点をあてた文章というより、ミステリという特殊な文芸ジャンルの特質を解明する企ての一部として事例研究を行っているような、そんな印象すら受けた。もしそのような意図があるのだとすれば、「十戒」「二十則」を引き合いに出しても不自然ではないだろう。これらはミステリというジャンルがルールとともにあるということを示す傍証であるとともに、現代のライトノベルレーベルから出た作品ですらミステリである以上は過去の伝統と無縁ではない、という主張を読み込むことも可能である。もっともふだんの海燕氏はあまりジャンルを重視しない(たとえばこのあたりを参照されたい)ので、氏の文章にそのような意図があるとみなしていいものかどうか、多少疑問がある。


ちょっとこみ入ってきたので仕切直し。

件のコメント欄ではスズキトモユ氏はほかにも別の視点からツッコミを入れているし、それ以外にも複数の人が、どちらかといえば海燕氏の意見に対して批判的なコメントを寄せている。その中で、『ブロークン』評としては枝葉である「十戒」「二十則」関係の発言だけを抜き出したせいで、もとのやりとりのニュアンスを損なってしまったかもしれない。とはいえ、もちろん全文引用するわけにはいかないので、関心のある人は直接もとの記事(とコメント)を読んでもらいたい。

では、次に進む。


先に述べたとおり、私はミステリというジャンルに対する海燕氏の見解そのものには同意する。そこで、問題は『プロークン』がミステリのルールに基づいて評価されるべき小説なのかどうか、ということだ。単純に考えれば、富士見ヤングミステリー大賞受賞作で、かつ、富士見ミステリー文庫から出ているのだから、ミステリの基準で評価して何の不都合もないはずなのだが……「富士見ミステリアス文庫」(まいじゃー推進委員会!)にそのような常識は通用しない。海燕氏は、本格ミステリ作家クラブ会長有栖川有栖お墨付きという点がひっかかったようだが、『海のある奈良に死す』の作者が言うことをあまり気にしても仕方がない。

となると、やはり『ブロークン』そのものにあたってみるしかない。で、読んでみたのだが……。

  1. 小説の冒頭でいきなり密室殺人談義を行っており、ミステリ的な趣向に読者の注意を喚起している。
  2. 殺人事件が発生するまでの部分は、主に人間関係の紹介や事件の舞台についての説明など、謎解きを成立させるための手続きにあてられている。
  3. 殺人発生後は、密室状況と犯人の正体の謎を軸にしてストーリーが展開されている。
  4. 謎解きの場面に至っても、それまでのミステリ的な構成をあえて破綻させるような仕掛けはない。

従って、これは特に捻った裏読みをするまでもなくミステリとして読める。ミステリとして読めるものをミステリとして評価しても何の問題もないはずだ。むろん、「たかがライトノベルだから」とか「どうせ富士見だから」といって、あえてミステリとしての評価を避ける人がいても別に構わない。また、ミステリとしてのマイナス点を凌駕する美点があるので全体としては優れた小説である、と評価しても構わない。だが、この作品にはミステリの評価基準を適用すべきではない、とまで言ってしまうと言い過ぎだと思う。ミステリはミステリなのだし、仮にミステリ以外のものでもあるとしても、それでミステリでなくなるというわけではないのだから。

そういうわけで、早速『プロークン』がミステリとしてどのように評価できるのかを見てみることにしよう。


私は『ブロークン』を読む前に海燕氏の書評でカンニングをしてしまったので予断をもって読んだが、もしそうでなくても例の密室トリックが明かされたときに驚いたかどうかは疑問だ。『鉄拳チンミ』の通背拳は知っているので、もしかしたら絵解きの場面より前に気づいたかもしれないし、気づかなかったとしても真相が明かされた瞬間に前例を連想したことだろう。もちろん『鉄拳チンミ』はミステリではないから、そのネタをミステリに取り入れた独自性は認めてもいいかもしれない。だがスズキトモユ氏が言うように同様のトリックを用いた前例がミステリにあるのだとすれば、その分減点になる。

なぜ私が前例に拘るのかというと、このトリックが『プロークン』で生のまま用いられているからだ。調理の仕方に工夫があれば素材の素性まで詮索する必要はないのだが、生のまま出されたらどうしても気になってしまう。

ネタそのものが無茶なのは言わずもがな。そのまま使うとすれば、ギャグとしてしかやっちゃダメと言いたくなるほどだ。『鉄拳チンミ』では、「どうやったらこんな無茶なことができるのか」ということをあれこれ考える場面があるが、『ブロークン』には理屈も何もない。このネタを知らない人が読んでも「そりゃ無茶でしょう」で終わってしまうだろう。

たとえば、改造人間が手足の吸盤で天井に張り付いて保護色で身を隠す、というトリックがあるとしよう。「皆さんが密室の扉を破ったとき、犯人は実は天井に張り付いて息を潜めていたのです!」と言うだけではおさまらない。このトリックで読者を納得させるためには、少なくとも吸盤の強度と保護色のメカニズムについてある程度の科学的(あるいは疑似科学的)説明が必要となる。その種の手続きが『ブロークン』には欠けていたように思う。

さらに言えば、説明は解決場面の前に行っておくことが望ましい。今、「望ましい」と緩めて言ったが、読者を謎解きに参加させる(または謎解きに参加しているような気にさせる)ならほとんど必須と言ってもよい。たとえばカーの某長篇では、一般読者に馴染みのない医学知識をトリックに用いているのだが、解決の前にそのトリックに言及している。そんな事をしたら読者にばれてしまうだろう、と思うかもしれないが、巧みなミスディレクションを施しているので、なかなか気づかないようになっているのだ。

ミスディレクションといえば、トリックから目を逸らす以外にもさまざまな用途があるが、『ブロークン』にはミスディレクションらしいミスディレクションはほとんどない。偽の密室トリックもなければ、謎の怪人物もいない。犯人も作者も直球一本勝負だ。

密室トリックが明かされたら自動的に犯人もわかる、というのはちょっと芸がない。犯人限定のロジックを考える余裕が作者になくてやむを得ずそうするにしても、作中の犯人がなぜそんな危険なことをしたのかという理由くらいはほしい。たとえば、犯人は本当は密室殺人を行うつもりはなくて自分のアリバイだけ確保できればよかったのだが、犯人の予期せぬ事情により仮想犯人の出入口が閉ざされてしまったため結果として密室状況になってしまった、という理由づけの方法がある。常套手段なので新味はないが、「予期せぬ事情」の工夫次第ではそれなりに面白い小説が書けるかもしれない。


いろいろ書いたが、要するに「トリックをうまく生かす技巧に乏しい」の一言に尽きる。技巧なしでももたせられるのは短篇までだ。長篇で用いるなら、格闘をメインにした活劇小説にして、途中の小ネタの一つとして使えばよかった。それなら、ミステリとしての評価云々という話にもならなかっただろう。


久しぶりに長々とミステリについて語ってしまった。『ブロークン』についての感想文としては、ミステリ寄りに偏向していてあまり公平ではないが、もともと海燕氏の書評へのコメントとして構想したものなので、ご容赦いただきたい。

なお、ミステリのルールについては、先月書いた『涼宮ハルヒの退屈』の感想文でも少し言及している。暇な人はあわせて読んでみてほしい。