【日々の憂鬱】平日でも満員の遊園地はいかがなものか。【2003年11月中旬】


1.10835(2003/11/11) 私は埴谷雄高の本名を知っている

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ある人がいうには、私は『きみとぼくの壊れた世界』(西尾維新/講談社ノベルス)の主人公とよく似ているそうだ。この主人公のあまりに迂遠な言い回しや、理屈っぽいのにどこかがズレているところ滅・こぉる さんソックリ!だとか、ぶっちゃけ、滅・こぉるコピー。だとか、言いたい放題で、挙げ句の果てにはしつこいくらいに文中に登場するややっこしい、この主人公の思考遍歴ときたら、その不可思議な脱線具合といいどうしても滅・こぉるさんの顔が浮かんで別の意味で笑ってしまいます。とまで言われてしまっている。

『きみとぼく』の「もんだい編」が雑誌「メフィスト」の2003年5月号に掲載された時、西尾維新が初めて読者への挑戦状つきパズラーを書いたということで興味を惹かれて一読してはいたのだが、自分ではさほどこの小説の主人公と思考パターンが似ているとは思わなかった。私の考えることはもっと散漫で、いつも同じことばかりを反芻している。けれど今読み返してみれば、もしかしたら多少は似ているかもしれない。もし似ていると思うようになったなら、この半年の間に私の性格が変わったのか、それとも自己認識が変わったせいだろう。そう思いつつ、たった今、「もんだい編」を読み終わったところだ。

まだ、話の途中なので、小説そのものについての感想は控えておくが、この小説の主人公が私と似ているかどうかといえば、まあ似ているといえなくもない、という程度だ。半年前には本屋で流し読み程度に立ち読みしただけだったが、今回はとばし読みをせずに主人公の長いモノローグをきちんと読んだので、初読時と印象が違っている。でも、さすがに滅・こぉるコピーというのは言い過ぎだろう。

ところで、先日、立命館ミス研の人(名前は忘れた)に会ったときに聞いた話なのだが、今年の一回生の中にには西尾維新がミス研に在籍していると勘違いして入部した人が何人もいるという。それ以外の人でも西尾維新ファンが多く「西尾維新以前/以後」という言葉が思い浮かんだそうだ。「以前/以後」という言い方はもともと松本清張について言われたものだが、近年では「綾辻以前/以後」とか「京極以前/以後」とか、どんどん区切りが細かくなっていっている気がする。また、本来は作家や作品の動向を表すための言葉だったのだが、今では読者の読書傾向とかミステリ界全体の雰囲気を表す言葉になりつつあるようだ。私が会った立命館ミス研の人もまだ三回生くらいのはずなのだが、ほんの一、二歳の差で世代が分かれてしまい、ミステリの原体験から何から全部違ってしまうのだから、驚くべきことだ。今の十代の人の間では、もしかすると"流水大説"はもはや古典なのだろうか?

脱線してしまった。いちおう西尾維新絡みなので、不可思議な脱線ということはないだろうが、それでも脱線は脱線、余談は余談だ。

さて、『きみとぼくの壊れた世界』に話を戻そう。

雑誌に掲載されたときの挑戦状は再録されていないし、どんな内容だったか詳細は覚えていないのだが、特に捻ったことは書いていなかったはずだ。犯人を指摘できるだけのデータが揃ったから当ててみろ、というような事が書かれていた。だが、「もんだい編」のほとんどは主人公があれこれ考えたことや、他の登場人物との果てしない議論で埋め尽くされていて、殺人事件が発生したことを伺わせる記述は「もんだい編」の最後のほうで少し出てくるだけだ。作者が西尾維新だから多少色眼鏡で見ているのかもしれないが、これでまともな犯人当てができるとはちょっと考えにくい。だいたい死因すら定かではない。

犯人は迎規箱彦で、被害者は箱彦にボコボコにされたダメージがもとになって死んだ、と考えるのがいちばん自然だが、そんな事は誰でも思いつくだろうし、決め手がない。もしも、これまでに私が読んだ文章の中で決定的なデータが提示されているのなら脱帽するのだが……。期待しすぎると裏切られたときのダメージが大きいので、ほどほどにしておこう。

小説の感想は控えておく、と言いながら、ちょっと書きすぎてしまった。これから続きを読むことにしよう。最近、集中力が減退して長時間読書ができなくなっているので、今晩中に全部読み終えることができるかどうかはわからないが、できれば「たんてい編」くらいは読みたいものだ。

1.10836(2003/11/11) つづき

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先ほどの記事を書いたあと、『きみとぼくの壊れた世界』の続きを読み始めた。一瞬、あるトリックを思いついて、「このトリック使っててら嫌だなぁ」と思いつつ、さらに先を読み進め、とうとう「たんてい編」の最後まで読んでしまった。まだ犯行方法が明かされてはいないが、なんだか嫌な想像が当たっていそうで、先を読むのが怖い気がする。

寝る前にダメージを受けるといけないので、ここでいったん本を閉じて、問題を先送りすることにした。


知人から電話がかかってきた。冬コミ当選だそうだ。今回はどうしようか迷っていたのだが、これで参加決定。少なくとも2日目には某サークルで売り子をすることになる。

1.10837(2003/11/13) 世界の壊れたぼくときみ

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『きみとぼくの壊れた世界』はミステリである。ミステリであるとはどういうことか? そんなことを説明する気はない。『デッド・トリック』がミステリであるのが自明であるのと同様に『きみとぼく』がミステリであるのも自明だ。

むろん、ミステリの読み方は一通りではない。ミステリ以外のジャンルの物語の読み方が一通りではないのと同じことだ。『きみとぼく』を青春小説として読もうが、哲学小説として読もうが、それは読者の勝手だ。もっとも、私見によれば、『きみとぼく』には特段興味を惹く哲学的知見も見地も示されてはいない。

さて、ミステリには絶対にやってはいけない事がある。これはもう、誰がどう言い訳しても絶対に駄目なわけで、「いいじゃないか、それくらい」と言われたら、私は理由も根拠も示さずに、ただ「駄目駄目駄目駄目、絶対に駄目!」と言うしかない。それは何かといえば、地の文で虚偽の記述を行うことだ。そして、『きみとぼく』はそれをやってしまっているので、駄目なミステリである。

具体的にいえば、78ページ下段から80ページ上段にかけて、琴原りりすのことを「数沢六人」もしくは「数沢くん」と記述しているのが反則だ。

「少なくとも主人公は意図的に嘘をついているわけではなく、ただ事実誤認しただけだ。一人称小説なのだから、語り手の認識に従って忠実に記述している限りは、たとえそれが客観的事実と食い違っていても、ミステリで禁じられている虚偽の記述には当たらないのでは?」

しかし、主人公は自らの誤りに気づいている。気づいたからには遡って訂正しなければならない。「かいけつ編」で訂正してもデータの後出しにしかならないのだ。

「でも、事実をそのまま書いてしまったら、お話にならないよ」

そこが作者の腕の見せ所だ。事実の記述のように見えるがよく読むと主人公の内面描写になっているような微妙な書き方だとか、主人公の認識を会話の中で示して地の文ではぼかすような書き方だとか、さまざまなテクニックが既に開発されている。

「うーん。でもそんな面倒な事をしなくても、一人称で書かれているというだけで、地の文に誤謬の可能性があることは示されているのでは? もし地の文全体が信用できないとすればミステリとしては成立しないけれど、他の記述と矛盾する記述だけを疑うことにすれば、無根拠性の問題は生じないはずだけど」

その意見には2つの論点が含まれている。1つは、一人称の小説であるというだけで語り手の誤謬に基づき客観的事実に反する記述が含まれる可能性を容認できるかどうか、という問題だ。もう1つは前者を肯定的に解決した場合に、『きみとぼく』の地の文に矛盾があるとみなせるかどうか、という問題だ。

前者については、先に述べたように私は否定的見解を持っている。一人称の小説であっても、ミステリである限りは地の文で虚偽の記述を行ってはならない。それが許されるのは、語り手が最後まで誤りに気づかない場合(カーター・ディクスンの長篇に、語り手が自分の誤りに気づかないまま死んでしまうというものがある)とか、日記形式で書かれていて遡及訂正が及ばないことが明らかな場合とか、語り手の意識の流れを逐一記述するような特異な文体で書かれている場合などだ。ほかには「後から考えると、このときぼくは大きな勘違いをしていたのだが、その段階では知るよしもない」という記述を忍び込ませておくという手法もあるが、これはこれで別の意味で問題が生じるので、私はあまり好きではない。ともあれ、単に一人称で記述されているからといって、誤謬可能性は容認できない。

このような考え方は偏狭過ぎるだろうか? だが、一人称の小説なら地の文に間違いが含まれていても構わないと考える人でも、どんな間違いでも受け入れるというわけにはいかないだろう。「たんてい編」もしくは「かいけつ編」に至って、「夜月が様刻の妹だというのは間違いで、実は姉だった」と言われたら困るだろう。与えられたデータに疑いを向けるにはそれ相応の根拠――他のデータとの矛盾や不整合――が必要だ。

そこで、後者の問題を検討する。「かいけつ編」255ページ上段で提示されている"矛盾"は防具で顔が隠されているのに、どうして主人公にはその人物が"数沢"だとわかったのかというものだ。同ページ下段で垂の名前の刺繍によるものだと断定したうえで、その認識の確実性に疑問を投げかけ、さらに状況の不自然さを指摘(260ページおよび261ページの傍点部)して最終的には主人公の認識に誤りがあったと結論づけている。だが、この推論には飛躍がある。試合(?)の最中に、主人公が瞬時に一方の人物を"数沢"だと認識したとは「もんだい編」のどこにも書かれていないのだから、別に試合(?)直後に防具を外した数沢の顔を見たからわかったのだと考えても差しつかえない。

"数沢"が防具を外したという記述もないけど?」

迎規が防具を外したという記述もない。だが、迎規が防具を外したことはその後の話の流れから明らかだ。その記述を省略しているのだから、別の人物の同種の行動についても記述を省略していると解釈することは自然だし、その解釈に基づけば、255ページ上段の"矛盾"は矛盾でもなんでもない。

「でも、不自然な点はほかにも挙げられているよね」

そんなのはどうとでも解釈できる。何らかの理由で無言の行を兼ねた稽古をしていたのだ、とか、ついうっかり鍵をかけてしまったのだ、とか。同程度の不自然さは「かいけつ編」で明かされた真相にもあるのだから、いちいち気にしていても始まらない(とはいえ、そのような不自然さが残ることも、『ぼくときみ』が駄目なミステリである理由なのだが)。

要するに、「もんだい編」の地の文にまで疑いを向けるほどの大きな不整合はなく、そのような不整合がない以上、例の記述は額面どおり受け取るべきで、額面どおり受け取った以上、「かいけつ編」で示された解決は成立しないということだ。なお、言うまでもないが、解決が成立しないというのは、読者の立場に立った場合の話であって、作中の探偵役にとってではない(探偵役は小説の文章を通してデータを入手したわけではない!)。


まだ書きたいことはあるのだが、今日は時間切れ。続きは次回以降に。気が乗らなければ永久に書かないかもしれないが。

最後に、ちょっと言い訳めいた補足。『きみとぼく』を駄目なミステリだと書いたが、別に駄作だとは思っていない。読んでいて楽しかったし、できれば意欲作として積極的に評価したい。だが、作品のよい点を探して誉めるのは難しく、私ごときがやっても不遜なだけだろう。積極的な評価は見識ある評論家に任せておくほうがいい。

1.10838(2003/11/13) 石原発言を100パーセント正当化するつもりはないが

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改竄のことを「捏造」というのはいかがなものか。で、ご丁寧に「捏」を開いて「ねつ造」と書くらしい。

すると、「でつぞう」の立場はどうなるのだ。「捏ち上げ」は「ねっちあげ」なのか?

ATOKだと「でつぞう」でもちゃんと「捏造」と変換してくれる。正直、意外だった。

1.10839(2003/11/13) でぁ・ろぎっしぇ・あうふばう・でぁ・う゛ぇると

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「好きなら、言っちゃえ!! 告白しちゃえ!!」の『きみとぼくの壊れた世界』感想メモリンクを辿ってみた。

……。

予想はしていたが、私の感想文だけ、とことん浮いている。みんな大人だ。私だけ子供のように騒いでいる。

なんだか馬鹿馬鹿しくなってきたので、前回の続きを書くのはやめにした。


ところで、『きみとぼく』のオビにはミステリの伝言ゲームは続いている!というフレーズが書かれているのだが、これは「終わらない伝言ゲーム」(千街晶之)を踏まえたものなのだろうか?

1.10840(2003/11/14) 「ア・プリオリ」は「先験的」……かな?

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見出しとは全然何の関係もないが、明日と明後日は関西の多くの博物館と美術館が関西文化の日という企画で無料公開される。場所によっては11/3だったり11/23だったりするので、むしろ「関西文化の日々」というほうがいいような気もするが、ともあれ今週末の2日間に集中しているのは確かで、100を超える施設が無料になる。せっかくだから、この機会にまだ行ったことがない博物館に行ってみようと思っているのだが、対象施設が多すぎて目移りしてしまう。

あれこれ考えた結果、兵庫県立人と自然の博物館に行くことにした。これまで自然史博物館にはあまり関心がなかったのだが、最近買った『ふしぎの博物誌』(河合雅雄(編)/中公新書)がわりと面白くて、この方面にも目を向けてみようという気になってきたからだ。

だが、交通案内のページを見ると、私の家からではかなり時間がかかりそうだ。ついでに神戸電鉄を完乗しようとすると、朝早くに出発しないといけない。う〜む。

予定などあってないようなものなので、明日になったら気が変わって別の施設に行くことになるかもしれないが、とりあえず早寝するに越したことはない。そういうわけで今日はこれでおしまい。

1.10841(2003/11/15) 失敗その1とその2

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失敗その1

昨日の記事をアップし忘れた。

失敗その2

ずるずると夜更かししてしまった。

1.10842(2003/11/15) 誰が『GOTH』を読もうが構うものか

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『GOTH』〜家族殺傷事件の真実江草 乗の言いたい放題 )によれば、大阪府の家族殺傷事件の少女は『GOTH リストカット事件』(乙一/角川書店)を買っていたそうだ。

なんだかなぁ。

彼女が『GOTH』をどう読んだのか、斜め読みだったのか熟読か、それとも積ん読だったのか、ということは全く無関係に、そして相方の大学生が『GOTH』のことを知っていたのかどうかということなど、全然考慮もせずに、ただタイトルと作者名だけが一人歩きして、マスコミやらミニコミ(死語?)やらにある事ない事言いたい放題に言われてしまうのだろう、と思うとうんざりする。きっと、『GOTH』を読んで人を殺さなかった大勢の人々のことは気にもとめないし、『GOTH』を読んだおかげで殺人を思いとどまった人がいるかもしれない、と想像してみることもないのだろう。

なんだかなぁ。

ところで、『GOTH』と大阪家族殺傷事件 Simple -憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向な日々-)のような書き方はどうだろう? 本文中では、安易に作品と事件を結びつけることは避けたい。とか『GOTH』の影響がないとは言い切れないが、今ところ、事件の間接的な原因とは断言できない。と書いているのに、「今日のポイント」という箇所で大阪家族殺傷事件のゴスロリ少女は、異常快楽殺人のミステリ小説を読んでいた。と書いている。このサイトでは、冒頭に置いた文章を最後に「今日のポイント」としてそのまま再掲するというスタイルをとっていて、この回も例外ではない。そこで、『GOTH』が事件に影響を与えたかどうか、という本当に重要な点よりも、「今日のポイント」で書かれた事のほうが強調されてしまう。

いや、自分で書いた文章のポイントを自分で外す人がいるとは考えにくい。もしかすると、『GOTH』の影響がないとは言い切れないが、今ところ、事件の間接的な原因とは断言できない。などの記述はつけたしで、本当に「今日のポイント」がポイントだと思って書いたのかもしれない。

なんだかなぁ。

今日のポイント

情報は強調の仕方によって受け止められ方が異なるので、気をつけなくてはならない。

1.10843(2003/11/16) 無事に手首を切り終えるまで

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こう言うと呆れる人もいるかもしれないが、昨日の記事を書いた段階では、私はまだ『GOTH リストカット事件』(乙一/角川書店)を読み終えていなかった。より正確にいえば、最初の5ページしか読んでいなかった。要するに、ほとんど読んでいなかったわけだ。

『GOTH』の最初のほうを読みかけて、なんとなく不快な話だろうと思って本を閉じ、部屋の片隅に積んだまま、一年以上ほこりをかぶっていた。私の手元にある『GOTH』は、実は私の本ではなくて後輩から借りたものだ。同じように借りっぱなしになっている本がほかにもある。たとえば『大葬儀』(駕籠真太郎/太田出版)とか『幻の小松左京=モリミノル漫画全集』(小松左京/小学館)とか。いかんなぁ。

で、今日ようやく『GOTH』を読んだのだが、一話読むごとに言葉にならない感慨があって、次話を読むことでその感慨が薄れてしまうのが惜しくて、何度か本を置いて部屋の中をぐるぐると歩き回ったり、コーヒーを飲んだり、函館塩ラーメンキャラメルを食べたりしつつ、それでも今日中に全部読んでしまおうと強く決意して、時には陰鬱な気分に、また時には圧倒的な不安に見舞われながら、とうとう先ほど全篇読み終えた。所要時間は約4時間。私の読書ペースはあまり速くはないが、それでも分量のわりには時間がかかったほうだと思う。

決して読みにくい文章ではないし、伏線の一つ一つを読み逃さないように丹念にメモをとっていたわけでもない。むしろ、頭の中を空っぽににして、なるべく先の展開を考えずに読むように努めた。読者に謎解きへの参加を迫るタイプの小説ではないので、あまりあれこれ考えないほうが意外な結末を楽しめるだろうと思ったからだ。その成果あって(?)6篇のうち半分は結末で驚かされることができた。「驚かされることができた」というのは、ちょっとおかしな言い回しだが、ほかに言いようもないので仕方がない。

ただ、一つ残念だったのは、事前に知ってしまった情報のせいで、最終話『声』が全く意外性を欠くものになってしまったことだ。少女の日記 内臓狂想曲(7/24付)でさりげなく、そして別のサイト(こちらにはリンクを張らないことにする)ではあからさまに、『声』の"意外な結末"に関する重要なデータが書かれていて、私はそれを読んでしまっていた。

考えてみれば、乙一の常套手段ともいえる技法であり、もし予備知識がなかったとしても自力で結末に気づいた可能性はゼロとはいえない。しかし、自分で気づくのと、他人に知らされてしまうのとでは、天と地ほどの差があることも事実だ。繰り返しになるが、残念だとしか言いようがない。


昨日、私は『GOTH』をまだ読んでいなかった。今日の私は『GOTH』を読んでいる。では、昨日の私と今日の私は同じ私なのだろうか? もはや、同じとは言えないのだろうか?

こんな疑問がふと思い浮かんだので、少し考えてみようと思ったのだが、だんだんわけがわからなくなってしまった。

この疑問ともしかしたら関係あるかもしれない文章を引用してみよう。砂色の世界・日記(11/14付)から。

例えば、私がアイデンティティーという言葉に関しての訳、「変わらない自分」を知ったとする。すると自分はその訳語を知ってしまった自分であるからそれを知る前の自分とは異なっている。そしてそれはその訳語を知ってしまった自分であるからそれはそれを知る前の自分とは異なっている自分であるということを知っている自分であるから、それはその直前の自分とは異なっている。

「アイデンティティー」という言葉はなかなか厄介で、すべての場合にしっくりとくる訳語はたぶんないだろう。「自己同一性」とか、単に「同一性」と訳すのがいちばん無難だが、そう訳すだけでは意味が通らない場合もあり、結局何らかの補足説明を必要とするだろう。

ちなみに、論理学用語としての「アイデンティティー」は自我とか人格に限らず、物件一般に適用されうる語である。あるものがそれ自体に対してもっていて、かつ、それ以外のものに対してはもっていない関係のことだ。「で、それが何?」と問い返されたら、困ってしまうが。


メモ:「本格ミステリ冬の時代」はあったのか(情報もと:のこされたことばのかけら

1.10844(2003/11/18) 陰陽連絡線

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年末に久しぶりに青春18きっぷでも使って旅行をしようと思った。時刻表を開いて、ここ数年ほとんど見ることのなかった山陰本線付近のページを見ると、三江線も木次線も私の記憶より列車本数が減っていて驚いた。

「ムーンライト山陽」を広島で降りて、芸備線の始発で三次に行き、そこから三江線に乗り、浜原で乗り継いで、石見川本へ。そこで3時間23分の待ち合わせで江津行きに乗る。さすがにその日のうちに木次線に乗ることはできないので、いつ廃線になってもおかしくない一畑電鉄に乗って、どこかの温泉宿で一泊。翌日は木次線、芸備線、福塩線を乗り継いで、最後は山陽本線をひたすら東へと帰るのみ。

と、こんな計画を立ててみた。三江線、木次線ともに日中に乗ることができる(私は必ずしも昼間にこだわらないが、たぶん一生のうちに二度と訪れることのない路線だろうから、できれば辺りの風景を心に留めておきたい)が、「ムーンライト山陽」で寝過ごしてしまったら計画は丸つぶれだし、そもそも指定席券が入手できるかどうかもわからない。

ところで、三次といえばこれなのだが、私の予定には観光は入っていない。観光旅行などというものは暇人がやればいいものであって、今の私にはそんなことをしている時間的余裕もなければ精神的余裕もない。ただ、鉄道に乗るのみ!

1.10845(2003/11/19) 近況報告その1とその2とその3とおまけ

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その1

首筋にこぶのようなものができた。医者に診てもらったら、急性リンパ腺炎と診断された。私はあと何日生きることができるのだろうか?


その2

新しい時刻表を買ってきた。12月1日(月)から平成17年3月31日まで名古屋鉄道岐阜市内線・岐阜駅前―新岐阜駅前の列車運行が休止となります。と書かれていた。この一区間が運転再開する前に岐阜市内線が全廃されることはないだろうか?


その3

知らない人から質問メールが届いた。自分の書いた文章に反応があるというのは嬉しいことだ。


おまけ

「近況報告」と書くつもりが「禁教報国」と変換されてしまった。

1.10846(2003/11/20) 我孫子は常磐線、我孫子町は阪和線

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阪和線の我孫子町駅の近くには南海高野線の我孫子前駅、阪堺電気軌道の我孫子道、地下鉄あびこ駅(正式駅名はもしかしたら漢字かもしれないが、時刻表ではひらがなで掲載されている)がある。

それはともかく、今年の冬の関ミス連は大谷大学推理小説研究会主催で、我孫子武丸氏をゲストに迎えて行われる(情報もと:Mystery Laboratory)そうだ。ここ数年関ミス連に顔を出していないので、久しぶりに行ってみようかと一瞬思ったのだが、開催日の12/21(日)には三江線に乗っている予定なので、今回も見送りになりそうだ。

もっとも、先日も書いたように、「ムーンライト山陽」の指定席券がとれなかったら、この計画は中止なので、その時は参加するかもしれない。

でも、世代交代が進んでいるから、私と顔見知りの人などほとんどいないだろうなぁ。


読冊日記(11/19付)「ビル・ゲイツの面接試験」経由で、松岡正剛の千夜千冊『ビル・ゲイツの面接試験』へ。冒頭で紹介されているパズルと、その模範解答(?)が面白い。

こんな問題がマイクロソフト社の入社試験に出た。「南へ1キロ、東へ1キロ、北へ1キロ歩くと出発点に戻るような地点は、地球上に何カ所ありますか」。

筆記試験ではない。マイクロソフトのみならずアメリカのトップ企業の大半は3回から5回にわたる面接試験だけで、採用を決める。面接者の回答はさまざまだが、マイクロソフトの評価基準はこうなっていた。「0カ所」→不採用。「1カ所」→不採用。「∞カ所」→不採用。「∞+1カ所」→まあまあ採用か。「∞×∞+1カ所」→採用。

この評価基準のおかしさについては読冊日記で適切なツッコミが入れられている。その上で、答えとなる地点は北極点および、南極点から北に1+1/(2nπ) km(nは1以上の自然数)のすべての地点と書かれている。評価基準から察するに、これが出題者の意図にかなった"正解"であることはまず間違いない。

しかし、もし私がこの問題を出題されたら、「0箇所」と答えるだろう。その理由は確か以前どこかで書いたような記憶があるのだが、過去ログを探ってみてもみつからない。もしかすると、昔別ハンドルで運営していたサイトで書いたきりかもしれないし、単に見落とししているだけかもしれない。としをとると忘れっぽくなる。困ったものだ。

うだうだと繰り言を書いても仕方がない。少しだけ説明しておこう。

出題者が意図していると思われる"正解"では、最初経線に沿って南極に向かって1km歩き、次に左に向いて緯線に沿って1km歩き、最後に再度左に向いて経線に沿って1km歩くことになる。だが、第1と第3のステップは"まっすぐ"なので問題はないが、第2のステップでは少しずつ進路を修正しながら歩いているので、「東に1km」歩いたことにはならないのではないか。問題文に書かれているのが「東に向かって歩き、1kmの行程中、常に東を向く」ということなら納得できるのだが、そのように書かれていない以上、素直に「東に向かって"まっすぐ"1km歩く」と解釈するほうが自然だ。そうすると、題意を満たす地点は地球上には全くないということになる。

もっとも、このような解釈は出題者の意図を歪曲した揚げ足取りだ、という反論も成り立つだろう。どんなパズルでも、それを解くのに必要な条件をすべて明示的に書き並べることはできないのだから、回答者は察し読みをしなければならない。たとえば、問題文のどこにも「地球は完全な球体であると考え、山や谷などの凹凸は無視すること」とは書かれていないが、当然そのような条件は暗黙のうちに示されているものと考えなければならない。同様に「東へ歩く」という言い回しは「緯線に沿って歩く」という意味に理解されなくてはいけないのだ、と。

そのような反論に対する再反論はたとえば次のようなものになるだろう。関ミス連のゲストの名前が「安孫子武丸」と表記されていても、それが誰を指しているのかは明らかだ。しかし、書き手の意図が容易に理解できるからといって、「安孫子武丸」というのが正しい表記になるわけではない。件のパズルの場合は文字レベルの誤記ではないが、文章表現が書き手の意図した内容を十分に言い表せていないという点では同様なのだ、と。


「お前は『北極点』という60点の解答すらわからなかったから悔し紛れで言いがかりをつけているだけなんだろう?」などと言われるとちょっと心外だ。