日々の憂鬱〜2003年4月下旬〜


1.10642(2003/04/21) テフロン加工の狼

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0304c.html#p030421a

 予めお断りしておかなくてはならない事がある。それは、この文章がテフロン加工とも狼とも全く何の関係もないということだ。ついでに言えば、キダタローとも関係がない。では、どうして本文と関係のない言葉をタイトルに入れたのかといえば、それは単に読者を幻惑するためである。
「不誠実だ」
 そう言ってなじる人もいるだろう。だが、ちょっと待ってほしい。確かに私はタイトルに「テフロン加工」と「狼」という言葉を入れた。しかし「キダタロー」とは書いていないではないか。私は精一杯頑張ったのだ。私の努力も評価してほしい。
「それは甘えに過ぎない」
 いや、私は読者に甘えているわけではない。ただ読者を愚弄しているだけだ。だから、そのような批判は的を射てはいない。もちろん、的を得ているわけでもない。

 最近、女性専用車両が増えてるけれど、これって男女差別じゃないかしら? でも、いったい男性差別なんだろうか、それとも女性差別なんだろうか。

 ごくたま昨日日記「神は死んだ」というフレーズに関する話同時代ゲーム展開され(←リンク先は予想による)、さらにただ、風のために。5引き継がれている。もとがニーチェだけに、バルトだとかベケットだとか、そっち方面に話題が展開するのは自然なのだが、私はあえてその流れに反して全然別の話をしようと思う。
 今から14年ほど前の話。とあるマンガ雑誌(誌名は忘れたが、今だったら成人コーナーに置かれるような雑誌だった。当時はまだ成人コミックマークがなく、年齢制限もかかっていなかったが)を本屋で立ち読みしていたところ、「神は死んだ」という文が目に入った。その文字の下には、鉄腕アトムがうなだれて立ち尽くしている絵が描かれていた。その絵と文の筆者は後藤寿庵だった。
 たった一ページ、荒い筆致のイラストと書き殴ったような文字だった。だが、それを見た瞬間に、私は手塚治虫がマンガの神様であったことを実感した。
 ちなみに当時の私は、後藤寿庵のマンガは読んだことがあるが、手塚治虫のマンガは読んだことがないというひねたガキだった。

 遥かな道しるべ4/21付の記事及びそのリンク先を読んで、サイトの閉鎖について考えてみた。私自身、昨日の文章でサイト閉鎖常習者であるLEGIOん氏に注文をつけたくらいなので、一般論としては大いに賛成だ。
 しかし、しかしだ。
 そのうちきっと「たそがれSpringPoint」を閉鎖し、全文削除することになるだろう、という予感がある。それがいつのことかはわからないけれど。私は常に自己顕示欲と自己嫌悪の間をふらふらと揺れ動いているが、そのバランスが崩れて自己嫌悪に押しつぶされそうになったとき、私はきっと過去ログがウェブ上に残っていることに耐えられなくなるだろう。
 なんとなくサイト更新に飽きた、疲れた、多忙になった、というような理由で更新を停止するのではなく、何もかも捨てて逃げ出してしまいたいという衝動に駆られてサイトを閉鎖するとき、その時に過去ログだけ残しておくということはあり得ない。日毎のアクセス数が1ではないという可能性がある限り、私は不安と吐き気から逃れることはできないだろうから。
「それは、ただの身勝手だ」
 確かにその通り。しかし、私はキダタローを引き合いに出して自己正当化を図ろうとはしていない。その潔さは認めてほしいものだ。

 上の文章を全部削除したくなってきた。

 Kiss me .....で、里村茜誕生日記念SS「籠の中の鳥」が公開されている。わらべ歌の一節からモティーフを引き出し、かつ、同じ歌で締めくくるという着想は面白い。
 気になった点は二つ。「かもめかもめ」は意図的にしたのか? 「かご」は「籠」なのに「とじこもる」が「閉じ篭もる」なのはなぜか?
  そういえば、里村茜の誕生日は晩秋だという異説を思い出した。

 彼女が女性であるということは確実なことなのだろうか?
 この問いに対して「『彼女』は女性を指す代名詞なので、この言葉の意味に基づき、確実に女性であることがわかる」と回答するのは適切ではない。なぜなら、上記の問いは人物に関する問いであって、言葉に関する問いではないからだ。
 彼女が女性であるのが確実である場合、彼女が女性であるということは必然的でもあるのだろうか?
 私は「イエス」と答えたい。だが性別の特徴づけの仕方によっては、答えは「ノー」になるかもしれない。

 本を買うだけ買って読まずにいるのは、バイキング料理店で大皿に料理を盛るだけ盛って食べ残すことに似ている。だが、違いもある。バイキング料理店での食べ残しはペナルティの対象となるが、積ん読にはペナルティは課せられない。
 客が食べ残しをしないように心がけたところで、バイキング料理には大量の残飯が出る。読書家がどんなに努力しても、本の返品・裁断は避けられない。

 肩が凝る。頭が痛い。

 予め断っておいたとおり、今日の文章はテフロン加工とも狼とも全く関係ないものになった。ただし、キダタローはもしかしたら関係あったかもしれない。だが、彼の音楽を引用したわけではないので、著作権法上の問題はないはずだ。

1.10643(2003/04/22) ふたたびマカイアンコ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0304c.html#p030422a

 言うまでもなく今日の見出しにも意味はない。

 今日のお気に入り。超人計画 第10話:緊急対談/『超人』への道から、滝本竜彦の言葉。 若者はもう夢を見るな。くだらないことを考えるんじゃない。地道に勉強して、ふつうに就職活動しろ。なにがクリエイター志望だ。親を泣かせるのはいいかげんにしろ。

 ミステリの"論理"と論理学で扱う形式論理とはどこが違うのだろうか?
 一つの答え――無論これがすべてというわけではない――はこうだ。与えられた前提から合理的な推理を経て結論が得られたとしよう。その推理が論理学で認められた推論規則に基づくものならば、他にいかなる前提が付加されても結論に影響を与えることはない。だが、ミステリの"論理"では後から加わった情報により結論がひっくり返ることがある。
 ミステリを数論になぞらえた議論で、ミステリの"論理"がもつこの特徴に着目したものを私は知らない。

 TYPE-MOON『月箱』発売記念企画小冊子販売決定(情報もと:カトゆー家断絶)。これは同人誌なのだろうか? それとも商業誌なのか?

 今日のお気に入りをもう一つ。サイトの死から。管理者の精神状態の爲にサイトの文書を犠牲にするのは、文書が可哀想だ。

1.10644(2003/04/23) 人生のリセットボタン

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0304c.html#p030423a

 じゃんぽけの4/22付の文章の中に人生にリセットボタンがあればいいのに。という一文があった。そこからいろいろ考えてみた。
 現実には人生にはリセットボタンはない。「には」が重なっている、にはっ。庭には二羽鶏が居る。おお凄い、一発で変換したぞ。さすがはATOK16。高い金を出して買っただけのことはある。アカデミーパックだったけれど。
 現実の人生には存在しないリセットボタンを求めるのは、もし人生をリセットして最初からやり直すことができるのなら現実よりもよい人生を送ることができただろう、という推測に基づく。だが本当にそうだろうか? 何度リセットして人生をやり直したところで、基本的な素質や性格が同じなら似たような人生を送ることになるのではないか。
 いや、世の中にはもののはずみというものがあって、ちょっとした些細な変化が大きな結果をもたらすということはあり得る。とはいえ、そのような変化が自分にとって都合のいいものであるという保証は全くない。いいほうに転がるのか悪いほうに転がるのかは出たとこ勝負だ。一寸先は闇、一寸横も後ろも闇だ。
 いやいや、これまでの自分の人生がいかに徒労の連続だとしても、積み重ねた経験をもとによりよい人生を選択することは可能ではないか。人間には学習能力がある。学習の成果を携えて、人生をリセットしてやり直すのだ。そしたら一寸先にも何らかの光明はあるだろう。だが、人生をリセットしたら記憶もリセットされてしまうのではないか。
 いやいやいや、記憶はリセットされずに残るのだ。なぜなら、もともとこれは人生をコンピューターゲームに喩えたものだから、プレイヤーたる"自分"はゲームの中のキャラクターとは独立に存在し、人生という名のゲームをリセットしても依然として存在し続けるのだ。そういう比喩なのだ。
 しかし……私のこれまでの人生で得た数々の記憶をそのままにしてもう一度この世に生を受けた瞬間に立ち戻るという状況を想像するだけで、私はげんなりしてしまう。私の体は新生児でも、私の心は疲弊し、老化している。数十年分の記憶が澱のように沈殿し、もはや私は子供らしい瑞々しい感性を持ち得なくなっている。そんな状態で乳児期から幼児期、学齢期へと"成長"していくのは苦痛でしかないだろう。
 そういうわけで、私は人生にリセットボタンがあればいいのに。などとは思わない。私が望むのはリセットボタンではなくて、いつでもどこでも自由にセーブできる機能だ。やり直すのなら高校生の頃か。
 あの頃私は若く未来に希望が持てた。目の前には無限の可能性があった。私は文芸部と図書部を掛け持ちしていて、毎日たくさん本を読みながら小説もどきを書いていた。ついでに囲碁同好会にも顔を出して、放課後になると部室代わりの茶道室で手談に興じた。囲碁同好会の会長は同級生だったがアマチュア4段の腕前で、私はいつもぼろぼろに負かされていた。
 でも楽しかったなぁ。私は高校卒業後すっかり囲碁から遠ざかってしまったけれど、会長はその後も囲碁を続けていたんだよなぁ。テレビの囲碁番組に出ているのを見たときにはびっくりしたなぁ。確か大学部の医学部に進学したんだっけ。やっぱり頭がいい奴は違うよなぁ。卒業後は医者と結婚して、そして4年前にいきなり自殺した。
 駄目だ、高校時代には戻れない。私は他人のセーブポイントの管理まではできないから。
 そしたら、もう少し後にしよう。忘れもしない1992年、カール・ポパーが日本にやってきた年だ。京都で講演会とワークショップがあったのだけど、私は傍聴の申込みを忘れてしまい、行けなかったのだ。あの後すぐにポパーは死んでしまったから、私は一生に一度のチャンスを逃してしまったことになる。あれは惜しいことをした。あの頃に人生をセーブしておければ……。
 そんなとりとめない事を考えているうちに「《オートセーブで快適プレイ、ただしロードは不可》みたいな」というフレーズがふと浮かんだ。お粗末様。

1.10645(2003/04/23) えっ、本当にやるの?

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0304c.html#p030423b

 SHADOW BBS水没世界恋愛AVG〜だらだら生中継&情報交換スレが立った。いや、まさか本当にやるとは思わなかった。
 私はたぶん発売当日には入手できないと思うが、関心のある向きのために開催要項を転載しておく。

LEGIOんさんの最新作『青と蒼のしずく-a calling from tears-』を
リアルタイムで実況中継するスレです。
ネットでプチ有名なこのソフトを、せっかくだからみんなで
マターリとご本人のお膝元でプレイしながら楽しみしましょう。
参加希望者は、以下をよく確認してから参加すること。
攻略に詰まったときの参考にも使えるといいですね。

□実況の開始時刻□
・4月25日の23時30分にゲームをスタート!

□参加資格□
・『青と蒼のしずく-a calling from tears-』を買った人なら誰でも
・脳内妄想で買った人は不可

□主要Link□
 -【公式:Lass】 http://lass.jp/
 -【げっちゅ屋の紹介記事】http://www.getchu.com/soft.phtml?id=24027

□お約束□
・実況前にインストールは各自が済ませておくこと
・念のため、スタート前に公式サイトで修正ファイルがないか確認しておくこと
・プレイ中にバグを見つけても怒らないこと。バグハケーンと祭れ!
・選択肢が出たら、ネットの前評判でも人気がある義妹(いもうと)ヒロイン「鳴時 果」
攻略の方向で話し合い(でいいかな…)
・ツッコミどころを見つけたら、適宜ツッコミましょう
・でも、あまりに執拗なツッコミはキツイので控え気味に
・エチシーンにたどりついたら、みんなでハアハアするもよし
・でも、ハアハアしすぎには注意
・撤収時刻は各々の都合に合わせて任意で。あまり無理はしないこと
・回収騒ぎが起きても、慌てず騒がずブツを保持すること。祖父地図の買い取りカウンターに駆け込むのは禁止

1.10646(2003/04/24) 取り返しのつかない明日、見通しのきかない昨日

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0304c.html#p030424a

1.10647(2003/04/24) 

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0304c.html#p030424b

 「ICチップ時代の図書館」のご紹介(情報もと:重楼疏堂〜城郭と旅と日々のおぼえがき〜)。あるところで見た見積り?が蔵書数10万冊程度で4000万円くらいだそうだ。これだけの金があれば、本が数万冊買えるのに……と思ってしまう。だが、このシステムを導入して年収500万円の職員2人を解雇すれば4年で元が取れる計算になる。案外、あっという間に普及するかもしれない。
 利用者が職員の方の手を煩わせることなく、自ら簡単に貸出(返却)処理を行います。とかICチップが図書に貼付されており、テーブルに置くと、その図書の内容に関連した情報を解りやすくマルチメディアで解説します。という説明文を読むと、本の整理係さえいればよく、専門職員が常勤している必要はなさそうな気がしてくる。書架への片づけを自動化すれば、無人図書館が実現するかも。

1.10648(2003/04/25) 無題

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0304c.html#p030425b

SHADOW BBS水没世界恋愛AVG〜だらだら生中継&情報交換スレで実況中だが、私は予想どおり『青と蒼のしずく』が買えなかったので見てるだけ。
 明日は京阪淀屋橋延伸40周年記念臨時特急に乗る予定なので、今日は早めに寝ることにする。今気づいたのだが、この列車は天満橋発着で地下線には入らないようだ。記念列車なのに……。

1.10649(2003/04/27) 締切

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0304c.html#p030427a

 「たそがれSpringPoint」10万ヒット評価オフの募集を締め切った。結局1人しか申込みがなかった。募集案内文でちょっとふざけすぎたせいか、それとも私の人徳のなさのせいか。
 まあ、仕方がない。
 あとの段取りは186(一服中)氏に任せて、当日を待つことにする。

1.10650(2003/04/27) 日記厭人

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0304c.html#p030427b

 私には野望もなければ大志もなく妹もいない。ただ惰性で日々を過ごし、人生の時間切れの瞬間を待つだけだ。その合間に気晴らしのためにこうやってウェブサイトを運営しているのだが、近頃それが重荷になってきた。もちろん、一つ前の文の「それ」とはウェブサイトの運営のことであって、妹のことではない。いもしない妹が重荷になるわけもないし、オモニになることもない。
 さて、私はこのサイトを閉鎖するときには過去ログを全部削除するつもりなのだが、その前に私の人生のほうが終わってしまったらどうなるのだろうか? プロバイダとは年間契約を結んでいて、契約解除を申し出なければ自動更新されることになっている。先日今年分の料金引き落としの通知が来たばかりだ。今この瞬間に私が死んでもサーバー上のファイルはあと一年間このままの形で残るはずだ。その後のことはわからないが、家族が解約の手間をかけるとは思えない。なお、ここでいう「家族」には妹は含まれていない。銀行口座から金がなくなるまで契約は継続することだろう。
 そうすると、あと何十年も「たそがれSpringPoint」は無惨な姿をさらし続けることになる。これは困った。私は「立つ鳥跡を濁さず」を座右の銘にしている。いや、これは嘘だ。本当の座右の銘は我々は語り得ないことを語ることはできないし、口笛で吹くこともできない『ラムジー哲学論文集』(F.P.ラムジー著/D.H.メラー編/伊藤邦武・橋本康二訳/勁草書房)216ページ)なのだが、出典を明示しようとするだけでえらく手間がかかった。ともあれ、今日は口笛について語る心境ではないので、話を本筋に戻すことにしよう。
 私は「たそがれSpringPoint」を世間に晒したままでは死ぬに死ねない。だが、死ぬ時はあっさり死んでしまうのが人間というものだ。そこで次善の策として、私の死後速やかにサーバーから「たそがれSpringPoint」を構成するファイルを削除してくれるように予め誰かに依頼しておくという方法を考えた。どうやって私の死を削除人に伝えるのか、そしてどうやって削除するのかという問題はあるが、なんとかなるだろう。この方向で具体的な策を煮詰めてみるつもりだ。

 明日から5/5まで堺市浅香山浄水場でつつじの通り抜けが実施される。年によってはゴールデンウィーク前半で終わってしまうこともあるのだが、今年は例年より寒かったせいで開花が遅れているのだろう。時間と心に余裕のある人にお薦めだ。
 今年の春は花見ばかりしているような気がする。いや、気だけではない。昔は大阪に出かけても行き先は日本橋か梅田に決まっていたのだが、年を取ると趣味が変わってくるようだ。花はいいなぁ、華があって。

 知っていると得をして、知らないと損をすることがある。わかりやすい例としては、交通機関の割引きっぷが挙げられるだろう。正規料金を支払っても割引きっぷを使っても受けられるサービスは同じなのだから、知らないとバカを見ることになる。
 だが、物事を知っているというのは本当に得なことなのか? 情報コストを忘れてはいないだろうか? どこにチケットショップがあって、どのような割引きっぷがあって、どういう条件でどれくらい安くなるのか、などという情報を入手するために、正規料金との差額を超えるコストをかけてはいないだろうか?
 情報コストの問題は生活のありとあらゆる場面に関わっている。ある情報を入手するためにどれくらいの費用が必要かということを見積もるのは難しいので、つい目先の安さに惑わされて「情報を知っている自分は賢く、知らない奴らは馬鹿だ」と思いがちだが、実はその優越感には大きな落とし穴があるのではないかと思う。

 メモ:株式会社カルチャー・ジャパン書籍・文書保管サービス
 欲望に任せて買い集めた本の行き着く先はポートアイランド、か。

1.10651(2003/04/28) 人は死んだらいなくなる

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0304c.html#p030428a

 『完全版・野望の王国』(雁屋哲(原作)/由紀賢二(劇画)/日本文芸社)第9巻を読んだ。これにて完結。20年以上も前にこんな凄いマンガ(私にはどえもマンガと劇画の違いがわからない。昔ははっきりとした区別があったのだろうが)があったとは……。
 全然関係ないが「ウホッ! いい男…」と「やらないか」の元ネタにリンク。

1.10652(2003/04/29) 定義について

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0304c.html#p030429a

 定義というのは不思議なもので、何か議論に混乱が生じたときには「キーワードをちゃんと定義していないからだ」などとよく言われるわけだが、では肝心の「定義」をどう定義するのかという問題はたいていの場合棚上げになったままで、というかほとんど意識されてもいないように思われる。
 定義とは何か? 以前同じ話題を扱ったような記憶があるのだが、過去ログをいちいち読み返して該当箇所を見つけるのは面倒だし、もしかしたら私の記憶違いかもしれないので、昔のことはそっとして未来に目を向けることにする。もし以前に書いた文章と食い違った事を書いていてもご容赦願いたい。
 さて、もう一度問う。定義とは何か? それは関係である。どういう関係か? 二項関係である。この関係には被定義項と定義項の二項がある。より分析を深めていけば、定義の背後に隠れる第三項が発見されるかもしれず、そうなると「定義とは二項関係である」という先の主張を捨てて「定義とは参考関係である」と言い直さなければならなくなるかもしれない。第三項の候補として思いついたのは、被定義項を定義項により説明する主体、定義者(そんな言葉があるのかどうかは知らない。もしないのなら今作るまでのことだ)なのだが、今はそこまで風呂敷を広げるのは得策ではない。とりあえず、定義を二項関係と捉えた上で、その特質を考えてみることにしよう。
 さて、被定義項とは何か? それは、定義によって説明される事柄である。ではどういう種類の存在者が被定義項になるのか? それは言葉なのか、概念なのか、それともその他の事物なのだろうか? 言葉だ、と私は断言してしまいたい。「概念を定義する」などという物言いは一種の方便なのであって、本当はその概念を表示する言葉(ここでは「言葉→概念」という関係の矢印部分を「表示」と呼ぶことにする。「言葉→事物」なら「指示」と呼ぶ。これはここだけの便宜上の区別であり、このような用語法を推奨するものではない)を定義しているのだ、と。異論もあるだろうが、いちいち付き合っていては話が先に進まない。
 さて、被定義項が言葉だとすると、定義項も言葉だと考えたくなる。「人間とは羽根のない二足動物である」という定義の場合だと「人間」も「羽根のない二足動物」も言葉だ。私の考えに反して被定義項は概念であると考える人なら、定義項も概念(の連結)であると考えるだろう。言葉は被定義項や定義項そのものではなく、それらを表示するものだ、と。だが、先の方針に従って、異論にはいちいち付き合わないことにする。
 もし被定義項と定義項の両方が言葉であると言い切れるのなら、定義についての考察はかなりすっきりしたものとなる。定義とは被定義項たる言葉と定義項たる言葉の間に成り立つ関係である、と言っておいて、あとはその関係の特徴を検討すればいいのだから。ただ、「……とはこれのことだ」という説明も「これ」が指示する対象が明らかであれば定義として成り立つのではないかと思う。「これ」という指示詞は使用の脈絡に応じて指示対象が変わるため、「これ」という言葉自体が定義項だとは言えず、「これ」によって指示された事物が定義項だということになる。
 そういうわけで、定義とは必ずしも言葉の中だけで完結する関係だとは言い切れないのだが、話の都合があるので、事物そのものを定義項とするような定義のことは考えないことにしよう。まあ、こんなのもあるよ、とだけ言って強引に先に進む。
 次に被定義項と定義項との間に成り立つ関係がどのようなものなのか、ということについて考えてみる。理想を言えば、両者は同義でなければならない。「人間とは羽根のない二足動物である」のように例外があってはならない(鶏の羽根をむしって「これが人間か?」と言った哲学者がいたそうだ)。だが、実際にはなかなか完全に同義な言葉で定義するというのは難しい。「独身男とは結婚していない男性のことである」のような例もないわけではないが、あまり有益な定義ではない。定義が必要だと思われるような場面では、たいてい暫定的な定義しか得られないものだ。残念ながら世の中なかなかうまくいかない。
 ところで、同義であるということについても多少の説明が必要だろう。同義ってんだから同じ意味ってことだよ、てやんでぇ。これで話がすめばいいのだが、じゃあ意味ってなんだよ、てめぇ、と言い返されてしまうかもしれない。言葉の意味というのは要するにその言葉が指示する事物のことだ、という説もあれば、いやいや言葉の意味とはその言葉が表示する概念のことだよ、という説もある。前者の考えによれば、ある言葉と別の言葉が同義であるのは、それらが同じ事物を指示する場合であり、かつ、その場合に限られる。後者の立場だと、ある言葉と別の言葉が同義であるのは、それらが同じ概念を表示する場合であり、かつ、その場合に限られる。なんだそりゃ。じゃあ、ある言葉と別の言葉とが同じ事物を指示しているかどうか、または同じ概念を表示しているかどうかの規準はなんなんだ? そう考えるとだんだん話が嫌な方向へと向かっていく。あんまりこの先は考えたくないなぁ。
 考えたくない事を強いて考えることはない。同義であるということについては、予め了解済みのこととして話を変えよう。
 さて、定義には大きく分けて3つのパターンがある。

  1. 全く新しい言葉を導入する場合。新しい言葉に意味を付与するために、既存の言葉の助けを借りる。この場合、被定義項は定義されたままの意味を持つ(少なくともそれが世間に広まるまでの間は)。定義そのものの妥当性が問題となることはない。ただし、定義者の言語的センスが問われることはあり得る。
  2. 既存の言葉の意味を明確にする場合。これまでの用例をもとに共通の特徴を見出し、整理し、規格化する。この場合、既に意味を持った言葉を定義するわけなので、その定義の妥当性が問題となる。
  3. 既存の言葉の意味を限定したり、新しい意味を付与する場合。これは1と2の中間に当たる。法律の最初のほうにある「定義」という見出しのついた条文は、このパターンが多い。被定義項がそのまま定義項の一部として表れ、一見したところ定義が循環しているような奇妙な感覚にとらわれることがよくあるのは私だけだろうか。

 ああ、そうだ。定義の循環についても述べておかないといけない。たとえば次の定義がそうだ。

性別の一つ。女でないほう。
性別の一つ。男でないほう。

 もっとあからさまな循環の例。

本格ミステリ
あなたが本格ミステリだと思う小説のこと

 定義が循環するのは具合が悪いのは誰でもわかるが、循環を完全に排除するのは大変だ。ある定義の定義項に現れる言葉を被定義項とする別の定義の定義項の中に元の定義の被定義項が現れない(非常にややこしいことを書いているようだが、落ち着いて読めば意味はわかるはずだ。たぶん)という保証を得るのは並大抵のことではない。言葉は相互に参照しあって体系をなしているのだから、ある程度の循環は避けられないのではないか、という気もする。すべての言葉を最終的に「これ」とか「あれ」とかで指示される事物によって定義することができれば何とかなるのかもしれないが、まあ無理だと思う。
 まあ、定義の循環のことは深く考えないことにしよう。たいていの問題は目をつぶれば見えなくなるものだから。
 さて、上記の3つのパターンのうち、もっとも興味深いのは2だ。これまでに何度となく用いられてきて、誰もが何となく意味を理解しているような気になっているけれど、実はあまりはっきりと知っているわけではなくて、そのせいで意見が食い違ったり噛み合わなかったりする。そんな時、定義の登場である。その言葉が何を意味し、どういう物事に適用されるのかを明示することによって、混乱を鎮め、意見の調整を図るのだ。私見ではこのような試みはたいてい失敗するのだが。
 だんだん眠たくなってきた。今日はこのあたりでやめておくことにしよう。いつもの通り尻切れトンボだ。 

 今日の話題はvermilionを巡る愚者の戯言幻燈稗史の議論に触発されたものだが、このやりとりを最初から読んでいたわけではない(一週間ほど前からか?)し、議論の道筋が今ひとつよくわからないところがあるので、直接の言及は控えておく。
 vermilionそのものは面白そうなのだが、分散型テキスト(「テキスト」と書くと教科書みたいで嫌なのだが、「テクスト」だと背筋がぞわぞわしてくる。フランス現代思想は苦手だ)なので読むのがしんどそう。ある程度たまったら、誰か保管庫を作ってくれないものだろうか。

 ちょこっと追記。
 上の文章を書いたあとで、いろいろと検索してみたところ、定義の定義QUIA)という文章を見つけた。

1.10653(2003/04/29) 線引き問題について

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0304c.html#p030429b

 下の文章(ログでは「上の文章」になるわけだが、そんな細かい事を気にしているようでは野望の達成は難しい)に関連して、線引き問題について考えてみよう。線引き問題というのは、「髪の毛が何本以上あればハゲでないことになるのか?」とか「正気と狂気の境目はどこにある?」とか「科学と疑似科学はどうやって区別するのか?」というような問題の総称である。
 わかりやすい例として野菜と果物の違い(情報もと:エロチック街道)を取り上げてみる。野菜と果物が別物であることは誰でも知っているし、それぞれ典型的な例を挙げることもできるだろう。野菜だったほうれん草とか人参とか。果物ならみかんとかバナナとか(ちなみに「バナナはおやつのうちに入るんですか?」も線引き問題の一種だ)。だが、西瓜や苺、トマトになるとよくわからなくなってくる。
 私の考えでは西瓜と苺し果物でトマトは野菜だ。なぜかというと、西瓜と苺は甘いがトマトは甘くないからだ。
「では、酸っぱい葡萄は野菜なのか?」
「それは負け惜しみというものだ」
 ともあれ、私は「野菜・果物類のうち、甘いものが果物であり、甘くないものが野菜である」という線引き基準を採用している。これを少し手直しすれば「野菜」および「果物」の定義(案)となる。
 さて、前回定義について被定義項と定義項がどのような存在者なのかということを考えてみた。線引き問題についても同じ問題が提起できると思う。何らかの線引き基準によって区別される二つのものは言葉なのか、概念なのか、それとも事物なのか? ふつうに考えれば事物だと思う。「野菜」という言葉と「果物」という言葉の間の線引きというのはナンセンスだ(使っている文字が全然違う!)し、それぞれの言葉が表示する概念の間の線引きというのも変だ。言葉や概念が適用される範囲が具体的にどこからどこまでなのかというのが線引き問題なのだ?
 「野菜/果物」に話を戻そう。ここで線引きの対象となる事物は人間が作る農作物である。いや、農作物と限定してしまってはまずいか。野苺や山葡萄は自然のものだから。蕨や薇(「ぜんまい」を漢字で書くとこうなるらしい)などの山菜も野菜のうちだとすれば、ますます都合が悪い。「主として人間が作る農作物」と言い換えることにしよう。「主として」と言ってしまうとこれ自体が線引き問題を生んでしまうのだが、今はそこまで構っていられない。
 農作物のすべてが野菜又は果物だというわけではない。仏手柑は柑橘類の一種で蜜柑の仲間だが、これは食えないから果物ではない。野菜も果物も食えないと話にならない。蛇苺も却下だ。それは常識でわかるのだが、食物の中にも明らかに野菜とも果物とも違うものがある。穀物だ。米や麦は野菜ではないだろう。
 ただし、ここでちょっと注意が必要。昔「サッポロポテト」の包装紙に「じゃがいもは野菜です」と書いてあってびっくりしたことがある。また「とんがりコーン」には「6種類のとうもろこしのうち、スイートコーンは穀物ではなく野菜に分類されます」と書かれていた。ハウス食品侮るべからず! 東南アジアに行けば、インディカ米をゆでてドレッシングをかけ、米サラダにして食べているから、これも野菜と言えなくもない。そういうわけで、野菜と穀物の線引きもなかなか難しい。「ハゲ/ハゲでない」のように問題が単独である場合は、ただそれだけに関わっていればいいのだけれど、「野菜/果物」の場合は慎重に考えようとすればより多くの線引き問題を引き込んでしまうことになる。
 そういえば、茄子とトマトとじゃがいもは皆ナス科だったはず。茄子が野菜でトマトが果物、じゃがいもは穀物、ということになったらややこしい。
 まあ、それはそれとして、「野菜/果物」に絞って話を続けることにする。リンク先ではさまざまな説が取り上げられているが、決めてとなる明快な線引きを示しているものはない。そんな基準があるのなら、そもそも線引き問題など起こるはずがない、と言ってしまえばそれまでだが、どうして明快な基準がないのか考えてみることにしよう。「野菜」や「果物」という言葉は生活語であって自然種名ではないからだと私は考える。
 動物や植物は概ね我々人間の興味や関心とは独立に存在し、その秩序は自ずと定まっていると考えるのが常識的だ。それに反する見地も当然あるわけだが、今は考えないことにする。そうすると、たとえば「パンダ」とか「竹」という言葉(自然種名)の適用範囲は自然界の秩序を発見すれば判明することになる。
 人間のやることには間違いがつきものなので、本当の秩序を正しく認識できず、誤った命名を行ってしまうことがある。昔はタラバガニはカニの仲間だと考えられていた(「鱈場蟹」というのは「鱈の漁場にいる蟹」という意味だ)。だが、よく調べてみるとヤドカリの仲間であることがわかった。「タラバガニ」を自然種名とみなすなら、もはやタラバガニをカニに分類することはできない。
 ところが「野菜」や「果物」は自然種名ではなく、生物学上の発見により線引き問題に決着がつくとは考えにくい。先に述べたようにトマトも茄子もナス科の植物だが、だからといって単純にトマトと茄子の両方を野菜に分類してよいということにはならない。それが通るなら、米と筍も同じ仲間に入れないといけなくなるだろう。筍は穀物か? というか、そもそも筍って「野菜/果物/穀物」の区分に入るのだろうか?
 野菜も果物も食物である。食物というのは自然種上の区別ではなく、人間の生活の便宜により設定された区別だ。人間が生存するためには、まずは「食えるかどうか」が大事なのであって、生物学上同じ種に属するものであっても同類とみなすことはできない。蛇苺はまずいだけだが、毒苺を食べたら死んでしまう。そういうわけで(ちょっと強引だがまとめにかかってしまう)「野菜/果物」の区別は、事物そのものに内在する秩序によるのではなく、それらに対する人間の関心に基づいて行われる事柄である。
 さて、一口に人間の関心といってもいろいろあるわけで、それらのすべてが「野菜/果物」の線引き問題の場で等しく取り扱われるべきだというわけでは決してない。静物画家にとっては赤色鮮やかなトマトは林檎に類するものかもしれないが、それを根拠にトマトを果物だと言ってしまうのは無茶だ。やはり重視すべきなのは、食生活や農業との関係だろう。
 食物としての取り扱いを重視するなら、野菜というのは、ごはんのおかずとして食べるものであり、果物は、おやつやデザートとして食べるものまたはごはんに乗っけて食うのが尋常な食べ方かどうかという基準がもっともなように思われる。先に私が提示した「野菜・果物類のうち、甘いものが果物であり、甘くないものが野菜である」という基準も、味に着目しているので食物優位の線引きだ。逆に農作物としての取り扱いを重視するなら野菜は一年生か二年生の草で、収穫が終わると畑を片付けて次のものを作りますが、果物は多年生の木になる実で、同じ木で何年も、時には何十年も収穫を続けられるという区別になる。野菜はいろいろな部分を食べるのに対して、果物は実だけを食べるのが特徴は農作物と食物という二つの側面の両方を視野に入れた特徴づけだ。そのまま(生のまま)病院の見舞いに持っていけるのが果物、そうでない(調理して持っていく)のが野菜というのは食物としてというより贈り物としての機能を重視しているように思われ、ややピントがずれているような気がする。
 食生活というのは一様ではなく、農業もまた同じ。さまざまな事柄がごちゃごちゃに絡まっていて、その結節点の一つが「野菜/果物」だ。単一の基準では到底線引きは不可能だし、いくつかの基準を総合してみたところでみんなが十分納得できる線引きができるとは思えない。それでも実生活であまり混乱が生じないのは、我々が次のことについて合意しているからだ。

  1. 青菜は野菜であり、果物ではない。
  2. 木になる実は果物であり、野菜ではない。

 定義についてに対してjouno氏から論理学や分析哲学的な定義とともに、語用論や言説分析、政治的効果、社会学的理論の観点から定義というのはどういうことか、というのもほしいところ。というツッコミが入った。語用論的分析はやっておかないと中途半端だなぁ、と思いつつ放り出していたので耳が痛い。言説分析というはよくわからない(「言説」もまた私にとっては背筋ぞわぞわ系の言葉だ)が政治的効果や社会学的理論に基づく考察は私の手に余る。定義は政治的文脈でも問題になる(憲法第9条第2項の「軍隊」とは何か、とか)ので、本当はこっちの方面とも関連づけて考えないといけないのだが……。
 実を言えば私は幻燈稗史(4/29付)でjouno氏が何を言わんとしているのか、理解できないでいる。私はチョムスキーもアルチュセールも知らないので(「ではウィトゲンシュタインなら熟知しているのか?」と訊かれると困る。解説書をいくつか読んだことがある程度で、どれもこれも書いていることがまちまちなので、よくわからない。本人の文章はもっとよくわからない)。

1.10654(2003/04/30) ちょっと一服

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0304c.html#p030430a

 今日のリファラ:青と蒼のしずく 攻略
 ……まだオープニングまでしかやってませんが、何か?

1.10655(2003/04/30) 何度も何度も何度も同じことを同じことを繰り返すな繰り返すな繰り返すな繰り返すな!

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0304c.html#p030430b

 今日はいろいろと書きたいことがあったのだが、突然降ってわいた仕事のせいで断念。明日も残業だ……。