日々の憂鬱〜2003年5月下旬〜


1.10678(2003/05/21) 幸福な少数者の理想郷

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 今日はミステリの話。取り上げるのは『Q.E.D.』(加藤元浩/講談社コミックス)第15巻に収録されている『ガラスの部屋』だ。この作品を題材にする理由はいくつかあるのだが、とりあえず消極的な理由だけ挙げておく。最近、私は戦後何度目かの読書意欲の減退に悩まされており、小説がほとんど読めなくなっているからだ。以上。積極的な理由のほうはこれから書く文章で自ずと明らかになるものと思う。
 さて、ここで決まり文句を言っておかなくてはならない。以下の文中で『ガラスの部屋』の内容に踏み込んでいるので、未読の人は絶対に読まないように! たぶん本を手元に置いて読まないと意味がわからないだろうし。
 では、始めよう。

 『Q.E.D.』はマサチューセッツ工科大学を15歳で卒業した天才少年、燈馬想が探偵役として活躍するミステリシリーズである。もう一人の主人公、水原可奈ほか数人のシリーズキャラクターがいる。『Q.E.D.』の特質を分析するならば、登場人物の人間関係や性格などについて触れることになるだろうが、ここでは無視して、ただミステリとしての側面のみについて語ることにする。こう述べることは、すなわち、魅力ある探偵もしくはその他の登場人物の言動についての興味はミステリ固有の面白さではないと主張することに他ならない。このような要素はミステリに含まれていても構わないが、ミステリとしての面白さが十分に満たされているなら別になくても構わない。また、登場人物の興味を重視してミステリ本来の面白さを損なうようであれば、それは非常に残念なことである。そういう物語を好んで読むのは読者の勝手だが、少なくとも優れたミステリとは認められない。
 さて、『ガラスの部屋』は、いきなり死体の発見から幕を開ける(5〜6ページ)。ただし、状況の説明がほとんどなされないまま(老人男性が血まみれで室内に横たわっていることしかわからない)場面転換して、燈馬と水原の日常生活の描写に移る。最初に死体を転がしておくほうがいいのか、それとも主人公の生活からじわじわと事件のほうに話を向けるほうがいいのか、というのは物語作法の問題であって、ミステリの本質とはあまり関係はない。もっとも、登場人物の紹介や舞台設定の説明にだらだらとページを費やすばかりで、なかなか本題に入らないミステリを読んでいると、「書く順番を変えるだけで、メリハリが全然違うのになぁ」と嘆息することが多い。ありふれた小手先の技だと馬鹿にせず、ぜひ活用してもらいたいテクニックだ。
 日常生活から事件へとテンポ良く話を進めて(7〜12ページ)、13ページで舞台を警察署に移し、いよいよ事件の説明に入る。まず事件関係者4人が紹介される。被害者、大矢悦郎の孫娘夏美の母である大矢豊子、健康食品販売会社社長の若林吉勝、被害者の趣味友達の山内功、そして被害者のホームヘルパーの小川翔子。この4人のうちヘルパーの小川は容疑者というより殺人現場の部屋の入口を見張っていた証人として位置づけられているので、残りの3人が主要容疑者ということになる(ただし、小川が無条件で容疑者から除外されているわけではない)。3人はそれぞれ、被害者の家族、仕事上の知人、趣味の友人、というふうに明確に異なる関係で被害者と縁を持つ。このような人物配置は図式的に過ぎるという批判もあるだろうが、限られた枚数でミステリを書こうとすればある程度の単純化はやむを得ない。少なくとも、同じ学校に通う大学生やら高校生やらが何人も登場して誰が誰だか訳がわからなくなるミステリよりはずっといい。
 事件関係者4人が数ページにわたり証言し、ある種のミステリではお馴染みの事件現場の見取図も挿入(17ページ)される。ここがいちばんの読みどころで、一度最後まで読んでからもう一度読み返すといくつもの伏線がさりげなく張られていることに気づくはずだ。もっとも、初読時にここから手がかりを見出すことのできる読者はあまりいないだろう。伏線を張り巡らせ、読者に手がかりを与えることがミステリにとって必要不可欠な要素の一つである。
 一通り証言が終わったところで、状況が整理される(33〜34ページ)。

  1. 殺人は3時から5時までの間に行われた。
  2. この間、小川を除く3人にはアリバイがあり、小川にはない。
  3. しかし、被害者の財布から金は盗まれておらず、金目当ての犯行ではない。
  4. また、小川が犯人だとすると、5時には山内が来るとわかっていたのに犯行現場から逃走していないのは不自然だ。
  5. 従って、小川はおそらく犯人ではない。

 ここでちょっと疑問。3人の容疑者たちの"アリバイ"は具体的に述べられていない。若林は被害者宅から会社の運転手に会社まで送らせているので、たぶんアリバイが成立するのだろうと推測できるが、被害者宅と会社の距離か移動に要する時間がわからないのであやふやだ。あとの2人は3時から5時まで何をしていたのか書かれていない。結局、容疑者たちの"アリバイ"は、犯行現場の出入口をずっと小川が見張っていて、最後に生存が確認された3時から死体が発見された5時までの間に誰も出入りしなかったというだけのことに過ぎない。これも現場不在証明といえば確かにそうなのだが、ふつうのアリバイではないだろう。むしろ、密室殺人ではないか。だが、「密室殺人」という言葉は解決篇に入ってから(67ページ)燈馬の台詞で初めて出てくる。問題篇では全くこの言葉は使われていないし、もちろんタイトルも『ガラスの密室』ではない。
 事実上の密室状況を扱っていながら、「密室」という言葉を使うのを控えた理由はいろいろ考えられるが、この言葉があまりにもハッタリくさくて仰々しいからではないか。同じミステリマンガでも『金田一少年の事件簿』や『探偵学園Q』では謎の不可解さを強調し煽り立てるというスタイルをとり、泥臭さを売りにしているようなところがあるが、『Q.E.D.』はそういうマンガではない。「前代未聞の大トリック!」とか「完全無欠、鉄壁の密室!」などとという煽り文句は得てして、ミステリの醍醐味がトリックの奇抜さにあるかのような印象を読者に与える。そのような扇情的なミステリは大衆受けするけれど、本当にミステリらしいミステリを読みたいと願うごく少数の読者にとっては鼻白むことのほうが多い。作者は、世間一般に流布している通俗的ないわゆる「本格ミステリ」の文脈でこの作品を読まれることを避けるため、「密室」という言葉の使用は最小限にとどめることにしたのではないか……というのは無論私の勝手な想像に過ぎないのだけれど。
 さて、「密室」という言葉は使わなくても、密室トリックの存在を強く匂わせる小道具は出てくる。事件現場の窓の下で発見された、先が輪になったテグス。ここ(35ページ)でたいていの読者(ものごとを自分の頭で考えようとしない人は除く)は、このテグスを用いて窓の錠を外から操作した可能性を想定することだろう。だが、この可能性を検討する前に警察署の一幕はお開きとなる。
 続いて燈馬の捜査が始まり、事件関係者または関係者の関係者の証言を一通り得た後、犯行現場に入る。そこで先ほどのテグスを使ったトリックの可能性が検討される(54〜56ページ)。ここで欲張りな作家ならテグスのトリックを解決篇までとっておくかもしれないが、幸いこの作者はそんな馬鹿げた色気は出さない。さらに現場の状況を観察(この場面での燈馬の視線そのものが伏線になっている)した後、被害者が握っていた何も書いていない手紙(このデータは33ページで提示されている)、テグス、そして傷のついたレコード(燈馬の探索で発見したもの。58ページ)の3点に読者の注意を喚起したところで、定例の「Q.E.D.」が挿入され、問題篇は終わる(どうでもいいことだが、63ページの燈馬はあびゅうきょの絵のようだ)。

 解決篇では、問題篇で提示された手がかりをもとにひたすらロジックを組み立て、犯人を指摘する。まさにミステリである。この作品のミソは、3人の容疑者それぞれに別の密室トリックが割り振られ、3通りの解答が提示される。それぞれ、犯人が用意した偽の解答、探偵が思いついた間違った解答、本当の解答、である。ここには洗練された様式美がある。様式美はミステリの必須条件ではないが、できれば備えておいてほしいものだ。
 最初に燈馬は小川が犯人ではないことをごく簡単に論証し、この事件が密室殺人であることを宣言する。そして、テグスを使って窓を外から開閉するトリックから話を始め、このトリックを仕掛けることが可能であった唯一の人物である大矢豊子はひとまず犯人に擬す。だが、すぐにこのトリックの実行可能性を否定し、大矢を容疑者から除外する。当然のことながら、このトリックが実行不可能だったことを示す手がかりは問題篇で出ている
 次に山内が早業殺人を行ったという可能性を検討する。このトリックは昔からあるもので特に目新しくはないので、トリックそのものは興味の焦点ではない。被害者が握っていた手紙を手がかりとして山内犯人説を否定するロジックのほうがポイントとなる。
 最後に残った若林が真犯人である。犯人の正体に意外性は全くない。3人のうちの誰かが犯人だということは、はなからわかっていたことだから。若林が用いたトリックも――知らない人にとってはかなり意外だろうけれど――前例があるトリックなので「前代未聞の密室トリック!」などと呼べるものではない。ただ、トリックの中に比較的面白いトリックと比較的つまらないトリックがあるとすれば、大矢のトリックはもっともつまらなく、若林のトリックはいちばん面白く、山内のトリックはその中間ということになるかもしれない(これは私の個人的な意見なので、あまり強く主張するつもりはない)。ここでのポイントは、山内犯人説を退けることとなった白紙の手紙が、若林のトリックの小道具として用いられていることである。一つの手がかりが二重の意味をもつ。これもミステリに不可欠な要素ではないが、技巧文芸としてのミステリ(マンガを「文芸」と呼ぶのはちょっと無理があるかもしれないが)としての出来のよさを示している。
 山内が犯人であることは、消去法及び手がかりとの整合性によって論証されたが、さらに、レコードの傷から再生された音声が決め手となる。この音声は問題篇で示されたものではないので、やや不満もあるのだが、さすがにこの手がかりは事前に提示することは無理だろうからやむを得ない。
 レコードの傷に現場の音が録音されることがあるという現象一つをとっても機知の物語としてのミステリを書くことは可能である。ネタそのものの面白さ、種明かししたときの「へぇ」という驚き、面白い雑学本を読んだときに感じるような知的満足感……しかし、その興味だけを主眼にしたミステリは論理に基づく謎解きを主眼としたミステリとは似て非なるものだと私は考える。『ガラスの部屋』の最後で明かされる暗号(?)も――こちらは雑学とは違うが――機知の要素が含まれているという点ではよく似ていて、物語の雰囲気づくりに役立ってはいるが、読者が推理によって暗号を解けるわけでもなければ、論理的な推理によってどのような暗号であるのかを推測することもできないので、ミステリとしての重要な要素の一つとみなすことはできない。これも、おまけとみなすべきだろう。

 以上、『ガラスの部屋』を題材にミステリについて語ってみた。ちょっと長く書きすぎたような気もする。最後にまとめておこう。
 ミステリの本質は、謎を手がかりに即して論理的に解きほぐしてゆくプロセスであり、結末の意外性やトリックやアイディアの独創性、機知の要素などではない。無論、意外な結末があってはいけないというわけではなく、論理的な解明のプロセスを阻害しない限りはあっても別に問題はない。ただし、同じ意外性でも、手がかりの意外な解釈や、意外なロジックの展開など、細かなレベルの――しかも読者が丹念に読み込んで考えを巡らせたうえでなければそれが意外であることに気づかないような――意外性の積み重ねのほうが、ミステリを特徴づけ他の文芸形態と隔てる重要な要素であると私は考える。
 ここで述べた見解は極論であり、一般のミステリ愛好家が実際にミステリを楽しむ仕方から大きくかけ離れていることはまず間違いない。多数決をとれば、きっと私の意見は退けられることだろう。
 今のところ、多数派を説得できるだけの有力な論拠を私は持っていないし、将来状況が変化することもないだろう。

 この文章は某氏の某企画に連動して書いたものだが、肝心の企画がまだ公開されていない(もしかしたら永久に未公開?)ので、ひとまず単独の文章としておく。

1.10679(2003/05/22) インターネットだけが人生ではない!

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 渡世の義理により、明日の更新は休みます……たぶん。

1.10680(2003/05/23) 1001は7で割り切れる

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 渡世の義理を果たして、へろへろになって帰宅。
 やっぱり形だけ更新しておこう。

 白黒学派(5/21付)経由でミステリの勉強会(というタイトルでいいのかどうか迷うが、このページに従う。早稲田大学現代文学会のサイト内の記事だ)を読んだ。
 「探偵小説」という言葉は「新青年」以前からあったし、「推理小説」という言葉は第二次世界大戦前からあった……というツッコミは瑣末なことかもしれないが、20世紀最高の推理作家、鮎川哲也に言及していない<日本のミステリ史>は歪んでいるということは是非強調しておきたい。鮎川哲也を「20世紀最高の推理作家」とみなす私の認識のほうが歪んでいるのかもしれないが。
 それにしても、笠井潔の影響が大きい文章だ。ある意味、非常に興味深いとは言える。もっとも、果たして蔓葉氏と同じ意味でそうなのかどうかは不明。

1.10681(2003/05/24) 1001は11でも割り切れる

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 氷川透 on the WEB(日付記載なし)で、森山良子の息子、直太朗の姓についての疑問が提示されている。

 森山直太朗は森山良子の息子としてすでに広く認知されてますが、森山良子は確か10代で歌手デビューしたはずで、その後に結婚して子どもをもうけたのなら、出産当時の彼女の姓は「森山」ではない可能性が高く、したがって彼女の子どもの姓もたぶん「森山」ではない……
 にもかかわらず、「森山直太朗」……

 氷川氏の仮説は次の4つ。

  1. 歌手デビュー時(10代)の森山良子は、すでに若くして既婚者だった。
  2. 森山良子は歌手デビュー後に男性と関係して妊娠したが、認知してもらえなかった。それでも彼女は子どもを産んだ。婚姻関係が成立しないから当然子どもは「森山」姓。
  3. 森山良子は歌手デビュー後に、自分と同じ「森山」姓の男性と結婚した。だから、以後も(子どもを産むときも)「森山」姓のままだった。
  4. 森山良子は歌手デビュー後に結婚してちがう名字に変わった。当然、産んだ子どももその「ちがう名字」。でもその子がデビューするにあたって、「森山良子の息子」という点をセールスポイントにしたくて、あえて「森山某」という芸名をつけた。

 「すでに若くして婚者」という言い回しが気になるのだが、それはさておき、正解はおそらく4だろう。ここここから察するに、森山直太朗の本名は「相良直太朗」だと思われる。
 ところで、森山良子は歌手デビュー後に、自分と同じ「森山」姓の男性と結婚した。だから、以後も(子どもを産むときも)「森山」姓のままだった。という極めて特殊なケースを即座に思いつく氷川氏が「森山良子が結婚したときに夫のほうが改姓した」という可能性を見落としたのは不思議だ。

1.10682(2003/05/24) 1001は13でも割りきれる

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 UNCHARTED SPACE(5/23)の現実の世界においてもそうだが、ミステリという小さなジャンルにおいても、携帯電話の登場(というよりも普及)は実は大きなムーヴメント(ないし壁)となっているように感じる。という記述を読み、エルフ『遺作』(1995年)を思い出した。
 『遺作』は日本ゲーム史上に残る名作『同級生2』に続いてエルフが世に送ったゲームで、キャッチコピーは「考えて、解く」。使用されていない旧校舎に閉じこめられた学園の生徒たち(ほか教師1名)を率いる主人公(=プレイヤー)が犯人の仕掛けた謎を一つ一つ解きながら最上階から下へ降りて脱出する、というお話。
 『遺作』の登場人物は誰も携帯電話を持っていないし、携帯電話の存在に言及するシーンもない。もし携帯電話があれば、一所懸命謎を解かなくても外部に助けを求めればいいだけだから、設定自体が破綻してしまう。『遺作』のスペシャルディスク(Dos時代のエルフのゲームにはそういうものがあった)に収録された『盗作』(現在販売中のWin・Mac版の『遺作』には同梱されている)の中に、その点を衝いたエピソードがある。スペシャルディスクが出た時期は知らないが、『遺作』の発売からさほど隔たっていたわけではないだろう。そうすると、『遺作』はぎりぎりのタイミングで世に出たことになる。危ないところだった。
 あと何年か経てば、携帯電話のない日常生活を送ったことのない世代が『遺作』をプレイするようになるかもしれない。そんなプレイヤーは「どうしてこのゲームには携帯電話が出てこないのだろう? これは御都合主義だ」と思うことだろう。

 携帯電話は近年普及が進んだものだが、逆に衰退していくものもある。たとえば、公衆電話は最近あまり見なくなった。島田荘司の短篇で、公衆電話のそばを通るたびに呼び出し音がなるという怪異を描いたものがあったが、現在ではもうそんな小説は書けないだろう。
 鉄道ダイヤを用いたアリバイトリックものも書きにくい。「東京から博多へ出張中の会社員が寝台特急の車内で殺された」という状況のミステリを書こうと思ったら、作者はまず「被害者はなぜ寝台特急などという特殊な乗り物を使ったのか?」という読者の疑念を払拭するために苦労しなければならない。

 1970年代には、大学生くらいの年代の男性が二人で手を繋いで歩く姿が街中でよく見かけられたという。仲の良い友達が手を繋ぐのはごく自然な事だったらしい。今ではちょっと考えにくいことだが。
 そういえば、最近若い女性どうしが手を繋いで歩いている光景もあまり見かけなくなった。

1.10683(2003/05/26) 貶めるということ

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 少々時期外れになってしまったが、ごくたま昨日日記(5/17付)について。

賞関連の記事やコメント等を読んで。
作品を貶したり、「ダメだ」とバッサリ切るという行為は、その作品を愛する読者達をも貶めているということを理解しているのであろうか。
言葉で飯を食う商売をしているのなら、もう少し他の言葉の使い方があるのではないかと思ってしまう。
他人を評するその態度や言葉が、そのまま自分に返ってくるものだということを気づいているのだろうか。

 後にあ、アレはあくまでも文章を書くことを生業とする「プロの審査員」に向けての言葉です。そこは誤解なきよう。と補足している(5/20付)が、その前にみすらぼ日記(5/18付)で取り上げられ、一般論として再解釈された。すると松本楽志氏が作品を貶したり、「ダメだ」とバッサリ切るという行為は、その作品を愛する読者達をも貶めているということとは違うとおもいますが.と反論した。
 これからどういうふうに話が進むのかと興味を持って見ていたのだが、「貶す」=「「ダメだ」とバッサリ切る」とはならない気がするので、確かに「その作品を愛する読者達をも貶めている」ことにはならないかも。という、何を言いたいのかよくわからないコメント(「貶める」という表現と「「ダメだ」とバッサリ切る」という表現はもちろん完全に同義ではないが、そんな事が問題になっているのではないと思う)を最後にみすらぼ日記ではあっさりとこの話題は打ち切られた。また、ごくたま昨日日記でも言いだしっぺの当人が反応しないのもなんなのですが、アレはアレで一瞬の感情に突き上げられて書いたことで、それ自体は完結してるからなあ。という、これまた何を言いたいのかよくわからないコメント(一瞬の感情に突き上げられて書いたのなら、あとで冷静になったら別の考えも浮かんでくるものだと思うが、どうして完結してしまうのだろう?)で打ち切り。
 お互いの意見のすりあわせができて、納得した上で議論が収束したのなら話はわかるが、何となくぎくしゃくとしたまま矛を収めたという感じで、はたから見ていてどうにも釈然としない。
 ネット上での議論はちょっとした弾みで本題をそれて「意見vs.意見」のレベルから「人格vs.人格」のレベルへと移行しがちだ。そうなると議論というより喧嘩になってしまうので、火種を慌てて消したような印象を受ける。だが、同じ火種は火事にもなればかがり火にもなる。この話題はもう少し展開してみてもいいのではないか。
 私自身の考えは今のところ次のとおり。作品を貶めるということと読者を貶めるということは同じことではない。ただし、作品を貶める仕方によっては、同時に読者を貶めることになる場合もある。たとえば「こんな駄作を面白がって読む読者のレベルは相当低い」という類の悪口は作品と読者の両方を貶めることになるだろう。発言者がプロかアマかということは本質的な問題ではないが、プロの発言のほうがより多くの読者の目に触れるから、貶められたと感じる人も多くなるだろう。
 これで話はおしまい、というわけではない。貶められたと感じることと貶められることそのものとはどう関連しているのか? 「貶める」という行為を「評価する」という行為に拡張しても同じことになるのか? そもそも否定的な評価と悪口はどこがどう違うのか、または同じなのか? このような問題がまだ控えている。
 今はまだこれらの問題をうまく取り扱えないが、ここにある火種をもとに、考えを深めていきたいと思う。火事を起こさないように、明るい導きのかがり火を得たいものだ。

1.10684(2003/05/26) 雑談とメモ

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 前回の続きを書くには準備不足なので、今回はどうでもいい雑談でお茶に濁しておこう。

 まずはメイド喫茶の話。
 メイドカフェでGO!という専門の情報サイトもあるくらいで、昨今のメイド喫茶(メイドカフェ)ブームはとどまるところを知らない。だが、有名どころのほとんどは東京に集中していて、辺鄙な田舎に住んでいる私は気軽に行くことができない。あちこちのサイトのレポート(メイドカフェでGO!にリンク集があるので便利だ)を見て、脳内で空想に浸るしかない。
 先ほど定期巡回サイトのチェックをしていたら、意外なところにメイドカフェレポート(5/25付)が掲載されていて驚いた。レポートの中で店内(Cos-Cha)の客層についての記述があるのだが、そこにちょっと面白い感想があったので一部引用してみる(強調は引用者)。

 一見して「オタク」とわかる方々ばかりなのは良いとして、一人同人誌を広げてニヤニヤしている人あり、メイド話で盛り上がってる集団あり、休日の午後の喫茶店としてはかなり異様です。また、予想以上に一人で来店している若い男性が多かった! 彼らは見た目も普通で清潔感もあるし、女性に縁がないとは思えないんですがねー。もったいないことです

 確かにもったいないといえばもったいない。ちょうど第二次世界大戦中に英米の最高水準の科学者たちが偽金パズル(いくつかの見た目が同じコインの中に他のコインと少しだけ重さが違う偽コインがあり、それを天秤ばかりを使って見分ける方法を問う一連のパズル)に熱中して兵器開発をおろそかにしたのと同じくらいもったいない。だが、所詮兵器は人殺しの道具に過ぎない。それよりも日曜日の昼下がりにメイドさんに囲まれて(「囲まれて」というほど大勢いるのかどうかは知らない)優雅に紅茶でも飲みながらのんびりと落ち着いたひとときを過ごすほうが、ずっと幸せなのではないだろうか? 戦争反対! メイドさんマンセー!
 ……多少混乱しているが、気にしてはいけない。

 メイドさんの次は巫女さんだ。
 私の知人に熱烈な巫女マニアがいて、初めてのデートで照れながらもラーメンを食べに行こうと誘う幼馴染巫女ときたら、もうこれ最強これにそういうシーンがあるらしい)と力説している。私には巫女属性がないので、今ひとつピンとこないのだが、それはともかくラーメンは私も好きだ。らじ氏お薦めの山さんラーメン京都の情報誌「Leaf」、ちなみにKeyという情報誌もある……というネタは以前書いた記憶があるが、どうせみんな忘れているだろうから臆面もなくもう一度書いておこう)も一度は訪れてみたいものだ。
 ……多少話がずれているが、気にしてはいけない。

 メイドさん、巫女さんとくれば、次はどう考えてもこれだろう。
 ……多少強引な展開だが、気にしてはいけない。
 【批評篇:読者1】に私の文章が二つ引用されている。こちらのほうは最初【定義篇:読者1】のほうに収録されていたのだが、MAQ氏に頼んで【批評篇:読者1】のほうに移していただいた。私は「本格ミステリ」(または単に「ミステリ」)という言葉を定義することに懐疑的(その理由はここを参照のこと)であり、できれば定義なしにミステリの特質を明らかにしたいと考えているので、自分の言葉が「ミステリ」の定義と受け止められることを恐れたせいである。余計なこだわりだと言われるかもしれないが、性分だから仕方がない。
 それはともかく、黄金の羊毛亭本格ミステリ問答は非常に面白かった。ただし、全面的に賛成というわけではない。というのは……

「確かに“論理的な解明”は本格ミステリにおいて重視されることが多いのじゃが、わしはそれが必須であるとは思っておらん。なぜなら、叙述トリックを使った作品の大部分が、論理的に解明されないからじゃ」
「……そりゃそうですがね、そういう作品は本格ミステリじゃない、ってことにするわけにはいかねえんですかい?」
「先にも言ったように、わしはミステリを“謎とその解決に重点を置いた作品”と考えておる。そして、その“謎と解決に重点を置く”という姿勢を追求する点において、叙述トリックとそれ以外の間に差はないじゃろう。したがって、叙述トリックを使った作品を直ちに本格ミステリから除くのは、不適切だといえるのじゃ」

 前提としてミステリを“謎とその解決に重点を置いた作品”と考えるなら、叙述トリックを使った作品とそうでない作品の間に本質的な違いはないので、確かに“論理的な解明”は「本格ミステリ」(いつものことながら、私は「本格ミステリ」という言葉を自分自身の言葉としては使わないことにしている。ここでは原文に沿って話を進める必要があるため、言及するが、使用しているわけではない。なお、「使用/言及」の区別についてもここを参照されたい)にとって必須の要素ではないことになる。他方、謎を解明するプロセスの論理性を重視するなら、叙述トリックを使った作品(に代表されるサプライズエンディングもの。厳密にいえば、叙述トリックをメインに据えていても論理的な解決を目指している作品が稀にあるし、叙述トリックを使っていなくても最後の一撃に全てをかけた作品がないわけではない)とそうでない作品は明確に区別される。
 ミステリがもつどの要素を重視するかによって「本格ミステリ」の定義の仕方が違ってくる。そして、互いに異なる定義を採用する人々の間で共有される判定基準がなければ、それらは単なる私的定義としては共存するが、ミステリ共同体の共通言語として機能しない。
 いや、そもそもミステリ共同体などというものがあるのだろうか? バベルの塔はとうの昔に崩壊してしまったのではないだろうか? 私がミステリを読み始めた頃には、バリンジャーやカサックの作品を「本格ミステリ」と呼ぶ人は少なくともミステリ愛好家の中にはいなかった(サプライズエンディングものはどちらかといえばサスペンス小説に分類されることが多かった)ので、バベルの塔の崩壊は「新本格推理」の登場以降のことだと思う。「本格」を冠しながら、ガチガチのパズラーと叙述トリックを駆使した作品が同居していた不思議なムーブメントが、「本格ミステリ」という語の用法の混乱に拍車をかけ、とうとう今のような事態に陥ってしまった。
 今さら、用語の混乱を嘆いても仕方がないし、あまり意味があることとも思えない。よりよいミステリ、面白いミステリが読めれば、それが「本格ミステリ」と呼ばれようが「パズラー」と呼ばれようがたいした問題ではない……が、「本格ミステリ」と銘打ちながらロジックにムラがあったり詰めが甘かったりする小説を読むと、ちょっと腹が立つ。「そもそもミステリの本質とは……」と一席ぶちたくなってくる。幸福な少数者の理想郷を書いた動機はそこにある。「本格ミステリ」という用語を使わず、定義の話からなるべく距離を置こうとしても、もともとの動機が動機だけに、崩壊したバベルの塔を高みから見下ろすようなことはできない。結局、今のところ、多数派を説得できるだけの有力な論拠を私は持っていないし、将来状況が変化することもないだろう、というしまりのない言葉で締めくくらざるをえなかった。無念だ。
 ついでにもう一つ書いておこう。幸福な少数者の理想郷では困ったことにミステリの本質という表現を使ったし、今書いている文章でも「本質的な」という表現を用いている。なぜ困ったことかというと、ここに本質主義のテーゼを読み込むことが可能になるからだ。すなわち、個々のミステリ作品の背後に、本質としてのミステリそのものが存在するという主張である。本質主義が一概に批判されるべきものかどうかは議論の余地があるところだし、私自身は――ポストモダニストには叱られるかもしれないが――自然種には本質があるとみなしてもいいのではないかと思っている。だが、人間の創作活動の結果生じた事物を区分けする枠組みとしての"ジャンル"を生物種と同様に取り扱うのは問題があるし、そもそも「本質主義vs.反本質主義」という形而上学の問題設定に関わって、その一方の陣営に加担するかのような文言を用いるのはあまり得策ではない。幸いに、というか、当然に、というべきか、今のところ誰もその点を批判した人はいないが、どうにも頭の片隅に引っかかって仕方がない。
 ……本格ミステリ問答の話のはずが、いつの間にか自説の話になり、しかも、相も変わらぬ無限ループに陥ってしまっているが、気にしてはいけない。

 ……気にしてはいけない、と言えば言うほど気になるものだが、気にしてはいけない。気にしてはいけない。気にしてはいけない……。

1.10685(2003/05/27) ただのメモ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0305c.html#p030527a

 秋葉原におけるメイド喫茶・コスプレ喫茶の歴史(情報もとA@
 やや、これはすごいぞ。

 一件だけだと寂しいから、メイドさんロックンロール歌詞にもリンクしておこう。特に意味はないが、メイドさん繋がりということで。
 私はメイド あなたのメイド
 掃除 洗濯 お料理 切腹……
「別のゲーム混じってるやん」(186(一服中)氏談)

1.10686(2003/05/27) 今年はじめての蛍が舞う夜に

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 私はいつものようにこうしてパソコンに向かい、だらだらと駄文を書き連ねている。部屋のあかりを消して窓から外を見れば、ふわふわと浮かびゆらめく幻想的な光が見えるというのに。
 私には幻想よりも幻滅のほうが落ち着くから。

 その一つ手前の引き出し時代小説が好きな人に質問なんですが『新撰組』を主人公にした小説で面白いのありますか? と書いてあった。私は別に時代小説ファンではないけれど、読んで面白かった時代小説があるので紹介しておこう。
 その名も『新撰組』。作者は白井喬二、数年前に講談社大衆文学館から二巻本で出ていた。今はたぶん品切れだと思う。白井喬二はかつて時代小説界では吉川英治と並ぶ大作家だったので、今でも古本屋でよく見かける。いちばんの代表作は『富士に立つ影』だが、『新撰組』も比較的有名作なので、探せば見つかる……かもしれない。
 『新撰組』はとにかく面白いので、hm3号氏もそうでない人も是非一読をお薦めする。「そうはいっても、具体的にどこがどう面白いのかがわからないとなぁ」という人はこちらを参照されたい。
 問題は、この小説、新撰組がほとんど出てこないんだよなぁ。

 先日、『或阿呆の一生/侏儒の言葉』(芥川龍之介/角川文庫)を買ってきて、目的の『歯車』と『或阿呆の一生』はもう読んでいるのだが、せっかくだから『侏儒の言葉』(青空文庫ではこちら)も読んでおこうと思って昨夜から読み始めた。長文だらだら派の私でも、ぴりりと引き締まったアフォリズムに触れると身が引き締まる思いがする。たとえば、

 人生は一箱のマッチに似ている。重大に扱うのは莫迦莫迦しい。重大に扱わなければ危険である。

とか

 人生は落丁の多い書物に似ている。一部を成すとは称し難い。しかしとにかく一部を成している。

などという含蓄に富んだ短文(なかにはわりと長めの文章もあるけれど)が並んでいる。
 私もこのような名言を吐いてみたいものだ。そう思って試作したのが次の言葉である。

 徳島ラーメンは和歌山ラーメンに似ている。どちらも豚骨醤油味だ。

 ……あまり深遠なことを言っていないような感じがする。
 もう一つ。

 イモリはヤモリに似ている。だからイモリは爬虫類じゃないぞなどと言わずにそっとしておいてやろうではないか。

 これもアフォリズムらしくない。
 仕方がない。とっておきのを紹介しよう。

私はあなたのメイドさん
今日もお料理ご馳走さん
 食事が済んだら腹ごなし
 準備も装備もまるでなし
二人で登ろう天保山

 誰かエドワード・リア風の挿絵をつけて下さい。

 アフォリズムといえば、最近見つけたFARCES - 流しの不動産屋(副題は一定していないようだが、とりあえず今のタイトルで表記した)が面白い。私が知らなかっただけでもしかしたら有名サイトなのかもしれないが。

 アフォリズムともメイドさんとも関係ないが、新青春チャンネル78〜の『Kanon』二次創作小説『変奏/純正律/無限カノン』(これ、いつアップされたのだろう?)を読んだ。何といってもタイトルがいい。内容がタイトルと同じくらいいいかどうかは、まだ始まったばかりなので何ともいえないけれど、少なくとも掴みはいい。この設定をどう転がしてどう締めくくるのだろうか? まさか、『月姫』の世界とクロスオーバーして『歌月十夜』へとなだれ込む、ということはないと思うが……。

1.10687(2003/05/28) 生きるということ、死ぬということ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0305c.html#p030528a

 死ぬということは、それまで生きていた人がもはや生きてはいなくなるということだ。誰もがいつかは死ぬ。死ぬ瞬間が必ずある。
 では、生きるということはその逆なのだろうか? それまで死んでいた人がもはや死んではいなくなることか? いや、このように考えるのは馬鹿げている。時間的順序も逆にしなければ。
 生きるということは、そののち死んでいる人がいまで死んではいないということだ。だが、誰もがいつかは生きる、とは言いにくい。間違いではないが、少し奇妙だ。生きる瞬間が必ずある、と言うのはもっと奇妙だ。
 生と死、というふうに並べると、両者は対等のように思われる。だが、ここで並べられているのは、生きることと死ぬことではなくて、生きていることと死んでいることだ。死ぬのは一瞬だが、死んでいるということはずっと続くことだ。終わりがあるのかもしれないし、ないのかもしれない。生きているということもまたずっと続くことだ。こちらには明確な始まりと終わりがある。
 では、生きるのは一瞬か? もし一瞬だとすれば、生きている間のどの瞬間なのか? 誰もこの問いに答えられない。なぜなら、これは無意味な問いだからだ。
 ここには何も深遠なことはない。ただ言葉だけがある。「生きる」と「死ぬ」という非対称的な言葉が。
 事態から言語へと問題を移した。言葉を用いて言葉について語るとき、混乱を防ぐために括弧を用いる。それがさらに混乱のもととなるかもしれないが、ほかに表現のしようがないから仕方がない。この文章では、括弧でくくられた言葉は、その本来の機能を失って、ただその言葉自体を指すものとして取り扱われる。このルールが飲み込めない人には、残念ながらこの文章は理解できないだろう。これも仕方のないことだ。
 さて、「生きる」という言葉は動詞である。「死ぬ」もまた動詞である。「生きている」「死んでいる」と変化させれば、それらが表している事柄はほぼ対称だ。ある時点t以前に人は生きている。t以降には人は死んでいる。「ほぼ」という語句を加えたのは、生きているということには始まりがあるが、死んでいるということには終わりがあるかどうかがよくわからないからである。仮に死んでいるということに終わりがないのだとすれば対称性は崩れることになろう。だが、今はこの論点について深入りはしない。
 「生きている」と「死んでいる」が表す事柄がほぼ対称だとすれば、「生きる」と「死ぬ」が表す事柄もほぼ対称だと考えたくなる。だが、先に見たように、この考えは誤りである。「生きる」と「死ぬ」が表す事柄は全く対称ではない。そもそも「生きるむがどのような事柄を表すのかは明確ではない。
 「死ぬ」という言葉は、上で述べた時点tに適用される。それまで生きていた人がそののち死んでいるときが死ぬときである。人は死ぬ。死んだあとには死んでいる。死ぬ前には生きている。非常に明確だ。
 だが、こうやって考えてみると、「生きる」が適用される時点または時期が全く理解できなくなる。もしかすると、「生きる」にはもともと意味などなくて、ただ「生きている」という複合語の要素として機能するだけなのではないか。そう思いたくなる。
 「さあ死のう」という呼びかけは――その呼びかけに同意するか否かは別として――日本語に通じた人なら誰にでも理解できる。「死ななければ……」も同様。だが、「さあ生きよう」と言われても、何を呼びかけているのかはよくわからないし、「生きなければ……」も理解しがたい。
 いや、違う。日本語に通じた人なら誰でも、とは言わないまでも大部分の人々にとって「さあ生きよう」という言葉は、まさにその言葉が意味しているとおりの事柄として理解されているはずだ。理解に苦しむことなど何もない。生きるということは行為であり、活動である。「さあ歩こう」という勧誘が、歩くという行為を促しているのと同様に「さあ生きよう」は生きるという行為を促している。ただそれだけのことだ。
 では、生きるという行為とは、具体的にはいったいどのようなことなのだろうか? 食べることか? 眠ることか? 体を動かすことか? 排泄することか? 人と交わることか? 人と交わることだとすれば、社交か、性交か? そもそも、何らかの具体的な行為なのか? 具体的な行為でないとすれば、抽象的な行為なのか? 抽象的な行為などというものがあるのだろうか?
 違う。「さあ生きよう」を「さあ歩こう」と類比的に捉えてはいけない。「さあ歩こう」の逆の勧誘を考えてみれば明らかだ。「さあ歩かないでいよう」に対して「さあ生きないでいよう」とは言えない。言えるとすれば「さあ死のう」だ。
 「さあ死のう」という勧誘に対して、「さあ死なないでいよう」と逆の勧誘をするとき、「生きる」と「死ぬ」の見かけ上の対称性に基づき、このごたついた言い回しを単純化して、「さあ生きよう」と言う。そういうことなのではないだろうか。
 「さあ生きよう」という言い回しについてはこれくらいにしておいて、再びおおもとの「生きる」に話を戻す。「死ぬ」という言葉は時点tに適用されるということは既に述べたとおりだ。この時点は生きているということと死んでいるということとの間の対称軸であり、これ自体には対立する何かがあるわけではない。そうすると、「生きる」ということは、tがもともとない状態を指すのだろうか? そのような状態は二通りしか考えられない。一つは永遠に生き続け死なないという状態、もう一つは最初から生きていないという状態だ。
 「生きる」という言葉が生きていないという状態を指すとは考えにくいので、永遠の不死に話を限定してもいいかもしれない。ずっと生き続ける。いつまでも生きている。たぶん始まりはあるだろうが、終わりは決してこない。それが「生きる」という言葉が表している事柄だ。
 違う。そんなはずはない。「生きる」はそのような意味ではない。私たちは「生きる」という言葉をそのようには使っていない。
 行き止まりだ。何がいけなかったのだろう?
 「生きる」と「死ぬ」は非対称である、と私は考えた。後者が適用される明確な場合があるのに対して、前者はどのような事柄に適用されるのかがよくわからないので。だが、果たしてそうなのか? 「死ぬ」という言葉の適用は本当に明確なのか?
 死ぬという事態の不思議さについて、私は知っていたはずなのに、いつの間にか忘れてしまっていた。もう一度思い出そう。
 こういうことだ。ある人が死ぬと、その人はいなくなる。死ぬというのが何らかの行為だとすると、その行為が終わるときには行為の主体がいない。これは奇妙なことだ。まるでチェシャ猫なしのニヤニヤ笑いのようだ。死ぬというのは一瞬の間に起こる事柄なので、始まりも終わりもない、と考えることができるかもしれない。だが、死んでいるということはどうか?
 これはある種の状態だと先ほどは考えていた。だが、一体どういう状態なのか? 誰かが死んでいるとき、その死んでいるはずの誰かはもはやいないのだから、誰も死んでいないということになるのではないか。死んでいる状態の徳川家康が今いるわけではないし、死んでいる状態のヒルデガルト・フォン・ビンゲンが今いるというわけでもない。彼らは端的にいないのである。
 そうすると、生きている状態と死んでいる状態の境界、対照的な事態の対称軸としての、死ぬということ自体がよくわからなくなってくる。「死ぬ」という言葉が適用される時点tは依然として明確ではあるけれども、その時点がいったいどういう時点なのかがわからない。だったら、「生きる」と大差はないのではないか?
 とりあえず、はっきりしているのは、私が今生きているということだ。「生きている」という言葉の適用範囲には始まりがあって終わりがあるということもまたはっきりとしている。なんなら始まりの時点をここに書いてもいいのだが、そうすると私の年齢がばれてしまうので書かない。終わりの時点のほうは、今のところはわからないが、私が死んだときには明らかになるだろう。
 始まりと終わりが明確に境界づけられた、生きているということだけが明確であり、死んでいるということは明確ではない。またその境界である、死ぬということも意味合いがぼやけでいる。さらに、生きるということに至っては、全く何のことだかわからない。これが私の今の考えである。

 何度も何度も繰り返し私は同じ問題に立ち戻り、ぐるぐると足踏みをしながら私は似たような文章を書き続けている。自分の進歩のなさに気づかされるのが嫌で、今回は全く過去ログを参照しなかったが、たぶん何度か同じテーマを取り上げたことがあったはずだ。読者諸氏のご寛容を乞いたい。

1.10688(2003/05/29) Stray Sheep

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0305c.html#p030529a

 『三四郎』は鉄道描写が魅力的だという話を聞いた。『プラレス三四郎』でもなければ『1・2の三四郎』でもなく『姿三四郎』ですらない、夏目漱石の『三四郎』だ。早速青空文庫で読んでみることにした(これ)が、どうにも読みにくい。長文を発光するディスプレイで読むと目が疲れるのはいつもの事だが、かてて加えてルビの処理方法(しょりほうほう)が読みにくさを助長している。『三四郎』予告のほうはXHTMLなので読みやすい(もしかすると行間が広いせいか?)のだが、本篇はどうしようもない。
 まあ、無料のものに文句を言っても仕方がない。適当に鉄道に関係ありそうなところを拾い読みしてみた。「轢死」という言葉が出てくる。これは面白そうだ。最初からきちんと読んでみよう。
 そういうわけで、本を買ってきたのは月曜日のこと。新潮文庫版だ。角川文庫版(青空文庫版の底本)と冒頭部分を読み比べてみると、漢字の使い方が随分違う。たとえば、いちばん最初の文は新潮文庫版ではうとうととして眼が覚めると女は何時の間にか、隣の爺さんと話を始めている。となっていて、「何時」には「いつ」とルビを振ってある。角川文庫版では「眼」が「目」になり、「覚める」が「さめる」になり、「何時の間に」が「何時の間にか」が「いつのまにか」になり、「爺さん」が「じいさん」になっている。読みやすさを考えて漢字を開いたのだろうが、「覚める」までかなに直す必要があるのだろうか? こんなの中学生でも読めるぞ。
 多少とも原典に近いほうが雰囲気を味わうにはいいだろうと思い、私は新潮文庫版を買った。だが、これも全く原典のままというわけではない。正字正かなが新字新かなに置き換わっているほか、「迄」を「まで」、「成程」を「なるほど」、「仕舞う」を「しまう」などと変更しているらしい。そのくせ「此方 (こっち)」「一寸(ちょっと)」「不可(いけ)ない」などはそのままなのだから、よくわからない。
 それはさておき。
 四日かけて今日ようやく全部読み終えたのだが、確かに最初のほうは鉄道描写がかなりあるものの、中盤以降になると全くといっていいほど影を潜めてしまう。三四郎が熊本から上京する際の列車内の描写から始まり、東京の文物の象徴として市電(当時から熊本にも市電があったと思うが、特に対比する場面はない)についてやや詳しく説明があるが、三四郎が東京生活に馴染んでくると電車は無色透明な存在となる。小説の書き方としてはそれでいいのだが、鉄道描写を期待して読むと途中からだれてくる。それでも投げ出さずに全部読んだのは、鉄道描写以外にも読みどころがあったからだ。この小説は青春小説としても読むことができる。
 『三四郎』のような古典的名作について、私ごときの無教養な読者があれこれ批評めいたことを述べても滑稽なだけなので、多くは語らないことにしよう。もう多く語りすぎたような気もするが。いちばん面白かったのは物語終盤近く「十一」で語られる広田先生の夢と過去のエピソードだった。

 『三四郎』も読み終えたことだし、そろそろ最近の小説でも読もうと思う。今月に入ってからまだミステリを一冊も読んでいない。今気にかかっているのは『仔羊の巣』(坂木司/東京創元社)なのだが、会社帰りに寄った本屋には置いていなかった。そのかわりに私が見つけたのは……

 『乱歩先生の素敵な冒険』(高原伸安/文芸社)

 実を言えば、タイトルはベタだし、版元が今をときめく文芸社というのも若干不安だし、買おうかどうしようか大いに迷ったのだが、私には高原伸安の新刊を買わざるを得ない理由がある。遙か昔に定められた、ほとんど運命とも言える掟に私は縛られているのだ。あれを読んでからの十余年、私の生命は常に風前のともしびだった。いつやってくるのかがわからない死刑執行日を待つ死刑囚のような心境だった。だから、仕方がなかったのだ。
 私と同じ宿命を負った人々は早く『乱歩先生の素敵な冒険』を買うべきだ。さもなければ……おお、これから先は恐ろしくて書けない。
 ちなみに奥付を見ると、6/15に初版第1刷発行、6/20に第2刷発行となっている。

 先日書いた「貶めるということ」の続きを考えている。なかなかうまくまとまらないのだが、備忘録代わりに思いつきを書き並べておく。
 あるものがあるものを貶めるとき、後のあるものは先のあるものに貶められる。これでは何を書いているのかがわからないので記号を使って言い直すと、AがBを貶めるとき、BはAに貶められている。これは単に能動態を受動態に変えただけのことだ。では、BがAに貶められているという感覚を抱くとき、AはBを貶めているということになるのだろうか? 必ずしもそういうことにはならないだろう。では、両者は全く別の事柄であって、何の関係もないのだろうか? そういうわけでもあるまい。貶められたと感じることと、本当に貶められているということとの間には何らかの密接な関係があるに違いない。だが、その関係を分析して明らかにするのは相当難しい作業だ。
 少なくとも言えること。Bが抱く"Aに貶められたという感覚"がAの行為そのものに起因するのではない場合には、AがBを貶めたということにはならない。これは当然のことで、もしこれを認めないならば、勘違いや誤解を根拠にしていつでも好きなときに他人を非難できることになってしまう。
 では、Aの行為が原因となってBが"Aに貶められたという感覚"を抱いた場合には、AがBを貶めたということになるのか? もし、これが成り立つのだとすれば、Aがある作品を貶め、かつ、その作品を愛するBがそのコメントを見聞きして、自分自身がAに貶められたと感じる場合には、Aの行為とBの感覚の間に因果関係があるので、AはBを貶めたということになるだろう。
 話がややこしくなってきた。どうもこの方向ではうまく分析できなさそうな感じがする。
 具体的事例に即して検討したほうがいいかもしれない。shaka氏があの日たまたま目にしたとある賞の審査員コメントをもとにしたケーススタディとか。
 ところで、同時代ゲーム(5/29付)の

 私が考えるに、文学においても音楽においても、作品が貶されていると自分まで「貶められた」ように感じる人は、逆に自分の愛する作品や作者が批評家に称えられていれば自分も「称えられた」と感じるのだろう。それはつまり、権威主義的、他者依存的ということになるのではないだろうか。そういう人が自分で確固とした批評を書けるとは思えない。

という指摘について。ここでは読者が「貶められた」と感じることの是非を論じている。何かを愛するということは、確固とした自分を部分的に放棄し、自主性や主体性の一部を愛する対称に割譲するという要素を含むので、他者依存的とは言えるだろうが、権威主義的とまで踏み込んだ主張ができるかどうかはやや疑問だ。もちろん、権威を愛する人に対してはこの批判は当てはまるのだが。
 これももう少し慎重に考えてみる必要がある問題のようだ。うむむ、愛とか主体性とか検証不可能な概念を扱うのは苦手なのだが……。
 それはともかく、「鞴」と書いて「ふいご」と読むのを今日初めて知った。

 全然関係のないどうでもいい話。
 新文化の現在のトピックスの上から3つめまで。

 くっきりと明暗が分かれていて、非常にわかりやすい。

 今日の名言。Junk Landから。

気がつくと5月も終わりかけている。早い。早すぎる。30越えたあたりから時間が経つ速さは加速し、35過ぎるとすでに音速。40でそれはもはや光速の域に達している。とすれば、50を過ぎたらウラシマ効果で若返るのかもしれない。

1.10689(2003/05/30) なんとなく

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0305c.html#p030530a

 職業柄病院に毎日出入りするが、医者ではない人について考えてみた。

  1. 医療事務員
  2. 薬剤師
  3. 放射線技士
  4. プロ患者
  5. 偽医者
  6. 製薬会社のプロパー(今は「MR」と呼ばれるそうだ)
  7. 出入りの蕎麦屋
  8. 出入りの葬儀屋
  9. 出入りの僧侶

 何か抜けているなぁ。
 あ、看護婦(平成14年3月1日からは「看護師」)を忘れていた。

 瑞澤私設図書館5/29付)から。

 あ、それと今思いついたけど、東鳩を綾辻行人に比定するのはどうだろう。で、KANONあたりを京極夏彦にこじつけてしまえば、何となく新本格とエロゲとを結びつけて語ってしまえるのではないだろうか。
 ……そうすると、島田荘司が『同級生』で笠井潔は『EVE』ってところですかね。『匣の中の失楽』が『雫』とか。それほど詳しくないので、かなりいい加減な対応関係。

 「東鳩以前、東鳩以降」というゲーム史観には違和感があるのだが、それはともかく『To Heart』を綾辻行人に比定するのにはちょっと無理があると思う。なぜなら、『To Heart』に先立つ『雫』と『痕』は『かまいたちの夜』に影響を受けていて、その『かまいたちの夜』の作者は我孫子武丸だからだ。これでは、我孫子武丸が綾辻行人に先行するという転倒した話になってしまう。
 この転倒を容認してしまえば、『痕』は星新一に、『誰彼』は法月綸太郎にそれぞれ比定されることになってしまい、ますます混乱が増してしまう。由々しき事態だ。

1.10690(2003/05/31) 「子供」と「子ども」、「男女」と「女男」

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0305c.html#p030531a

 言葉に関する話題2件。

 表記論争勃発? 「子供」か「子ども」か日垣隆公式サイト ガッキィファイター)から。

 私の判断基準では、「ども」や「たち」や「など」や「ら」のような(複数を示す)副助詞(接尾助詞)に、私は漢字を使いません。「親戚や友達たち」という表記もありえ、「友達」は漢語ゆえ分かち書きをしない原則により「友達」とし、接尾語は「たち」のままにしています。そもそも、「子ども」の「ども」は「やまとことば」であって、あまり漢字はふさわしくないと思います。

 分かち書きというのは、単語または文節ごとにスペースを入れる書き方のことだ。たとえば いま わたしは ぶんせつたんいで わかちがきを している。欧文ではごく普通の表記法だ。日本語では、かな文字だけの文やローマ字文、点字文で分かち書きすることが多い。
 上の引用文の少し前で筆者が「分かち書き」の例として挙げられているのは「界わい」「炭そ菌」だが、これは「交ぜ書き」と呼ぶべきだろう。文単位での交ぜ書きは、漢字使用そのものを問題にするのでなければ普通は問題にならないが、一つの単語の中でそれをやってしまうと読みづらくなる。
 多くの論者が交ぜ書きの問題を取り上げている。日垣隆氏もその一人だ。調べてみたらこんな文章が見つかった(「新聞の漢字表記法に困惑」という記事の本文は読んでいないが、交ぜ書きのことを「分かち書き」と書いていたのだろうか?)。
 交ぜ書き問題でよく例にあがる言葉の一つが「子ども」だ。子ども教の信者は目をさましましょう矢玉四郎はれぶたのぶたごや )を読むと「子ども」表記に反対する根拠がいくつも挙げられている。それを読むと、「子ども」表記を巡る問題は他の交ぜ書き表現とは別の要素があって、国語問題と教育問題が混じっていることがわかる。そこでちょっと話がややこしくなるのだが、今のところ私は教育現場にいるわけでもなければ、学齢期の子供がいるわけでもないので、素直に交ぜ書き問題の一例として捉えて、自分の文章では「子ども」表記をやめて「子供」に統一することにしている。
 さて、上の引用文にはいくつかの疑問点がある(一つは先に述べたように、交ぜ書きのことを「分かち書き」と書いていることだが、これは単純ミスだと思うので深く追及はしない)。筆者は、「ども」「たち」「など」「ら」など複数を示す語をかな書きするという方針を一旦示した上で、「友達」は漢語ゆえ、かな書きしないというのだが、「友達」は複数を示す語ではない(一人しかいなくても友達は友達だ)し、漢語でもない。
 「友達」は漢語だから(複数を示す語をかな書きするという基本方針に反して)漢字で書くが、「子ども」はやまとことばなのでかな書きする、というロジックは成り立たない。そもそも「子ども」の「ども」も複数を示す語ではない。一人でも子供は子供。二人以上いることを明示したければ「子供たち」と書く。
 結局のところこれはあくまで好みの問題ですから、どうぞご自由に、ということになるのかもしれない。ただ、なんとなく感覚的に文字遣いを決める場合(たとえば、私は「ふつう」と「普通」を統一していない。その場その場で字面を見ながら決めている)ならともかく、基本方針からの帰結として決定する場合に筋道が間違っているのを見ると、自分には関係のないことでも落ち着かないものだ。

 もう一つ。日教組が「男女混合名簿」というような名称を「女男混合名簿」と言い換えるように提唱しているそうだ。あ、これも教育絡みだ。だが、今のところ私は教育現場にいるわけでもなければ、学齢期の子供がいるわけでもないので、素直に言葉の問題として捉えることにする。
 言葉を書くときの順序が常に指示対象間の優劣を表すことになるとは思わないが、しばしば価値観が言葉の順序という目に見える形で現れるということは否定できない。出席簿に生徒の名前を記載するとき、男が先で女が後という順序だと、男のほうが女よりも優れているという含みをもつから、男女混合の五十音順にしよう、と提唱するのはわからないではない。
 ここでちょっと脱線。五十音順に氏名を並べると「あ」から始まる名前の人のほうが「わ」から始まる人よりも優れているという含みをもつ、と主張する人はたぶんいないはずだが、それはなぜなのだろうか? 男女順は外界の秩序の反映だが、五十音順は言語に内在する秩序だから、という仮説を立ててみたが、これで説明がつくだろうか? よくわからない。
 閑話休題。男女混合名簿を推進しようと考える人が、「男女混合名簿」という名称自体に男女間の順序づけが含まれていることに気づくということもありそうなことだ。「はっ、何ということだ。『男』のほうが『女』よりも先に書かれているではないか!」と。ここまではいい。だが、「男女混合名簿」では男児が先、女児が後というイメージがあり、平和教育やジェンダーフリー(性差解消)教育に反するという見解(なぜここに「平和教育」などという言葉が出てくるのかは不思議だが、この見解そのものの是非については問わないことにする)から、「女男混合名簿」と言い換えるようにという提言が出てくるのはどうにも解せない。「女男混合名簿」では女児が先、男児が後というイメージがあり、平和教育やジェンダーフリー(性差解消)教育に反するとは考えなかったのだろうか?
 「女男混合名簿」という名称を擁護する議論がないわけではない。現代社会は両性の完全なる平等を理想としているが、現時点ではまだその理想は達成されておらず、男性優位の状態が続いている。この状況を打破するためには、単にその場その場で両性を同等に扱うというだけでは不十分で、改善可能な場では女性を優位に取り扱うべきである。それくらい強い態度で臨まないと格差の是正はできないのだ……という議論だ。この種の論法を無制限に認めてしまうと逆差別のもとになるので注意が必要だが、場合によっては有効なこともあるだろう。ただし、「女男混合名簿」の場合は、この論法を援用するわけにはいかない。
 なぜか? それはこの論法を援用するなら、混合名簿ではなくて、女が先で男が後に続く名簿を採用するのでないと方針が分裂するからだ。自分で考えたい人のためのちょっとしたパズルとしてあえて文字色を背景色に同化させておく。
 そういうわけで、私は「女男混合名簿」という名称には首を傾げる。どうしても「男女」という言葉が嫌なら「両性混合名簿」と称すればいいだけのことだ。
 以上は、「女男混合名簿」という名称を推進しようとする立場に内在する問題点だが、産経抄では別の論拠を持ち出して批判している。日教組の提言に従えば、茨城県にある男女川は「女男川」と改名しなければならないし、「嬲」という漢字もけしからんということになるだろう、という批判だ。これは背理法に基づく論証で、男女川は改名する必要はないし、「嬲」という漢字はけしからんわけではない、というのが暗黙の前提となっている。だが、この批判は日教組の提言の射程を本来の意図以上に拡大しているように思われる。学校教育における出席簿の取り扱いについて話題と、固有名詞や学校で習わないような漢字の扱いとは自ずと違ってくるわけで、「女男混合名簿」を推奨する立場から、男女川の改名とか「嬲」への批判とかが直ちに帰結するわけではない。「結局、産経新聞って日教組が嫌いだから、難癖つけてるだけなんだね」と言われても仕方がないだろう。
 もっとも、「男女川」などの事例からは別の議論の可能性もないではない。日本語には「男女」という言葉はあるが「女男」はない。「男女川」はあっても「女男川」はない。「嬲」はあっても「嫐」(「女男女を1文字に」と補足説明があった。機種依存文字なのだろうか?)は……これはあるからちょっと脇に置いておこう。ともあれ、「男女」という言葉のは日本語の伝統であって、その場の思いつきで「女男」などという造語を提唱するのは伝統の破壊行為であり、ひしては伝統に依存する自らの根拠そのものを否定することにも繋がりかねない。言葉は過去と現在、そして未来を繋ぐもので、ある特定の時代に生きる特定の思想をもった人間がおいそれと改変できるものではない……というような議論だ。
 ところで、言葉は伝統の担い手であると同時に、時代の雰囲気の鏡でもある。だから、ジェンダーフリーの推進が世の趨勢なら、「女男」という言葉を作って何の問題があろうか、という反論もあるだろう。こうなると、価値観と価値観の全面対決であり、私にはどちらが正しいのか判別がつかない。ただ、私は方法論的保守主義者なので、新造語の採用は最小限にしてもらいたいと思う。

 軽い雑談のつもりだったが、堅苦しい文章になってしまった。反省。

1.10691(2003/05/31) 或アンポンタン・ポカンの一生 〜去りゆく五月〜

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0305c.html#p030531b

  一 鬱
「鬱だ」という言葉とともにアンポンタン・ポカン君は生まれた。この言葉の前には彼は存在しなかった。発話には発話者が要請される。その要請に基づき、存在せしめられたのが彼、アンポンタン・ポカンなのである。
 アンポンタン・ポカン君は自分が誰であるのかを知らない。ただ、「鬱だ」と発言したことしか知らない。逆に言えば、彼は自分が「鬱だ」と言った存在であることを――より正確にいえば、そのような存在者であることを――知っている。
 アンポンタン・ポカンは落ち込んではいない。気が塞いだり。滅入ったりしているわけでもない。当然、憂鬱でもなんでもない。彼はまだ何者でもない。彼の言葉は空虚だ。

 今日で五月は終わり、明日から六月になる。五月といえばメーデーを連想するが、私はまだメーデーの集会に参加したことがない。いや、数年前に一度だけ駆り出されて集会に行ったことがあるが、あれは四月下旬のことだった。連休中だと人の集まりが悪いから、という理由だった。
 五月にあらざるメーデーというのは、まるで東京にない東京国際空港のようだ。大阪の阿倍野区には「新宿ごちそうビル」という建物がある。

  二 呪い
 前述のとおりアンポタン・ポカン君は自分のことを何も知らない。名前すら知らない。だが彼は自分の名前が呉一郎だと思いこんでいる。そして彼は自分が従姉妹の呉モヨ子を殺したと思いこんでいる。
 これは事実ではない。アンポンタン・ポカン君は呉モヨ子殺しの犯人ではない。デッチ上げだ。恐るべき脳髄がアンポンタン・ポカン君に見せている夢なのだ。その証拠に呉モヨ子はまだ死んでいない。呉モヨ子は未だ生きている。
 しかし、アンポンタン・ポカン君に呉モヨ子の生存を伝えても、決して信じようとはしない。
「貴方が仰るその荒唐無稽な説をもし僕に納得させたいのなら、是非モヨ子をここに連れてきて下さい。もし可能ならば、僕はもう一度モヨ子に会いたい。僕の従姉妹にして花嫁のモヨ子に。ああ、しかしそれは叶わぬことだ! 僕は確かにこの我が手で彼女の首を絞めて殺したのだから。婚礼の後の最初の夜に。ああ、僕は呪われた、罪人なのです」
 アンポンタン・ポカン君はこう言うと自分の頭から脳髄を掴みだして床に叩き付けるような仕草を何度も何度も繰り返す。そして、その行動にくたびれるといきなりバタンと倒れて深い昏睡状態に陥るのだ。
 眼が覚めたとき、彼はもう何も覚えていない。自分が何者であるかすら。

 今月私が体験した事を振り返ってみよう。確か月の頭にはかなり精神的に不安定な状態だったと思う。前月の末に自殺した二階堂奥歯氏の日記を最初から最後まで全部読んでしまったからだ。
 私は生前の二階堂氏とは何の縁もなかった。そういうハンドルの人がいることは知っていたが、変な名前だ、という程度の印象しかなかった。二階堂氏の日記は何度か覗いてみたことがあるが、私の興味関心に合致する話題がなかったため、続けて読もうとは思わず、ブックマークもつけてはいなかった。
 そういうわけで、二階堂氏の死は私にとっては他人事であり、特に衝撃を受けることはなかった。だが、二階堂氏の文章には個人的な知己の有無とは関係なく、ある種の人間を引き寄せる魅力、または魔力のようなものがある。知らず知らずのうちに私は大きな影響を受けてしまった。
 クワインの論文を読み、ウィトゲンシュタインの『論考』を愛読書の一つに挙げ、2匹のテディベアのうちの1匹に「クリプキ」と名付けた(もう1匹は「ホームズ」)人。そんな人でも死ぬときにはあっさりと死んでしまう。それが私には恐ろしかった。

  三 悪夢
 アンポンタン・ポカン君は呉一郎ではない。彼は呉一郎とは別人だ。実は、アンポンタン・ポカン君は呉モヨ子なのだ。彼女は自分が呉モヨ子を殺したと思いこんでいるが、そういうわけで彼女の妄想は事実に反するのである。
 「鬱だ」という一言と共にこの世に生を受けた呉モヨ子ことアンポンタン・ポカン。彼女は自分の名前を知らず、彼女は自分が呉一郎だと思いこみ、彼女は呉モヨ子を殺したと信じ、しかし、彼女は呉モヨ子自身なのだ。

 今月はいろいろな事があった。京都でオフ会を開催した件については前に書いたので繰り返さないが、そのほかにもあちこちに行ったり来たりしている。
 たとえば、海遊館へ行ったこともあった。確か月の半ばだったと思うが正確な日付は忘れた。知人二人と待ち合わせて、ジンベエザメを見てきた。ひどく美味しそうだった。

  四 矛盾
 アンポンタン・ポカン君の本名は呉モヨ子であり、呉モヨ子は女性である。従って、アンポンタン・ポカン君も女性である。
 彼は自分自身が女性だとは夢にも思っていない。従って、「彼女」と呼ばれても自分のことだとは気づかない。だが、彼女は確かに女性だ。

 ここ数日のことはあまりよく覚えていない。特に目立った出来事が起こらなかったせいだろう。昨日、私は『ブロッケス受難曲』を聴いた。同じく昨日、私は『剣客商売』の一巻を買ってきた。そんな、どうでもいいことしか起こらなかったような気がする。
 日々平穏で、月のはじめの動揺を除けば、わりと安定した状態が続いている。幸い五月病にもかからずに済んでいる。職場も仕事の内容も昨年度と変わっていないのだから、五月病になる道理がない。

  五 死
 言葉とともに生まれたアンポンタン・ポカン君の人生は言葉とともに終わる。最後の一言は既に決まっていて、彼にはどうしようもない。呉一郎と呉モヨ子の物語とは無関係に、アンポンタン・ポカン君は死ぬ。彼の最後の言葉は
「死のう」

 この文章はif→itself五月病雑文祭に駆け込み参加作品です。……間に合うのか?