日々の憂鬱〜2002年12月上旬〜


1.10453(2002/12/01) 思いつき

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0212a.html#p021201a

 このミステリサイトを読め【ゆかいな仲間たち】 ミステリー@2ch掲示板)から。

306 :名無しのオプ :02/12/01 09:07
君主コマンド

ネット内政…シコシコと日記を更新すること
ネット外交…文中リンクして馴れ合うこと。
ネット軍事…気に食わないサイトに喧嘩を売ること。
ネット人事…常連訪問者を増やすこと。
ネット情報…ネタを求めてネットウォッチすること。
ネット計略…意味ありげな事を書いてこの板の住人を煽ること。
 外交コマンドには「婚姻」というのがあったなぁ、とか、計略コマンドの「暗殺」をネットでやられたら怖いなぁ、とか、どうでもいいことを考えてしまった。

 昨夜、大阪某所で怪しい集会があった。参加者は20人くらいいたと思うが、別のテーブルの人とはほとんど話ができなかったのが残念だ。
 ちなみに私と同じテーブルについた人のうちサイト持ちは、嵐山薫氏、ペインキラー氏、フク氏、らじ氏で、いつものメンバーだった。そこで交わされた話題は概ね以下のとおり。

 当然のことながら、ここに書いたことのすべてが事実であるとは限らない。念のため。

 今日、りんかい線が大崎駅に延長開業し、有明埠頭へ行くのが便利になった。鉄道関係では東北新幹線が八戸まで延長したことのほうが重要なのかもしれないが、今の私にとってはあまり関心がない。まだ既開業区間すら乗り残しがあるくらいだ。
 先日書いたように、私は年末の有明詣でに寝台急行『銀河』を使う予定である。『銀河』は東京駅着なので、そこから臨時バスに乗って東京ビッグサイトへ向かうのが順当だが、今日から周遊きっぷの東京ゾーンにりんかい線(と東京モノレール)が加わったので、それを使って会場入りするつもりだ。
 ただ、りんかい線の国際展示場駅は多くの人々が一斉に利用することを想定していないかのような構造で、毎回混雑が激しい。西館行列が青海方面へ伸びることを考えると、一つ隣りの東京テレポートで降りて歩いたほうがいいかもしれない。
 いつも、こうやって事前にあれこれ考えるくせに、いざ現地入りすると適当に人の流れに従って動いてしまう。たぶん今回もそうなることだろう。

 エロチック街道(前に勝手に改題して「ジャズ大名」にしてしまおうと失礼な書いたが、そういう『ちんば蛙』を『跳び蛙』に変えたり、『陵辱看護婦学院』を『清純看護学院』に変えたりするような事はすべきではないので、そのまま表記する。あっ、「陵辱」でヒットしてしまうではないか)経由で文系の傲慢と理系の怠慢を読んだ。JIS漢字コードに対する批判と東電原発トラブル隠しの間に共通の背景があるかどうかがよくわからないのに、どうして「傲慢な文系VS.怠慢な理系」という構図になるのだろうか?
 「傲慢な文系VS.怠慢な理系」と書かれると、なんとなく両者が対等に扱われているかのような印象を受けるが、よく読むと筆者は明らかに「理系」を上に置いている。「なぜ文系は傲慢なのか?」という問題を設定し、「それは理系に対するコンプレックスの裏返しである」という答えを提示してみせはするが、それと対になるべき「なぜ理系は怠慢なのか?」という問題提示は全くない。「文系はコンプレックスを捨てよ、謙虚になれ」というのは道徳的命令だが、「理系は饒舌になれ」というのは実務上の要請である。要するに「理系には別に悔い改めるほどの非はないのだけれど、文系が非を改めるのを助けて円滑に事を運ぶためには多少の譲歩は必要でしょう」ということだろう。
 う〜ん、なんだか「立場」を前面に押し出した文章になってしまった。もうちょっと冷静になってみよう。
 「文系の傲慢と理系の怠慢」の問題点は二つあって、どちらもタイトルに象徴されている。一つは「文系/理系」という枠組み設定の問題(むしろ「非専門家/専門家」ではないか?)で、もう一つは「傲慢/怠慢」の区別の曖昧さ(よく知らない分野で決めつけを行うのは傲慢であるのと同時に、理解しようとする意志を持たない知的怠慢でもある。また自分の専門分野の知識を説明しないのは怠慢であるのと同時に、どうせ説明してもわからないだろうと人々を見下す傲慢でもある)である。あ、どちらもヘッド氏が指摘済みだ。
 「文系/理系」という枠組みについてはいろいろと言いたいことがあるのだが(たとえば森博嗣の小説を「理系ミステリィ」と呼ぶのはどうか、とか)それは今後の課題にしておこう。
 先送り、多すぎ。

 JUNK-LANDGooBoo本格ミステリベストセレクション 2002について。
 その対象作品は「2001年12月1日〜2002年11月30日の期間に、日本国内で出版された狭義の本格ミステリ」となっている。「狭義の本格ミステリ」などという言い回しは、おそらくMAQ氏にとっては不本意なものではなかったかと思う。だが、昨今の状況では「狭義の」を外すと、どんな「本格ミステリ」を投稿されるかわからないので、これはやむを得ないことだろう。
 ちなみにMystery Laboratoryでは、

狭義の本格ミステリ(笑)を、国内外それぞれ10点を配分するそうで。(11/30)
と紹介されている。matsuo氏が「(笑)」にどのような意味を込めているのかはわからないが、少なくとも「狭義の本格ミステリ」という表現を強調する役に立っていることは間違いない。
 それはさておき。
 「本格ミステリ」という言葉を捨てた私が参加するのも変なのだが、できればこの企画に参加してみたいと思っている。ただ、問題は「狭義の本格ミステリ」どころかミステリ一般をあまり読んでいないということだ。おまけに、最近ミステリを読んであまり面白いと思った記憶がない。国内は『鏡の中の日曜日』、海外は『サム・ホーソーンの事件簿II』くらいか。う〜ん、情けない。

 締切日の大晦日まで迷ったが、結局今回は見送ることにした。私がこの一年で読んだミステリはあまりにも少なく、とても順位づけできるほどではないということと、ミステリ本来の面白さで私を楽しませてくれた作品がほとんどなかったことが主な理由だ。(2003/01/06追記)

1.10454(2002/12/01) 赤いきつねと緑のたぬき

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0212a.html#p021201b

 今日、「緑のたぬき」を食べながら、「どうしてこれが『たぬき』なのだろうか?」と考えてみた。前にも似たようなことを書いた覚えがあるので過去ログをさぐってみたところ去年の12月に取り上げていた。一年経っても全然進歩がないな。だが、昔のことは忘れてとりあえず話を続けることにしよう。
 赤いきつねうどん・緑のたぬきそばは東洋水産が出しているカップ麺である。地域ごとに味付けに違いがあり、「赤いきつね」は3種類、「緑のたぬき」は2種類あるそうだが、基本的な具は同じで、「赤いきつね」は油揚げ、「緑のたぬき」は天ぷらである。「きつねうどん」の具が油揚げであるのは問題ないのだが、「たぬきそば」の具が天ぷらというのはどうだろう? これが私の疑問である。
 ネットで検索してみると、私と同じようなことを考えている人がいた。そこでは、「赤いきつね・緑のたぬき」を「東京の価値観を前提に作られているもの」と特徴づけている(この文章は大阪の食文化を守れ!というコーナーに収録されている。同じコーナーにはほかにたこ焼きとキャベツの関係という文章もあり、こちらもなかなか興味深い)。
 だが、東京で「たぬきうどん/そば」といえば、ふつう天かすが入ったうどんやそばの事だ(その事は上のリンク先でも書かれている)し、「緑のたぬき」に入っているような丸い天ぷらが入ったそばなら、素直に「天ぷらそば」または「丸天そば」というのではないだろうか? また、「赤いきつね」はうどんだけでそばがなく、「緑のたぬき」にはうどんがないのだから、「きつね/たぬき」の区別と「うどん/そば」の区別が独立である東京よりも、前者が後者を含意する大阪の用法のほうに近いのではないか、とも思った。
 「緑のたぬき」が東京の価値観を前提にしているのではないとすれば、他の地方の風習に基づいているのだろうか? しかし、「きつね/たぬき」の全国分布図を見ても、丸い天ぷらの入ったそば(またはうどん)を「たぬき」と呼ぶ地方は見あたらない。このネーミングは東洋水産独自のものと考えるほうがいいような気がした。そこで、東洋水産のサイトのサイト内を探してみると、赤いきつね物語(四)「きつねとたぬきのお話」というページがあった。東京の価値観を前提にしているのではない、という私の仮説はどうやら考えすぎだったようだ。
 なお、このシリーズから最近紺のきつねそばという商品が出ている。

 昨日、オルフの『勝利』三部作のCDを買ってきた。第一部『カルミナ・ブラーナ』は非常に有名だが、続く『カトゥリ・カルミナ』と『アフロディテの勝利』は聴いたことがなかったので、一度全曲を通して聴いてみようと思ったのだ。
 私が買ったCDは輸入盤で、私に理解可能な言語で書かれていないので詳細は不明だが、検索して調べてみると同じCDを買った人がいるので参考のためリンクしておく。
 先ほど全曲通して聴いてみた。『カルミナ・ブラーナ』以外の二作も面白かった。これで2000円もからなかったのだから、得した気分だ。
 ところで『カルミナ・ブラーナ』に限れば、これで4種類のCDを持っていることになるのだが、室内楽版(?)の1枚を除けば、私には違いが全然わからない。では、どうして同曲異演奏のCDを買ってしまうのだろうか? 謎だ。

1.10455(2002/12/02) 時計の針が意味のひび割れを指す

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0212a.html#p021202a

 日が暮れるのが早くなった。冬至も近い。
 駅のホームで時計を見た。6時15分だった。
 もう一度時計を見た。すると、もはや時計は6時15分を表示しているのではなかった。長針は文字盤の数字の3を指し、短針は6の少し左寄りにあった。「6時15分」などという表示はどこにもなかった。
 私はその場に立ちつくした。
 やがて、我に返って再度時計を見ると、さきほどの奇妙な光景はもうどこにもなく、時計はいつもと同じように時刻を表示していた。長針が動き、6時16分を指した。

1.10456(2002/12/02) 関東の傲慢、関西の怠慢

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0212a.html#p021202b

 関東のうどんつゆは真っ黒で関西人には非常に抵抗がある。「あんなもん、人間の食いもんやない」と言って、絶対に食べない人もいる。他方、関東人は関西風のうどんをさほど抵抗なく食べる。
 これは私の周囲のごく限られた人々の間の話なのだが、仮に「関西人は関東のうどんをまずいと感じるが、関東人は関西のうどんをまずいとは思わない」という傾向性が確認されたとしよう。そこから二通りの主張が可能だ。

  1. 関西の食文化は洗練されているが、関東のそれは未発達である。だから、関東より関西のほうが優れているのだ。
  2. 関東人は他の地方の文化に対する包容力があるが、関西人は自文化に閉じこもりがちで偏狭だ。だから、関西より関東のほうが優れている。
 どっちもどっち、としか言いようがないのだが、世の中この種の詭弁が溢れ返っている。知らず知らずのうちに私自身も似た論法を用いているのかもしれない。気をつけなければ。
 なお、少しレベルの違う話になるが、上のエピソードは関東・関西以外の地方を無視しているという点にも問題がある。

1.10457(2002/12/02) ご無沙汰してます、お元気ですか

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0212a.html#p021202c

 最近「ご無沙汰してます」や「お元気ですか」などの件名のメールが頻繁に来るが、スパムメールに決まっているのだし、ウィルスメールも混じっている可能性があるので、読まずにさっさと削除することにしている。
 先日、昔の知り合いにメールを書く機会があった。用件は今度の冬コミの予定伺いなのだが、長年連絡をとっていない間柄だけに、「冬コミの予定について」などというストレートな件名はやめておこうと思った。そこで、件名を「お久しぶりです」にした。
 送信してから、もし相手が私と同じようにメールを処理しているとすれば読まずに削除されてしまうかもしれないということに気づいた。だが、「さっきのメール削除しましたか?」などと書くのも失礼なので、そのままにしている。
 あれから三日、まだ返信は来ない。

1.10458(2002/12/02) りんかい線まで何マイル?

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0212a.html#p021202d

 昨日、りんかい線の延長開業について触れて、コミケットの足としての機能に不安があるということも少し述べた。その事についてかなり詳しく考察しているサイトが二つあったので紹介したい。一つはrough note(12/2付)。りんかい線の輸送能力を試算している。もう一つはおかpのどーんと行くページ2002(12/2付)。大井町駅と国際展示場駅の写真あり。
 う〜ん。
 私はもう大井町のホテルを予約してあるんだが……ルート見直したほうがいいのかも。

1.10459(2002/12/03) 蝋燭は燃え尽きる間際に一際明るく輝く

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0212a.html#p021203a

 こんな生活パターンでは、本を読む時間が確保できないので、今日からしばらく半休眠モードに入ることにした。今読みかけている『サイコロジカル』(西尾維新/講談社ノベルス)と『西城秀樹のおかげです』(森奈津子/イーストプレス)ほか数冊の本を読み終えたら復帰する予定。

 その後、『西城秀樹のおかげです』を難なく読み終えて、続けて難航していた『サイコロジカル』(上巻を読み始めたのは先月8日だった)も読了した。

1.10460(2002/12/04) 買ったら積むな、積むなら買うな

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0212a.html#p021204a

 半休眠モード二日目。今日は『サイコロジカル』(西尾維新/講談社ノベルス)の感想を軽く書いておく。
 この小説は長すぎる。上巻では延々と登場人物の紹介が続き、事件が発生するのは巻末だ。下巻に入ってからも、延々ととんだりはねたりして、なかなか話が先に進まない。全体的に無駄な描写と余計な会話が多すぎる。
 このような感想を抱いてしまうのは、もしかしたら私がとしをとって「新青春エンタ」についていけなくなっているからではないか。若い世代の人は長さを感じずにすらすらと読めるのではないか。そんな事を考えてみたりもする。だが、新青春チャンネル78〜でも「いーちゃんうぜえ。」と書かれているくらいなので、たぶん年齢は関係ないのだろう。
 奇妙な言葉遣いは相変わらずで、時には辟易しながらも概ね面白く読むことができたのだが、「汚名挽回」はちょっとやりすぎではないかとも思う。あと「ジンカンいたるところに青山あり」とか。
 ミステリとしてはかなり無理がある話なのだが、非常に面白い趣向が一つあって、それだけですべてが許せる気分になった。それは冒頭の会話が、その内容とは無関係に、事件の真相を示すあからさまな手がかりになっているということで、前例があるのかもしれないが私は知らない。この趣向を成立させるためにこれだけの長さが必要だったのだ、と言われれば納得する。
 でも、やっぱり長かったなぁ。

 甲影会から「別冊シャレード71号 天城一特集8」が届いた。今回は鮎川哲也追悼特集(?)で、ちょっと構成がぎくしゃくしている感があるが、巻頭の「私的追悼 鮎川さんと私」(天城一)を読むだけでも十分価値がある(もちろん他の文章に価値がないと言いたいわけではない。まだ最初の文章しか読んでいないというだけのこと)。この機会を逃すと一生後悔することになるかもしれないので、ぜひ買うように、と煽っておくことにしよう。

1.10461(2002/12/05) うどん

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0212a.html#p021205a

 先日の赤いきつねと緑のたぬきに関して、掲示板に昨日愛・蔵太氏から「日清食品の「どん兵衛」は赤と緑がマルちゃんの奴と逆」という情報が寄せられた。確かにその通りなのだが、言われるまで全然気づかなかった。「どん兵衛」のほうは「たぬき」ではなく素直に「天そば」という名称になっているので、盲点に陥っていたのだ。
 うどんとそばを対にして赤と緑という補色を割り当てるという着想は、日清食品と東洋水産のどちらが先だったのだろうか? 調べてみると「日清のどん兵衛きつね、天そば」発売は1976年「赤いきつね」の登場は1978年(「緑のたぬき」の発売年はわからなかったが、これより後だと思われる)なので、「どん兵衛」のほうが先だとわかった。ただし、カップ入り即席うどんそのものは東洋水産のほうが先(1975年の「マルちゃんのきつねうどん」 )らしい。
 この種の話題は調べれば調べるほど興味深い事実が出てくるのだが、今は半休眠モードであまり時間をかけるつもりはない。今日は某所からのコピペでお茶を濁そうかと思っていたのだが、ちょっと長くなるのでやめた。そういうわけで、中途半端なままだが、ひとまず終了。

 『西城秀樹のおかげです』(森奈津子/イーストプレス)について少し。この本は冬野佳之氏の強い薦めにより読むことにしたのだが、評価に苦しむ怪作だった。基本的にはすべて笑い話なのだが、素直に笑えるかどうかは読む者の趣味や体調に大きく左右されるため、客観的なに評価することはほぼ不可能に近い。私は表題作の「西城秀樹のおかげです」はあまり面白いとは思わなかったが、巻末の「エロチカ79」には大いに笑わされた。しかし、前者が失敗作で後者が成功作ということではない。
 特に印象深かったのは、「地球娘による地球外クッキング」の次の一節(177ページ)である。

 現在、里紗は大学三年生。日本文学が専攻だ。
 入学してすぐの頃、彼女はSF研究会に入会したが、会長が単なるアニメ・オタク、副会長が単なるゲーム・マニアであることに腹を立て、夏が来る前に退会していた。
 里紗から見れば、アシモフもヴァン・ヴォークトもブラッドベリもクラークもハインラインもディックも読んでない奴はSFファンでないどころか、単なる愚民なのである。
 この箇所を読んで「ああ、ヴォークトは読んでいなかった。代わりにバラードでは駄目だろうか?」と思ってしまった私は、もちろんSFファンではないけれど、少なくとも愚民以上だと思ってもいいだろうか?

1.10462(2002/12/05) とりあえず

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0212a.html#p021205b

 国内SFファン度調査kansuke.jp)をやってみた。その結果は……

ご回答ありがとうございました
あなたの既読作品は以下の通りです

・『ネガティブハッピー・チェーンソーエッヂ』(01) 滝本竜彦
・『イリヤの空、UFOの夏』(01) 秋山瑞人
・『西城秀樹のおかげです』(00) 森奈津子
・『蘆屋家の崩壊』(99) 津原泰水
・『オルガニスト』(98) 山之口洋
・『ブギーポップは笑わない』(98) 上遠野浩平
・『蒲生邸事件』(97) 宮部みゆき
・『人格転移の殺人』(96) 西澤保彦
・『七回死んだ男』(95) 西澤保彦
・『タイム・リープ』(95) 高畑京一郎
・『スキップ』(95) 北村薫
・『バルーン・タウンの殺人』(94) 松尾由美
・『姑獲鳥の夏』(94) 京極夏彦
・『大久保町の決闘』(93) 田中哲弥
・『二重螺旋の悪魔』(93) 梅原克文
・『竜は眠る』(91) 宮部みゆき
・『変身』(91) 東野圭吾
・『残像に口紅を』(89) 筒井康隆
・『チョコレート・パフェ浄土』(89) 梶尾真治

300作品中19作品読了
 あと二、三作読んだかどうだか不確かな作品があった、と書いておこう。負け惜しみめいているけれど。

1.10463(2002/12/06) 鉄路はみな消えゆくさだめ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0212a.html#p021206a

 今日は会社を休んで有田鉄道に乗ってきた。
 有田鉄道!
 ドストエフスキーの名前を知らない大学生が出現する「教養崩壊」の時代だから、この鉄道のことを知らない人もいるかもしれない。そのような人が人前で「有田鉄道って何?」と愚かな質問をして恥をかくのは自業自得なので私にとってはどうでもいいのだが、少しだけ憐憫の情をおぼえるので特別に教えてやろう。この鉄道は和歌山県中部の有田郡吉備町に位置する営業キロ5.6km全線非電化のローカル私鉄である。JR紀勢本線(今は「きのくに線」という愛称がつけられている)の藤並(ふじなみ)駅から一輌編成のレールバスがのんびりとみかん畑の中を走り、田殿口(たどのぐち)、下津野(しもつの)、御霊(ごりょう)の各駅を経て、有田鉄道本社のある終点金屋口(かなやぐち)駅に到着する。所要時間は14分、表定速度は時速24kmとなる。沿革等は各自調べられたい。
 有田鉄道の特色は何といっても休日運休ということだろう。正確にいえば、日曜、祝日、第2,4土曜運休である。明日は第1土曜なので、別に今日会社を休んでまで乗りに行く必要はなかったのだが、明日12/7はコミックマーケット63カタログ発売日なので今日にした。なんだか理由になっていない気もするが。
 早朝に家を出て、電車を乗り継ぎ藤並駅に到着したのは午前9時19分。有田鉄道の金屋口行き始発列車は当駅正10時発車なので時間に余裕がある。そこで私は駅を出て次の田殿口まで歩くことにした。事前に地図を用意しておいたものの、危うく道に迷いそうになった。田殿口駅は直接道路に接しておらず、JAありだ有田川選果場の構内(?)駐車場に隣接している。勝手に入っていっていいのだろうか、と少し迷ったが、誰にも見とがめられることなく駅待合室に辿り着いた。
 藤並行き始発列車は9時35分に金屋口を出発し、田殿口発時刻は9時45分。始発列車だけに客の姿はまばらで、田殿口から乗車したのは私一人、既乗客はカメラを構えた好青年らしき風貌の人が一人だけだった。列車は9時49分に藤並着。
 折り返し10時発の金屋口行き始発列車の乗客は13人だった。地元の老人(?)が4人、カメラを構えた好青年が5人、カメラを構えた中年夫婦が1組、カメラを構えた妙齢の美女が1人、そしてカメラを持っていない私、という陣容だった。列車は定時に藤並を出て、晩生みかんとはっさくが色づく畑の中を疾走した。途中、田殿口でカメラを構えた妙齢の美女、御霊で地元の老人が一人、それぞれ下車し、10時14分に金屋口に到着したときには乗客は11人に減っていた。
 次の藤並行き最終列車は午前11時35分でまだ1時間以上の余裕がある。そこで私は隣の御霊駅まで歩くことにしたのだが、その前に駅の窓口で御霊駅の「特別定期入場券」なるものを購入した。発売日共3日間有効で、期間中何度でも駅構内に立ち入ることができるという大変便利な入場券だ。これがたったの420円なのだからお買い得である。
 金屋口から御霊への道沿いに和歌山県立五稜病院がある。たぶん「ごりょう」病院なのだと思うが、これが「御霊病院」だったらちょっと嫌だ。そんな事を考えながら御霊駅に到着した。藤並行き最終列車は当駅11時38分発で、時間に余裕があるので、持参した『宝塚 百年の夢』(植田紳爾/文春新書)を開いた。私が全然興味も関心もない分野の本だが、かえって新鮮で楽しく読めた。
 御霊駅から列車に乗ると、乗客は私を含めて12人、その内訳は……メモをとる間もなく下津野に到着。11時42分。そこで乳児を抱いた母親二人と入れ違いに私は下車した。当駅は無人駅だが、しっかりした人が管理しているようで、さまざまな掲示物があった。たとえば有名な連歌師の宗祗が当地の出身であるということを駅の掲示で知った。でも、こんなことを書いても「宗祗って誰?」と言われてしまうんだろうな。ついでなので宗祗の出身地関連でリンク2件。一説では近江の生まれともいう。とか連歌師「宗祗」は能登川の生まれ!!などと書かれている。
 下津野駅の掲示板で、「有鉄下津野駅オリジナルレインボーカード」というものがあることを知った。レインボーカードは大阪市交通局が出しているスルッとKANSAI対応カードで、有田鉄道では使えない。金屋口駅では売っておらず、下津野駅前商店街(!)のフジヤ薬局のみでの発売。ということは、有田鉄道が公式に出しているのではなくて、薬局の人が個人的に作ったものではないかと思うのだが、私はカード収集の趣味がないので詳しいことはわからない。とりあえず4種類(全部で7種類あるようだが、No1,3,4は完売していてNo.2,5,6,7しか買えなかった)を2枚ずつ入手した。これは今度何かの企画のときの賞品にしようと思う。
 そんなこんなで、有田鉄道初乗車&全駅完訪の旅は終わり、私は徒歩で藤並駅に戻った。
 う〜ん、写真なしの旅行記はつまらないなぁ。ちゃんとした旅行記はネット上にいくらでもあるので、それらを参照していただきたい。

 半休眠モードなどと言いながら、いつの間にか元のスタイルに戻りつつある。これでは本が読めないではないか。
 今日、有田鉄道訪問の際にたまたま立ち寄った書店で、ついふらふらと『江戸川乱歩傑作選』(江戸川乱歩/新潮文庫)を買った。まだ『二癈人』と『赤い部屋』を読んでいなかったので、それだけ読めばいいというつもりだったのだが、いざ本を開くとやはり最初から順番に読んでしまう。『二銭銅貨』など何度読んだか覚えていないくらいだが、最後に読んだのは10年以上も前のことなので、改めて気づいた点がいくつもあった。「古典」だとか「教養」だとか難しいことは考えずに読める名作だ。
 この『江戸川乱歩傑作選』は現在出版されている乱歩の著書の中では最も古い部類に入るのではないかと思う。初版が出たのが昭和35年(その後平成元年に改版)だから、まだ乱歩は存命だった。現代教養文庫版の『探偵小説の「謎」』も長命な本だったと思うが、今はもうない。本は内容第一だと思うので、校訂さえしっかりしていれば別に版にはこだわりはないのだが、奥付の「平成十四年八月五日 八十二刷」という記載を見ると感慨深い。時流に乗って一時的にベストセラーになる本や、版型を変えて何度もしぶとく蘇る本はこれからも出てくるだろうが、40年以上もじわじわと売れ続ける本は、もう現れないかもしれない。

1.10464(2002/12/07) 冥福を祈ることはいかにして可能か

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0212a.html#p021207a

 冥福を祈るということは、誰かが冥福を祈るということだ。誰も冥福を祈る者がなく、ただ冥福を祈るということだけがある、とは考えられないからだ。
 同様に、冥福を祈るということは、誰かの冥福を祈るということだ。誰の冥福でもなく、ただ冥福を祈るということだけがある、とは考えられない。ただ、誰かの冥福を祈るということから、冥福を祈られる誰かが本当にいるということが導かれるのかどうかは、もう少し慎重に検討してみる必要があるだろう。
 もう一つ考えておかなければならないことがある。冥福を祈るということは、誰かに冥福を祈るということであるのかどうか、ということだ。もしそう言えるのだとすれば、冥福を祈るということは、誰かが誰かに誰かの冥福を祈るということだ、と言ってよいだろう。しかし、本当にそう言えるのかどうかについては、やはり検討が必要だ。
 ここで挙がった問題点は二つ。一つは、誰かの冥福を祈るならば、その誰かは本当にいるということになるのかどうか、ということ。言い換えれば、本当にいる誰かについてでなければ冥福を祈ることができないのかどうか、ということだ。もう一つの問題は、冥福を祈るためには、必ず誰かに冥福を祈るのでなければならないのかどうか、ということだ。第二の問題点に関して、第一のそれと同様の問題をさらに提起することもできる。すなわち、誰かに冥福を祈るならば、その誰かは本当にいるということになるのかどうか、という問題だ。
 ところで、これら二つないし三つの問題は、別に冥福を祈ることにのみ関わるわけではない。たとえば第一の問題は、幸福を祈ることについても同様に提起できるだろうし、第二の問題およびそれに付随する第三の問題は、何かを祈ること全般について成り立つ問題だろう。だが、これらの問題とは別に、そもそも冥福とは何であるのか、という問題もある。
 冥福というのは死後の幸福であり、冥界における幸福である。すると、死後にも幸福であったり不幸であったりすることがある、とか、冥界がある、という考えを受け入れる必要があるだろう。では、ここで問題が起こってくる。誰かが冥福を祈るためには、その誰かが、死後に幸福があるとか冥界があるとかいう考えを受け入れているだけでいいのか、それとも本当に死後の幸福や冥界があるのでなければならないのか、という問題である。これもまた難しい問題だ。

1.10465(2002/12/07) 奥付は28ページ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0212a.html#p021207b

 今日は大阪へ出かけて、冬コミのカタログを買ってきた。相変わらず重い。どうしようもなく重い。
 全部チェックするのにどれくらい時間がかかるだろうか……。

 冬コミカタログと同時に『りりあ01』(2)(緒々田みの虫/竹書房)を買った。この種のマンガ(『ああっ女神さまっ』とか『AIが止まらない』とか『ぼくのマリー』とか『戦うメイドさん!』とか『まもって守護月天!』とか、その種のマンガのこと)は締めくくりが難しいのだが、なかなかうまくまとめていると思った。意外な結末というほどではないが、よく工夫できている。『りりあ01』単独でも楽しめるが、同じ作者の『Angel・はーと』(シュベール出版)とあわせて読むとより面白い……かもしれない。

 ぼちぼちと『江戸川乱歩傑作選』を読んでいるのだが、『D坂の殺人事件』の中に次のような一節があることに気づいた。

 読者諸君、諸君はこの話を読んで、ポーの「モルグ街の殺人」やドイルの「スペックルド・バンド」を連想されはしないだろうか。つまり、この殺人事件の犯人が、××ではなくて、×××××××だとか、××の××だとかというような種類のものだと想像されはしないだろうか。
 本当はそのまま引用したかったのだが、いろいろ考えて一部伏せ字にした。『D坂の殺人事件』も『モルグ街の殺人』も『まだらの紐』も大昔に読んだので、どのような順序だったのかはもう覚えていないのだが、今回読み返すまでこの箇所をすっかり忘れてしまっていたことから考えると、たぶん『D坂の殺人事件』がいちばん最後だったのだろう。
 現在の作家なら、作中で古典的名作のネタをばらすような不用意なことは書かないと思うが、乱歩の時代にはポーやドイルは読んでいて当たり前だったのだろう。
 と、そんな事を考えながらウェブを巡回していると、JUNK-LANDの【今日の漫文:緊急対談:本格ミステリ読みを巡るアレコレソレ-8】で非常に言いにくいことをはっきりと書いていてちょっと驚いた。「『本格』という言葉はルーズになりすぎたのだから、こんな言葉は捨ててしまえ」とか「読んでいて当然の名作を読むのに息切れするようになったので、ミステリマニアと自称するのをやめた」などと言っている敗北主義者の私だが、今回のMAQ氏の言葉には大いに感心した。感心しただけで、何も行動を起こさないけれど。
 ところで私はブラッドベリにちなんでサイト名をつけた(去年の10月に公開することにしたので「たそがれ」という語を入れた)くせに、まだ『火星年代記』を読んでいない。『火星人ゴーホーム』なら読んでいるのだが。

1.10466(2002/12/08) てぬきそば

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0212a.html#p021208a

 非常に頭の悪そうな見出しだが、気にしている時間がない。今日はこれから部屋の片づけをして、パソコンを隣の部屋に移動させて、ついでに本を大量処分しようと思っている。よって、今日は手を抜く。思いっきり手を抜く。半休眠モードの上にさらに手を抜くのだから、こりゃもう大変だ。キリ番祝辞か何かでお茶を濁そうか? でも遙かな道しるべを見ていると、なかなか大変そうだ。私のようなものぐさな人間には到底為し得ない業のように思われる。
 とりあえず、1件だけ。JUNK-LAND111111hit!おめでとうございます。

 偽コミックファン度調査(情報もと:Mystery Laboratory)というのをやってみた。全180タイトル中、私が読んでいるのは次の69タイトルだった。

 『のらくろ』から『Papa told me』まで非常に広範囲から作品を選んでいるのに、少年マンガ・少女マンガそれぞれの最長連載作品がリストに入っていないのが気になった。
 同じサイトにあることばへの旅というコーナーを見ると、わりとポピュラーな回文のほかにちょっと珍しい転文も取り扱っている。恥ずかしながら私はこれまで「転文」という言葉を知らなかった(ずっと「倒言」と言っていたのだが、ほかにもいろいろな言い方があるらしい)。言葉遊びの世界は奥が深いものだ。

1.10467(2002/12/08) ただ今片づけ中

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0212a.html#p021208b

 パソコンの前にうずたかく積まれた本の山の中から「日下◎三蔵 講演会 海野十三再々評価に向けて」と書かれたチラシが出てきた。今年5月に徳島で催された講演会の案内チラシだ。
 ……オチはない。

1.10468(2002/12/08) 死にゆく者への祈り

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0212a.html#p021208c

 1.10464(2002/12/07) 冥福を祈ることはいかにして可能かの続き。この話はいくつもの問題を含んでいるので、今日は祈るということに焦点を絞ることにする。
 さて、祈るということはどういうことか。誰かが誰かに対して何事かを祈るという構造になっていると思われる。誰が祈っても構わないのだが、ふつう祈る者は人間だろう。犬やゴギブリが祈ることがあり得るのかどうか私は知らないが、もしそんなことがあり得るとすれば、犬やゴキブリにも人格があるということになるだろう。
 ところで、誰かが祈るということが成り立つためには、当然祈る者がいなければならないと考えられる。これは前回も言ったことだが、祈る者なしに祈るということだけがあるということは考えられない。これは祈るということだけではなくて、たとえば散歩することや逆立ちすること、数を数えること、自殺することなど、何についても成り立つことで疑いを差し挟む余地はないと思われる。ただ、祈るということ(または、散歩すること、逆立ちすること、数を数えること、自殺すること、などなど)と、祈る者(または、散歩する者、逆立ちする者、数を数える者、自殺する者、などなど)のどちらが先行するのか、ということは問うてみる価値があるかもしれない。
 一つの考えはこうだ。祈る者なしに祈るということだけがあるとは考えられず、逆に祈るということなしに祈る者だけがあるとも考えられないのだから、両者に前後関係はない、と考えられる。これはこれで一つの考え方ではある。
 また別の考え方もある。祈る者は祈るということがなければ祈る者ではないが、それでも何らかの者ではあり得る。まず何らかの者があって、その者によって祈るということが行われるのであって、その逆ではない。よって、祈る者のほうが祈るということよりも先立つ、と考えられる。
 さらに別の考え方もある。そもそもはじめにあるのは祈るということである。そのことを構成する要素として、祈る者があるという事態が後からついてくるのだ、とも考えられる。この考え方は一見すると非常に奇妙であり、俄に頷くことは出来ないけれども、さらにいろいろと考えてみれば、なんとなくそんな気がしてくるから不思議だ。
 ここで三通りの考え方を提示したが、私はこれらのうちの一つが正解であるとは主張しない。実は自分でもよくわからないのだ。たぶん、この問題に決着をつけるためには、ある事柄と別の事柄の間に前後関係があるということはどういうことであるのか、というより一般的な問いに対して答えるだけの用意がなければならないのではないだろうか。

 次に、誰かに対して祈るということについて。祈るということは誰かに対して祈るということだ、と考えるのが自然なように思う。神仏の類に祈るのが普通だが、他の者相手に祈ることができないわけではないだろう。たとえば大自然や宇宙に祈るということも十分考えられる。では、人間相手に祈ることはどうか。そういうこともないわけではないが、その場合祈る相手先の人間は普通の人ではなくて、何らかの超越的な能力を持っているということになるのではないだろうか。権力者や資産家、天才的な技能者などに対しては祈るのではない。ただ、乞い、願い、求め、頼むことになるだろうから。
 神や仏に対して乞い、願い、求め、頼むのと神や仏に対して祈るのとでは何か違いがあるだろうか。勢いの強さが多少違っているかもしれないが、概ね同じではないかと思う。もしそうだとすれば、祈るということは神仏などの超越者に対して乞い、願い、求め、頼むことだということになるだろう。
 だが、当初の問題であった、冥福を祈るということについて、この分析がうまくあてはまるかどうかは私には全く自信がない。誰かが神仏に対して誰かの冥福を祈るということは大いにありそうなことだ。だが、別に神も仏も関係なく、それどころかどのような相手も想定せずに、ただ端的に誰かの冥福を祈るということも同様にありそうなことのように思われる。後者の場合、誰かの冥福を望んでいるだけなのだが、だからといって冥福を祈っているのではない、とは言い切れないような気がする。そんな気がするだけで、それを裏付ける根拠は何もないのだが。
 ともあれ、祈るということは誰かに対して祈るということだという考えに基づいて話を進めることにしよう。すると、次に問題になるのは、祈る相手の誰かは本当にいなければならないのかどうか、ということだ。たとえば、神が本当はいないとすれば、人は神に対して祈ることはできないのかどうか。この問題は非常に難しい。神がいるかどうかがわかせないから難しいのではなくて、神が本当にいるということが一体どういうことであるのかがはっきりしていないから難しいのだ。そこで、話をちょっとずらして人に頼み事をする場合を考えてみよう。誰かに対して何事かを乞い、願い、求め、頼むということが成り立つためには、その相手が本当にいる必要があるのか、それとも本当にいるかいないかに関わりなく成り立ちうるのかということを考えてみる。本当はいない人、たとえば物語の登場人物や妄想の中に現れた人物を相手に何事かを乞い、願い、求め、頼むことはできない、と私は考える。何事かを乞い、願い、求め、頼んだつもりになっても、それは誤りである、と。人は脳内恋人と結婚したつもりになることは出来ても、本当に結婚することはできない。それと同じことだ。
 だが、そのように断言してしまっていいのだろうか? シャーロック・ホームズが実在すると信じている人が難事件に巻き込まれたときに、ホームズに事件を解決してもらいたいと願うことは不可能なのだろうか? そんな事はないはずだ。その願いは叶うはずはないが、少なくとも願うことは可能なはずだ。しかし、ホームズに事件解決を依頼することは誰にも不可解だ。ベーカー街に依頼状を郵送して、ホームズに依頼したつもりになることはできるが、本当に依頼したわけではない。 では神に対して何かを祈るということは、ホームズが事件を解決してくれることを願うことと、ホームズに事件解決を依頼することのどちらに近いことなのだろうか。
 私の考えはこうだ。何事かを乞い、願い、求め、頼むとき、その内容にはほとんど制約がない。ホームズが難事件を解決してくれることでも、神が悪の枢軸に一撃を加えてくれることでも、なんでも乞い、願い、求め、飲むことができる。しかし、誰かに対して乞い、願い、求め、頼むときには、その相手がいなければ話にならない。ホームズが難事件を解決してくれることを願うのと、ホームズに難事件を解決してくれることを願うのとでは、話は全く違う。神や仏に対して祈るとき、もちろん祈る内容には神仏の働きによって何事かが為されるということが含まれるが、それ以外に祈る相手として神仏の存在が要請される。従って、もしその要請が満たされないとするならば、祈るということは成立しない。
 この考え方によれば、人は自分が神仏に対して祈っているかどうかを自分の心の内面を見通すだけでは判断できないということになる。神も仏もないものならば、そもそも誰も祈ることはできないということにもなるだろう。この帰結はあまりにも常識からかけ離れすぎているので、私自身素直に受け入れることができない。だが、これまでの考察のどこかに誤りがあったのかどうか、あったとすればどこにあったのか、私には皆目見当がつかないのだ。

 前回提起した問題のうち、第一の問題はとばして、第二の問題と第三の問題だけ取り上げてみた。かなり端折ったつもりなのだが、それでも相当長くなってしまった。説明不足゛解りづらいところや議論が飛躍しているように思われるところが数多くあるが、補足説明をする余裕がない。今回はここまでとする。次回があるかどうかは不明。

1.10469(2002/12/08) 明日は読めるか

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0212a.html#p021208d

 ふだん私は本が読めない読めないと駄々っ子のように愚痴を書いているが実は全然読んでいないわけではなくてそれなりに本を開いて文字を追っているのだが十分も経たないうちにそわそわしてきて二十分も経つといらいらしてきて三十分も経つと隣りに積んである本のほうが面白く見えてきて四十分経った頃には最初の本を放り出して次の本に取りかかるのだが新しく読み始めた本もすぐに飽きてきてまた別の本に手を出しているうちに最初の本をどこまで読んだのか忘れてしまい次に開いたときには少し戻って読み始めるのだが訳が分からなくなってしまっているので結局いちばん頭から読み直すことになってしまい全然先に進まずいつまで経っても読み終えることができないうちにどんどん未読本がたまって本の山に埋もれてしまいたまに大掃除をすると一日仕事になってしまいなんとか片づけが終わってもそれで本が減るわけではなく何とかしないといけないなぁと思って今日は30冊ほど近所のブックオフへ持っていったのだが思いっきり買いたたかれて千円にしかならず意気消沈したもののもう一度持って帰るわけにもいかないので言い値で売ってしまいああこれで日本の出版業界の首を絞める行為をしてしまったという自責の念に駆られるものの私自身はめったに古書店では本を買わないのでそれなりに出版業界に貢献しているのではないかと思い直しでもやっぱり一度読んで処分するくらいなら古本で十分ではないかと考え直したのでそろそろ家計簿でもつけて計画的に本を買うことにしようかとか思うのだがどうせ私にそんなことができるわけもないのでせいぜい読み終えた本を片っ端から処分していくくらいなのだがいざ古本屋へ持っていくとなるともしかしたら何かの機会に読み返すかもしれないなどとためらってしまうわけでそのくせここ数年一度読んだ本を読み返すことなどほとんどなくてそれなら持っている本全部処分してしまってもいいのだがそんなに思いっきりがよくない性格ではないのは今あなたが読んでいるこの文章からもありありとわかることだと思う。

1.10470(2002/12/09) 高度に進化したカノンはフーガと区別がつかない

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0212a.html#p021209a

 『悪魔のミカタ(6) 番外編・ストレイキャット ミーツガール』(うえお久光/電撃文庫)を読んだ。今年デビューした作家なのになんと6冊めだ、とか、西尾維新と比べてみよう、とか、クラークですよクラーク11歳の子供が知ってますかふつう、とか、この世界で「日常の謎」派かよ、とか、そんなことをつらつらと書こうと思っていた……のだが、全部先に書かれていて何も付け加えることがない。
 このシリーズは巻数を重ねるごとにどんどん私の好みとは違った傾向の話になっていくので、そろそろ読むのをやめようかと思っていたところだった。シリーズキャラクターが増殖していって、本筋とは関係なくキャラの見せ場を作るような小説は私は好きではないのだが、今回は番外編で登場人物も比較的少なく、わりとまとまっている(とはいえ、番外編なのに前後編というのはいかがなものか)ので気楽に読むことができた。あとしばらく付き合ってみてもいいか。
 ところで、『ヘンナ生物』を頭にのせた二葉亭由真からこの人を連想したのは私だけだろうか?

1.10471(2002/12/09) 仮死四五一度

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0212a.html#p021209b

 30年前なら東京ミュウミュウだってSFと呼ばれていたに違いないぜ日記(毎度のことながら、タイトルは現在のもの。明日になったら変わっている可能性あり)で、「また、図書館」について「馳星周氏がまた妄言を。」とコメントしている(12/8付)。なぜ「妄言」かといえば、

出版社が儲からないのは別に図書館のせいじゃないでしょう。単に経営努力をしてないことと、図書館がどうとか以前に本というものがマニア以外に読まれなくなっていることが原因なわけで。
ということのようだ。しかし、いわゆる「貸出数至上主義」このようなレッテル貼りはあまりよくないのだが……)に象徴される(最近の公立図書館の運営方針と出版不況との間に因果関係があるのかどうかは、実のところまだあまりよくわかっていない。また、仮にほとんど因果関係がないとしても、出版業界が図書館のあり方を問題視することが不合理だということにはならないだろう。たばこのせいで不景気になったわけではないのにたばこ税増税案が出てくるのと同じで、切羽詰まってきたために余裕のあるときには見逃していた事柄に目を向けるようになっただけのことだと思う(もっとも馳星周氏の文章の書き方には、やや常軌を逸したところがあって、「妄言」と評されても仕方がないところがある。私はこの人の小説を読んだことがないので知らないのだが、同じようなスタイルなのだろうか?)。
 私は基本的には馳星周氏の意見に賛成だ。本もビデオやレコードと基本的には同じように扱うべきだと考える。以前こんな文章を書いたもの、この発想がもとになっている。だから、新刊が出てから半年間は図書館に置くことを禁止するべきだという考え方にも同意する。
 ……と言いたいところだが、何となく釈然としない感じがする。本はたかだか半年で流行が去ってしまうようなものなのか……。いや、実際にはそうなのだろうが、出版業界側の人がその現状をそのまま受け入れるような事を言ってしまうのが気になるのだ。
 上で言ったことと矛盾するようだが(というかあからさまに矛盾しているのだが)、本は世代から世代へと文化を継承するためのもので、ビデオやレコードとは別の取り扱いが必要なのではないか。馳氏の言っていることを思いっきり誇張すれば、本が持っている文化継承機能は図書館にまかせて出版業界はその場の利益確保に専念する、という役割分担が考えられるのだが、本当にそれでいいのだろうかと思ってしまうのだ。
 日本の小説界が崩壊して本が読めなくなったところで日本人が馬鹿になることはないだろうし、日本という国が滅びることはないだろう。そんなことを本気で言っているのなら(たぶん本気ではないとは思うが)妄言に違いない。だが、"本"はそれくらい大層なものであってほしい、と私は願う。
 ひどく筋の通らないことを書いてしまった。妄言多謝。

1.10472(2002/12/10) 本は読んでも読まれるな

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0212a.html#p021210a

 さて読者諸君、探偵小説というものの性質に通暁せられる諸君は、お話は決してこれきりで終わらぬことを百も御承知であろう。いかにもその通りである。実を言えば、ここまではこの物語の前提にすぎないので、作者が是非、諸君に読んでもらいたいと思うのは、これから後なのである。つまりかくも企んだ蕗屋の犯罪がいかにして発覚したかという、そのいきさつについてである。
 いいなぁ。こんな文章、書いてみたいなぁ。
 探偵小説に通暁せられる読者諸君にとっては、上の文章が誰の何という小説からの引用であるのかは百も御承知であろう。細かい内容は覚えていなくても「蕗屋の犯罪」とはっきり書いてあるのだから、言い当てられない人はまずいないはずだ。よって作者名もタイトルも書かない。
 先日、この小説を読み返しているときに、ふと「作者や語り手が読者に向かって語りかけるような書き方の小説が廃れたのはいつ頃なのだろう?」と考えてみた。人やジャンルによって文体に違いがあるので一概にはいえないのだが、昭和30年代初頭の小説にはまだこのような書き方が見られる。たとえば、次の文章など。
 思うに犯人は、この犯罪をたくらむに一世一代の智恵をしぼったことであろう。犯人のその努力に対して、読者もまたこの記録を克明によむ努力を惜しまないならば、事件が合理的な解決をみるまでの経過を興味ぶかく理解できようし、また論理そのものを智的な遊戯としてたのしむ人には、論理にはじまり論理におわるこの事件の記録こそ、久しい渇を十二分にいやすものであるといってよいであろう。
 先に引用した小説から30年以上経って別人が書いた小説なのだが、これも作品名を挙げる必要はないだろう。
 現在の小説でこのような書き方をするとすれば特殊な場合(パロディや文体模写、ある種の雰囲気づくりなど)に限られる。新刊ばかり読んでいる人がこのような文章に出会ったら、きっと違和感を覚えることだろう。評論家なら「このテクストが小説の中に組み込まれているということをテクスト自体が明示している自己言及の試みであり、メタフィクション性を必然的に自らのうちに内包しているのである」などと言うかもしれない。本当にそんなことを言う評論家がいたら、ちょっと嫌だけど。
 何となく思いついただけなので、この話題はこれでおしまい。そのうち気が向いたら昭和30年代以降の小説をいくつか読んでみて、続きを書くかもしれないが。

 冬コミが近づいているので、夏コミで買った同人誌をぼちぼちと読んでいる。長年"積み"を重ねてきて、そろそろ"積み"滅ぼしをしなければならないのだが、なかなか進まない。
 コミケットの創作文芸・小説ジャンルには毎回ミステリ系のサークルがいくつか出ているのだが、これまではほとんどスルーしていた。ところが、前回なぜか「この中にもしかして宝が眠っているかも」と思い、何冊か買ってみた。それからずっと積みっぱなしだったのだ。
 もし面白い小説があれば、ぜひ紹介したいと思っているのだが、難しそうだ。少し読んだだけで商業作品との差が明らかにわかる。なんだか時間の無駄のような気がしてきた。

 『「ひらきこもり」のすすめ デジタル時代の仕事論』(渡辺浩弐/講談社ノベルス)を読んだ。木ノ花さくや(西野つぐみ+にしの公平)のインタビューが収録されているので読んでみる気になったのだ。インタビューそのものはあまり面白くはなかったが、それ以外のところで十分もとがとれたと思う。でも、調べてみるとひらきこもりのすすめ(ネット版)というのがあり、論旨は基本的に同じなので、なんだか損したような気もする。
 いろいろ言いたいことはあるのだが、悪口ばかりになってしまいそうなので自粛。

 昨日の文章は支離滅裂なので、整理してもう一度書き直してみようと思っているのだが、今日はその時間がない。
 なんだか中途半端な思いつきだけで文章を書いているようだ。うむ。