日々の憂鬱〜2002年8月上旬〜


1.10329(2002/08/01) 走り書き

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0208a.html#p020801a

 昨日の文章はどうにも気に入らない。当初予定していたのと正反対の結論に達してしまったせいだ。最初に結論をしっかりと考えて、うまくそこに着地できるように論証を積み重ねていけば、こんな事にはならないのだが、私はいつも行き当たりばったりで、その場その場の文章の繋がりだけを考えて書くので、意図しなかった結論に到ってしまうのである。
 昨日の結論をひっくり返す論拠がないものかとあれこれ考えて一行も書かないうちに午後10時を過ぎてしまった。そこで今日はまとまった文章を書くのをやめて、適当にお茶を濁すことにする。まあ、いつもの事だけど。

 最近、「絶賛」という言葉は「絶望」という言葉に似ているのではないかと思うようになった。重なっているのは「絶」だけだが、そういう字面の話ではない。本に「×××××氏絶賛!」というオビがついているのを見ると、「お前、本当に絶賛してるのか? 絶賛と言いたいだけちゃうんか?」と言いたくなるのである。
 作家も評論家も人間だから、間違いもあれば気の迷いもあるだろう。時には、客観的にみればどうということのない本を絶賛したくなることもあるかもしれない。だが、そこをぐっとこらえて、恥ずかしい賛辞は心の中にとどめておいてほしいものだ。渡世の義理でどうしても絶賛せざるを得ない状況に追い込まれた場合は仕方がないが、それでも読者を絶望させないように配慮してもらいたい。
 ところで、この世には奇蹟のような本が稀にあらわれる。そんな本の場合はどうか。私はむしろそのような場合こそ絶賛を控えてほしいと思う。面白い本に巡り会って絶賛するのは一人一人の読者の権利であって、本を読む前にオビで先に絶賛されてしまったら、その権利が侵害されたことになると思うからだ。これは罪が重い。それに比べると、つまらない本を誉めるのは単に読者を騙しているだけなので、まだ罪は軽いとさえいえるかもしれない。

 夏のさなかだというのに、今私は『クリスマスオラトリオ』を聴いている。CD3枚組で、今日は1枚目(第一部と第二部)だ。春から毎日1枚ずつ聴いてきたバッハも残すところわずか40枚となった。順調にいけば、9月半ばには聴き終えることになる。

 「たそがれSpringPoint」は一日に二回更新しているらしい。一回は午後11時前後、もう一回は午前1時過ぎだ。あとの方は全く私が関知するところではないが、「はてなアンテナ」を見るとほぼ毎日この時間帯に更新されていることになっている(今日は午前3時過ぎだったが)ので、私が寝ている間に親切なこびとさんが更新してくれているのだろう。ただ、翌朝に自分で見ても前の晩に更新したときと全く変化がないように見えるのはなぜだろうか? どうせなら、誤字脱字を訂正するなり、適当に文章を付け加えるなりしてくれてもいいと思うのだが。

 今日はら8月、8月といえばコミックマーケット。カレンダーを見ると、もうあと一週間しかない。
 大変だ。まだカタログチェックが全然済んでいない。一日目東トのあたりで止まってしまっている。今週末にはなんとか一通りチェックを終えたいものだ。

1.10330(2002/08/02) 三日坊主

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0208a.html#p020802a

 7/29に他人のサイトへのリンクを自粛することを宣言し、その翌日からその方針に従っていたが、ちょっとしんどくなってきたので、撤回する。実質三日間しか続かなかったが、もともと大した意味もなく始めたことなので、別にどうということもないだろう。
 で、今日は早速どこかにリンクしておこうと思うのだが、さて……。
 とりあえず昨日サイト名が変わったlight as a featherにリンクしておく。以前は「若おやじの殿堂」というちょっとアレなサイト名だったのだが、今度は何となくいい感じだ。でも私の乏しい語学力では、このサイト名の意味がわからない。日本人なら日本語を使え、と苦言を呈しておきたい。

 今朝カトゆー家断絶からリンクを張られていたのでアクセスカウンターが猛スピードで回転するかと思っていたが、それほどでもない。よく考えてみれば(よく考えなくてもわかることなのだが)直リンなのでトップページのカウンターが回るわけもない。
 別にカウンターの数字が増えなかったのが悔しいわけではないが、リンク先の文章を読んで、そこから別のページも見てみようという気をおこした人が少なかった(実際にどれだけの人が見に来たのかはわからないが、100人を下回ることはないだろう)のはちょっと残念だ。

 日付がかわる前にアップしたいので、今日はとりあえずこれだけ。

1.10331(2002/08/03) スイカ取り

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0208a.html#p020803a

 休日だというのに、朝早くに起きてスイカ畑に行き、重いスイカを一輪車(曲芸に使う一輪車ではなくて、工事現場などで「ネコ車」と呼ばれている手押し車)に載せて選果場に運び、はかりにかけて選別するという作業をして、ほどよく疲れた。
 なぜ早朝からスイカ取りをするのかといえば、日射しのきつい日中だと暑くてしんどいからである。もう一つ理由があるのだが、それは後述する。
 さて、「スイカ」を漢字で書くと「水夏」……もとい「西瓜」となる。「誰何」という言葉もあるが、多少意味が違う。「じゃあ、『西瓜』と『誰何』はいったいどこがどう違うの? 具体的に説明してよ」と言われると返答に困るのだが。ともあれ、両者は別物だ。ここは私を信じてほしい。
 余談だが、「南瓜」というのもあって、こちらは「ナンキン」と読む。そのまんまだ。「カボチャ」と読む人もいるが、どう読めばそうなるのか私にはわからない。音読みなのか、訓読みなのか?
 南瓜の話はさておき、西瓜に話を戻すことにしよう。
 今日の見出しは「スイカ取り」だが、私は運搬の手伝いをしただけで、スイカ畑でスイカをもぎ取る作業をしたわけではない。それには熟練が必要で、私のような素人には到底なし得ないのである。
 スイカ取りといえば、地上に茂ったスイカの葉を引っ張って地中の果実を引き抜くという光景を思い浮かべる人も多いと思うが、今そのような方法でスイカを栽培している農家は実はほとんどない。土質が均一でないと形の歪んだいびつなスイカしかとれないからである。形がいびつでも品質には問題ないのだが、商品価値はほとんどゼロに等しい。そこで、出荷用のスイカを作るには、手間はかかるがスイカ棚を用いるのが一般的だ。
 本格的にスイカ栽培を行っているところでは、専用の鉄パイプにこれまた専用のケーブルを張ってスイカの蔓を絡ませるのだが、私の家では片手間にスイカをつくっているだけなので、適当な材木を組んでロープを張ってあるだけだ。それでも梅雨ごろにスイカが成長し、スイカ棚の上に葉が茂るようになると、それなりの見栄えになる。その複雑に絡まり合った蔓の間に、あの緑と黒の縞模様が見えると、なんとなく楽しくなってくるものだ。
 スイカの果実は数キログラムから大きいものになると十数キログラムにもなる。それほど重い物がスイカ棚からたった蔓一本に支えられてぶら下がっているのだ。いかにスイカの蔓が丈夫であるのかがわかるだろう。スイカの収穫が終わったあと、蔓を切り取って葉をむしり、天日で乾燥させれば縄や綱のかわりに使える。実際、スイカ棚に張り巡らせる網をスイカの蔓で作っていた事もある。長さを均一にするのが難しいので、最近はそのような使い方をすることは滅多にないが。
 スイカ棚の高さは約2メートルなので、そこからぶら下がった果実はだいたい大人の頭くらいのところに位置することになる。夜にスイカ畑に行くと、果実のシルエットがまるで生首のように見え、なかなか興趣が深い。その"生首"を狩るには大鎌を用いる。西洋の絵画などで死神が持っているような形の鎌だ。それをぶるんと振るって蔓を切り、果実を落とすのだ。
 そのまま地面に落ちると割れてしまうので、その前に受け止める必要がある。別に手で受けてもいいのだが、私の地方では竹で編んだ籠を使う。近所では俗に「首受け」と呼んでいる。
 さて、スイカ取りには熟練が必要だと先に書いた。鎌を振り回すときにスイカ棚の柱や網、そしてスイカの木本体を傷つけないように注意する必要があること、タイミングよく首受け籠を差し出さなければならないこと(タイミングを間違えると、スイカの代わりに自分の首が籠に転がり込むことになり、非常に危険である)もさることながら、いちばん難しいのはスイカの"声"を聞き取ることだ。これは素人にはまずできない。
 スイカがどの程度熟しているのかを判断するには、実際に割ってみるのがいちばんだが、一旦割ってしまったら再び割る前の状態に戻ることは絶対にない。当たり前のことだけど。割らずに調べるには叩いてみるという方法がある。建築の専門家がコンクリート壁を叩いて反響音を聞き、劣化の具合を知るのと同じことだ。ただしスイカの場合、トンカチは使わず、指先で弾く程度だ。すると、こんこん、と小さな音がする。熟練したスイカ職人になると、その音以外に"声"が聞こえるのだという。
 まだ未熟なスイカは「まだ駄目だよ」と言ってくれる、という(「仏法僧」と言っているように聞こえるという人もいる)。ある程度熟してくると「もういいよ」と言う(これも人によって聞こえ方が違う。「オマエモナー」に近い、と言う人もいる)。いずれにせよ、スイカが本当にしゃべるわけではないので、意味のない音を勝手に解釈して人間の声になぞらえているに過ぎない。
 ともあれ、熟練したスイカ職人には"声"が聞こえ、私には聞こえない。ついでに言えば、スイカ職人は"首狩り"の瞬間に断末魔の悲鳴を聞くが、私には鎌が空気を切り裂く音にしか聞こえない。その悲鳴が嫌で、スイカ取りの時には耳栓をする(もちろんスイカを叩くときには外すのだが)職人もいるという話を聞いたことがあるが、マンドラゴラでもあるまい(むしろ人参果に近いか?)に、そこまでする必要があるのかどうか私には疑問だ。だいたい、スイカが悲鳴を発するのなら、おちおちスイカ割りもできやしない。えっ、「蔓から切り離された果実は既に死んでいるから、その後で割ろうが切ろうが、死人に口なし」って? ああ、そうですか。
 と、こんな事を書くと、自分に感じられないからといって一概に否定してしまうのは偏狭かつ傲慢である、といった類の批判が予想されるのだが、別に自分自身の鈍い感覚のみを根拠にして、スイカがしゃべるはずがないと主張しているわけではない。UFOや霊、各種の超常現象についても同じことなのだが、「自分の目で見たこと以外は信じない」という理由で拒否するのではなく、我々の生活の基礎となっている知識のシステムに反しているから拒否するのだ。純粋に論理的可能性のみを考慮すれば否定できないことかもしれない。だが、人は論理のみによって生くるにあらず。
 なんだか話が変な方向にずれてしまった。とりあえず、私が言いたいことは、スイカ取りの手伝いをして疲れた、ということだけだ。
 これでおしまい……と思ったが、早朝にスイカ取りをする理由の一つを言い忘れていた。それは、朝早くだとまだスイカが寝ぼけているので、蔓から切り落としても悲鳴をあげることが少ないからである。じゃあ、スイカを叩いたときに返事をしてくれないのではないか、とツッコミを入れたくなるのだが、スイカ職人に言わせれば「寝言で返事をする」そうで、なんだかなぁ、と思いつつこの駄文を締めくくることにする。

1.10332(2002/08/03) 嫌になるくらいブチ切れ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0208a.html#p020803b

 今日もうまくネットに接続できない。
 朝の間に少しだけ接続できたが、その後は数秒で回線が切れてウェブサイトの閲覧がほぼ不可能な状態になっている。今書いているこの文章をアップするのに、何回接続しなければならないか考えただけでうんざりする。
 不具合が出るようになったのは6月末くらいだが、それからプロバイダや電話局に問い合わせをすることもなく放ったらかしで一ヶ月以上が過ぎた。そのうち何とかなるかもしれないと思っていたのだが、何ともならず現在に至る。
 問い合わせをするには電話かメールを使うということになる。電話での受付は電話局もプロバイダも平日の午前9時から午後5時の間だが、この時間帯には私は仕事をしているので電話できない。また、メールは不具合の出ているときには送信できないし、不具合がおさまっているときには送信する気にならない。そんなわけでのばしのばしにしている。
 私はクレームというものが大の苦手だ。クレーム大好き、という人も世の中にはいるが、私にはよく理解できない。私自身、以前は仕事でクレーム電話の応対をしていたことがあるが、文句を言ってくる人の大部分は情緒か知性のどちらか(あるいはその両方)に不自由な方々だった。自分もその仲間入りをするのかと思うと気が重くなる。それなら多少の不具合は我慢して、それでも収まらないようなら黙って契約を解除してしまうほうが楽だ。クレームへの対応を通じて企業は体質改善を図ることができるのかもしれないが、私は企業の発展を助けたいと思うほど親切な人間ではない。
 ところで、「たそがれSpringPoint」ではよくネタのないときなどに他人のサイトの記事にいちゃもんを付けたりツッコミを入れたりすることがある(これまで私の更新ネタ探しの被害にあった回数がいちばんのはここだと思う)のだが、これはクレームとはどこが違うのか? ちょっと考えてみたのだが、私自身の利害に直接関係ある事かどうかの差のように思われる。たとえば、ネットに接続できないという具体的な案件があって私が非常に迷惑しているときに、その原因であるかもしれない電話局やプロバイダに抗議するのと、他人のサイトの記事に疑問を感じてツッコミを入れるのとでは相当違っている。後者の場合には「純粋に知的関心からより詳しい説明を求めているのであり、実利を追究しているのではない」という言い訳が成り立つ。別に誰もそんな事を訊きはしないのだから、言い訳の必要もないのだが、知らず知らずのうちに架空の観察者に対するポーズをとっているのだろう。
 よく考えてみれば、クレームをつけると私が情緒と知性に難のある人々の仲間であるかのように見られるから嫌だ、というのも変な話だ。クレームを受け付ける係の人がみんな私と同じような考えを持っているわけではないだろう。むしろ、情緒とか知性についてあれこれ考えたりせずに、単に「うるさい奴だ」と思いながらマニュアルに従って事務的にことを進めるほうが一般的ではないか。また仮に私のことを「情緒的かつ知的側面に欠陥あり」と判断されたとして、それがどうというのだろう? 相手は赤の他人で、私の普段の生活とも、ネット上での活動とも全く関係がない。もしかしたら何かの縁で知り合うということもあるかもしれないが、その確率はわずかだ。してみると、私はここでも架空の観察者を想定していることになる。自分と似た発想で物事を考え、かつ私の行動のすべてを見通しているような観察者を。
 この"観察者"がいなければ(いや、もともと現実にはいないのだけど)私はもっと大胆かつ野放図に行動できるかもしれない。たとえば、他人の酷評を恐れずにすばらしい小説が書けるようになるかもしれない。そのすばらしさが他人に理解できるかどうかは別として。
 そんな事を考えているうちに11時を過ぎた。今からアップロードに挑戦する。今日中に何とか更新したいものだ。

 今日で『クリスマスオラトリオ』を聴き終えた。夏に聴く曲ではない。

1.10333(2002/08/04) 昨日の続き

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0208a.html#p020804a

 昨日2回目の文章を書いたあと、ブチ切れ環境のなかで悪戦苦闘しながら定期巡回サイトを見て回っていたのだが、light as a feather(元「若おやじの殿堂」)の日記を読んで頭を抱えた。8/3付で、ネットに接続できなくなったのでプロバイダに電話したというエピソードが書かれている。その記事と私の文章を併せて読むと、私が深川氏の行動を批判または揶揄する目的をもってあのような文章を書いたかのように誤解される危険があることに気づいたためだ。さらに間が悪いことに、同じ文章の最後で、小説を書くことについて少し言及している。深川氏は小説家なので(ただし、長編小説を発表するか単著が出るまではデビューしたうちに入らない、というのが深川氏の考えだそうで、実際、氏が自分で「小説家」と名乗っているのを見聞きしたことはないのだが、それでも既に商業媒体に何編も小説を発表しているのだから、一般にはそろそろ小説家として認知されているものと思われる)その部分も当てこすりのように受け止められるおそれがある。
 幸い、深川氏の日記のほうが後でアップされているので、私にはアリバイがある。ミステリ系更新されてますリンクによると、私のサイトの最終更新日時は2002/08/03 23:13:07で、深川氏のほうは2002/08/04 00:15:35なので、私のほうが1時間早い。というわけで、もし私が危惧したような誤解をした人がいたなら、直ちにその考えを捨てていただきたい。
 ……でも、この文章をアップしたら、私のアリバイの証拠が崩れてしまうんだよなぁ。いちおう、さっきミステリ系更新されてますリンクの画面を取り込んでおいたのだけど、それをアップしても証拠能力は低いだろうし……うーん、難しい。

 とりあえず、昨日の文章を補足しておく。
 あの書き方だと、何かトラブルがあったときにクレーム電話をかけるような人はみな情緒か知性に問題がある、と私が主張しているかのように読まれてしまうのだが、そうではない。私は自分がクレーム電話を受けたときの印象から話を進めたわけで、決して一般論ではない。いや、正当な抗議理由がある場合でもそれを言わないというのはむしろ不合理だということもできるだろう。
 改めて読み返してみると、話の流れに大きな飛躍がある。いっそ書き直してしまいたいという衝動に駆られるのだが、書き直すのはあまり潔くないのでそのままにしておく。

 ところで、その深川氏が中心となっている同人サークル『性善説』の公式サイトが開設されているので、リンクを張っておく。『性善説』掲示板を見ると、最初の書き込みが2000年10月13日だったのでびっくりした。そんなに前から準備していたとは……。
 『性善説』の話を出したついでに書いておくと、今回の『性善説 Vol.01 2002 Summer』にも掲載されるらしい深川氏の『放課後メイド探偵』シリーズは、何年か前に私が「昼は女子高生、夜はメイドさんというキャラクターが探偵役のミステリを誰か書いてくれないかな〜」と、有明埠頭の某所で呟いたのがもとになっている。だから私が原案者なのである……ということにしておこう。私の「原案」は、今書いたこの台詞だけなのだが、そこはそれ。

1.10334(2002/08/04) 雑文

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0208a.html#p020804b

 この土日でコミケカタログのチェックを全部済ませる予定だったのだが、なかなか進まず、まだ三日目が手つかずのままになっている。私には何のジャンルかが全くわからないサークルカットの群を見ていると、しんどくなってくるのだ。それなら興味のないジャンルはとばせばいいのだが、たまに配置されたジャンルと関係のない本が置いてある旨の書き込みがあったりして、どうにも目が離せないのだ。もっとも、これまでの経験からすれば、細かい書き文字を頼りに畑違いのジャンルを覗いてみても、目当ての本を売っていたことはほとんどない。サークルカットを書く段階ではあれもこれもと考えていても、いざ本を作る段階になればどうしてもメインのジャンルを優先してしまうということなのだろう。
 それはともかく、二日目までのチェックは一通り終わった。これからCD-ROM版で漏れがないか再度チェックするつもりだが、行きたいところが大幅に増えることはないだろう。
 前にも書いたが、私はカタログをチェックするのに付箋を使っている。昔は三種類の蛍光ペンを使い分けて配置図に色を塗ったものだが、最近は面倒なのでそこまでしない。付箋のついたページのサークルに行って用が済んだら付箋を剥がし、全部なくなったらさっさと会場を出る。で、今回カタログに貼った付箋の枚数は、一日目が7枚で二日目が8枚だった。枚数だけなら二日目のほうが多いが、行きたいサークルの数は一日目のほうが多い。ミステリ系を一通り見て回ろうと思っているので。
 それにしてもあまり興味をそそられるサークルがない。それはたぶん私がとしをとったせいなのだろう。困ったことだ。

 今日は『昇天祭オラトリオ』を聴いた。この曲も夏の音楽ではないのだと思うが、キリスト教徒ではない私は昇天祭というのがいつ頃の行事なのか知らないので『クリスマスオラトリオ』ほども違和感がない。

1.10335(2002/08/05) 文章

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0208a.html#p020805a

 ここ一週間ほど全く小説本を読んでいない。先週の月曜日に『クビシメロマンチスト』(西尾維新/講談社ノベルス)を読んだのが最後だ。その翌日から読み始めた『双月城の惨劇』(加賀美雅之/光文社 カッパ・ノベルス)は……まだ読み終えていない。初日は100ページ以上読んだのだが、だんだん読むのが辛くなってきて、今は271ページで止まっている。まだ残り100ページ以上もあるとは……。
 先週末には積ん読本を少しでも減らすためにマンガを中心に読むことにした。そこで本の山から拾い出した『藍より青し』(文月晃/白泉社 JETS COMICS)の8巻と先月出た9巻を続けて読んだ。ラブコメとしての生命力は既に尽きて、『サザエさん』的停滞空間を漂っているかのようなマンガだけに、2巻続けて読むのはなかなかしんどかった。
 だが、考えてみれば停滞はラブコメの宿命、何も『藍より青し』に限ったことではない。停滞を避けようとすれば、すれ違いと勘違いの無限ループに陥るか、"ラブコメではない別の何か"に方向転換するしかない。そして、どの道を辿っても末路は同じだ。名作と呼ばれるラブコメマンガで結末に向けてどんどんテンションが上がっていって、最後に大クライマックスを迎えるものがあったろうか? いや、ない。(反語)
 今私の脳裏を往年のラブコメの傑作群が浮かんでは消えてゆく。ラストシーンが強く印象に残っているのは……う〜ん、『私の沖田くん』(野部利雄)かなぁ。『めぞん一刻』(高橋留美子)のラストシーンとあまりにも似ているので愕然とした覚えがある(私はリアルタイムで読んでいなかったので順序が前後したが、もちろん連載終了は『私の沖田くん』のほうが先だ)。
 さて、こんな昔話をしたのには特に深い意味があるわけではないのだが、ついでなので最近私が驚いたエピソードを一つ紹介しておきたい。といっても取り上げ方がなかなか難しい。下手に書くと相手を攻撃しているようになってしまうし、そうでなくても知識のひけらかしのように受け止められかねない。やめとこうかな、どうしようかな。ええい、やっぱり書いてしまおう。
 じゃんぽけの8/1の日記(の8/2付の追記)に「ザ・ネコミミ」という小説(?)が掲載されている。最初この文章を読んだとき、私は理解に苦しんだ。例のアレのパロディのように思うのだが、登場人物の名前が違っている。それに二人の間柄は祖父と孫娘ではなく、父親と娘だったはずだが……。
 何となくひっかかるものを感じながらその場はそのまま読み流していたのだが、昨日再度読み直してみて、私は自分が的はずれなことを考えていたことに気づいた。そう、それは例のアレとは全く何の関係もないということに。
 ここで私は再度読者の注意を促しておきたい。私は箕崎准氏(とその友人)を誹るつもりもなければ嗤うつもりもない。ただ、世代間のギャップの大きさに衝撃を感じたというだけのことだ。私と箕崎氏のギャップは『蠅男の恐怖』と『ザ・フライ』にたとえることができるだろう。あるいは『蠅男』(海野十三)と『魍魎の匣』(京極夏彦)にたとえてもいいかもしれない。さらに『夏の時代の犯罪』(天城一)と『姑獲女の夏』(京極夏彦)にたとえるとなると、もう蠅男と何の関係もなくなってしまい何が何だかわからなくなってきたのでやめておく。
 「例のアレ」ではわからない人も多いと思うので明かしてしまう。『猫でごめん!』(永野あかね)だ。ちなみに、「『蠅男の恐怖』と『ザ・フライ』」というネタはそこから拝借した。検索して探してみると、永野あかね 普及委員会というサイトに『猫でごめん!』の紹介文があったので参照されたい。
 そろそろ時間切れになりつつあるので今日のまとめ。としはとりたくないものだ。

 今日のバッハは『いと高き者よ、わが罪をあがないたまえ』(BWV1083)だ。これはペルゴレージの名曲『スタバト・マーテル(悲しみの聖母)』をドイツ語詩篇曲に編曲したもので、わりと珍品……なのだが、私はこの曲を収録したCDを3種類持っている。曲順が一部入れ替わっているほかは、あまり原曲と大きな違いはない。

1.10336(2002/08/06) 文字列

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0208a.html#p020806a

 ようやく『双月城の惨劇』(加賀美雅之/光文社 カッパ・ノベルス)を読み終えた。発売から数ヶ月を経た本であり、新刊として取り上げるには時期を逸してしまった感がある。また、ウェブ上でこれまでに発表された感想文と違った視点から何事かを述べられるかどうか自信はない。だが、私はあえて感想文を書くことにする。なぜならば……ほかにネタがないからだ。
 まず最初に押さえておかなければならないのは、この小説がもともとカーのバンコランものの贋作として書かれたということだ。どう評価するにしても、この点を無視するわけにはいかないだろう。とはいえ、私はバンコランものはもともとあまり好きではなく、5編の長編はいずれもずっと昔に一度読んだことがある程度だ。特に『夜歩く』は小学生の頃に読んだものなので、今ではもうどんな話だったのかほとんど思い出せない。また短編は全部読んでいるかどうかすら定かではない。そういうわけで、バンコランものの雰囲気やストーリー、あるいはバンコラン自身のキャラクターをどれくらいうまく似せて書いているのか、という観点から論じることは今の私には不可能である。今からでも再読すればいいのだが、さすがにそこまで手間をかける気にはならない。
 似ているかどうかということ以前に、なぜバンコランなのか、という疑問がある。カーの名探偵といえばフェル博士、またはディクスン名義でのHM卿を誰もが思い浮かべるはずだ。『夜歩く』はデビュー作だからそれなりに読まれていると思うが、他の4長編はミステリとしてはほとんど評価されていない。わずかに山口雅也が『四つの兇器』を誉めた文章を読んだ記憶がある程度だ。ミステリとしての技巧を抜きにすれば、毒々しい雰囲気や扇情的な殺人など、いかにもカーらしいアクに満ちていて、カーマニアにはたまらないのかもしれないけれど。
 どうもカーのほうに話がそれてしまう。ええと、『双月城』はバンコランものの贋作として書かれた、というところで横道にそれたのだった。軌道修正しよう。
 出版された『双月城』に登場する探偵役の名前はシャルル・ベルトランであり、アンリ・バンコランではない。巻末の解説(二階堂黎人)によれば「一つには著作権上の問題、もう一つは、やはりオリジナル作品でのデビューということを考慮した結果」名前を変えたそうだ。既成のキャラクターを使って小説を書くのが著作権法に抵触するのかどうかは知らないので(カーの遺族がこの小説を読んで裁判を起こすということはちょっと考えにくいが)何とも言いようがない。ただ、主人公の名前を変えたらオリジナル作品になるというものでもないだろう。
 なお、私は別に探偵役のキャラクター設定がオリジナルでないということを取り上げて非難するつもりはない。ベルトランの性格や言動については作中で十分に説明されており、カーのバンコランものに関する知識をもとに察し読みをしないと意味が通らないということはない。設定は借り物かもしれないが、描写は借り物ではない。まさかベルトランに関する記述でカーの文章をそのまま引き写しているということもないだろうから、これはこれでいいのではないか。
 ただ、ちょっと気になったこともある。たいしたことではないのだが、作中でフェル博士に軽く言及する箇所(225ページ)があって、バンコランがベルトランになった世界でフェル博士がなぜそのままの名前なのだろうか、と思った。『ミステリ・オペラ』で小城魚太郎という人物が登場しているのに小栗虫太郎に言及しているのが引っかかったのと同じで、気にならない人は全く気にならないだろうし、「それって欠点なのか?」と問われたら返答に困るのだけど。
 微妙な違和感(といっても質は全然違うのだが)をもう一つ。冒頭で双月城の伝説が紹介されるのだが、

 城主であるカール・エールシュレーゲルには、アマーリアとナターリアという美しい双子の姫君がいたが、ゲルハルトはこの二人の姫君をそれぞれ『新月の塔』と『満月の塔』の最上部にある小部屋に幽閉し、日毎夜毎にその部屋を訪れては二人の姫君に言語に絶する凌辱を与えた
 (略)
 いつものようにゲルハルトはおのれの獣じみた情欲を、幽閉してあるふたりの姫君の肉体で処理しようと、『新月の塔』の最上部に幽閉されているアマーリアのもとを訪れた。部屋の入口の両側に側近の騎士を万一の場合に備えて護衛に立たせ、自分は淫らな情欲の虜となって、ゲルハルトは部屋に入った。
という文章(22ページ、引用文中の赤字による強調はもちろん原文にはない)を読んで「なんだかなぁ」とぼやきたくなった。ま、別にいいんだけどさ。
「どうせなら、ミステリとしての構成は破壊してでも、凌辱シーンを克明に描写してほしかったね」
「ああ、それは無理だ。なんたって、言語に絶する凌辱なんだから」
 というような脳内一人会話を行ったのだが、これも「それって欠点なのか?」と訊かれたらこたえにくい。
 ついでだから、もう一箇所(277ページ)引用しておこう。こちらは微妙な違和感どころではない。作品全体の質に関わる重要な問題がここに表れている、と思う。
 こんな若く可愛いメイドに好意を持たれるのは、通常の場合ならば大いに歓迎したいところだが、今は殺人事件の渦中なのだ。色恋沙汰に浮かれている場合ではない。まして私にはメアリーという婚約者がいる。私は早々に話を切り上げると、自分の客室に入るためにドアを開いた。
「……あの、スミス様。私、お話ししたい事が……」
「済まない、フリーダ。また別の機会にしよう」
 私は話を打ち切るつもりで、少々手荒にドアを閉めた。ドアが閉まる直前、フリーダのもの言いたげな表情が私の脳裏に焼きついた――。
 殺人事件がいったい何だというのか? 可愛いメイドさんと血塗れ死体をはかりにかければ、どちらをとるべきかは火を見るよりも明らかだ。全くもって愚劣な選択としか言いようがない。さらに許し難いのは、婚約者とメイドさんという全く比較にならない存在を並列的に扱っていることだ。そもそもメイドさんというのは至尊にして侵すべからざる存在であって、俗世間の凡庸なる一般女性とは一線を画しているのであり「婚約者がいるからメイドさんと話はできない」などといった何か勘違いしているとしか思えない下劣な考えは、たとえ小説内の一登場人物の心情の描写だとしても看過できない。なんとなれば(以下、長々とメイドさんの素晴らしさについて語ることになっているのだが、メイド属性が全くない私がメイド原理主義者の真似をしてもうまくいかないのは分かり切っているので割愛する)。
 要するに、こういうことだ。『双月城』にはロマンス(またはロマン)が欠けている。カーならべたべたのラブコメをやってみせたことだろう。もっともカーの小説のラブコメ色が強まるのは1940年頃からだが。
 ここで私は正直に言おう。『双月城』は確かに出だしは興味を惹かれたが、事件がいくつか発生し、捜査のシーンが続くにつれ、だんだん退屈になってきた。なんとなく物語が単調で、どうしても先が知りたい、早く読みたい、という気にならなかったのだ。なんというか……見かけはカーだけど内実はヴァン・ダインではないか、とさえ思った。
 密閉された部屋で異様な死体が発見される。ある程度の"改め"が行われて不可能性が強調され、それなりに謎が生まれる(もっとも、この"改め"は十分ではない。たとえば第一の事件では、あのような状況で死体が発見されれば当然検討されるべき可能性に全く触れておらず、かえって読者は疑念を抱くことになる。そして……解決場面で、その可能性が現実であったことを知らされ、がっかりするのだ)。しかし、その謎だけでいつまでも読者の興味を繋ぐことはできない。そこで読者がだれてきた頃に第二の事件が発生する。さらに第三、第四の事件が発生するが、その頃になると、場つなぎのために人が死んでいるかのような気分にさせられる。
 『双月城』はカッパ・ワンで同時に発売された他の三作に比べると随分長い。いまやノベルス版で400ページを超える本は珍しくはないが、謎と論理、トリックの面白さで読ませる種類の小説でこれだけの長丁場を書ききるのはかなりの技術を要すると思われる。そして、失礼な言い方だが、作者にはまだその技能が備わっていなかったのではないか。苦労して死体の数を増やさなくても、第一と第二の事件だけで半分くらいの長さにまとめて十分だったと思うのだが。また、第三、第四の事件のあとで『帽子収集狂事件』を模した結末を読むと、感銘を受けるより後味の悪さを感じる。そういうわけで、私は『双月城』をあまり高く評価できない。
 とはいえ、私がこれまでに読んだ同じ作者(合作を含む)の短編に比べると、かなり出来はいいと思う。次作も時間に余裕があれば読んでみたい。
 まだほかにも言いたいことはいくつもあるのだが、ネタをばらさずに語ることができないので省略する。

1.10337(2002/08/07) 月給取りの憂鬱

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0208a.html#p020807a

 求道の果ての8/6付の記事で、月給取りは守りに入った生き方かどうか、という話題が取り上げられている。らじ氏の仕事に対する誇りと、プロ意識がよくわかる(なお、この文章全体がプリンセス・プラスティックの8/5付の文章のなかの一節に対するレスになっているのだが、そっちのほうは私がふだん見ていないサイトだし、筆者のスタンスもよくわからないので、コメントは差し控える)
 さて、私自身はどうだろう? 私も月給取りだが、らじ氏のような思い入れはほとんどない。別に守りに入った生き方をしているとは思わないけれど、それは、「攻め/守り」という変化に富んだ生活を実感していないからだ。もしかしたら、それを世間では「守り」と呼ぶのかもしれないけれど。
 ともあれ、私はいかなる意味でもプロではない。ただの雑務屋だ。ここでは私の実生活のことは極力書かないことにしているのだが、ちょっと試しに私の今の仕事に関わりのある言葉をいくつか並べておこう。

 当然の事ながら、これらのキーワードで象徴される仕事内容は、全く関連がない。私は全くばらばらの仕事をいくつも抱え込んでいるのだ。どの分野についても専門知識はほとんどなく、手引書やら専門家の意見やらを参考にしながらだましだまし事務を処理している。私の仕事ぶりは粗雑で、見る目のある人がみれば、あまりの素人っぽさに呆れることだろう。むろんそこには職人芸とか「匠の業」などといったものは何もない。
 らじ氏の職種が何なのかは知らない(水道配管業者ではないという話はこの前のオフ会のときに伺ったが、限定条件としては弱すぎるだろう)が、自分の仕事に誇りをもって生活できるというのはうらやましい。
 なんだか、自分が非常につまらない人間に感じられる今日この頃である。

 いつもと全然違う話題から始めてしまった。その理由は4つ。

  1. ネタがないから。
  2. 仕事で疲れて愚痴を言いたくなったから。
  3. 『活字狂想曲』(倉阪鬼一郎/幻冬舎文庫)を読んでいる最中だから。
  4. 一緒にコミケに行く予定だった、私が前に勤めていた会社の先輩から突然電話がかかってきて「仕事でトラブルが発生してコミケに行けるかどうかわからなくなった」と言われ、月給取りの悲哀をひしひしと感じたから。
 1については毎度のことだからどうでもいい。2はあまり他人様に言うことではないだろう。ただ、せっかく明日休みをとってあったのに今日の仕事が捗らなかったせいで取り下げて出勤することになってしまった、とだけ書いておこう。東京へは夜行バスで行くから予定に変更はないが、今晩中に支度を整えておかなければならない。ああ、こんな文章を書いている場合じゃないぞ。
 だが、続けよう。
 『活字狂想曲』はまだ全部読んだわけではないが、非常に面白い。この面白さは会社勤めの経験がある人でないと実感できないかもしれないが。いや、自営業や自由業(両者にどのような差があるのか私にはわからない)の人でも想像力さえあれば十分楽しめるのではないか。
 4は……かなり気が重い。コミケ3日目に知り合いのサークルの売り子をする予定になっているのに、どうすればいいのか。今から別の人に頼むのは難しいし、そもそもチケットを回収する術がない。
 なんだか、いろんな意味で行き詰まっているような気がする今日この頃である。

 白黒学派政宗九の視点でそれぞれ期間限定のアンケートを実施している。どちらも8/15まで。私も何か書こうかと思っているのだが、なかなか条件が厳しい。白黒学派のほうでは、「よいところ」と「わるいところ」を書かなければならないし、政宗九の視点では管理人への質問というのを考えないといけないのだ。
 ウェブサイトに限ったことではないのだが、「わるいところ」を指摘するのはなかなか難しい。「どこが悪いのか」ということだけでなく「なぜ悪いのか」「どうすればよくなるのか」ということもある程度考えて書かないといけないからだ。赤の他人が完全な改善策や代案を提示できるわけはないのだが、そのような視点を全く欠いた指摘はほとんど無意味だろう。そう考えるとかなり難しい。個別の文章についてツッコミを入れるのとは違って、サイトのあり方について分析するのはしんどい作業だ。そんなわけでまだ私は手をつけかねている。
 ウェブサイト管理人への質問、というのは多少は難易度が低いように思われる。だが、それは錯覚だ。そこには大きな罠がある。この罠はあまりにも大きすぎるためにかえって目につかない。だから私も罠があることを知らないし、具体的に述べることもできないのだ。いや、これは冗談だけど。でも気の利いた質問を考えるのが難しいのは本当だ。
 なんだか、結局どちらも時間切れになってしまうのではないかと思える今日この頃である。

 全然、脈絡はないのだが、JUNK-LANDの今日付の記事について。『かまいたちの夜2』と『アフター0』についてかなり否定的な感想が書かれているのだが、「それはないだろう!」と言いたくなった。『かま2』のほうは全然プレイしていないし、今後も遊ぶ予定はないのでどうでもいいのだが、『アフター0』評には大いに異議申し立てしたい。
 『アフター0』は私のお気に入りのマンガなので貶されて腹が立った、ということではない。いや、腹が立ったのは事実だけど、それは異議申し立ての理由ではない。私が抗議したいのは、「とりあえず本格ミステリ篇であるらしい2巻をペラペラ」とか「本格ミステリ的には……どうこういっても仕方ないや」という箇所である。どこをどう読めば、そんなトンチキなことが言えるのか。これでは、まるで『双月城の惨劇』を評して「メイドさんが描けていない」と批判するようなものである。
 MAQ氏がどこでどのような評判を見聞きしたのか(「犯人は誰だ!?」という、やや的はずれなサブタイトルに惑わされたのかもしれないが、少なくとも本そのものには「ミステリ」とか「本格」などといった宣伝文句は使われておらず、「サスペンス編」と書かれているだけだ)は知らないけれど、形式的には集中でもっともミステリ的なスタイルをとっている『三月の殺人』ですら根本的な着想が「謎と論理の物語」とは別のところにあるのは一目瞭然ではないか。MAQ氏ほどの人がまさか「第2集にはミステリ色の強い作品が収録されている」などというコメントに踊らされたわけでもあるまいし、理解に苦しむことだ。
 なんだか、以前にも増して「本格ミステリ」という言葉が無意味になりつつあるのに、それにも関わらずこの言葉に振り回されたかのような空虚な言辞が平然とまかり通ってることにうんざりする今日この頃である。

 なんだか、依然としてバッハを一日一枚ずつ聴いている今日この頃である。

 なんだか、「旅行の準備もせずに何をやっているんだか、トンチキ野郎はお前のほうだろう」と自分で自分にツッコミを入れたくなる今日この頃である。

1.10338(2002/08/08) 「君は頭がいいのだから……」

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/p/0208a.html#p020808a

 腹の立つ言葉というのは数多いが、私にとって最も腹が立つのは、ある種の文脈で発せられる「頭がいい」とか「賢い」という言葉である。「私はバカですから……」と心にもない卑下をするのも腹が立つが、そんな場合は「そう、あんたはバカだったの? じゃ、これからはバカとして扱うことにしよう」と言ってやれる。だが、自分に大して「君は頭がいいのだから……」と言われた場合には、その言葉がいかに侮辱的なものなのかをうまく言い表す言葉がないので始末に負えない。言ってる本人に全く自覚のないことが多いので、怒ると怪訝な顔をされるのだ。
 コミケ前日で夜行バスの発車時刻が迫っているのに、こんな文章を書いているのにはわけがある。だが、そのわけを説明する前にもう少しこの話題を続けよう。
 さて、昨日の文章を読めばわかることだが、仕事のうえでごたごたがあって私はかなりいらいらしている。今日はその始末のために、ずっと前に押さえていた休みを取り下げて出勤したのだが、気分は最悪だった。そんな時に同じ課の人から言われた言葉が、見出しのアレで、私は一気にブチ切れてしまった。もしかしたら『活字狂想曲』(今日やっと読み終えた)の影響もあったかもしれない。
 で、大声で周囲の迷惑を顧みず、他人を勝手に値踏みすることがいかに人の気分を害することで、反証しがたい言葉を一言か二言か発して議論を封殺することがいかに愚劣で、不適切な場面で誉め言葉を使うことがいかに醜悪であるかを延々と語ってしまった。「頭がいい」発言の本人及びそれ以外の課員の気分を大いに害する、愚劣で醜悪な言動だった。反省しなければならない。
 なんとか仕事にけりをつけて、午後に数時間早退して帰る途中、私は性懲りもなく今朝もっといい言い方があったのではないか、などと考えていた。相手はなぜ自分の言葉で私が激怒したのかわかっていないのだ。人によって言葉に対するセンスに相違があるのはやむを得ないことだが、共通の基盤まで戻って、何とか相手に納得できるような説得力のある議論の仕方はないものか、そんな事を考えていたのである。
 さて、そのような事を考えながら、一時間に数本しか来ないバスを待っているときに、私はある事に気づいた。そして驚愕のあまり、あああああと叫びそうになった。たぶん実際には叫ばなかったろうと思うが、冷静さを欠いていたので、少しくらいは声が出ていたかもしれない。バス停にほかに人がいなかったのが幸いだった。

 コミケ前に何人かの知人とメールのやりとりをしていて、最後のメールチェックのためにネットに接続した午後6時(幸い一発で繋がった)、私は全く予想しなかった人からメールが届いているのに気づき、狼狽えた。昨日の文章で言及したJUNK-LANDのMAQ氏からである。メールの内容は今日アップする予定の文章ということだった。
 昨日は八つ当たり気味にかなりひどい事を書いてしまっている。たとえば「トンチキ」など普段は使わない言葉だ。それに対する抗議かと思ったが、そうではなかった。詳細は省略。この文章を書いている今、まだJUNK-LANDにメールで送ってもらった文章が掲載されているかどうか確認していない(もうそろそろアップされている頃とは思うが)から、あくまでも私信として取り扱うべきだと思うので。
 で、さっきの話の続きだ。昨日私は大チョンボをやらかしている。バス停で私が気づいたのはそのことだ。他人の言動を批判する際に、直接関係のない「素質」「才能」「人間性」などを無造作に引き合いに出し、それをことさら持ち上げてみせることで、本来言葉を尽くして論証すべき点をうやむやのうちに通過する、という点で「頭がいい」「賢い」と大差ない言辞を弄しているのである。
 と、ここまで書けば、誰もが気づいていることだと思うが、念のために引用しておくと、

MAQ氏ほどの人がまさか「第2集にはミステリ色の強い作品が収録されている」などというコメントに踊らされたわけでもあるまいし、理解に苦しむことだ。
という一文である。このような事は相手を批判する文脈で書くべきではない。
 先にも少し触れた「トンチキ」も語気が強すぎたきらいはあるが、これは「的はずれ」が重複するのを避けたため、といちおう言い訳をしておく。だが、上の一文は言い訳のしようがない。今さら該当る文章を消しても仕方がないのでそのままにしておくが、このような表現を用いて不当にMAQ氏を貶めたことを深くお詫びする
 その上で、「本格」という言葉を使って何らかのミステリ(またはミステリ以外の)作品について語ることについて私がどのように考えるのか、ということを再度改めて書いてみたいのだが、今日はそろそろ時間切れなので、別の機会にしたい。ここまで問題を一般化すると、強いてMAQ氏の『アフター0』評を取り上げる必要もないと思うので、全然別の形になるとは思うが。

 今こそ、出立の時! では、さらば!