【日々の憂鬱】「女」を三つ重ねて「姦」とはいかがなものか。【2003年12月中旬】


1.10866(2003/12/11) レス

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312b.html#p031211a

  1. 他人が馬鹿かどうかを総合的に判断する術を私は持っていない。
  2. 馬鹿な文章については、当該文章がいかに馬鹿であるかを示せば足り、さらに当該文章の筆者の人格に言及する必要はない。
  3. 私の生活語には「馬鹿」という言葉はなく、この言葉を使うのに抵抗がある。かといって「アホ」だと東日本の人々にはニュアンスが伝わりにくいので、これもまた使いづらい。

1.10868(2003/12/11) この道はいつか来た道

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312b.html#p031211b

「日本は過去のあやまち得た貴重な教訓を忘れてしまったのだろうか?」

何? 第二次世界大戦のこと?

「いや、シベリア出兵だ。あの悲惨な尼港事件を誰も覚えていないのか!」

当時の関係者はもう全員死んでるって。

1.10869(2003/12/12) The Reader Is Warned

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312b.html#p031212a

今年の国内ミステリ最大の話題作だったらしい『葉桜の季節に君を想うということ』(歌野晶午/文藝春秋)を読んだ。非常に面白かった。

つまらない小説にはつまらない理由があり、それを具体的に述べるのは比較的たやすい。同様に面白い小説にも面白い理由があるはずなのだが、その理由を言語化するのは難しい。少なくとも私にとっては。

幸い、『葉桜』は世評が高く、今さら私ごときが誉めようが貶そうが大した影響はないだろう。よって、まともな感想文を書く気はない(「では、マイナーな小説の場合はまともな感想文を書くのか?」と訊かれたら解答に窮するのだが)。

まず、『葉桜』の中核をなすアイディアに前例があることを指摘しておこう。その先行作品は全然別のジャンルなので、気がついた人はあまりいないものと思われる。思いっきりネタばらしになってしまうのでタイトルを挙げるのは控えて、かわりにその作品を紹介しているサイト(紹介サイトはいくつもあるのだが、適当に一つ選んだ)にリンクしておこう。ネタをばらされて興ざめしても私は一切責任を負わない。あくまでもアクセスは自己責任でお願いする。

さて、『葉桜』が結末の意外性を重視した小説であることは周知のことと思われるが、「意外」という言葉を使っただけで意外性が目減りしてしまうという厄介な問題がある。そこで、私は警告を発することにする。以下の文章では、『葉桜の季節に君を想うということ』の結末を暗示しているので、未読の人は決してここから下を読まないように!


事前の情報により、私は『葉桜』が叙述トリックを用いた小説であることを知っていた。ある程度ミステリを読んでいると、叙述トリックを使った小説だと知っていれば結末を想像するのは簡単だし、仮に結末を予想できなかったとしても、それに心底驚かされることはない。残念なことだが、知ってしまったものは仕方がない。後の祭りだ。そこで、私は、何ページ目で真相をひらめくことができるかを試してみることにした。

数多い叙述トリックの中で、"記述者イコール犯人"と並んで有名なものが、"男(または女)だと思われた人物が実は女(男)だった"というもの(通称「男女トリック」)だ。あまりにも使い古された手なので、今では男女トリックをメインに据えたミステリはなずない、と思って油断していたら数年前に某作家がデビュー作でやっていた。だから、まずは主人公の"俺"が実は女ではないかと疑ってみる。

無茶だ。

冒頭の一文で、その可能性は完膚無きまでに否定されている。どうやっても女性が射精できるはずはない。主人公は男性に違いない。

しかし、小説の最初に、なんであんなシーンを置くかね? ちょっとひっかかるものを感じる。この感覚は重要だ。

違和感を抱えたまま読み進める。

15ページで日付と時刻が明記されている。これは何かのポイントになりそうだ。叙述トリックの中には時間を誤認させるものも多い。たとえば――作者も作品名も伏せるが――近未来の首都移転を扱ったと見せかけて、実は平城京建設風景を描写した小説もある。西暦ではなく元号を用いていることに意味はあるのか? 日付は太陽暦か太陰暦か? 時刻はどの標準時なのだろうか?

さらに読み進める。

17ページ。芹澤清が高校生であることと主人公と7歳離れていることが示される。だが、キヨシは何年生なのか? 学年がわからないと主人公の年齢もわからない。いや、学年がわかっても、それだけで主人公の年齢が確定するわけではない。キヨシは留年しているかもしれないのだから。

と、こんな読み方をしているうちに34ページに到達した。そこで多羅尾伴内の名前が出てきた。自分でも「古い!」とツッコミを入れているが、これは古すぎる。ふつうの若者はこんな名前知らないだろう。

と、そこでひらめいた。ああ、なるほど、冒頭のシーンはこういうわけだったのか。

後は確認作業だ。いくら読み進めていっても、私の仮説を退けるデータは全く出てこない。反証可能性をもっているにもかかわらず反証されていない。むろん、それだけでは真相を言い当てているということにはならないのだが……。

『葉桜』は基本的には主人公の一人称で書かれているが、三人称の章もある。単に主人公が出てこない場面を描くためとも考えられるが、せっかく魅力的な語り口を用意したのにわざわざ統一感を損なうような書き方をするからには、何らかのトリックが仕掛けられているかもしれない。よくあるパターンとしては、同じ呼称の人物が別人だったというものがある。あるいは、その逆かも。

とまあ、私はそんな読み方をした。気づかなかったのは、主人公は安藤士郎の名を騙っていたという事だけだが、これはまあ仕方がない。


(巻末評論の感想を書いてあったが、ここに移動した)


あれ?

小説の感想文を書いていたはずなのに……。

1.10870(2003/12/13) 都筑道夫死す

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312b.html#p031213a

都筑道夫が山田風太郎や鮎川哲也と並ぶ大作家であったのは確かだ。実作者としても理論家としても後の世代の人々に大きな影響を与え続けている。ふだんは自覚していなくても、「そのトリックを使う必然性はどこにあるのか?」などと言うとき、都筑道夫の影響下にあることを私は実感せざるを得ない。

私にとって都筑道夫のミステリはどちらかといえば苦手な部類に入る。文体が馴染みにくいし、ロジックもピンとこない。去年末から今年の初めにかけて「退職刑事」シリーズを全巻読んだが、あれはかなり苦痛を伴う作業だった。

でも、やっぱり都筑道夫は大作家なわけで、単なる読後感、単なる気分で貶めてしまっていい作家ではない。創元推理文庫版『退職刑事6』巻末の西澤保彦による解説(ミステリの文庫解説はかくあるべし、という名解説だ。都筑道夫に興味のない人でも一度は読んでおいて損はない)を読んで、私は自らの不明を恥じずにはいられなかった。

都筑道夫全集の企画があるらしいという話を聞いたことがある。さまざまなジャンルで作品を物した作家なので、その全体像を一挙に表すことができたなら、それは壮観なものになるだろう。しかし、山田風太郎も鮎川哲也も包括的な全集に恵まれていない。今の出版情勢では全集は困難なのだろう。さしあたり光文社文庫のアンソロジーで我慢するしかない。そのうち、分野別全集が出るかもしれない。

都筑道夫のミステリ評論のキーワードに「昨日の本格/モダーン・ディテクティヴ・ストーリイ」という対がある。それぞれの言葉の解説はしないが、「昨日の本格」にはネガティヴな意味合いが込められている。「本格」という言葉自体に古めかしさを感じていたのではないか。「本格、本格」と喧伝される昨今の情勢を都筑道夫はどのように捉えていたのだろうか?


今日の文章の中に意味が掴みにくい箇所があったとすれば、それは私の責任だ。あなたの読解力が足りないせいではない。

1.10871(2003/12/14) 赤と白

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312b.html#p031214a

サンタクロース装束の男性を見ると下手な女装をしているかのように思ってしまうのは私だけだろうか?

1.10872(2003/12/14) 何事もなかったかのように平然と

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312b.html#p031214b

今日は自然体の文章を目指すことにした。いつもと何もかわったことはないのだ、気にすることはない、と自分に言い聞かせながらこの文章を書いている。もしかしたら、いつもと雰囲気が違うと思う人がいるかもしれないが、それは気のせいだ。


前回の文章を書いてから考えた。なぜ日本ではサンタ装束が女性の服装だとみなされるのか? この設問に対しては異論もあるかもしれないが、受け付けないことにしよう。

資料が本の山に埋もれていて見つからないので記憶に頼って書くが、赤を基調にして白い縁取りを添えたサンタ服はコカコーラが宣伝用に考えたものだ(2003/12/16追記:ここここによればコカコーラが宣伝に用いる前からあったそうだ。掲示板で今木氏に教えていただいた)という。冬場はコーラの売り上げが落ちるからだろうか? ともあれ、サンタ服の由来が商業主義の権化で米帝の尖兵とも言うべきコカコーラだったということは非常に興味深い。

今では全世界でサンタクロースのトレードマークとなっているこの服装は、日本では独自の進化を遂げた。20世紀末、赤松健や文月晃ほか数多くのマンガ家たちの活躍により、美少女が冬に着る萌え衣装として定着したのだ。そこにはもうコカコーラの残映は全くないと言ってよい。どうしてこのような脱構築が可能だったのか? そこにはシニフィアンの揺らぎがあり、モードの迷宮がポリフォニーを奏でるのだが、何を書いているのか訳がわからなくなってきた。

男性服が輸入されて女性服へと転じるのはこれが最初ではない。たとえばセーラー服がそうだ。一説では、白倉由美がセーラー服の女性服化を推進したとも言われるが、これは暴論ではないかと思う。むしろ赤川次郎の功績のほうが大きい。

そういえば、日本には古来から赤と白を基調とした女性の衣装がある。巫女装束だ。大きな神社だと年中巫女さんが働いているが、宗教心薄い現代日本人の大多数にとっては巫女さんは正月の初詣のときに見かける程度だろう。

ところで、冬といえば"えべっさん"の季節でもある。商売繁盛笹持ってこい。えべっさんといえば福娘、福娘といえば……ええと、どんな服装だっただろうか? 巫女とあまり違わなかったと思うが、よく覚えてはいない。

まあ、福娘はまだ萌えの対象として認知されてはいないのでどうでもいいのだが、巫女はすっかり萌えの文脈に取り込まれてしまっている。数年前には「メイドはいいけど巫女は特殊だからねぇ」などと言われていたのが、まるで嘘のようだ。

あー、何の話だったっけ?

結論を急ごう。コカコーラが生んだサンタ装束は、巫女装束の影響を受けて、日本では女性服となった。街頭でサンタ服を着た女性を見ることにより、人はいわば初詣の先取りを体感するのである。しかし、サンタ服はその出自から完全に解放されたわけではない。その証拠に街でサンタ服を着ているのはたいてい商売関係者だ。


Empty Talk(「愚者の戯言」と表記したほうがいいのだろうか?)経由で商人は不正な利益を貪るフリーライダーか?という文章を読んだ。音楽CDの逆輸入盤を巡る問題を中古ゲーム販売問題と絡めて論じている。

私は市場原理が万能だと信じてはいない。ときには商人の活動に制限を加える必要が出てくる場合があっても当然だろうと思う。しかし、商人の活動に制限を課すということは商人の社会的価値を全く認めないということではないし、ましてや江戸時代に逆行するわけでもない。最後にそのような国家が、どのような顔をして、教育基本法を改正して「道徳」を子供たちに教え込もうとすることができるのか、不思議ではあります。とまで言ってしまう極端さには、やや辟易した。

とはいえ、問題提起そのものは有効だと思う。音楽CDの逆輸入は不正なのかどうか?

格安CD逆輸入、規制めぐり激論 業界と消費者団体対立という記事を読むと、今問題になっている逆輸入盤は海賊盤ではなくて、日本のレコード会社とライセンス契約の上で製造しているCDらしい。人件費の安い国で製造するため、CDの単価も安くなるようだ。

海外生産の工業製品が日本の産業を脅かすのは今に始まったことではない。日本の繊維産業は大きなダメージを受け衰退しているし、精密機械の分野でもじわじわと影響が出てきている。音楽CDも工業製品なのだから同じことではないのだろうか?

いや、同じではない。音楽は著作物だ。

では、著作物の場合、いったいどこがどう"同じではない"ことになるのか? おそらく、それがこの問題の焦点のひとつになるだろう。

商人は不正な利益を貪るフリーライダーか?の違和感を探るの論旨は明快だ。

「国内産業を守る」意味で関税をかけるなどの措置を「国家」が戦略として取るなどのことも考えられるが、これはまた別の話だろう。

そして「国内レコード会社」が作ろうと、「海外レコード会社」が作ろうと、「著作物」の権利を正規に許諾/認可したのであれば、当然著作権権利保持者の権利は守られている。

(レコード会社は「レコード製作」にかかわる著作隣接権の権利)

以上により、(関税をかけて国内産業を保護するなどならまだしも)法律で「不正」と縛るのはあまりにも道理が通っていない。

要するに、著作権絡みで特別扱いすべき点については既に適正に処理されているのだから、あとは一般の工業製品と同じ問題しかなく、著作権を理由にした法規制には正当性がない、ということだろう。

なるほど。

いや、ちょっと待てよ。

ライセンス契約の中に日本向け輸出禁止条項はないのだろうか? 当然そのような条項を入れているはずだと思うのだが。というか、実際に「このCDは日本国内での販売を禁止されています」という注意書きのある逆輸入盤を実際に見たことがある。だったら、そんなCDを日本で売るのは不正な行為ということになるのではないか?

でも、それでディスカウントショップが摘発されたという例をきかないから、きっとそのような禁止条項は間に第三者を挟んでしまったら無効になるのだろうな。「おい、お前に作らせてやっているCDが日本で売られてたぞ。契約違反だ!」「ほっほっほ、何を仰る。あたしゃ、自国内でしかCDを卸してませんぜ」「でも現に日本でCDを見かけたんだ。ほら、これが動かぬ証拠だ」「なるほど、確かにこれはあたしが作ったCDで。しかし、一旦卸したCDを誰がどう扱おうがあたしには知ったこっちゃござんせんぜ」「くそっ、海外販売専門だからと思って油断してたら、このザマだ。庇を貸して桃屋のザーサイとはまさにこのことだっ」

とまあ、脳内で日本と海外のレコード会社のやりとりを再現してみた。もちろん、これは勝手な憶測なので、事実に反する部分もあるだろう。もしかしたらザーサイではなくてキムチの素かもしれない。

いろいろ書いてみたが、私は邦楽をほとんど聴かないので、個人的にはどうでもいい。輸入権創設でもなんでも勝手にやってもらっていい。と投げやりな結論で締めくくろうとしたのだが、バーチャルネット法律娘 真紀奈17歳に気になる一節があった(12/14付)。

あとは、現在普通に売られている海外盤の洋楽はどうなるかということも心配です。下手をするとこのあたりまで禁止に引っかかるように思うのですけど。それは、国内盤に関すること以上に、消費者にとっては不利益が出るように思います。

あ、それは困る。断固反対! 日本を政権政党への献金額や中央官庁の天下り受け入れ状況次第で、その商品を市場競争の枠外に置くことができる不道徳な国家にしてなるものか。


ついでにもひとつEmpty Talkから。

ああ、いったい何を信じればいいのか。


1日1往復の楓駅廃止へ 北海道、3月ダイヤ改正(情報もと:直撃V林田日記 大逆転

時刻表の路線図を見ると、新夕張〜楓〜占冠〜トマム〜新得と並んでいるが、楓駅ホームは本線上にないので隣の占冠駅に行くためには一旦バックしなければならない。ということは、新夕張〜楓間は枝線と考えたほうが実状にあっているのだが、一日一往復(しかも早朝)しかないので、私はまだ乗っていなかった。私はいちおうJR北海道全線完乗しているが、この区間がずっと気がかりだった。だが、これで名実ともに全線完乗達成だ。めでたしめでたし。


鉄道絡みでもうひとつ。

昨日、青春18きっぷを買ってきた。JR線の普通列車乗り放題のきっぷだ。新夕張〜新得間は特急列車にも乗れる。津軽海峡線も特急に乗れるが、蟹田で乗って木古内で降りるのは大変だ。

青春18きっぷを買うのは初めてではないが、これまではずっとマルス券だった。今回一念発起して念願の常備券を購入した。通称「赤券」だ。地方によっては駅員に変な顔をされることもあるという。

このきっぷを使って山陰旅行をする予定だということは前に書いたとおりだが、日中6時間46分待ちをどうしようかと迷っていた。あれからさんざん考えて私が見出した、たった一つの冴えたやり方は……

日をずらす

今の予定では、12/21の23時27分に京都駅を出る「ムーンライト山陽」に乗り、翌朝広島で下車して山に入り、ツチノコとヒバゴンを見ながら三江線で日本海側へ。一畑電鉄に乗ってからどこかで一泊して、翌日は木次線に乗るつもりだ。

そういえば、12/21に京都で何かイベントがあったような気もする。今はちょっととっさに出てこないのだが、そのうち思い出すことだろう。


重楼疏堂〜城郭と旅と日々のおぼえがき〜から印象に残った一節(「読無字書弾無絃琴」12/13付)を引用してみる。

およそ編集の職にある者はおのれが編集している雑誌に間違っても署名原稿など書いてはいけないのである(編集後記や無署名/筆名の小コラムなどはよい).それは「編集」という仕事のイロハのイというべきもので,そんな線引きもできない輩が編集業務などしていてはいけない.

これを読んで思い出したのだが、宮脇俊三はデビュー作『時刻表二万キロ』の出版の際に中央公論社を退職し、その後、亡くなるまで一度も中央公論社の仕事を受けなかったという。


気にすることはない、と自分に言い聞かせながら書いたので、今日の文章はいつになく普段と同じだ。

それにしても、わずか一日ですっかりバレてしまったものだ。これを書いたときには全然ツッコミが入らなかったのに、もののはずみというのは恐ろしい。

もちろん、いきなりサイトを閉鎖したりはしないが、今後はなるべく悪口を自粛しようと思う。

1.10873(2003/12/15) 水上バス

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312b.html#p031215a

「コミックマーケット」時の始発便について から(強調:引用者)。

有明の東京ビッグサイトにて12月28日(日)〜30日(火)まで『コミックマーケット』が開催されます。弊社では、お客様の利便性を高めるため、始発便を9:00AMより運航いたします。

微妙にツボを外してるような……。

まあ、ゆりかもめりんかい線のように5時台から始めるわけにはいかないんだろうけど。

1.10874(2003/12/15) 忘却

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312b.html#p031215b

自然数の集合の部分集合の濃度は実数の濃度に等しいという話を何かの本で読んだ記憶があるが、その証明を忘れてしまった。もう一度確認したいのだが、本のタイトルすら覚えていない。集合論の入門書なら何でもいいのだろうか?

そういえば、自然数よりも実数のほうが濃度が大きいという証明はどうやるんだったっけ? 対角線論法だったかなぁ。

あ、一般対角線論法っていうのもあったなぁ。特殊対角線論法というのもあるんだろうか?

としをとると物忘れがひどくなって困る。


創元推理文庫の三番館シリーズ完結を機に全6巻をまとめて買った。確か、何篇か読み逃している作品があったはず。年内にまとめて全部読み通すことができればいいのだが、光文社文庫版江戸川乱歩全集全巻読破計画も滞っているので、どちらを優先させるべきか迷うところだ。

1.10875(2003/12/16) 3

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312b.html#p031216a

ゆかいな遺書(案)

わたしがいま感じている感情は死に至る病の一種だ。しずめる方法は誰も知らない。後は任せた。


虚報と罵倒

「朝日」と「アンチ朝日」って似てるよね。


同音異義語

同じ事を考える人は多いものだ。

1.10876(2003/12/17) 意欲減退

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312b.html#p031217a

ここ数日、何事もする気が起きない。来週予定していた山陰旅行もやめてしまおうかと思う。夜行列車と鈍行列車乗り継ぎというのは面倒だ。コミケに行くのもやめてしまおうかと思ったが、滅・こぉるオフ in 新宿 2003-Winterの告知が出てしまっているので、今さらキャンセルしたら幹事の冬野氏と参加申込みをした人(何人いるのだろう?)に申し訳ない。まあ、あと10日以上あるのだから、それまでには何とか復調していることだろう。

なお、誤解のないように書いておくが、別に某掲示板某スレッドの556に書かれているようにボディブローのようにじわじわ効いてきたというわけではない。よくはわからないが、周期的なものだろう。

ついでに同スレ552氏に私信。オフ会の参加者はたぶん10人に満たないので、時間と金と心に余裕があるなら参加を検討してみては?


今日、『燃料電池』(槌屋治紀/ちくま新書)を読んだ。最近はやりの燃料電池について少し勉強しておこうと思って読んだのだが、技術的なことはよくわからなかった。しかし、燃料電池の経済性とか他の技術との優劣の比較などの話は面白かった。

一冊読み終えたので本屋で次の本を探した。一冊読むごとに次の一冊を買い、他には絶対に本を買わないことにすれば、積ん読本が増えることはないのだが、私は意志薄弱なので「これはまとめて買っておこう」「ここで出会ったのも何かの縁だから」「今買わないとなくなってしまうかも」「この人の本は全部集めてるから」などと理屈をつけては、つい限度を超えた買い方をしてしまう。今日も強いて本を買う必要はなく、読みかけの乱歩全集の続きを読めばよかったのだが、「一冊くらいなら……」と軽い気持ちでふらふらと買ってしまった。

で、今日買った本は『論文の教室 レポートから卒論まで』(戸田山和久/NHKブックス)だ。一年ほど前に出た本だが、こんな本があることを私は知らなかった。

同じ著者の『論理学をつくる』(名古屋大学出版会)と『知識の哲学』(産業図書)は、とぢらもまえがきが非常に面白かったので期待しつつ本を開いた。

世の中には数えきれないほどの「論文の書き方本」がある。そうした類書と本書の最も大きな違いはつぎの点にある。それは、これら無数の類書の中で、この本だけが私によって書かれたということだ。この違いは読者のみなさんにとってはどうでもいいことかもしれないが、私にとってはとても重要である。なぜなら、売れゆきが私の経済状態にかかわりをもつのは本書だけだから。

というわけで、私はなるべく多くの方々に読んでいただきたいと念じつつ本書を執筆した。もっとストレートに表現するならば、売らんかなの精神で書いた。……さて、本を売るにはどうしたらよいだろう。タイトルを『ハリー・ポッターと魔の論文指導』にして、腰巻きに「ワーナー・ブラザーズ映画化決定!」と印刷してもらえばよいのではないかという名案も浮かんだ。そうすれば、間違って買う人だけでも相当の数に及ぶのではないか。しかし、この計画はNHK出版の賛同を得ることができなかったので頓挫した。

ポスト土屋賢二を狙っているのだろうか?

私はレポートとも卒論とも無縁の生活を送っている。そもそも論文など書く機会はない。だが純粋に暇つぶし本として楽しめそうなので、買うことにした。


家に帰ってから、今日は『無限論の教室』(野矢茂樹/講談社現代新書)を再読することにしていたことを思い出し、『論文の教室』をひとまず措いて、本の山を掻き分けて『無限論の教室』を発掘した。一昨日の記事で提示した疑問に関して、掲示板で通りすがりの人が『無限論の教室』に言及していたからだ。

無限や集合の話題を持ち出したのは、先日『葉桜の季節に君を想うということ』(歌野晶午/文藝春秋)を読んだときに、巻末の「コードを越える者――歌野晶午論――」(柳川貴之)に疑問を抱いたからだが、そのときの感想文はネタばらしを含んでいたため、読み飛ばした人も多いことだろう。次に巻末評論の感想を転載しておく。


ところで、『葉桜』の巻末に収録された「コードを越える者――歌野晶午論――」(柳川貴之)を読んで、私はめまいにも似た感覚に襲われた。特にくらくらした一節を引いておこう。

コードが物語の普遍的命題として抽出され、且つ、物語の基本構造が、複数のコードを構成要素として成立することは、コードの全体数が物語の全体数より常に小さいことを示唆する。換言すれば、ひとつの対象集合を構成する要素の組み合わせにより、何らかの概念的集合を生み出す場合、その概念集合の要素数、すなわち濃度は、その根拠となった対象集合の濃度を上回るのである。例えるならば、ある部品の目録が与えられたとき、その部品を自由に組み合わせて成る完成品の数は、部品の数より多いということになる。そして、部品は実体的対象であり、完成品はメタ的概念であるのと同様に、コードは対象(オブジェクト)であり、物語は概念(メタ)である。

ところで仮に目録に記載された部品数が、自然数全体に等しい無数であったとすれば、完成品の数は実数全体の濃度に等しくなるだろう。なぜなら実数とは自然数を部品(対象)とした概念だからである。そして、こうした類比はひとつの連想を導く。つまり、「コード」(対象)は自然数的に「不連続」であるのに対し、「物語」は実数的に「連続」であるという仮説である。この思考実験的な理論移植によって、ミステリにおける「コード」と「物語」の体系間に「不連続」性と「連続」性の差異を見出すことを可能とするのである。

どのようにコメントすればいいものか……。うまくまとまらないので、箇条書きしておこう。

  1. 「示唆する」「連想を導く」などの言い回しは不明確で、この議論の射程がよくわからない。
  2. 与えられたコードから組み立てることが理論的に可能な物語の数と、現にある物語の数とは明らかに異なるが、その区別ができていない。また、同じコードの組み合わせから別の物語が構成される可能性も考慮していない。
  3. 自然数の集合は実数の集合の部分集合だが、コードの集合は物語の集合の部分集合とは言えまい。
  4. コードが無限にあるという仮定を支持する論拠が示されていない。
  5. 無時間的な集合論のアナロジーと、次節以降で展開されるジャンルの動的な発展に関する議論とは相容れないはずだが、「連続」「体系」「濃度」などの語の多義性を無視して無理矢理繋げてしまっている。
  6. 部品と完成品の関係は対象レベルとメタレベルの関係ではない。煉瓦を集めて作ったと、煉瓦を構成要素とする集合は存在論的身分を異にする。
  7. 「理論移植」って何?

私が疑問に感じたようなことをわかっていてわざと読者を騙そうとしているのか、それとも筆者自身が概念的混乱に陥っているのか判断はできないが、少なくともあまり出来のいい評論ではないことは確かだ。


上の文章の最後で「少なくともあまり出来のいい評論ではない」と、ごく控えめなコメントをつけたのは、集合論の基礎をほとんど忘れかけた状態であまり断定的なことは書けないと思ったからだ。それでも、集合論のおさらいをしてもし私が何か勘違いをしていたことに気づいたなら何らかの訂正をしないといけないだろうと思っていたのだが……。今日『無限論の教室』を読み返してみて、訂正の必要は全くないと判断した。

どこがどうおかしいかをいちいち説明する気はない。既に挙げた点だけで十分だろう。

最近のミステリ評論を読んでいて、よく「この文章はいったいどのような読者を対象にしているのだろうか?」と疑問を感じることがある。ミステリとは直接関係のない分野の専門用語を説明抜きで用いていることが多いが、一般読者はもとよりミステリマニアでも理解が困難だろうし、当該分野の専門家を相手にしているとも考えにくい。ということは評論家仲間だけを対象にしているのだろうか?

ミステリ評論家によるミステリ評論家のためのミステリ評論にどれほどの意義があるのか私にはわからない。もしかしたら余人には計り知れない価値があるのかもしれない。だが、その「余人」の中に担当編集者も含まれるのだとすれば、それは事実上ノージャッジで評論が世に出るということを意味する。せめて、発表後でも他の評論家による批判的吟味を受けるのならいいのだが。

1.10877(2003/12/18) 復活?

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312b.html#p031218a

「新・雑文 〜すみっこにある空間〜」12/16付「富士見ミステリー文庫」(情報もと:好きなら、言っちゃえ!! 告白しちゃえ!!まいじゃー推進委員会!)を読んで仰天した(強調は引用者)。

4月までの発売予定も載っているのですが、「井上ほのか」「加門七海」「橘香いくの」「吉田直」といった作家さんが執筆予定のようです(発売予定がとてもとても知りたいという方がもしもいましたら、掲示板で聞いてください)。

おお、井上ほのか! とうとう復活か?

発売予定がとてもとても知りたいが、知ってしまうとなんだかもったいない気もするので問い合わせるのはやめにした。遅くとも来年4月まで待てばいいのだし。

いや、ほんとに生きててよかった……。

1.10878(2003/12/18) 見上げれば天井板

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312b.html#p031218b

こんな俳句を考えた。

「年の瀬や 猫茹で上がり 犬煮えた」

季語はもちろん「年の瀬」だ。たぶん冬の季語だと思うが、私は歳時記を持っていないので断言はできない。


ふつう世界地図には太陽や月は描かれていない。では、世界には太陽も月も存在しないのだろうか?

この問いに対して「それは『存在』の定義の問題だ」と答えるのは的はずれだ。私なら「それは『世界』の定義の問題だ」と答える。

もっとも、「定義」の定義については目をつぶらなければならない。さもなければ話が進まない。


滅・こぉるオフ in 新宿 2003-Winterの参加予定者は今のところ4人だそうだ。その中には幹事の冬野氏と私が含まれる。


知人から送ってもらった冬コミのサークル入場券が今日届いた。

1.10879(2003/12/19) 専業主婦と天城一

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312b.html#p031219a

今日はまず専業主婦の話題を取り上げ、次に天城一の話題を取り上げる。両者には何の関係もない。


専業主婦

専業主婦が引き上げる年金保険料率Simple -憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向な日々-)を読んでいくつか疑問を抱いた。

まず、専業主婦(第3号被保険者)という表現が気になった。数は圧倒的に専業主婦のほうが多いにせよ、第3号被保険者の中には専業主夫もいるはずだ。

社会保険庁の公的年金制度解説ページでは被扶養配偶者という表現を用いている。が、図表のイラストを見ると、第1号および第2号被保険者は男女とも描かれているのに第3号被保険者は女性だけだ。なんだかなぁ。

ついでに公立学校共済組合の年金制度解説ページを見ると、被用者の妻と書いている。私は「オンブズマン」を「オンブズパーソン」にするような言葉の言い換えには賛同しないが、これはさすがにいかがなものか。なお、他の共済組合のサイトもいくつか見てみたが、同様の解説ページはなかった。

脱線したので話を戻す。専業主婦が引き上げる年金保険料率で気になったことの二つめは、専業主婦と独身男性を対置していることだ。共働きの女性にも言及しているが基本的な図式は「専業主婦vs.独身男性」だ。どうやら筆者の念頭には独身女性はないらしい。専業主夫はともかく、会社や役所、学校などに勤める独身女性の数は無視できないと思うのだが。

で、いちばん引っかかったのはこれだ(原文ではSTRONGタグで強調しているが、ここでそれをやるとこんな感じになってしまうのでEMタグに置き換えた)。

専業主婦が保険料を払った場合、支払い義務のある被保険者の負担が、1.1%の低下する。裏を返せば、独身男性会社員は、専業主婦のぶん、1.1%余計に保険料を納めているということだ。

仮に「日本人の平均寿命が80歳に下がれば厚生年金の保険料は○○%低下する」というデータがあるとして、「裏を返せば、現役世代は80代以上の老人のぶん、○○%余計に保険料を納めているということだ」と主張したなら、非常に奇異な印象を受けることだろう。

上の引用箇所が今私が挙げた架空の例ほど奇異に感じられないとすれば、心情的に、不公平感をなくすため、専業主婦にも保険料を負担して欲しい。という思いを暗黙のうちに読み込んでいるからだろう。実際、年金問題を論じる際に第3号被保険者が話題になるのは、この不公平感が多くの人々に共有されているからだ。だが、筆者自身がだが、社会保障の原則からいって、支払い能力のない人間に社会保障費を負担させることは、難しいようだ。と認めるように、単に不公平感だけをもとにして済む話ではない。ここには社会的相互扶助と自助努力を巡る緊張の一端があらわれている。この緊張関係をどのように捉えて、どう解消するかが年金制度問題の大きなポイントとなる。

しかし、専業主婦が引き上げる年金保険料率で「今日のポイント」とされている専業主婦が、年金保険料率を引き上げている。という一文は、上述の緊張関係を捉え損ない、一方的に専業主婦への反感を煽るものになっている。これが私にはどうにも釈然としない。

別に筆者は嘘を書いているわけではないし、明らかな間違いがあるわけではない。ただ、過度の単純化と歪んだ図式により全体として非常にミスリーディングな文章であるように私には感じられる。「私には感じられる」と書くだけではしまらないので、その理由をなるべくわかりやすく書いたつもりだが、果たしてこれが有効な批判になっているかどうかは甚だ疑問だ。

なお、以前にも一度Simple -憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向な日々-の文章にややネガティヴな文脈で言及したことがあるが、私はSimple -憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向な日々-の筆者に対して特に含むところがあるわけではない。


天城一

専業主婦の話題が予想以上に長引いたので、こちらはさくっと済ませる。

館の日誌(12/18〜12/19付)で知ったのだが、天城一の単著が商業出版されるそうだ。今読みたいけど手に入らない名作って…4冊目スレッドから。

139 :名無しのオプ :03/12/18 22:55
日下さんに質問。
天城一短篇集って、どこからいつ出るのですか?
140 :名無しのオプ :03/12/18 23:43
>>139
日本評論社という学術系の出版社から来年春ぐらいに出ます。
いまゲラを組んでいるところなので。

天城さんとは数学者の中村教授として付き合いのある版元さんですが、編集部に
天城ミステリの大ファンがいて、その方と私がアニソン関係で知り合いだったこと
から企画がスタートしましたw

内容は山前さんの私家版『密室犯罪学教程』+麻耶正ものの全短篇集です。

日本評論社これから出る本を見たが、さすがにまだ天城一の本の情報は出ていなかった。そのかわりに(?)数学セミナー 1992年 2月号に本名と筆名の両方で登場しているのを発見した。

天城一のDS(「DS」の意味がわからない人は近所の大人の人に訊いてみよう)のほとんどは甲影会から「別冊シャレード」の形で出ているが、少部数の同人誌なので入手できた人は少ない。しかも、名作『密室犯罪学教程』は「別冊シャレード」にすら収録されていないのだ。今回の商業出版はまさに快挙、驚喜の沙汰だ。

井上ほのかの復活についで慶事が続いた。いや、ほんとに生きててよかった……。


追記

上の文章をアップする前に念のためにもう一度Simple -憂鬱なプログラマによるオブジェクト指向な日々-を見に行ったら、今日の記事に次のような一節があった。

年金を損得論だけで考えていると、不信感や不満感が高まり、流言が飛び交い、制度そのものが破綻する可能性がある。年金の意義をまず再認識すべきだろう。

まったくその通りだ。この意見に私は同意する。

1.10880(2003/12/20) 初雪

http://www.cypress.ne.jp/hp10203249/pp/0312b.html#p031220a

あまりの寒さに目覚めたら、あたり一面雪景色だった。