【日々の憂鬱】どうでもいいけどいかがなものか。【2003年10月中旬】


1.10807(2003/10/11) 走る、走る

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0310b.html#p031011a

「走る」は名詞かから。

要するに、カッコなしの 走る は誰がどう考えても動詞ですが、「走る」は名詞としか言いようがありません。

例文:この文の述語は「走る」だ。

ここで挙げられている例文は自己言及文であるため、その構造は見かけ以上にややこしい。さて、どう分析すればいいだろう、と思っているうちに時間切れ。とりあえずメモだけ。

1.10808(2003/10/12) 自ら望んで生まれた人はいない 死んでから自ら悔いる人もいない

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0310b.html#p031012a

もちろん"死後の生"を仮定すれば、必ずしもそうはいえない。自殺者の幽霊が「ああ、どうして早まったことをしたのか」と後悔するような状況が想定可能だからだ。

と、どうでもいい事を考えてみた。特に意味はないし、これ以上続ける気もない。

1.10809(2003/10/14) 「走る」は名詞ではない

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0310b.html#p031014a

前々回の続き。「走る」は名詞かを取り上げる。ただし、私ははてなダイアリーを使っていないし、キーワードを巡る論争をきちんと追いかけていないので、この話題が出てきた背景について踏み込む気はないる文脈を無視して、ただ「走る」が名詞かどうかという点に絞って考察する。

まず、三省堂提供「大辞林 第二版」による「名詞」の説明について考えてみよう。ここで挙げられている名詞の特徴は次のとおり(箇条書きのため、一部文言を変更している)。

  1. 事物の名を表す。
  2. それ(下記参照)を指し示す。
  3. 自立語である。
  4. 単独で主語となり得る。
  5. 「の」「を」「に」などの助詞を伴って連体修飾語・連用修飾語となる。
  6. 「だ」などを伴って述語になる。
  7. 下位区分に普通名詞・固有名詞・数詞などの類がある。
  8. 代名詞とともに体言と総称される。

2の中の「それ」は「事物」を受けるものと読むべきか、「事物の名」を受けるものと読むべきか、私には判断できない。1と2で「表す/指し示す」と言葉を使い分けているので、前者だと解釈したいのだが、この項目の執筆者が「表す/指し示す」をどのように用いているのかがわからないため、断言できない。ともあれ、1と2は名詞の意味論的特徴付けであることは間違いない。すなわち、言葉と世界の関わりにおいて、名詞がどのような機能を割り当てられているか、ということに着目した特徴付けだ。

他方、3〜6は構文論的特徴付けと言うことができるだろう。文中に組み込まれた名詞が、他の品詞とどのように関わるかということに着目した特徴付けである。

残る7と8は、下位分類と上位分類による説明であり、「普通名詞」「体言」などの語と「名詞」という語の関係について述べたメタ説明と見ることもできる。

と、いちおう整理したところで、「走る」は名詞かどうか、という問題に取りかかることにしよう。再度「走る」は名詞かから引用する。

要するに、カッコなしの 走る は誰がどう考えても動詞ですが、「走る」は名詞としか言いようがありません。

例文:この文の述語は「走る」だ。

ここで挙げられた例文は自己言及文である。この例文の主語である「この文」はこの例文自身を指す。自己言及文は時にはパラドックスを引き起こすことがあるので、取り扱いに注意が必要だ。だが、今は文の真偽を問題にしているわけではないので、パラドックスにまつわる頭の痛い問題は無視することにしよう。

さて、この例文は、「走る」が名詞であることを示すためのものであることは明らかだ。おそらく上の5に該当するものとして捉えられているのだろう。だが、5はある語が名詞かどうかを判定する基準としては弱い。これだけでは形容動詞との区別がつかないからだ(もっとも、「形容動詞」という品詞を認めない立場もあるので、話がややこしい)。

名詞の構文論的特徴としては、むしろ4のほうが重要だろう。そこで、次のような例文を考えてみた。

「走る」はこの文の主語だ。

確かに「走る」はこの例文の主語である。また、どう考えても代名詞ではない。単独で主語になる品詞が名詞と代名詞だけで、動詞や形容詞が単独で主語になることは絶対にないと考えるなら、「走る」は名詞だと判断せざるを得なくなる。では、この例文中の「走る」は一体を指し示しているのだろうか?

「走る」という語は普通、人や動物が足を使って行うある種の動作を指す。また「自動車が走る」などのように、無生物や足以外のものの動きを指すこともある。しかし、上の例文(または愛・蔵太氏の例文でもそうだが)では、「走る」は動作を指しているのではない。主語になったり述語になったりするのは、ただ言葉のみであり、動作は言葉ではない。例文中の「走る」は何らかの言葉を指している。いや、ぼかして言うまでもない。例文中の「走る」が指し示しているのは、「走る」という語である。

言葉はしばしばそれが指し示す事物と対比される。「犬」という語と犬と明確に区別される。一方は言葉であり、もう一方は事物である、というふうに。だが、広い意味では言葉も事物のうちに含まれる。すると、普通の(言葉以外の)事物に名前を与えるのと同様に、言葉という事物にも名前を与えることができるだろう。むろん、言葉に与えられた名前もまた言葉だ。そして、"言葉の名前"は名詞となる。

言葉に名前を与える方法にはいくつかある。たとえば、「四文字言葉」という語は(ある文脈では)特定の語の名前として機能する。この語が指し示す英単語は名詞としても動詞としても用いられるが、「四文字言葉」という語自体は動詞ではない。言葉の名前なのだから名詞に決まっている。

「走る」という言葉には決まった名前がないが、たとえばここで仮に「歩行状態表現動詞」という言葉を作ったとしよう。この場合も「四文字言葉」と同じで「歩行状態表現動詞」は名詞である。そもそも「動詞」も「形容詞」も「副詞」も「連体詞」もみな名詞だ。

では、「走る」の名前として「走る」そのものを用いる場合はどうか? やはりこれも名詞と考えるのが妥当だろう。だが、同じ字面の言葉が動詞であったり名詞であったりするのはややこしい。そんな混乱を避けるために、日本語の表記法にはちゃんとルールが設けられている。ある言葉そのものをその言葉の名前として用いる場合には、その言葉を括弧で括る、というルールだ。そのことを愛・蔵太氏は「走る」は、カッコ(カギカッコ)つきで、名詞の形で扱うことができるという点において名詞です。と述べている。賢察である。

と、ここで終わりにすればうまくまとまっているのだが……残念ながらそうはいかない。この文章の見出しを「『走る』は名詞だ」にしなかったのはそのためだ。

愛・蔵太氏曰く、

要するに、カッコなしの 走る は誰がどう考えても動詞ですが、「走る」は名詞としか言いようがありません。

ここから、「要するに」と「が」を取り去ると、次の2つの文が得られる。

  1. カッコなしの 走る は誰がどう考えても動詞です。
  2. 「走る」は名詞としか言いようがありません。

2はいい。問題は1だ。この文の主語は「カッコなしの 走る」だが、そこから修飾語である「カッコなしの」を取り除くと「走る」が残る。今、便宜上「走る」と括弧で括っているが、原文でも上の1でも括弧はない。括弧がないのだから、そこでは「走る」という語は言葉の名前としてではなく、普通の言葉として用いられている……というわけではない。もしそうなら、この言葉は動作を指しているはずであり、動作は言葉ではないのだから、動詞であったり名詞であったりするはずがない。括弧の代わりにスペースを用いることによって、それが普通の言葉ではなく、言葉の名前であることを示していると考えるべきだろう。すると、言葉の名前はすべて名詞であるという先の考え方によれば、1の主語である「走る」は名詞だということになり、「誰がどう考えても動詞です」とは言えなくなる。


ここまで書いたところで今日は時間切れ。このあと、言葉を括弧で括っても品詞の種類が変わるわけではないということを論証し、「走る」はやっぱり動詞だった、と結論づける予定だったのだが……。

この種の文章は勢いに任せて一気に書き上げないと、意欲を失ってしまう。よほど好評でない限り、たぶん続きを書くことはないだろう。

次回は『黄金仮面』の感想文を書く予定。

1.10810(2003/10/15) 逢いたい時にあなたは胃内

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0310b.html#p031015a

今日は渡世の義理で某ホテルの試食会に出て、大いに疲れて帰ってきた。疲れるとどうでもいいことを思いつくもので、たとえば今回の見出しなどはその一例だ。特に意味もないし、展開しようもないので、これはこれでおしまい。

昨日の予定では、『黄金仮面』の感想文を書くことになっていたが、疲れて頭がうまく働かないので延期。どうせ大して気の利いたことが書けるわけでもないのだから、もったいぶっても仕方がないが、本を読んで感じた事柄をただ書き連ねるだけでも今の私にとってはちょっと重荷だ。

繰り返しになるが、今晩の私は疲れている。これもまた繰り返しになるが、疲れているときには頭がうまく働かない。だが、昨日の文章について少し補足しておかなくてはならない。

今朝、ふと気づいたのだが、昨日の文章には一つ大きな間違いがある。書いているうちに混乱してしまったせいだ。すると、言葉の名前はすべて名詞であるという先の考え方によれば、1の主語である「走る」は名詞だということになり、「誰がどう考えても動詞です」とは言えなくなる。という一文がそうだ。この文のどこがどう間違っているのかを説明するのはやや面倒だ。何度も繰り返しになるが、今の私は疲れていて頭がうまく働かないので、説明は省略する。

言語を巡る問題を言語を用いて語るということは、知恵の輪を解く作業に似ている。どちらも、非常に複雑な仕方で絡まり合っていて、一見したところ解けそうにはない。また、何かの拍子に糸口が見つかっても、ちょっと気を抜くとすぐに混乱してしまう。それが面白いといえば面白いのだが、私は知恵の輪を解くのは苦手だ。最近玩具店や書店などで売っているキャストパズルなど、自力で解けた試しがない。

自力で解けないともどかしくなってきて、解法を紹介しているサイトがないかどうか調べてみたくなる。「他人の答えを見て知恵の輪を外して何が面白いのか?」と言われそうだが、難解なミステリを読んで"読者への挑戦状"に応えられずに解決篇を読むときのような心境に近い。不協和音を聞いたら、それを"解決"したくなるのと同じことだ。なお、和声学の本を読むと、本当に「解決」という用語が出てくる。

どうも今日の文章は冴えていない。では昨日書いた文章は冴えていたのかといえば、別にそういうわけではない。ただ、比較してみれば、今日よりは多少ましだったといえるだろう。ということは、明日の文章と比較すれば、今日の文章のほうがまだましかもしれない。そう考えると少しは気分が落ち着く。もっとも、それは日付が変わるまでのことだが。

こうやってとりとめのない文章をだらだらと書いていても仕方がないので、今日のところは次回予告をして締めくくることにしよう。次回、いよいよ『黄金仮面』の感想文を書く。書くと言ったら書く。書くまでは更新しない。

1.10811(2003/10/16) 『黄金仮面』の感想

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0310b.html#p031016a

まるで、流水大説のようだ。(句読点込み13文字)


『黄金仮面』を読むのはこれが初めてではないが、前に読んだときには清涼院流水のことを全く連想しなかった。なぜなら、まだ清涼院流水はデビューしていなかったからだ。

今回の再読で清涼院流水を連想した理由の一つは、冒頭に掲げられた「作者――江戸川乱歩氏曰く」である。

私は、最近、従来の「小探偵小説」を脱して、もっと舞台の広い「大探偵小説」へ進出したいと思っている。今回の『黄金仮面』は実にその第一歩である。

「大探偵小説」をつづめて言えば「大説」となる。そこから「流水大説」まではあと一歩だ。

理由はもう一つあるのだが、そちらは秘密だ。『コズミック』と読み比べてみれば、説明するまでもないと思うが。


一般の読者にとってはどうでもいいことだが、私にとっては非常に興味深い発見があった。それは、作中での「密室」という語の用いられ方である。『黄金仮面』にはそのままずばり「密室」という小見出しのついた節があるのだが、そこに出てくるのは密閉されて出入り不可能な部屋ではなくて、秘密の隠し部屋である。では、現在ふつうに「密室」と呼ばれるような状況のことは何と呼んでいるのか? 「入口のない部屋」(『黄金仮面』200ページ参照)だ。

「密室」という語はたぶん昭和10年代には今と同じ用法でも用いられるようになっていたはずだが、秘密の部屋という用法がいつ頃廃れたのかは判然としない。誰か調べてくれないだろうか。

1.10812(2003/10/17) ミステリに関するメモ「その1」と「その2」

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0310b.html#p031017a

その1

のこされたことばのかけらから「新本格が出る前は本格の暗黒期で社会派推理小説の全盛期だった」は都市伝説なのか?

ずっと前に私が思いつきで書いた「昭和中後期本格推理闇黒時代史観」と似た話題。私は書き流しただけだが、こちらは続きがありそうだ。要チェック。


その2

小泉首相が国会答弁で『成吉思汗の秘密』に言及(情報もと:愛・蔵太の気ままな日記

義経伝説を扱ったミステリは他にもあったと思うが、小泉首相が学生時代に読んだ推理小説なので、『成吉思汗の秘密』だと断言して間違いないだろう。

高木彬光は当時ベストセラー作家だったので、首相が読んでいても別におかしくはないのだが、国会答弁で『成吉思汗の秘密』が引き合いに出されるのはちょっとびっくり。

1.10813(2003/10/17) 『江川蘭子』の感想

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0310b.html#p031017b

何 を 書 け ば い い ん だ !

『江川蘭子』は連作小説だが、光文社文庫版江戸川乱歩全集第7巻『黄金仮面』には乱歩が書いた箇所しか収録されていない。乱歩全集なのだから、他人の文章まで収録する義理はないのだが、ここだけ読まされたのでは中途半端で欲求不満に陥る。幸い『江川蘭子』全篇は春陽文庫で読める(と思うが、まだ売っているだろうか?)のでいいが、続きは乱歩の筆によるものではないと知っているから、あまり食指は動かない。「結局、続きが読みたいのか、読みたくないのか、どっちなんだ?」と訊かれれば、「江戸川乱歩が書いた続篇が読みたい」と答えるしかない。そんなものは存在しないから、いよいよもって欲求不満が募るのである。

内容については特に語るべきことはないのだが、一つだけ印象に残った点を挙げておこう。それは、冒頭でいきなりビヘヴィリアリズムの新心理学とか、ワットサン氏などといった言葉が何の補助説明もなしに出てくることだ。当時の一般読者の教養に含まれていた事柄とは思えない。というか、今の一般読者にとっても常識ではないだろう。

と、偉そうに書いてはみたものの、私自身心理学には全く疎いので、かわりにビヘヴィリアリズムの新心理学の考え方がよくわかる文章を紹介しておこう。ここ(10/16付「行動主義」)から引用する。

「人からどう思われているか」というのは「自分で自分をどう思うか」と同じくらい、下手するとそれ以上にアイデンティティに関わってくるものです。本当の私がどんな性格で何を思っているかなんて、誰にも分かりません。自分にだって分かりません。あるのかないのかも分からないような曖昧なものに判断を頼るよりは、「内心」「本当は」って部分はブラックボックスとして扱い、目に見える言動のみを基準にしたほうが合理的です。たとえ無意識下で「めんどくせー」って思っていたとしても、表面上はごく自然に老人に席を譲れるのならば、その人は思いやりのある人だと言ってしまって良いと思うのです。「みんなは私のことを○○と言うけど本当は××なんだ」なんて主張は論理的にはナンセンスです。

1.10814(2003/10/18) 生まれてこないほうがよかった私

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0310b.html#p031018a

「私は生まれてこないほうがよかった」と言う人がいる。そのような人は一体を言っているのだろうか?

まず確かなことがある。「私」(=発話者)は実際には生まれてきているということだ。従って、ここで比較されているのは、発話者が生まれてきたという事実と、生まれてこなかったような反事実だ。

事実と反事実の比較というのは原理的に大きな問題を抱えている。「私は林檎より梨のほうが好きだ」と言うのとは訳が違う。反事実は林檎や梨のように実際に味わうことができない。

問題はそれだけではない。発話者が生まれてこなかったような仮想的状況では、発話者は存在しないのだから、物事の良し悪しを判断することもできなければ、それらを享受することもできない。従って、「私はうまれてこないほうが私にとってはよかった」とは言えない。生まれてこないほうがよかったのは、発話者自身にとってではなく、誰か他人にとってである。あるいは社会全体にとって、と考えてもいいのだが。しかし、上の発言は――何か社会的に問題を起こして他人から非難されたときに自分の非を悔いて言った場合を除けば――社会や他人にとってではなく、まさに自分自身にとって自分の存在の虚しさを述懐するものだと思われる。

従って、「私は生まれてこないほうがよかった」は、文字通りに解する限り、無意味な言明だと言わざるを得ない。もし、このような発言に実質的な意味内容があるとすれば、それは事実と反事実の比較という見かけとは別のところに求められるべきだろう。「私は林檎より梨のほうが好きだ」という発言は場合によっては不快の意の婉曲表現でもあり得る(「林檎はいかが、だって? 私は林檎より梨のほうが好きなんだ!」)のだから、「私は生まれてこないほうがよかった」も何らかの婉曲表現または修辞表現だと考えるほうが適切だろう。

……というような事を思いついたが、ここで壁にぶつかってしまった。言外の意味を分析するためには、十分な背景情報が必要だからだ。発話者の生活史、発話者を取り巻く環境、そして会話の脈絡などの情報なしに一般論だけで話を進めるのは無理だ。

かくして私の無駄な思考は空回りする。下手の考え、休むに似たり。


「檄を飛ばす」という慣用表現がある。最近なぜか叱咤激励するという意味で用いられることが増えている気がする。「檄」と「激」は字面も似ているし、音も同じ「ゲキ」だからだろうか?


他人に干渉されることを嫌い他人に干渉することを恐れる人は、他人と共同作業を行うことができない。共同作業の価値を認めないならば首尾一貫しているが、もし価値を認められるなら、相互不干渉の方針との軋轢は免れまい。


「私は死んだほうがましだ」と言う人がいる。文字通りの意味に解して差しつかえないだろう。

1.10815(2003/10/19) 「冷たい怒り」と社員旅行

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0310b.html#p031019a

同時代ゲーム(10/18付)経由で「冷たい怒り」圏外からのひとこと)と題された文章を読んだ。興味深い文章だと思うが、まとまったコメントはつけられない。そこで、この文章を読んで思い出したことを書いてみる。

私は昔から協調性と社交性に欠ける性格で、周囲の人々とさまざまな軋轢を起こしながら生きてきた。人間嫌いというわけではないのだが、普通の人々とは少し物の見方や趣味趣向が違っているようで、人付き合いが苦手なのだ。仕事の上でりドライな関係なら割り切れても、宴会や旅行に一緒に行くのは苦痛以外の何ものでもない。そして、年わとるにつれて、その傾向はますます強まりつつある。

私が以前勤めていた会社では、忘年会で仮装したり、妙に羽目を外したゲームをしたりする習わしがあって、私は吐き気を催すほど不快な気分を味わった。だが、私は気が弱いので、断固として参加を拒否することができない。仕方がないので、忘年会に出たときには食事をさっさと済ませて、「ちょっと飲み過ぎたので酔いを醒ますために外に出る」と言って宴会場を出て、お開きの頃合いを見計らって会場に戻るという、苦肉の策をとることにした。ちなみに私は宴会では一切酒を飲まない。

諸般の事情により別の会社に移った後も忘年会では必ず途中退場することにしている。今の会社の忘年会は前の会社ほど下品ではないのだが、上記のとおり私はどんどん偏屈になっているので、今では酔っぱらいの集団に囲まれているだけで耐えられないのだ。

忘年会はそれでやり過ごすことができるが、困るのは社員旅行だ。いつも職場で顔を突き合わせている面々と同一行程で全く興味のない場所を巡るのは、酒宴以上の苦痛だ。前の会社では私が入社する少し前に何となく社員旅行がなくなっていたのでよかったが、今の会社は結束が堅く、毎年必ず11月か12月に1泊2日の旅行に出ることになっている。

一昨年の社員旅行のときはこんな感じだった。本当は行きたくなかったのだが、当時の直属の上司が幹事だったせいもあり、「私は行きません」という一言が言えなかった。

翌年、つまり去年の旅行はこんな感じだった。そこで「渡世の義理」と書いているのは社員旅行のことだ。

一昨年はディズニーシーで『社会的ひきこもり』を読み、昨年は阪神競馬場で『江戸川乱歩傑作選』を読んだわけで、毎年同じことを繰り返していることになる。ただ違っているのは、一昨年の幹事だった上司はその後転勤していなくなっていたということだ。では、誰が昨年の社員旅行の幹事だったのか?

だ。

本当は幹事などやりたくはなかったのだが、「私はやりません」という一言が言えなかった。一旦、幹事を引き受けてしまったら、旅行に行かないわけにはいかない。その苦痛は一昨年の比ではなかった。一昨年のディズニーリゾートに懲りたので、幹事の特権で行き先を有馬温泉にして、旅程に博物館を入れたりして苦痛の緩和を図ったのだが、あまり大した効果はなかった。問題は行き先ではなくて、社員旅行にあったのだ。その証拠に、その後個人的にディズニーシーに行ったときには、群衆を見ても全く不快感はなかった。

さて、私の会社には私と同じくらい人付き合いの悪い人がいて、一昨年の社員旅行には何かの理由を付けて参加しなかった。昨年、その人は人事異動で別の部署に移ったが、もしそのまま私と同じ部署に残っていたとしても、やはり社員旅行には参加しなかっただろう。というのは、その人は過去一度も社員旅行に参加したことがないからだ。

一昨年の旅行では、私はただ「うまく旅行から逃げられて羨ましいな」と思っただけだった。だが、もし去年その人がいたなら、単に羨ましがるだけではすまなかっただろう。きっと"冷たい怒り"に似た感情を抱いたことだろう。

そう思って、「冷たい怒り」を読み返すと、次の一節が心にぐさりと突き刺さる。

日本では、こういう伝統を守ろうとする人たちは、「社員旅行はよい」と主張しないで「社員旅行に文句をつける奴は悪い奴だ」と主張する傾向があります。権力のある人から、繰り返しそれを受け続けると、社員旅行の好き嫌いと関係なしに、「社員旅行に文句を言えないことに対する怒り」がたまってきます。この怒りはどこに向かうかと言うと、社員旅行が好きな人ではありません。「社員旅行に文句を言うな」と言った人でもありません。「社員旅行に文句を言う人」に向かって吐き出されます。これが「冷たい怒り」です。

私の思い出話は社員旅行に参加するかしないかという事柄を巡るもので、社員旅行そのものを廃止するかどうかということではないので、厳密に言えばここで引用した例とは異なるのだろう。だが、今はそこまで踏み込まないことにしよう。

細かい話をすれば、「冷たい怒り」という述語には多少の違和感がある(このような感情は時には熱い怒りとなってあらわれることもあるだろうから)が、これも今は問題にしない。

今私が抱えている問題は、「今年の社員旅行をどうするか?」ということだ。長い物に巻かれたふりをして、ひとり静かに木陰のベンチで本を読むことにするか。それとも今年ははっきり「私は行きません」と宣言すべきか?

1.10816(2003/10/19) http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/ is 63% evil, 37% good

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0310b.html#p031019b

今日の見出しはThe Gematriculator(情報もと:見下げ果てた日々の企て)で「たそがれSpringPoint」を判定した結果。私は英語がわからないので、どういう基準で判定しているのかはわからないが、悪が善を大幅に上回っているというのは気分がよくない。「お前のサイトは世間に害毒を垂れ流しているから可及的速やかに閉鎖せよ」と言われてるかのような気がする。


天使の階段(日記)10/16付から。

受動行為であろうとそれを受け取ることを許可する契約を結ぶだけの余地があるならば、それは能動行為と結果的にはなにもかわらないというのに、ただ、「させられている」ということを声高にではなく、言外にそこはかとなく主張できる立場(「自分は自己保身など考えていない」というこれまた誰に指摘されたわけでもない事実に対する言い訳の一端でもある)に、ひとは逃げ込みたがるのだろう。わずかな、わずかな罪悪感を放り出すために、茫洋とした何かに主語を担わせることは、気がつかないうちに自分もしているかも知れない。気をつけなくては。

私は忘年会や社員旅行に参加させられているという意識が強い。だが、半強制と強制は別ものだし、現に逃れている人が同じ会社にいる以上、半強制ですらないかもしれない。

私が忘年会や社員旅行を断れないのは、一つには気が弱いせいであり、もう一つには、職場の人間関係を損なうことと天秤にかけて計算した結果である。つまり、直接の原因は私自身にある。

ただ、「お前も同意して参加したのだから、つべこべ言うな」というふうに言われるのは、何か不条理な気がする。自分がやりたくて積極的に他人を引っ張っていく人と、引っ張られてついていく人が「能動/受動」の二分法で同じ側に位置づけられるのは、どこかおかしな感じがするのだ。

「何か不条理な気がする」とか「どこかおかしな気がする」という曖昧な言い方にはいかがわしさが漂う。明確な根拠を挙げるのではなくて、心の中の意識や印象で話をするのだから、他人には反論ができない。私は、ある時には意図的に、また別のときには意図せずに、このような言い回しを使うことがある。もし、これらの言い回しを完全に封鎖してしまったら、私が扱うことができる話題領域は大いに限られたものになってしまうだろう。

ここまで来ると、元の話題と論理的な繋がりはなく全く別の話になってしまうのだが、私のサイト運営の限界について示唆されたような気がするのは確かだ。ああ、また「気がする」と書いてしまった。

なお、私は宴席ではどんなに勧められても酒を飲まないことにしている。幸い、「俺の酒が飲めないのか」と絡まれたことはないが、もしそのような事態になったら喧嘩してでも断るだろう。

ごく稀に私も酒を飲むことがあるが、それは能動的な行為であり、飲まされているという意識は全くない。


闇黒日記(10/19付)から。

昔々、某大學の某ミステリクラブのクラブノートであつた話。

今ではミステリ評論の世界で有名な某氏が「帰る」と一言だけ書いて歸つたところ、先輩の某氏が「こんな文章には『帰れ!』というツッコミを入れたくなるのが人情ではないか」と書いて激しく非難をした。

ウェブの日記でも例へば「眠い」とか「死にさう」とかだけしか書かないと、「寝ろ」とか「氏ね」とかその種の反應が出てきても仕方がないだらう。

これも筆者の意図から外れると思うが、「サイト運営に限界を感じる」というような話題を当該ウェブサイトに書いたら、「じゃあ、閉鎖したら?」というツッコミを免れないだろう。いや、実際にはそんなことは誰も言わないかもしれない。けれど、言われてしまう可能性があるというだけで、私はますます鬱になる。

で、ここに「鬱だ」と書くと、ますます鬱を助長する反応が予想される。それを想像するだけで鬱がひどくなる。この錐揉み状態から脱しようとすれば、おおもとを断つしかない。すなわち、原因であるサイトの閉鎖である。

と、そんなことを書いていると、本当にサイトを閉鎖したくなってくる。と、そんなことを書いていると、「本当にサイトを閉鎖しろよ」と言われそうで怖い。と、そんな事を書いていると、自分がサイトを閉鎖させられそうになっているという意識が強まる。と、そんな事を書いていると、自分の行為の責任を茫洋とした何かに負わせようとすることになる。と、そんな事を書いていると、私は罪悪感を放り出そうとしているという罪悪感に囚われる。と、そんな事を書いていると、やはり私のサイトは世間に害毒を垂れ流しているのではないかという気がする。と、そんな事を書いていると、「気がする」という曖昧な言葉で責任を誤魔化すことになる。と、そんな事を書くと、いたたまれなくなって夜の公園へ……。ああ、でもまだ日が高い。

1.10817(2003/10/19) 早朝出勤・体調不良

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0310b.html#p031019c

明日から3日間、仕事の都合で早朝出勤することになった。朝5時に起きなければならない。

ふだんの生活のリズムを乱して、夜更かし朝寝するのは簡単だ。だったら、早寝早起きするのも簡単なはずなのだが、なかなかそうはいかない。いつもより早めに寝ようとしてもなかなか寝つけず、結局、寝不足になってしまうのだ。

旅に出るための早起きなら電車やバスの中で寝ればいいのだが、仕事だとそうはいかない。眠気に耐えつつ仕事をして、一日が終わる頃にはすっかり体調を崩してしまっているのが常だ。昨年も一昨年も3日間の早朝出勤があける頃には風邪を引き込んで、熱を出して寝込んでしまった。

今年もそうなるだろうと思うと気が重い。だが、それでも仕事だから仕方がない。せめて、仕事以外のところでなるべく疲れをためないようにするくらいだ。

そういうわけで、明日からこのサイトの更新を完全に停止することにした。10/22の夜になって、まだ寝込んでいなければ更新を再開するが、おそらく疲労困憊しているだろうから、引き続き休むことになるだろう。

また、この期間中は掲示板へのレスもしないつもりだ。メールチェックも一日一回程度に控えておく。

もし、10/23以降になっても更新が停止したままなら、それは私が寝込んだか、サイト更新の意欲を失ったか、身辺に重大事が発生してインターネットどころではなくなったか、死んだか、消え去ったか、サーバーがダウンしたかのいずれかだと思ってもらいたい。まだ他にも可能性はあるが、いちいち挙げるのは面倒だ。

次の更新までには、何とか光文社文庫版江戸川乱歩全集第7巻を読み終えていたいものだ。