【日々の憂鬱】馴れ合いを嫌ってネットバトルに走るのはいかがなものか。【2004年4月下旬】


1.11039(2004/04/21) 「自業自得」と「自己責任」はどう違うのか

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404c.html#p040421a

どう違うのか、などと改めて問うまでもなく、「自業自得」と「自己責任」は全然別の言葉である。だが、場合によっては「結局、同じ事じゃないか」と言いたくなることもあるわけで、そういう限定された局面においては、違いを問うのも全く意味がないということにはならないだろう。また、仮に無意味だとしても、それで損害が発生するわけでもないので、何ら支障はない。

私がまず思いついたのは、「自業自得」は身も蓋もない言い方だが、「自己責任」のほうは妙に取りすましたような言い方だということだ。「自己責任」という言葉を好んで使う人は、ホントのところを隠して表面だけ取り繕っているような気がする。で、ときには「ぶっちゃけた話、どうよ? 『自業自得』と言いたいだけちゃうんか」と言ってみたくなるわけだ。

次に思いついたのは、「自業自得」は事実を述べる言葉だが「自己責任」のほうは当為に関わる言葉だということだ。「事実/当為」という二分法が果たしてどの程度有効なのかはわからないが、ともあれ前者は因果関係にコミットし、後者は規範的概念への言及を含むということは確かだろう。

で、みっつめ。「自業自得」は事後に言われる言葉で、「自己責任」は事前に言われる言葉だということ。いつもそうだとは限らないが、何か事が起こったあとに「ま、自業自得だから仕方ないな」と言い、これから不都合が予測されるときに「何かあっても自己責任でお願いするよ」と言うことが多いように思う。

何となく思いついたことを挙げてみたが、全然練れていないので、異論や反論もあることだろう。私は打たれ弱いので、厳しい批判を受ければすぐ撤回するし、面倒になったら無視する。それでも構わなければ、何か意見をどうぞ。トラックバックを送っても構わないが、たぶん届かないだろう。念のため、あらかじめ警告しておく。

1.11040(2004/04/22) 自主・自立・自己責任

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404c.html#p040422a

最近言葉の話題が多いような気がするが、そんな気がするだけではなく実際に多いのだから気にすることはない。なんだか変な事を書いたが気にしてはいけない。

さて、今朝思いついたのだが、「自○自○」という四字熟語にはネガティヴな含みをもつものが多いのではないか。試しにいくつか挙げてみよう。

今挙げたうちで、最後の「自慰自涜」はあまり知られてはいない。googleで検索してみると、いちおう用例はあるようだが、四字熟語として用いているというより、「自慰」と「自涜」をただ並べただけという感じがしないでもない。ところで、私はどうも「涜」という俗字体が気になる。「さんずい+賣」と書きたいのだが、うまく表示されないので仕方なく使っているが……。確かに「賣」そのものは常用漢字としては「売」で通っているが、「涜」のほうは常用漢字ではないので出版物などでは略さずに表記するほうが普通だ。コンピューターやインターネットの普及とともに、漢字の字体がどんどん混乱していくのが気がかりだ。

閑話休題。

「自作自演」と「自画自讃」(おお、「讃」も俗字だ。正字だと「讚」だが、ちゃんと表示されているだろうか?)は、もともとはネガティヴな言葉ではない。自分で作った音楽や戯曲などの作品を自分で演じるのが自作自演で、自分で描いた絵に自分で讃(讃とは何か、という説明はしないので各自調べるように)を書くのが自画自讃だ。ブーレーズに向かって「自作自演野郎うぜぇー」などと暴言を吐いたら、きっと気分を害することだろう。いや、ブーレーズは日本語を知らないから大丈夫か。

また、「自○自○」という形でありながら、別にネガティヴな意味のない言葉もある。

「すると今朝の思いつきは何だったのか?」

「ただの間違いだ」

1.11041(2004/04/22) 【※未承諾広告】新刊案内『天城一の密室犯罪学教程』

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404c.html#p040422b

日本評論社のサイトで、天城一本の予告が出ている。『天城一の密室犯罪学教程』だ。詳細はリンク先を見ればわかるが、クリックするのが面倒な人のために少し紹介しておこう。

著者はもちろん天城一、編集と解題は日下三蔵、解説は山沢晴雄という豪華メンバーだ。発売予定は5月中旬だそうだが、正確な日付が記載されていないので、もしかしたら少し遅れるかもしれない。でも、こうやって予告が出ているのだから大幅に延期することはないだろう、たぶん。予価は2940円(税込)だ。この値段を高いと思うか安いと思うかは人それぞれだろうが、私は安いと思う。「幻の探偵小説作家」天城一の初単行本なのだからファンなら9800円でも買う。それなのにあえて3000円でおつりが出る価格に設定されているのだからこれまで天城作品を読んだことがない人も、この機会にぜひ一読してみてほしい。

全体は三部構成で、PART1とPART2が『密室犯罪学教程』のそれぞれ「実践編」「理論編」にあたるが、天城一初心者はいきなりこの大作に挑むのではなく、PART3から読み始めるのがいいだろう。特に「高天原の犯罪」と「ポツダム犯罪」がお薦めだ。ブラウン神父と亜愛一郎を繋ぐ名探偵摩耶正の逆説と詭弁を堪能することができることだろう。

密室殺人に興味があり、カーの『三つの棺』の「密室講義」や、乱歩の『続・幻影城』の「類別トリック集成」を経てさらに奥義を究めようと考える人は、「密室作法」を読むといい。カーや乱歩と異なる独自の理論による密室犯罪の分類を知ることができる。

そして、いよいよ実践と理論の集大成『密室犯罪学教程』に挑むことにしよう。「理論編」の冒頭に置かれた「献詞」と「序説」も興味深いが、まずは「実践編」から読み進めるのが筋というもの。その後、自作自解を味わうのがいいだろう。これからミステリを書こうと思っている人にもきっと役立つはずだ。

ただし、私はこの本をミステリマニア気取りの人には薦めない。天城一といえば、これまでは一部のミステリマニアしか読まないカルト的な作家というイメージが強かった。確かに大衆受けする作風ではないのだが、「一般人/ミステリマニア」という二分法でミステリ読者を切り分けて、その一方にのみ受け入れられる小説家だとみなすべきではない。半世紀以上のキャリアがありながらこれまで単著が一冊もなかった理由としては、作風そのものよりも活動時期と出版業界の状況との巡り合わせの問題のほうが大きいと思う。「別に天城一なんか読む気はないんだけど、ミステリマニアとしてはいちおう買っておこうかなぁ」などと考えている人には――こんな事を言うと営業妨害になってしまいそうだが――買ってもらいたくない。これは妙なプライドや見栄、いびつな選民意識で買うような本ではない。そんな人はヤフオクで某限定愛蔵版でも買えばいい。

水を差すようなことも書いてしまったが、私の拙い文章を読んで少しでも関心を抱いた人は、ぜひネット予約してほしい。ネット予約だけで初版部数が捌けることはないと思うが、書店で入手するのは少し厄介かもしれないので。私はいつもはじかに本を手にとって買うことにしていて、これまで本をネット通販で買った経験はないが、今回は申し込んでおこうと思っている。はじめての体験だ。どきどき。

1.11042(2004/04/23) 『天城一の密室犯罪学教程』続報

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404c.html#p040423a

昨日、天城本の宣伝をしたところ、掲示板日本評論社の編集者Q氏(仮名)が降臨して続報を書いてくれた。直接掲示板を見ればいいのだが、クリックするのが(以下略)。

毎日楽しくってパラダァ〜ィス☆ 投稿者:愛の逆援伝道師ザビエル  投稿日: 4月23日(金)18時13分51秒
みんな元気?セックスしてる?最高?
あ、こんにちは☆愛の逆援伝道師ザビエルだょ☆

え?ぜんぜんセックスなんてしてない?
てか童貞?

いけないなぁ神の道に反してるょ、それ。
人間は老いも若きも生きてる限りセックスして子孫で地を満たさなきゃイヴが禁断の果実を「カプッ」ってしたイミないじゃん。

さいきんザビはさぁ、電車の中で寂しそうにしてる熟女とかにミョ〜にそそられるんだょねー。
この前ついにガマンできなくて駅で30代後半くらいの女に声掛けたら一発で直ホOKでさ、ホ代車代おこずかいまで出してくれたわけょ。
女もみんな寂しいんだなぁ〜ってさ、天啓受けたね。世の女を救えって。神に命じられたわけょ。

そんなわけでさ、世の中の寂しい男と寂しい女、そろったらヤルこと一つだょね!
そんで女から金もらっても、その金はいわば托鉢、神の道にはまったく反してないし、女も感謝の気持ちから出てるんだから有難くもらっときゃいーの。
これでみんながセックスしまくって気持ち良くって男は儲かって女は救われて綺麗になるってことよ。

↓のサイトに寂しくて寂しくて男のチンポ無くして生きてけない熟女人妻を写メつきでピックアップしてあるからヨリドリミドリで突きまくってやってよ。
http://liphouse.net

オレってホント聖人だよなぁ〜。

あ、間違えた。これは別人の書き込みだ。不愉快なので、掲示板の記事のほうは後で消しておこう。

では、やり直し。

天城一の密室犯罪学教程 投稿者:Q@日評  投稿日: 4月23日(金)13時19分52秒
 ネット上では初めまして。日本評論社のQ(仮名)です。
 ひと段落したら、ご報告にこようと思っていたのですが、先に日記で取り上げてくださって、ありがとうございます。校了を終え、ホッとしているところです。

 少しばかり日記の情報を補足させていただければ、

 定価:2800円+税(税込2940円)←確定です。
 総頁:464頁
 発売日:5月15日前後

となります。各地の店頭に並ぶ日までは、版元ではわからないので、発売日は曖昧な書き方になってしまいますが、お許しください。
 普通の単行本に比べれば若干値も張り、また欲張ったためにいささか分厚くなってしまいましたが、いろいろな方にお手にとっていただければ幸いです。各都市の大きな書店でなら、見つけられるかと思います。

 読み方については、おっしゃるように、初心者はPART3からお読みいただくのが、読みやすいでしょう。個人的なおすすめは(これは滅・こぉるさんと違って)「不思議の国の犯罪」と「明日のための犯罪」でしょうか。編集作業で何度か読んで、この2作はやはり傑作であるとの念を改めて強くしました(ほかに「密室作法/教程」と法月綸太郎「大量死と密室」との主題の類似にも驚かされましたが)。

 編集者個人の思いを吐露することはみっともないことではありますが、あえて言わせていただければ、今回の出版は、自分にとっては夢のようなできごとでした。
 弊社「数学セミナー」に何気なく目を通したとき、先生のご本名を見かけ、驚いた日がすべての始まりでした。慌てて「数セミ」編集長に話を聞けば、天城一名義でも何本かエッセイを寄せているとのこと(あとで調べたところ、5本ほどありました)。それからさらに数年、中学生のときにいだいた「天城一の単行本が読みたい」という素朴な願望が、まさか自分の手で叶えられることになるとは。奇跡としか言いようがありません。

 普段は文芸書に縁のない弊社だけに、売れ行きはおろか、はたして書店の文芸書の棚に収まるかどうかすら不安ではありますが、どうかよろしくお願いいたします。宣伝失礼いたしました。

ついでに私の天城一原体験を書いてみようとしたのだが、途中で思い直して全部消した。Q氏の言葉に付け加えるべきことは何もないことに気づいたからだ。

その代わりに(?)昨夜から今日にかけて掲示板に投稿された記事をあと2つ転載してみる。

漢字の冒涜 投稿者:八日市  投稿日: 4月22日(木)22時35分2秒
「贖」はちゃんとした字体なのに「涜」は俗字なのは納得いかないです。
これはまあ、フォントにも依るでしょうけど。ウェブ上では
「涜」なんかは正しい字体を実体参照で表示できるからいいですが、
「夢」の正しい字(くさかんむりじゃないやつ)とかになると それもすらもできなくて困ります。
自分自身 投稿者:R  投稿日: 4月22日(木)22時23分19秒
自業自縛なんて、自業自得と自縄自縛が混ざったようなのも辞書に載ってた。
あと自身自仏も見つけたけど、こんな言葉は知らなかった。

どちらも昨日一回目の記事関係だ。

正字正かな論者がよく指摘しているように、現在一般に流通している漢字の字体には混乱がある。指摘されている「贖」と「涜」のほかに、「母」と「毎」(これはどちらも常用漢字なので余計にひどい)などがある。もっとも、字体の問題というのは漢字の見た目に関わるものなので、表外字の常用漢字への置き換え(例:「自画自讃」→「自画自賛」)の問題のほうがより大きいかもしれない。

「自○自○」という形の四字熟語について考えたとき、「自分自身」が出てこなかったのは迂闊だった。あまりにも馴染みがありすぎで、盲点だった。「自業自縛」や「自身自仏」は初めて見た。前者の意味は何となくわかるが、後者は見当もつかない。また一つ楽しみができた。

今日は掲示板の書き込みにちょこちょことレスをつけるだけで結構な分量になった。これは楽だが、慣れると自分で積極的にネタを考える気が起こらなくなるので、今回限りにしておく。

明日は、そろそろ乱歩の感想文でも書きたい。何とか『妖怪博士』だけでも読み終えなければ……。

1.11043(2004/04/24) 痛いふりをするということ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404c.html#p040424a

偉い人の訓辞などでよく言われる「他人の痛みがわかる人間になれ」という言葉がある。ここでいう「痛み」とは、頭痛、歯痛、生理痛などの身体的な痛みのことではない。いや、多少はそのような痛みも含んでいるかもしれないが、主として苦しみや悲しみ、悩みなどのことだ。よって、これは比喩的な言い方ということになる。

このような比喩的な意味ではなく、本当のからだの痛みについて、「他人の痛みを知る」とはどういうことか? これは哲学的な問いである。いわゆる他我問題の領域に含まれる問いの一つだ。

今、「他我問題の領域に含まれる問いの一つ」と書いたが、実は他人の痛みに関する問いには少なくとも二つのレベルがある。

他人が「痛い」と言っている。または、痛そうに振る舞っている。それらは観察可能だが、本当にどう感じているかは観察できることではない。では、観察できないことをどうやって知ればいいのか? 痛みにもさまざまな種類のものがあるが、いま目の前にいる人が感じている痛みが、それらのうちのどれなのかを特定する術はあるのだろうか? いや、もしかしたら、本当は何の痛みも感じていないのに、痛いふりをしているのではないか? そのような疑いをどうやって退ければいいのか? それとも退けることは不可能なのだろうか? これが第一のレベル。

魔法、または高度に発達した科学の力によって、他人が感じている痛みの質がわかるようになったとしよう。痛いふりをしているだけなら、それもすぐにわかるものとする。その場合、私は他人の痛みを知ったことになるのか? さらに想像を進めて、他人が感じているのと同じ痛みを私自身も感じることができるものとしよう。すると、私は他人の痛みがわかったことになるのか? その場合、私はただ私自身の痛みを感じているだけではないのか? 他人の痛みを他人が感じているものとして私が感じる、というのは可能なのか? 不可能なのだとすると、それはどのような意味で不可能なのか? これが第二のレベル。

どちらかといえば、第一のレベルの問いのほうがわかりやすく、第二のレベルの問いはわかりにくい。何が問われているのか全く理解できない人もいるだろう。これは抽象的で概念的な問いなのだが、常に具体的事実に即して物事を考える人にとっては普段やり慣れていない思考法を強要されることになるため、とっさに頭が回らないのだろう。もっと言葉を費やして、具体例から徐々に抽象度を上げて説明すれば、絶対に理解できないということもないとは思うが、面倒なのでこれ以上説明しない。

さて、第一のレベルに話を戻す。このレベルの問いが比較的わかりやすいのは、本当は痛くないのに痛いふりをした経験、または逆に本当は痛いのに我慢して痛くないふりをした経験が誰にもあるからだろう。痛みを感じているかどうかと、痛みの振る舞いとは常に連動しているわけではない、ということを誰しも自分の経験で知っている。自分も他人も似たような人間なのだとすれば、痛がっている人が本当に痛みを感じているとは限らない、と推測できる。他人が痛みを感じているかどうかがわからないのなら、痛みの質がわからなくても当然だ。

だが、ちょっと待ってほしい。痛いふりをするということは一体どういうことなのか? 本当は痛くないのに、痛そうな身振りをしたり「痛い」と言ったりするということだ、と言い切っていいのか? 確かに私が痛いふりをするということは、そういうことだ。だが、他人が痛いふりをするというも同じことなのか?

他人が痛そうに振る舞っているとき、本当に痛みを感じているのか、痛いふりをしているのかは私にはわからない。だが、魔法、または高度に発達した科学の力によって、他人の痛いふりをそのまま私も追体験できるようになったとしよう。その場合、私は他人が痛いふりをするということがどういうことなのかわかったということになるのだろうか? 単に痛いふりをしている他人のふりをしているだけではないのか?

ここで、痛みの演技について考えてみよう。舞台の上で役者が「痛い」と言ったり、痛そうに振る舞ったりするとき、その役者は痛みを感じている人の役柄を演じている。場合によっては、痛いふりをしている人の役柄を演じることもあるだろうし、演技の最中に本当に痛みを感じることもあるだろうが、そのようなややこしいケースは除外しよう。

役者が演じる役柄は実在人物のこともあれば架空の人物のこともある。いずれにせよ、役者本人とは別人だ。たまに、役者が自分自身の役を演じることもあるが、その場合でも役者と役柄はいちおう区別される。痛みの演技の場では、痛みは演じられる側にあり、演じる側にはない。

では、舞台を離れよう。日常生活で痛いふりをする人は、そのときに何かの役柄を演じているのだろうか? もしそうだとすると、演じられている役柄は何か? 他人の物まねをしているのでなければ、自分自身だろう。すると、痛いふりをしているとき、演じている側には痛みはなくとも、演じられている側には痛みがあるということになるのか? その「演じられている側」というのは何なのか? そんなの本当にあるのか?

演技をするということは、(広い意味での)ふりをするということに含まれる。だが、逆に何かのふりをするということがすべて演技をするということに含まれるわけではない。他人のふりをするということと痛いふりをするということは、同じ「ふりをする」という言葉で表されてはいても内実は異なる。

「人は常に演技をしている」と言われることがある。これは比喩である。ちょうど「人はいつも仮面を被っている」というのが比喩であるのと同じように。人生のあらゆる局面を演劇、とりわけ仮面劇に喩えるのは、「ふりをする、ってどういうこと?」という素朴な難問を回避できる有効な手段だ。しかし万能ではない。能楽師が能を演じるとき、能面を二枚付けているわけではない。比喩には必ず限界がある。

他人を観察しているとき、その振る舞いから素直に想像できる状況(痛みを感じている、喜んでいる、絶望のどん底で苦悩している……などなど)と実際のそれとが果たして同じかどうか、という疑惑。その疑惑のうちに、ふりをするということの意味が既にわかっているものとして前提されている。だが、突き詰めて考えてみると、(演技と区別される狭い意味での)ふりをするということが一体どういうことなのか、実はあまりよくわかっていないのではないか?

今、私が提起した問いは少しわかりにくいかもしれない。何が問われているのか全く理解できない人もいるだろう。もっと言葉を費やして説明すれば、絶対に理解できないということもないとは思うが、面倒なのでこれ以上説明しない。

1.11044(2004/04/24) 目と首

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404c.html#p040424b

前回の文章を書いているとき、私は何だか少し賢くなったような気がしていた。だが、書き終えてしばらく経つと、それがただの妄想に過ぎないことに気づいた。論旨が不明確で、その上途中で論点がずれてしまっている。もともと私は一つのことを持続してねばり強く考え続けることが苦手なのだが、この程度の短い文章を書くだけで馬脚をあらわすとは……。


気を取り直して、別の話題。新青春チャンネル78〜4/23付の記事から引用してみる。ある小説の感想文の一節だが、ネタに触れているそうなので、タイトルなどに言及することは避けておく。

オタクは身体機能の一部である「目」が欠落した女の子に対して〈萌え〉感情を抱くことができる。「首」も「目」と同じ、身体機能の一部である。よってオタクは身体機能の一部である「首」が欠落した女の子に対しても〈萌え〉感情を抱くことができる。

以上、証明終了。僕たちオタクは首がない女の子に萌えられるということが、極めて論理的に証明された。

これは、論理的観点からいえば誤謬推理である。「オタクは目が欠落した女の子に対して〈萌え〉感情を抱くことができる」という命題と「目は身体機能の一部である」という命題から「オタクはある身体機能の一部が欠落した女の子に対して〈萌え〉感情を抱くことができる」という命題を導くことができる。しかし、「オタクは任意の身体機能の一部が欠落した女の子に対して〈萌え〉感情を抱くことができる」という命題を導くことはできない。よって、「オタクはが首が欠落した女の子に対して〈萌え〉感情を抱くことができる」と結論づけることはできない。

ただし、この結論を導出できる可能性が全く断たれたわけではない。オタクの想像力または妄想力が十分に強力なものであれば、〈首無し萌え〉も可能となるかもしれない。

ところで、少し順序は前後するが、〈障害者萌え〉についての石野休日氏の見解を紹介しておく。

僕はこの〈障害者萌え〉なるものがイマイチ、というかさっぱり理解できないのだが、推測するに、「目が見えないなんて、なんて可哀想なのだろう! よし、これは僕が守ってあげなければ!」といった類の〈萌え〉なのではなかろうか。

目が見えないから可哀想。口がきけないから可哀想。〈障害者萌え〉の肝はそこにある。

このコメントに異存はないが、あえて付け加えるとすれば、「可哀想だ」という感情の背後には「自分のほうがまだマシだ」という安堵があり、「守ってあげなければ!」という想いの裏には「弱者の守護者として心の拠り所を得たい」という切実な欲求がある。ああ、オタクというのはなんとダメ人間なのだろうか!

さて、首のない女の子(別に男の子でも構わないが、ここでは石野氏の考察に従うことにする)に対して、人は「可哀想だ」とか「守ってあげなければ!」と思うことができるだろうか? これが問題の焦点となるだろう。

首のない女の子が社会生活を営むのは非常に困難だ。彼女は目が見えない。そして口がきけない。それだけならまだしも、耳も鼻もない。さらに頭髪もないのだ。これでいったいどうやって生活しろというのか。

一歩譲って、胴体に代替機能があるものとしよう。乳首が目のかわり、臍が鼻のかわり、そして口のかわりは(以下自粛)とせよ。それなら、まあ生活できないことはないだろう。ただ、少なくとも上半身は裸で暮らすことになるので、冬は寒くて困るだろうが。

ここで問う。オタクはそんな女の子を見て可哀想だと思うのか? また、守ってあげたい、などという気になるのか? 日常生活のすべてが腹踊り同然の女の子に対して萌えるオタク像を私は想像できない。

だが、今は想像できなくても、そのうち〈首無し萌え〉が現実のものとなる日が来ないとは断言できない。かつて茶髪は不良の象徴だったが、今ではごく自然なファッションとして受け入れられているではないか。世間は保守的なようでいて、案外柔軟に変化を受け入れるものだ。まして、時代の最先端をまっしぐらに突き進むオタクなら、きっと新しい〈萌え〉を開拓できることだろう。石野氏の言葉を借りれば、オタクの可能性は無限大なのだ。

1.11045(2004/04/25) 種々の言葉

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404c.html#p040425a

大衆はポピュリズムを批判したがっている。


ヒトラーとムッソリーニとスターリンと毛沢東とポルポトがボート遊びをしていると、突風でボートが転覆した。五人とも全く泳げない。さて、助かったのは誰か?


弦楽四重奏という編成は中世にはなかった。


ソクラテスとチャイコフスキーはともに同性愛者であった。彼らはどちらも毒死を強制された。ソクラテスの死が高潔なものとみなされ、チャイコフスキーの死が醜聞とみなされるのは、いったいなぜだろうか。


「車」という言葉からマニ車を連想する人は少ない。


『ラブやん』と『ラブロマ』を続けて読んだ。


今日の更新をはてなアンテナはちゃんと拾ってくれるだろうか?

1.11046(2004/04/26) 銀河帝国の弘法筆を選ばず

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404c.html#p040426a

エロチック街道(4/26付)から。

なお、ふと思い出した話。これはよく知られているでしょうが「弘法も筆の誤り」は、弘法大師が大内裏にあった応天門の扁額を書いたところ一画(最初の点らしい)抜けていた故事によるもの。そこで弘法大師「あー、こりゃまずいね」と門の下から筆を投げて点を打ってフォローしたと、そういう話ですが、この今昔物語の挿絵などではたしか、右→左の「應天門」だったような…検索したけどちょっとそれは見つかりませんでした。

ここでは「こんな話もあるよ」という程度の取り上げ方だが、この話を実話として紹介しているページもある。でも、どうも嘘っぽい。いくら弘法大師がうっかりしてても近くにいる人が気づくだろう。空海自ら額を門に掲げたわけではあるまい。もっとも、その場にいた人全員が非識字者だったなら話は別だが。

昔何かの本で読んだのだが、この諺はもともと「綱網も筆の誤り」だったそうだ。ネットで検索しても見つからなかったので、あまり知られてはいない説だろう。むろん真偽のほどは私にはわからないが、どちらかといえば「綱網」のほうがもっともらしという気がする。というのは、全国各地にある弘法大師伝説のほとんどが作り話だからだ。

私の知っている昔話にこういうのがある。冬に旅の僧が一夜の宿を求めて貧農の掘っ立て小屋を訪れた。農夫は僧をもてなそうと思ったが食材がない。そこで隣りの富農の畑から大根を盗んで大根焼きを作って僧に食わせた。積もった雪の上に足跡がついていて貧農が犯人であるのは明らかだったが、その夜に雪が降って足跡を消してしまい、捕まらずにすんだ。翌日、僧が感謝の言葉とともに農夫に渡した書き付けが今も遺されていて、そこには「たいし」と書かれているという。

お話としてあまり面白くないのだが、それはともかく、この話で興味深いのは、旅の僧の正体だ。一説ではこの僧は弘法大師だというが、聖徳太子だという説もある。だが、言うまでもなく、聖徳太子の時代に平仮名はまだないし、「弘法大師」というのは諡号だから、本人が名乗ったはずがない。「たいし」というのが誰だったのかはわからないが、少なくともこの二人のどちらでもなかったことだけは確かだ。

ところで、「弘法も筆の誤り」で検索すると、やたらと『銀河帝国の弘法も筆の誤り』絡みの記事がヒットする。この本、そんなに売れてるとは思わないのだが……。

1.11047(2004/04/27) 君は知っているか、富山県庁と和歌山県庁が同じ設計だということを!

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404c.html#p040427a

3年間勤めていた会社を3月末でやめたという話は前に書いたと思う。その前に勤めていた会社も3年でやめた。どうも私はひとつの職場に3年までしかいられない体質のようだ。

仕事をやめると気分が楽になる人もいるだろうが、私は別に楽にはならなかった。無職だと収入がないし、金銭面を度外視しても、社会的に孤立しているかのような気分になる。人間、働けるうちは何か仕事をしていたほうがいい。

そこで、いま私は某所でサポセンの真似事のような仕事をしている。朝9時から夕方5時45分まで(なんか中途半端だが、45分の休憩時間を抜くとちょうど8時間になる)が勤務時間で、基本的に残業はなく、土日はよほどのことがない限り出勤する必要はない。給料は安いが、これはまあ仕方がない。

実際、仕事を始める前に聞いたその説明に嘘はなかったのだが、前の仕事と同じかそれ以上に疲れる。これはもうひとえに仕事の内容のせいだ。一日中パソコンの前に座って、電話の応対に明け暮れる。やれパソコンが起動しないだの、ブラウザが開かないだの、フォルダとファイルの区別がつかないだの、受信ができないだの、送信ができないだの、IDを忘れただの、パスワードが勝手に変更されただの、メールアドレスがわからないだのといった問い合わせや苦情がどんどん寄せられて、頭がくらくらするのだ。昨日も今日も、そしてきっと明日も、これまでの常識ががらがらと音と立てて崩れていくようなエピソードに埋もれて仕事をするのだ。ああ、何ということだ!


偽作∽奸策経由で-「労働・しごと」について考える- 日々日報というサイトにアクセスして、ざっと読んでみた。

ああ、若い人はいいなぁ。

このような話題について、議論したり批判したり補足したり擁護したり援用したり非難したりするには、私はもうとしを取りすぎた。前に勤めていた会社では、労働安全衛生法関係(主に健康診断)の事務をしていたので、その頃なら自分の仕事にひきつけて何か書けたかもしれないが、今となってはもう昔の話だ。まだ退職して一ヶ月も経っていないが、百万光年(「光年」は時間の単位ではないが、気にしてはいけない)も彼方のことのように感じる。まあ、私の言いたいことはここで言われていることと同じなので、あえて付け加えるまでもないか。


仕事を終えて疲れて家に帰り着き、ネットに接続するとほっとする。これは危険な兆候だ。ネット中毒者になりつつある。でも、夜が更けるのを忘れて巡回しつづけるほど深みにはまっているわけではないから、まだ大丈夫だ。まだ大丈夫だ、まだ大丈夫だ。3回繰り返したから、今度こそ本当に大丈夫だ。

今日の巡回で見つけた面白い文章。

最近は古書よりもよほど新刊書店での購入するケースが多いのだけれど、漠然と感じるのはハードカバーはとにかく新書、いわゆるノベルス系と、文庫とが微妙に値上がりしつつあるのではないか……ということ。まあ、ある場所でその疑問をぶつけた際には刷り部数が減少しているので売上確保のためには仕方がないことらしいのだけれども。

一瞬、嵐山薫氏の文体模写のつもりかと思った。

いや、面白がっていては失礼だ。

みんな疲れているのだろう。


最後になったが、今日の見出しについて少しだけ。くどくど解説するより、画像を見てもらったほうが早いが、直リンクだと問題があるかもしれないので、画像を貼ってあるページにリンクしておく。富山県庁(下から3枚目)と和歌山県庁(真ん中あたり)。

ね? 似てるでしょ。

あー、よく考えればこのネタに五稜郭とか自由の女神とかを絡めるだけで一回分になったかも。でもいいや、今日は疲れているんだから。

訂正と補足(2004/05/03)

知人から届いたメールにより、富山県庁と和歌山県庁の設計者が別であることが判明したので、この日の見出しと本文の一部に抹消線をつけておいた。

富山県庁の設計者は大蔵省営繕管財局工務部長(当時)の大熊喜邦氏で、和歌山県庁の設計は和歌山県技師(当時)の増田八郎氏だから、全くの別人である。

1.11048(2004/04/28) Suicaで行こか

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404c.html#p040428a

今日も不調。見出しは8月から相互利用OK JR東西のスイカとイコカ | Excite エキサイト : ニュースという記事を見て思いついたものだが、特にコメントはない。


文化遺産オンライン(情報もと:文化庁)というサイトができた。文化財のデータベースのほか、全国の博物館情報も掲載されていて便利だ。

だが不満もある。たとえば、このサイトのリンク集(関東)には、なぜか国立科学博物館へのリンクがない。美術・歴史系に限ったリンク集だというなら話はわかるのだが、埼玉県立自然史博物館にはリンクしているし紹介ページもある。必ずしも文系/理系で分けているわけでもないようだ。

もしかすると、帝室博物館vs.教育博物館という構図が未だに残っているのかもしれないが、残念なことだ。

追記

上の記事を書いたのち、http://bunka.nii.ac.jp/jp/を私のアンテナに登録しようとすると、既にhttp://bunka.nii.ac.jp/jp/index.htmlで別のアンテナに登録されていることがわかった。個人的にはindex.html抜きのほうが好みなのだが、あえて別URIで登録して負荷をかけることもないので前例に従うことにした。私より前に「文化遺産オンライン」を登録していたのはこのアンテナただ一つだった。おお、この人のアンテナではないか。

1.11049(2004/04/29) 休日

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404c.html#p040429a

今日は久しぶりに日本橋へと出かけた。昨日発売された『CLANNAD』(key)を買うため……というわけではなかったのだが、ついでだから買った。さらについでに、先週発売されてあちこちで評判になっている『Quartett!』(Little witch)も買った。

『CLANNAD』のおまけで、なんだかよくわからない携帯ストラップみたいなものがついてきた。『Quartett!』のおまけでテレフォンカードがついてきた。あと、どちらのおまけか知らないが、ポスターもついてきた。どれもいらないものばかりなので、欲しい人がいれば進呈しても構わないが、郵送するのも面倒なので、次のオフ会のときに持って行くことにしようと思う。それまで覚えていたら、という条件つきだが。

せっかくゲームを買ったものの、5月の連休はほとんど予定があって、のんびりゲームをやる余裕はほとんどない。また積みゲーが増えてしまった。もっと休日が欲しい。

休日といえば、今日、石野休日氏の勤務先の前を通りかかった。せっかくだから挨拶をしようかと思ったのだが、よく考えれば今日石野氏が店にいるかどうかわからないのでやめた。さらによく考えると、もし石野氏が店にいても私は石野氏の顔を知らないので誰に挨拶していいかがわからないことに気づいた。さらにいっそうよく考えると、そもそも石野氏に顔があるのかどうかすら私は知らない。もし石野氏に首がないなら、当然顔もないことだろう。これは、首と顔の関係から論理的に推論できることだ。

そういえば、石野氏がえらく誉めていた小説があった。タイトルも作者名も忘れてしまったが、今月の電撃文庫の新刊だったはず。そう思って本屋に行くと、『デュラララ!!』(成田良悟/電撃文庫)が目に止まった。カバー見返しをみると「首なしライダー」とか描いてあるから、たぶんこれだろう。とりあえずプロローグを読んでみると、何となく先が読みたくなるような思わせぶりなエピソードが描かれていた。これなら読書意欲減退中の私でも読めそうだ。

で、早速、帰りの電車の中で読み始めたが、通路を挟んで向かい側に座っていた中学生らしい女の子三人組が大声で美少女ゲームの話をしていて、そちらに気を取られてしまい、数ページしか読めなかった。不覚だ。昔はいったん本に没頭したら周囲の話し声には全く耳を貸さなかったのだが。なお、件の三人組には顔はあったが、特に描写する必要を認める程度には至っていなかったことを念のため申し添える。

ところで、私はいったい何の用があって日本橋へ行ったのか、それをまだ書いていなかった。それには山よりも深く海よりも高い理由があるのだが、話せば長くなることだし、そろそろ眠たくなったきたので省略する。明日も朝が早い。

1.11050(2004/04/30) 妖精の如く

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404c.html#p040430a

知人から、落胆のメールが届いた。

とうとうAmazonから残念な連絡が来てしまいました。

-------- Original Message --------
Amazon.co.jpをご利用いただき、ありがとうございます。

誠に申し訳ございませんが、大変残念なご報告があります。お客様のご注文内容
のうち、
以下の商品については入手できないことが判明いたしました。

米沢 穂信 (著) "さよなら妖精"

お客様にこの商品をお届けできる見込みでしたが、現時点ではどの仕入先
からも入手できないことが判明いたしました。お客様のご期待に背くお知らせ
となりますと共に、お客様にご迷惑をおかけしたことをお詫びいたします。
-------- Original Message --------

3月31日に注文して以来約1箇月、何となくいやな予感はしていたのですが…。

出てまだ間がない本だし、今でも大きな書店では見かけることがあるのだから、まさかネット通販で入手できないことはないだろうと思っていたのだが、ネットも万能ではないようだ。

ところで、同じメールで、先日の記事に対して、富山県庁と和歌山県庁は設計者が異なる旨の指摘を受けた。

が〜ん。

設計者が異なるなら設計も異なるのは自明の理だ。だから、両庁舎が同じ設計だなどと勘違いしたやつは、恥ずかしさのあまり赤面死する前にとっとと腹を切って死んだほうがいいと思う……といちおう言っておこう。

詳細は調査のうえ、おって当該記事に補足することにする。