【日々の憂鬱】一年間に達成したのがひとつとしをとることだけというのはいかがなものか。【2003年12月下旬】


1.108(2003/12/21) 誘惑

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誘惑を退けたくなる誘惑は抗しがたい。

1.10882(2003/12/22) 感覚と思考についてのメモ

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312c.html#p031222a

感覚と思考は区別可能なのかということについて考えてみた。

まず、最初に感覚と思考の共通点を挙げてみよう。全然別の領域の事柄について、違いや区別を論じても仕方がないのだから。たとえば「杏仁豆腐と仏舎利の違いは何か?」と訊かれたとき、私は何とも答えようがない。

感覚と思考は共に意識にあらわれる事柄だ。料理でもなければ遺物でもない。私の意識にはさまざまな感覚があらわれては消えてゆく。思考もまた同じ。

人間以外の動物の中にも感覚を有するものがある、と考えられている。犬の頭を殴ったら犬は痛がるし、猫の腹を撫でたら猫はくすぐったがる。その時、犬は痛みを感じ、猫はくすぐったさを感じているのだろう。本当に犬や猫が痛みやくすぐったさを感じるのかどうかは私にはわからないが、もし犬猫に感覚があるのなら彼らには意識があるはずだと言うことはできる。

チンパンジーを使った実験で、次のようなものがある。手の届かない位置にバナナを吊し、その近くに踏み台を転がしておく。チンパンジーは最初、背伸びをしたり跳んだり跳ねたりしてバナナをとろうとするが、それが不可能だとわかると踏み台を持ってきて、その上に乗ってバナナに手を伸ばす。この時、チンパンジーはバナナをとるための手段について考えていると思われる。本当にチンパンジーが物事を考えるのかどうかは私にはわからないが、もしチンパンジーが何かを考えるなら彼らには意識があるはずだと言うことはできる。

意識にあらわれる事柄は思考と感覚だけではない。たとえば、感情やイメージがそうだ。欲求や意志なども意識にあらわれる事があるが、思考でもなければ感覚でもない。だが、これらの事柄はばらばらに存在するのではなくて、互いに密接な関係を有している。梅干しを見て、その酸っぱさを思い浮かべ、口の中に唾がわき出るのを感じ、梅茶漬けを食べたいと思い、冷蔵庫に梅干しがあったかどうかを考え、台所に行こうと決意する。この一連の流れの中で、意識にあらわれるさまざまな事柄の関連を探ってみると、非常に複雑な因果関係と概念的関係があることがわかる。

だが、感覚と思考だけでもかなりやっかいなのに、感情や欲求まで話を広げると収拾がつかなくなるので、やめておこう。

さて、感覚はどのようなメカニズムで生じるのか? たとえば、刃物で胸を刺されたとき、皮膚の感覚器官から神経を通じて脳に刺激が伝わり、痛みの感覚が発生すると考えられる。この説明は、感覚器官と伝達器官、そして脳が実在するという前提に基づく。当然の事ながら、皮膚も神経も意識の一部ではない。感覚は意識にあらわれるものでありながら、意識の外に原因をもつものとして了解されている。

では、思考が生じるメカニズムのほうはどうか。腹が減ったので何かを食べたいと考える、パズルを提示されてその解を考える、急に用事を思い出してその段取りを考える。思考にはさまざまな事例があり、共通の物理的因果関係の系列の結果としてとらえるのは難しい。

少なくとも確かなことは、感覚器官と対比されるような「思考器官」はなく、従って思考を脳に伝達する器官もないということだ。思考は最初から脳で生じるものとして了解されている。


ここまで書いて行き詰まった。できれば意識におけるあらわれ方の違いで感覚と思考を区別したいのだが、脳とか神経とか感覚器官とかを持ち出してしまったので、思っていたのとは別の方向に話が進みそうだ。私は生理学についての知識が乏しいので、これ以上続けることができない。

1.10883(2003/12/22) 休日

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312c.html#p0312

今日は休日である。なぜ休日かといえば、山陰旅行のために休みをとったからである。予定では今頃三江線に乗っていたはずなのである。しかし私は今自宅でパソコンに向かっているのである。

なぜ、私は旅行に出なかったのか? それは、意識レベルの低下に起因する。高次の精神的存在者が放つ崇高なる輝きから隔たれて、漆黒にして桎梏の闇に囚われつつあるのだ。ああ、いったい私は何を言いたいのだろう?

要するに、やる気がなくなってひきこもり気味になっているのだ。昨日は関ミス連に行くつもりだったが、なんとなく気が乗らないのでやめた。

今日は神戸のミレナリオに行こうと思う。いや、ルミナリエだったろうか? 調べればわかるのだが、気が乗らない。どっちでもいいや、そんなこと。電飾で街中ぴかぴかになる、あのイベントだ。毎年、行こう行こうと思いつつ、まだ一度も見たことがない。有楽町でやってるほうは去年見たけれど。

聞くところによれど、神戸ミレナリオ若しくはルミナリエは毎年大赤字でいつまで続くかわからない状態だという。もしかしたら来年はもうやらないかもしれない。だったら今こそ行くべきだ。今日は平日でさほど混んではいないだろうから好都合だ。よし行くぞ!

と、掛け声だけ先だって、全然身体が動かない。低調なときはこんなものだ。気分を変えて、前回の続きでも書くことにしよう。


感覚と思考は発生するメカニズムが異なる。それが前回思いついた事柄だった。ただし、意識へのあらわれだけに話を限定して意識外の事情を考慮しないことにすれば、物理的因果関係を持ち出すことはできない。さてどうしたものか。そこで私は行き詰まってしまった。

ところで、「感覚」という言葉はさまざまな事柄に適用されうるが、ここで私が考えているのは身体感覚だけだ。主に視覚、聴覚、触覚、味覚、嗅覚の五感、そのほか五感に還元されるかどうかはよくわからないが身体で感じることが明らかなさまざまな感覚、たとえば平衡感覚とか(不快指数で表される)不快感など。同じ不快感でも嫌悪感は感覚から除外する。また、予感や直感なども感覚ではないということにしておこう。

また「思考」という言葉もさまざまな事柄に適用されうるが、単なる想起や連想は除外しておく。疑ったり、信じたり、判断したり、判断に迷ったり、推理したり、証明したりすることをひっくるめて思考と呼ぶ。

このように絞り込んで考えると、この問題は比較的簡単なものになる。なんとなく意識においてあらわれるもやもやとした想念の類は、感覚でもなければ思考でもなく、なんだかわからないが別の何かだということになるので、「これは感覚なのか? それとも思考?」と迷うような局面がないからだ。

しかし、これは単に感覚と思考の区別の問題を感覚と感覚ならざるものの区別と思考と思考ならざるものの区別に置き換えただけではないか。そうすると、見かけほど問題が簡単になったわけではなくて、もとの問題が手付かずのまま残っているのではないか。

そろそろ再び行き詰まりつつあるようだ。でも、もう少しだけ続けよう。

私が寒さを感じるとき、私はその寒さを身体中の皮膚によって感じている。私には本当に身体があるのか? 私に身体があるとして、その表面が本当に気温を感じ取っているのか? それらはすべて錯覚ではないのか? このような疑いは当然提起されうることだが、それでも私が寒さを身体によって捉えられた寒さとして感じているということは疑いえない。

もう少しわかりやすい例を挙げよう。道を歩いて後ろから背中に蹴りを入れられたとき、私は背中に痛みを感じる。本当に背中に蹴りを入れられたのか? 実は蹴りを入れられたのは腹ではないか? そのように疑うことは可能だが、背中が痛いということを疑うことはできない。「痛いのは実は背中ではなくて腹ではないか?」などと疑っても無駄だ。

私が何かを感じているとき、感じている事柄のなかみ(寒さ、痛み、など)のほか、それが感じられている場所(全身、背中、など)も私の意識に与えられている。意識のなかに話を限っても、感覚は無構造ののっぺりしたものではなく、少なくとも2種類の要素に分けることができる。

では、思考の場合はどうか? 思考のなかみと思考の場所を分けることは可能か?


別に行き詰まったわけではないが、なんとなく急に続きを書く気が失せた。そろそろ外出することにしよう。

1.10884(2003/12/22) 君は知っているか、歌野晶午が『東スポ伝説』にエッセイを寄稿していたことを!

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どうでもいい話だが、聖隷グループの病院では日夜どのようなことが行われているのか、非常に気になる。

1.10885(2003/12/23) 真夜中の更新

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第弐齋藤 | 土踏まず日記の感想文を読んで気になり、『生きるススメ』(戸田誠二/宙出版)を買った。書店で見かけたとき、一瞬著者のサイトで公開されているマンガを先に読んでおいたほうがいいか、とためらったが、今にして思えば、そんな中途半端なことをしなくてよかった。独断と偏見を込めて言うが、これらのマンガは紙とインクの匂いとともに味わうほうがよい。

讃辞は既に語られている。私には何も付け加えることはない。

1.10886(2003/12/23) ツッコミ症候群

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警察業界で「ツッコミ」といえば強姦のことだ。「強姦」という言葉は語気が強くてよろしくない、と思うなら「暴行」と言い換えてもよい。いや、まだまだか? だったら「乱暴」だ。さらにマイルドに「いたずら」と言う場合もある。でもやってる事は同じだ。ところで、少し前に新聞を読んでいたら、政府が「集団レイプ罪」の新設を検討しているという記事があった。これって「輪姦罪」のほうがいいのではないかと思ったのだが、まあ名称はどうでもいい。

さて、今回の見出しはそういう意味でのツッコミではなくて、お笑い業界用語から派生した意味でのツッコミのほうだ。主にウェブ日記とかテキストサイトの記事についてツッコミを入れたくなって仕方がないという状態のことを指す。「症候群」などと書いてはみたが、別に医学的裏づけがあるわけではない。というか、私は「症候群」の本当の意味を知らない。知らないのに書いてしまうのはスノビズムの極みだ、悪しき教養主義だ。この点についてどんなツッコミを入れられても甘受しなければならない。

さてさて、昨日私はあるサイトの記事を読んで「それはないだろう!」と思わずツッコミを入れたくなった。具体的なサイト名は伏せておくが、偏見で曇りきった目で事象を歪曲して、とんでもない事を語っていて、どうにもこうにも辟易するばかりだった。

なお、この文章を見ているウェブサイト管理人諸君は「もしかしたら自分のサイトのことだろうか?」と思われるかもしれないが、安心されたい。そんな懸念にとらわれるくらいの人なら決してあんな文章を書いたりはしない。彼奴(「きゃつ」と読んで下さい)はそんなタマじゃない。

で、ツッコミを入れようかどうしようか迷ったのだが、結局やめておくことにした。当該サイト管理人と私は面識はなく、メールや掲示板などで意見交換したこともない。全く赤の他人だ。たまたま、某大手ニュースサイトからのリンクを辿ってそのサイトの記事を読んだだけで、何の利害関係もない。また、当該記事の内容も私と何の関係もないことだ。そんな記事をいちいち槍玉に挙げていてはきりがない。

私はよく他人の文章にツッコミを入れたくなることがある(たまには自分の文章にもツッコミを入れたくなる)。だが、いつもいつも実際にツッコミを入れているわけではない。たとえば、次のような場合には、ぐっと我慢してツッコミを控えることにしている。

  1. ツッコミの根拠となる論点が一般には受け入れられにくい場合。
  2. ツッコミを入れたい話題についての私自身の考えがまとまっていない場合。
  3. 資料調べが面倒な場合。
  4. 相手の人格攻撃にまで発展しかねない場合。
  5. ネットバトルに発展しそうな場合。

1の場合は、なぜその論点が成立するのかということを説明するところから始めないし、どう説明すれば通りがよいかを考えているうちに、もともとのツッコミ欲求が萎んでしまうことが多い。2の場合は、隙を見せて逆にノリツッコミをされると怖い。3は私があまり通じていない話題の場合だ。資料調べを怠ると逆襲されてしまうが、たいていの場合はそこまで手間暇かける気にはならない。4はツッコミに限らず私が絶対にしないように心がけていることだ。5は過去に何度か体験して、あまりの鬱陶しさにうんざりしたため。

今回のケースは4と5に該当する。特殊知識が必要な話題ではないし、ノリツッコミのおそれはまずないと思われるのだが、妙なトラブルに巻き込まれると構わない。私は平穏無事を尊ぶ日和見主義者だ。

で、ツッコミを我慢することにしたが、それども心の内から迸るような欲求は止めようがない。うう、ツッコみたい、ツッコミを入れたい、グサグサと容赦なく弄り回して、揶揄して、彼奴(しつこいようですが、「きゃつ」と読んで下さい。「かれやっこ」じゃないよ)がいかに馬鹿な文章を書いているのか衆目に晒したい。

そんな悶々とした気分でネット巡回をしていると、白黒学派が目に止まった。よし、代わりにこちらを槍玉に挙げてやろう、と私は決意した。ほとんど八つ当たりだ。

で、白黒学派にツッコミを入れる。なに、たいした事ではない。表記方法の話だ。

白黒学派では、なぜか英単語をそのままローマ字(「そりゃ、アルファベットだろうが」というツッコミは黙殺する)で表記していることが多い。たとえば、「ゲーム」は「Game」、「トップ」は「Top」というふうに。外来語として定着していない言葉ならともかく、ふつうにカタカナで書いても十分通用する言葉をあえてローマ字で書いても、snobbism丸出しなだけで何の効果もないのではないかと思うのだが、これはまあ個人の趣味と感性の違いというレベルの話なので、いちいちツッコんでも仕方ない。私が自分では自然な表記方法だと思っている事柄のなかにも人によってひっかかるものもあるだろうから、お互い様だ。

ただ、一つだけ声を大にして言いたい。「animeってのはどうよ?」と。

賢明なる読者諸氏に於いては先刻御承知のことと思われるが、この語はもともと「animation」と綴る。これが日本語に入って「アニメーション」となり、縮まって「アニメ」となった。それと同時に日本のアニメは独特な進化を遂げた。もっとも特徴的なのは、リミテッド・アニメーションの技法の多用だが、ほかにも日本アニメの特徴は数多い。だが、アニメ技法の話をしたいわけではないので、さっさと先に進める。

さて、日本アニメが海外に進出するようになると、欧米ではそれらを自国のアニメーションと区別するための用語を必要とするようになった。当初、「Japan」と「animation」を合成して「Japanimation」などと呼んでいたが、その後「アニメ」をそのままローマ字表記した「anime」で日本(風)のアニメを指すようになった。これは「西洋将棋」が「チェス」になったようなものだ。

ここまで書けば、後は蛇足のようなものだ。もとは英語であったとしても、大きな変容により日本語化した「アニメ」をわざわざローマ字表記するのはいかがなものか。これが私のツッコミの眼目だ。

うむ。

小さい。ツッコミのネタが小さすぎる。

ああ、瑣末なことにつっこみを入れてしまった。いつもならスルーするところなんだが……。

ほかにツッコミのネタはないか。悪い子はいねえが。

「二分法」の意味で「二元論」という言葉を使うのはいかがなものか。

う〜ん、小さすぎる。

「ア・プリオリ」の対義語が「ア・ポステリオリ」だって知ってる?

まだだ、もひとつ。

リンカーンの輪姦って、華倫変というより駕籠真太郎みたいだ。

むむ、ツッコミというより、ただの連想だ。

……こうして私のサイト巡回は果てしなく続く。


数日前に、とある有名人のサイトからリンクを張られた。書いた私自身がすっかり忘れてしまっていた戯れ文に言及して誉めているのだが、他人から誉められるとどうも照れてしまうのでリンク返しはしないことにする。そのうち頃合いを見てこっそりと別件でリンクしようと思う。

1.10888(2003/12/23) 群衆の人

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昨日、神戸ルミナリエを見に行った。三宮から神戸市営地下鉄に乗り、終点の谷上で下車し、一旦改札を出てからもう一度入り、今度は反対側の終点の西神中央へ行き、一旦改札を出てからもう一度入り、次は新長田で降りて海岸線に乗り換え、終点の三宮・花時計前へ行き、一旦改札を出てからもう一度入り、旧居留地・大丸前で降りるという馬鹿馬鹿しいことをやって地上に上ると、あちらからぞろぞろ、こちらからぞろぞろと人が湧き出ていて気分が悪くなった。よっぽど、そのまま地下鉄に乗って引き返そうかと思ったが、知らない間に人混みに飲まれて前へ進むしかない状態に陥った。

行列は遅々として進まず、後ろにはどんどん人が溜まっていく。まるで某所の北1駐車場で入場待ちをしているような気分だった。ただ違っているのは、あっちはだだっ広い埋立地、こっちはビルが立ち並ぶ街中ということだ。

ビルを見上げながら、ふと益体もないことを考えた。今、屋上から毒ガスを噴射されたら、老若男女みんな白い霧に包まれて、咳き込み、血を吐き、全身から力が抜けて地面に倒れ込み、ぜいぜいと喘ぎながら次第に生命力が尽きてゆくのだろう。そして、折り重なるように倒れた死傷者の中には私も混じっているのだ。『生きるススメ』と『なつめヴルダラーク!』と『げんしけん』の最新刊が入った、わんだ〜らんどのビニール袋を抱えたまま私は命絶えることになるのだろう、と。

あるいは、警備に当たっている警察官がいきなり発狂して銃を乱射したらどうなるだろう? 暴走ダンプがバリケードを突き破って突入してきたら? 地下鉄の手抜き工事でいきなり地面が陥没してアスファルトのひび割れに呑み込まれてしまうということも考えられる。そのどれか一つが実現するだけで、震災復興の希望は潰え、ルミナリエは最終日をまたずに打ち切りになるだろう。

そんな夢想に囚われながらじわじわと歩いていくと、じきに光のアーチに到達した。アーチを抜けると光のドームがあった。私は何事もなくドームに到着し、400円のチーズボールを食べて、その場を離れた。

三宮駅に向かう帰り道、私はもはや夢想を抱いてはいなかった。美しい光に心洗われたというわけではない。要するに、あの夢想は人混みに起因するものだったのだ。

家にひきこもっていると頭の調子が悪くなるから、と無理矢理自らを奮い立たせて神戸に行ったのだが、群衆の中でさらにおかしくなってしまった。なかなかうまくいかないものだ。

1.10889(2003/12/23) カタログチェックの所要時間は約1時間

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別にこんな事、わざわざ書くまでもないのだが、休日のほとんどをカタログチェックに費やしたと誤解されると癪なので、いちおう念のために書いておく。

昔はそれこそ土日を潰すくらい丹念に全ページの全カットをチェックしたものだが、もうそんな意欲は失せた。だんだん行きつけのサークルも減ってくるし、新規開拓する気にもならない。

それならもう行かなければいいようなものだが、余裕があるなら惰性には素直に従っておくほうがいいというのが私の考えだ。

1.10890(2003/12/24) 絶望だけが人生だ

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私はこのサイトが他人にどのように読まれているのかがいつも気になっている。そこで、今度のオフ会では是非今までに会ったことのない人々から意見や感想を聞こうと思い、渋る冬野氏を説き伏せて観察スレ枠一般枠を設けてもらった。だが、結局一般参加の申し込みは全くなかった。がっかりした。もう駄目だ。何もかもおしまいだ。

意気消沈したので、今日は長文を書く意欲がない。どうでもいい話題を少しだけ取り上げて、布団を頭からかぶって寝ることにする。


一つめ。これには驚いた。理由は言わない。これで察してほしい。

二つめ。ここでマクタガートに言及しているのを見て、『時間は実在するか』(入不二基義/講談社現代新書)を読みかけたまま積ん読状態になっていることを思い出した。昨日、部屋の片づけをしていて、本の山から発掘したばかりだ。本は多く、人生は短い。

三つめ。ここ(12/24付)の「角川商法」以來、何處の出版社も分を越えて大きくなり過ぎたと言ふ事が出來る。というコメントに納得。その後のどの企業もアプリオリに成長しなければならないかのやうな風潮が日本にはあるという箇所は意味がよくわからないけれど。

四つめ。雨の日はいつもレイン経由で1.5次創作漫画『雨宮君とカナコちゃん』へ。「1.5次創作漫画」というのは『魍魎の匣』を下敷きにしているからだろうが、これはもう別物と言っていいだろう。『魍魎の匣』を読んでいなくても楽しめるはず。

五つめ。これはちょっと長くなりそうなので、仕切直し。


上でも書いたように、私は自分のサイトが他人にどう読まれているのかが非常に気になる。言及検索という検索ページを見つけたので、早速検索してみた

知り合いのサイトもあれば、これまで全然知らなかったサイトもある。いちおう毎日アクセスログはチェックしているのだが、最近20アクセスしかリンク元を表示してくれないので、チェック漏れも多い。

リンク元を訪問してみると、3/31付の記事たそがれSpringPointは自分がもっとも楽しんでみているサイトの一つだ。とコメントしている同じサイトの5/14付の記事ではここ数ヶ月のたそがれSpringPointは不調だと思う。と書かれている。もしリアルタイムでこのコメントを読んでいたら、私はとてつもなく憂鬱になっていたことだろう。

嘘だ。

本当のことを言えば、リアルタイムではないのに、私はとてつもなく憂鬱になった。もう駄目だ。何もかもおしまいだ。


追記(2003/12/25)

上の記事の最後の箇所は、私が過去の事に拘っていじける心性を持っているということを示したつもりだった。はてなダイアリー - 美貌6またはその筆者を暗に非難しているわけではない。

ふだんから皮肉や揶揄を含んだひねくれた文章を書いているので誤解を招いてしまった。間の抜けた言い訳になってしまったが、誤解が広まらないうちに取り急ぎ補足しておく次第。

1.10891(2003/12/25) 雑念

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312c.html#p031225a

昨夜、美貌6の過去ログを全部読んで、非常に興味深い記事を見つけた。「よし、明日はこれをネタにしよう」と思ったのだが、今日の記事で反応されていて何となくやりにくい。

「やりにくい」と感じてしまうのはなぜなのか? たぶん私のコミュニケーション能力に問題があって、他人との距離の取り方に戸惑うのがその理由だろうと思うが、わからない人にはわからないだろうし、これ以上説明する気はない。

とりあえず、今日取り上げようと思っていた記事にリンクだけしておく。


予定を変更して、今日取り上げるのはSongs for Star Rubyこの記事だ。短い文章なので全文引用する。なお、見出しは本文の中に取り込んだ。

ミステリを読む人は、どうも謎を自分で考えながら読んでいるらしい。また、謎解きを楽しむように書かれたミステリも多くあるらしいのだが、どうにもぴんとこない。俺にとっては、謎は決して(読んでいる自分が)解くものではなく、(登場人物によって)解かれていくのを味わい、後で読み返して、その妙技におおと唸るものだし、そもそも読んでいるときには余計なことは極力何も考えないようにしている。気付いたとしても、頭の片隅に留めておくくらいにして、むしろ意識から排除する。2度目、3度目ならともかく、初回に考えながら読むということ自体が分からない。というか、それは雑念ではないのか。

ミステリを読む人が一般に謎を自分で考えながら読んでいるというわけではない。謎解きなど考えずに筋を追って読む人が私の知り合いにもかなりいる。また、謎を考えながら読む習慣のある人でも、どんなミステリでもそうしているわけではない。たとえば、私は『きみとぼくの壊れた世界』は一所懸命に考えながら読んだが、『GOTH リストカット事件』はあまり謎解きを意識せずに読んだ。しかし、作中で提示される謎について考えて、先の展開や最後に明かされる(はずの)真相を予測しようと努力しながら読む態度のほうがミステリの読み方として正しいものだと私は確信している。

もっとも、「正しい読み方」という表現は道徳的な含みをもつものではない。誰でも好きなようにミステリを読んで楽しめばいい。私が主張したいのは、ミステリという文芸ジャンルに関する社会的制度(というと大げさだが、ミステリは何も自然界に存在するわけではないので、当然社会的に構成されたものである)の捉え方として、そのような読み方が正しいということだ。逆に、単に流れを辿っていくような読み方は、――道徳的に邪な読み方だというわけではないが――的はずれな読み方だと私は考える。

では、このような私の主張はいかにして正当化されるのか? 当然、そういう話に進むべきなのだが、実をいえば今のところ私はまだ十分な根拠を示すことができない。というか、ただ漫然とミステリを読んで満足する人を説得できる方法があるのかどうか、疑問に思う。

そこで、今は差し当たり、謎は決して(読んでいる自分が)解くものではなく、(登場人物によって)解かれていくのを味わい、後で読み返して、その妙技におおと唸るものだという見解を批判するにとどめておく。

前置きが長くなったが、批判の要は単純だ。上記見解によれば、登場人物にとって謎が存在しないミステリの読み方を示すことができない。以上。

以下、蛇足かもしれないが補足しておく。

叙述トリックが(作中作ではなく)作品全体に仕掛けられたタイプ(MAQ氏の用語を借りれば「額縁スタイル」)で、かつ、その叙述トリックにより謎が生じるミステリの場合、謎は読者の前にのみ存在し、作中人物にとっては謎は存在しない。したがって、作中で謎解きが行われることはなく、ただ最後にトリックが明かされるだけとなる。謎解きに取り組む読者なら、トリックが明かされたときに驚きを感じたり、予想が当たっていたことに満足したり、その他さまざまな楽しみを味わうことが可能だ。しかし、漫然と読むだけの読者は、(トリックそのものに驚きを感じることはあっても)謎の解明から感銘を受けることはない。またひどい場合には、その小説で何が行われていたのか最後まで気づかない事もある。具体的な作品名を挙げると差し障りがあるのでやめておくが、私自身もそのような経験がある。自分では最後まで仕掛けに気づかず、ネット書評を読んで初めてわかって悔しい思いをしたのが、まるで昨日のことのようだ。

もっとも、今述べたような特徴をもつミステリはごくわずかだ。叙述トリックを用いていても、それで謎を作り出すのではなくて、単に真相から読者の目を逸らすためにそれを用いている場合のほうがずっと多い。そんなミステリの場合は余計なことは極力何も考えないようにするほうが面白いこともあるくらいだ。

というわけで、私の批判は引用文中で示された見解の一般性を否定するだけのもので、それが全面的に誤っているとまではいえない。ただ、余計なこととか雑念という言い方は不適切であるとは思う。現に読んでいるミステリで提示されている謎について考えることは、隣の部屋から聞こえる物音について考えたり、明日の仕事の予定について考えたりするのとは違って、まさにその読書そのものに関わることなのだから、余計なことでもなければ雑念でもないだろう。

考えるということは疑うということであり、疑うということは対象から身を引き離すということでもある。小説を読んでいるときに、その小説で描かれている"世界"に没入せずに、あくまでも外部から考えるという立場を貫くなら、その"外部の視座"こそが雑念なのだ、と主張する人もいるかもしれない(上の引用文にそこまで読み込むことはできないが)が、それに対しては、「ミステリとは、その種の雑念を読者に要求する特殊なジャンルである」と言い返すことになる。そうすると相手方はさらに……と架空の論争をシミュレートしてみたくなるのだが、あまり続けても仕方がないので、この辺でやめにしておく。

ここまで書いて、もう一つ思いついた。「読者への挑戦状」をどのように解釈するのか? 作中人物の謎解きを辿るだけなら、それは無用の駄文に過ぎないことになるだろう。

1.10892(2003/12/26) 配達証明付き内容証明郵便

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312c.html#p031226a

私の今年一年最後の仕事(年末に有給休暇をとったので)は内容証明郵便で送る文書案を練ることだった。

疲れた。


昨日の文章を読み返してみると、呆れるほど粗雑で隙だらけで、思わず自分でツッコミを入れたくなってきた。が、いちいちツッコミを入れると相当長くなるので省略。そのかわりに、他人のツッコミを紹介しておこう(引用に際して半角カナは全角に改めた)。

732 :名無しのオプ :03/12/26 01:00
滅タンさー。

>>登場人物にとって謎が存在しないミステリの読み方を示すことができない。
逆のパターンはどうなんですか。
>>読者にとって謎が存在しないミステリの読み方を示すことができない。
具体的にいえばサスペンス系たとえばレンデル、ハイスミスとかね。

これはミステリじゃないってことですかね。
一回ぐらい、滅タンはそっちっ系の書評してみたらどうですか。

これに対する私の回答は次のとおり。

737 :滅・こぉる :03/12/26 06:37
>>732 >これはミステリじゃないってことですかね。
お見込みのとおり。
極論なので、どういうふうに説明しようか迷っているのですが、
基本線はそういうことです。

レンデルもハイスミスもほとんど読んでいないので、それぞれの作風についてはコメントできないが、「読者にとって謎が存在しないミステリ」というのは、要するにミステリではないのだと思う。

ただ、明確な形で謎が提示されていなくても、いちおうミステリに分類されている小説を読むときには、「謎−解決」という構造がどこかに隠されているのではないかと考えながら読むこともある。たとえば、私は『葉桜の季節に君を想うということ』をそのようにして読んだ。その読み方で楽しめたのだから、『葉桜』もミステリだと言って構わないようにも思う。ただ、これを「本格」と言われると非常に違和感がある。だが、私は「本格」という言葉を捨てたので、この件にはこれ以上深入りしない。


上の話題について考えているうちに眠くなってきたので、これでおしまい。

1.10893(2003/12/27) 旅行の前に

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312c.html#p031227a

今年一年の総括をしておこうと思ったのだが、明日は朝が早いし、まだ旅支度を済ませていないのでやめた。どうせ総括しても総括安全衛生管理者になれるわけでもないし(別になりたくもないが)。

東京から帰ったら、大晦日にもう一度更新しようと思っているが、気が向かなければ更新しないし、更新しようにもできない状況に陥っているかもしれない。あるいは、それより前に死んでしまうかもしれない。つまらない人生だった。合掌。


神戸は「ルミナリエ」、東京は「ミレナリオ」だ。

1.10894(2003/12/31) 君は知っているか、秋本治が昔山止たつひこだったのを!

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312c.html#p031231a

あー、旅行から帰ってきたわけだ。でもって、旅行中にいっぱいいっぱいいろんな人に出会って、ほんとにもういっぱいいっぱいになってしまったわけだ。その辺のことはそのうち書くつもりなのだが、今はそっとしておいてほしいと思っとるわけだ。ちうわけで、京都の某銘菓を紹介してお茶を濁すわけだ。

1.10895(2003/12/31) 心にも 砂防ダムがほしい 大晦日(字余り)

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312c.html#p031231b

神棚や仏壇に供えた蝋燭が倒れて家屋全焼一家全員阿鼻叫喚焼死千万、という心温まる(温まりすぎ?)ニュースを見聞すると、この世には神も仏もないものかと嘆息したくなる今日この頃、あちこち巡回していると「いいお年を」などと言い合っているのがやたらと目につき、暗澹たる気分にさせられる。今年はいい年ではなかった、せめて来年こそは……という希望を込めた言葉だが、もはやそんな希望がどこにもないことは誰もが知っているはずだ。目を背けずに現実を直視せよ! 正しくはこう言うべきなのだ。

「今年はいい年だった……来年に比べれば」


さて、時候の挨拶はこれくらいにして、早速コミケとオフ会のことを書く。ただし、一度に全部書けないので、ぼちぼち書けるだけ書いて嫌になったらやめることにする。

で、何から書こうか迷ったのだが、ちょうど私の手許にはコミケで買ってきた同人誌が一冊あるので、その事から書くことにしよう。2日目(29日)に右脳関白というサークルで買った『暴走お嬢さま』という本だ。おお、「という」が重なった。これは『マリア様がみてる』という少女小説の二次創作本だ。

最近「マリみて」同人がやたらと増えているが、私はほとんど読んでいない。私は記憶力に問題があり、登場人物の名前や容姿、性格などをほとんど覚えていないので、二次創作を読んでもわけがわからなくなるからだ。冬コミで買った「マリみて」本はこれ一冊きりだ。

私には二次創作の面白さのツボがよくわからないので感想を書くのは差し控えておくべきだろうが、一つだけ書いておくと、ゲスト参加のヘッド氏の「不在」という小説で、筒井康隆の小説にさりげなく言及しているのが面白かった。


3日目(30日)には評論系を中心に回った。何冊か買ったが、その中で一冊だけ選ぶとすれば、東京大学メイド研究会(コミケでのサークル名は「漢義工廠VS東京大学メイド研究会」)の『メイド哲学論考』だろう。そのウェブ版は読んだことがあるが、岩波文庫を模した装丁が素晴らしいので買うことにした。巻末にはちゃんと「読書子に寄す」のパロディもあった。


この他にもいろいろな本を買ったが、まだほとんど手をつけていないので、続きは来年に。

今年最後に、メモ代わりのリンクをいくつか。