【日々の憂鬱】あんたはどうにもいかがなものか。【2004年8月下旬】


1.11154(2004/08/21) ひげのあるモナリザの冒険

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滋賀県立近代美術館へ行ってきた。「開館20周年記念展 コピーの時代―デュシャンからウォーホル、モリムラへ―」を見に行ったのである。

私は芸術オンチで、とりわけ現代美術に関しては知識もなければ鑑識眼もなく、ついでにいえばあまり興味も関心もない。だが、そんな私でもマルセル・デュシャンの名作「泉」の存在くらいは知っている。「新伝綺」の旗手の一人である原田宇陀児が出世作「White Album」で言及しているくらい有名な作品だ。その「泉」が出品されていると知って、ぜひ一度実物を見ておこうと思っていたのだが、諸般の事情でのびのびになって、会期(6/5〜9/5)の終わり際になってようやく見に行くことができたのである。危ないところだった。

もっとも、この「泉」は京都国立近代美術館の所蔵品のようなので、この機会を逃してもまた別のときに鑑賞できたかもしれない。また、私は知らなかったのだが、最初に制作された「泉」は行方不明になっており、今見ることができるのはレプリカらしい。わりとあちこちに「泉」のレプリカがあるそうで、何だか有難味がない。

「泉」が制作されたのは1917年で、彼はそれをニューヨークのアンデパンダン展に出品しようとしたが、「これが芸術か」と言われて展示を拒否されたという。私にはアンデパンダン展というのが何のことやらわからないのだが、たぶん美術作品の展示会のようなものだろう。展示拒否の理由もよくわからないが、察するに「泉」が陶芸品だったからではないかと思われる。

先日、コミケのついでに見た東京国立博物館の「万国博覧会の美術」の音声ガイドによると、西洋では美術と工芸を峻別する伝統があって、陶磁の類は美術作品とはみなされなかったそうだ。国策として工芸品を列強諸国に売り込もうとしていた明治の日本では、何とかして工芸品を美術として認めて貰うためにあの手この手を尽くしたという。デュシャンが「泉」を制作したのは、万国博の時代より少し後のことだが、それでもまだ陶器は美術作品のうちに入らなかったのだろうか? それともアンデパンダン展が保守的だっただけだろうか? ともあれ、オリジナルの「泉」は芸術的価値を認められることなく、いつの間にか行方不明になってしまったという。今から考えればもったいない話だ。

さて、いざ「泉」の実物(?)を見ると、事前に期待していたほど面白いものではなかった。まるで、男性用便器を横倒しにしてサインしただけのようだった……と言ってしまうと現代美術に対する教養のなさを露呈するようで恥ずかしいのだが、私にはそのように見えたのだから仕方がない。ほかのデュシャンの作品もがらくた同然だった。

私がデュシャンよりも興味を惹かれたのは、森村泰昌と福田美蘭の作品だった。森村泰昌は女装癖のある大阪のおっちゃんで、上方のベタな笑いを提供してくれた。前に別の美術館で森村氏の作品を見たことがあるが、どれを見ても愉快だ。他方、福田美蘭のほうは、この展覧会で初めて知った人だ(福田氏の父親はトリックアートの巨匠、福田繁雄だそうだ)。著作権にうるさいアメリカ鼠を挑発するかのような一連の作品群には戦慄を禁じ得なかった。

その他、さまざまな趣向を凝らした絵画、写真、彫刻などがあり、非常に楽しい展覧会だった。よくもまあこんなにバカなことを考え、実行するものだ、と感心するやら呆れるやら。日常生活のしがらみから抜け出て壮大な脱力感を味わいたい人にお薦めだ。場所が少し不便だし、会期が残りわずかなので、今から行くのは難しいかもしれないが、この感動は一生ものだ。

……人によっては、一生悪夢にうなされるかもしれないが。

1.11155(2004/08/22) 驚愕の高野

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今日、とある事情で高野山へ行ってきた。公共交通機関を使って行くなら、難波から出ている南海高野線の特急「こうや」号か急行に乗って終点の極楽橋まで行き、そこからケーブルカーに乗って山上に登り、さらに山上バスに乗り換えるというルートが一般的だが、私は高野線ではなく南海本線の終点である和歌山市にまず出て、そこから橋本駅前行きのバスに乗り、橋本で高野線に乗り換えるという七面倒なルートを辿った。ものすごく時間がかかった。

さて、高野山といえば某18禁ゲームの舞台のひとつとして有名である。ゲーム名を伏せたのは、ネタばらし回避のためだ。10万本以上売れたヒット作なので、何か関連施設でも建っているのではないかと期待したのだが、そんなものはなかった。観光客がわんさかと徘徊しているくせに、観光客目当ての俗っぽい施設が全くないところで、ちょっとがっかりした。当然、秘宝館などない。似たような名前の霊宝館という施設はあったが、どうでもいい国宝やら重要文化財やらを飾っているだけだった。

高野山からさらに奥に行くと龍神村がある。龍神村も某ゲームの舞台になったところらしい。ゲーム名を伏せたのは、未プレイのゲームだからだ。この某ゲームについて、先日コミケ帰りに某氏から非常に愉快な話を伺ったのだが、今日の話とは直接関係がないので省略する。龍神村へは過去に何度か行ったことがあるし、そこまで足をのばすと今日中に帰れなくなるおそれがあったので、今回は高野山の端っこ、奥の院までで引き返した。

奥の院にはたくさんの墓や慰霊塔、祈念碑などがある。かの『珍日本紀行』で紹介された企業の墓も多く、福助人形、コーヒーカップ、ロケットなど、墓地には似つかわしくない種々雑多なオブジェが並んでいて壮観だ。ここならもしかしたら男女和合のシンボルもあるのではないか、とかすかな期待を抱いたのだが、私が見て回った範囲にはなかった。がっかりの自乗だ。まあ、そういうのを見たければ、京都チンマン王国にでも行けばいいのだけれど……。

さらに幻滅したのは、奥の院の入口に点とを構えて陣取った怪しい黄装束集団だ。「愛は地球を救う」とか言いながら寄附金を募っているのはいいとして、霊峰の雰囲気をぶち壊す俗悪な音楽をスピーカーから垂れ流しているのには閉口した。そんな事に手間暇かけるくらいなら、24時間放送を中断して、浮いた番組制作費で思う存分慈善活動を行えばいいのではないかと思った。

ほかにもいろいろあったが、面倒なので今日はこれでおしまい。疲れた。

1.11156(2004/08/23) 目刺しと櫃まぶし

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今日、行きつけの書店の棚を漫然と眺めていると、『クリプキ ことばは意味をもてるか』(飯田隆/NHK出版)があることに気づいた。いつの間にこんな本が出ていたのかと奥付を見ると7/25、先月だった。これは「シリーズ・哲学のエッセンス」の一冊で、同じシリーズから5月に出た『デイヴィッドソン 「言語」なんて存在するのだろうか』(森本浩一)のオビに7月刊行予定だと記載されていた(ここで触れているから、当時の私が見落としていたということはないはずだ)のに、今日の今日まですっかり忘れてしまっていた。

迂闊だった。師匠に申し訳ない。

前にも書いたことがあるが、私は飯田隆氏を脳内師匠に認定している。「脳内師匠」というのは、別に私の脳内にのみ存在する師匠という意味ではなくて、私の脳内で師弟関係を結んでいるという意味だ。日本語は難しいもので、「脳内彼女」にも同様の多義性が見られる。

ともあれ、私は本当に飯田隆氏に弟子入りしたわけではなく、当然向こうは私のことなど知らないはずなので、申し訳なさを感じる必要もないのだが、申し訳なく思うということ自体が脳内で起こる事柄だとすれば別に矛盾はしない。


さて……クリプキである。前世紀の哲学者の中で最大の変人で、数々の伝説に彩られた人物゛が、今は彼にまつわるエピソードを紹介している余裕がない。興味のある人は適当に検索でもして調べてもらいたい。いま「前世紀の哲学者」と書いたが、実はまだ生きていて、『クリプキ』巻末の小伝によれば、2002年からニューヨーク市立大学大学院センター教授を務めているらしい。10代でデビューした神童クリプキも、もう60歳を過ぎた。今はいったい何の研究をやっているのか定かではない(というか私は彼の1980年代以降の業績を知らない)が、過去には少なくとも4つの大きな仕事を成し遂げている。この本の「あとがき」から引用しよう。

  1. 可能世界の概念による様相論理の分析
  2. 『名指しと必然性』で展開された、名前の指示をめぐる議論
  3. うそつきのパラドックスの新しい解決を含む真理概念の分析
  4. 『ウィトゲンシュタインのパラドックス』での意味の懐疑論とそれへの懐疑的解決

『クリプキ』で扱われているのは4だけで、残り3つの話題については全く触れられていない。人物名を冠した入門書だからいちおう一通り言及しておくという手もあるだろうが、それをやってしまうと学説のカタログのような味気ない本になってしまう。『デイヴィッドソン』もそうだったが、話題を絞り込んで正解だったと思う。4を選んだ理由は、1と3は論理についての少し込み入った話をしなければならなくなるからで、2はすでに別の場所でかなり詳しく論じている。そんなわけで、もう一度というのは勘弁してもらいたい。と書かれている。「別の場所」というのは『言語哲学大全』の第3巻のことだろう。

「あとがき」を先に読んでしまうと、テーマを消去法で選んでいるからあまりやる気がないのかと思ってしまうかもしれないが、もちろんそんな事はない。本文を読むといつもの飯田節が横溢していて非常に楽しい。おそらくシリーズ全体のスタイルとの兼ね合いだろうが、親切丁寧で時には本文以上に長いこともある註釈がこの本には全くなく、少し寂しく感じたが、錯綜した議論を解きほぐして明快に提示する文章は毎度のことながら見事だ。

また、哲学者なら手拍子で書いてしまいそうな専門用語をなるべく誤解の少ない用語に置き換えて説明しているのもさすがだと思う。たとえば、第一章はグッドマンの「グルー」の紹介なのだが、この章には「述語」という語が一度も用いられていない! また第三章では、字面から意味を推測することがほとんど不可能な「命題的態度」にかえて「信念的態度」という言葉が用いられている。

もちろん、この本を読み終えて一歩先に踏み出そうとするなら、「述語」も「命題的態度」も避けては通れない。だが、まだその一歩を踏み出していない読者にこのような言葉を押しつけるのは配慮に欠ける仕打ちだ。欲を言えば「コミット」も言い換えたほうがよかったのではないかと思うが。

叙述の仕方から内容に目を向けると、基本的にはクリプキの『ウィトゲンシュタインのパラドックス』(とグッドマンの『事実・虚構・予言』)の筋道を辿っているだけなのだが、第3章の最後のふたつの段落などは著者自身の見解の表明になっている。また――これは私の勉強不足のせいかもしれないが――デカルトの「夢の懐疑」やラッセルの「五分前世界創造説」など有名な議論を例にとって、懐疑的議論に二種類あることを示している箇所(第二章)も私にとっては新鮮だった。この種の懐疑論は、たとえば『涼宮ハルヒの憂鬱』(谷川流/角川スニーカー文庫)でも紹介されているが、さすがに「クワス」には及んでいない。当たり前か。でも、「グルー」ならライトノベルの枠組みでも何とか扱えるのではないだろうか。

脱線した。話を元に戻す。

哲学に関する予備知識をほとんど持っていない人や、特にクリプキに関心があるわけでもない人にこそ、この本を薦めたい。日本語で書かれた文章を普通に読めて、2桁の足し算が理解できる人なら、きっと簡単に読むことができるだろう。読むのは簡単だが、考えるのは難しい。「グルー」で世界をぐにゃぐにゃの不定形に変貌させられ、「クワス」でさらに世界をみつめる自分自身の心まで徹底的に解体された後、無事もとの世界に戻れるかどうかは、あなた次第だ。

1.11157(2004/08/24) 損と得

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飲料の自動販売機の話をしよう。缶飲料でも構わないのだが、話を簡単にするために500ml入りのペットボトルに限定する。品目は何でも構わないのだが、タヒボ茶ということにしておく。私はペットボトル入りのタヒボ茶を見たことがないが、それはこの際重要ではない。タヒボ茶の自動販売機での通常価格は150円だということにして話を進める。

ある人がタヒボ茶を飲もうと思って自販機の前を通りかかると、運良くその自販機でタヒボ茶を売っていたので、150円を硬貨投入口に入れ、タヒボ茶を買ったとする。このとき、その人は自分が損をしたとも得をしたとも考えないだろう。タヒボ茶は150円の品であり、それを150円で買ったのだから、損得があるはずがない。

次に、同じ人が別の自販機の前を通りかかり、同様にしてタヒボ茶を買ったとする。この自販機では値引きをしていて500mlペットボトルはみな130円に設定されていたのだが、この人は注意力散漫で値段のことには気づかずに150円投入し、タヒボ茶を取り出しただけで、おつりを回収せずに立ち去った。この場合、この人は損をしたのだろうか? それとも損得なしなのだろうか?

次に、釣り銭を取らずに立ち去った人のあとに別人が同じ自販機でタヒボ茶を買ったとする。この人は、この自販機ではタヒボ茶は130円であるということを知っており、前の人と同じく150円を投入して、おつりを取ろうとしたところで、前の人が取り忘れた20円と合わせて40円が返却口にあることに気づいた。そこで、この人は実質110円でタヒボ茶を買ったことになる。この場合は明らかに得をしたと考えられるが、いったい何円得したのだろうか? 通常価格との差額である40円なのか、それともこの自販機での価格である130円との差額20円なのだろうか?

さらに別の機会に同じ人が同じ自販機でタヒボ茶を買おうとして150円を投入したとする。当然20円返ってくるものと思っていたのだが、たまたま機械の調子が悪くて釣り銭が全く出なかった。この場合、130円で買えると期待したのに、意に反して150円使わされてしまったので20円の損とみるべきか。それとも、損をしたという気分になっただけで、通常価格150円の品物を150円で買ったのだから、損得なしとみるべきか。

もう一度最初の人に登場してもらおう。その人が同じく故障した自販機で150円払ってタヒボ茶を買ったとする。その自販機では値引きをしているということを知らず、釣り銭が出なくて当然だと思い込んでいるので、故障に気づかず立ち去った。この場合の損得はどうなるか???

最後に、最初の自販機に戻り、あなたがこれから150円でタヒボ茶を買うとしよう。あなたは今、タヒボ茶の通常価格が150円であることを知っており、その自販機での価格も150円であることを知っている。しかし、あなたは邪悪な霊に取り憑かれていて、硬貨投入口に100円玉を入れた瞬間に自分が入れたのは100円玉ではなく500円玉であるという誤った信念を抱く。そして、50円玉を入れた瞬間にこの自販機で売っているタヒボ茶は特製の1000mlペットボトルに入っているという誤った信念を抱く。そしてタヒボ茶のボタンを押した瞬間に自分が本当に飲みたかったのはタヒボ茶ではなく、×ッコール(諸事情により一文字伏せ字)であったという誤った信念を抱く。さて、あなたは得をするだろうか? それとも損をするだろうか?

1.11158(2004/08/25) 乗って残そう山手線

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今日は見出しと全く関係なく、『萌えるミステリサイト管理人 もえかん(仮)』の感想を書こうと思う。といっても、まだ読みかけたばかりで、全部は無理だ。今の私の頭の調子では一気に読み通すのは不可能なので、ぼちぼちと書いていくことにする。

とりあえず今日のところは、冒頭に収録された「恋は盲目。」(水希望/君の忘却を抱いて)の感想を書く。


最初、読み始めたとき、「これは散文詩だろうか?」と思った。句点ばかりか読点で改行していて、見た印象が白っぽかったからだ。だが、この文章を横書きにすれば、ウェブ上でごく普通に見られる改行方法であり、内容から考えても詩を意図しているとは考えにくい。やはり小説なのだろう。

かつて花井愛子は格助詞一つで改行するという荒技で世間を驚かせた。今から15年くらい前のことだ。それに比べると、「恋は盲目。」の文体はずっとおとなしい。でも、私にはやっぱり文の途中で改行する小説には抵抗がある。としは取りたくないものだ。

改行の話はこれくらいにして、文章表現で気になった点を挙げてみる。まず、作中に頻繁に登場する「踏み切り」だが、私だったら「踏切」と書く。「踏む」と「切る」を繋げて名詞化したものなので、元の動詞の送りがなをそのまま生かして「踏み切り」と表記することはないわけではないが、それはたとえば「幅跳びのコツは踏み切りの時の重心にある」(これは単なる例文なので、ツッコミを入れないように)というような場合の話だ。鉄道の踏切の場合、その上を通ることを「踏切を渡る」とは言っても「線路を踏み切る」とは言わない。動詞「踏み切る」との繋がりが弱くなっているので、もう送りがなはいらないと考える。

もう一つ気になったのは、「故人となる」という言い回しだ。こういう言い方もあるのかもしれないが、なんとなく違和感がある。死んだ人のことを「故人」というのだから、「故人となる」は「死んだ人となる」ということで、要するに「死ぬ」と言えば済むことではないか(余談だが、同様の理由で私は「リーダビリティーが高い」という言い回しにも首を傾げる。「リーダビリティー」というのは読みやすさのことだから「読みやすさが高い」というくどい言い回しに思えてくるからだ)。「故人となる」という表現が現れる文脈を考えると、素っ気なく「死亡」と書いたほうが適切ではなかっただろうか?

「故人となる」絡みでもう一つ。9ページ上段に、4つの単語が掲げられている。それらは「故人となる」が現れる文章から抜き出したものだが、4つの単語のうち「死亡」は当該文章中には含まれていない。「故人となる」を受けているのは明らかなのだが、この場面での主人公の状況を考えると、文中の言葉を同義語で置き換えるという作業を行うよりも、そのまま引用するほうがよい(これも、一つ前の段落で「故人となる」より「死亡」のほうが適切だと書いた理由の一つだ)。

私自身、決して文章がうまいわけではないのだが、他人が書いた文章を見るといろいろとケチをつけたくなるもので、政宗九氏が女子高生が書いた文章を添削したくなる衝動にとらわれるのも頷ける。だが、一言一句を吟味している余裕はないので、内容面に話を移そう。

作者が現役の高校生だという予備知識があれば、冒頭から中盤にかけての流れはごく自然なものと感じられるだろう。実際、私は何の不審も感じなかった。遮断機越しの恋というシチュエーションはもしかしたら作者の実体験にヒントを得たものかもしれない、などと想像しさえした。そんな読み方をした私にとって、あの結末はかなり衝撃的だった。

もちろん、何の予備知識もなしに「恋は盲目。」を読んだなら、また違った感想になったことだろう。また、今私が書いているこの文章を読んでからだと、何かどんでん返しか意外なオチがあるものという予断を抱くことになるので、私が感じたのとは全く別の印象を抱くかもしれない。どんな小説についても完全に客観的な感想文というものは書けないが、この種の小説についてはとりわけ客観性に乏しい感想文にならざるを得ない。

ところで、今気づいたのだが、作者のサイト名は「恋は盲目。」とリンクしている。意図的にやったことではないはずだが、なかなか興味深い。


長く書きすぎた。この調子だと、一回更新分で一作品しか取り上げられない。次からは端折って書くことにしよう。掲載順だと、次回は「伍圓玉一枚の謎」(踝祐吾/天変地異ノ)だ。

1.11159(2004/08/27) パットとクリスとサンディ

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今日も見出しと無関係に、前回の続きを書く。すなわち、『萌えるミステリサイト管理人 もえかん(仮)』の感想だ。前回予告のとおり「伍圓玉一枚の謎」(踝祐吾/天変地異ノ)を取り上げる。

この作品の主人公、夕賀恋史は秋山真琴氏が生んだキャラクターで、超短編集『雲上四季』の収録作の一つに登場する。私はコミケで秋山氏にお会いしたときに、直々に『雲上四季』を頂き、帰りの電車の中で全部読んだのだが、いま手許の本の山を探ってみると見あたらない。もっとよく探せば見つかるかもしれないが、今は午前4時半であまりがさがさと音を立てると家族が目を覚まして怒られる。またの機会を待つことにしよう。

で、「伍圓玉一枚の謎」だが、ミステリサイト管理人が実名で登場する楽屋ネタ小説で、それはこの同人誌の趣旨に適っていることだからいいのだけれど、扱われているネタが小さくて、解決らしい解決もないので、正直言って作者はいったいこの小説で何が書きたかったのか理解に苦しむ。16ページ下段の最後の科白など、私には全く意味がわからなかった。私はそんな事知らないぞ。何かの謎かけかと思ってもう一度最初から読み返してみたが、そういうものでもなかったらしい。

今回は短い感想になった。次回はいつになるか未定。取り上げる作品も未定だ。

1.11160(2004/08/27) メモと目盛りと木綿豆腐

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またしても見出しと無関係な話をしよう。まず、最初に『Nscripter オフィシャルガイド』発売予告(過去ログが残らないので、見るなら早めにどうぞ)から。「高橋直樹監修」というのが素晴らしい。私にはゲームを製作する意欲もんなければ能力も時間もないので、たぶん使いこなすことはできないが、なんとなくふらふらと買ってしまいそうな気がする。

ところで、リンク先の宣伝文を読んで、「e-NOVELSモニター書評」が軌道に乗ってきた今日この頃というフレーズがふと脳裏をよぎったのはここだけの秘密だ。


『萌えるミステリサイト管理人 もえかん(仮)』の感想文を掲載順に書くとすると、次は「萌える推薦文」(進井瑞西/永世)になるのだが、これは「萌えミステリ往復書簡」(秋山真琴/雲上回廊:紅蓮魔/ウッドストック1979)への推薦文で、これだけ単独で取り上げても仕方がないから合わせてコメントするべきなのだが、往復書簡のほうをまだ読んでいない(ウェブ連載でいちおう一通り読んではいるのだが、すっかり忘れてしまっている)のでひとまず見送り。

ところで、『もえかん(仮)』の目次を見ると進井氏の名前が記されているのに、巻末の執筆者コメント欄で抜けているのはなぜだろう? 単なる編集上のミスだろうか。

ところでところで、目次で次のように記載されているのはいかがなものか。

19 萌えミステリ往復書簡/萌えの細道-1 秋山真琴・紅蓮魔/滅・こぉる

このように書かれてしまうと、まるで私も往復書簡に参加しているかのように受け止められるおそれがあると思うのだが……。秋山、紅蓮魔両氏の名前を繋ぐ「・」と私の名前の一部である「・」が併置されているのも誤解のもとだ。だが、「じゃあ、そんな誤解を招くハンドルをやめろ」と言われてしまいそうなので、この辺でやめておこう。


『もえかん(仮)』絡みでもう一つ。そこに収録されている「鳳明館の殺人」の作者、永井坂奈氏の正体は実は私なのではないか、という噂があるようだが、それは大間違いだ。私だったらW市川氏をもっと無様な三枚目に描く、もとい、私には小説を書く才能がないので、とてもこれほどのものを書き通すことはできない。

私には小説が書けない。そのことはずっと前からわかっていたことだが、それでもたまに気の迷いで小説を書いてみようと思い立ち、そのたびに挫折している。最近では、「もうかん(仮)」用に小説を書こうとして一週間サイトの更新を中断したことがあった。その顛末はここに書いたとおりで、その記事を読んでさえいれば、私が「鳳明館の殺人」の作者ではないかなどという疑念が起こるはずもない。だが、その記事は私が予想もしなかった形で妙に脚光を浴びて(?)しまったものの、私の本意はうまく伝わらなかったようだ。

私が本当に言いたかったことは、「私にもあの人なみの文才がほしい。でも、私にはそんな才能はない」ということだ。

えっ? そんな事どこに書いているか、って? ほら、「鎮痛剤(=painkiller)がほしい」って。


某所にて11月発売の予告が出ていた某書について、某氏に確認のメールを送ったところ、年内刊行予定との返信が届いた。ということは遅くとも来春には間に合うだろう。めでたしめでたし。

また、別の某書は10月末刊行予定だそうだ。年末ベスト選びには不利だが、心ある人はベスト本のお祭り騒ぎに惑わされずにちゃんとチェックするだろう。こちらも楽しみだ。


謎の覆面作家、永井坂奈氏に話を戻す。先ほど、私は永井氏ではないと断言してしまったが、これはちょっとまずかったのではないかという気がしてきた。というのは、小説の内容から考えて、永井氏である条件を満たす人物は多めに見積もっても100人未満だろうからだ。その中で私が「いちぬ〜けた〜」と言ってしまうと、選択肢が狭まってしまうことになる。かてて加えて、私は非常に重大なヒントを提示してしまった。ああ、ここまでバラしていいものか。

1.11161(2004/08/30) 台風接近につき

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今日は簡単にすませよう。

ええと、何か書くことは……。

あ、そうそう。まいじゃー推進委員会!まいじゃー名古屋オフのお知らせが掲載されている。9/25(土)だそうだ。

う〜ん、参加したいのはやまやまなのだが……来月、個人的な事情でもしかしたら名古屋へ行くことになるかもしれず、月に2回も名古屋へ行くのはさすがに負担が大きい。いや、それよりも私の用事が同じ日になってしまうかもしれないということのほうが問題かもしれない。

というわけで、私は今のところ参加申込を見合わせておくが、是非とも参加したいという人はここで参加表明をするといいだろう……と、ここでわざわざ書く必要もないのだが、今日はネタもないので、これで勘弁してもらおう。