【日々の憂鬱】社交儀礼にケチをつけるのはいかがなものか。【2004年1月中旬】


1.10911(2004/01/11) 認識のずれ/乙四

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401b.html#p040111a

はてな馬的思考(1/9付)で『砂の器』ドラマ化の話題を扱っていた。その文中で、かなり大きなネタに触れていたので、とかがなものかと思ってコメントを書いた(ふだん、はてな日記にコメントするときは、名前を「滅・こぉる」にしているのだが、「はてな馬的日記」では変更ができない設定になっていたので、「trivial」という、はてなのidで投稿している。今のところ、trivialの日記は存在しないし、これから始める予定もない)ところ、既に発表から数十年経ったベストセラーで、映画化もされ、これだけ人口に膾炙した物語について、どこまで配慮すべきかは微妙な問題かと思います。という返答があった。確かにドラマの紹介ページでも書かれている。また、はてなのキーワードの説明の中にも『砂の器』が記載されている。

ということは、『砂の器』がそれを扱っているということを特に隠す必要はないという共通理解が成立しているのかもしれない。

う〜ん。

既に『砂の器』を読んでいる人(または映画を見た人)にとってはどうでもいいことだが、そうでない人が事前にそれを知らされてしまったら具合が悪いと思うのだが、杓子定規に考えすぎなのだろうか?

ところで、ここを見ると、映画作品タイトル 邦画と書かれているだけで、原作への言及がない。ということは「映画化もされた松本清張の名作」という私の認識は世間一般の了解事項からかなりずれているのかもしれない。

う〜ん。


小2女児が最年少合格 危険物取扱者試験に(情報もと:雨の日はいつもレイン )という記事を読んで、そういえば私も乙種第四類危険物取扱者の資格を持っていたことを思い出した。前に勤めていた会社で資格を取らされたのだ。合格率約3割と聞かされていて、かなり苦労して問題集に取り組んだ覚えがある。

試験には計算問題や化学の知識を必要とする問題も多いので、小学2年生には難しいと思うが、基本的に問題集と同じ問題が出るので、事前に丸暗記しておけば何とかなるかも。

1.10912(2004/01/11) 豪快さん

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401b.html#p040111b

圏外からのひとこと(1/10付)「「在日」をアンタッチャブルにしないためには」を読んで、その凄さに感心した。ですから、風説に近いようなあいまいなソースを元に推測せざるを得ないのです。とか、確かに、私はこの問題については、程度の低い嫌韓2ちゃんねらレベルの見識、知識、教養しかないのですが、そういう人間が、自分の思う通りのことを書くとトラブルになったりするとしたら、それはどこか不自然でおかしいと思います。 とか、 議論を許すというとは、私がここに書いているような(あるいはもっと)乱暴な議論も許すと言うことです。とか、 議論する人にあるレベル以上の負荷をかけるとしたら、それは議論を許さないことと同じです。とか、 実は、今日はこれじゃなくて別の非常にいいネタを書くつもりだったのですが、こんなことの為に、そのいいネタが書けませんでした。それは私にとっては非常に不快なことです。とか、いや、本当は全文丸々引用したいほどなのだが、さすがにそこまでやってしまうのは問題があるだろうから、これくらいで留めておく。

ツッコミ対象の文章を最初に読んだとき、私は迂闊にもそこで箇条書きされているのが別サイトの記事の引用だと気づかなかった。その程度の読みだったので、別に「在日」という表現には特に何も感じかったのだが、その一つ上の「ブラック民」とは少し違和感をおぼえた。黒人のことだと思ったのだが、「ブラック民」という言い回しは奇妙だと思ったのが一つ、日本で黒人が華々しく成功している例があるのだろうかと思ったのが一つ。

今から考えれば、それは黒人のことではなくて被差別部落民のことであるのは一目瞭然なのだが、私の文章読解力を棚に上げてあえて言うなら、「ブラック民」などという言い回しは腰がひけている

なお、どうでもいいことだが、街角のビラや立看板などで「ブラック優遇」と書かれているのをよく見かけるが、これは多重債務者のことだ。金融機関のブラックリストに載っているからだそうだが、初めて知ったときには少し意表をつかれたような気がした。

脱線して何が何だかわからなくなってきた。

最近、某所で私の文章の書き方を「禁欲的」と評された。その言葉自体は肯定的でも否定的でもないが、個人ウェブサイトで禁欲的なのはマイナスのことのほうが多いだろう。私も「在日」をアンタッチャブルにしないためにはのような豪快な文章が書けるように精進せねば。

1.10913(2004/01/11) 日記と応答

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401b.html#p040111c

今日、私は西宮戎へ行った。商売人ではないので福笹は買わなかった。ただ福娘を見物しただけだ。

一人で行っても面白くないので、内田竜宮丞氏を誘った。ソフマップ梅田店のえっちなゲームのコーナーで待ち合わせて阪神電車に乗り、最近のゲーム業界について話しながら西宮に向かった。

俺にとって今一番大事なのは、エロライターとして上へ行くことですね

エロライターに上も下もあるか。エロライターは底邊の人間なのだから、エロライターを辭めなければ上に行ける訣もないだらうが

などというやりとりで険悪な雰囲気になることもなく、無事西宮駅に到着した。ちなみにJRだと「西ノ宮」になる。

福娘の感想は省略。

西宮戎には数年前に見世物小屋が来ていたという話を聞いたことがある。今年もどこかで店を広げていたのかもしれないが、私たちが歩いたルートには見あたらなかった。そのかわりに非常にチープで怪しげなお化け屋敷を見つけた。大人1人500円で微妙に高いような気もしたが、試しに入ってみた。

……案の定、チープだった。

だが、私より先にちっちゃな女の子3人組(注意:ここで使用した「ちっちゃな」という形容語句は小柄な体型であることを表したものであり、年齢を表すものではありません)が入っていて、たいそう怯えた様子で「いや〜〜」「もう、家に帰りたい〜〜」などと甲高い声でわめきながら、薄暗い通路で腕を振り回すわ、しがみつくわ、突き飛ばして走り出すわ、と大変な騒ぎを繰り広げて、かなり怖い思いをした。命からがら表に出ると、なぜか内田氏はひどくご満悦だった。

その後、香櫨園駅から電車に乗り、梅田に戻って吉野屋へ。新メニューのカレー丼(税込400円)を食べた。別にまずくはないけれど、280円の牛丼をさしおいてわざわざ選ぶほどのものでもなく、苦戦しているのも当然だと思った。

さらにあちこち徘徊を続けて、最後はもう一度ソフマップに戻り、年末に買いそびれていた『新・御神楽少女探偵団』(elf)を買い、そこで内田氏と別れて帰宅した。


ここで書かれていることに関して、少し補足。

私が『砂の器』を読んだのは、もう10年以上も前のことで、その後一度も読み返していないので、細部はほとんど覚えていない。ミステリとしては大した出来ではなかったが、その場その場での読者の興味の惹き方はうまいと思った。映画のほうは私も見ていないので、それがどのように扱われているのかは知らないが、小説版でもそれなりに重みを置いていたように記憶していた。だが、作品中でほとんど描かれていませんと言われてしまうと、そんな気もしてきた。

ところで、あのトリックについては、あるべき芸術についての松本清張の立場を具現化したものと私は考えている。いわば、野嵜高橋論争と同じテーマを先取りしたものだ、と強引にまとめておく。いや、バカミスなのは確かだけど。

ところで、映画版『砂の器』は確か有名な作曲家が音楽を担当していたはずだが、とっさに思い出せない。調べれば簡単にわかることだが。


『太陽の塔』(森見登美彦/新潮社)を読んだ。第15回日本ファンタジーノベル大賞受賞作だが、別にそれに惹かれて読んだわけではない。この賞の受賞作で私がこれまでに読んだのは『後宮小説』のみ(しかも、古本屋で鮎川哲也の短篇が載っている「小説新潮」を100円で買ったら、そこに掲載されていたから読んだだけ)だ。

では、なぜ私は、わざわざハードカバーの本を定価(1300円+税)で買って読んだかといえば、ネットでの口コミに惹かれたからだ……と簡単にさらっと流そうかと思ったが、やっぱの本当のことを書いておこう。ここを読んだからだ。ほとんど狙い撃ちされたようなものだ。

私が事前に読んでいた『太陽の塔』の感想文はほかにこれがあり、かたや乙一が滝本竜彦みたいなものを書こうとしてみたといったような感じ、こなたひとことで言えば、モテない村上春樹と書かれていて、ちょっと掴み所がない。逆にいえば、ほとんど予備知識なしに読んだも同然なので、結果的にはよかったのだが。

読み終わっても、掴み所のなさは依然として残っている。要約して粗筋を書けと言われても困る。叡山電車に乗って太陽の塔を見に行く話、というくらいしか書けない。なお、関西人にはあえて説明する必要はないが、実在する叡山電車の車窓から太陽の塔を見ることはできない

最後まで読んでも、何が何だかさっぱりわからなかった。しかし、無類に面白い小説であるのは確かだ。具体的にどのような面白さだったかを述べるのは難しいが、強いてたとえるなら小峰元が『びっくり箱殺人事件』を書いたような感じか。たとえが古すぎてわからない?

1.10914(2004/01/12) そばと新選組

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401b.html#p040112a

「新選組」と「新撰組」はどちらが正しいのだろうか?

新選組あれこれ【新選組百科事典】)によれば、本来の正式な名前は「新選組」、ただし「新撰組」と書いても間違いではないとのこと。

あっさりと答えが出た。ちょっと残念。

だが、冒頭の問いはいったい何を意味しているのか、という疑問が新たに発生した。自分で問いを立てておいてその問いの意味がわからないというのは奇妙だと思われるかもしれない。だが、言葉と人間の関係はかなり微妙で、自分自身の思考を表現した言葉であっても、その意味が常に自明であるわけではない。

「正しい」という言葉はさまざまな局面で用いられる。たとえば、ある命題ないし言明が真理であるとき、または、ある意図や行為が道徳的に是認されるべきときなど。だが、冒頭の問いは、これらのどちらにも当てはまらないように思われる。言葉遣いについて、その正しさを云々するとき、言明の真偽判定以前のレベルの話をしているのだし、正しい言葉遣いが道徳の主要な要素になっているとも考えにくい。

「選」か「撰」か、という問いは、おそらく「歴史的仮名遣いを用いるのと現代仮名遣いを用いるのとでは、どちらが正しいのか?」という問いと同種のものだと思われる。すなわち、正統性を巡る問いである。

ところが、「選/撰」問題には、仮名遣いの問題とは違う側面もある。後者の問題については、平安時代から第二次世界大戦までの日本史を鑑みれば、歴史的仮名遣いのほうが正統であることに疑いの余地はない(私は怠惰な人間なので、今から歴史的仮名遣いを覚えるのが面倒だから現代仮名遣いを用いているが、歴史的仮名遣いの正統性にケチをつける気はない)。だが、前者の問題については、幕末当時から両方の文字が混用されていたそうなので、話はややこしい。

積み重ねられた歴史的事象を前にして、何が正統性に関わる事象であり、何がそうでないかを判別するのは難しい。歴史家にとっては「何を今さら」という程度の話なのかもしれないが、所詮は素人の雑談、ご容赦願いたい。


そばにはいろいろあるなぁ、という話。

茶そば、十割そば、天ぷらそば、月見そば、たぬきそば、かけそば、もりそば、椀子そば、出石そば、立ち食いそば、中華そば……。

今、ここで挙げた言葉はすべて「○○+そば」という形式をとっているが、それらが表している事柄にはレベルの違いがある。順に説明しておこう。

それぞれの項目の中でも微妙な違いがある。「茶そば」は文字通り茶葉を練り込んだ麺のことだが、「十割そば」には十割が練り込まれているわけではない。「天ぷらそば」は具材の名をそのまま付けているが、「月見そば」はメタファーによる名称で、「たぬきそば」にもなると、一言では説明しにくいプロセスを辿って形成されている。「かけそば」は汁をかけたそばの総称だが、そば屋の品書きではより狭義で用いられる。

たとえば「梅そば」という言葉だけでは、梅を練り込んだそばなのか、梅干しが具になったそばなのか、判別できない。また「沖縄そば」という言葉から単にローカルなそばのことだと思う人もいるだろう。

こうやって考えてみると、言葉というのは難しい。そばを取り巻く社会的文脈のうち、区別や分類に必要な項目をすべて取り出して、人工的に命名すれば、随分と見通しがよくなるはずだ。だが、それを徹底すると莫大な犠牲が出る。

「で、結局のところどうよ?」と言われても、特にオチはない。


ここここに関連して、もう少し。

これを書いたときには、『砂の器』の音楽監督は芥川也寸志武満徹かどちらかだったはずだと思っていたが、どちらでもなかったら恥ずかしいので黙っていた。この二人の作風は全然違うが、何となくイメージがダブるところがある。これで、「実は一柳慧だった!」という話なら面白かったのだが、さすがに現実はそこまで面白くない。

ところで、芥川也寸志はミステリ関係の仕事が多かったようだ。清張原作では他に『ゼロの焦点』などいくつかあり、山本周五郎(ウィリアム・アイリッシュ原案?)の『五瓣の椿』、横溝正史の『八つ墓村』、大岡昇平の『事件』、そしてエラリー・クイーンの『配達されない三通の手紙』(『災厄の町』)など。とはいえ、本人がミステリ好きだったということではなくて、野村芳太郎監督作品によく参加していたというだけのことだが。


『太陽の塔』(森見登美彦/新潮社)読了から一夜明けて、ここを見た。なお、これから『太陽の塔』を読もうと思っている人はリンク先もこれ以降の文章も読まないほうが賢明である

受賞の言葉を読むと、やはり作者自身が実生活で溜め込んだ妄想を形にしたもののようだ。それはそれで悪くはないのだが、いつまでも実妄想が続くわけではない。滝本竜彦は二作の長篇で実妄想を吐きだしてしまい、しばらく小説が書けなくなった。幸い、滝本竜彦は復帰した。まだ新作は読んでいないが、溢れんばかりの虚妄想に満ちた傑作であることを期待している。森見登美彦はどうだろうか?

今、滝本竜彦を引き合いに出したが、5人の選考委員の選評では全く言及されていない。そのかわりに、さまざまな人名が出ている。文脈を無視して人名だけ抜き出しておこう。いしいひさいち、夏目漱石、岡本太郎、ムツゴロウ、庄司薫、遠藤周作、木原敏江。

ところで、井上ひさしの選評に、「えっ!」と驚く箇所があった。

京都大学を〈休学中の五回生〉の「私」が主人公で語り手をかねているのだが、この「私」が女性にモテたくてたまらないのにまったくモテないので、客観的にはみじめで哀れな毎日を送っている。ところが「私」には、つまり主観としては、自分がモテないのは世の中がまちがっているように見えている。この客観と主観のズレが全編に絶え間なく愉快な諧謔を作り出していて、読者はいつも主観と客観の、抱腹絶倒の二重唱を聞くことになる。

主人公はリアリストであり、自分の置かれた現状をちゃんと認識している。つまり、主観と客観の間にズレはない。その上で、夢と知りつつ夢を追い、妄想と知りつつ妄想に耽る。そんな自分を自虐的に観察し、あたかもロマンチストとしての自分が書いたかのように装っているのであり、その偽装は妙に持って回ったような文体で明らかに示されている……。

……というのが私の読みだ。受賞の言葉を読んだからそう思うようになったというわけではない。『太陽の塔』の最初の2行を読んだときからずっとそう感じていた。

だが、他の選考委員(その中に『ハサミ男』を誤読して、文章上の技巧を主人公の主観描写だと解釈した人がいる)ならともかく、井上ひさしほどの人が言うのだから……。

う〜ん。

誤読とか正しい読みとかのレベルで語るべき事柄ではないのかしれないが、井上ひさしの解釈に従うと、主人公がただの妄想バカ野郎になってしまい、少なくとも私にとってはあまり面白くない。知らず知らずのうちに滝本竜彦的バイアスがかかっているのか?


『ミステリ系音楽会の夕べ』の感想文に、こっそり一項目追加。一作品だけコメントし忘れていた。

1.10915(2004/01/13) クリスマスストーリーにはサンタが登場しなければならない、ただしネコ耳である必要はない

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401b.html#p040113a

見出しとは全く全然何の関係もないが、求道の果ての1/11付の記事を読んで、非常にショックを受けた。この記事は下津井電鉄の廃線跡紀行なのだが、14年前に廃線になったと書かれている。

えっ、もう14年も経ったのか?

すると、私が廃線間際の下津井電鉄に乗ったのも、14年前ということになる。あれから14年、私は14歳としをとってしまったわけだ。

当時、現存していた児島〜下津井間(それよりずっと前に茶屋町〜児島間が廃線になっている)の全駅に乗降し、各駅で写真をとったのも、もうはるか昔の話。捨てた記憶はないから、今でも机の引き出しの奥に当時の写真が残っているはずだが、今さら見る気もない。

ああ、時の流れは残酷だ。


気を取り直して、『ビタースイートフルーツ』尾道大学推理小説研究部)の感想を簡単に書いておく。

例によって作者名の表示がないのが気になるが、それはさておき、小説の冒頭でいきなり妙な記述に出くわした。

あの奇天烈な事件が起きたのは、今を遡ることおよそ二ヵ月前、去年の十二月二十五日午後七時前後・・・・・・簡潔に言うと、聖夜真っ只中のことだった。

「聖夜」というのは、12/24の夜のことだと思うのだが……。(

まあ、これは本筋とは関係ないのだが、少し後の「今だ」という誤字と相まって、ひどく雑な印象を受けてしまった。小説の冒頭部分の書き方は特に注意しないといけない。

肝心の本筋のほうだが、ブッシュ・ド・ノエルというケーキを知らないので、どうにもイメージが湧かない。イメージ不足のまま読み進めると、トリック自体がピンとこない。小説としては邪道かもしれないが、ここは是非、実際にブッシュ・ド・ノエルを作って写真に撮ってほしいものだ。写真で見せられれば、トリックに納得できるかもしれない。

ミステリとしてはトリックひとつで成り立っている話なのでこれ以上の感想はないが、最後の場面は読んでいて恥ずかしかった。あと14年くらい後に読み返してみれば、この小説の作者も恥ずかしく感じることだろう。若いというのはいいことだ。

ところで、編集後記我が部の誇る山田久探偵に、誰か萌えてくれないかなって、最近ちょっと思うんですよね・・・・・・。という言葉(これも筆者名の表示がないが、『ビタースイートフルーツ』が書いたものと思われる。というか、尾道大学推理小説研究部に実働部員が何人いるのだろうか?)について。

このキャラクターに萌えるのは非常に難しい。まず「山田久」というネーミング自体が、萌えとは別のベクトルを持っている。次に、彼女の口調や仕草に萌えを喚起する要素が乏しい。そして――これがいちばん大きいポイントだと思うが――この連作でしばしばワトソン役を務める小野ミチルの視点が萌えにそぐわない。なぜなら、彼にとって彼女は年齢的にも精神的にも目上の人物だからだ。憧れと萌えは両立しない

なぜか萌えの話になってしまった。今日はここまで。


聖夜
辞書によれば、クリスマスイブのこと(参考)だそうだが、私は以前、雑誌で別の説を読んだことがある。その記事によれば、「聖夜」には12/25の夜を表す用法もある、とのことだった。その根拠は『きよし この夜』の歌詞(参考)にイエス・キリストの生誕が歌われているということに求められていた。クリスマスイブはキリスト生誕前夜だからまだキリストは生まれていないはずだ、というロジックなのだが……。

1.10916(2004/01/15) 「私信」と弁解

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401b.html#p040115a

先日私はこんなことを書いた。

私信:ネタがあることは気づいていましたが、具体的にどういうネタかはわからなかったので、先ほどやたらと雑学に詳しい後輩に電話で尋ねたところ「それはマイケル・スレイドでしょう」と言われました。そこで部屋の片隅に転がっていた『髑髏島の惨劇』(未読!)のカバー見返しを見て確認しました。これ以外にネタがあるのだとしたら、全くお手上げです。

「私信」と書いてはいても、本当の意味での私信ではない。ネット上にアップした文章は、みな等しく不特定多数の人々の目にさらされる可能性にさらされている。「さらされる」がダブったが気にしないことにする。

では、なぜ私信ではない文章を「私信」と称するのか? 一年前に私はここで、読者との距離の取り方という話題に絡めて「私信」について少し述べたことがある。今読み返してみると説明不足な感じがするのだが、うまく説明する方法が他にあるわけではない。多数の人々に理解されるほど一般性のある話題ではないが、かといって個人宛のメールで伝えるほどの必要もなく、直接の相手方以外の人が読んで何のことを言っているのかわかるのならそれはそれでいいし、わからなければわからないで謎めいた文章として捉えられるだけ。そのような微妙な話題を扱うときに、「私信」という書き方をすることがある。

「私信」は個人ウェブサイト管理人相互の馴れ合いに通じる(必ずしも両者が同じであるわけではないが)。一部の人々の間で勝手に盛り上がって、一般読者を無視している、という批判が、「私信」にも成り立つことがあるだろう。馴れ合いの是非という問題は、これ自体が非常に大きなテーマで、これまでにさまざまな場面で莫大な議論が交わされてきた。今、馴れ合いの是非について論じるつもりはないが、サイト管理人としていつも意識の片隅に引っかかっている問題であることは確かだ。

さて、上の私信は、のこされたことばのかけら1/7付の記事に対する応答になっている。

滅・こぉるさんに真面目に小説作品を批評していただけたのは、執筆者冥利につきる……んですが、ハテあのネタについては気がつかれなかったのか、つかれてもふれるほどの価値はなかったか(まぁないのは確かだ……)。ともかくとりあげていただけて感激しました。あれは確かに無理があると思います。長編化するとしたら(しないけど)その辺りが課題です。反応遅いのはご愛敬。

ここで言及されているのは、『ミステリ系音楽会の夕べ』の感想文だが、私が果たして真面目に小説作品を批評しているかどうかは異論のあるところだと思う。ともあれ、いちおう根子氏の小説『ヘッドハンター(短縮版)』の感想を書いているのは確かだ。

さて、その『ヘッドハンター(短縮版)』だが、末尾に次のような註釈がある。

べつになくても良さそうだけれど実は作品としては非常に重要な注釈……

※本文中に出てくる固有名に関しては実在の人物、団体、名称などとは一切関係がありません。読まれた方がなんらかの意図を感じたとしたらそれはまったくの偶然です。ただし、タイトルには明確な意図が含まれています。

(完全版『ヘッドハンター』と、その後日談『グール』、『カットスロート』の掲載・発売予定はありません。ではさようなら)

この小説に何かネタがあるとすれば、ヒントはこの箇所だろう。私はそう考えた。そこで、後輩に電話をかけてこの箇所を読み上げたところ、冒頭に書いた回答が返ってきたというわけだ。

マイケル・スレイドの作品はこれまで一度も読んだことがなく、ここにタイトルが挙げられている三冊は書店で手にとってみたことすらないのだが、たまたま手許に『髑髏島の惨劇』(文春文庫)があったので、そのカバー見返しの「著者紹介」を見て、確かに同じタイトルの作品があることを確かめた。

ところで、私が『髑髏島の惨劇』を買ったのは、この本が出た直後(2002年10月)のことだ。オビに

綾辻行人氏絶賛、千街晶之氏狂喜。

カナダ発本格ミステリの飛び道具、発射準備完了。

この「館」にだけは決して招待されたくない!――綾辻行人氏

本格ミステリと激烈ホラーが正面衝突。

ジョン・ディクスン・カーの正統後継者、ここに降臨。

と書かれている。いま見ても凄い煽り文句だと思う。これで琴線を揺さぶられなかったら、どうかしている。いや、私のほうがどうかしているのか?

ともあれ、私は『髑髏島の惨劇』を買った。そして、積んだ。さらに上に別の本を積んだら見えなくなった。そして、忘れた。

それから一年後……。

年末に部屋の整理をしているときに、あのマイケル・スレイドが還ってきた。面白いから、もう少し続けて引用してみよう。

あのマイケル・スレイドが還ってきた。

全篇に狂気と鮮血が溢れ返った『グール』『ヘッドハンター』『カットスロート』(いずれも創元ノヴェルズ)の三長篇で、一部の好事家から絶賛を浴び、そして多くの"良識ある"ミステリ・ファンの顔を顰めさせた、あの悪魔の合作ユニットが。しかも、今度はよりにもよって「本格ミステリ作家」という、神をも畏れぬ仮面を被って。

小心なる者は目を覆え、耳を塞げ、地に伏せて邪悪な気配をやり過ごせ。涜神の雄叫びを放つ血に飢えた悪鬼が、今、再び我が国に上陸して荒れ狂おうとしているのだから!

これは解説(千街晶之)の冒頭部分だ。凄い。なお、千街氏の名誉のために付記しておくが、原文では「涜」の字は「さんずい+賣」となっている。

話を戻す。

何度も言っていることだが、ここ数年私の読書力は格段に衰えていて、小説を読むのがしんどくなっている。特に海外物は辛い。『髑髏島の惨劇』に非常に興味を惹かれながら積ん読状態になっていたのは、そのせいだ。手をこまねいているうちに『暗黒大陸の悪霊』が出てしまい、もはや時機を逸してしまったかのような気分に陥るのだが、よく考えれば、純粋に個人的な楽しみとしての読書に時機も自棄もない。これを機会に今度こそ『髑髏島の惨劇』に取りかかることにしよう……という思いが、冒頭の「私信」には籠められている。

そういうわけで、私自身にとっては、あえてウェブ上で「私信」を書くことに全く意味がないわけではないのだが、そんな事は読者の知ったことではないわけで、結局のところ独りよがりに陥っているような気がする。おまけに、『髑髏島の惨劇』にはまだ手をつけていないし。二度と再び本の山に生まれることがないように、机の上に置いて常に目につく状態にしているのだが……。

さて、この文章自体も独りよがりの誹りを免れないように思う。「いったい滅・こぉるは何を書いているんだ?」と不思議に思われた方も多いだろう。実は、今日の記事は昨日私あてに届いたメールへの返答である。そのメールで、冒頭に掲げた「私信」の真意を問われたのだ。これは(ウェブ上での「私信」ではなく)文字通りの私信なのだから、返事もメールで行えば足りることなのだが、話せば長くなることだし、昨日更新をさぼったばかりなので、今日の分の更新を兼ねてしまおう、などとさもしいことを考えた結果がこの文章なのだ。

メールの送り主が私に問い合わせる気になった理由を説明すると、これまた長くなるし、メールの内容に触れることにもなる。内容的には特に極秘である必要はないと思われるが、私信だから触れないほうがいいだろう。ただ、この文章を締めくくるために、失礼ながらメールを受け取ったときの私の心境を告白しておく。

まさか『髑髏島の惨劇』カバー見返しの文章を書いた人が私のサイトを見ているとは思わなかった!


私信1:『新・御神楽少女探偵団』をインストールしようと思ったら、パソコンがフリーズしてしまいました。原因は不明です。

私信2:ご指摘のあった「児玉」は「児島」に訂正しておきました。おそらく、意識下に児玉清か児玉さとみへの曰く名状しがたいコンプレックスがあったのでしょう。以後、気をつけます。

私信3:某スレの観察対象になっていることで気に病んでいるように見受けますが、サイトでは言及されないほうが賢明でしょう。煽っているのは一人か二人で、その他の住人は基本的にスルーの方向ですし。

私信4:裁判所の令状がなければ、その件については回答できません。

私信5:専業主婦だろうが兼業主婦だろうが構わないと思うのですが、何か?

私信6:神社の所在地と巫女さんの人数をこっそり教えて下さい。

私信7:信秀でプレイし、信長を軍団長にします。次に宝物を与えて、すぐに没収します。すると忠誠度がゼロになり、野望の高い信長の場合はかなりの高確率で裏切って独立します。その後、徐々に友好度を上げて同盟を結び、娘のお市の方と信長を縁組みさせれば、兄妹の近親結婚が実現します。

私信8:その件についてはそっとしておいて下さい。

私信9:去年、道頓堀にラーメン屋を集めたフードテーマパークができたそうです。場所を調べておくので、今度一緒に行きませんか?

私信10:言うまでもなく、私信11に書いていることは全部誤りです。

私信11:当然のことながら、私信10に書いていることはすべて真実です。

私信12:そろそろリンクを張ってもいいでしょうか? といっても、今は特に言及する話題がないのですが。

私信13:萌えと性的欲求の関係については、現在思案中です。

私信14:眠れないんですか? だったら、私が怖い話をしましょう。そう、あれは三年前の真夏の夜のことでした……。

1.10917(2004/01/17) ミスと批判と読書能力

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401b.html#p040117a

何日か前に日刊海燕『四季 秋』の感想を某掲示板経由で読んだ。私は森博嗣の小説は最初の数冊で読むのをやめたので『四季 秋』も読んではいないが、海燕氏の感想文にはいろいろと考えさせられる論点があり、少し落ち着いて考えてみようと思った。だが、なかなかまとまった時間がとれないので、とりあえず現段階で思いついたことだけ、忘れないうちに書いておく。

まず、実はある作品をゼロから構築するよりも他人が構築した作品のミスを発見し指摘し批判するほうが遥かに容易です。という指摘は、確かにその通りだ。ただ、この書き方は少しミスリーディングな感じがする。その理由を説明する前に、次の段落を見てみることにしよう。

ひとつの作品を構築するためには思考の飛躍と想像力が必要ですが、そのミスを見つけるためにはただ注意深くさえあれば良いのですから。ネットでの書評でもしばしばある矛盾点を発見したことでその作品を全否定する人間を見かけますが(いや、ネット書評どころか直木賞の選考でもそういった問題がありましたね)、あるポイントを批判する人間はしばしばそれだけでその作品のすべてを把握しその作家に対して優位に立ったかのように錯覚することがあるようです。

ここでは、二つの異なる事柄を連続したものとして扱っている。すなわち、

  1. 作品に矛盾点を発見したことでその作品を全否定するということ
  2. 作品を批判する人が当該作品の作者に対して優位に立ったかのように振る舞うこと

実際、両者は同時に現れることが多い。たとえば、引用文中で言及されている「直木賞の選考」では、前者から後者への移行が見られる(さらに、作者だけでなく、当該作品の読者に対しても優位に立ったかのような発言があった)。しかし、読者が作品を批判するときのあり方について議論するときには、いちおう二つの問題は分けて考えたほうがいいのではないかと思う。

上で、「少しミスリーディングな感じがする」と書いたのは、作品のミスの発見というレベルの話題に作者と読者の緊張関係を読み込んでいるからである。作品を構築することと構築された作品に綻びを見出すことの難易度に話を絞るなら、「他人の」という修飾語句は不要である。自分の作品のミスを自分で発見することもある。

この辺を掘り下げてみたら面白いのではないか。構想力は豊かだが研磨が雑な作家をどう評価するか、とか。だが、ここで横道にそれると思いつきを忘れてしまうので、先に進む。

一冊の本がおもしろいかどうか、新鮮かどうか、魅力的かどうか、そういった問題は実はその本の内容によってではなく読むもののパーソナリティによって決まる。

もう一箇所。

すべては自分の立ち位置によって決まるのです。その意味では、世界など、自分を取り囲んだ歪んだ鏡にすぎないとも言えるかもしれない。

読みようによっては独我論すれすれのことを書いているかのようにも受け取れる。だが、あまり強いテーゼを読み込むべきではないだろう。一冊の本がおもしろいかどうか、新鮮かどうか、魅力的かどうかということは、その本の内容のみによってではなく、読むもののパーソナリティによっても左右される、という穏当な解釈をとることにする。

最後の締めの部分。

よく怒りをこめてある作品の低劣さを非難する文章を見かけますが、あれが僕にはよくわかりません。作品の内容が未知である以上、購入する前にそれに失望するというリスクはあらかじめ想定しておくことが当然ではありませんか? そしてその失望の原因はつまりは自分の選択の失敗なのだから、本や作家に怒っても非建設的だと思います。そもそも一作の作品の低劣さなど、たいした問題ではないと思うのですが、これは個人の考え方の差かな……。

本を読む前の期待が高すぎると、予想が外れたときの落胆が大きく、「裏切られた」と感じることがある。だが、作者もしくは作品が本当に読者を裏切ったわけではない。しかし、不幸なことに、そのような気休めが及ばない正真正銘のクズ本もある。もちろん、どの程度の欠陥をもってクズ本に認定するのかは人それぞれだが。

低劣な作品に怒りをおぼえるのは非建設的だし、そんなことはたいした問題ではない。そう言ってしまえば確かにそうだが、同じことは素晴らしい作品に出会ったときにも言える。どんなに感動しても、建設的なことでもないし、たいしたことでもない。そもそも趣味の読書は概して非建設的だ。身も蓋もない言い方だけど。

としをとると本を読んで怒りに身を震わせることもなければ、喜びに心を奮わせることもない。激しい感情の振幅が失われ、感受性が摩耗し、ただ惰性で本を読むだけだ。他人のサイトの記述を読んで、そこに自分がかつて持っていたはずの心の揺れ動きを見ると、懐かしく感じるとともに、なんともいえない寂しさにとらわれる。

だんだん、原文の趣旨から外れてきた。この辺で終わりにしたほうがよさそうだ。

1.10918(2004/01/17) 雪、雪、雪

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401b.html#p040117b

朝、起きてみると、あたり一面雪景色だった。そういえば、今日は阪神大震災9周年記念日だった。「そういえば」の前後が論理的に繋がっていないが、所詮論理など辻褄合わせに過ぎない。これでいいのだ。

今日はこれから外出する予定だが、無事帰宅できるかどうかはわからない。もしできなければ、この文章が私の絶筆ということになるだろう。「絶筆」という言葉はこういう場面で使うべきものなのかどうか、よくわからないが。


たとえば通学の途中、ターミナル駅で乗り換えの電車を待っている間なんかに、さる有名お嬢様学校の制服を着た見知らぬ美少女に声をかけられたことはないだろうか?

いいえ。

あまつさえ、「すいません、お話したいことがありますのでわたしについてきていただけませんか?」などと人気のないところに連れていかれ、さらには「あの……、わたしずっと見ていました。同じ車両に乗って、いつもあなたのことを見ていました。……好きです。大好きです」などと、愛の告白をされたことはないだろうか?

いいえ。

参考のため、引用もとにリンクしておく。『密室は妹のはじまり』新青春チャンネル78〜)。本当はちゃんと感想を書くべきなのだが、時間がない。

もし私が無事に帰宅できなかったら、『密室は妹のはじまり』が私が生涯最後に読んだ小説ということになるだろう。それでいいのか?

1.10919(2004/01/19) 「夏」と「冬」、一字違いで大違い

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0401b.html#p040119a

今日の見出しは本文と全く関係ないということはないのだが、別に密接な関係があるわけでもなく、共犯関係や肉体関係もない。特に説明はしないが、ヒントは文中にあるので、気づく人は気づくかもしれない。気づいたからといって特に幸せになるわけではないし、気づかなかったからといって不幸になるわけでもない。

先日「時間がない」と一言書いて放り出したままになっていた『密室は妹のはじまり』の感想文を書こうと思ったが、なかなか糸口が掴めない。考えあぐねているときに、ふとタイトルは清水マリコのパクリですな。という一文が目にとまった。清水マリコはエロゲー・ノヴェライザーの大家として有名だが、私は『kanon』のノヴェライズしか持っていないし一冊も読み通したことがないので、元ネタが何なのかはわからない。感想文を書いているくらいだから、『嘘つきは妹にしておく』(メディアファクトリー MF文庫J)のことではないかと思うが、「妹」しか一致していない。まあ、「嘘つきは泥棒のはじまり」という諺があるから、それを媒介にすれば似ていないこともないが、それでも「パクリ」というのは言い過ぎではないか。別に言い過ぎでも構わないのだが……。

ともあれ、『嘘つきは妹にしておく』を買ってきて、つい先ほど読み終えた。なかなかよかった。「ライトノベル」というよりは「ヤングアダルト小説」、いや「ジュブナイル小説」と呼ぶほうがしっくりくるような、そんないい雰囲気の小説だ。細かいことをいえば難がなくはないが、ミステリではない(どうでもいいが、Googleで検索したら、やたらとミステリ系サイトが引っかかる)ので、あら探しはしないことにする。

ところで、このページを見ると、清水マリコの2冊めの本が、MF文庫J様より 10月25日に発売されました。約1年ぶりのオリジナル新刊です。と書かれている。私はてっきり『嘘つきは妹にしておく』が清水マリコのオリジナル第1作だと思い込んでいたが、どうやらそうではなかったようだ。だが、Amazon.co.jpで検索してみたが、それらしい本は見あたらなかった。『嘘つきは妹にしておく』の後には『君の嘘、伝説の君』が同じMF文庫Jから出ているが、これも時間があれば読んでみたい。

さて、『密室は妹のはじまり』を読み返してみる。殺人事件こそ起こらないが、いちおう密室状態で発生した事件を扱っている。そのメカニズムは、天城一の分類によれば超純密室なのだが、過去の作例の多くがそうであったように、これも相当無茶な話だ。そして、過去の作例の多くがそうであったように、これも無茶な話であることが直ちに欠点だということにはならない。

むしろ私が疑問に感じたのは、語り手自身が生徒会副会長だったという仕掛けのほうだ。どうしてそのことがいりすにわかったのかの説明が全くない。厳格なパズラーではないので、最初から知っていたことにしてもいいだろうし、それでは物足りないというなら、登場人物の紹介のところで何か伏線を張っておいてもいいだろう。短い小説なので、あまり複雑な技巧を凝らすのは得策ではないが、多少描写を補って唐突さを和らげることは可能だと思う。

分量との兼ね合いという観点からすれば、冒頭の数段落は余計ではないか。主人公の置かれている状況とたとえ話とが微妙にずれている。前振り抜きで「にいさま、これからよろしくおねがいしますなのだ」から始めてもよかっただろう。

なお、私は妹萌えのことは全然わからないので、その方面からのコメントは差し控えておく。