【日々の憂鬱】めでたくもないのに「あけましておめでとう」と言うのはいかがなものか。【2004年1月上旬】


1.10896(2004/01/01) 新年ひきこもり

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401a.html#p040101a

私の家の近くでは、大晦日の夜が更けて日付が変わると、家族全員で近所の神社に初詣に行く風習がある。私は物心ついてからずっと初詣を欠かしたことはないのだが、今年は初めて初詣に行かなかった。神社で近所の人に会ったら「あけましておめでとう」と言わざるを得ないのだが、今の私にはその一言が苦痛でならない。

めでたい事など何もない。

ひきこもってパソコンに向かい、ネットを散策していると、あちこちのサイトで「あけましておめでとう」を連呼している。何年か前にはやった「あけおめ、ことよろ」は見かけなかったので少しほっとしたが、それでも気分がささくれ立つのはどうしようもない。

そんな中で心休まる記述を見つけた。

今年も、何だか良くない事しかなささうだけれども、いつもの事だから變に期待はしないでおかうと。

世間ではまた「おめでとう」「おめでとう」の紋切型の連發で、あんてなもその種の更新ばかりを拾つてゐる事だらう。御苦勞な事だ。

ついでに、なんとなくもののはずみで同じページに張られたリンクを辿って、保守をめぐるやりとりという文章を読んでみた。政治に関する問題で私が関心を持っているのは、交通政策と少子化対策くらいで、「保守/革新」という視座で語られるような話題にはあまり関心はないのだが、少し気になった箇所があるので取り上げておく。

1+1=2

これがロジックというものだ! ロジックは価値観から開放(ママ)されているのだ! なんていう人がたまにいる。バカっぽい。

小麦粉を2袋買ってきたとする。その中身をひとつの大きな袋に移しました。では問題です。小麦粉は今、何袋あるでしょうか?

答えは1袋です。

右手にひとつ、粘土を持っています。左手にもひとつ、粘土を持っています。両手の粘土を合わせて、大きな塊にしました。では問題です。粘土は今、何個あるでしょうか?

答えは1個です。

何に注目するのか、それが問題なんです。上記の例では、小麦粉と粘土の質量に注目すれば 1+1=2 は成立しています。けれども、人によって事象の見方は異なります。視点次第では、1+1=1 になってしまう。1+1=2 が成立するのは、その前提となる価値観が共有されている場に限られます。

これは、いくら論理的に話を進めても前提となる価値観が異なっていたら同じ結論を導くことはできないということを例示したものだ。あくまでもたとえ話であり、本題は別にある。だから、この部分についてあれこれ言っても文章全体の批判にはならない。それを承知の上で、あえてこの部分にツッコミを入れておく。

私のツッコミは馬鹿馬鹿しいほど単純なものだ。すなわち、「1+1=2」は数学的計算の例であり、これ単独では論理に関わるものではないということだ。論理と数学はよく似たようなものとして取り扱われるが、数学基礎論における論理主義のような特別な立場をとるのではない限り、いちおう別のものと考えるべきだろう。

さらに言えば、上の例は数学が価値観から解放されてはいないということを示すものですらない。視点次第では、1+1=1 になってしまう。という記述はミスリーディングだ。小麦粉を小さな袋から大きな袋へ移し替えたり、両手の粘土を合わせたりするのは、加法という操作ではないので、そもそも「+」とか「=」という記号で表すこと自体が間違っている(この点については、前に論じたことがあるので、参照されたい)。

論理は絶対不可謬な導きの星ではない。前提が間違っていれば、結論も間違っているかもしれない。前提に合意が得られなければ、結論に合意が得られなくても不思議はない。こんな当然のことを説明するのに、なぜピントがずれていて、かつ、ミスリーディングなたとえ話を持ち出す必要があるのか、私には理解しがたい。ほかにいくらでも適切な例があるだろうに。

1.10897(2004/01/02) 私と鬱と昔の記憶

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401a.html#p040102a

今年最初に読んだ小説はミステリだった。それもただのミステリではない。面白いミステリだった。世に多くのミステリが溢れているが、面白いミステリは滅多にない。面白いミステリのほうが面白くないミステリよりもいいはずなのに、どうして世間のミステリ作家たちは面白いミステリを書かないのか私には不思議だ。

それはともかく、面白いミステリを読んだことで、私は鬱のどん底から脱出することができたのは喜ばしいことだ。だが、この状態がいつまで続くか自分でもわからない。ウサギは食糞しないと死んでしまうが、私は面白いミステリを読まないと死んでしまう。もっと面白いミステリを!

なお、諸般の事情により、その小説のタイトルも作者名も秘密だ。絶対に秘密だ。誰にも言ってはならない。と、ここまで念押ししておけば大丈夫だろうと思うが……心あたりのある者は、怒らないから直ちに出頭もしくはメール連絡せよ。


世の中にはさまざまな人々がいる。中には社会生活を営むのがやや困難な人もいて、私もその部類に入る。だが、私の場合はわかりやすい物語を抱えていないので、なかなか理解されにくい。

ここで「物語」というのは、たとえば「幼少期に父親から性的虐待を受けたので頻繁に手首を切る」とか「小学校で学級ぐるみのいじめを受けたので成人してからも精神安定剤に頼りきりの日々が続いている」という類の説明だ。私には自傷癖もなければ薬物依存症でもなく、子供の頃に虐待やいじめを受けた覚えもない。従って、「なぜ滅・こぉるは一所懸命になって一足す一が常に二であることを主張しようとするのか?」などと質問されても、納得のいく回答を与えることができない。

いわゆる"ふつうの人"とは異なる生育歴により、さまざまな心身の問題を抱え、それが故に言動にややおかしいところがあるのなら、話は簡単だ。そのような人は差別に悩まされるかもしれないが、了解不可能な異物として扱われることはない。本当は「なぜ性的虐待がリストカットの原因となるのか?」という疑問がないわけではないが、多忙な人々は直接自分に関係のないそのような疑問を封じ込める術を知っている。

他方、世の中には私のようになぜかしら奇妙な事を考えたり言ったりする人もいくらか存在するのだが、この人種にはちゃんとしたレッテルがまだない。昔、大森荘蔵は常に哲学的問題ばかりを考え続けることを「哲学病」と呼んだが、この名称はあまり一般的ではないし、適用範囲が狭すぎる。少なくとも私は四六時中哲学のことばかり考えているわけではない。

実存主義者ならレッテル貼りを忌避するかもしれないが、私はどちらかといえばレッテルが好きだ。自分にぴったりと合ったレッテル、社会的認知度の高い呼称を探し続けている。「奇人」「変人」では漠然としすぎている。「精神的ひきこもり」では、リアルひきこもりとの差異を説明するのが面倒だ。どうも適切な言い方が思い浮かばない。

「あなたはどうしてこんな事をしているのですか?」

「実は私はストーカー/アダルトチルドレン/マゾヒスト/ストリートパフォーマー/カニバリストなんです」

「ああ、なるほど」(顔を背け、後ずさりして退場)

こんなふうに、詳しい説明抜きですむ便利な言葉はないものか。


どうでもいい話。「エンドウ豆」を全部漢字で書くと「豌豆豆」となる。


年末のオフ会で某氏が「滅・こぉるの名前を知らない人が業界にいるわけないじゃないですか」と言っていた。一口に「業界」といっても保険業界もあれば金融業界もあるし、物流業界やアパレル業界もあるのだが、おそらく某氏が言われたのはこのうちのどれにも当てはまらない、非常に小さい業界のことだろう。なぜなら、上記の業界のどれか一つであっても私の名前が周知のものになっているのなら、「たそがれSpringPoint」のアクセス数が一日あたり300前後ということはないはずだからだ。

業界ではないが、ミステリサイト界隈を見回すだけでも、私の知らない人がいくらでもいる。当然、相手も私のことなど知らないだろう。いくら狭い世界でも私がそんなに有名だとは思えない。某氏の発言がかなり誇張されたものであるのは間違いない。

とはいえ、その発言で私は"見られている自分"を意識してしまった。すると、途端に文章が書きにくくなった。もともと読者のことを全く無視しているわけではないが、言及している相手に読まれているかもしれないと意識しつつ文章を書いていたわけではない。これからは「この文章はあなたの言動を批判しているだけで、別にあなたの人格を非難しているわけではありませんよ」と断り書きを入れる必要があるかもしれない。だが、そんな言い訳だけで足りるだろうか?

1.10898(2004/01/02) オフ会とかコミケとかの話

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401a.html#p040102b

まずオフ会の話から。

オフ会の参加者はみんながみんなミステリ系というわけではなかったが、会話の内容は比較的ミステリ度が高かった。当初、参加者の名前は全員公開する予定だったが、面倒になったのでやめた。また、「某氏」ばかり連発しても面白くないので、オフ会の詳細なレポートは省略する。

次にコミケの話。

いちおう三日とも参加しているのだが、一日目と三日目はあまり書くことがない。いちばん多くの人々に会ったのは二日目なので、それを中心にまとめよう。そう思って書き始めたが、今となっては誰に会ったのかはっきりと覚えていない。そういうわけで、こちらも詳細なレポートは省略する。興味のある方はこのあたりを参照のこと。

と、リンクひとつで済まそうとしたのだが、一人抜けていることに気づいた。たぶん滅さんを見に行くオフとなるが、在籍せず。の頃に、私は天変地異ノの前で水没クローゼットの中の人と話をしていた。

ところで、ここを見ると、個人的には「キョウゴク」の「ゴ」が鼻音だったのが非常に印象に残っているが、私は耳が特別いいわけでもないし、単なる勘違いかもしれない。と書かれていたので、「キョウゴク、キョウゴク」と繰り返して呟いてみた。これまで気にしたことはないけれど、確かに私の「ゴ」の発音は鼻濁音の「コ゜」だ(もちろん「キョウ」と「ゴク」を分けて発音すれば普通の「ゴ」になる)。


今日、『アンチクリストの誕生』という小説を読んだ。コミケで(゜(○○)゜) プヒプヒ日記の中の人が売っていた10部のうちの1部。おお、稀覯本ではないか。

ストーリーの流れから、おそらくカーの某有名短篇のような趣向の小説なのだろうと想像したが、肝心の人名はヨーロッパ史に疎い私には最後の最後までわからなかった。読み終えたあとでネットで検索してようやく「なるほど」と思った次第。

昔の小説なので今とはテンポが違っている。現在の作家が同じネタを扱うなら、いきなり夢のお告げから話を始めることだろう。とはいえ、別に退屈になるほどの長さでもないし、これはこれで味わいがあってよい。後半のコミカルな展開(客観的にみればかなり切羽詰まった状況なのだが)も面白かった。読者諸氏にも是非一読をお薦めしたい秀作だ(もちろん、薦められても入手しようがないことを見越して言っているわけだが)。

この小説の作者レオ・ペルッツについてもほとんど知識がないので、同様に検索してみたところこんなページが見つかった。『犯行以前』(別題『レディに捧げる殺人物語』)は探偵小説ではなく犯罪小説だ、と断言できた古き良き時代に思いを馳せつつ、引き続き同人誌の消化に取りかかることにしよう。

1.10899(2004/01/02) ウェブサイトとか同人誌とかの話

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たとえば、トップページを開くとじゃんすかじゃんすか音楽が流れてくるサイトがあったとしよう。そのサイトは別に音楽系でもなんでもなく、特に音楽を流す必要は感じられない。そこで「せめて音楽を流すかどうか閲覧者が選択できるようにしてよ」と管理人に言ったとしよう。すると、「嫌だったら見てもらわなくて結構」とつれない返事。

今度は同人誌の例。創作文芸系の分厚い同人誌を買ってきて、いざ読もうと開いてみると、本文に丸文字やら江戸勘亭流やらが無秩序に乱舞していて読みにくいことこの上ない。そこで「せめて本文のフォントは一種類に統一してよ」と作者に言ったとしよう。すると、ここでもやはり「嫌だったら読んでもらわなくて結構」と喧嘩腰の返事。

ただ、同人誌はウェブサイトと全く事情が同じというわけではない。「金を払って買ったんだから、文句の一つくらい言わせろ」と言い返すことが可能だ。そしたら売り言葉に買い言葉で「なら、金返すからとっとと失せろ」

かくして、このやりとりは不毛な泥沼へと陥ってしまう。

確かに、同人誌の読みにくさについて非難する資格は、その同人誌を買った人にしかないかもしれない。だが、その同人誌を批判するのは誰でもできるはずだ。批判には資格も立場も関係ない。

それなら、ウェブサイトの場合でも話は同じだ。利害関係者でなければ非難はできないとしても、批判するのは自由だ。批判者と当該ウェブサイトとの関係ではなく、批判の内容が妥当かどうかが焦点となる。

ここで私は「非難」と「批判」という語を次のように使い分けることにする。

非難
人格から人格に向けてなされる行為であり、直接の非難の対象が人格以外のもの(たとえばウェブサイトや同人誌)であったとしても、それは媒介項に過ぎない。
批判
対象(たとえばウェブサイトや同人誌)に向けられた言葉であり、発言者はその言葉の"場"でしかない。

このような使い分けがそれぞれの語の通常の用法にかなっているものかどうかは相当怪しいが、あまり考え込んでも仕方がないので話を先に進める。

非難と批判はレベルの違う事柄だが、実際に意見をやりとりする場では、しばしば両者が混同される。人と言葉を完全に切り離すのは難しいので、これは仕方のないことだとも言える。だが、批判を単なる非難と捉えて、相手にその非難を行う資格がないからと切って捨てるのはあまりにももったいない。批判が妥当かどうか(いきなり音楽が流れるサイトはどの程度忌避されるものなのか?)を吟味して、対案(音楽を流すかどうかを閲覧者に選択させる)の得失を考慮し、さらに別の改善案がないものか考えてみるほうが、ずっと建設的だろう。

また、意見を述べる側も、自分が言っていることが非難ではなくて批判であることを自覚し、本当に妥当な批判なのかどうか(フォントの使い分けには効果がないのか?)よく検討した上で発言しなければならない。「こんな同人誌に金を払って損をした」という感情が先走ってはいけない。

こんな事は現実をわきまえない理想論だ。世間はもっと殺伐としているものだ。誰もが勝ち負けを気にして生きている。理性的な対話などという世迷い言にしがみつくのではなくて、どうすれば他人に対して優越できるのか、いかにして利益を得られるのかを考えろ。……そんな声が聞こえてくるような気もする。

だが、ウェブサイトや同人誌などという趣味の世界にまで、そんな生臭い闘争を持ち込まなくてもいいのではないか。あるいは、少なくともそのような"生の現実"に蓋をして理想論を語ってもいいのではないか。私はそんなふうに考えている。

賢明なる読者諸氏には既にお気づきのとおり、ここまでは前置きに過ぎない。これから本題に入る。今日、私が取り上げるのは……。

おっと、時間切れだ。

1.10900(2004/01/04) 消えた五萬ヒット/巫女さんは妹にしておく

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今年こそは毎日必ず更新しようと思っていたのに、正月三が日でさえ続かなかった。

で、一日ネットから離れていた間に、カウンターの数字が大幅に減ってしまった。大晦日に見たときには16万ヒット以上あったのに、さっき見たら119038だった。少なくとも5万以上減っていることになる。

障害情報(01/03/2004)

カウンターのハードドライブがバックアップドライブと共に破損し、更に古いバックアップドライブから復旧させる運びとなりました。その為データがかなり古いものとなってしまい、大変恐縮ですが最近登録された方のデータは残っておりません。

具体的に何月頃のデータなのか書かれていないが、たぶん6月末か7月はじめくらいだと思う。ということは約半年の歴史が消え去ったことになる。

カウンターの後ろに「+およそ5万」と付け足そうかどうしようか迷ったが、結局やめにした。


巫女マニアの某氏がここに反応を示した。だが私はそういう理由でこのサイトをアンテナに登録したのではないことをここに明言しておく。去年11月頃から断続的に書かれているライトノベルを巡る考察に興味があったからだ。筆者が神社関係の人だとは知らなかった。

でも、どうせなら初日の出より巫女さんの画像をアップしたほうが読者サービスになったのではないかと思う。

1.10901(2004/01/04) 時間の無駄遣い

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401a.html#p040104b

ここひかりの止まる駅の法則が全然わかりません。と書かれていた。そこでちょっと調べてみた。手許にある時刻表(昨年12月号)から東海道新幹線の下りのみ拾ってみる。

"ひかり"停車駅一覧(東海道・下り)
列車名東京(発時刻)品川横浜小田原熱海三島新富士静岡掛川浜松豊橋三河安城名古屋岐阜羽島米原京都新大阪
301 636         
261 710          
303 736         
263 810          
305 836         
265 906         
307 936         
2671006         
3091036         
2691106          
3111136         
2711210          
3131240          
2731306          
3151336         
2751410          
3171436         
2771506          
3191536         
2791606         
3211636         
2811706         
3231736         
2831806         
3251836         
2851906         
3271936         
3292010        
2872053        
2912130       名古屋止
2932200        名古屋止

上の表は手作業で作ったので、もしかしたら間違いがあるかもしれない。ご容赦願いたい。

さて、こうやって表にしてみると、一見したところ無秩序なようにみえる"ひかり"の停車駅にもある程度パターンがあることがわかる。停車駅のパターンを大きく二つに分けると、名古屋以西各駅に停車するものと、岐阜羽島及び米原を通過するものがある。昔、途中から各駅停車になる"ひかり"のことを俗に「ひだま」と称した。ここでもそれに従い、それ以外の"ひかり"を便宜上「速達ひかり」と呼ぶことにする。

以下、思いついたことを箇条書きしておく。

  1. "速達ひかり"と"ひだま"はほぼ交互に走っている。ただし東京駅発19時台以降はその原則が崩れる。
  2. "速達ひかり"の列車名につく番号の百の位は2で、"ひだま"のそれは3である。すると最後の名古屋止め2本は"速達ひかり"に分類されることになる。
  3. この表には記していないが、"速達ひかり"はすべて新大阪または名古屋行き(最後の2本)で、"ひだま"は基本的に岡山行きである。
  4. "速達ひかり"は品川に停車し新横浜は通過する(除く287)が、逆に"ひだま"は品川を通過し新横浜に停車する。
  5. "速達ひかり"は品川、名古屋、京都のほか静岡にも停車する(除く293)。また、熱海、三島、浜松のうちの1つまたは2つにも停車する。
  6. "ひだま"は静岡には停車しない(除く327,329)が小田原か豊橋のどちらか1つに停車する。ただし、313はどちらにも停車しないので、新横浜〜名古屋間無停車となる。
  7. 新富士・掛川・三河安城には"速達ひかり""ひだま"ともに停車しない。

東海道新幹線の各駅に格付けするとすれば、全列車が停車する東京・名古屋・京都・新大阪(開業時の"ひかり"停車駅)が☆☆☆☆☆、"のぞみ"の一部が停車する品川・新横浜が☆☆☆☆、"ひかり"がおよそ1時間に1本停車する静岡・岐阜羽島・米原が☆☆☆(ただし名古屋以西では"こだま"が1時間1本に減るので、岐阜羽島と米原は☆☆★にしたほうがいいかも)、"ひかり"がたまに停車する小田原・熱海・三島・浜松・豊橋が☆☆(熱海は停車本数が少ないから☆★か?)、そして"こだま"しか停車しない新富士・掛川・三河安城は☆ということになるだろう。

ところで、新幹線停車駅といえば、戸板康二の名作『グリーン車の子供』にまつわるエピソードを思い出す。

この小説は新大阪から東京に向かう"ひかり"を舞台にしている。話の都合上熱海で下車する客が必要だったが、発表当時熱海に停車する"ひかり"はなかった。日本推理作家協会賞の選考の場でこれが問題となり、作者の了解を得て舞台を"こだま"に移し決着した。ところが、後日『グリーン車の子供』を読んだ星新一はこう言った。「この小説には欠陥がある。登場人物のみんなが大阪から東京へ向かうのに"こだま"を使ったという謎が最後まで解決されていない」

うろ覚えなので、もしかしたら事実誤認があるかもしれない。確か佐野洋の『推理日記』で読んだはずなので、興味のある人は直接原文に当たってもらいたい。

この話を知ったとき、私は「なぜ現実の新幹線の停車駅にこだわるのだろう?」と思った。解決に必要な重要な要素が現実と食い違っていたら具合が悪いのはわかるが、それでも予め断っておけば問題ない(たとえば鮎川哲也の『黒い白鳥』では列車の屋根に死体を落とすために、電化区間を小説内で非電化にしている)。『グリーン車の子供』の場合は、"事件"(というほどの事は起こらないが)の真相とは関係がないので、なおさら気を遣う必要はない。

しかし、その後私の考えは変わった。確かに、SFミステリのように最初から現実の制度や法則から逸脱していることが前提になっている場合には、改変部分を明示しておけばそれで足りる。だが、基本的に現実に沿った舞台の場合は、現実との相違点はなるべく少ないほうがよい、と。むろん、現実との食い違いがあるからといって、直ちにアンフェアだということになるわけではない。これはパズルのピースにではなく、それによって組み上げられた世界の全体像に関わる問題だ。

「世界」などという言葉を持ち出すは話がやっかいになる。まだきちんと根拠を示せるほど考えがまとまっているわけではないので、この辺でやめておこう。

なお、サブリミナル現象を用いたバカトリックとかロシア語の二人称代名詞の性に基づく手掛かりなどは論外である。

1.10902(2004/01/04) ミステリに関するあれこれそれどれ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401a.html#p040104c

Sankei Web(産経新聞社)の【書評】「失はれる物語」Mystery Laboratoryのコメントを読んだ。

乙一を《キミとボク派》に入れるのはどうかと私も思うが、現実世界の枠組みやしがらみ(あまり好きな言葉ではないが、いわゆる「世間」)から少し離れたところで物語を組み立てているという点では、乙一も似ているかもしれない。思い起こせば「新本格推理」第一世代の作家たちも、大学ミステリサークル内の殺人事件を扱ったりしていたわけで、多くの作家が若い頃に通る道だといえる。

今20代の作家も10年経てば30代になる(「それまで生きていれば」という条件つきだが)わけで、そうなると、多少ともひちゃねちゃした"世間"と関わりを持たざるを得なくなる。その前に、今書きたいものを書いておくほうがいいのではないか。

でも、正直言って私は、人生経験も読書体験も不足がちな《キミとボク派》作家たちの小説を読むのが苦痛である。というのも十分納得できる。今はピンとこない人も10年経てばわかるだろう(これも、「それまで生きていれば」という条件つきだ)。

佐藤友哉は最初の一冊しか読んだこどないのでなんとも言えないけれど、西尾維新の新刊を追っていると、いつも「ああ、としをとったな」と実感させられてしまう。唯一の救いは、としをとるのは私だけではないということだ。

ところで、今20代のミステリ作家といえば、私は真っ先に米澤穂信を思い出すのだが、やはり《キミとボク派》に分類されるのだろうか? 学校が舞台なので表面的には似ているかもしれないが、どうもベクトルが違っているような気がする。


米澤穂信繋がりで、政宗九の視点昨年末のチャットログから特定の話題だけ抜粋して引用。

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nakachu>ミステリ・フロンティアといえば,米澤穂信はいつでるんだろう(ひとりごと)。(12/28-03:01:30)

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はやま>二月だということですよ>米澤穂信。お好きですか?(12/28-03:02:14)

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nakachu>あ,2月ですか。楽しみだなぁ。米澤穂信は好きですよ。(12/28-03:03:32)

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はやま>今回は青春小説の色が濃く、でも最終的には本格ミステリという作品らしいです<米澤穂信(12/28-03:05:51)

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nakachu>スニーカー文庫のシリーズの続編ですか?<米澤穂信(12/28-03:07:44)

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はやま>そうではないということです<続編(12/28-03:09:23)

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そういえば、2月には富士見ミステリー文庫(この人の言葉を借りれば、存在自体がミステリアスな「富士見ミステリアス文庫」)から井上ほのかの新刊がでるはずだ。どちらも楽しみなのだが、本当に出るかどうか半信半疑だ。

米澤穂信の新刊については、葉山響氏は創元推理倶楽部会員だったはずだから確かな筋からの情報だとは思うが、現物を手に取るまでは信用しきれないのもまた事実。


*the long fish*人工知能開発中というショートショート(?)を読んで、「これは叙述トリックを用いているのだろうか?」としばし悩んだ。


杉江松恋は反省しる!(1/4付)から、非常に恣意的な切り方で引用。

作者が力瘤を作れば作るほど、一つの物差しだけで逃避文学の雑多なジャンルを切ることの難しさを痛感させられるのである。まあ、それはシモンズだけじゃないけどね。

同じ日記の昨年12/30付では、その前日のオフ会について、オフの模様、及び参加状況については滅・こぉる氏がオフレポを書かれると思うと書かれているが、未だに果たしていない。鬱モードに入っている間に時機を逸したので、もはや書く気もない。

コミケで買ってきた同人誌の感想のほうはなるべく書くつもりだが、中にはこのまま黙っておいたほうが本人のためにも私自身のためにもいいような気がする本もある。さて、どうしたものか。


『ミステリ系音楽会の夕べ』読了。念のために言っておくと、上のこのまま黙っておいたほうが本人のためにも私自身のためにもいいかもしれない同人誌とは別。これは後で感想を書くつもり。

1.10903(2004/01/04) 『ミステリ系音楽会の夕べ』

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401a.html#p040104d

はじめに

これから『ミステリ系音楽会の夕べ』の感想を書く。この本は炭酸カルシウムガールズの未成年(笑)氏が中心となって作成した同人誌で、昨年の冬コミ2日目に販売されたものである。たまたま私はその日、この本の委託先のひとつ天変地異ノと同じ西館内の某サークルで売り子をやっていた(ほとんど出たきりだったが)ので、午前10時の開場と同時に早足で接近(コミケでは会場内を走ることは禁止されている)し、売り切れる前に無事買い求めた。もしかしたら会場でこの本を買ったのは私が最初かもしれないが、確認はしていない。

さて、この本には「ミステリサイト管理人古今東西」という副題のようなものがついている。執筆者は全員ミステリサイト管理人で、内容もミステリサイトに関する事柄が多い。良くも悪くも内輪向けの本である。従って、この本の感想を書く際に気をつけなくてはならない事柄が2つある。

  1. 書いたひとと書かれたことを別物だと割り切ることはできない。
  2. 馴染みのないサイト管理人が書いた記事やそのようなサイトに関する話題については面白さがわからない。

1からは直ちに"非難"と"批判"の区別が完全にはできないということが帰結する。そのような場面ではあまり悪口は書けない。従って、この感想文は非常に生ぬるいものにならざるを得ない。

2の帰結はより重大だ。わからない事はどうやってもわからないのだから、実質的な内容のあることは何も書けない。以下、各記事ごとに見出しをつけて感想を述べるが、文章量がまちまちなのはその理由による。

なお、執筆者の中にはミステリ関係のサイトと私的な日記ページを別々に持っている人もいるが、リンク先はすべて『ミステリ系音楽会の夕べ』告知ページからリンクされているページに統一した。

ミステリサイト超短編松本楽志

『炭酸カルシウムガールズ』『永世』『政宗九の視点』『Mystery Laboratory』『天使の階段』の5篇あり、それぞれ1ページ以内の短文である。

超短編という表現形式自体に私にはよくわからないものがある(そもそもあれはまとまった表現形式なのだろうか?)のだが、特に松本楽志氏の作品はよくわからない。ショートショートのようにオチやヒネリを重視しているわけでもなく、何か特異な視点を見せているわけでもなく、何を書いているのか/書きたいのか首を捻ることが多い。

今回の5篇のうちでは『政宗九の視点』が比較的わかりやすく楽しめた。また『永世』はわけがわからないなりに物語の断面を見たような印象を受けた。あとの3篇は何とも言いようがない。『Mystery Laboratory』はタイトルと内容の関連すらわからなかった。

暗闇のほとりで(圧縮版)トラック

奇妙な雰囲気のある小説で、ミステリではないようだ。何か仕掛けがあるのではないかと思って読み直してみたが、やはりわからなかった。長篇小説の書き出しの部分のような感じがする。

ダブ(エ)ストンに見るフロンティア秋山真琴

これは評論。取り上げている『ダブ(エ)ストン街道』をまだ読んでいないので、内容については何もコメントできないが、文章の運びはしっかりしている。

オフ会殺人事件久我明

ミステリサイト管理人が実名(といってもハンドルだが)で登場する小説で、『ミステリ系音楽会の夕べ』によくあっている。数行ごとに場面転換があり、しかも、メタレベルと対象レベルを行き来するので全体の構造は掴みにくい。

殺害動機は案外あり得そうな気がする。もう少し書き込めばホワイダニットの佳作になるかもしれない。

二十円玉五十枚の謎。あ、違った。踝祐吾

例のアレを扱っているが、両替ではなくコンビニで千円きっかり買い物をするという変形パターン。書店なら千円の買い物は珍しくないが、コンビニではごく稀なケースになるという着想は面白かった。

オチは予想の範囲内だった。まあ、これしかないだろう。

ところで、ちょっと余計な事だが、作者名を"YUGO Kurubushi"と表記すると、全部大文字の"YUGO"が家族名(姓)、"Kurubushi"が個人名と読まれてしまうのではないだろうか?

ミステリサイトのススメ政宗九

ミステリサイト管理人62人のアンケート結果をもとにしたコラム。具体的にどのサイトの管理人が回答したかは公表していないが、少なくともその中に私も入っていることは確かだここを参照されたい

質問項目の中にミステリ系更新されてますリンクに登録されているかどうか、というものがあるが、高橋まき氏は「登録されていない」と回答したそうだ、『登録されていない』と回答しようと思ったけれど回答する時間がなくて気がついたら閉めきられていてざんねんだったそうだ

ヘッドハンター(短縮版)根子

これも『オフ会殺人事件』と同じくミステリ系サイト絡みの小説だが、登場人物は実在しない。死体からポスターまで、室内にあった目につく"頭部"がすべて持ち去られているという不可解な事件が発生する。昔から、この種の状況には特定の解決パターンがあり、この作品も例外ではないが、それに捻りを加えていて面白い。

ただ、第2の事件の首切りはカモフラージュとしてやり過ぎである上、2つの事件が連続していることをわざわざ知らせているようなものなので、かなり不自然だ。

進井さまが見てる 第2話「紅蓮魔雪の溜息」のりぽん・ザ・リッパー

楽屋ネタ小説なので何も言うことはないのだが、強いて言うとすれば、タイトルがタイトルだけに冒頭は「ごきげんよう」から始めて、例のフレーズのパロディをやってほしかった。

なお、第1話はこちら

君が決めるんだ秋山真琴

ミステリ系サイトの馴れ合いとアクセスカウンター重視に関するエッセイなのだが、テーマが絞り込めていないように思う。硬い論文ではないので目くじらを立てることもないが、主張することがあるならしっかりと主張してもらいたい。

俺と『質疑応答』

いつもの調子の雑文なのでコメントしづらいが、あえて言うと『鬼畜王ランス』は別に鬼畜系ではない。

「約束はできない」進井瑞西

こちらはいつもの調子と全然違うので驚いた。小説だから当然かもしれないけれど。

どことなく西尾維新に似ているような気もするが、コピーということではなく、たぶん同世代感覚に基づくものだろう。人は死ぬがミステリではない。この舞台設定で長篇を書けば面白いかもしれない。ただし、多少ともミステリ的要素を入れないと話が平板になるおそれもある。

現段階では何とも言えないが、次に凄いものを書いてくれそうな予感がする。

「ミステリサイトの均一化」は本当に発生しているか?キセン

ミステリ系サイト管理人がどのような本を読んだのかを調べて分析した労作。これだけ調べるのは大変だったろう。

ウェブ書評の均一化という事象は、単に読んだ本が同じというだけではなく、他サイトの影響で本を読むという要素もあると個人的には感じている。自分がなぜその本を読んだかという理由をサイトに書く人は少数だろうから、実態を知るためにはアンケート調査による必要がある。「ミステリサイトのススメ」で少しやっているが、それをさらに進めて、具体的な作品別に集計してみると興味深い結果が出るのではないだろうか。

相当しんどい作業だから、誰もやりたがらないだろうけど。

メイプルタウンへようこそ未成年

これも楽屋ネタ。傾向の似た小説が並んでいると、後の方に配置されたものが割りを食うといういい例。

ミステリサイト管理人用誤辞典マコチーノ高橋・編)

ウェブで募集していたときにはかなり集まっているように思ったのだが、紙媒体で読むはあまり分量がない。次回は是非増補版を期待したいところだ。できればミステリサイト版「悪魔の辞典」のようなものを。

おわりに

軽く流して書くつもりだったのに、いつの間にか大真面目になってしまった。もう全部書いてしまったのでいまさら軌道修正もできない。ついでだから、本全体の構成について指摘しておこう。

複数の執筆者が特に事前打ち合わせなしに書いた原稿を寄せた同人誌なので、全体にまとまりが欠ける印象があるのはやむを得ない。ただ、縦書きと横書きの混在は何とかならなかったものか。(この意見に対する回答がここの1/5付に掲載されている。縦書きにするとページ数が増えてしまうというのは気づかなかった)

右開きの本に横書き原稿を掲載すると、どうしても読みにくくなる。横書き原稿を後ろに集めて左右両開きにするという方法もあるが、配列に著しい制約が加わる。1ページで完結する原稿のみ横書きも可として、あとは縦書きで統一するのが無難だろう。

ミステリサイト管理人本第2弾の「萌えるミステリサイト管理人 もえかん(仮)」原稿募集要項を見ると、さまざまな種類の形式の原稿を受け付けるようだ。間口が広いのは寄稿者にとっては結構なことだが、その分編集者に負担がかかる。各執筆者はそれぞれ異なったレイアウトに思い入れがあるだろうが、読む側にとっては共通レイアウトのほうが有難い。「ファウスト」みたいな本はできれば勘弁してほしい。

いろいろ好き放題に意見を述べているうちに、だんだん私も参加したくなってきた。書くとすれば小説だが、果たして締切に間に合うかどうか。

「モルグ街の殺人」の犯人でもわかるミステリサイト管理人教室水筒この項のみ2004/01/12追記

3コマ&4コママンガ。この本の趣旨によくあった内容だ。全体的にイラストが少なく文字が多い本なので、このようなマンガがもっとあってもよかったと思う。

1.10904(2004/01/05) 新年、本の買い初め

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401a.html#p040105a

年末年始の休暇の間に昼夜逆転してしまい、大層苦しい仕事始めとなった。それでも昼休みには行きつけの本屋に出かけて本を買った。

今年初めて買った本は『物語の体操 みるみる小説が書ける6つのレッスン』(大塚英志/朝日文庫)だ。昨日小説を書きたくなったのだが、書き方がわからないので、参考のため読んでみることにしたのだ。

まだ1/3くらいしか読んでいないのだが、いろいろと面倒な練習が必要なようだ。飽きっぽい私にはとても実行できそうにない。もっと楽に小説が書ける方法がないものか。できればキーボードを叩く手間も省いて、コピー&ペーストで済めばいいのだけど。


ふと、不壊の槍は折られましたが、何か?を見に行ったら、ふつうに更新を続けていてびっくり。アンテナでは、去年11/19で最終更新になっていたので、それ以降アクセスしていなかったのだ。


今日はもう一つ取り上げたい話題があったのだが、かなり長くなりそうだし、疲れて考えがまとまらないので割愛。

割愛と省略ってどう違うのだろう?

1.10905(2004/01/06) 近頃の若い者は……

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401a.html#p040106a

風虎日記1/4付から。

こないだ電車で10代くらいの女の子の会話。合コンで紹介してもらった20代の男とメールをやりとりしたんだけど、相手が一切顔文字&絵文字を使ってこない。そんなんじゃ気持ち伝わらないし、相手が何考えてるかわかんないので怖いからメールに返事出すのやめたんだー。

あー、うー。

世代間のギャップは今に始まったことではない。ネアンデルタール人が洞窟壁画のそばに「近頃のクロマニョン人ときたら……」と落書きをしていたという話もあるくらいだ(もっとも、この話は今私が思いついたものなので、実話であるという保証はない)。

しかし、それにしてもこれはないだろう、と旧人類たる私は憤慨してしまう。ちなみに「旧人類」というのは比喩表現なので、文字通りの意味にとってはならない。

もちろん、10代の若者がみな日常的に顔文字絵文字緋文字漬けの生活を送っているというわけではないはずだ。少なくともパソコンで閲覧することを想定したウェブページでは絵文字はほとんど用いられない。

そう考えると、問題は世代のみに還元されるわけではなく、特定の媒体への慣れや依存の度合いにも関わるように思われる。

まあ、こんな事は既に多くの人が語っていることなので、今さら私があれこれ考えても新しい発見があるわけでもない。あまりにも衝撃的なエピソードだったので、心を落ち着けるために、少し戯言を書いてみただけだ。


メモその1:野嵜高橋論争に関する「In a flurry/晴雨両用日記」の考察

追加:同じ論争に関するnote of vermilionの考察

メモその2:Lassホームページで「NO」を選択した時にとばされるところ

メモその3:不思議と印象に残るサイト名

1.10906(2004/01/07) ベタなネタ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401a.html#p040107a

これを見て、ここを連想した。

きっと、みんな同じ事考えてるに違いない。ベタ過ぎ……。

1.10907(2004/01/07) 秘宝館とジェズアルド

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401a.html#p040107b

Alisato's 本買い日誌(1/7付)経由で知った未知なるナカマをログに求めてインターネット殺人事件)の方法に従い、いくつか検索してみた。

まず最初に試みたのは秘宝館 ジェズアルドだが、これは該当するページがなかった。10や20は絶対にあると信じていたのだが……。

続いて魔方陣 鮎川哲也で試してみた。今度は12件ヒットしたが、「鮎川哲也賞」とか『平将門魔方陣』とか、私の意図とちょっとずれた使用例が多い。

もひとつ「普通名詞+人名」で検索してみた。今度は密室殺人 フレーゲだ。するとこんなページが出てきた。わっ、この人のサイトじゃないか!


コメントしようかスルーしようか迷ったのだが、やっぱりコメントをつけておこう。砂色の世界・日記1/7付の記事について。

私が去年12/28のことに触れなかったのは、単に忘れていただけなのだが、そう言ってしまうと身も蓋もないので、記憶の底をたぐって、もう少し面白い理由を探してみることにしよう。

あの日は確か八重洲地下街で夕食をとって、それからミレナリオへ向かったのだった。会場は丸の内側だとは知っていたが、東京駅と有楽町駅の間のどこかで高架下を通って出ればいいと思い、まずは八重洲側から地上に出て、うろうろしているうちに有楽町駅まで来てしまった。

ちょうどそのあたりはミレナリオの出口だったので、そこから逆に東京駅のほうに向かって、入口を探す果てしない放浪が始まった。

その最中に私と砂雪氏は知的興味の赴くまま哲学的会話に耽った。曰く、「ネコ耳萌えとメイド萌えはいかにして調和するのか」。曰く、「巫女萌えはあるのに、どうしてシスター萌えはないのか」。等々。

私は基本的にネコ耳萌えとメイド萌えは両立しないと考えている。しかるに砂雪氏は、両者は捨て子属性をもつが故に両立可能だと主張した。なお、ここでいう「属性」は「ネコ耳属性」「メイド属性」に類する用法ではなく、もともとの哲学用語としての用法であることに注意されたい。

人はネコ耳を見ると冬の寒い日に路地裏のミカン箱に捨てられた可哀想な子猫を連想する。また、メイドは不幸な家庭に生まれ、幼くして捨てられた少女の職業でもある。いずれの場合も、ご主人様への依存と従属を希求しており、その願望をひしひしと感じることにより、オタクは萌えるのである。

……というのが砂雪氏の所説だった。記憶が不確かなので、一部私の思いつきで補ったところがあるが、さほど砂雪氏の考えを歪曲してはいないだろう。別に歪曲していたとしても大した問題はないだろうし。

で、もう一つの話題のほうは、「日本人が実生活で見かけるシスターはおばさんが多いから」というようなあまり哲学的ではない結論で終わったような気がする。

それはともかく、ミレナリオ見物の行列の最後尾は東京駅丸の内口の真正面だった。ネット廃人一歩手前で睡眠不足の砂雪氏にかわって私は段ボールにみっしりと詰まった同人誌を脇に抱えて東京駅〜有楽町駅間を往復して、さらにこれからもう一度人混みに揉まれて有楽町駅まで行くのかと思うとうんざりしてしまったのだが、ここで引き下がってしまっては元も子もないと思い直し、引き続き"萌え"の神髄と心髄と真髄について語り合いながら牛歩を開始したのであった。

結局、面白い理由などないことが判明した。おしまい。


『物語の体操 みるみる小説が書ける6つのレッスン』(大塚英志/朝日文庫)読了。面白かった。そして、怠惰な私にはまともな小説など書けるわけがないと改めて実感した。

『物語の体操』のハウツー本としての価値に異を唱える気はないが、私小説vs.キャラクター小説という対置には多少疑問がないでもない。たとえば、

例えばミステリーの世界でも笠井潔が「キャラ萌え」なることばを彼の評論に記さなくてはならないほど「キャラクター小説」化が進行しています。けれどそれは美形の探偵をアイドル化する愚かなファンの台頭を意味するのではなく、ミステリーでさえも暗黙のうちに呪縛されていた近代小説のリアリズムとは異なる原理のリアリズムを採用した小説がこのジャンルにも台頭してきたことを意味します。

という一節(強調は引用者)には首を傾げざるを得ない。なるほど、近年のミステリがキャラクター小説化しているのは事実だ。しかし、そのことは、キャラクター小説化以前のミステリが近代小説のリアリズムに呪縛されていたことを意味するのではない。そのような呪縛があったのかどうかは議論の余地のあるところだが、仮にあったとしても、ミステリという特殊な技巧文学を特徴づけるさまざまな制約に比べれば取るに足りないことである。ミステリのキャラクター小説化という現象を論じる際には、まずはこのジャンル固有の枠組みがいかに変質しつつあるのかを問うべきだろう。

『物語の体操』では比較的つつましく、『キャラクター小説の作り方』(講談社現代新書)ではより明確に提示されたこの小説観に触れると、一つの物差しだけで逃避文学の雑多なジャンルを切ることの難しさを痛感させられるのである。まあ、それは大塚英志だけじゃないけどね。

なお、上の一文を書くための伏線としてこれを書いたというわけではない。念のため。


私信:ネタがあることは気づいていましたが、具体的にどういうネタかはわからなかったので、先ほどやたらと雑学に詳しい後輩に電話で尋ねたところ「それはマイケル・スレイドでしょう」と言われました。そこで部屋の片隅に転がっていた『髑髏島の惨劇』(未読!)のカバー見返しを見て確認しました。これ以外にネタがあるのだとしたら、全くお手上げです。

1.10908(2004/01/08) レスになっていないレス

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401a.html#p040108a

今日はネタが全く思い浮かばなかったので、昨日の文章へのコメント(前回と同様に引用に際して半角カナを全角に置き換えた)に対するレスのみ。

862 :732 :04/01/08 01:09
「ミステリという特殊な技巧文学を制約するさまざまな制約の呪縛に比べれば
取るに足りないことである」

なるほど、滅タンはこんなふうに考えてるのか。
でもこれだと「ミステリ」じゃなくて「本格ミステリ」って書いたほうがいいんじゃないの。
鮎哲と清張をくらべるとやっぱり清張の方が偉大だと感じてしまうのだが、
この感想はミステリ的ではないのか。
やっぱり滅タンは「滅タンが考えてるミステリ」以外のミステリの書評を書いてほしいよ。

流れを読まない書き込みすまぬ。

今朝、この記事を読んで「制約」がダブっていることに初めて気づいた。この恥ずかしい文章を何とかせねばと思ったが、出勤時刻が迫っていたので、とりあえず抹消線をひくだけの応急処置ですませた。

会社から帰ってもう一度自分の文章を読み返してみると、どうにも「呪縛」という言葉が気にくわない。呪いだの祟りだのといった言葉はあまり使いたくない。そこで、ミステリという特殊な技巧文学を特徴づけるさまざまな制約に比べれば取るに足りないことである。と書き直した。

余談だが、私は自分の文体が嫌いだ。妙に堅苦しかったり、また逆に場違いなほどくだけていたりして、まとまりがない。読点の打ち方にも疑問があるし、言葉の選び方にセンスがなく、常套句ばかり使って全体的に幼稚な印象を受ける。過去の記事を読み返すと全面的に手入れしたくなるが、書き直したところで元の文章よりましなものになるわけではない。文体上の癖はそうそう矯正できるものではない。

そういうわけで、私は一度書いた文章はなるべく読み返さないようにしているのだが、そうすると今度は明らかな誤字や文法的に間違った表現を見過ごしたまま放置することになる。一年も二年も前に書いた文章の誤りに何かの拍子に気づいて、非常に恥ずかしい思いをすることがよくある。今回も危ないところだった。

さて、732=862氏のコメントのうち、「本格ミステリ」という用語の薦めについては、やはり拒絶せざるを得ない。「たそがれSpringPoint」の読者がみなMAQ氏か漂泊旦那氏のような用法で「本格ミステリ」を捉えているなら別に使っても構わないのだが、世間一般の人々にそのような用法を期待することはもはや不可能だ。むしろ、限定句抜きの「ミステリ」を文脈に応じて読み取ってもらったほうが紛れが少ないように思う。

次に、鮎川哲也と松本清張の対比について。私は鮎哲の長篇は『白の恐怖』以外は全部読んでいるし、短篇も二、三の読み漏らしがある程度だが、清張の小説は数えるほどしか読んでいない。今思い出せるタイトルを書き並べると、『点と線』『ゼロの焦点』『時間の習俗』『考える葉』『黒い画集』『神と野獣の日』『砂の器』……たぶんこれで全部だ。

一方の作家はほぼ全体像を知っているのに、もう一方の作家は主要作すら網羅していない。これでは比較にならない。鮎哲のアリバイものの長篇と『点と線』や『時間の習俗』を比べれば、トリック、手掛かり、ロジックなどの点で鮎哲に軍配を上げることになる。だが、このような評価は清張に対して不公平だろう。

より公平な評価のためには、清張の作風の幅広さを実際に体験してみなければならない。しかし、正直言って、今から清張の小説を読むのはかなり辛い。『ミステリーの系譜』とかなら機会があれば読んでみたいが。

最後に書評について。このサイトで私はよく本に言及するが、多くの場合は、その本を読んで連想したとりとめもない考えを書き並べているだけで、読書感想文とすら言えない。たまに、その本そのものをテーマにして感想文を書くこともあるが、基本的には面白かったかつまらなかったかということを書く程度だ。そのような文章が「書評」の名に値するのかどうか私にはわからないので、自分では「書評」という言葉を使わない。ただし、「本格ミステリ」のように、その言葉の有意味性を拒否するわけではないので、私の書く文章が書評だと認知されるなら、それはそれで別に構わない。

話を読書感想文に戻す。先に述べたように、私の感想文を要約すれば「面白かった」か「つまらなかった」かどちらかになる。面白かった場合には自分が感じた面白さを分析しようとは思わないが、つまらなかった場合にはその理由を突き詰めてみたくなる。このような非対称的な態度が何に由来するのか、私自身にもよくわからないのだが、たぶん後ろ向きな性格と何らかの関係があるのだろう。

本がつまらない理由は大まかにいって3種類ある。

  1. 文体が気にくわない。雰囲気が嫌い。
  2. 書いている内容に興味がない。当たり前のことしか書いていない。
  3. 論理的不整合や飛躍があり、構成が破綻している。

1は純粋に個人的な印象に関わることで、他の人の同意を得られる保証はない。私はこう感じたがあなたはそう感じないかもしれないし、それはそれで仕方のないことだから私はあなたに自分の感じ方を押しつけるつもりはなくて、だからあなたも私に何も押しつけないでほしい、そしたらお互い傷つくこともないしね。結局、いつもそこに行き着いてしまう。ということは、個々の本について個別に感想文を書く必要すらない。雛形を作っておいて、そこに固有名詞を当てはめれば十分だ。

2も1ほどではないにせよ、個人的な要素の占める割合が大きい。ただ、ある程度共通した知識や背景情報を持った人相手には多少実のある話ができるかもしれない。

私がもっとも重視しているのは3である。論理的不整合や飛躍は本に内在するものであり、原則的には誰にでも見出すことが可能だし、自力で見出せなくとも説明を受ければ納得できるはずだ。「はずだ」というのは理想論で、実際にはどんなに噛んで含めるように説明しても理解してくれない人もいるのだが、少なくとも最初から対話の可能性が閉ざされているわけではない。そこで、不特定の人々に対して開かれた場で発言するからには、なるべく3を中心に語りたいと私は考えている。

ところが、一般に文芸作品には3のレベルでのアプローチが極めて難しい。なぜなら、明確な主張とその根拠の提示により構成された文章とは異なり、文学は主として読者の感性に訴えかけてくるからだ。情念を揺さぶる感動の物語を前にして論理的整合性を云々しても仕方がない。逆に、全く感銘を受けなかったとしてもその理由を論理的破綻に求めることもできない。そこで私は単に「つまらなかった」とだけ呟くことになる。

さまざまな文芸ジャンルの中で、読者の感性にではなく主として読者の知性に訴えかけるのは、ただミステリだけである。もちろん、他ジャンルの中にも読者の知性に訴える作品かせないわけではない。ただ、知性への訴えかけがジャンルの本性とまで言い切れるのはミステリしかない……と言ってしまったが、反論があれば大いに歓迎する。その場合には、私の読書の幅が広がることになるのだから。

長々と書いているうちにだんだん訳が分からなくなってきた。

ずっと昔、私はパトリシア・ハイスミスの『ふくろうの叫び』を読んで感動した。「この世にこんなに面白い小説があるのか!」と思った。続いて同じ作者の『殺人者の烙印』を読んだ。似たような話なので『ふくろうの叫び』ほどは感動しなかったが、それでも非常に幸福な時間を過ごすことができた。だが、その時私が感じた面白さを言葉で表すのは難しい。少なくとも論証することはできない。文才のある人なら読者の感性に訴える書評を書くことができるかもしれないが、そんな文章は私には逆立ちしても書けないし、足を地面につけたまま逆立ちすれば書けるというものでもない。

以上をもって732=862氏のコメントに対するレスとする。ミステリのジャンル論と読書感想文を書く際の視座とがごっちゃになっているので、後で読み直したらきっと全面的に書き直したくなるだろうが、それはまた別の機会に。

1.10909(2004/01/09) 瓶詰探偵と空中分解死体

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401a.html#p040109a

シロツメクサのエッセンスが詰まったガラスの小瓶を手にとった瞬間、月寒琴似は十年の歳月と七〇〇キロメートルの空間を超え、古ぼけた建物の一室で平利鳩南無と向かい合っていた。平利はウィスキーの空き瓶をもてあそびながら、月寒に向かって語りかけていた。「『瓶詰探偵とは何者か?』 よくぞ、お訊き下さいました、お嬢さん」

そう、平利は二年後輩――彼は入学前に数年間道路監理員として働いていたそうなので年齢差はもっと大きいのだが――の月寒のことを「お嬢さん」と呼び、常に敬語で話しかけるのだった。文芸部の入部届に書かれた名前を一目見て「つきさっぷ」と正しく読んだくらいなので、決して彼女の名前を知らないということはないのだが。最初のうちは戸惑っていた月寒もそのうちに慣れてしまい、何とも思わなくなっていた。

「瓶詰探偵とは、文字通り瓶の中にいる探偵なのです。彼女は生まれたときから瓶の中に閉じこめられ、齢十八になるまで一度もその瓶から外に出たことがありません。培養液に満たされた、高さおよそ一メートル五十センチの透明な瓶の中で、彼女は目を閉じ、青白くて弱々しい身体を抱いているかのような姿勢で、ただ思索に耽っています。時折、口の端から泡が立ち上るので、彼女が生きた人間だと知られるのですが、もしそれがなければ人形と区別がつかない人もいるかもしれません」

まるで何かの文章を読み上げているかのような口調で平利は淡々と言葉を発している。これもいつもの事なので月寒は特に戸惑いはしなかったが、いつまでもこの調子で話をされると長くなるので、かいつまんで述べるように彼に促した。

平利鳩南無(ひらりはとなむ)という奇妙なペンネームはアメリカの有名な哲学者の名前の捩りだという(「培養器の中の脳という思考実験を行った人です。お嬢さんはご存じないですか?」「いいえ」)が、平利は文芸部に在籍していた8年間(彼は留年を続けて、月寒が大学を卒業した2年後にとうとう放校された)に一度もそのペンネームで作品を発表することはなかった。それなのに月寒はこの名前を忘れることができない。本名のほうはとうに忘却の彼方だというのに。

月寒は雑念を振り払い、平利の話に意識を集中させた。「瓶詰探偵」とは彼が構想している連作ミステリの主人公で、彼女はただ純粋な思惟のみによって不可解な謎を鮮やかに解き明かすという設定だということだった。

「彼女、ということは、その瓶の中に入っているのは女性なんですね」

「そうです。身体を動かす機会に恵まれなかったため、彼女の肢体は同年齢の標準的な女性に比べて幾分未発達なところがありますが、そこに青いエロスを感じ取ることも可能です」

誰もそんな事は訊いていない。

「で、どうして瓶の中に入っているのですか?」

「ああ、それはこれから考えます」

月寒はやや拍子抜けしたが、平利は彼女のあきれ顔を見ても特に表情を変えることなく、自らの腹案の続きを語った。曰く、瓶詰探偵は安楽椅子探偵の変形なので、現場に行かなければ状況が把握できない事件は扱いにくい。曰く、言葉だけで簡単に説明ができるような状況が望ましいので、不可能犯罪など打ってつけだ。

「たとえば、こんな状況を考えています。廃ビルの屋上から初老の男が飛び降ります。彼は長年勤めた会社から解雇されて絶望のあまり自ら死を選んだのです。ビルの周囲にいた人々は彼の飛び降りを阻止できず、ただ見守るだけでした。そして、墜落地点に駆け寄ってみると、男の死体はなぜかバラバラになって転がっていました」

「具体的には、どれくらい?」

「そうですね。首、両腕、両脚、そして胴体くらいでいいでしょう。原理的には何個に分解していてもいいのですが、あまり個数が多くなると描写が煩雑になりますから」

月寒はあまりよいミステリ読者ではないが、それでもミステリでよく使われるトリックのパターンのいくつかは知っていた。平利が概略を述べた状況だと、たとえば替え玉を使ったトリックが考えられる。ビルから飛び降りた人物と地面に転がっていた死体は別人で、死体は予め解体されていた、というトリックだ。ほかには早業殺人の変形とか、空中にピアノ線を張って文字通り「空中分解」するという荒技もある。

だが、いずれの場合も動機が問題となる。犯人(自殺の場合は協力者)はなぜ死体をバラバラに分解したのか? なんらかの必然性のある動機があったのか、それともただの気まぐれなのか? もし後者だとすれば、よほどうまく書かないと読者が怒り出すのは目に見えている。

「真相はこうです」平利はまだ執筆していない小説のネタを惜しげもなく明かし始めた。「先に説明しましたが、ビルから飛び降りた男は人生に絶望していました。絶望とは死に至る病です。彼の身体を統合していた生命力が絶望という病に冒された結果、五体を結びつけることが不可能となり、飛び降りた瞬間に自ずと空中分解が生じたのです」

平利は真面目な口調でそう語り終えると、空き瓶を机に置いた。瓶の大きさに似合わぬ「パリン」という高い音がしたと思う間もなく、月寒は十年と七〇〇キロメートルを超えた。シロツメクサの香りが充満していた。

床には彼女が落とした小瓶の破片が散らばっていた。あと数秒あれば平利先輩に一言言ってやることができたのにと悔やんだが、もはや後の祭りだった。

1.10910(2004/01/10) 私自身の読解のために

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401a.html#p040110a

note of vermilion1/8付「人間とか 続き」を読んだ。非常にこみ入っていて、意味が掴み取りにくい箇所もある。できれば括弧などを用いて挿入句を明示してほしい。

とりあえず、いちばんわかりやすそうな中段の「読みの自由」テーゼを巡る文章を何度か繰り返して読んでみた。概ね次のことを意味しているのだと思う。

  1. 通俗的な理解に基づく「読みの自由」というテーゼはポストモダニズムの哲学の主張ではなく、むしろポストモダニズムの哲学が形而上学として批判する側のものである。
  2. なぜなら、いわゆる「読みの自由」はテキストの意味を読者の恣意的な解釈に委ねるものであり、テキストの意味を決定する権限を作者から個々の読者に移しただけに過ぎないからである。
  3. テキストの意味は作者の意図により決定されるわけでもなければ、読者の解釈により決定されるわけでもない。
  4. テキストの意味にはある程度の揺らぎがあり、その範囲内で読者は解釈を行うことができるが、読者は客観的で外在的な条件を無視して全く自由にテキストを解釈することができるわけではない。
  5. テキストを取り巻く条件を解釈行為という言語的実践により変容させることにより、当該テキストに特殊な解釈を施すことは可能であるが、単にその解釈の可能性を宣言するのみでテキストの意味が変わるわけではない。

微妙な言い回しを切り捨てたり、必要以上に誇張したり、あるいは元の文章にない言い回しに置き換えたりしているので、原文とは多少のずれがあるのは間違いない。だが、論旨の骨格はいちおう押さえている。たぶんそのはずだ。そう信じたい。

1はポストモダニズムの哲学と「読みの自由」の関係を述べたものだが、私はそっち方面には疎いので、この見解が正しいかどうかは分からない。原文に出てくる「バルト」という人名が、ロラン・バルトのことなのか、カール・バルトのことなのかすらわからないくらいだ。

2〜4はごく当たり前のことを言っているように思う。作者や読者の意図でテキストの意味が決定されるのなら、『広辞苑』などいらないことになるだろう。テキストの意味は基本的に語義と文法と(広義の)文脈によって決まる。

多くの語は多義的であるし、単一の確立した文法があるわけでもない。そして、当該テキストを巡るさまざまな事情のうちテキストの意味に関わる事柄とそうでない事柄を一意に定める規則はない。従ってテキストの意味が一通りに確定することはまずない。そこに解釈の余地が生じる。テキストの種類によって解釈の幅は広かったり狭かったりする。たとえば、詩歌と科学論文では一般に前者のほうが解釈の余地が広い。とはいえ、どんな解釈でも受け入れるテキストなどというものがあるはずがない。そんな情報量ゼロの「テキスト」はもはや言語ですらない。

問題は5だ。めったにないことだけれど、全く予想もしなかった奇想天外な解釈でありながら、「言われてみれば確かにそうも考えられる」と納得せざるを得ない解釈というのが確かにある。そのような解釈と単なるでたらめな解釈もどきと区別するものは何だろうか? たぶん厳密な線引きはできないだろうが、それでも違いを見出すとすれば、当該解釈を構成するテキストそのものが、言及対象のテキストの文脈を変質させるかどうか、という点に求めるしかないだろう。

たとえば「東京では毎年大勢の人々がマラリアに感染している」というテキストに対して、「ここで私はこのテキストを『スペインでは雨は主に平地で降る』という意味だと解釈することを宣言する。その解釈において、このテキストは真実を述べている」と主張する人がいたとするなら、「そら、あんさん、無茶やで」と言うしかない。他方、「実は、このテキストの主語である『東京』は、『トンキン』を漢字で表記したものだったのだ」と解釈する人が出てきたらどうだろうか?

何だか、話がどんどん変な方向にずれているような気がしてきた。おおもとの論争が錯綜していて自力では見通しをつけることができないので、誰か他の人のコメントを参照して理解しようと思っていたのだが、そのような横着な態度ではうまくいかないということがわかった。一所懸命に読解に取り組んでいる人を見習わなければ。

とりあえず、一旦退却。