死のう、と思い詰めたとき、人はいったい何を考えるのだろうか?
数日前に「二階堂奥歯 八本脚の蝶」を見て、ふとそんな事を考えた。だが、結論は出ない。そもそも「人は」と一般化して考えることができるものかどうかすら定かではない。ただ一つ、二階堂奥歯氏(女性だそうだが、私は敬称としては基本的に「氏」を使うことにしているのでここでもいつもの例に従う)が、最期の言葉を不特定多数の人々に読んでもらいたいと考えていたということ、そして最期に至るまでに綴った文章が自らの死後にも読まれ続けることを容認していたということだけは確かだ。
このことから何が言えるだろうか? 何も言えない。
私は二階堂氏に会ったことはなく、氏の生前にこのサイトを見たことも二、三回しかない。二階堂氏がどのような性格の人だったのかは全く知らないし、遺された文章から氏の性格を推し量る技能も持ち合わせていない。過去ログを読み、言葉にならない感慨を抱き、そして沈黙するのみ。
数日前、私は次のような文章を書いた。
私は「たそがれSpringPoint」を世間に晒したままでは死ぬに死ねない。だが、死ぬ時はあっさり死んでしまうのが人間というものだ。そこで次善の策として、私の死後速やかにサーバーから「たそがれSpringPoint」を構成するファイルを削除してくれるように予め誰かに依頼しておくという方法を考えた。どうやって私の死を削除人に伝えるのか、そしてどうやって削除するのかという問題はあるが、なんとかなるだろう。この方向で具体的な策を煮詰めてみるつもりだ。
この文章をアップした直後に「二階堂奥歯 八本脚の蝶」の最期の言葉を読んだ。しばらく経ってから、もしかすると私の文章が二階堂氏に対する当てこすりだと誤解されるのではないか、という不安にとらわれた。
私がこの文章を書くきっかけになったのは、その少し前にいくつかのニュース系サイトで紹介されていた作成者本人が死亡したウェブログはどうなる?という記事である。また、ここで私が念頭に置いているのは予想外の突然の死であって、自分の意志に基づく死ではないことは明らかだ。だが、いったん疑いの目で見られてしまったら何を言っても苦しい弁解としか受け止められないのではないだろうか。「滅・こぉるは死者を鞭打つひどい奴だ」と罵られるのではないか。
考えすぎだ。その一言で片がつく。そんなことは考える必要がない。ウェブは私を中心に回っているわけではない。「たそがれSpringPoint」と二階堂氏のサイトの両方を巡回している人(今となっては「両方を巡回していた人」というべきか)でも、私の文章を氏に結びつけて考えはしないだろう。一歩譲って、誰かが邪推していたとしても、それが非難の言葉となって表れない限りは何もする必要はない。
けれど、「考える必要がない」という判断は、現に考えてしまっているという事実を打ち消す効果を持たない。私はいつも必要に応じて物事を考えているわけではないし、時には考えてはいけないと思うことすら考えてしまう。考えずにはいられない。どうしても考えずにはいられない。
考えないでおこうと思ってもできないことならば、無理に考えないように努めるよりも微妙に考える方向をずらすほうがよい。これは長年の経験で私が学んだ処世訓の一つだ。そこで私は、少し次元の違う主題に考えをずらした。すなわち「死人に皮肉を言う嫌な奴、と他人に誤解される私」から「死人に皮肉を言う嫌な奴、と他人に誤解されることを恐れる滑稽な私」へと。
こうして私は自意識過剰な文章を書き連ねている。滑稽な、あまりにも滑稽な文章を。だが、私は嫌な奴と思われるよりは滑稽な奴と思われるほうがましだ。
さて、私が滑稽な不安に駆られている最中に憂鬱な昨日に猫キック 不安な明日に猫パンチの4/25付の記事(このサイトでは一旦書いた文章をすぐにアップせずにしばらく間をおく方針だそうで、この文章も実際に公開されたのは4月末だった)を読んだ。
私のこの日記の場合、ニュースメモやサイトメモの分はリンク切れさえ気にしなければ、何年残ろうが全く問題ない。しかし日記部分は「生きていればこそすすんで晒す恥」であり、「死んだ後も晒し続けるのは辛い恥」である。誰かに頼んで、私が死んだら即消してもらえるようにしておきたい。
これには全く同感で、私の言いたいことを代弁してくれているような気すらした。
「生きていればこそすすんで晒す恥/死んだ後も晒し続けるのは辛い恥」の対比から思いついたことがある。それは「なぜ生きるのか? 生きることにはどのような価値があるのか?」という問いへの答えだ。本当にただの思いつきなので、また恥をさらすことになってしまうが、思い切って書いてしまおう。
こういうことだ。もし生と死が等価ではなく、生のほうにより多くの価値があるとするならば、その価値はあえて恥を晒すことに耐えられる可能性があるということに求められるかもしれない。「死んでしまったら恥を晒して辛いと感じることはないはずだ」という反論に対しては、「生と死の価値の値踏みを行うのはあくまでも生きている私なのだから、比較の対象となるのは"生きている私にとっての私の生前"と"生きている私にとっての私の死後"である」と再反論しよう。すると「では"死んだ私にとっての私の生前"と"死んだ私にとっての私の死後"を比較するとどうなるのか?」とさらに問いかけられるだろう。その問いに対しては……いや、もうやめておこう。やっぱり思いつきは思いつきだ。恥を晒すことに耐えられるかどうか、などというつまらないことで生きることの価値を根拠づけるのには無理があった。
また恥を晒してしまった。
真面目な意見を紹介しておこう。自殺についての断章(同時代ゲーム)だ。ただし、ここで取り上げられているのは社会によって根拠づけられた生の価値なので、私の観点とは少し違っている。よく書けていると思うが例によって少しケチをつけておく。この文章は現代社会に照準を絞っているが一般的に自殺は犯罪と等しく認識されている
のは現代に限ったことではないだろう。昔から自殺は道徳的・宗教的罪悪とみなされていた。また社会における功利性の問題
が当てはまるのも現代だけではない。いつの時代でも構成員に勝手に自殺されると社会の機能に支障をきたすことに変わりはないし、戦力にならない者や不穏分子
を排除しようとするのも古今東西世の常だ。よって、いわば現代では<生>と<死>が転倒されてしまっている
という主張はここで提示された論拠からは出てこないはずだ。この主張自体は検討に値すると思うが、現代社会の特殊性を示すためには別の議論が必要ではないか。
ところでいわば現代では<生>と<死>が転倒されてしまっている
という逆理は物理的な死
と精神的な<死>
の区別により成立している。ずっと前に書いたことだが私は「死」という概念には一つの意味しかないと考えている
のでこの区別にもケチをつけたいところだが、うまい切り口が見つからない。
行き詰まってしまった。話題を転換する。
少し前から読み始めたif→itselfで、今日から五月病雑文祭という企画が始まっている。応募期間は今月いっぱい、縛りは次の4つ。
五月病をテーマにしていること。タイトルは自由。形式(小説・日記・コラム・詩など)も自由。1人何点でもOK。
「鬱だ」で始まること。
最後は「死のう」で締めること。
作品中に、最近3日以内(書いた時点で)に自分が実際にやった行動を入れること。
世界一ネガティブな雑文祭を目指します!
というキャッチフレーズが気に入った。
今私が書いているこの文章は「五月病雑文祭」に言及しているので、拡大解釈すれば五月病をテーマにしている
と言えなくもない。また、今私が文章を書いているということは当然最近3日以内(書いた時点で)に自分が実際にやった行動
(まだやり終えてはいないけれど)だ。ちょっと苦しいが4つの縛りのうち2つまでは満たしている。
しかし……。どう解釈をこねくり回しても、この文章の冒頭の言葉は「鬱だ」ではない。「鬱です」でもないし「鬱でござる」でも「鬱じゃ」でも「鬱でありんす」でもない。ということは、この文章は「五月病雑文祭」の参加資格を満たしていない。
鬱だ。
昨日は「たそがれSpringPoint」の更新ができなかった。数時間パソコンと格闘し、いくつか雑文を書いたのだが、他人に見せても構わないと思えるものが一つもなかったからだ。それらの雑文はすべて削除した。
最初に書いたのは「八本脚の蝶」(一昨日の記事では「二階堂奥歯 八本脚の蝶」と表記したが、筆者名は日記のタイトルの一部ではなく、同じサイト内にある他の筆者の日記との弁別を図る目的で付加されたものだと思うので、今後は単に「八本脚の蝶」と表記することにする。ただし今後この日記に言及することがあるかどうかはわからない)の過去ログを通読した上での感想文だった。感想文を書くことにしたのは、言葉にならない感慨を抱き、そして沈黙するのみ
というのはあまりにも素っ気ないと思ったからだが、読めば読むほど筆者の磁場に惹かれそうになり危険を感じたため、感想文をまとめるのをやめた。
次に書いたのは幻燈稗史の一節、定義と論争についてのコメントだった。そこで述べられている意見には真っ向から反対したいと思ったからだ。だが、一通り書き上げたところで、まとまってないので、覚えとして
書かれた文章に現段階で異論をぶつけても仕方がない、と思い直した。
その後もいくつかの文章を書いたが、どれもこれも今までに私が「たそがれSpringPoint」に掲載したどの文章よりもつまらなく感じられて、アップロードできなかった。私の志は決して高くはない。美意識も自尊心もなく、どうしようもない駄文をいくつも発表してきたが、昨日の文章はもっとひどかった。いや、もしかしたら私の気分が変調をきたしていただけで、これまでに書いた文章と同程度のひどさだったのかもしれないが、削除してしまった今となっては比較することもできない。
そうこうしているうちに日付が変わって今日になった。寝る前にアリバイ的な更新をしておこうと思って、先日伊藤園のそば茶を買って飲んだときの話を書き始めた。そこから先の記憶はない。
昨日更新できていれば、なんとか明日のオフ会までにはアクセス数が10万ヒットの大台に乗っていたかもしれない。だが、もう駄目だ。あと1日で500ヒット以上稼げるわけがない。
今朝、ふと思いついた。一昨日の文章をサイトのトップに置きっぱなしにして二、三日更新せずに放置したら、見出しが見出しだけに(「比類のない神々しいような瞬間」というフレーズの出典については、ここを参照)もしかしたら私が自殺したと勘違いする人もいるのではないか、と。一瞬、本気でやってみようかと思った。だが、それは悪趣味過ぎる。それに一昨日の文章はダイイングメッセージにしては長すぎる。
結局、こうやって更新を再開することになった。気分は多少回復したものの、書くネタがないので自己言及でお茶を濁している。ああ、なんとつまらないのだろう! ネタが無い事をネタにする事をネタにしたリンク集(遙かな道しるべ)へのリンクでさらにお茶を濁しておこう。
ついでにもう一つ、死についての名言・迷言・珍言集(名前のない鳥)にもリンクを張っておく。
明日の夜は京都に一泊するので、当サイトの更新はありません。
彼女の名前はエマ・シャーリー。もちろん偽名だ。本名は田沼ウメ(でも彼女の前で本名を口に出さないほうがいい)。彼女の顔は幸いエマよりシャーリーに似ている。でも年齢はエマのほうに近い。
たぬ、もといエマ・シャーリーは本当は旧華族家のお嬢様なんだけど、なぜか自分をメイドさんだと思いこんでいる。ぼくは彼女の"脳内ご主人様"だ。陽気で愉快で可愛いけれど、やることなすこと全部がぶっとんでいる彼女に、ぼくはいつも振り回されっぱなし。
これは、そんなエマ・シャーリーとぼくの非日常的な日常のおはなし。
「ごしゅじんさま〜」とエマ・シャーリーが呼んでいる。大広間のほうからだ。ぼくは読みかけていた横山秀夫の『動機』を机の上の棚に戻して、声をするほうへ向かった。
大広間のテーブルの上には人が入れそうなくらいの大きなつづらが置いてあった。西洋館につづらは似合わない。
「なんだい、このつづらは?」
「これは世にも不思議な"みるなのつづら"なんです、ご主人様」
エマ・シャーリーは目をきらきらと輝かせながら、うっとりとした声でそう言った。
「ネットオークションで買ったんですよ。それが今日届いたんです。嬉しいなったら嬉しいな」
エマ・シャーリーはメイド服の裾を軽くつまんでスキップをしている。
「で、その"みるなのつづら"って何?」
「ああ、ご主人様は"みるなのつづら"をご存じないんですね。なんということでしょう! では私がご説明いたしましょう。話は中国の夏王朝に遡るのですが……」
(中略)
「……というわけで、このつづらの中は決して覗いてはいけないのです。わかりましたか、ご主人様?」
途中、ナポレオンという名前のツチブタが出てきたところでぼくはうとうとしてしまった。たぶん彼女の長話を半分も聞いてはいなかったと思う。でも、そんなこと正直に言うとあとが怖いから、黙って頷いておいた。
「では、私はこれから買い物で出かけますから、ご主人様はお留守番をお願いします。それと、絶対にこのつづらを開けちゃ、ダ・メ・よ」
最後はなぜか子供に言い含めるような口調になった。ぼくもう一度軽く頷いた。
エマ・シャーリーが出かけて、ぼくは自室に戻り『動機』の続きを読み始めた。
『あのつづらの中身が気になるなぁ。いったい何が入っているんだろう。エマ・シャーリーは開けたらダメって言ってたけれど、ちょっと蓋を持ち上げて隙間から覗くくらいならいいんじゃないだろうか? うん、そうだ。"みるなのつづら"の伝説なんて嘘に決まってるよ』
おや? 二重括弧の中で勝手に独白してるよ。エマ・シャーリーお得意の幻術だ。危ない危ない、その手には乗るものか。まったく、あのお嬢様は……。
それから2時間後。
『動機』を読み終えたぼくは、そろそろエマ・シャーリーが帰っている頃だろうと思って館の中を探したが、どこにも彼女の姿が見あたらない。おかしいな、と思いながら大広間を通りかかると、なにやら小さな音がする。テーブルの上からだ。"みるなのつづら"の中からぶつぶつと呟く声。そっと近寄って耳をすましてみると……。
「えーん、もう2時間も経つのにご主人様が来ないよぉ。窮屈だよぉ」とエマ・シャーリーの声。ぼくは腕組みをしてしばらく考えたのち、この場でなすべき最善の行動をとることにした。
いったん大広間の入口までこっそり戻ってから、今度は足音を立てながらテーブルに近づく。
「あのつづらの中身が気になるなぁ。いったい何が入っているんだろう。エマ・シャーリーは開けたらダメって言ってたけれど、ちょっと蓋を持ち上げて隙間から覗くくらいならいいんじゃないだろうか? うん、そうだ。"みるなのつづら"の伝説なんて嘘に決まってるよ」
そして、つづらの蓋に手をかけた。
「み〜た〜な〜」
エマ・シャーリーがつづらから飛び出した。
「わわわ、びっくりした!」
ぼくは床に尻餅をついてみせた。
「だから、絶対に開けちゃダメって言ったでしょ。ご主人様」
満足そうに言ってぼくの額を指先で弾く。そんな彼女の頬には乾いた涙の跡がついていた。
「こりゃ、一本とられたな。君には叶わない」とぼく。
そして二人であははと笑った。
こうして午後のひとときは過ぎていった……。
故・二階堂奥歯氏の日記「八本脚の蝶」へのリンクを外すことにした。理由を説明すると長くなるし、私の説明力不足のせいで妙な誤解を招くといけないので、何も言わないことにしようと思う。
ただし、余計な勘ぐりを避けるために、この決定があくまでも私の個人的な意志によるものであり、他人から何らかの明示的または暗黙の強制を受けた結果ではないことを明言しておく。
昨夜のオフ会のことについては、また後ほど。
というわけで、オフ会のレポートだ。まさか本当に書くとは思わなかっただろう?
一昨日のオフ会は、もともと「たそがれSpringPoint」10万ヒット達成を祝う予定で企画したものだが、オフ会までに10万ヒットに達成しなかったらいけないと思い、「たそがれSpringPoint」10万ヒット評価オフという微妙な名称にしておいた。で、実際に10万ヒットを越えたのは昨日の夜だったので、約24時間ほどのフライングと相成ったわけだ。
募集段階では1名しか参加表明者がいなかったが、その後紆余曲折あって、最終的には7名で実施することになった。まことに有難いかぎりだ。以下、参加者リストを掲げておく。順不同。
以上のメンバーが午後5時に三条京阪土下座像前に集い、どこぞの串焼屋でだべって、丸善でレモン爆弾を見物した後、新本格バーでくだを巻き、午後10時半に解散。
オフ会で出た話題を一つだけ。「ネット上で活躍している人で一度会ってみたい人は誰か?」というもの。誰かが「現役歌舞伎役者でニュースサイトをやってる人」と言ったような記憶がある。なにぶん、飲み慣れていない酒のせいで酔いつぶれる寸前だったので、記憶が混乱していて誰の発言だったのか思い出せないのだが……。ともあれ、その時「はて? 歌舞伎役者でニュースサイトやってる人なんかいたっけ?」と首をかしげたのは確かだ。ホテルに転がりこんでから、「もしかするとこの人のことではないか?」と思いついたが、今となっては確認のしようがない。なお、言うまでもなくこの人は歌舞伎役者ではない。
蛇足、その1。
時制論理と時相論理がどう違うのか、わかりやすく説明してくれる人はいないだろうか?
蛇足、その2。
メイドさんが頭につけているのは「カチューシャ」、「ヘッドドレス」でも間違いではないが、より一般的な名称となる。「ざるそば」と「もりそば」の違いのようなものか。
先日たまたま何となくふらふらと買った『分析哲学の生成』(ハンス-ヨハン・グロック(編)/吉田謙二・新茂之・溝口隆一(訳)/晃洋書房)の第一章としてフェレスダールの「分析哲学――なにが分析哲学か,なぜ分析哲学か――」という論文が収録されていた。タイトルが表すとおり、分析哲学の特徴づけに関する論文(というか、この本全体がそのテーマを取り扱っている)なのだが、その一節に次のような記述があった。
現代哲学の動向の分類に含まれている欠陥は,「中国の百科事典」の分類にあるつぎのような欠陥と似ていないこともない.その分類は,ホルヘ・ルイス・ボルヘス(Jorge Louis Borges)によって報告されたもので,フーコー(Michel Foucault)の著作で読んだひとがいるかもしれない.
動物は,つぎのように区別される.a)皇帝に属するもの,b)香に満ちたもの,c)飼いならされたもの,d)乳飲み豚,e)人魚,f)お話しに出てくるもの,g)放し飼いの犬,h)この分類に含まれているもの,i)逆上したもの,j)数えきれないもの,k)ラクダの毛のように細い筆で描かれたもの,l)その他,m)いましがた水差しを壊したもの,n)遠くから蠅のように見えるもの.
この引用文中の引用文(フェレスダールが自らの論文の中に引用した「中国の事典」の分類)の出典はボルヘスなのかフーコーなのか、この引用文(言うまでもなく、私が上で引用したフェレスダール自身の文章)からはよくわからないが、この部分に付された註釈では次のように書かれている。
Jorge Louis Borges,‘Die analytische Sprache John Wilkins’,in Borges,Das Eine und die Vielen. Essay zur Literatur(Müchen 1966,p.212).ミシェル・フーコーは,これをThe Order of Things(New York:Random House,1970),p.xvで引用している.
ボルヘスの独訳本とフーコーの英訳本の取り合わせというのは非常に怪しいが、たぶんフェレスダール自身が参照した本なのだろう。フェレスダールの論文自体はドイツ語で書かれているので、ボルヘスの本から直接引用したのではないかと推測できる。それを編者のグロックが英訳し、さらに三人の訳者(分担訳ではなく共同訳である由)が邦訳したものが、上の引用文だ。
Die analytische Sprache John Wilkins
とかDas Eine und die Vielen. Essay zur Literatur
などと言われても訳がわからないので、いろいろ検索して調べてみた。「中国の百科事典」というのは結構有名なエピソードらしく、あちこちで言及されていた。最も詳細に取り上げているページによれば……。
そのボルヘスのハイパーテクストの迷宮のなかでも、わたしたちが今回アクセスしてみたいのは、『異端審問』中の「ジョン・ヴィルキンズの分析言語」(以下、中村健二訳、晶文社刊より引用)というエッセイが照らしだしているテクストの回廊である。
ところが、このウィルキンズのカテゴリー分類に見られる「曖昧・重複・欠点」の検討において、とつぜん、ボルヘスは『善知の天楼』という中国の百科事典の例を引き合いに出してみせる。その中国の百科事典では、「動物」は、次のように分類されているというのだ ---(a) 皇帝に帰属するもの、(b) 剥製にされたもの、(c)飼い慣らされたもの、(d) 幼豚、(e) 人魚、(f) 架空のもの、(g) 野良犬、(h) この分類に含まれるもの、(i) 狂ったように震えているもの、(j)無数のもの、(k)立派な駱駝の刷子をひきずっているもの、(l)その他のもの、(m) 壷を割ったばかりのもの、(n) 遠くから見ると蝿に似ているもの。なぜ、ボルヘスの引く中国の事典にアルファベットで項目が立てられているかは分からないし、『善知の天楼』なる書物についてはその実在をふくめて不詳である。出典は、「フランツ・クーン博士の指摘」と書かれているが、中国の百科事典の消息は、ボルヘスのバベルの図書館の迷路の闇に閉ざされたままである。
また別のところでは、フーコーから引用されている。
そうした時代の子であるわれわれは、次にあげるテクストを見るとき、不可解な感覚に襲われるだろう。『シナのある百科事典』と題されたこのテクストは、ミッシェル・フーコーが著書『言葉と物』の冒頭に挙げた、ホイヘ・ルイス・ボルヘスのエッセーに採録された奇妙な分類の記述である。
「動物は次のごとく分けられる――
a、皇帝に属するもの
b、香の匂いを放つもの
c、飼いならされたもの
d、乳呑み豚
e、人魚
f、お話に出てくるもの
g、放し飼いの犬
h、この分類自体に含まれているもの
i、気違いのように騒ぐもの
j、数えきれぬもの
k、駱駝の毛の極細の毛筆で描かれたもの
l、その他
m、いましがた壷をこわしたもの
n、遠くから蝿のように見えるもの」
さらにもう一つ、別ルートによる引用を紹介しているページ。
「a 皇帝に所属するもの b ミイラにされたもの c 飼いならされ
たもの d 小豚 e 海の精 f 伝説上の動物 g 徘徊する犬
h 現在の分類に含まれるもの i 気狂いじみた行動をするもの
j 無数にいるもの k らくだ毛の大変すばらしい筆で描かれたもの
l その他 m 水さしをこわしたばかりのもの n 遠くからきた蝿に似
ているもの」
『脱学校の社会』(東京創元社)のなかで、ボルヘスのテクストにある「想像
上の中国の百科事典の一節」というこの文をひきつつ、イヴァン・イリイチは、
述べた。「このような分類は、誰かがそれは自分の目的に役立ちうると思わな
ければありえないだろう。この場合、その誰かは徴税人であったと思われる。
少なくとも彼にとって、この動物の分類は、意味をもっていたにちがいない」。
全項目を列挙しているわけではないが、ちょっと興味深い記事があったので、それも紹介しておく。
井上京子『もし「右」や「左」がなかったら 言語人類学への招待』(大修館1998)という本の中には「例えば古代中国における動物王国の切り分け方は、ボージスによれば次のような分類法が用いられていたという」といって「(1)皇帝の持ち物である動物、(2)ミイラになった動物……」という記述がある。
「ボージス」とは誰か?これはアルゼンチンの作家であるホルヘ・ルイス・ボルヘスなのである。何よりもこの話はミシェル・フーコーの『言葉と物』に出てくる中国の百科事典の話だ。
誤訳繋がりでもう一件。
ところで、ボルヘスの有名な「支那の百科事典」について触れた部分で
> ホルヘ・ルイ・ボルヘスが「アンケート」のなかで、(p.127)
というくだりに引っかかる。いや、ホルヘ・ルイス・ボルヘスだろ、というのではない。「ジョルジュ・ルイ・ボルジュ」と表記していた訳者だっていたぐらいである。
問題なのは、この書き方だと彼が何かのアンケートに答えた中で「支那の百科事典」に言及しているかのように誤読できてしまうことだ。
そうではなく、これはボルヘスの当該エッセイが収録されている本のタイトルである。同書のフランス語版タイトルは確かにEnquietes(アクサン記号は省略)だが、ここでは「アンケート」の意味ではなく、「審問」。日本語版(中村健二訳、晶文社刊)では『異端審問』と訳されている(スペイン語原題はOtras Inquisiciones)。
で、この箇所は、「ホルヘ・ルイス・ボルヘスが『異端審問』 のなかで」とする方が適切、というか少なくとも親切だったと思う。
とどめの一撃。ボルヘスの威光(?)はこんなところまで……。これは直接リンク先を参照していただきたい。
さてさて、フェレスダールの話を前置きにして、あちこちのサイトの引用文を織り交ぜて(というか引用文のほうが分量が多い)だらだらと書き連ねてきたわけだが、これは、一つの文章がさまざまな形で引用され、言及され、翻訳されていく姿に興味を持って寄り道してみただけで、実は今日の本題とは全く関係がない。
本題は、一文で言い表せる。
はてなダイアリーのキーワードの分類は「中国の百科事典」によく似ている。
最初、この文章を書いたとき、フェレスダールという哲学者の知名度の話から始めていたのだが、あとから読み返すとあやふやな話が多いし、あまりにも雑然としすぎているので、冒頭3段落を削除した。(2003/05/08追記)
残虐行為手当の日記(5/3付)の記述が波紋を呼んでいるらしい。
スタージョンの法則に照らせば世のマリみて本の90%はクズですが、
それにしてもこれだけ盛り上がっていながら面白い本が少ないのはちと疑問です。
レヴォでも月姫本は30冊近く買ってるのに、マリみて本で買ったのはわずか2冊。
しかも両方とも「塩こんぶプロジェクト」の本だったりします(ここの本はオススメです)。
面と向かって罵倒しているわけではないし、さほど問題発言でもないようだが……と私は感じたのだが、全く逆の意見を読んで、ちょっと考え込んでしまった。
年2回のコミケットくらいにしか行かない私には同人界の雰囲気はあまりよくわからないので、上で引用したコメント(特に世のマリみて本の90%はクズ
という箇所)を特定の対象に言及しない一般論と軽く捉えた。だが、「マリみてというジャンル」そのものを一つのまとまりを持った対象とみなせば、当該発言は一般論ではなく特定の対象(=「マリみてというジャンル」)についての、面と向かって相手を罵倒する
発言
ということになるのだろう。
何を対象とみなすかということは予め一意に定まっているわけではない。文字(絵)、小説(マンガ)作品、本、作者、ジャンル、そして時には「同人界」「商業出版」などといった大まかな括りが対象とみなされることもある。話題となる領域のルールや暗黙の約束事、話題の取り扱い方などさまざまな要素が絡み合って、何が対象であるのかが決まる。反実在論的寄りの立場を強調すれば「対象が制作される」ということになるだろう。私はそこまで言い切るつもりはないが。
閑話休題。
この事例はたまたまウェブ上を巡回して発見したもので、今の私の関心とはあまり関係はない。マリみては読んでいるが、マリみて同人誌に手を出すつもりはないので。だが、同じことは他の分野についても言える。私はミステリなどの感想文でよく悪口を書くので注意が必要だ。いい教訓になった。
蛇足。
上の文章を書いたあとで思いついたのだが、遥かな道しるべ(5/7付)で紹介されていたさようなら「テキストサイト」を巡る一件と絡めて書いたら面白かったかもしれない。
「遍在なり」などという日本語はないと思うが、あまり深く考えないことにしよう。ただの語呂合わせだから。
昨日の文章には、あ ち こ ち からリンクされているのだが、すべて「スタージョンの法則」絡みの言及だ。私の興味や関心が他人のそれとかなりずれているのは承知しているが、改めてその事実を見せつけられて、ちょっと凹んだ。
私はスタージョンの本は一冊も読んだことがない。「『盤面の敵』くらい読んでるだろう?」と言われそうだが、それすら未読だ。もちろん、「スタージョンの法則」くらいは知っている。本当だ。嘘だと思うならここを見るべし。ちなみに、その見出しはJunk Landへのコメントだ。
ほどよく凹んだところで、全然別の話題。新青春チャンネル78〜の5/8付の日記から。
プレイ時間は2時間程度。これで十分満足。長いばかりが能じゃない。ビジュアルノベルを製作している各会社は、物語を長くすることばかり考えるのではなく、物語をいかに短くまとめるかをもっと真剣に考えたほうがいいと思う。ゲームの値段はプレイ時間ではなく、面白さに比例するべきだ。とはいえ、だらだらと長いのが美少女ゲームの特徴だから、難しい問題ではあるのだけど。でも物語的な完成度を追求するのなら、プレイ時間の問題にもっと敏感になったほうがいいのではないかと。
ここで言及されているのは『My Sweet Home』(RAIN HILLS)というゲームだが、私は未見だし、今後手に取ることがあるかどうかも不明。商業ゲームをいくつも放置プレイしている現状では、とても同人ゲームにまで手を伸ばす余裕がない。
私がこれまでにプレイしたほぼ唯一の同人ゲーム(途中で投げ出したものを含めば、あといくつかある)は『月姫』なのだが、その制作元であるTYPE-MOONが同人サークルとしての活動を停止したことは、まだ記憶に新しい。最後の告知文には次のように書かれている(文中の強調は私が行ったもので、原文では特に強調されていない)。
今回の決断要因の一つとして、「Fate」という作品が、自分達の考える同人という規模を超えてしまったことがあります。
自分達が面白いと思えるものを全力で作ることがその答えと信じ、ひたすら製作に専念してきましたが、今の自分達が目指すべき作品は多くの期待を背負っている分、どうしても規模が大きくなってしまいます。
『月姫』は、同人ゲームの水準を超えた傑作として名高い。私が見聞きした範囲では「駄作」とか「クズ」などといった評価をしている人はいない。もっとも、『月姫』に弱点がないわけではない。たとえば完全クリアするのに数十時間を要するというボリュームは、私には『月姫』の弱点だと思われる。シナリオが冗長で読むのが退屈だったというわけではないし、この長さこそが『月姫』の長所だと評価する人もいるだろう。だが、あのストーリーと構成を保ちつつ、もっと短くまとめることは可能だったろうと思うので、私はシナリオの長さを『月姫』のマイナスポイントに数え上げることにしている。
さて、デビュー作でいきなり同人ゲームの枠を超えたヒット(よくは知らないが3万本くらいは売れているのではないだろうか?)を達成した後、TYPE-MOONは『月姫』関連のソフトやグッズしか出していない(『空の境界』は厳密に言えば別サークルの出版物)ので、ファンの期待は高まるだけ高まっている。きっと制作スタッフが受けているプレッシャーは並大抵ではないだろう。そのプレッシャーに潰されることなく、商業化することでファンの期待に応えようとする姿勢には好感が持てるし、応援したいとも思うのだが……。上で引用した文章を読むと一抹の不安がよぎる。
もしかして、規模
というのは、シナリオ枚数のことではないだろうか?
せっかくの商業化するのだから『月姫』を超える傑作を発表してほしい。けれど、もう『月姫』級のボリュームのあるゲームはプレイしたくない、というのが正直な気持ちだ。長さで『月姫』を超えるのでなく密度と洗練さの度合いで超えてほしい、と勝手な希望を私は抱いている。
上で引用した石野休日氏のコメントは特に『月姫』に言及したものではないけれど、私の気持ちをうまく代弁してくれているように感じたので引用した次第。もちろん一般論としても賛成。
ついでなので、コミケカタログよりも重い某小説本について……いや、全部読み終えてからにしよう。
「偏在なり」という日本語もたぶんないと思う。
昨日の記事に関して、MAQ氏からメールを頂いた。伏せておいてほしいとの意向なので、どういう内容だったかは書かない。
Junk Landを毎回読んでいるのに私は1年以上もそのことに気づいていなかった。不明を恥じるばかりである……と訳のわからないことを書いておくことにしよう。後は各自で努力していただきたい。
実は、晴れてこのたび、鈴木知友氏のノベルスのイラストを描くことが決まりまして、現在そちらに全力を傾けているのです
(忙中閑あり5/9付)
DAIさん帝国で紹介されているサイトをかたっぱしからがしがしとタブブラウザで開いて順番に鑑賞するのが私の日課(の一つ)になっているのだが、その中に混じっていたのでびっくりした。というか、一瞬「スズキトモトモ」と読んでしまった。
ぜひ一度スズキトモユ氏にお会いしてみたいものだ。
なお、私は男女の区別なしに敬称として「氏」を用いることにしている。念のため。
今日は殺伐とした話題とほのぼのとした話題を用意していたのだが、殺伐とした話題のほうは読者を不快にさせるだけでなく、書いている私のほうもむかむかとするので精神衛生上たいそうよろしくない。そこで、ほのぼのとした話題のほうを書こうとしたが、書き出す寸前になってきれいさっぱり消えてしまった。きっと私はほのぼのとした話題に耐えられない体になってしまったのだ。
そんなわけで、書くことがなくなってしまい、他人の褌で相撲をとるつもりでウェブ上を徘徊していたところ、苺のリゾットの話(松平惟光ホームページ)を見つけた。文章を読むだけで甘ったるい苺の匂いが感じられてきそうだ。
講談社『類語大辞典』(情報もと:原えりすんの電気オタク商品研究所(5/8付))の使用例(事情によりリンクは控えておく)。
『類語大辞典』 本体6500円 造本・体裁:A5判・上製本・薄表紙・4色カバー・箱入り・総1792ページ
http://www.bookclub.kodansha.co.jp/books/topics/ruigo/「心ある編集者が〜」というくだりは大仰な気もしますが、読んで納得、使って便利な辞典です。せっかくですので、今わたしが使った「大仰」という言葉の類語を探してみましょうか。
「大仰」で索引を引くと「1914d02」と出てきます、そう、この辞典はページ数ではなく大意でブロック分けをしているんです。この索引の方式がまたとても便利で、まず1914d02のブロックへと移動しようとすると、まず1914が「うそぶく」という大意で括られていることがわかります。そしてa項は動詞で「嘯く」「号する」などが見つかりますが、わたしが調べたいのは「大仰な」に呼応するものですので索引の指示どおりにd項に移動しましょう。するとそこは「形容動詞」の項目となっており「大仰」の類語として一般的な「大げさな」のほか「荒唐無稽な」といったものが並び、滅多に使う人がいない「舌長な」といった表現まで引けてしまいます。
心の底からここまで便利だと思った辞典は、小学生のみぎりに「ことわざ辞典」や「四字熟語辞典」を購入して以来です。
私はライターでもなければ編集者でもないので仕事で活用する機会はあまりないと思うが、なんだか無性にこの辞典がほしくなってきた。本体価格6500円というのは気軽に手を出せる値段ではない。でも、2週間くらい昼食をカロリーメイトにすれば何とか捻出できるだろう。若い頃だったら、そんな中途半端なことをせずに昼食抜きで過ごしたものだが、もう私はそれほど若くはない。午後の仕事に差しつかえるし、体調を崩してお医者様とか草津の湯のお世話になったら6500円など軽くとんでしまう。
いや、草津の湯などどうでもいい。『類語辞典』はいいらしいよ、ということが書きたかっただけなのだから。
最近話題の江東商業高等学校ホームページについていろいろ考えたのだが、懸念の表明がそのまま煽りになってしまう恐れがあるので自粛。
楽観論もあるようだが、隣りの県で昨年物議を醸したO157啓発ゲームの件を考えると、何が起こっても不思議はないという気もする。教育基本法改正の動きもあることだし。