【日々の憂鬱】双子祭りで掲示板を荒らすのはいかがなものか。【2004年5月下旬】


1.11072(2004/05/21) 図書館問題に関する思いつき

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図書館に本を貸し出されるのが嫌なら、図書館に本を売らなければいいのに、と思った。公貸権の導入などという面倒なことをするよりも早道だし、しかも特に国会議員などに働きかけることなく、出版・書店業界内部の申し合わせだけで実現できるのだから、こっちのほうが簡単ではないか。申し合わせに反して図書館に本を売る不届き者には取次から本を回さないようにすればいいし、図書館が主要なターゲットであるような本は適用除外にすればいい。

なかなか名案だと思うのだが、如何?

1.11073(2004/05/22) ノイラートの泥船

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私の興味関心は狭いところをぐるぐると回っているようで(そういえば、昔「ぐるぐる」というハンドルを使っていたことがあったなぁ。どうでもいいけど)一つのことを集中してとことん考えることが苦手なくせに、少し間をおいて同じ話題を取り上げることがよくある。たとえば、昨日の図書館問題がまさにそれだ。いちいち過去ログを辿るのは面倒なので確認していないが、「たそがれSpringPoint」では半年から一年くらいの間隔で何度かこの話題を取り上げているはずだ。

今日は、久しぶりに「ゲーデル問題」(図書館問題のほうは鉤括弧なしなのにこっちは括弧つきにしていることに注意。私は「ゲーデル問題」という名称そのものに違和感を抱いている)を取り上げようと思った。きっかけは、後期クイーン問題とゲーデル問題の解説を読んだからだ。私はそれをモノグラフ経由で知ったのだが、さっきあちこちを見て回ったら186(一服中)氏が言及していてネタがかぶってしまった。さらにそこから萌えミステリ往復書簡 第七信「complicated context vs」にとんで註釈6を読んでみたのだが、やっぱり186(一服中)氏と同じ箇所で引っかかった。建物が鉛直に立っているかどうかは、視点に相対的な事柄ではない。地上から見ようが宇宙から見ようが、あるいは地中に穴を掘って下から覗き上げて見ようが、鉛直なら鉛直、鉛直でないなら鉛直でない。

独自性がないことを書いても仕方がないので「後期クイーン問題」のほうを取り上げようかとも思ったのだが、こっちの問題も実はあまりよく知らない。後期クイーンの小説はいくつか読んでいるが、どれもこれも10年以上前に読んだものばかりなので、詳しい内容は覚えていない。やたらと筋書き殺人が多くて、それも犯人の意図によるものばかりではなく、何だかわけのわからない神秘的な魔力のようなもので筋書きが実行されていくという話もあったように記憶しているが、タイトルは忘れてしまった。

というわけで、「後期クイーン問題」についてはたいした事は書けそうもないので、もう一度図書館問題について書いておく。昨日思いついたのは、出版・書店業界が結託強調して図書館への不売運動(不買運動ではない)を行えばいいのではないか、ということだったのだが、一晩たって考え直してみると、この案には大きな欠陥があることがわかった。それは、新刊書店が本を売ってくれないなら、ブックオフで買えばいいということだ。これでは発売直後の新刊書以外にはほとんど効果がないことになってしまう。

下手の考え休むに似たり。素人考えの底の浅さを露呈してしまった。だが、今日は休日なのだし、休日には休んでいいのだから、休むのに似たことをしてもいいはずだ。そうに違いない!

ところで、犯人が誰かに操られて犯罪を行うというのと、偽の手掛かりで探偵を操って誤った解決に導くというのとでは同じ「操り」でも全然意味が違うので、「操り」をキーワードにしたミステリ論を構想している人は十分気をつけて取り組んで欲しい。

1.11074(2004/05/22) 明後日の方角

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なるほど、確かに大衆は馬鹿だ。それは誰もが認めることだ。今さらしたり顔で指摘してみても始まるまい。

問題は、自分が大衆の一員だとは誰もが認めたがらないことだ。違いますか?

1.11075(2004/05/23) 『新宝島』と『智恵の一太郎』と『偉大なる夢』の感想

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光文社文庫版江戸川乱歩全集第14巻『新宝島』を読み終えた。思ったより難渋せずに読めた。以下簡単に感想を記す。

『怪人二十面相』から始まる少年探偵団シリーズで一世を風靡した乱歩も時代の流れには逆らえなくなり、怪人が登場する小説が書けなくなった皇紀二千六百年、変態性慾も猟奇犯罪もない純然たる冒険小説を発表することとなった。これが『新宝島』だ。

そういうわけで、乱歩らしさがほとんど感じられない作品だった。当時の世相を反映した記述と現代とのギャップが少し笑えた程度で、あまり楽しい小説ではなかった。最後の締めくくり方(この種のパターン小説の結末のひとつ手前で終わっている)がちょっと意外だったが、特にそれ以上の感想はない。

『新宝島』の後、いよいよ乱歩に小説の仕事が回ってこなくなり、仕方なく名前を変えて書いた科学読み物が『智恵の一太郎』で、これは私の好みにあう楽しい作品だった。もちろん変態的ではないのだが、科学趣味、ディテクションへの興味が際だっていて、ある意味では非常に乱歩らしい連作だった。『鏡地獄』から奇想だけを取り出して純粋培養した、というのは言い過ぎだろうか。

特に感心したのは「魔法眼鏡」「月とゴム風船」の二篇で、天体学や光学、心理学について、実験と観察、思弁を駆使して迫るのが感動的だった。この路線をさらに突き進めてSFを書けばよかったのに、と思ってしまった。

巻末の『偉大なる夢』は少年物ではなく、大人向けのスパイ小説だ。マッドサイエンティストが登場するが、猟奇的な要素はやはりほとんどない。米国のスパイによる殺人事件の謎を解きスパイの正体を見破るという話なので、謎解きもののミステリとしても読める。いや、防諜小説という体裁を隠れ蓑にした探偵小説というべきか。

実際に『偉大なる夢』を読んだのはこれが始めただが、この小説はミステリのある趣向を扱ったかなり初期の例としてよく知られているので、タイトルだけは以前から知っていた。私の知る限り、後年の乱歩は長篇で2回、短篇で1回、この趣向に挑んでいる。ただ、同じ趣向のカーの有名作と比べて、仕掛けや演出がうまいとは思わない。それは『偉大なる夢』も同じだ。

ミステリとしての評価とは関係ないが、当時のルーズベルト米大統領が何度か登場するのが面白かった。時代の制約により多少矮小化されているが、もしかすると登場人物の中で乱歩が最も感情移入していたのがルーズベルトではないかと勘繰ってみたくなるような箇所がいくつかあった。

ミステリの反社会性、犯罪誘発の危険が声高に説かれる時代がすぐそこまで来ている。ミステリ作家は『偉大なる夢』を読んで、来るべき冬の時代の乗り切り方を考えたほうがいいかもしれない。

1.11076(2004/05/23) 帰国

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NHKのニュースを見ながら思った。「長男」とか「長女」とかではなくて、ちゃんと名前で呼んでやれよ、と。

それとも、何か名前を出せない事情でもあるのだろうか? プライバシーの問題とか、名前を公表したら命に危険がおよぶとか。そういう事情があるのなら、まあ仕方がないか。

1.11077(2004/05/23) 至福

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『名探偵 木更津悠也』(麻耶雄嵩/カッパ・ノベルス)を読んだ。非常に面白かった。

1.11078(2004/05/23) 至福の後に

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非常に面白かった。の一言では言い尽くせないので、もう少し感想を付け加えておく。

まず最初に基本的情報から。『名探偵 木更津悠也』は麻耶雄嵩のデビュー作『翼ある闇』に登場する名探偵木更津悠也と記述者の香月実朝のコンビが活躍する中篇4つを収録したもので、第3話の「交換殺人」は書き下ろしアンソロジー『21世紀本格』(島田荘司・編/カッパノベルス)が、それ以外の3篇は光文社の雑誌「ジャーロ」が初出である。

麻耶雄嵩が創造したシリーズキャラクターといえば、名前のインパクトが凄いメルカトル鮎を真っ先に思い浮かべる人が多いだろう。それに比べると木更津悠也のほうは若干地味で、いわば"日本のロジャー・シュリンガム"とでもいうべき微妙な存在だ(とはいえ、メルカトルを"日本のアンブローズ・チタウィック"と呼ぶ気にはならないが)。『名探偵 木更津悠也』でもかなり損な役回りが割り振られている。だが、木更津悠也がただの戯画化された名探偵でないことは、最終話「時間外返却」の締めくくりの場面(258ページ〜259ページ)を読めばわかる。「これぞ、名探偵!」と言いたくなるようなカッコよさが見られる。探偵と記述者の役割は逆だが、『能面殺人事件』の解決部分を読んだときのような爽快感があった。

だが、私は名探偵論は苦手だし、そもそもキャラクターを中心に小説について語るのが好きではない。以下、ミステリとしての技巧や仕掛けを中心に、個別の作品について感想を書くことにする。

まず「白幽霊」に驚かされた。この小説を支える着想は一言でいえるほど単純なものだが、それを実際にミステリで書こうとすると非常に難しい。なぜなら、単に事件の構図(作中の言葉では「図形」)を構築して記述するだけでは駄目で、与えられたデータから探偵役がその構図を推理しなければならないのだから。凡庸な作家なら、倒叙物に逃げようとするところだが、麻耶雄嵩は逃げずに真っ正面から通常のパズラーとして書ききった(いや、倒叙物のほうが正面か。まあ、そんなことはどうでもいい)。

ミステリの中で特に謎解きを重視する作品(私はそれを「パズラー」と呼ぶ。昔は「本格」で通用したが、最近は「本格」と呼ばれる作品でも必ずしも謎解きの興味に重きを置かずに真相の意外性だけに焦点を絞ったものが多いので、ここでは私の用語法で統一する)は往々にして「これは小説じゃない。どこにも豊饒な物語がないじゃないか。こんなのは単なるパズルだ」と批判されることがある。この批判は半分は正しくて、半分は間違っている。確かにパズラーは単なるパズルに過ぎない。しかし、そのパズルは小説として書かれたパズルなのだ。

「白幽霊」はまさに小説として書かれたパズルであり、さらに言うなら小説でなければ成立しないパズルでもある。このような小説が万人には受け入れられるとは思わないし、自称「ミステリファン」でも受け付けない人もいるだろう。それはそれで仕方がないことだ。だが、パズルを構築し、それを解く過程のダイナミズムも物語の楽しみの一つであり、はなからそのような楽しみを排除して「これは小説ではない」と非難するのはやめてほしいと思う。

脱線した。もうちょっと気楽にさくっと行こう。

「禁区」もよく練られた佳作だが、「このデータから事件の真相を推理することが可能なのか?」という疑いが残る。もう一つ決め手がほしかった。あと、この事件はむしろメルカトル鮎向きではないかとも思った。

「交換殺人」は『21世紀本格』で読んでいたが、細部は忘れていた。交換殺人という不自然で不経済(露見したときの刑罰が重い)な犯罪を扱っているので、どうしても無理が生じてしまうのはやむを得ないところか。木更津があるデータを入手していなかったために真相に気づくのが遅れるのだが、その伏線が素晴らしい。

で、最後の「時間外返却」だが、これも「禁区」と同じ不満があった。もう一つの決め手がないため、ルミノール反応で決着をつけたわけだが……。ただ、前述のとおり最後の場面で感心したので、読後感はさほど悪くはない。


おまけ、その1。

昨夜(正確にいえば5/22午後11時半から5/23午前4時まで)、海燕氏のところでチャットを楽しんだ。その際、『名探偵 木更津悠也』と同じ趣向のシリーズ物の前例はないか、という話になった。その時、私は『まかせてダーリン』(鈴木雅洋/てんとう虫コミックス)を挙げたのだが、後から考えると前例というほど似ているわけではない。

本来ならば、チャット参加者の方々にそれぞれお詫びして訂正するところだが、私の知らない人には連絡しようがない。みんなが「たそがれSpringPoint」を見ているわけではないだろうが仕方がない。ごめんなさい。


おまけ、その2。

「白幽霊」つながりで、あのあれにリンク。

1.11079(2004/05/24) 高度に着飾った透明人間はミイラ男と区別がつかない

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「高度に着飾った」という言い回しは日本語としておかしいな……。


『ダブリン市民』から「ん」を抜くと、「ダブリ、シミ」になることに気づいた。

だからどうしたというんだ。私は疲れている。


疲れているので旅行に出ることにした。諸般の事情により、行き先は東京だ。5/28(金)にはこれ(第1回)を見に行くつもりだ。明日の午後12時まで受け付けているので、付き合ってやってもいいという奇特な方はぜひメールを頂きたい。もし誰も一緒に行ってくれる人がいなければ、一人寂しくここに行くことにしよう。

ああ、全然脈絡がないなぁ。

1.11080(2004/05/25) 華氏4分33秒

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何となく思いつきで見出しを書いたが、別に何も考えていない。今日はこれでおしまい。たぶん明日も似た具合だろう。

1.11081(2004/05/26) 短歌日記

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豚丼にキムチをのせて豚キムチ丼って、それはちょっと違うんじゃないかな

1.11082(2004/05/29) かわりに考える

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あなたの目の前にたくさんのご馳走があるとしよう。あなたは全部食べたいと思っていたが、最後のデザートの前に挫折した。そんな時、私はあなたにかわって食べることができる。

あなたがひどい便秘に悩まされているとしよう。もう一週間もお通じがない。そんな時、私はあなたにかわって排便することはできない。

食事と排泄で、どうしてこのような非対称性が生じるのだろうか? これが私があなたに提示する第一の問いだ。

この問いが馬鹿らしいと思う人は、もちろん無視して構わない。だが、時間と心に余裕がある人は、是非少し立ち止まって考えてみてほしい。そうして得られた答えが有益なものだと保証はできないが、少なくともあなたに金銭的損害を与えることはないはずだ。

この問いに興味はあるが自分で考えることは面倒だと思う人もいることだろう。そのような人のために、ここで答えを述べることは簡単だ。実をいえば私はまだ完全に納得のいく結論に達してはいないが、もう少し考えればそれなりに説得力のある答えにたどり着けるだろうという見込みがある。だがしかし……。

ここで今日の第二の問い。もし私が第一の問いの答えをここで書いた場合、私はあなたのかわりにその問いについて考えたということになるのだろうか? さらに第三の問い。他人のかわりに考えるということはそもそも可能なのか?


読者サービスのため、第一の問いについて暫定的な解答を書いておく。文字色を反転させて読んでほしい。

非対称性は食事と排泄の間にあるのではなく、上で挙げた例の間にあるだけである。上の食事の例では、とりあえず与えられた食物を片づけることを目的としていて、誰の胃袋に入るかは問題ではないが、排泄の例では誰の大腸から排泄されるかが重要な問題となっている。別の例を工夫すれば、逆に私があなたのかわりに食事することは不可能だが排泄することは可能だと主張することもできるだろう。たとえば、あなたの空腹を解消するという目的のためには私はあなたにかわって食事をすることはできないし、肥料として人糞が必要はときに私があなたにかわって排泄することは可能だろう。したがって、一般論としては、食事と排泄の間には上で提起したような非対称性があるわけではない。

1.11083(2004/05/30) 土葬

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先週木曜日、すなわち5/27早朝に我が家の二軒隣りの家の人が亡くなった。享年95歳。白寿には少し足りなかったが、まあ大往生といっていいだろう。

私は旅行に出たので、お通夜にも葬式にも出なかったが、後から聞いた話では故人の遺体は近所の人々が棺に入れて川向かいの山裾にある畑に運び、そこに埋葬されたそうだ。

つまり、土葬ということだ。

私の地方の葬儀のしきたりについては、2年前に書いたこの記事で述べた。その中でいちばん最近では一昨年にも土葬が執り行われている。もっとも去年は私の知る限り一件も土葬がなかった。と書いているが、その後も火葬が続いたので、今回は4年ぶりの土葬ということになる。もしかしたらこれが最後かもしれない。

ここでちょっと余談。この記事の見出しの「Actus tragicus」というのはバッハのカンタータ第106番「神の時はいとよき時なり Gottes Zeit ist die allerbeste Zeit」の異名で、「哀悼行事」という意味だ。この種の衒学趣味は後から振り返ってみると鼻持ちならない臭気を放つ。それがわかっていながら、私はそれを振り捨てることができない。こうやって出典を明示することで多少とも臭気抜きになればないのだけれど。余談終わり。

さて、早すぎた埋葬を別にすれば、土葬であろうが火葬であろうが、あるいは風葬や水葬、鳥葬であっても、葬られる当人の死後の事柄である。どのような方法をとるかは遺された人々にとっては重要であるが、本人にとってはどうでもいい話だ。なぜなら、葬儀のときには既に生きてはいなのだから。

にもかかわらず、もし「あなたが亡くなったら、特別に豚葬にしましょう。バラバラに切り刻んで豚に餌にするのです。有意義でしょう?」と提案されたなら、「頼むからそれだけはやめてくれ」と言う人が多いのではないだろうか? 嫌悪、不快、または軽い戸惑いかもしれないが、少なくとも「火葬にしましょう」と言われたときとは別の感情がわき起こるはずだ。

では、それは不合理な感情なのだろうか?

この問題は死生観に関わることなので、簡単に答えを出すことはできない。少なくとも、次の3つの場合を区別する必要はあるだろう。

  1. 人は死んだら端的に消滅し、意識も人格も何も残らない。人の遺体とは生命活動を行わない有機物の塊に過ぎない。
  2. 人は死んでも完全に消滅するわけではない。魂(または精神)は何らかの仕方で存続する。ただし、死後の魂は身体からは離脱しており、遺体の状況によって影響を受けることはない。
  3. 人が死んでも何かが存続するという点では2と同じで、さらに身体との結びつきも存続すると考える。生前と同じように身体に魂が宿るのかもしれないし、もう少し結びつきは弱くなり空間的には離れるのかもしれない。しかし、いずれにせよ、遺体の状況の変化は何らかの意味で魂に影響を与えうる。

また、この区別を立てたとしても「自分の葬られ方について顧慮するのは、1か2を採用した場合には不合理であり、3の場合は合理的であり得る」と単純に結論づけることはできないように思う。なぜなら、そのような顧慮は遺体と魂の物理的因果関係(?)の有無のみに依存するわけではないからだ。うまく説明できるかどうか自信がないが、次のように考えてみよう。

今ではさほど抵抗感はなくなったが、子供の頃私は火葬に強い嫌悪を感じていた。死んだら熱さを感じることはないとわかっていても、高温で一気に焼き上げられてしまうということがたまらなく嫌だったのだ。死んだら大地に埋もれて、静かに土と同化していきたい、そう考えていた。

その話を知人にすると、逆のことを言われた。「土葬だけは絶対にいや。だって、自分のからだが徐々に腐って虫に食い荒らされていくんだから。それより火葬ですぐに乾いた骨になるほうがずっといい」と。

私もその知人も、土葬と火葬のそれぞれにおいて遺体に与えられる物理的変化を述べ、その変化の受け入れやすさの差を根拠にして土葬か火葬かを選択するという仕方で議論を行っている。だが、よく考えればわかるように、これは実は話が逆で、まず最初に土葬か火葬かの選択があって、その選択に従ってそれぞれの方法の結果遺体が被る変化の受け入れやすさを値踏みしているのだ。つまり、私が火葬よりも土葬を好み、件の知人が土葬よりも火葬を好むのは、それぞれの葬り方の結果に基づくものではなく、別の理由があったということだ。

その理由を一言でいえば、「伝統」である。共同体の一員として生まれ育った生育歴の中で見聞きし、また実際に体験した葬儀の状況が意見を形成する大きな要因になっている。

ある種の伝統のもとでは伝統は不合理なものと見なされてきた。伝統は事実として意見を形成する要因ではあるけれども、それは意見の論理的な根拠ではない、と。議論の場から伝統をなるべく遠ざけようとする伝統に従うならば、私も例の知人もともに不合理な議論を行っていたということになるだろう。合理的な立場はただ一つ。火葬も土葬も(少なくとも上記死生観の1または2を採用する限り)本人にとっては無意味なのだから、議論するに値しない。

とはいえ、私はその"合理的"な結論を受け入れることに躊躇している。日常生活で我々がごくふつうに行っている判断、特に問題含みでもなければ不条理な帰結をもたらすわけでもない自然な思考の大部分が、突き詰めれば伝統にかなり多くを負っている。それらの判断や思考をあえて不合理なものとみなすべきなのだろうか?

1.11084(2004/05/30) 心理と介錯

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『デイヴィッドソン 「言語」なんて存在するのだろうか』(森本浩一/NHK出版)を読んだ。これは「シリーズ:哲学のエッセンス」の一冊で、オビによると既刊は『デイヴィッドソン』を含めて12冊、次は2004年7月刊行予定の『クリプキ ことばは意味をもてるか』(飯田隆)、そしてさらに3冊出て、全16冊で完結する予定らしい。

このシリーズは刊行開始時から興味を持っていたのだが、買うのはこれが初めてだ。興味を持った理由は、よくある「○○分でわかる××」という類の通俗的な哲学入門書シリーズにしては人物の選択がちょっと変だったからで、買わなかった理由は値段のわりに分量が少ないからだ。

人物の選択が変、というのは言い過ぎかもしれないが、プラトンから現代に至る西洋哲学史の流れの中でどうしてこの16人を選択したのかがよくわからないのは事実だ。特に、今回のデイヴィッドソンには首を傾げた。確かに20世紀の大哲学者の一人ではあるのだが、20世紀の分析系の哲学者ならほかにもっと有名な人がいるのに、どうしてこの人が選ばれたのだろうか? 今さらウィトゲンシュタインでもないだろう、という判断だったのかもしれない(でもハイデガーは選ばれている)が、それならカルナップを入れてほしかった。一般向けの入門書でカルナップは無茶かもしれないが、デイヴィッドソンでも営業的には相当無理があるのではないかと思う。

それはさておき。

デイヴィッドソンの活動領域は幅広い(分析系の人としては、という留保つきだが)ので、たかだか120ページ程度の本で彼の全体像を描き出すことなど到底不可能だ。そこで、この本では――副題からもわかるように――言語哲学の領域に話を絞っている。これは賢明な戦略といえるだろう。

私はデイヴィッドソンの哲学をあまりよく知らない。巻末の読書案内に掲げられている本のうち、『デイヴィッドソン――行為と言語の哲学』(サイモン・エヴニン(著)/宮島昭ニ(訳)/勁草書房)は読んでいるが、『言語哲学大全IV 真理と意味』(飯田隆/勁草書房)は途中で挫折した。デイヴィッドソン本人の書いた本は読んだことはない。つまり、あまりよく知らないというより、ほとんど何も知らないというほうが正しい。そんなわけで、『デイヴィッドソン』がどの程度デイヴィッドソンの哲学をうまく紹介できているかという観点からは何も述べることはできない。そこで、どうでもいい感想を書いてお茶を濁しておく。

最初、私は筆者のことを何も知らずに本を読んでいて、「発話行為論」という言葉が出てきたところで、おやっと思った。これは"speech act theory"の訳語だが、私の印象では哲学畑の人は「言語行為論」という訳語を用いることが多い。「発話行為論」という訳語はどちらかといえば現代思想系(というのも変な言い回しだが、適切な言い方が思い浮かばない)がよく使っているようだ。最後にあとがきを読むと、私のような文学研究の世界の人間が、アメリカ現代哲学の泰斗であるデイヴィッドソンを担当するという奇妙なめぐり合わせが生じたと書いてあって納得した。

ああ、本当にどうでもいい感想だ。もうちょっと別のことも書いておこう。

デイヴィッドソンの考え(として『デイヴィッドソン』で述べられている事柄)によれば、言語は予め成立した規範性をもつ体系ではなく、その都度その都度、聞き手が寛容の原理に基づいて行う解釈によって生産されるものだということになるだろう(この理解が間違っていたらごめん)。では、話し手のほうは自分が発した言葉の意味をどのようにして理解するのだろうか? 自分の言葉は自分にとっては自明であり解釈の必要はないと考えるのか、それとも原理的には未知の言語に触れたときと同じ方法で解釈して理解することになると考えるのか。

私の言葉が私にとって自明なものではないことは自明である。その証拠に私は一つ前の段落で言ったことがどのような意味をもつのか十分に把握してはいない。他人の言葉を解釈するときと比べると、言葉を発したときの意識についての記憶がある場合には多少有利だが、それでも少しこみ入った事を言うときには自分の言葉をどう解釈すればいいのか戸惑うことがある。そんな時、私は何を手掛かりにして解釈を構築すればいいのか? また解釈の際に用いた言葉の解釈はどうすればいいのか? それを考えると私は夜も眠れなくなる。

デイヴィッドソンの言語論については『哲学・航海日誌』(野矢茂樹/春秋社)で批判されているそうだ。例によって途中で頓挫したが、今でも探せば私の部屋のどこかにあるはずだ。この機会に再挑戦してみるのも悪くはないかもしれない。

1.11085(2004/05/31) 世界禁煙デー

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「禁煙」の二義性については前にも書いたことがあるかもしれないが、いつ書いたのか忘れてしまったし、もしかしたら記憶違いだったという可能性もないことはないので、繰り返しを恐れずに書いてみよう。

「禁煙」という言葉には二つの意味がある。一つは、ある一定の場所や時間において喫煙を禁じるということで、もう一つは喫煙者が煙草をやめるということだ。「喫煙」という字面からすれば前者の意味のほうが自然なような気もするが、後者も「自らに喫煙を禁じる」ということだとすれば、まあ字義にかなっていないわけではない。

ただ、一つの言葉が二つの意味を持ち、それらが時には区別なしに用いられるということはあまり好ましくはない。私は前者の意味での禁煙には大賛成するが、後者の意味の禁煙には別に賛成しない(が反対もしない)。この態度を「部分的禁煙論」などと要約されるとちょっと困る。

言葉を常に自覚的に注意深く用いるなら、「禁煙」の二義性はさほど問題にならないだろう。しかし、いつも言葉に気を配るのは経済的ではない。

後者の意味を表すために「禁煙」とは別の言葉を用いることにしてはどうか。たとえば「断煙」とか。特に説明しなくても「断酒」という言葉からの類推で、容易に意味が理解できるのではないかと思う。

「禁煙」に関しては、もう一つ、特に喫煙を禁じられていない状況を指す言葉がないという問題を挙げることができるだろう。「禁煙車」に対して「喫煙車」という言葉があるが、この言葉にはどうにも違和感がある。最近、駅の案内放送では「1号車から3号車までは禁煙車、4号車と5号車はお煙草がおすいいただける車輌です」などと言っているが、回りくどい。「禁止」の対義語は「許可」だから、「可煙車」とでも呼べばいいのだろうが、これを耳で聴くと何となく火がぼうぼうと燃えさかっているような印象を受ける。何かいい言葉はないものだろうか。

言葉の話を離れて、禁煙そのものに話を移す。今度も鉄道の話だ。

日本の鉄道ではほんの20年くらい前まで、都市の通勤電車以外のほとんどの列車で喫煙が許可されていた。国鉄が初めて禁煙車を導入したとき、専売公社への営業妨害だと国会で非難した議員がいた、という笑い話のような実話もある。だが、時代の流れは徐々に喫煙を制限する方向に進み、今では有料列車の喫煙車を除くほぼすべての車輌で喫煙が禁止されている。

煙草がすいたい人は喫煙車で煙草をすえばよく、煙草の煙を吸い込むのが嫌な人は禁煙車に乗ればよい。ひとつの列車内で分煙(「分煙」という言葉についてもいろいろ言いたいことはあるのだが、言葉の話は打ち切ったので、ここでは述べない)するという方法は、喫煙者・非喫煙者ともに我慢することも迷惑をかけることもない合理的なやり方だ。そう考える人もいるかもしれない。だが、ここには見落としがある。見えない人がいるのだ。チェスタトンも真っ青だ。

北欧では、車掌や車内販売員の受動喫煙を防ぐため列車の座席は全面禁煙にして、そのかわりに喫煙室を設けているそうだ。日本でも同じようにすべきだと思う。列車を改造して喫煙室を作るにはそれなりの費用がかかるし、喫煙室の分だけ客室スペースが減るので、鉄道会社は二の足を踏むかもしれない。だが、喫煙者の灰皿の清掃や室内のヤニ取り、換気、除臭にかかるコストのことを考えれば、さほど大きな損害にはならないのではないか。もしそれでも足りないというのであれば、喫煙室を有料にしてしまえばいい。

誤解のないように繰り返しておくが、私は喫煙者に煙草をやめるように求めているわけではない。煙草をすうよりはすわないほうがいいのは当然だが、それをわかった上ですいたい人は勝手にすえばいい。「自己責任」という言葉はあまり好きではないが、喫煙を合理的に擁護するのにこれ以上の言葉は見あたらない。

ただし、もちろん他人に危害を加える場合には喫煙を容認するわけにはいかないし、喫煙が社会に与える不利益が大きいなら、その不利益の度合いに応じて制約が与えられることもやむを得ないと考える。前者の例としては受動喫煙による健康被害が第一に考えられるだろうし、後者の例としては公共空間の清掃費用、火事などの災害による損害、または医療保険への負荷などが挙げられるだろう。

ところで、喫煙における自己責任論には、私の知る限り二つの反論がある。一つは、喫煙が人体に与える影響が十分に開示されていないというもので、もう一つは常習的喫煙者には責任能力がないというものだ。自分の行為がどのような結果をもたらすかについて確かな知識を持っていない人が何かを行ったときに、その人にすべての責任を負わせるのは適切ではない。また、主体的な意思決定が不可能な状況で何事かを行っても、責任を問うことはできない。

今のところ、私は自己責任論への反論がどの程度有効なのか見極めがついていない。これらの反論が全面的に正しいとすれば喫煙は完全に禁止すべきだろうが、そこまで踏み込むにはまだデータが足りないのではないかと思う。現段階では完全に禁煙するよりも、受動喫煙を防止した上で啓発や環境整備により喫煙者の断煙を促すほうがよい、というのが私の考えだ。