【日々の憂鬱】いつまでも現実を見ずにネットに逃避しつづけるのはいかがなものか。【2003年11月上旬】


1.10822(2003/11/01) たそがれの国は過ぎ去り

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0311a.html#p031101a

最近、鉄道の人身事故が多い。よほど不注意な人が増えているのだろう。踏切が閉まったら無理な横断はしない、駅のホームでは白線の内側に下がって電車を待つ、跨線橋の上から不用意に身を乗り出さない、など普段の生活で注意していれば人身事故のほとんどが未然に防げるはずだ。気をつけよう。


なんとなくライトノベルが読みたくなって、『帰宅部! GO HOME ―決戦は日曜日―』(川嶋一洋/集英社スーパーダッシュ文庫)を買った。人身事故で電車が遅れたせいで、家に帰り着くまでに全部読み終えた。

「帰宅部」という部が実在するという設定が面白いと思ったのだが、読んでみるとタイトルと内容はあまり関係がなかった。どうも後からとってつけた設定のような感じがする。でも、荒唐無稽なドタバタ劇は面白かった。


帰宅部が実在すると考えるのは馬鹿げている。エンジンブレーキが実在すると考えるのも馬鹿げている。チェシャ猫が実在すると考えるのも馬鹿げているし、三日坊主が実在すると考えるのも馬鹿げている。

馬鹿げたことを馬鹿げたこととして扱えば娯楽になるが、時に人は馬鹿げたことを馬鹿げたことだと気づかずに真面目に考え込んでしまうことがある。


雨の日はいつもレイン経由でこんな話を読んだ。気が滅入った。

1.10823(2003/11/02) 渡辺温

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今日の記事は渡辺温とは全く関係がないので、彼のことを知らない人も阪神電車ファンも安心していただきたい。


米澤穂信氏の次回作 先行情報(情報もと:Mystery Laboratory)によると、新作『さよなら妖精』が来年2月に東京創元社から刊行される予定だそうだ。この人は私が今もっとも期待している小説家なので、新しき謎とそのエレガントな解決を追求すると同時に、他方面に於いては小説上の基礎となる健実なるキャラ造形に務める先生の新作への期待は大きい。

ところで、「活目」というのは「刮目」の間違いだと思う。


今日の名台詞。まいじゃー推進委員会!11/1付『本屋はどこだー!』)から。

うさぎは寂しいと死んでしまいますが、極楽トンボは本がないと死んでしまうので大ピンチです。

『ふしぎの博物誌』(河合雅雄(編)/中公新書)によれば、うさぎは糞食しなければ死んでしまう(同書5ページ参照)そうだ。おお、どうでもいいことを書いてしまった。


砂色の世界・日記(10/31付)の、世界が決定論的であるためには、全ての物事が無条件に必然的でなくてはならない。というテーゼに対する疑問。

世界が決定論的であるためには、果たして本当に全ての物事が必然的でなければならないのか? 最初の一点は偶然的なものであっても構わないように思うのだが……。

もう一つよくわからないのは、無条件に必然的という言い回しがどのような事柄を意味しているかということ。条件付き必然性という概念があり得るのかどうか、私にはわからない。


今日はこれから『マリア様がみてる レディ、GO!』を読むつもりだ。サブタイトルの「レディ」には"Lady"の意味を重ねているのではないかと予想しているのだが、さて……?

1.10824(2003/11/03) 幻想と"ロジック"

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幻想小説の系譜から読む『涼宮ハルヒの憂鬱』 *the long fish*)を読んだ。非常に気合いの入った文章で感心した。私の読書感想文はいつも書き飛ばしなので、このような練り込んだ文章を読むと恥ずかしくなる。

この文章の前半は幻想小説一般についての考察に充てられている。後半で展開される『涼宮ハルヒの憂鬱』の検討のための予備的考察であることは明らかなのだが、それだけを取り上げても非常に興味深い。たとえば――

幻想小説とは、幻想を描くことに重点を置いた小説と定義される。例えば読者や小説内登場人物が幻想に直面し、そこに異世界ロジックを見いだすことで新しい現実として受け入れたり、あるいは逃げ出したり、逆に異世界ロジックに慣れていくことで、それまで現実だと思っていた世界を受け入れられなくなっていく過程を描いた物語となる。

もう一箇所、印象的な文章を引用しておこう。

既知のロジックに支配された世界から未知のロジックに支配された世界への移行における「幻想」を描いたのが幻想小説であると先程定義した。それでは、そのような移行のない状態とはなにか。

ここでは、既知ではないロジック、日常ではない異世界ロジックに従っている状態をファンタジーと呼ぶことにしたい。そして、そのようなファンタジーを描くことに重点を置いた物語を、ファンタジー小説と呼ぼう。

実を言えば、「幻想小説」と「ファンタジー小説」という呼称の使い分けには、あまり賛成できない。「カメラ」というかわりに「写真機」と呼べば、なんとなく古き良き時代を連想させられるが、だからといって、ある年代以前に製造されたものを「写真機」、それ以降に製造されたものを「カメラ」と言葉を使い分けると奇妙なことになるだろう。……これは余談。

ここで重要なのは、「ロジック」のほうだ。「ロジック」という語はミステリを巡る議論の場では多用されるが、私は幻想小説の文脈ではあまり見聞きしたことがない。だが、「世界観」や「世界設定」という言葉に置き換えれば、さほど違和感はない。ある世界の中で生起する様々な事象の背景にある原理原則、という意味合いだと解釈した。以下、この解釈に基づき「ロジック」という語を用いることとし、その事を明示するために、この語を引用符""で括ることにしよう。なお、一重括弧「」で括るのは、この語自体に言及する場合だが、ややこしくなるので、ここから先では語自体への言及は避けることにする。

私は幻想小説のあまりいい読者ではない。国書刊行会などから出版されている高踏的(?)な小説も、ライトノベルでもよく見られる、異世界ファンタジーの類も、ほとんど読んだことがない。去年、一念発起してトールキンの名作『指輪物語』を読んだが、あまり面白いとは思わなかった。また、雑誌「幻想文学」は遂に一度も買わずじまいだった。

そんな私が、幻想小説の例として思い浮かべるのは、たとえば漱石の『夢十夜』であり、足穂の『一千一秒物語』であり、乱歩の『押絵と旅する男』である。どれもずっと昔に読んだので、今となっては細かいところは覚えていないが、異世界"ロジック"が立ち現れてくるような小説ではなかったことは確かだ。だが、それらの作品には日常の"ロジック"のゆらぎがあり、生々しい幻想に満ちている。

もちろん、強固な異世界"ロジック"に支配された物語もある。たとえば、ルイス・キャロルの『鏡の国のアリス』がそうだ。日常世界のごく一部に見られる"ロジック"(残念ながら私はその"ロジック"を実際に体験したことが一度もない)が極端に拡大され、基本原理はそのままでありながら歪められ、意味を剥奪され、別の意味が付与され、そして一つの世界を形作っている。

では、先に挙げた作品群と『鏡の国のアリス』はどこが違うのか? それは短篇と長篇の差だ……と言ってしまうとつまらないのだが、これしか思いつかなかったのだから仕方がない。短篇小説では幻想を生のまま提示して締めくくることができるが、長篇ともなると幻想を生みだした背景や機巧をある程度説明することが求められる。そこで、現実の"ロジック"とは異なる"ロジック"が必要とされるのだ。

もちろん、この説明は非常に乱暴なもので、誰でも反例の一つや二つは簡単に思いつくことだろう。たとえば、同じキャロルの長篇小説『シルヴィーとブルーノ』はどうだろう? 夢野久作の『白髪小僧』は? 私は調子に乗って少し踏み込みすぎたようだ。

収拾がつかなくなったので、強引に結論を提示することにしよう。

幻想小説にとって必要なことは、既成の"ロジック"をぐらつかせて、そこに一瞬の幻想を現出させることだ。そのためには、現実世界の"ロジック"とは別の世界の"ロジック"を持ち込んでも構わないし、そのような対立する"ロジック"なしに、ただ日常の土台を揺さぶってみても構わない。あるいは、"ロジック"を徹底的に追究して、そこに綻びがあることを読者自身に見出させても構わない。この最後の方法を組織的に展開した文芸ジャンルがある。それは、ミステリである。ここにおいて、"ロジック"はロジックと一体となる。ミステリとは幻想小説の一形態である

おお、言い切ってしまった。

実際のところ、幻想が感じられるミステリはほとんどない。世界のゆらぎやひび割れを垣間見させてくれるミステリなど数年に一回出会えるかどうかという程度だ。だが、「幻想小説」とか「ファンタジー」と銘打った小説でも、幻想があるとは限らないのだから、同じことだ。

最後に蛇足。私は一般の幻想小説に比べてミステリのほうがジャンルとして優れていると主張したいわけではない。また幻想に至上の価値を置くわけではない。どちらかといえば、私は幻想そのものよりも幻想が解体されて幻滅に至るプロセスのほうが好きだ。あまり同意してくれる人はいないだろうが、乱歩だと『押絵と旅する男』よりも『防空壕』のほうが気に入っているくらいだ。

蛇足の蛇足。いつもの癖でやや批判的な論調になってしまったが、幻想小説の系譜から読む『涼宮ハルヒの憂鬱』 は、幻想小説ファンもライトノベルファンもどちらでもない人も――ただし『涼宮ハルヒの憂鬱』を既に読んでいる人に限る――ぜひ一読していただきたい。


ふと思い出したのだが、私は「交響曲」という言葉と「シンフォニア」という言葉を使い分けている。

1.10825(2003/11/04) いやな夢

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こんな夢を見た。

場所は書店、ハードカバーの分厚い本が並んでいる。平棚にひときわ厚い本が積んであって、私はその表紙を何気なく見ている。

私の隣にいる知人が、その本を指している。「これは彼女の遺作ですよ」と。

彼女?」

その本は単著ではなくて、どうやらアンソロジーのようだ。編者の名前は男性で、私には彼女というのが誰だがわからない。

「ほら、あの人ですよ。ええと、何という名前だったか……」

私は本を手に取る。ひどく重い。巻末に置かれた編者のあとがきを読む。そこに彼女の名前が書かれている。その本の企画を最初に持ちかけ、本の完成前に世を去った人物の名が。その名前はもちろん本名だが、すぐに私は彼女のハンドルを思い出す。

「あっ!」思わず驚きの声をあげる。

知人は軽く頷く。

私は彼女と面識があるわけではないし、ネット上でも交流はなく、ただ、ちょっと変わったハンドルが印象に残っていた程度なのだが、彼女の死後に遺された日記を通読して、その文才と感性に驚き、引き込まれそうな恐れすら感じ、彼女の日記へ張ったリンクを外し(もちろんブックマークも削除)、それから約半年ほぼ平穏無事に過ごしてきたというのに、いったい全体これはどうしたことなのだろうか?

……と考えたところで目が覚めた。いやな夢だった。

もちろん、この夢は私が頭の中で勝手にでっち上げたものではなく、実際に書店で知人と交わした会話がもとになっている。夢に出てきた本も実在するが、あえてタイトルを挙げる必要もないだろう。

1.10826(2003/11/04) ああ世は夢か

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手首専用の刃物「リストカッター」という賞品があれば面白いだろう。どこかの文具メーカーが出さないものか。

そんなふざけた事を考えてしまった。私は不真面目な人間だ。真面目になるべきところで、つい脱線してしまう。傍目には気楽に生きているように見えることだろう。


ここで某サイトの記事にツッコミを入れたが、後から読み返すと全然面白くないので削除した。面白くないのはいつもの事だが、他人様に迷惑をかけてはいけない。


密閉された空間で、全く痕跡を残すことなく人体を消失させる手段があったとしよう。その手段を用いれば人間消失もののミステリを書くことが可能だ。

だが、それではつまらない。安直過ぎる。それよりも、同じ手段を用いて密室殺人ものを書くほうが気がきいている。

密室状況で他殺死体が発見される。犯人は確かにこの部屋の中にいて、自分の手で被害者を殺害したはずだ。だが、肝心の犯人の姿は部屋の中のどこにも見あたらない。犯人はいかにして密室から脱出したのか? このように読者の思考を誤導するわけだ。うまく技が決まれば、かなりの傑作となるだろう。

ただし、人体を消失させる手段があれば何でも密室トリックとして用いることが可能だというわけではない。犯人が自殺したうえで、自分の死体を消失させることが可能な方法でなければならないのだ。これがネックとなる。

このアイディアを用いた密室ものを私は一例しか知らない。同じ着想でもまだまだ未開発のトリックがあるのではないかと思うのだが、誰かチャレンジしてくれないだろうか? そして、首尾良くミステリを書き上げた際には、私にこっそり読ませてほしい。もちろん、この文章からヒントを得て書いたものだと私に悟られてはならない。


無限軌道といえば、私は真っ先にブルドーザーを連想する。ミリタリーファンなら戦車を思い浮かべるだろうか。

工事現場のブルドーザーがある日突然意志をもって人間に襲いかかったら、オカルティックなサスペンスが展開されることだろう。このネタでゲームを作ったなら、キャッチフレーズは「無限軌道オカルティックサスペンスAVG」だ。

……これではあまりにも意味不明なので、リンクを張っておこう。しかし、文章が画像ファイルに埋め込まれているのはいかがなものか。


通勤電車の中で『論理哲学論考』(ウィトゲンシュタイン(著)/野矢茂樹(訳)/岩波文庫)をぼちぼちと読んでいる。昔、別の訳で一通り読んではいるのだが、細かい部分は忘れてしまっているので、常に新しい発見がある。今日の発見もまた明日には忘れてしまうことだろうが。

命題5.1361に曰く、因果連鎖を信じること、これこそ迷信にほかならない。今朝、この箇所を読んで、「身も蓋もないこと書いてるなぁ」と思った。


今回の文章は十分では書けなかった。しかし、十分に時間をかけたとも言い難い。私は中途半端だ。

1.10827(2003/11/05) 優しい白菜

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0311a.html#p031105a

むかしむかし、ある野菜畑に優しい白菜がありました。その慈愛は畑を越え、野山を飛び越えて、世界全体を覆い尽くすほどでした。人々は皆、その白菜の庇護の下、楽しく愉快に暮らしていました。

そして、今もなお、優しい白菜は人々に夢と希望を与えているのです。おしまい。

1.10828(2003/11/05) 鯨並木

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秋、鯨並木が西日に映える。目くじら歯くじら髭くじら。やがて夕日は沈み、清められた夜が訪れる。ガス燈がかつて大海を泳いだ者たちをそっと優しく照らす。目くじらは大波を懐かしみ、歯くじらは捕鯨船との闘いを思い出し、髭くじらは静かに瞑想する。夜が更けると、並木道はゆらりゆらりと霞んで揺れて、くじらたちもつられて揺れる。ゆらりゆらり、ゆらりゆらり。

1.10829(2003/11/06) 『悪魔のトリル』と四捨五入

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0311a.html#p031106a

『悪魔のトリル』を四捨五入することは可能か?

この問いに対して、私は自信を持って「できない!」と答える。それは単に私にはできないということではない。誰であっても『悪魔のトリル』を四捨五入することなど絶対に不可能なのだ。

仮に全知全能の神が実在するとしよう。神は人間を支配し制約する物理法則から自由だ。だから、たとえば人間が決して持ち上げることができない重さ10トンの巨石を持ち上げることすら可能だ。では、神は神自身ですら持ち上げることができないほど重い石を作り出り、かつ、その石を持ち上げることができるのだろうか? この問いは神学者の踏み絵となる。「できる」と答える神学者は、神は物理法則のみならず論理法則をも超越した存在だとみなすことになる。「できない」と答える神学者は、神の能力を論理の範囲内に限定することになるだろう。私は神学者ではないので、別にこの問いについての態度を定める必要もないのだが、どちらかといえば「できない」という答えのほうに心惹かれている。

さて、第一の問いと第二の問いの答えがともに「できない」であったとしても、両者は同じ種類の問いではない。神が持ち上げることができない石を神が持ち上げるというのは、論理的に矛盾した事態だが、『悪魔のトリル』を四捨五入するということには論理的矛盾は、少なくとも見かけのうえでは存在しない。

人間が10トンの石を持ち上げることは、生物学的に不可能である。全能の神が自ら持ち上げることができない石を持ち上げるのは論理的に不可能である。では、『悪魔のトリル』を四捨五入することは、いかなる意味で不可能なのか?

この難問について、私は今のところ十分に納得できる答えを持っていない。あれこれ考えても先に進めないので、この問題についてはこれくらいにしておき、もう一つ別の話題を取り上げることにしよう。

『悪魔のトリル』と桶豆腐を区別することは可能か?

この問いに対して、私は自信をもって「できる!」と答える。それは単に私にはできるということではない。誰にでも、というと言い過ぎかもしれないが、ある条件を満たしている人ならほぼ確実に区別することができるだろう。

試しに、道を歩いている人を呼び止めて、『悪魔のトリル』と桶豆腐を提示し、どちらが『悪魔のトリル』でどちらが桶豆腐なのかを尋ねてみるとよい。『悪魔のトリル』でも桶豆腐でもないものを交えたら正答率は下がるだろうが、そのような意地悪をしなければほとんどの人が正しく両者を区別することができるだろう。ただし、回答者が質問者の言葉を理解できるという条件が必要だ。日本語を知らない人に身振り手振り交じりで質問しても、正答が得られる保証はない。日本語を知っていること――これが上で述べた条件の一つである。ただし、『悪魔のトリル』と桶豆腐を区別できるための条件はこれだけではない。他にもさまざまな条件が必要だ。だが、それらの条件を一つ一つ取り上げて厳密な形で述べるのは至難の業だ。そして、そのような作業にはあまり実益はない。どうしても取り組んでみたいという人は暇なときに試してみるといいが、私はそこまで暇ではない。

私のわずかな余暇は、このささやかな文章を書くことで費やされてしまった。残念ながら、今日はこれでおしまいだ。

1.10830(2003/11/07) 禁煙

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0311a.html#p031107a

喫煙者が煙草を吸うことをやめることと、ある時空間において喫煙を禁止すること、その両方を同じ言葉で言い表すのはなぜだろう?

1.10831(2003/11/07) 『白髪鬼』の感想

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前回からかなり間があいてしまったが、私はまだ光文社文庫版江戸川乱歩全集全巻読破の野望を捨てたわけではない。

『白髪鬼』は翻案物だ。乱歩の翻案物といえば、『緑衣の鬼』(フィルポッツ『赤毛のレドメイン家』)と『三角館の恐怖』(スカーレット『エンジェル家の殺人』)などミステリ作品が思い浮かぶ。特に『緑衣の鬼』とはタイトルも似ているので『白髪鬼』もミステリなのだろうと思っていたが、全然違った。古めかしい復讐譚であり、ミステリの要素はあまりない。

金持ちのボンボンが美女と結婚したのはいいが、旧友に寝取られて、さらに死ぬほどひどい目にあってしまう。九死に一生を得た主人公は二人に復讐することを誓い、あの手この手を用いて姦夫姦婦を追いつめて、殺してしまう。そんな話だ。原作はマリイ・コレルリ(メアリ・コレリ)という作家の『ヴェンデッタ』という小説だそうだが、かなり改変を加えているようだ。もちろん私は原作を読んだことはないし、黒岩涙香が訳した『白髪鬼』も読んでいないので、異同を論じることはできない。

乱歩の通俗長篇はどれも似たり寄ったりで、続けて読むと飽きてくるのだが、『白髪鬼』は非常に面白かった。一方に寝取られたり寝取ったりするドロドロの人間模様があり、もう一方に現実離れした金銀財宝やトリックがある。その対比が素晴らしい。寝取られマニアにはぜひ一読をお勧めしたい。

1.10832(2003/11/08) ひとつの時代の終わり

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0311a.html#p031108a

郭公亭讀書録(11/8付)から。

辰巳四郎氏死去。新本格勃興期の装丁を一手に手掛けた人だったが(特に講談社ノベルス版『迷路館の殺人』のカバーを最初に見た時の「わくわく感」は忘れ難い)、個人的には角川文庫の天藤真の装画を務めていた人、というイメージも強い。

角川文庫の天藤真の童画調の装画と、「新本格推理」の装画が同一人物の手になるものだと知ったときにはびっくりした事を今でも覚えている。

これでまた一時代が終わった。

1.10833(2003/11/09) 『黒い虹』の感想

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0311a.html#p031109a

光文社文庫版江戸川乱歩全集第9巻『黒蜥蜴』には表題作のほか長篇『人間豹』、短篇『石榴』、そして連作『黒い虹』の第1回が収録されている。今日はその中で冒頭に置かれている『黒い虹』の感想を書く。だが、第7巻『黄金仮面』に収録さけていた『江川蘭子』もそうだったが、連作の第1回だけ読んでもまとまった感想などあるはずがないが、少しだけ書いておく。

冷え切った仲の夫婦の会話から始まり、夫に捨てられつつあるヒロインの唯一の心の支えである息子の誘拐へと話は進み、さらに脅迫されて犯人におびき寄せられ陵辱の限りを尽くされる……かと思ったら、さっさとヒロインが殺されて次回へと続く。思わせぶりな指輪の謎が気になる。続きが読んでみたいという気にさせるのだから、連作の第1回としては上出来ではないかと思う。続きは春陽文庫で読むことができるのだが、ただでさえ毎月1冊の乱歩全集を消化しかねているのに、これ以上別の作家が書いた続篇まで読んでいては先に進めなくなるし、解説を読んだ限りではその後の展開はあまり面白いものではなさそうなので、これでやめておくことにする。

1.10834(2003/11/10) 選挙と括弧とデイビッドソン

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0311a.html#p031110a

11/9は奈良県知事選挙の投票日だ。投票できるのは奈良県民だけだ。しかし、奈良県民でない人も嘆くことはない。同時に衆議院議員総選挙も実施されるからだ。投票は有権者の権利なのだから、みんな棄権せずに一票を投じよう!

「そんな事言っても、もう選挙は終わってしまったじゃないか」

いけないいけない、そんな後ろ向きな態度では明るい未来を迎えることはできない。日本の未来は自分の未来だ。11/9を既に過ぎ去った日だと捉えて自分の可能性を自分で狭めてしまったら楽しくないぞ。物は考えようだ。今日は11/10で明日は11/9だと考えよう。そうすれば投票日は未来のことになるではないか。

「でも投票所はもう撤収してしまったよ」

HAHAHA! 君はそんなことを気に病んでいたのか。心配はいらない。日本には不在者投票という制度があって、投票日以外の日でも好きな日に投票することができるんだ。でも、不在者投票は午後8時までだから、あまり遅くならないように気をつけようね。

君の一票が政治を変えるんだ。支持政党がなければ「真理党」と書くがいい。「UFO党」でもオッケーだ。候補者の人相が悪い? だったら、へのへのもへじでも書いておけ。裁判官のことなんかわからないから、全員マルをつけておけば問題なし。


括弧に関する話題、その1。

闇黒日記11/7付(このページの真ん中の少し下あたり)

ちなみに私は、この種の「道徳的」と云ふ表現は、鉤括弧附きでしか使はない。道徳と本質的に無關係のものだからだ。と言ふか、鉤括弧附きで書いてゐる言葉は、全て「所謂○○」の意味なのであつて、既に私が疑つてかかつてゐる言ひ方である事は、あらかじめ承知しておいていただきたい。

言葉をそのままの意味で用いるのではなくて、別の含みがあることを示したい場合に、当該の言葉を括弧で括ることがよくある。たとえば、私は「本格ミステリ」という言葉をなるべく使わないことにしているのだが、文脈の都合でどうしても使わざるを得ないときには"本格ミステリ"と表記することにしている。この場合に普通の鉤括弧を使ってもいいのだが、私は鉤括弧を言葉そのものに言及していることを示すために用いることにしているので、当該の言葉を何らかの含みをもって使用する場合には""で括って、単なる言及と区別している。

このように括弧や引用符を使い分けるのは多くの場合には煩わしいだけであまり実益はないのだが、たまには区別がどうしても必要になる場合があるので、ふだんからなるべく使い分ける癖をつけることにしているのだ。それでも、いざというときには間違えることもあるし、読者の混乱を恐れて上で述べたルールを徹底できないこともある。たとえば、一つ上の段落で"本格ミステリ"と書いたが、この文章は"本格ミステリ"について語っているわけではなく、単に二重引用符の使用例として挙げただけなのだから、本当はさらに鉤括弧で括って「"本格ミステリ"」と書くべきだったのだ。と、書いてみたが、一つ前の文では前段落での言葉の使い方に言及しているのだから、鉤括弧は一つではなく二つ重ねるべきで、本当は「「"本格ミステリ"」」と書くべきだったのだ。と書いてみたが、実はこれも不正確な記法であり、鉤括弧を二つ重ねた表記を例示する場合には当該表記に言及することになるのだから、本当は鉤括弧を三つ重ねて書くべきだったのだ。すなわち、「「「「"本格ミステリ"」」」」と。ここで鉤括弧を四つ重ねることによって、鉤括弧を三つ重ねた表記への正しい言及となるのである。

閑話休題。

上で引用した文中には鉤括弧で括られた箇所が二つある。一つは「道徳的」でもう一つは「所謂○○」である。前者の鉤括弧の用法はそこで述べられているとおりだが、後者の鉤括弧はいったいどのような用法だろうか? 少なくとも、当該の言葉を疑ってかかっていることを示すために鉤括弧で括っているのではないことは確かだ。おそらく、これはある種の言及(ただし特定の言葉への言及ではなく、複数の言葉のもつ共通のパターンへの言及)なのだろうと思うが、あまり自信はない。


括弧に関する話題、その2。

はてなダイアリー 幻燈稗史/magic-lantern romance11/10付)から。

保存はぼくは機械的に誤字も含めて、のほうがいいとおもいます。あと、「転載」になるので、やはり作者さんに直接了承とるべきでしょうね。たしかに!? のあとにスペースがこないのは違和感ありますが、本人の介在しないところでの編集は、漢字の誤字訂正でもやっぱりやりたくない。「」のなかの最後の。も市販の文庫でもつけてるやつとつけてないやつがあるので、一律というわけにはいかないだろうと。

上で長々と書きすぎたので、こっちはノーコメント。


はてなダイアリー 186(8?)デイヴイッドソン死去の情報があったので、リンク先を辿ってみたのだが、私には理解できない文章が羅列されているばかりで、詳しいことはよくわからなかった。たぶん8月30日に86歳で死んだのだと思うが。

デイヴィッドソンといえば、"脱構築"派の代表格の哲学者(「脱構築」という言葉を引用符で括っていることに注意!)だが、現代思想系の人々の間での知名度はいかほどだろう? 現代思想方面では英米の哲学者は冷遇される傾向があるので、デリダやフーコーに比べれば知名度が落ちるのは間違いないが、ローティーと比べたらどうだろうか? クリプキより有名だろうか?