http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0405a.html#p040503a
何日か間があくとサイトの更新が面倒だ。どうも気が乗らない。だが、このあたりで更新を再開しないと、このままずるずると放置しっぱなしになってしまうので、何か書いておこう。
事前に告知しておいたが、昨日まで旅行していた。行き先は伊勢方面で、伊勢神宮(内宮、外宮とも)を見てきた。参拝したわけではない。ただ、見ただけだ。
今回の旅行の主目的は、伊勢市の外れにある元祖国際秘宝館を訪れることだった。古本屋巡りで伊勢に行ったときに何度か前を通ったことがあるが、これまで中に入ったことは一度もなかった。いつ閉鎖してもおかしくない所だが、幸い私が訪れた5/1にはまだ営業していた。よかった。
当初の予定では伊勢神宮に行くつもりはなかったのだが、せっかく伊勢に行って神宮に寄らないのもいかがなものかと思い直して、一通り境内を歩いてみた。巫女さんにも多少は期待していたのだが(以下略)。
ああ、旅行記ってつまらないなぁ。書いてて全然楽しくない。読む人にも面白くないだろうから、このくらいでやめておこう。
旅行前に『デュラララ!!』(成田良悟/電撃文庫)を読んだ。面白かった。同一場面で複数の視点が混在していたり、部分的に説明的な文章が多いところがあったりして、必ずしも手放しで絶讃できるわけではないが、全体としては十分満足できた。
続いて『仮題・中学殺人事件』(辻真先/創元推理文庫)を読み始めたが、旅行で中断し、今日読み終えた。これは再読だが、前に読んだのは私が中学生の頃なので、メインの仕掛け以外はほとんど覚えていなかった。
いまや古典的名作として知られている作品なので、今さらあれこれ言うことはないのだが、一つだけ気になった点を指摘しておく。157ページの「注2」は一体どう解釈したらいいのだろう? この註釈が今回の創元推理文庫版で修正されたものか、それとも『合本・青春殺人事件』に収録されたときに既にこうなっていたのかはわからないが、どちらにしても具合が悪いように思う。どういうふうに「具合が悪い」のか説明するとネタをばらすことになるので詳しくは述べないが、9ページの「注3」と整合しないように思うのだ。
テンションが上がらないまま、今日はこれで終了。明日にはいつもの調子を取り戻したいものだ。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0405a.html#p040504a
休日が続くと生活のリズムが乱れてだらけてしまい、生産的なことが何もできなくなる。
もっとも、もともと私はあまり生産的活動に従事しているわけではない。だが、言葉を拡大解釈すれば、このサイトの運営もある意味では「生産的」な活動だ。ほかには、本を読んだり、ゲームをやったり、部屋の片づけをしたり、ネットで集めてきた死体画像の整理をしたりするのも、生産的な活動のうちに入る。今、そう決めた。
日々仕事に追われていると、自由時間を有意義に過ごすプランがいくらでも浮かんでくるのだが、いざ実行できる時間が与えられると精神が弛緩してしまい、何もしなくなる。「弛緩」といえば同音語に「死姦」がある。ここから強引に死体画像の話に繋げていこうか、と一瞬思ったが、面倒なのでやめにした。それくらい今の私はだらけている。
だらだら〜。
ぼけーっ。
ぼんやり。
……と、どうでもいい事を書いているうちに夜になってしまった。そろそろ生活を昼型に戻さないと明後日からの仕事が辛い。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0405a.html#p040505a
すっかり間があいてしまったが、恒例(?)の江戸川乱歩全集(光文社文庫版)の感想を書く。今回は第12巻『悪魔の紋章』だ。表題作のほか、少年物2作が収録されている。
子供の頃にはわくわくしながら読んだ少年探偵団シリーズも、今になって読み返すとなると、なかなか辛い。怪人の正体は最初からわかっているし、最後に明智と少年探偵団が勝つこともわかっている。途中で起こる事件のトリックはいつくかのパターンを継ぎ合わせただけで新味がないし、何より乱歩の最大の持ち味である変態的な猟奇趣味がほとんどあらわれていないので退屈だ。そういうわけで、『少年探偵団』と『妖怪博士』はなかなか読み進めることができなかった。
『悪魔の紋章』のほうは露出狂的変態犯罪満載で非常に面白かった。今回が初読だったが、『妖怪博士』の次に読むと犯人の正体はバレバレで意外性はなかったが、そんな事ははなから期待していないので問題ない。ミステリとしては欠陥が大きい(たとえば、犯行時にある人物のアリバイを奪うために真犯人がその人物を人気のないところに連れ出すのだが、その一方で別の場所で犯罪を行っているというのは、どうにも変だ)が、衛生展覧会とか見世物小屋とか地下室とか乱歩好みの舞台で繰り広げられる数々の扇情的で残虐な犯罪の描写はそれらの欠陥を補って余りある。乱歩の通俗長篇の中でもかなりよくできたほうではないかと思う。
次は第14巻『新宝島』だ。併録された『智恵の一太郎』『偉大なる夢』ともに未読で、乱歩全集完読を目指しているのでなければ、まあ普通は手に取ることさえない作品ばかりだ。さて、読み終えるのはいつになることやら……。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0405a.html#p040505b
なかなか調子が出ないので、今日は人に会った話でお茶を濁す。
滅・こぉるファン倶楽部(いい加減にサイト名を変えてほしいものだ)の冬野佳之氏が来阪したので、久しぶりに会うことにした。去年末のオフ会以来だ。待ち合わせ場所は地下鉄御堂筋線中津駅4番出口から出て徒歩1分のホテルのロビーだったのだが、なぜか頭の中で誤変換して地下鉄谷町線中崎町駅に行ってしまった。4番出口から地上に出て徒歩1分の範囲をうろうろと歩き回ったが、もちろん目当てのホテルは見あたらない。20分ほど余裕を見ておいたのだが、間違いに気づくのに半時間かかり、それから中津駅へと向かったため、結局約束の時間から40分くらい遅刻してしまった。申し訳ないことをした。
冬野氏と会うと、共通の知人である深川拓氏の話題になることが多い。というか、もともと私と冬野氏が知り合ったのは、深川氏のサイトの掲示板だった。で、いつもなら、深川氏の仕事の進捗状況や出来具合の話になるのだが、最近の日記を読む限りでは、深川氏は今アウトプットを一休みしてインプットに励んでいるようなので、今日はあまり話が弾まなかった。そのかわり、というわけではないが、話の流れで高橋直樹氏の名前が挙がった。二人とも高橋氏とは面識はないが、冬野氏は多少縁があるようで、今度機会があれば一度会いたいものだ、という話になった。その流れで、機会があっても決して会いたくない人の話になったが、こちらの人名を挙げるのは控えておこう。
そのほかにもいろいろな話をしたが、ほとんどオフレコなので何も書けない。じゃあ、冬野氏に会ったということを書いても仕方がないじゃないか。
またつまらない文章を書いてしまった。不調だ。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0405a.html#p040506a
迷った。非常に迷った。見出しを「囚人の紅蓮魔」にしようか、と。どう考えても「囚人のジオラマ」よりも「囚人の紅蓮魔」のほうがインパクトがある。見出しは文章の顔だから、インパクトがあるのに越したことはない。
だが、さすがに「囚人の紅蓮魔」などという見出しをつけてしまっては紅蓮魔氏に失礼だ。囚人といえばとらわれびとだ。無実の罪でとらわれた人もいるだろうが、ふつうは何か悪い人を連想するだろう。たかだか駄洒落のために紅蓮魔氏を誹謗してはいけない。あと一歩というところで踏みとどまった。
かくして私は「囚人の紅蓮魔」という見出しをボツにした。ああ、なんと理性溢れる自制心のある人間なのだろう。私はときどき自分の良識が疎ましくなるほどだ。
前置きが長くなったが、「囚人のジレンマ」の話をしよう。魂(イノチ)の乗ってない拳ではV林田日記は倒せないの5/5付の記事に珍妙な「囚人のジレンマ」のモデル図が掲載されている。2002年8月の日記からの転載だそうだが、当時私はまだV林田氏の日記を知らなかったので、これが初見だ。
今日の社会福祉学科の授業において、担当教員がいきなり経済学批判を。
そこで出てきた「囚人のジレンマ」のモデル図(↓)
Aが自白 A自白せず B自白 A、Bともに6年 A9年、B釈放 B自白せず A釈放、B9年 A、Bともに9年 …って間違ってますがな! これじゃ「ジレンマ」にならねーっすよ!(「囚人のジレンマ」を知らない方はこちらへ)
引用文中で強調しておいた箇所には他サイトへのリンクが張られていたが、リンク先ページは消滅しているようで表示できなかった。代わりに別の解説ページにリンクしてもよかったのだが、面倒なのでやめた。「囚人のジレンマ」を知らない人は自分で調べてほしい。
さて、上のモデル図をもとにAの立場で考えてみる。Aに与えられた選択肢は自白するか黙秘するかの2通りだ。AにはBが自白するかどうかがわからないため、両方の場合を検討して比較考量しなければならない。
まずBが自白する場合。Aも自白すればAの刑期は6年だが、黙秘すれば刑期が9年になってしまう。それなら自白したほうが得だ。
ではBが自白しない場合。Aが自白すればAは釈放して貰えるが、黙秘したままだと刑期が9年になる。だからこの場合も自白したほうが得だ。
従って、どちらの場合でもAは黙秘するより自白したほうが得になる。
他方、Bの立場ではどうか。モデル図をよく見ればAとBの立場は対称的なので、上の考察のAとBの役割を入れ換えればよい。つまりBも黙秘するより自白したほうが得ということになる。
AとBがどちらも与えられた条件下で自分にとって得になる選択を行った結果、両方とも自白することになり、両者併せて12年の刑となる。片方が自白し、もう片方が黙秘した場合には刑期は9年ですむからトータルでは損をすることになるが、両方黙秘して18年の刑をくらうことに比べればこれでもまだましだ。それに片方だけが釈放されるという不公平もない。めでたしめでたし。
というわけで、これではジレンマにならないように思われる。だが、本当にそうなのでしょうか。ああ、ここには私たちが知らない何か大きなジレンマが隠されているのではないのでしょうか。そして、陰でフフフと不敵な笑みを漏らしているのでは?
実は、私が今述べた説明の中にジレンマがある。それはこうだ。先ほどAの立場で考えたとき、Bが自白する場合と黙秘する場合の2通りを想定し、そのどちらでもAが自白するほうが得だと結論づけた。この論法はまさにジレンマ(両刀論法)ではないか!
そう、V林田氏を憤慨させた社会福祉学科の教員は巧みな叙述トリックで学生を騙していたのだ。「囚人のジレンマ」という言葉から誰もが連想する「合理的選択が不合理な結果を導くパラドキシカルな状況」ではなく、論理学の基本的な論法について語っていたのである。おお、何と欺瞞に満ちた策士であることよ。
ああ、やっぱり調子が出ない。今日はさっさと寝たほうがよさそうだ。では、おやすみなさい。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0405a.html#p040507a
「囚人のジレンマ」に対抗できる素晴らしい(?)ジレンマを思いついた。次に、そのモデル図を示す。
メイドさん | 巫女さん | 妹 | 幼なじみ | |
---|---|---|---|---|
メガネ | 萌え〜〜 | 萌え〜〜 | 萌え〜〜 | 萌え〜〜 |
ネコ耳 | 萌え〜〜 | 萌え〜〜 | 萌え〜〜 | 萌え〜〜 |
この図がどうしてジレンマを表していることになるのか? 簡単だ。萌えとはそれ自体がジレンマなのだから。
もう少しまじめにやろう。このライトノベルがすごい!一般参加枠集計結果発表記念(ただし一日遅れ)のラノベ読みのジレンマだ。
あなたの知らない名作がいっぱい! さて、どうする? | |
---|---|
とりあえず本屋へダッシュ | ああ、また積ん読本が増えちゃったよ〜。本の山に埋もれて窒息しそうだ。 |
ここはぐっと我慢の子 | しまった、いつのまにか本屋の棚から消えてる。ぬかったわっ! |
まあ、これはライトノベルに限ったことではないのだけれど……。でも、消費ペースや書店での回転の速さ、図書館での発見率の低さを考えると、小説ではライトノベルにもっとも特徴的なことだろう。
ライトノベルといえば、某所で「雷撃大賞(仮名) 審査員奨励賞」を獲る方法 第一回
という文章を見かけた。タイトルはお茶目だが内容はなかなか真面目で、これから雷撃大賞(仮名)に応募して審査員奨励賞を狙っている人の参考になるのではないかと思った。わざわざ奨励賞を狙う人がどれくらいいるのかは知らないが。
以前、『銀盤カレイドスコープ』の感想文を無断転載したこともあるので、今回も勝手にコピペしてみようと思ったのだが、これで某氏が臍を曲げて第二回以降が中止になると困るので、とりあえずこの場は見送ることにする。
というわけで、何が何でも電撃もとい雷撃大賞の奨励賞が取りたい人は、転載許可が出るまで待ってほしい。もっとも某氏が必ず許可してくれるという保証はない。念のため申し添える。
もうひとつ、ライトノベル絡みでどうでも話。
先日、久しぶりにブックオフへ行った。特に目当ての本があったわけではない(そもそもブックオフには目当ての本だけ置いていないことが多い)が、最近開店したばかりの店だったので、ざっと品揃えを見ておこうと思ったのだ。
知っている人には言うまでもないが、ブックオフには大きくわけて二種類の価格の本がある。半額本と100円均一本だ。後者は今年4月からは総額表示義務化により105円均一本になった。ブックオフが新古本を主力商品にしていた頃は、半額本が3ヶ月売れなかったら100円に値下げするというルールをとっていたらしいが、今はそこまで在庫管理をきっちりやっているわけではなく、比較的新しい本は半額、古くなったりだぶついたりした本は105円という具合に分けているようだ。
さて、半額本の棚と105円均一本の棚のそれぞれにライトノベルコーナーがあるのだが、両者の品揃えを見ていて次のことに気づいた。
これはたまたま私が訪れた店舗でそうだったというだけのことなので、ここからライトノベルレーベル盛衰史に話を広げるのは乱暴だろう。ここでは、いくつかの店舗を定量的に調査すれば興味深い結果が得られるかもしれないと示唆しておくに留める。その調査は考古学者が地層断面を探索するような地味な作業であり、私には自ら進んで行う意欲もなければ時間の余裕もない。誰かかわりにやってくれないだろうか?
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0405a.html#p040508a
昨日提示したジレンマ(名前を付けるのを忘れていた。萌えのジレンマと呼ぶことにしよう)に一行追加した。
メイドさん | 巫女さん | 妹 | 幼なじみ | |
---|---|---|---|---|
メガネ | 萌え〜〜 | 萌え〜〜 | 萌え〜〜 | 萌え〜〜 |
ネコ耳 | 萌え〜〜 | 萌え〜〜 | 萌え〜〜 | 萌え〜〜 |
貧乳 | 萌え〜〜 | 萌え〜〜 | 萌え〜〜 | 萌え〜〜 |
ほかにもさまざまな属性(萌え属性のことではなく、対象がもつ性質という本来の意味の属性)が考えられるが、どうせ何を付け加えても「萌え〜〜」になるだけなので、これをもって完全版ということにしておく。
『地域再生の経済学 豊かさを問い直す』(神野直彦/中公新書)という本を読んだ。地域共同体重視、反市場原理の立場から書かれた本で、問題点を指摘した箇所については概ね納得できたものの、問題解決の手段として財政学的観点からしか書かれていないのが不満だった。これではリバタリアンは説得できないだろうと思った。
それはともかく、この本の終盤近くに次のような一節(強調は引用者)があり、ちょっと驚いた。
道路は人間の出会いの場である。だからこそヨーロッパでは、そうした人間が出会う権利を侵さない限りにおいて、自動車の交通を認めようとする。道路も公園も人間が出会い、自然と対話し、瞑想をする場であることは間違いない。
パリでは、公園やセーヌ川の辺の道路で一人静かに瞑想にふける人をみかける。しかし、日本にはそうした公共の空間はない。僕の前に道はない、僕の前には金をとられる民営化された道しかない。それが日本の現実である。
本全体の文章のスタイルは「私」を表に出さないもの(ただし筆者の意見が前面に出ていないというわけではない。あくまでも文体の話)で、あとがき以外で一人称代名詞が用いられている箇所はほとんどなかったように思う。もちろん、「僕」という一人称はこの箇所でしか用いられていない。したがって、この箇所が高村光太郎の『道程』の捩りであるのは間違いないのだが、前後の文章の脈絡や雰囲気と無関係にいきなりこのようなパロディが出てくることに驚いたのだ。
ところで、読者諸氏の中には「高村光太郎? 誰?」という人もいることだろう。馬鹿にしているのではない。現代においては、「実生活の役には立たないが、誰もが知っている(べき/はずの)基礎教養」というものが非常に衰退している。教養などというものは一部の暇人が勝手に修得すればいいものであって、それを万人に押しつけるのは自由の侵害だ、という考えすらあるくらいだ。もはやバベルの塔は崩壊している。参考のため高村光太郎の略歴を紹介したページにリンクしておく。
あ、もしかして「バベルの塔」もわからない? むむ。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0405a.html#p040508b
the long fishの掲示板から、文脈を無視して引用。
そういえば最近クリフォード・ストール『カッコウはコンピュータに卵を産む』を再読していたのですが、そこにこんなシーンがありました。ジャズバンドが「みんなあの子が好きだけど、あの子が好きなの私だけ」という歌詞を聴いて、論理的に考えれば「あの子」イコール「私」になる、と指摘するという。
つまり「みんな」に「あの子」も含むと考えれば、あの子自身も自分が好きであり、そしてあの子が好きなのが私だけならば、あの子は自分自身が好きなのだから、あの子と私は同一人物であるという。
逆に考えると日常会話において「みんな」という言葉には「話し手や聞き手、話題の中の対象人物といった人々を除いた第三者のことを指す」という意味があるわけです。そのことをまったく学校等で習ったこともないのに使えるのはなぜだろうと思いました。
ここで紹介されている例文「みんなあの子が好きだけど、あの子が好きなの私だけ」はおそらくもとは英語なのだろうが、私は出典を知らないので、日本語をそのまま取り上げることにする。
日本語の「……が好き」という表現を分析するのは難しい。「が」の前にくるのが好意を抱く主体の場合もあれば、好意が向けられる客体(「対象」と言ってもいいのだが、ここでは「主/客」の対比を明確にするために、あえて「客体」という古めかしい言葉を使うことにする)の場合もある。
客体を表すのなら、「が」ではなくて「を」を使えばよさそうなものだが、たとえば「時蠅は矢を好む」とは言えても「時蠅は矢を好きだ」と言うと、今のところは文法違反となる。とはいえ、徐々に「……を好き」という言い回しを使う人が増えてきているようなので、そのうち誰も目くじら立てないようになるかもしれない。
それはさておき。
件の例文には「あの子が」が現れている。前半部分の「あの子が」は好意の客体を表し、後半の「あの子が」は好意の主体を表す。逆の解釈も文法上は不可能ではないが、著しく不自然なものになるだろう。「あの子はこの部屋に好きなものを集めて、それに取り囲まれて暮らしていたけれど、その生活は幸せじゃなかった。なぜって、あの子は他人から嫌われていたから。あの子がこの部屋で閉じ籠もって暮らしていたときのことを想像してごらん。(部屋の中の品物を順に指さしながら)みんなあの子が好きだけど、あの子が好きなの私だけ。そんな暮らしが幸せなはずはないじゃないか」というような特殊な場合にしか成り立たない解釈である。
さて、例文の前半の「あの子」と後半の「あの子」は当然同一人物である。別人を指すという解釈も文法上は不可能ではないが、著しく不自然なものになるだろう。「(二人の人物の右側を指して)みんなあの子が好きだけど、(左側の人物を指して)あの子が好きなの私だけ」という場合なら話は別だが。
ここで注意。「要するに言葉なんてどうとでも解釈できるんだ」などとと考えないように。上で述べたのは、既成の文法と語義に基づく限り、解釈には自ずと限度があり、その限度内でも自然な解釈と不自然な解釈がある。その違いは程度の差に過ぎず、文脈によっては解釈の自然さの度合いが逆転することもあり得る。しかし、だからといって「すべての言語表現がありとあらゆる解釈に対して開かれている」などと言うのは暴論である。
話がちょっと横道にそれた。
例文に戻る。特殊な状況が与えられていないと仮定し、自然な解釈に基づき記号化を施すと、件の例文は次のようになる。
(1) ∀x(Rxa)&∀y(Ray→(y=b))
括弧の付け方にちょっと迷ったが、たぶん大きな間違いはないと思う。念のために説明すると「∀」は全称量化子、「&」は連言の論理結合子、「→」は条件法(含意)の論理結合子、「R」は2項の述語記号(ここでは「好き」)、「=」は同一性記号、「x」と「y」は個体変項、「a」と「b」は個体定項(ここではそれぞれ「あの子」と「私」)だ。
これをややぎこちない自然言語に再翻訳してみよう。上記の事情により「好き」では主客がややこしいので、「好む」と書くことにする。
(1') 何であれ、それはあの子を好む、そして、何であれ、もしあの子がそれを好むならば、それは私と同一である。
「あの子」に好かれているという条件を満たすのが「私」だけだということを記号で表すのに、その条件を満たすすべてのものは私と同一であると書くのは回りくどいのだが、あとあとの取り扱いを考えると、これがもっとも便利だ。
次に(1)から前半部分(もとの例文では「みんなあの子が好きだ」)を取り出す。
(2) ∀x(Rxa)
全称量化子で束縛された個体変項は任意の個体定項に置き換えて量化子を取っ払うことができる。これは「全称例化」という……のだったはず。そこで、aで置き換えることにしよう。
(3) Raa
(3)は「あの子は自分自身が好きだ」という意味だ。
次に(1)の後半部分を取り出す。
(4) ∀y(Ray→(y=b))
(4)のyも全称量化子で束縛されているので、同様にaに置き換えてみる。
(5) Raa→(a=b)
(3)と(5)をもう一度繋ぎ合わせる。
(6) Raa&(Raa→(a=b))
(6)は「Aかつ(AならばB)」という形である。昔ながらの三段論法により「したがって、B」と結論づけられる。
(7) a=b
これで、「あの子」と「私」が同一であることが証明できた。Quod Erat Demonstrandum. ああ、面倒くさい。
「あの」という指示詞は、ふつう話し手と聞き手の両方から離れた物事を指すために用いられる。話し手寄りなら「この」、聞き手寄りなら「その」だ。よって、壁に掛かった写真や肖像画を少し離れた場所から見ながら話をする場合のような例外的な事例を除き、「あの子」が話し手の「私」と一致することは考えにくい。では、どう考えればいいのか?
日常会話において「みんな」という言葉には「話し手や聞き手、話題の中の対象人物といった人々を除いた第三者のことを指す」という意味がある
というのはやや言い過ぎではないかと思う。「あの子」のことが好きな「みんな」の中に「私」自身が含まれていても別に構わないだろうから。
件の例文で「みんな」の中に「あの子」が含まれていないと解釈するほうが自然なのは確かだ。だが、「みんな」という言葉の日常会話における意味によって除外されるというのではなくて、「みんなあの子が好き」という一連の表現において除外されると考えたい。「好き」という言葉には他人に向ける好意と自己愛の両方が含まれているが、ここでは前者の意味に限定されているのだ、と。
いずれにせよ、「みんな」のうちに「あの子」が含まれないとすれば、それが表現できていない(1)では具合が悪い。ちょっと場当たり的だが、次のように書き直しておこう。なお「〜」は否定を表すものとする。
(1改) ∀x(〜(x=a)→Rxa)&∀y(〜(y=a)&Ray→(y=b))
これでいちおう問題は回避できた。
なんとなく書き始めた文章が予想以上に長くなってしまった。特に結論を考えてあったわけではないが、このまま終わってしまうと尻切れトンボになってしまうので、いちおう形だけまとめを書いて締めくくりとする。本文の論旨とずれるところもあるかもしれないが、ご容赦願いたい。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0405a.html#p040509a
数年前にe-NOVELSが登場したとき、ネット上やネット外のあちこちで話題になった。私もそのうち試しに使ってみようと思っていたのだが、何となく弾みがつかないまま現在に至っている。だが「何となく」では話が進まないので、ちょっと後づけめくけれど、いくつか理由を挙げておこう。
ざっと、こんなところか。
賢明なる読者諸氏には既におわかりのことと思うが、ここに挙げた事情は別にe-NOVELSに限ったことではない。実際、私は電子書店パピレスで買い物をしたこともない。では、なぜe-NOVELSを例にとったのかといえば、今日の本題への前振りのためだ。
というわけで、ここからが本題。
政宗九・フク・嵐山薫の三氏によるe-NOVELS提携のモニター企画が始まった。既に政宗九の視点内でe-NOVELSモニター書評ページが公開されている。今後、ほかのネット書評家も参加する可能性があるそうだ。個人的には漂泊旦那氏とMAQ氏が参加していただけると有難いが、それはまた別の話。ともあれ、私のように何となくe-NOVELSに縁がないまま過ごしてきた人々の注意を喚起できることを祈りたい。
本題終わり。この先は余談。
さて、記念すべき(かどうかは今後の展開を見ないとわからないが)第一回書評は政宗九氏による『ジェフ・マールの追想 −アンリ・バンコランの事件簿−』(加賀美雅之)(リンク先はe-NOVELS内の当該作品販売ページ)評だ。副題からもわかるとおり、この小説はカーが生んだ名探偵アンリ・バンコランを主人公にしている。同じ作者の『双月城の惨劇』(カッパノベルス)では諸般の事情により名前が変わっているが、こちらではどうやら本名で登場しているようだ。
政宗氏の書評を読む限りでは非常に面白そうだ。たとえば、トリックとしてはやや時代がかっているし、もしこれを現代を舞台にして書くと「バカミス」と言われかねないようなタイプのものなのだが、1930年代だしパリだし(それは関係ないか)カーの世界だし、というわけで納得させられ、同時に感心してしまう。
というコメントを見ると、物凄く興味をそそられる。
他方、ちょっとげんなりすることもある。
そしてこの物語には、ある日本人が登場する。中盤から後半にかけて重要な役割を果たすことになる彼は、この事件の後に帰国し、ペンネームを使って小説を書くようになる。その正体は……という展開は、かの島田荘司『漱石と倫敦ミイラ殺人事件』を彷彿とさせる趣向である。ラストシーンでバンコランとジェフが日本から届いた雑誌を手にするシーンには、思わずニヤリとしてしまうだろう。
私はこの種の「思わずニヤリとしてしまう」趣向にはうんざりしている。「またかよ!」と言いたくなる(ここを参照。「田辺正幸」というのは加賀美雅之の長篇デビュー前の名前)。もっとも作者の言葉によれば、この作品は2001年に『新・本格推理01』に応募したものだそうなので、今さらどうこう言うことでもないのかもしれない。
閑話休題。
『ジェフ・マールの追想』は157ページで税込491円に設定されている。文字の組み方はわからないが、ページ数だけで比較すれば一般の文庫本に比べて値段が高いように思う。ただ、新書と比べればだいたい似たようなものか。
電子出版の本の価格については、日本電子出版協会の日本の電子出版というサイトで次のように書かれている。
出版物は比較的製造コストの安い製品ですがそれでも製造費は馬鹿になりません。ひとつの本を作るのには最低でも数百万円の金が必要です。そのコスト中で紙や印刷費といった情報を紙に固定する費用は大きな比重を占めます。しかし電子出版、特にネットワークを利用した場合にはこのコストはほぼ内容を制作する費用だけになります。
残念ながら現状では市場規模が圧倒的に小さいため電子出版物の価格は紙の本と同じような価格に止まっています。しかし電子的出版物が紙の本と同じように売れるならば本の価格は飛躍的に廉価になるはずです。
この将来見通しはやや楽観的ではないだろうか? 電子出版物が紙の本と同じくらい、あるいはそれよりも売れる時代は来るかもしれない。しかし、電子出版物が今の紙の本と同じくらい売れる時代は来るのだろうか? 識者の意見を伺いたい。
ところで、電子出版界ではいったい著者の取り分はどれくらいなのだろうか?
紙の本だと、昔から著者印税は10パーセントが標準とされてきた。もちろん例外もあって、特に最近は長引く出版不況のせいで印税率を切り下げる出版社が増えてきているようだから、もはや一般論では語れない時代になっているのだと思うが、それでも目安くらいにはなるだろう。
現在の電子出版物の価格が紙の本とほぼ同じなのだから、印税率(電子出版の場合も「印税」というのだろうか?)も同じ、と単純に考えればいいのかもしれない。だが、それだと(市場規模が全然違うのだから)著者にうまみがない。うまみがなければ人は寄ってこない。人が寄ってこなければ、電子出版業界発展の起爆剤となるような本が出ることもなく、いつまで経っても市場規模は広がらないままということになるかもしれない。実際には取次や書店を通さない分、多少は著者取り分に上乗せされると思うので印税率10パーセントということはないだろうが……。
http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0405a.html#p040510a
気まぐれな神がサイコロ遊びで一人の人間を選び、その者の望みを叶えることにした。そして、たまたまあなたが"その一人"に選ばれた。さて、あなたは何を願うだろうか?
人の望みはさまざまだ。小は家内安全から大は世界平和まで。だが、ここでは個人的な欲望に基づく願いに話を限ることにする。
「いや、私は金も権力も名誉もいらない。ただ、萌えがほしい」と言う人もいるだろう。だが、萌えについて語るとなると話がややこしくなるので、我慢してほしい。
さて、使い切れないほどの金が神から与えられたら、それはそれで幸せなことだ。「その金を盗まれたらどうしよう」とか「こんなにいっぱい金があるとかえって購買意欲が失せるなぁ」とか、いろいろ不安や不満も出てくるだろうが、それはまあ仕方がない。また、絶大な権力で他人を動かすのも気分がいいことだろう。よくは知らないが、権力は蜜の味がするというから、きっと病みつきになることだろう。
では名誉はどうか。誰しも他人から誉められたり讃えられたりするのが大好きだ。でも、名誉は常に何かについての名誉であり、ただ何となく名誉がある状態というのは考えられない。そこで、仮に傑作小説の作者としての名誉が与えられたとしよう(小説に関心がない人は、別のものに置き換えて考えてもよい)。あなた自身には何の才能もなく、努力をしたわけでもない。神が書いた小説をあなたの名前で発表しただけだ。
会う人ごとに尊敬のまなざしで語りかけられる。「あなたの小説を読みました。これまででいちばん感動しました」「生きて手よかったと心の底から思いました。私はあのひとときを一生忘れません」「素晴らしい! ただその一言に尽きます」「これは単なる小説ではない。文学の形をとった一種の奇蹟だ」などなど賞讃の言葉があなたに浴びせかけられる。さらに、インターネットの書評サイトでも激賞され、全国からファンレターがひっきりなしにあなたのもとに届けられる。各種文学賞を総なめにして、テレビのワイドショーにも取り上げられ、ちょっとした社会現象になる。
それであなたは満足だろうか? 「満足だ」と思う人は幸いだ。あなたにはきっと光溢れる未来が待ちかまえていることだろう。
だが、「それでは満足できない。私の欲求は半分しか満たされないのだから」と言う人もいるだろう。きっといるに違いない。いるものと仮定しよう。そうしよう。
名誉欲とは、他人から誉められたいという欲求のことだかが、同時に、他人から誉められることによって自分がひとかどの人物であると確認したいという欲求とも結びついている。人はしばしば自分がどのような人間であるのかを知らない。たぶんこんな人間だろうというある程度の思いこみはあっても、それを確認するには他人の目が必要だ。
先ほどの仮想では、確かに他人はあなたを賞讃する。だが、あなたは、その賞讃が本来自分に向けられるべきものでないことを知っている。どんなに見識のある人の批評であっても、あなたの小説家としての才能をはかる尺度にはならない。よって、あなたは自己確認ができないままだ。
では、状況を変えてみよう。神があなたの代わりに小説を書くのではなくて、あなた自身が傑作を書けるように仕向けるのだとしよう。あなたは本来の才能以上の力を発揮し、素ではとても書けないような素晴らしい小説を書き上げるのだ。それを発表すると世間で大人気になるのは先の例と同じ。あなたはその状況なら満足できるだろうか?
まだ満足できない? では仕方がない。さらに別の状況を考えてみよう。神はあなたに傑作を書くように仕向ける代わりに、あなたに傑作が書ける才能を与えるのだとしよう。もちろん、才能さえあればいいというわけではないから、その才能を最大限に発揮できる環境も同時に与えられるものとする。あなたは日常生活のさまざまな悩みに煩わされることなく、十分な執筆時間を与えられ、静かな環境で粛々と小説を書く。書き上がった小説は先のふたつの例と同じく世間の人々から大絶讃される傑作だ。
さあ、これで満足だろうか? あなたには小説家としての才能があり、その才能の当然の帰結として傑作を書き、世間に受け入れられ、人々から賞讃され、翻って自分の才能を確認することができるのだ。どこにも文句はないではないか。
それでもまだ駄目かもしれない。あなたは自分の才能がもともと備わっているものではなくて、あなたの願いに応じて神から与えられたものだと知っているのだから。それでは、とってつけたような印象は拭い去れない。
では、あなたはいったいどうすればいいのだろうか? こう願えばいいのか。「神よ、私に小説家の才能を与えてください。その上で、私の記憶から私がそのように願ったという事実そのものを消し去ってください」と。これなら、あなたは、自分の才能がとってつけたものだとは感じず、ずっと自分の内にあったものだと錯覚することができるだろう。
かくしてあなたは名実ともに大作家となり、名誉を得て幸福な余生を過ごすことになるだろう。めでたし、めでたし。