【日々の憂鬱】書くことがないのに更新するのはいかがなものか。【2004年4月上旬】


1.11019(2004/04/01) 四月馬鹿と五月の魚

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404a.html#p040401a

今日はエイプリルフールだというのに、朝から全然嘘をついていない。面白い嘘、愉快な与太話など、今の精神状態では到底出てくるものではない。

疲れた。このまま何もかも放り出して逃げ出したいくらいだ。だが、一日更新を休んだだけで、私はまたここに戻ってきた。いったい、このサイトを持続させることにどれほどの意味があるのだろう、と訝りながら。

実生活では、私の近くに話の合う人はほとんどいない。マンガやミステリの話題なら、ある程度共有できる人はいるが、論理学や古楽の話題になると全く話ができない。だが、ウェブ上なら、そんなマイナーな話題でも関心を持ってくれる人がいるので、心おきなく書き散らすことができる(とはいえ、古楽の話題は最近ほとんど扱っていないが)。

だが、逆にいえば、他人の趣味や傾向に配慮せずに、自分勝手に気ままに文章を書き連ねることにもなる。それがいけないのか、と言えば、別にいけないことはないのだが、自分のウェブサイトは自分の王国だ、と割り切ってしまうのも釈然としない。そんなわけで、サイト運営の方針が確立しないまま、いつもふらふらとしている。

こんなサイトでも一日に300ヒット以上のアクセスがあるというのは驚くべきことだ。もちろん300人もの人々が私の書く文章に興味関心をもっているというわけではないだろう。ものの弾みでアンテナに登録して惰性でクリックしている人もいるだろうし、何かの手違いでアクセスしてしまった人もいるだろう。だが、中には本当に私の書く文章に関心を持って閲覧してくれている人も何人かはいるはずだ。そう信じたいものだ。


上の文章は、知人から貰った半自動文章生成プログラムにより作成したものである。「たそがれSpringPoint」の過去ログをプログラムに読ませて、「エイプリルフール」「マイナー」「アクセス」などのキーワードを入力し、いくつかの条件を設定したら、私自身が書いたのとほとんど変わらない文章が出てきた。よく読めば、以前書いたフレーズがそのまま出てきている部分もあるのだが、大方の読者はそんなことを覚えてはいないだろう。これはよくできている。

件の知人によれば、このプログラムはまだ開発途中で、公開するまでもう少し手直しが必要だそうだ。そこで、今のところは詳しい紹介は控えておく。いずれ完成作がネット上で公開された際には、微力ながら私も宣伝することにしようと思う。

1.11020(2004/04/02) 嘘吐き

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404a.html#p040402a

「嘘吐き」はもちろん「うそつき」と読むのが正しい。「嘘を吐く」なら「うそをつく」だ。だが、私はどうしても「吐く」を「はく」と読んでしまう。酒を飲み過ぎてゲロを吐くような感じで、口からゲーゲーと嘘を吐く、というイメージだ。

そういえば、ネット上でたまに「毒を吐く」という言い回しを見かけるが、これは「どくをはく」と読むのか、それとも「どくをつく」と読むのか、私にはわからない。「毒づく」という動詞があるのだから、「毒をつく」があってもおかしくはないと思うのだが……。


昨年、某氏が某出版社を退社したとき、最終日まで残業していたという話を聞き、「何もそこまでして会社に尽くさなくても」と思った。だが、このたび私も諸般の事情により、三年間勤めていた会社を辞めることになり、残務整理と後任への引き継ぎの準備をしていたら、もう少しで終電に乗り遅れるほどだった。

会社に尽くすという意識は全くないのだが、自分がやりかけていた仕事を中途半端に残したまま去っていくのはどうにも気分が悪いもので、ようやく某氏の心境がわかったような気がした。もっとも私の勤めていた会社は出版社ではないので、内情は全然違っているかもしれない。


図書館情報大学閉学のおしらせ(情報もと:重楼疏堂〜城郭と旅はしばらくお休み,日々のおぼえがきで図書館を論じる〜)。大学を開設することを「開学」というのだから、大学を閉鎖することを「閉学」というのは、考えてみれば当然のことだが、実際にこの言葉を見たのは生まれて初めてだ。


港湾を廃止し閉鎖するのは「廃港」か「閉港」か?


NaokiTakahashiの日記その2(3/31付)から。

姉のパンツにハァハァしてる人に対して、姉のパンツなんてダメだよ、やっぱりパンツは妹だろ! っていうのが反論だとすると、パンツなんかどうだっていいよ、とやるのが異論なのだと思う。

どちらも反論でもなければ異論でもないと思う。なぜなら、そもそもそこには立論がないのだから。

仮に「姉のパンツは素晴らしい」と主張する人がいたとして、それに対して「妹のパンツのほうがもっと素晴らしい」と言っても、「パンツなどどうでもいい」と言っても、どちらも異論だろう。反論というのは、相手の主張とその主張を支持するものとして提示された根拠との関係を批判的に吟味し、その根拠が主張を支持するものではないことを示すことだと思う。

もっとも、異論と反論は多くの場合セットになっている。異論を出すだけ出して反論しなければ説得力が乏しくなるし、異論もないのに反論だけ行ってもあまり意味がない。


昨日、うっかりまいじゃー推進委員会!を見忘れたので、このライトノベルがひどい!が掲載されていたことを知らなかった。残念だ。

死ぬほど苦労したとのことだが、中身を見ると、その言葉に誇張がないことがわかる。こんなページはなかなか作れるものではない。私だったら逆立ちしても無理だ(もちろん、極楽トンボ氏が逆立ちしながら「このライトノベルがひどい!」を作成したのだと言いたいわけではない)。

私が感心したのは、このライトノベルがひどい!ベスト10で1位から10位までそれぞれ別のネタを用いていて、しかも嫌みなところが全くないことだ。

私はライトノベルはあまり読んでいないが、ひどいミステリなら山ほど知っているので、「このミステリーがひどい!」という企画をやろうと思えばさほど難しくはないと思う。だが、笑いを取ろうと努力すれば努力するほど、臭気漂う不快な罵倒ばかりになってしまうだろう。やはり、これは人徳の差か。

1.11021(2004/04/04) 対称性の主張/主張の非対称

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404a.html#p040404a

ある人が、何かの機会に次のように主張したとしよう。「同性愛は罪ではない。同性愛者がもし相手の意に反して同性を襲ったなら当然処罰を受けるべきだが、そうでない場合には、ただ同性愛者であるという理由をもって非難を受ける筋合いはない」と。これを主張Dと呼ぶ。

同性愛は性的倒錯であると考える人々は、主張Dに対して反発するだろう。単に感情的に反発する人もいれば、何らかの根拠をもって異論・反論(ここでは「異論」と「反論」を特に区別しないことにする)を提示する人もいるかもしれない。だが、今はそのような立場の人々については考えないことにしよう。また、逆に「同性愛者は特権的な存在であり、無理矢理人を襲うことも許される」という考えの人もいるかもしれないが、これも考慮の外におく。

さて、主張Dに同意する人の中にも反発する人がいるかもしれない。なぜなら、主張Dは、その内容が性的対称性に関するものでありながら、暗に性的非対称を示していると考えることができるからだ。

その事を明らかにするために、もう一つの主張を例示してみよう。「異性愛は罪ではない。異性愛者がもし相手の意に反して異性を襲ったなら当然処罰を受けるべきだが、そうでない場合には、ただ異性愛者であるという理由をもって非難を受ける筋合いはない」。これを主張Iと呼ぶ。

主張Iは奇妙なものに思われる。その内容に同意できないというわけではなく、ただことさらこのような主張を行うことに不自然さが感じられるが故に。だが、主張Iは、主張Dを構成する文字のうち「同」を「異」に置き換えただけのものに過ぎず、文法的には全く同じ構造を持っている。だったら、主張Dも同様に奇妙で不自然な主張だということになるのではなかったのだろうか? そうではなくて、主張Dが健全で自然なものとして語られ、受け入れられたのだとすれば、同性愛と異性愛についての非対称性が示されたことになるだろう。

人によっては、この状況をパラドックスだとみなすかもしれない。ある事柄を語ることにより、かえって逆の事柄を示すことになってしまうのだから。もっとも、これが本当にパラドックスなのかどうか、私にはわからない。


上の話題は最近ネット上でよく取り沙汰されたある論争(というほどまとまった議論が展開されていたかどうかは疑問だが)に関する文章を読んでいるときに思いついたものだが、その話題そのものへの興味に従ったものではないのでリンクは避けておく。もちろん、私のこの文章と、きっかけとなった文章の両方にリンクしてコメントすることは自由だが、例文や議論のニュアンスが異なっているという批判は勘弁していただきたい。

実を言えば、私はジェンダー(ここでいう「ジェンダー」は文法上の性のことではない)の問題にあまり関心はない。ただ、私の関心のある言語の話をするのに都合がよかったから例に挙げてみただけだ。適当な例文さえ思いつけば、同国人と異国人の例で語ってもよかった。ただ、ジェンダーの問題は言語と深く関わっていることが多いので、他の話題よりも興味深いのは確かである。前に書いた「子供」と「子ども」、「男女」と「女男」もジェンダーをネタにしている。

私の姿勢が他人の論争を高みから見下ろしているようで不愉快だと思われる人がいるかもしれない。だが、私は見下ろしているわけでも、見下しているわけでも、見下げているわけでもない。

私はただ宙ぶらりんになっているだけなのだ。

1.11022(2004/04/05) 奇妙な問いと無意味な問い

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もしも誰かが「ブリジット・フォンテーヌとラ・フォンテーヌは別人だろうか?」と問うたとする。それは非常に奇妙な問いだろう。両者のことを多少とも知っている人なら、まさか同一人物とは思わないだろうから。だが、これは無意味な問いではない。

他方「アナトール・フランスとラ・フランスは別人だろうか?」という問いは、ただ奇妙な問いであるばかりではなく、無意味な問いでもある。ラ・フランスは人ではなく梨なのだから。

1.11023(2004/04/06) 死人と病人たち

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404a.html#p040406a

先週末に『小説 スパイラル〜推理の絆〜4 幸福の終わり、終わりの幸福』(城平京/スクウェア・エニックス)を読んだ。で、その感想を書こうと思いつつ、うまい切り口が見つからないので数日間放置していた。

私は別に読んだ本すべての感想文を書こうという方針を立てているわけではない。たとえば、先月末には『スカーレット・パラソル1 はじまりは青い月』(新庄節美/創元推理文庫)を読んだが、その感想文は書いていないし、これから書く予定もない。同様に『幸福の終わり、終わりの幸福』も無視してもよかったのだが、こちらはミステリとして興味深い特徴がいくつかあるので、取り上げてみようと思ったのだ。ところが、いざ感想文を書こうとすると、なかなか考えの筋道が通らない。だが、あまりもたもたしていると、どんどん内容を忘れてしまうし、読み返すのもしんどいので、見切り発車と相成った次第。


『小説 スパイラル〜推理の絆〜』は、タイトルからもわかるとおり、同名マンガ(水野英多・画)の小説版だ。ノベライズではなく、ストーリーは全く別物なのだが、マンガ関連商品であるため、敬遠している人も多いことと思う。そのせいか、ミステリ系の読書感想サイトではあまり言及されることはない。作者の城平京は『名探偵に薔薇を』(創元推理文庫)で長篇デビューしているので、いちおうミステリ畑出身だが、今ではほとんど忘れ去られているのではないか。微妙なミステリ作家バーチャルネットアイドル・ちゆ12歳、ただし現在はこのフレーズを含む記事は見あたらない)という表現がぴったりの、ミステリ界に居場所のないミステリ作家である。

『小説 スパイラル〜推理の絆〜』はこれまで年一冊ずつ、毎年3月に出版されてきた。マンガ版の主人公、鳴海歩が探偵役となる書き下ろし中篇にガンガンNETに掲載された「外伝小説 名探偵 鳴海清隆 〜小日向くるみの挑戦〜」を併録するという形になっていた。外伝小説のほうは、当初、読者から解答を募るクイズ形式だったため謎解き色が強く、書き下ろし中篇のほうはやや実験的な内容になっていた。しかし、今回は書き下ろしの表題作「幸福の終わり、終わりの幸福」(今までで最も長く、これだけで短めの長篇となっている)が外伝の最終話であるせいか、形式的にはまともなパズラーとして仕上がっている。

ネットに掲載された「近況報告」と「くだんを殺せ」も、かなり辛気くさい話だったが、「幸福の終わり、終わりの幸福」(冒頭部分のみここで試し読みできる)はさらに輪をかけて鬱陶しい雰囲気の小説で、いったい作者はどのような読者層を念頭に置いてこんな小説を書いたのだろうかと私は首を捻ったのだが、最後まで読んでこの小説がどのような読者に向けて書かれているのかがはっきりとわかった。これは、すれっからしのミステリマニアを、そしてそのような読者のみを対象にして書かれている。マンガ版『スパイラル〜推理の絆〜』の読者は作者の眼中にない。

テーマはアリバイ崩し、容疑者は3人に絞られている。誰が犯人であってもおかしくはないし、アリバイトリックそのものにも意外性はない。というか、このトリックと同じ発想が先立つ短篇で用いられているので、この本を前から順に読んでいけばトリックはバレバレだ。アリバイ崩しとフーダニットという相性の悪い要素を組み合わせたところに工夫が見られるが、それだけでミステリとしてよく書けていると評価するのはちょっと苦しい。

「幸福の終わり、終わりの幸福」の真価は、論理的な狂気を描き出したところにある。あまり詳しく説明するとネタばらしになってしまう(このようなミステリでネタばらしがいけないのかどうかはわからないが、その点について深く考えても仕方がないので今は無難な書き方を選ぶ)のでぼかして書くが、徹底的に論理的に構築された犯行計画のうちに狂気が垣間見えるという趣向だ。それに対峙する名探偵の側も自ずと常軌を逸した病的な推理を繰り広げることになる。

論理に淫した技巧的なミステリを読むと、最後にすべての謎が解き明かされたときに目眩のような奇妙な感覚にとらわれることがある。この感覚はあまり一般的なものではないらしい。世界が反転するような大仕掛けで意外な結末を迎えるミステリを傑作だとたたえる人は多いが、みみっちく瑣末な論理の積み重ねにより歪な大伽藍を築き上げるようなミステリは一部のマニアしか評価しない。おそらく「幸福の終わり、終わりの幸福」も、ほとんど話題にならずに埋もれてゆくことだろう。一方では残念だと思う気持ちもあるが、他方では当然だとも思う。

「幸福の終わり、終わりの幸福」にはもう一つ興味深い特徴がある。それは、同型性の魔力を用いているということだ。といっても、たぶん大方の読者には何のことかわからないだろう。「同型性の魔力」という言葉は一般的ではない。今私が思いついたフレーズなのだから。これもあまり詳しくは説明しない。乱歩の『目羅博士』を参照してもらいたい。いや、あれは同型性というより対称性か。泡坂妻夫の初期短篇あたりを引き合いに出すほうが適切かもしれないが、具体的な作例を挙げるとネタばらしの恐れがあるので、やめておこう。

ともあれ、「幸福の終わり、終わりの幸福」は同型性の魔力を使って強引に読者を説得しているのだが、そのような手法はミステリとしてはいかがなものかという気がしないでもない。また、冷静になって振り返ってみると、あちこちにかなり大きな穴がある。たとえば、死亡推定時刻の幅が犯人にとって都合が良すぎることとか。だが、これ以上のあら探しは読者諸氏にお任せすることにする。


最後に、あとがきから興味深い箇所を引用しておく。

私の作品はともかく、たまには苦労して読む謎解きミステリに挑戦して充実感を得るのもいいですよ(慣れれば苦労も感じなくなりますし)。少なくともミステリについて何か語る気ならG・K・チェスタトンのブラウン神父ものを最低三冊は読むべし。語る気がないなら個人の自由ですけれど、チェスタトンを読まずしてミステリを読んだ気になるのももったいないとも思います。

この手のお薦め必読作を挙げだすときりがないのですが、世代間のミステリ知識の差が大きくなっていくのを感じると野暮ったいことも言いたくなるのですね。

たとえ読まなくても、せめてそういう作品がいくつもあって読んでいないと公言するのはちょっと恥ずかしいぞ、という感覚は持っていてほしいなぁ、などと考えたりもします。何でも新しけりゃいいってもんじゃないんだ、と叫びたくなったもしたり。

いったい作者はどのような読者層を念頭に置いてこんなあとがきを書いたのだろうかと私は首を捻った。主張内容については、全面的に同意するのだけれど……。

1.11024(2004/04/07) TOMAS LUIS DE VICTORIA

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404a.html#p040407a

「ヴィクトリア」ではなく「ビクトリア」だと思う。参考

1.11025(2004/04/07) テキストサイトの追憶

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404a.html#p0404

その頃、街の人々は「テキストサイト」の噂ばかりをしていました。「テキストサイト」というのは、インターネット上のウェブサイトの一種で、主に個人が趣味で作成したもののうち、日記や雑文、コラムなどの文章を中心としたものです。今でいう「ブログ」に近いのですが、その頃は「ブログだって? ぷっ」とみんな笑っていました。

一口に「テキストサイト」と言っても千差万別です。一日10万ヒット以上の超大手サイトが一方にあり、他方にはアクセスするのは書いている本人だけという可哀想なサイトもありました。けばけばしい色調のフォント弄り系もあれば、どこかで見たようなレイアウトのバーチャルネットアイドルもいるのでした。

人々の尊敬を受けるテキストサイト管理人もいれば、袋だたきにあう管理人もいました。大手サイトに媚びを売る人も、超然としたふりをする人もいたのです。けれど、みんな心の中では「もっと大勢の人に見てもらいたい、賞賛してほしい」と思っているのでした。そして、日夜ネタを探してネット上を徘徊するのでした。

テキストサイト批評サイトもあれば、テキストサイト専門ニュースサイトもありました。テキストサイト論もたくさんありました。みんなみんなテキストサイトが大好きだったのです。

いつの頃からでしょう、テキストサイトの噂話が聞かれなくなったのは。それは、はてなアンテナが普及し始めた頃だったでしょうか。それとも、吉野家のコピペが廃れた頃だったでしょうか。知らず知らずのうちに宴は終わりを迎え、テキストサイトに黄昏が訪れました。

テキストサイトは決して滅びることはなく、ただ次第に衰え、人々の前から姿を消していったのです。


ここを読んでなんとなく昔が懐かしくなり、思いついたことを書いてみた。特にオチはない。

1.11026(2004/04/08) 世界と私とたこ焼きと

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404a.html#p040408a

今日は、水没クローゼット3/30付客観的世界実在論の、存在論的独我論に対する優位性についてについて考えてみることにする。前にコメントをつけたが、3月末で仕事が忙しく中途半端な取り上げ方しかできなかった。そこで、再度検討してみようと思ったわけだ。なお、今回の見出しのなかの「たこ焼き」には何の意味もない。


まず、前回のコメントを再掲しておく。

  1. 「なぜ私はこの時代にこの場所でこの人間として生まれたのか」という問いは、私がこの時代にこの場所でこの人間として生まれたのでなければ空回りする。その点に懐疑の余地はないものだろうか?
  2. 客観的世界の実在を認めることと、還元的唯物論の立場をとることとは同じではない。
  3. 単なる確率の問題だからこそ、疑問が生じるのではないだろうか?
  4. 合理的でなければならないのは世界ではなく、問題に対する解決のプロセスだ。

自分で書いておきながらこんな事を言うのもどうかと思うが、説明不足で何を言いたいのかわからないコメントだ。補足説明しておくべきだろう。

1について。こせけい氏の問いはなぜ私はこの時代にこの場所でこの人間として生まれたのかというものだが、この問いには余計な要素が含まれているのではないかと私は考えた。その余計な要素のせいで、本来の関心事とは全然別のところで懐疑を差し挟む余地が生じるのではないか、と。

たとえば、私はこの時代に生まれたのではなく、実は古代ローマ時代に生まれたのだが、生後すぐまだ意識も定かでないときに、気まぐれなタイムトラベラーによって20世紀の日本に連れてこられたのだとしよう。その時、何らかの方法によって私には仮の両親と戸籍が与えられ、私は現代の日本人として成長してきた。しかし、私が生まれたのは、この時代ではない。

非常に馬鹿らしい仮定だ。常識外れだからという理由によってではなく(もし、常識を持ち出すなら、客観的世界の実在について一所懸命に考えているこせけい氏もまた同様ということになるだろう)、当面の話題と関心にとって全く何の意味もない仮定だからだ。しかし、こせけい氏の問いを文字通りにとれば、この仮定により、問いはその効力を失う。「なぜAなのか?」という問いはAでない場合には無意味なものとなるからだ。なお、言うまでもないことだが、この仮定は客観的世界が存在するという前提条件によって論駁可能なものではない。上の仮定は客観的世界の実状についてのものだと解釈可能なのだから。

では、こせけい氏はどう問えばよかったのか? 今私が挙げたような揚げ足取りの無効化を逃れるためには、問題をぎりぎりまで切りつめて「なぜ私は今ここにいるのか」と問うべきだったろう。これが私が1で述べたことの真意である。だが、こんな妙な思考をトレースするのは無茶だから、こせけい氏に私の意図が伝わらなかったのはやむを得ない。

ところで、論点1についてのこせけい氏の応答の中で、「客観的世界が実在する」ということは、そのまま「神の視点を設定可能である」ということになると考える。という箇所には疑問がある。「客観的世界」という語は、「当該世界内の任意の主観から独立な世界」という程度の意味であり、客観的世界の実在を前提することから世界の外部(?)にある神の視点の設定可能性を帰結することにはならない。また、一歩譲って、神の視点が設定可能であることを認めたとしても、そこから我々は神の視点から議論を進めねばならないということにはならないはずだ。「できる」ということから「ねばならない」を導くのは議論の飛躍である。

論点2も議論の飛躍に関わる指摘だ。客観的世界が存在するということから、私の意識とは私の脳の生成するものに他ならないということは帰結しない。仮に神の視点を設定したとしても、神の視点から眺めれば、全ての心的作用と考えられているものは脳の活動に還元可能だ。と言える根拠はない。もしかしたら、神はすべての心的作用をナポレオンの腹のタムシに還元するかもしれないではないか。

冗談はさておき、もう少し真面目な話をしよう。私は言語を用いて思考する。言語は私の脳に還元可能ではない。よって、私の思考は私の脳に還元可能ではない。この議論は非常に素朴なものなので、還元主義者なら何通りもの反論を提示することができるだろう。だが、ここで大事なことは、今述べた議論は、客観的世界実在論や神の視点に抵触するものではない、ということだ。ちょうど、ナポレオンの腹のタムシの活動こそがすべての人間の心的作用を構成するというテーゼが、客観的世界実在論や神の視点に抵触するものでないのと同様に。これらが抵触するのは、科学的世界像に対してである。現代科学は客観的世界の実在を前提とし、かつ、還元的唯物論を基礎としている。もし、こせけい氏が最初から、科学的な客観的世界像について語っていたのなら、何の問題もなかったのだが。

3では別のレベルの話をしている。こせけい氏は、客観的世界実在モデルと客観的世界非実在モデルを比較して、前者に優位性を認めるのだが、「単なる確率の問題」といって当初の問いが解消されるのなら別にどちらのモデルを採用しても同じことではないかと思う。ただ、もしかしたら私は何か大きな勘違いをしているのかもしれない。そこで、もし客観的非存在モデルを採用した場合には我々人間が「なぜ」を問題にしたくなるのは単に「気分」によってであると言って件の問いを解消することはできない、ということが示されれば、私はこの論点を撤回することにしよう。

最後に4について。後期ウィトゲンシュタイン風に言えば合理性とは「我々がその上で哲学を語る地盤」だと言えるだろう。というこせけい氏自身の言葉でだいたい合っている(はたして本当に後期ウィトゲンシュタイン風なのかどうか、という疑問は残るが、それは大した問題ではない)が、念のためにもう少しはっきりと書いておこう。

合理性というのはそもそも何らかの性質なのかどうか、というところかに考え始めるときりがないので、今は「合理」という言語表現を信用しておくことにするが、この性質は世界に帰属するものではない。といっても世界が合理性を持たない、言い換えれば非合理である、ということでもない。世界は合理的であったり非合理的であったりするようなものではない。世界は、ただあるだけだ。合理的であったり非合理的であったりするのは、我々の思考であり、言語による思考の表明である。


上の文章を書いてから入浴し、ほどよく体が温まったところで読み返してみると、いろいろとアラが目立って嫌になってきた。だが、書き直すのも面倒だし、全部削除するのはもったいないので、そのままアップロードすることにした。

最後の最後に前期ウィトゲンシュタイン風のフレーズを引用して締めくくることにしよう。

実現し得ないメイドについては、沈黙せねばならない。 メイド哲学論考命題7)

1.11027(2004/04/09) 限定

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404a.html#p040409a

『空の境界』限定愛蔵版の予約受付が開始されたと思ったら、あっという間に打ち切られた。もし書店に出回ったら買おうかどうしようか、などと呑気なことを考えていた私は、もちろん予約などしていない。考えてみれば、たかが5000部なのだから、予約だけでいっぱいになるのは明らかだったのだが。

最初に限定愛蔵版の情報が出たのは先月のことで、私もその話題を取り上げたのだが、その時はまだ詳細が不明だった(発売予定日も予定価格も違っていたし、通常版との差異もわからなかった)ので、パソコンゲームなどでよく見られる――そして、数年前からマンガを中心にして出版業界にもじわじわと広がってきている――おまけグッズつきの初回版のようなものだと錯覚した。だが、限定愛蔵版の仕様が明らかになってから落ち着いて考えてみると、これはむしろ昔からある愛蔵版ではないかと思い直した。

「限定愛蔵版」と銘打っているのだから愛蔵版なのは当たり前だ。お前はいったい何を言っているのか? そう言われても仕方がないのだが、私はここで「愛蔵版」という言葉を「初回版」と対比して用いている。厳密な定義はないが、概ね次のような状況をイメージしてもらいたい。

……ある本が世に出る。その本は広く世間に受け入れられる。多くの読者に愛され、中には熱心なファンもいる。だが、やがて売れゆきは落ち着き、その本は書店の片隅でひっそりと売られるか、または品切れとなる。そんな頃に、かつてその本に熱狂したファンの追憶のため、そしてぼろぼろになってしまった軽装版のかわりに長く保存するために、重厚な装丁の本が出版される。もちろん、元版よりもはるかに部数は少ないし、一般の新刊書に比べれば値段も高い。だが、その本に特別な思い入れがあるファンは必ず買う本なので、多少高くても一定部数は必ず売れる。その本は立派な書棚に飾られて、持ち主が世を去るまで大切に保管され続ける……。

『空の境界』の場合は、今述べた愛蔵版のイメージとは重ならない部分も多い。たとえば、購入者層は過去の追憶に浸る中高年ではなく、おそらくは現在20代から30代前半が中心だろう。また、過去に同人版である種の層の人々には知られた本だとはいえ、商業的には今回の講談社ノベルス版が初刊本となる。

では、逆にこれを(私が当初考えたように)初回版としてみると、やはり一般的なイメージからは外れるところがある。初回版はふつう発売直後のスタートダッシュを重視して売り上げに弾みをつけるため、あるいはそのまま売り逃げるために本来の商品におまけをつけて客の目を惹こうとするもので、値段は通常版と同じか少し色をつけた程度のことが多い。だが、『空の境界』では、未だに内容が謎の小冊子が附録となっているものの、これが主題歌CDやフィギュアに相当するものとは考えにくい。それに値段が通常版に比べるとかなり高いので、通常版を買う層が「ちょっと高めだけどおまけも付いてるから、まあいいか」と思うことはまずないだろう。

いろいろ考えた結果、『空の境界』限定愛蔵版は一見したところ初回版のようだが、その内実は愛蔵版に近いと思うようになった。とはいえ、これは既存の出版パターンに当てはめてみたらそう言えるという程度の話に過ぎない。出版業界でゲームなどの初回版商法を真似るようになったのもたかだかここ数年のことに過ぎない。今さらに新しい戦略を実験しているところだとも考えられる。または、『空の境界』という特異な経緯で世に広まった小説にあわせた、一回きりの売り出し方なのかもしれない。


今日のテーマは、珍しく見出しに掲げたとおりだ。すなわち、限定である。もう少し詳しくいえば、何かが限定されることによって生まれる不快感について考えてみようと思っていたのだが、例に挙げた『空の境界』限定愛蔵版の特徴について考えるだけでだらだらと書いてしまった。この調子では今日中に書き終わらないおそれもあるので、ここから先はスピードをはやめて適当に話を端折ることにする。

さて、『空の境界』限定愛蔵版の情報が出てから約半月の間に私が見た限りでは、あちこちのサイトの言及の仕方はどちらかといえばやや否定的なように感じられる。熱狂的な奈須きのこファンでためらうことなしに予約申し込みをした人は別として、多くの人は明確に意識はしないまでもなんとなく不快に感じたのではないだろうか。もちろん、これは私の勝手な印象に過ぎず、もしかしたら私の不快感を他サイトに投影しているだけかもしれない。だが、たとえば講談社予約終了告知この件に関しまして著者である奈須きのこ氏ならびにTYPE-MOON様へのお問い合わせが急増しているとのことですが、この限定愛蔵版の5000部という部数の決定に関しましては、版元である講談社の側から著者の奈須氏に対してご提示をさせていただいたものです。という微妙に奈須きのこをかばっているような言い回しから、奈須きのこTYPE-MOONへの「お問い合わせ」にネガティブな含みを持ったものが多かったのだろうと推測することは可能だろう。

以前誰かに聞いた話でソースは定かではないのだが、現在では箱入り本はかなり作りにくい状況になっているらしい。箱を作るには熟練した職人の手作業が必要になるが、高齢化で職人の絶対数が減っているのだそうだ。従って、箱入り本の値段は自ずと高くならざるをえないし、部数を確保するのも難しいらしい。すると、予約が殺到したからといって、おいそれと部数を増やすわけにはいかないということになる。そう考えると、安直に「部数を絞り込んで読者を煽る阿漕な商売」とか「値段をつり上げてオタクから金を搾り取ってボロ儲け」などといった悪口を言う気にはならない。

だが、それでも不快感は完全には払拭できない。この限定愛蔵版はやはりどこか間違っているのではないかという釈然とした思いがどうしても残る。作品の内容とは別のところで本を巡る話題が一人歩きしていくのが、果たしていいことなのかどうか。かつて同人版の『空の境界』を読んで10年に一度の至福を味わった身としては、余計に気になるのだ。


私が『空の境界』限定愛蔵版に感じたのとはたぶん同じではないと思うが、ある人が別の事について限定されることによって生まれる不快感を語っていた。いや、「別の事」というぼかした言い方では意味不明だ。ちょっと迷ったが、はっきり書いてしまおう。このライトノベルがすごい!限定枠である。

私はこれまで、自分のサイトでこのライトノベルがすごい!に言及したことはなかった。興味がなかったわけではないのだが、私の関心は主に結果がどうなるのかということに向いていて、参加する気はあまりないからだ。なぜ参加する気がないかといえば、私は他人にライトノベルを薦められるほど読み込んでいるわけではないからだ。実は、今日まで対象作品すら知らなかったくらいだ。いま見てみると、少し強引だが『さよなら妖精』に投票することも可能だと気がついたが、自分のサイトでさんざん煽った後なので、やっぱり控えておくことにしよう。

閑話休題。

そういうわけで、私はこのライトノベルがすごい!限定枠についても特に何とも思わなかった。だが、よく考えてみれば限定枠のルールに問題がないわけではない。たとえば、限定枠に該当する人にとってはある種の特権的な意識を持たせることになるかもしれない。これを詳しく説明すると、いろいろ問題があるかもしれないので、そのかわりに限定枠の参加資格を引用しておくことにしよう。

また、逆に一般参加資格しか持たない人に、引け目とか抵抗感を引き起こすおそれもないとはいえない。まいじゃー推進委員会!今日付の記事によれば相変わらず一般投票は苦戦中だそうだが、その原因の一端はもしかしたら限定枠の設定にあるのかもしれない、と邪推してみたくもない。

だが、しかし!

本当は声を大にして言いたいのだが、フォントサイズを大きくするのは私の趣味にあわないので、そのかわりに滅多に使わないSTRONGタグを使ってみた。ここから先はこのライトノベルがすごい!の擁護である。

私は限定枠の設定を支持する。なぜなら、そのほうが多様な結果を得ることができるからである(先に述べたように私の関心は結果のほうに向いている)。一方に多くの本を読みレビューをアップしているネット書評家がいて、もう一方にふだんネットを巡回しているだけではわからないサイレントマジョリティがいる。両者がそれぞれどのようなライトノベルを読み、どのようなライトノベルを面白いと思っているのか。すべての参加者を同じ扱いにするのでは両者の傾向の違いは見えてこない。

門戸を広く開放すれば、多くの人々の意見を受け容れることができる。だが、そのかわりにノイズも増える。逆に、読書系サイト管理人のみに限定すれば、相対的にノイズは少なくなるだろうが、標本数が少ないと結果の多様性は保証されない。どのような調査方法にも一長一短あり、限定枠・一般枠並列方式にも上記の問題点があるのは確かだが、今回が初めてだということを考えれば、むしろ上出来だと言えるのではないだろうか。

これは限定されることによって生まれる不快感とは別レベルの話なので、論点がずれてしまったような気もする。いや、そんな気がするだけではなくて、本当に論点がずれてしまっているのだが、気にしないことにしよう。問題点は徐々に手直ししていけばいい。限定枠参加者の特権化をどう回避するかは次回以降の課題ということでいいのではないか。無責任なようだが、もとより私はこのライトノベルがすごい!のスタッフでもなければ関係者でもないのだから、最初から責任などないのだ。

とはいえ、言いっぱなしで終わりにするのもどうかと思うので、少し思いつきを書いておこう。

  1. 限定枠のふたつの参加条件は分けておいたほうがいいと思う。本をたくさん読んでいるという点では同じでも、出版業界人と趣味の読書系サイト管理人とでは読み方に違いがあるだろうから。今回は初回なので業界人の参加は少ないかもしれないが、回数を重ねて参加者が増えてきたら別集計にできるだろう。
  2. 限定枠参加者は一般枠にも参加できることになっているが、結果の多様性という観点からみれば限定枠参加者は一般枠から排除したほうがいい。全く別システムの企画なので単純に比較はできないが、インターネットで選ぶ本格ミステリ大賞(リンク先は2004年度の募集ページ)では、公式の「本格ミステリ大賞」への投票権を持つ人は参加不可となっている。
  3. 選んだ作品のコメントに字数制限を設けてみてはどうか。制約なしに自由に書きたいという人もいるだろうが、コラムのほうに投稿すればいい。もっとも字数制限で敷居が高くなってしまい、ノイズ削減効果以上のデメリットが生じるおそれもあるので、難しいところだが。

ああ、読書にあてるべき貴重な時間が3時間も……。

1.11028(2004/04/10) おしまいの日

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0404a.html#p040410a

今日は青春18きっぷの有効期限最終日なので、残り1回分を使って日帰り小旅行に出る。行く先未定だ。戻ってきたらへとへとになっているはずなので、たぶん今晩は更新できないはず。

置きみやげ(?)。いろんな意味で涙が出てきそうだ。