一昨日の記事に関する某氏のコメントを無断引用してみる。なお、一部手入れしていることを予めお断りしておく。
なお、その話については。私も出版社の営業努力不足が一番の問題だと思っています。抱き合わせ商法は半分冗談だろうが、図書館を単なるライバルと考えるのではなくて、顧客ととらえる発想の転換は面白いと思う。ふと空港連絡鉄道を連想した。長距離の移動手段としては鉄道はどう頑張っても航空機にかなわないのだから、空港へのアクセス手段を提供することで稼ごう、という発想だ。ちょっと違うか。
出版社の人間同士で顔を突き合わせて「図書館がどうこう」なんて言ってる暇があったら、現場に行って図書館担当者の意見を直接聞いたり、いろいろ提案してみなさいと。
某社のCD-ROM書籍は編集・営業サイドが図書館に直談判し内情などをきちんと話して、都内とかでは貸し出し・コピー禁止措置をとっていただきましたし。
出版サイドが理由と提案をきちんと説明できれば、図書館だってそんなに頭でっかちではないと考えています。
なお、個人的には図書館向けのセット商法も悪くないと考えていたりして。☆ベストセラー&古典パックとかね。
ベストセラー候補の新刊10冊をお買い上げの図書館には、資料価値の高い伝奇の函3巻セットを30%OFFのお手軽価格でご提供。
私なんかは「図書館営業部」を作るのもいいかなと思ってますよ。
紅旗征戎非吾事(12/10付)(重楼疏堂〜城郭と旅とおぼえがき〜)で「また、図書館」で図書館職員を「役人」と表現していることについて苦笑まじりのコメントがあった。これは私も気になっていたところだが、私は図書館の現状についてあまりよく知らないので意見は差し控えておく。
その代わりに、私の知っているある公立博物館のことを書いておこう。その博物館はバブル期に当時の知事の意向で建設されることになったものだ。有名建築家(見栄えはいいが使い勝手の悪い建物をつくることで有名)に設計を依頼し、それはそれは見事な外観の建物が完成した。だが、開館の頃にはバブルがはじけて青息吐息、予算は年々削減される一方で、とうとう特別展の図録作成の予算も出なくなった。他方、入館者のノルマが課せられていて、事務方はもとより学芸員まで駆り出して営業活動を行う毎日が続いている。それでも頑張って、大学や各種研究機関と連携を取りながら、その筋ではそれなりの評価を得ているのだが、財政当局はそれを実績とは認めてくれず、入館者数にしか目を向けないそうだ。
もう一つ、これは私の住んでいる田舎町の図書館の話。この町には長年図書館がなく、公民館の一室を図書室として使用していたが、諸般の事情(IT関連の事業と結びつけて補助金がもらえることになった、とか、来るべき市町村合併の前に駆け込みで箱モノを作ることになった、とか、いろいろな話があるのだが、本当のことは知らない)により図書館を建設し、先月無事開館した。私はまだ訪れていないが、町のウェブサイトによれば今年度購入した図書は二万冊、来年度には三万冊になる予定だと書かれていたので、その程度の規模だと思っていただきたい。開館したのはいいのだが、この図書館には館員がいない。図書館長は教育次長が兼任しているが、教育委員会と図書館は数キロ離れているので常駐していない。建物そのものは同居している福祉関係施設職員が行っているが、もちろん図書館の本の管理までやってくれるわけではない。図書館の運営はアルバイト2名で行っているという状況だそうだ。
以上二例とも伝聞なのでいくらか不正確なところはあるだろうし、公立社会教育施設の平均的な状況ではないだろう(そうであってほしいと思う)が、何かの参考になるかもしれないので紹介した次第。
30年前なら東京ミュウミュウだってSFと呼ばれていたに違いないぜ日記(12/10付)経由で恐るべき焚書の光景(186(一服中) ( ◎Д)y-~~)を見た。馳星周氏の主張(参考:「おれたちは絶滅するか?」)にかなった行為ではあるのだが……。
読んだ本を古本屋に売られないようにするために、空気に触れると数時間で色が褪せて消えるインクを使って印刷するというアイディアを思いついた。当然、本は密封しておく必要があるが「気密室本」とでも銘打って売り出せば問題ないだろう。封を切ったが最後、読みかけたまま中断することも叶わず、「読み終わるのが先か、文字が消えるのが先か」というタイムリミットサスペンスを味わうこともできて一石二鳥だ。
捏造日記(12/11付)によれば探偵小説研究会が笠井潔の下僕であることが証明されたそうだ。このデータからこの結論を出すことに対して反論も可能だろう(「『オイディプス症候群』は評論家好みの作品だ」とか)が、何はともあれ「2003本格ミステリ・ベスト10」(探偵小説研究会・編著/原書房)を見てみないと話が始まらないので、本屋で見つけたら買うことにしようと思う。
年末になるとミステリの年間ベスト本が出る。雑誌でも特集が組まれる。だが私はその種の本はここ数年全く買っていない。せいぜい本屋で順位を確認する程度だ。
この種のベスト本は、そこで紹介されている本をこれから読もうと思っている人々と、既に読んだ本がどのように評価されているかということに興味がある人々を主な対象にしていると思われるが、私はこれら二つの層のどちらにも該当しない。既に読んでいるわけでもなく、これから読む気もないのにガイドブックだけ買っても仕方がない。
そういうわけで今年も年間ベストに関する話題はスルーするつもりでいたのだが、今朝書いたような事情で「2003本格ミステリ・ベスト10」(探偵小説研究会・編著/原書房)を買ってきた。
今年の「国内本格ミステリ」の第1位である『オイディプス症候群』(笠井潔/光文社)の得票に著しい偏りがあるという市川憂人氏の指摘は興味深いのだが、どうも釈然としないところがある。
市川氏の分析は、「2003本格ミステリ・ベスト10」の投票者をまず探偵小説研究会のメンバーとそれ以外の人々の2グループに分けて、両グループの『オイディプス症候群』に投票した人と投票しなかった人の人数を比較し、そこに偏りを見出したものである(さらに順位づけにも偏りがあることを指摘している)。この偏りから市川氏が導いた結論は「探偵小説研究会が笠井潔の下僕である」というものだ。「下僕」という表現は穏やかではないが、内輪誉めとか情実投票とか、あるいはミステリ文壇の政治力学のようなもの(?)を想定しているのではないかと思う。だが、果たしてそうなのか?
探偵小説研究会のメンバーに『オイディプス症候群』を推す人が多いが、それ以外の人はそうでもない。このデータからはさまざまな推測が可能である。たとえば、朝の文章でも少し述べたように、『オイディプス症候群』は評論家好みの小説だが、評論家ではない人にとってはさほど面白いとは思えない作品なのかもしれない。あるいは――こちらのほうがもっともらしいと思うのだが――『オイディプス症候群』は実はあまり読まれていないのだ、と考えることもできる。
未読本をベストに推す不届き者がいないと仮定しよう。すると『オイディプス症候群』は、少なくともそれに票を投じた30人(探偵小説研究会メンバー12人、それ以外18人)には読まれていることになる。そのほかに読んでいると思われる人は次の4人である(敬称略)。
『オイディプス症候群』に票を | ||
入れた | 入れない | |
探偵小説研究会メンバー | 12 | 3 |
それ以外 | 18 | 1 |
ちょっと言い訳。
上の文章はかなり誇張気味に書いている。「2003本格ミステリ・ベスト10」に投票された方々の中には、あえて言及していないが『オイディプス症候群』を読んでいる方もおられるだろうが、ご容赦願いたい。
ちょっと独り言。
やはり「滅・こぉる」というハンドルはやめておけばよかった。せめて10月に改名していれば……。
捏造日記に訂正があったので、こちらも訂正しないといけないのだが……ええと、濤岡寿子は探偵小説研究会のメンバーであるが『オイディプス症候群』に投票していないのを市川憂人氏(敬称をつけたりつけなかったりバラバラだが、投票者は敬称略でそれ以外の人は敬称をつけることにしている。今決めた)は見落としていてそれを市川尚吾氏に指摘されたそうだ。しかし濤岡寿子のコメントを見た限りでは『オイディプス症候群』を読んでいるかどうかは判然としない(市川氏が引用している市川氏のメールでは「全員読んでいる」と書かれているが、外部データをもってくると話が面白くないので、わからないことにしておく)ので、先ほど作った表の数値はそのままにしておく。
せっかく「2003本格ミステリ・ベスト10」を買ってきたのに、ちゃんと読んでいないのがバレバレだ。申し訳ない。
渡世の義理により明日はサイトの更新はしない。明後日はできれば更新したいが、ダメージの度合いによっては更新できないかもしれない。
冬野佳之氏に教えてもらったのだが、ある文字で検索すると「たそがれSpringPoint」がトップに来る。喜んでいいのか、悲しむべきか。
「2003本格ミステリ・ベスト10」(探偵小説研究会・編著/原書房)についてもう少し考えてみたいことがあるのだが、週明けに復活する頃には、きっと時代遅れの話題になっているのだろう。
とかくこの世は慌ただしい。
白黒学派(12/12付)でNHK出版のシリーズ:哲学のエッセンスを知る。クリプキとかデイヴィッドソンとか、「えっ?」と思う人も入っている。他の面々と比べると知名度はかなり低いと思うのだが……。
蔓葉氏が提唱(?)している「推理のエッセンス」の一覧は微妙に偏っていて面白い。探偵小説研究会のメンバーが執筆するなら、確かにこんな感じになるような気がする。
ノックスと都筑道夫が『まだ死んでいる』という同題の小説を書いていて、なぜか私はどちらも読んでいるのだが、両方ともどんな話だったのか全く覚えていない。
カーと横溝正史の『夜歩く』は今でもよく覚えているのだが……。
昨日、生まれて初めて競馬場というところに行った。好きで行ったわけではなく、「渡世の義理」の一環である。だが、競馬を見る義理はないので、一人でベンチに座って『江戸川乱歩傑作選』(新潮文庫)を読んだ。既に『二銭銅貨』『二癈人』『D坂の殺人事件』『心理試験』と『赤い部屋』の途中まで読んでいたので、その続きから始めて『屋根裏の散歩者』『人間椅子』『鏡地獄』『芋虫』を一気に読んだ。
この本に収録されている作品のうち『二癈人』と『赤い部屋』だけが初読で、あとは全部再読か再々読だったのだが、先がわかっていても楽しく読むことができた。
至福のひとときだった。
渡世の義理の続きでビンゴゲームをやって、景品にダイソーの「偉大なる作曲家シリーズ6 J.S.バッハ」というCDをもらった。曲目は次のとおり。
さらに渡世の義理の続きで、神戸市立博物館でヴェルサイユ展を見た。入場口付近でヘンデルの『王宮の花火の音楽』が流れていて、じきにバッハの『管弦楽組曲 第3番』にかわり、続けてコレルリの『クリスマス協奏曲』になった。いちおう全部ヴェルサイユ宮殿が栄華を誇っていた当時の音楽ではあるのだが……なんでフランスの音楽にしないのだろう?
でも特別展を出てすぐの売店ではリュリとかシャルパンティエのCDを売っていた。う〜む。
ちょっと風邪気味なので、今日はここまで。
「2003本格ミステリ・ベスト10」(探偵小説研究会・編著/原書房 以下「本格ベスト」)についてあれこれ考えている。「このミステリがすごい! 2003年度版」(宝島社 以下「このミス」)と比較しながらいろいろ……というふうに思ったのだが、それだけのためにわざわざ「このミス」を買うのはちょっと気がひける。今の私には「本格ベスト」すら使いこなせないのだから。「このミス」ベスト10入りした作品リストが手元にあるので、それをもとに話をすることにしよう。
「本格ベスト」については捏造日記(12/11付)の「下僕」発言が物議を醸した(みすらぼブログ 「2003本格ミステリ・ベスト10」問題参照)。その発言についてはすでに述べたとおりなので繰り返さないが、もう一つ別の問題を提起しておくことにする。
「このミス」と「本格ベスト」の今年の国内ベストを見比べると、『GOTH』(「このミス」2位、「本格ベスト」5位。以下同じ)、『奇偶』(3位、8位)、『グラン・ギニョール城』(9位、7位)、『オイディプス症候群』(10位、1位)の4作が重複している。そのうち『グラン・ギニョール城』と『オイディプス症候群』の2作は「本格ベスト」の順位のほうが「このミス」の順位を上回っている。「このミス」が対象とする「広義のミステリ」の中には「本格ベスト」が対象とする「本格ミステリ」がすっぽり含まれる――「本格ミステリ」が「広義のミステリ」の真部分集合である――のだとすれば、「このミス」でランク入りした作品から「本格ミステリ」ではない作品を除外した分順位が繰り上がって当然であるともいえる。だが、逆に「本格ベスト」で順位が下がってしまった作品が2作もあるのはどういうことだろう?
もう少し詳しくみると、「このミス」10位以内の作品の中で『十八の夏』が「本格ベスト」で11位、『人間動物園』が13位、『ロンド』が27位となっている。広い範囲の中での順位より狭い範囲の中での順位のほうが下がってしまう事例がこんなにあるというのはいったいどういうことだろう? 「このミス」と「本格ベスト」の投票者層の違い、ということなのだろうか? それとも別の理由があるのだろうか?
本当はここで「このミス」と「本格ベスト」の両方に参加している人の順位を比較してみるべきなのだが、先に述べたとおり私は「このミス」を持っていないのでそれができない。あとのことは誰か別の人にやってもらいたい。
ちなみに私が考えた仮説はこうだ。『GOTH』『奇偶』『十八の夏』『人間動物園』『ロンド』の5作は「本格ベスト」の参加者の間で「本格ミステリ」に該当するかどうか意見の分かれる作品だったので、投票を差し控える人が多かったのではないか。ここに挙げた作品のうち私が読んでいるのは『十八の夏』だけなのであやふやでいい加減な意見ではあるのだが……。『十八の夏』に限っていえば、これを「広義のミステリ」に含めてもいいと思う人は多くても「本格ミステリ」だと断言する人はあまりいないだろうと想像できる。
そうすると、『十八の夏』の11位は、面白さの程度が『魔神の遊戯』より少し下で『はじまりの島』より少し上だということを意味していないのではないか……というふうに話を進めようと思っていたのだが、そもそも年間ベスト本の順位というのは「面白さの程度」を意味しているものかどうか、という疑問が出てきて、これは「本格ベスト」の問題というよりも年間ベストを集計して順位づけするというスタイルそのものへの疑問へと話が発展してしまう。最初に考えていたことと話が違ってきて収拾がつかなくなったので、今日はここまで。
今日『長期停滞』(金子勝/ちくま新書)という本を買ってみた。どうやら経済学の本らしい。経済学ことは全く知らないので読んで理解できるかどうか不安なのだが、タイトルが気に入ったので買ったことは後悔していない。
最近読書が停滞気味で、でも停滞気味なのは最近に限ったことではなくて、たぶんこのサイトを開設した頃から停滞していたはずで、いやそれよりずっと前から停滞していたような気もするし、もしかしたら生まれたときから停滞していたのかもしれない。そうだ、私の人生は停滞に始まり停滞に終わるのだ! まだ終わっていないけれど。
今日は昨日の続きで「2003本格ミステリ・ベスト10」(探偵小説研究会・編著/原書房)についていろいろと書いてみようと思っていたのだが、あれこれ考えているうちに話がどうしても「本格ミステリ」という言葉の問題に行き着いてしまうことがわかり自粛することにした。同じことを何度も書いても仕方ないから。そうすると他にネタもないので、例によってウェブ上で見かけた記事を紹介してお茶を濁すことにする。
まず最初はコミックマーケット63及びM-1グランプリについてのページ(情報もとあちこち)。M-1グランプリ公式サイトでは
きっちりとした警備計画のもとイベントを実施しますのでご安心下さい。と書かれているが、本当に安心していいのかと小一時間問い詰めたい気がする。それはともかく、コミケ西館行列予想図を見ると国際展示場駅からかなり歩かされそうな感じなので、東京テレポート駅で降りたほうがいいと思う。あなたのハートにテレポート。
「光原佐祐理」(みつはら・さゆり 執筆業・2X歳男性)(12/17付)。ふとまじかる☆さゆりん杯を連想した。
駄目だ。やっぱり調子が出ない。
あとが続かない。唐突だが今後の予定をざっと書いてみることにする。
先日我が家に錦松梅がお歳暮で届いた。
錦松梅といえば「贈答品として有名な高級ふりかけ」というイメージがあり、自分で買って食べたことはない。いったいどれくらいの値段なのだろうか? そこで早速調べてみたのだがやたらとたくさんの種類がある。でも容器と容量が違うだけで、全部同じ物らしい。
錦松梅は非常に旨い。そこいらのスーパーマーケットで売っているふりかけとはわけが違う。この味なら、この値段(ちなみに我が家に贈られてきたのは、有田焼容器入り2個で5000円の品)も当然だと思う。半分くらいは容器の値段ではないかという気がしないでもないのだが、そんなことを気にしていてはいけない。とにかく旨いのだ、錦松梅は。
とはいえ、自分で錦松梅を買ってまで食べようとは思わない。「たかがふりかけなのに……」と思ってしまうのだ。袋入り500円の品があることは今日初めて知ったが、デパートでそれを見かけたとしてもたぶん買わないだろう。やはり錦松梅は贈答品だ。
では他人に贈り物をする場合はどうか? まだ実際にお中元やお歳暮で錦松梅を贈ったことはないけれど、特に抵抗なく買えるだろうと思う。どうせ自分が使うわけではないのだから何を選んでも同じこと、錦松梅を選択肢から除外する理由は何もない(ただし贈る相手が錦松梅のことを知らず、「なんだ、ふりかけか」と思われるおそれがある場合は別だが)。
だが、錦松梅に対するこの態度には、よく考えてみると変なところがある。もし私と同じような金銭感覚を持ち、錦松梅についてのイメージも共有している人がもう一人いたとしよう。私はその人に贈るために何ら抵抗なしに錦松梅を買うことができるし、その人も私に贈るために躊躇せずに錦松梅を買うことができる。そして私とその人は互いに錦松梅を相手に贈り、受け取ることになるのだが、その結果は自分で錦松梅を買って食べるのと同じ事になる(送料がかかる分割高になるが、無視することにしよう)。
そうすると私の錦松梅に対する態度は不合理で一貫していないということになるのか? そうではない。先の例では、結果は自分で買って自分で食べるのと同じ事だが、過程に違いが少なくとも二つある。
一つは、相互に贈り物をすることによって私と件の人との間に交流が生じるということ。同じ金額の品物をやりとりすればプラスマイナスゼロだが、それは相互交流がないということではない。両者の間には大きな違いがある。
もう一つの違いは、錦松梅を買う場で私が持っている情報量である。自分で食べるために錦松梅を買うならば、私は自分が近い将来に錦松梅を食べるだろうと予測することができる。だが、他人に贈るために錦松梅を買う場合には、私は相手から同じ品が贈られて自分がそれを食べることになるだろうと予測はしない。私が錦松梅を食べることになるのは、いわば不測の事態だ。
むろん、この議論によって私の錦松梅に対する態度が正当であると示されたわけではないが、少なくとも先に挙げた「変なところ」は解消されている。自分で買ってまで食べたいとは思わず、また(同じことだが)自分で食べるために買いたいとも思わないということは、食べたいと思ったり買いたいと思ったりすることと矛盾しないのだ。
☆
昨日買ってきた『長期停滞』(金子勝/ちくま新書)を半分くらい読んだ。難しい経済の話が続いてあまりよく理解はできないが、なんとなく閉塞感が漂う、いい感じの本だ。
筆者は、現在の経済状況は1920年代のそれに似ていると主張する。いくつかの興味深い例が挙げられているのだが、次の表(58ページから。元の表では枠線は「工」型で、格子状にはなっていない)を見れば一目瞭然だ。
1920年 大戦景気の崩壊 | 1991年 バブルの崩壊始まる |
1922-23年 銀行取付け騒動 | 1994-95年 信金の連鎖破綻と住専問題 |
1923年 関東大震災 | 1995年 阪神淡路大震災 |
1927年 金融恐慌 | 1997年 金融システム不安(山一・拓銀の破綻) |
1928-29年 米国バブル | 1999-2000年 米国バブル |
1929年 N.Y.株式市場暴落 | 2000年 ナスダック・バブル崩壊 |
1930年 金再輸出解禁 | 2001〜02年 金融・会計ビッグバンの実施 |
二日もかける話題ではないとは思うのだが、ちょっとだけ追記。
昨日の文章の見出しは素直に「錦松梅」にしたのだが、後から考えてみると、もう少し捻ったほうがよかったような気がする。たとえば「妖異錦松梅」とか「錦松梅殺人事件」とか。そんなことを考えながら錦松梅のお茶漬けを食べた。昨日こんなページを見つけたので、早速試してみたのだ。意外と美味しかった。ふりかけとして食べるよりも美味しいかもしれない。でも、何となく後ろめたい。私はこんなに贅沢なお茶漬けを食べていいのだろうか、と自問したくなるのだ。
突然だが、『AIR』(VisualArt't/Key)を始めることにした。前にも書いたことがあるが、私はこのゲームを発売当日に買った(平日だったので後輩に買わせた)のだが、その後長らく放置プレイ状態が続いており、その後だんだんゲームに興味を失ったため永久に手つかずのままになるかと思われたのだが、今年初めに『月姫』(TYPE-MOON)をプレイしたら非常に面白かったので多少ゲームへの関心を取り戻し、続いて未プレイのゲームの中から大物中の大物である『AIR』に取りかかろうとして、パッケージを開封し、CDを取り出し、インストールし、起動し、確か主人公が神尾観鈴(そういう名前のキャラクターがいるのです。よくは知らないけれどたぶん「観鈴タイプ」のキャラなんでしょう)に会う場面くらいまでは進めた記憶があるのだけど、そうこうするうちに近年久しく衰えていた読書意欲が復活してそちらに時間をとられるようになり、しばらく中断していたところ、ある日突然ハードディスクがクラッシュして貴重なセーブデータが失われてしまい、再び放置プレイ状態に逆戻りして現在にいたる。
これではいけない、と思い直して再インストール(?)したのがこの前の日曜日で、とりあえずオープニングを見たところなのだが、一度挫折したゲームだけに気合いを入れてかからないと同じ轍を踏む可能性がある。こうやって、『AIR』のプレイ開始をわざわざ宣言するのも、自分を追い込む手段の一つだ。さあやるぞ、今度こそコンプリートするぞ、と決意も新たに『AIR』に立ち向かう私を是非生暖かい目で見守っていただきたい。
理想をいえばコミケ前に終わらせてしまいたいが、かなり長いそうだし、カタログチェックも手つかずなので、無理っぽい。そういうわけで正月明けを目標に黙々とプレイすることにする。
プレイ中は「たそがれSpringPoint」のネタ探しをしている間がないので、ゲーム日記でお茶を濁すことになるだろう。予めお断りしておく。
メモ。
バーチャルネットアイドル・ちゆ12歳 ポータル、久々の更新。「YU−NO」ってWindows用にリメイクされていなかったのか?
もう一つ、メモ。
ヘイ・ブルドッグのすごい画像から川の名前。普通河川なのに看板が立っているのは確かにすごい。法定外公共物のくせに。